‘2004/10’ カテゴリーのアーカイブ

忙しい先祖供養

2004/10/13

 数年前に亡くなった叔母から頻繁に墓参りの催促がある。出歩くのは嫌いでないので、都合さえ折り合えば私も割合にマメに墓参に出掛けるが、花を供え、線香に火を灯すと、それでもう用は済んでしまう。お墓にたどり着くまでは、なにやら気を揉む雰囲気が伝わり、おちおちトイレやコンビニにも寄れないのに、終わりはとても味気ない。わざわざ呼び出しておいておきながら妙に淡泊なのだ。

 まあ別段、叔母さんコンプレックスを抱いているわけで無し、墓参の後はそれなりに足を伸ばす先もあるので叔母が淡泊なのは構わないのだが、妙に引っかかる。たいした用事もないのに、何で頻繁に声がかかるのだろう? 

……等と突然疑問に思ったのは、何のことはない。そろそろ寝ようかと思った頃、叔母から線香の催促があったのだ。まあ、線香の香りが決して嫌いではないので、一本火を灯して就寝前の気分を整えてみた。で、その時、ぽっと叔母がいったのだ。

『全くこちらと来たら、日常の用事が無くて、退屈でしょうがない。何日たったのかさえもさっぱり判らなくなる。何か特別の出来事があるわけで無し、何をして良いやら手持ちぶさたでしょうがない。』

……あぁ!?

 催促に応じて墓参しているのに淡泊なわけだ。きっと叔母は、『ああ~退屈。誰か墓参りにでも来ないかなぁ?』ぐらいにしか考えていなかったのだから。

 そっと、私の守護霊に問いかけてみる。

『叔母が退屈そうにしているけど、修行は、はかどっているのかな?』

すると守護霊がこう笑った。

『精神統一が出来なければ次の課程には進めんし、精神統一ばかりやっていたら退屈でしょうがなかろう。ハァハハハ……。』

『いや、ほらさ、遠いご先祖様達がたまには遊びに連れて行くとか?』

笑うというより、ちょっと陽気な貌で守護霊がこう返す。

『それは気配りが足らんかったな。現役・霊媒の親族ということで見物処にはそれなりにコネもある。どれ、時折、物見遊山にでも連れて行って貰えるように稟議しておくか。』

そして真面目な顔でこう続ける。

『もう気がついておろうが……』

うん気がついた。

『昔の人らは、朝晩にご先祖にもご飯を供えたものだが、お前はまあ、出社ギリギリまで寝ているは、翌日に差し支えるほど遅くまで起きているはで、褒められた生活態度でない。自分の生活にメリハリがないから、自ずと祈りも不定期になり、それが近親・祖先が退屈して、祖先の退屈に振り回されるのだ。どうする?』

『どうするといわれたって……手が足りないのだから』

『まあな、先祖供養というのは、大部尾ひれがついていることにようやく気がついただろう? 別段大したことを要求しているわけではないが、毎日のちょっとした気配だけでもずいぶんと喜ばれるものなのだ。』

……ふへぇ。

 別に叔母が迷惑なのではなく、いろいろなものに振り回されている自分を不憫に思う。

『まあ、ボチボチといけ。』……と守護霊が去る。

 ……の筈が、どこからか擬声が聞こえてきた。

『コケ・コッコー』

まあ、楽屋オチなのだが……時を知らせるニワトリ役になれとか? やれやれ。先祖供養は案外、肩の力を抜いても良いらしい。

心霊写真について

2004/10/13

2004年 10月 12日


 

 いわゆる心霊写真について、当サイトのスタンス。

 いささか、回りくどいタイトルで恐縮ですが、少々お付き合いを下さい。そもそも何かを議論する時には、その対象が何であるかを明確にしなくてはなりません。私が考える心霊写真と、相談者の心霊写真とが僅かでも異なればその違いが誤解の元となります。まして大きく異なれば議論が噛み合うはずがありません。

 さて、私がいう心霊写真は、心霊現象の一形態として、写真上に表現された「死後個性」の意志であると定義させて頂きます。……少々難解に見えますのは、事実を無理に言葉で表現しているからで、内容はそれほど難しくはありません。つまり、「何らかの意図」が読み取れてこそ心霊写真、または、死後の個性存続の証拠となるのが心霊写真であると考えておるわけです。

 ところが、どうも世間一般で、「心霊写真ではないか?」と問い合わされるものの多くは、「どうしてこんな写真になったのかが判らない、不可思議な写真」であります。しかし、 原因が分からないから心霊現象だ、という考え方は、近代心霊研究が、つとに否定するものであります。乱暴な表現をあえて使えば、雨も風も雷も、森羅万象のすべてが神の意思の表れと考えられていた時代と、何ら進歩のない古典的な発想といえましょう。

 むろん、そのような発想を助長しているのが、一部の職業霊能者であることを私も承知致しております。と同時に、その職業霊能者のすべてが口から出任せをいっているとは限りません。くどいようですが、 不可思議だからといって心霊現象であると考えるのは前近代的な発想ですが、しかし、不可思議な現象の中に心霊現象が含まれないという証拠もありません。

……説明が回りくどくて判りにくいかも知れませんが、説明が判りにくいのは、皆が「いわゆる心霊写真」の真偽に拘り、その心霊写真が出来るであろう動機に関心を持たぬ事から生まれる混乱なのです。それはたとえば、あなた方だのガラクタだと思った大きな塊が、実は高名な彫刻家の作品であったようなものです。私なども抽象派の作品などは全く理解出来ないのですが、それはさておき、ただのガラクタと彫刻の差といえば、なにより重要なのは作者の動機と申せましょう。

 その動機という観点から、改めて心霊写真を考えてみます。……死後の個性(いわゆる霊魂)が、地上の人間とコミュニケーションを取りたくて様々な手段を使っている。その一つの形態が写真である。と推測出来る。が、一枚の写真だけで意味が取れず、霊媒の解説を必要とするなら……? 最初から霊媒を使えるのならばわざわざ不可思議な写真などを写させる必要はありません。

 これは心霊写真に対して一つのジレンマをもたらします。すなわち、どんな写真であろうとも霊媒に持ち込めば、霊媒は「お説教」を始めるのではないでしょうか? つまり、霊媒・霊界にとって必要なのは単に切っ掛けに過ぎないからです。

 そして、「心霊写真の氾濫」はかくして霊媒に助長されるのだと推測されるわけです。さらには、一霊媒として、あまり考えたくないことですが、職業霊媒も食べるためには新規業務を開発せねばならず、それ故に不可思議写真を写して不安になった人々の心の隙間を埋めているなどというのも、心霊写真増殖の責任の一端を担っているのでしょう。

 その他にも理由はいくつもあります。良く聞くこととして、最近のカメラは、遠距離も近距離も同じように写す事から、レンズの汚れやら、撮影者の吐く息やら迄、しっかりと写し込んでしまうことなどもその原因の一つでしょう。その程度の写真はいくらでも写すことが出来ます。たとえば私も、雨の降っている日等は、たとえ周囲が充分明るくともわざとストロボを灼きます。すると対象の回りに光る星がたくさん取り巻いているような写真が得られます。そういう実験などを繰り返して思うのですが、人はどうもカメラと自分の眼を同一視し、自分が見えるものが映って当たり前、自分が気がつかなかった事物は映って無くて当たり前という考えから、見慣れぬ写真を「心霊写真」と決めつけている場合が多いようです。

 なぜ、それが心霊写真なのか?

 私は富士山の周辺によく遊びに出掛けます。特に夏の暑い盛りは絶好の避暑地として利用しているわけですが、富士の周辺には、寒さから日中でも吐く息が白く見える所がたくさんあります。また、そういう場所には祈祷所が設けられていることがざらにあり、当然、そういう所で簡易カメラなどで撮影すると、自分の吐く息が写り込みます。まあ、私も自ら霊媒を任じているわけで、霊気の溢れる場所で撮影した写真に感じるものもあるのですが、メッセージ性もない写真をわざわざ心霊写真などと騒ぎ立てる気が起こりません。

 ところが、どうもそういう写真を喜ぶ人々がいます。そういう人たちの言動をみていて思うのが、事実よりもむしろ、心理テストなどで用いられる、 ロールシャッハテスト」と同様の効果、すなわち、撮影者の願望の投影として、心霊写真として騒いでいるのでは、と思えることです。

 特に、心霊に関心のない人ならば、気にも留めない写真の瑕疵《かし》(レンズの汚れ、カビなどが映っている場合もあるそうです)を、心霊に関心のある人は大騒ぎをするのではないかと思えるわけです。

 なにが心霊写真なのか?

 近代心霊研究の観点からみると、本来の心霊写真というのは、不可思議な写真というより、むしろ、当たり前の如く見える写真であるべきでしょう。死者と生者との区別がつかないぐらい明白であってこそ、心霊研究家が納得しうる心霊写真であると思われます。なにより心霊写真と認めがたいのは、わざわざ霊媒が解説しなければ意味が分からぬ写真です。

 そもそもメッセージというのは双方向の理解があって始めて成立します。第三者の助けを得なければ理解出来ないのであれば、その時点で適切なメッセージとは申せません。ことわざにも、「好きな人ならアバタもエクボ」、「坊主憎いけりゃ袈裟まで憎い」等と申しますが、心霊的なものにあこがれている人が写真の瑕疵を持って心霊写真といい、また心霊的なものに恐怖感を抱いている人が、真の心霊写真を、写真の瑕疵であると見なす事例は多いのではないかと思われます。

 では、怪しい写真はどう扱うべきか?

 これは他の問題にも当て嵌まることですが、そもそも人が介在する問題に、心霊的な影響が全くないものなどというのはあり得ぬと思われるべきです。何しろ人の動機からして、その人本体の霊魂が示唆であるか、守護霊・祖霊の感化であるか、悪霊・憑依霊の圧力であるか、無理を言えば必ずどれかに分類可能なのです。いわば、どんなことであろうとも霊媒はそれを心霊と結びつけるのがむしろ当たり前と考えるべきなのです。ですから、「○○は、心霊の影響か?」などと問われて、違うと断言出来る霊媒は全く持って珍しいというべきでしょう。

 従って、今回のテーマである心霊写真もそうですし、迷信深い方々にそうと信じられている病気などについても、まずは専門家、写真のことならば写真屋で尋ねてみたり、病気のことならば医者に尋ねてみて、匙を投げられてから霊媒を頼るのが適切だと思います。


 事例:

 私自身、「足が映っていなかった(透き通っていた)」という写真の鑑定を依頼され……依頼といわれても写真そのものが送られたわけではなく、ただその事実を電子メールで送られただけですが、……瞑目・瞑想後、

『これは交通事故の予兆で、近い内に足をケガをすることになる。が、命に別状はない。祖先の霊が守っているという証として、この写真を撮らせた。従って、事故にあってもあわてることはない。守られたことに感謝の念を忘れなければ今後もしっかりと守るであろう』

という霊査を取り、そのように回答したことがあります。そして一週間後にその相談者から

「交通事故に遭い、足にケガをした。どうしたらいいだろう。お祓いが必要か?」

というメールが届きました。ご先祖が守ってくれているから足だけで済んだのに、感謝の代りにお祓いを思いつくなんて、私の返事は読んで貰えなかったのかな……と少々ガッカリしたのですが、一枚の不可思議な写真が、ある人に霊的な問題(先祖供養や信仰心の大切さなど)を考える切っ掛けになったとしたら、これは、私の定義する所の心霊写真、すなわち、「死後個性の意志の現れ」と見なすことが出来るでしょう。


自殺者の霊……恥の上塗り

2004/10/12

2004年 10月 11日


 伊勢オフ会が中止/延期し、ぽっかりスケジュールの空いた日曜日、暇人同士でぶらりと富士を巡ってきた。家族持ちに声をかけられずに申し訳ないが、まあ、独り者にも相応の都合があってのこと。ご勘弁願いたい。

 本来は富士を一巡りし、瀧をみて、温泉に入り、おいしいものを食べて帰る気でいたが、何を思ったか……私事で恐縮ですが……突然ハンドルを甲府方面に切り、勝沼で温泉に入ることとなった。

 すると途中の石和で花火が上がっている。10月に花火大会というのも珍しい気がするが、露天風呂からは、他にも花火が上がっているのを遠望出来た。つまり、温泉につかりつつ二カ所の花火大会を見物出来たわけだ。むろん、間近でみるのとは迫力は違うが、まあ、人出が苦手な私のこと、温泉につかりながらの花火見物は相応に楽しめた。


 ところで、不安にさせまいと同行者には言わなかったが、どうも私は途中でお客さんを拾っていたらしい。というのは、サウナや湯船やらでくつろぎつつも、まあ、精神統一を楽しむのがオフ会での「雰囲気」なのだが、本来一番専念すべき私がどうにも精神統一が出来ない。そのうち、私のノドに日本刀が入ってくるのが見える。

『おいおい、なんだこれは、ただごとじゃないな!』……相手をしないのにも限度があるので意念を集めると、

『死なせてくれ……』と聞こえる。

……?

『我が身を恥じて自害をせしが、未だに魂魄留まりて、我、恥から逃れられず。どうか我が魂を消して下され!!』……めんどう。こういう相手は、背後さんに任せた。

 羞恥の念に苛まれて、この世から消えて無くなろうとして自殺した人は、死後にも自分が消えることがないことを知って愕然とする事が多いそうだ。恥が消えぬどころか、恥を消そうとして帰って上塗りしているのだからたまらない。生前の過ちを死後に償うのは容易なことではないし、そもそも償うことから逃げたものでは、死後に償う事なんて泣き言でしかないわけだ。

 すると、誰かに憑依して何度も自殺を繰り返そうとするんです。……恥の上塗りの、その又上塗りなのに。

 どうも、今週、いや今月は変な霊に絡まれやすい。微妙に判断が狂うのです。


独り身だから応える

2004/10/11

 とある露天風呂を楽しんでいた時、外に一本の立木のある事が妙に気になった。

 すると声が聞こえる。

……たった一本だけ、ぽつんと立つ樹木、または、周囲が平坦な地に、ただ一つある山などは、古来から信仰の対象となってきました。

『そうだよねぇ。富士山もぬきんでているからただ一つの山に見えるし、筑波山なども信仰の対象となっている。樹木などもやはり間違いというか、目立つ一本が信仰の対象で、林の中のありふれた立木が信仰されているなどというのは聞かないよなぁ。何でだろう?』 ……自然霊というのはとても協調性が高いのです。ですから、同じような山や石、同じような樹木ばかりだと、お互いが遠慮しあって出しゃばるものが無く、代表が決まらないから自ずと沈黙することになります。周囲に比べるものがなければ自ずとそこに、一つの精霊が立って受け答えするから、人に感応されやすくなるのです。 『でも、仲間が多い方が力が強くはならないのかな?』 ……自然霊は人の都合では動きませんから。 『ああ、受け答えはしても、所詮は挨拶だけという訳か。なるほど確かにその通りだ。』 ……人生は頼るものではなく、人自らが生きることですよ。それでいいのです。 『信仰している人が聞けばガッカリするかも』 ……何事にも例外はあります。大切なのはルールではなく、お互いの誠意なのです。 あまりしつこく問うのもみっともないね。……

矛盾

2004/10/08

2004年 10月 07日


 いよいよ、明晩、伊勢オフ会に旅立つ。物見遊山なのか、勉強なのか、修行なのか、その配分はかなり難しい。人の行動を定めるのものは、良心だけにあらず、矜持も又大切だからだ。つまり私の矜持からみれば修行が主で物見遊山は最後の筈だが、良心に言わせると物見遊山ばかりだからだ。まあ、これが心霊で喰っている身ならば口が裂けても物見遊山等とはいわない。幸か不幸か、会社勤めで喰い、余暇を心霊研究に捧げているのであるから、たまには……つまり、忙しさに相応するだけの楽しみもあってしかるべきだと思う。そうでなければ長続きしないし、やることも嘘くさくなってしまうだろ。それでなくても充分にお説教臭いのだから。

 ……お説教臭いという部分に、「何をそんなに気にしているのだろう? 私は平気なのに」と思われるネコ型も多い。逆に、「私にもお説教して、叱って、……いい子になるから!!」と、心の底でしっぽを振っているイヌ型の読者もとてもとても多い。……しかし、知らずにやるのならば是非もないが、知ってやるのは事故でなく、犯罪になる。

 霊媒というのは、重要不可欠であっても主役ではない。当事者双方の間に立つ仕事なのである。滅私奉公。それなくしては成り立たない。霊媒が主役になりたがれば、その言葉は霊の言葉でなく、その祈りは人の願いではなく、ただ霊媒の意志だけがそこにあることになる。

 「矛盾」という言葉がある。どんな盾でも貫ける矛、どんな矛でも貫けぬ盾を売る商人がいた。……いたずら者がこういった。では、「その矛で、その楯を突いたらどうなるだろうか?」

 本当にどうなるだろう。興味深い話題だ……そうなのか?

 私はそうは思わない。信仰というのはそもそも矛盾を売りつける商人だ。真理の矛はいかなる迷信の盾も貫き、真理の盾は、いかなる迷信の矛もはじく。だが、真理の矛と真理の盾は決して相争うことがない。それをあえて争わせよというのは、レトリックとしかいいようがない。

 つまり、矛盾が矛盾であるのは争うべきでない者同士が争うからだ。――争わなければ矛盾は存在しないのである。……にしても、争いが絶えない。矛と盾の間に矛盾があるのではなく、矛と盾を使う人の、その心の中に矛盾があるのだ。


霊査事例: 2004年10月6日

2004/10/06

 以下に紹介するのは、精神統一の練習中に得た、参加者・個人あての代表的な霊査です。当然、対象となる相手によって正反対の霊査も出てくる事でしょう。  以下に紹介するのは、精神統一の練習中に得た、参加者・個人あての代表的な霊査です。当然、対象となる相手によって正反対の霊査も出てくる事でしょう。


総論

  •  人生は二人三脚。うまく行っている時は、あなたが調子の良い時ではなく、あなたと背後霊とのリズムがあっている時なのです。
  •  人は皆、幸せに生きられるように出来ているのに、なぜか不幸にしがみついてせっかくのチャンスを逃す悲しさ……なしのままに生きると、自分の人生って、まんざらじゃあないな……と思える日々。心霊主義千歳。……いや、他力本願じゃさすがに一万年は過ごせないよね。(^^;

事例1

  •  不幸だからスピリチュアリズムなのではなく、幸せだからスピリチュアリズムです。現実逃避の道具に使わない。それが大切です。……あなたはそれが出来ています。でもお友達はどうでしょう?
  •  人の意見に流されぬように。特に他力本願は迷いの元です。……力に頼って幸せになる。虎の威を借る狐は寓話の中だけでたくさんです。

事例2

  •  今を生むのは過去、未来を生むのは今です。今の幸せに甘えず、今の不幸に腐らず、より良い明日を生み出す努力を決しておろそかにしないことです。
  •  強運を生かせるのは、努力家だけなのです。無駄な努力はせず、でも、無駄な時間は過ごさずに行きましょう。

事例3

  •  たとえ不遇だって、笑っていられたら、必ず拾う神があります。
  •  たとえ幸福だって、仏頂面なら、必ず捨てる神があります。
  •  むろん、あなたは痛いほどよくご存じですよね。

事例4

  •  出来るできる。……だって、私が味方だから。
  •  あなたはいつもそういう視点で人を見ることが出来ます。でも、そういう視点で人から見られていることには気がつきません。あなたは大切にされているのです。でも、やはり、温かい視線よりも、厳しい視線にあせりを感じてしまう所が人間の切なさですよね。

事例5

  •  同情は容易く、協調は難しい。何となれば、あなたの苦労が報われぬから。……無駄な力みがあります。報われないのではなく、あなたが押しつけているのです。
  •  え? 強要されたのですか? すると問題なのは、あなたの義務と責任の境界をあなたが適切に把握しているかどうかということですね。

事例6

  •  次の一手を考えましょう。一つ目処がついたら、次の次を考える。流されつつ生きるのは大変ですから、流れをリードするつもりでがんばって下さい。

偏見癖

2004/10/03

2004年 10月 02日


 教会に宿れる霊

 先日、たまたま教会の前を歩いていたら、フッと屋根の十字架に目がとまった。輝いているのである。……霊視的に。
 目を留め、足も止めた私の心に、声が響く、

『汝、我が前にひれ伏せ!!』

 言葉にすれば大袈裟……おう!、まさに大袈裟、宗教家的な誇張のほどが多分に含まれた論法なのだろう。その真意といえば、 「神の摂理に従い生きなさい」という程度のことで、十字架に励行を宿らせし、ローカル天使様に隷属していきろというのではない。

 再び歩き始めた私は思う。「霊光の強さは明らかだけれど、真理とは何とまあ言葉にすれば陳腐であるのか。そして霊達の言わんとすることは、何とまあ虚ろなのだろう。」 ……いや、「虚ろ」という評価は少々意地が悪過ぎる。人はその関心のあることだけに関心が向くのだ。だが、とにかくその時は、その教会に宿っていた霊魂の言葉に耳を傾けたい気分ではなかった。関心がなかった。というより侮ってさえいた。

 これが私の悪い癖か……というより、心霊のなんたるかを理解していない所なのだろう。どうにも娑婆っ気が(つまり地上的習性が)抜けない。気がついたのは、それを書き始めた今なのだから。

 言葉は糸口に過ぎない――肝腎なのは霊光の色と強さであって、言葉なのではない。

 鐘は撞き方次第――質問次第で答えは変わる。

 中を吟味することなく、糸口に触れただけでつまらぬと切り捨てては価値のある者は見つかりません。つまり、私は、チャンスを逃したのです。まあ多分……いずれかの日に、再び意念を交わせる時が来るのでしょうが。

 

 浮遊霊は低級霊?

 友人に霊がつきまとっている――という話をすると、あちこちから、「自分のことでは?」と心配して問い合わせが来るが勘弁して欲しい。この件については当人は了解済みです。

 さて、話題は別に、この浮遊霊を悪者にしたいわけではありません。この友人、子供の頃に、一人でおしゃべりをする癖があり、その頃に、見えざる話し相手となったらしいのです。で、別段悪さをするわけでなく、むしろ、この友人を大事にしている霊です。もっとも、心霊に関心がある友人の背後にいれば、多少は近代の心霊知識にも触れて、いつまでも、人の背後をうろついていることを恥じる様子も見えます。だから……私には、「出ていく」と空約束をして……出ていかない。

 まあ、そんなことはすっかり忘れていたのです。何しろ、守護霊達が心配していないのですから、私が騒ぐ話ではありません。むしろ、この霊がいるから、それ以上に悪い霊が入らないという効用もあります。

……ここまでは伏線です。

 先日、別な友人から、咳が止らぬとのメールが舞い込みました。医者も原因不明と匙を投げたとかで、医者が見捨てたならば、霊媒が大手をふるって手を出せます。しばし精神統一をしたところ、「面倒を見よ!」と聞こえます。で、必要な処置はといえば、因縁霊を引き離すこと……実際には過労を取り除かなければうまくは行きませんが――まあ、その時はただ、因縁霊をどう引き離すかを考えていたのです。

 その時、私の脳裏に浮かんだアイデアは、「彼女(霊)に頼もう!」というものでした。いえ何もこれは私の思いつきとは考えておりません。そもそも、創造性というのはインスピレーション――すなわち霊感なのです。私の自我と不可分の霊、その霊からの入れ知恵と思って良いのですが、まあそういう区別が必要なのは心霊研究上の事に過ぎません。実用上は全く私のアイデアと思って良いのですから。

 ではなぜ、浮遊霊……まともに霊界入りしない霊に「因縁霊の引き離し」(以後、除霊と略す)を頼むのかというと、どうも、世間一般が、除霊と聞くと、強い霊力で無理に引き離す的なイメージがあるのでしょうが、頭に血の上りやすいよほどの愚かな霊でなければ、守護霊やら竜神やらが駆けつけた所で、潜んでしまうのが当たり前。まして、因縁霊というのは悪意によって害をなすというより、親切心が迷惑を及ぼしているのですから、なまじ高級霊などが解決にあたろうとすると相手を潜ませて帰って解決が遅くなるのです。……子供のケンカに親が出ると拗れる場合もあるということです。

 それならばむしろ、変に霊界かぶれしていない霊に、間に入ってもらった方が穏便に解決する可能性があります。で、どうもこちらは図星の様子。対話の環境が整ったようです。

 そして、……頼んだ結果はどうだったのか?――実は微妙な問題です。

 咳の止らなかった友人は、若干、楽になったようですが、原因は霊的なものばかりではなく、除霊で疲労は抜けません。まして、この除霊計画の一端ではしなくも彼女(人)の業《カルマ》も見えてきました。というわけで、結論は先送りとなります。

 しかし、……私は詩情に感興も催さず、抽象的・哲学的な問題に取り組むことがむしろ好きな方ですから、死んだら迷わずに、肉体、幽体を脱ぎ捨て、地上と縁を切ってあちこちと遊び歩く気でいるわけですが、そういう死後のあり方だけが、霊魂の目指すべき道ではないのだな……と、ようやく気がついた気が致します。

 英国では幽霊屋敷が多いと申しますが、それは別段、英国人の霊格が低いというのではなく、単に地上の文物やら縁やらを大切にする霊が多いだけかも知れません。考えてみれば、日本の霊達が地上で大人しいのは、年二回に実家に帰る権利があるからかも知れません。……その事は、実は私のホームページに付属する掲示板に、通称、裏・表があるのと同様。日本とは、本当に裏表、本音と建前がある国、いや無ければ成立しない国なのかも知れませんね。


 ところで、以前、師匠、姉弟子らと伊豆に遊びに出掛けた時のことです。急に姉弟子の一人が風邪を引き、咳が止らず、熱が出て……あげく、案山子なるハンドルネームを頂いたりもしたのですが……その時、「ああ、ここをこうしてこうすれば咳が止るな」と感じて、師匠に意見を求めたのです。

 ……脱線するなら、私の主催するオフ会に参加しながら、私に隠れて、エセ霊査(明白に自ら、霊査と言ったわけではない)を取った参加者がいて、以後の参加を断った経緯がありますが……

 この伊豆旅行は、師匠がいるから集まったメンバーなのです。誰も私の霊査を聞きたいわけではなく、反対に、私が間違ったことを言ったにせよ、その事に対する師匠のコメントは皆にとって関心の的であるわけです。ですから、何かを感じたならば、まず、師匠にお伺いを立て、場合によっては補足、修正を頂くことが大切な自分の勉強となるわけですが、この時ばかりは全否定されてしまいました。

 その理由は……

疲れたのは休まなければ癒えるはずもない!!

 技巧は、本格的な解決策にはなり得ないのです。ああ、なるほどな、と思いました。いえ、単純に割り切れたわけではありません。いかに休むことが大事とはいえ、皆で休暇を楽しむために旅行していたのです。一人姉弟子が過労で寝ては、皆もそれに付き合い、休暇が無駄になってしまいます。この姉弟子にしてみれば、具合の悪さよりもバツの悪さの方がよほど辛かったと思えるのです。だから何とか技巧で済ませたかったのですが……叱られました。

 でもよく考えてみると、この件から既に四年は経過していますが、どうも私は、その場の取り繕い的な技巧で、事態を後回しにすることをよくやります。会社にあってはそういう技工も必要では……と思えるのですが、背後の霊達はあまり気持ちよく思っていない様子。しっかりと内観・反省する必要を感じました。

 ところで、「この時ばかり」というのは、何も自分のプライドをかばわんとする技巧ではありません。実はその先年、この姉弟子が腰痛で苦しんでいた時、やはり、師匠にお伺いを立てて見た所、「ぜひおやりなさい」といわれて、やった治療が大当たり、腰痛を治してずいぶんと喜ばれた経緯があります。しかもこの時は、単に腰痛が問題なのではなく、当人ではいかんともしがたい因縁騒ぎがあって、その対処も適切だったために、私も気持ちよくその成果を誇りに思えたのでした。この件は、実は三年間にわたって様々な影響を、私と姉弟子に与えました。これぞ心霊の面白さ……公言出来ないふがいなさでもあるのですが、やはり大切なのは、一事が万事、一つの手で解決することはなく、やはり、その場その場で、様々な条件を鑑みて、対応策を打つことが大切だということですね。最初から決めつけて行動することはいけないわけです。


霊査事例: 2004年10月2日

2004/10/02

 以下に紹介するのは、精神統一の練習中に得た、参加者・個人あての代表的な霊査です。当然、対象となる相手によって正反対の霊査も出てくる事でしょう。  以下に紹介するのは、精神統一の練習中に得た、参加者・個人あての代表的な霊査です。当然、対象となる相手によって正反対の霊査も出てくる事でしょう。


総論:

 『とかく不平不満が多すぎる。だから何をしたいのか?』……あなたは不平を聞かせるだけで満足出来るのだろうか?

事例1

  •  『考えすぎて、疲れが溜まっています。』つまらぬ過ちをしないで下さい。
  •  『連想系による創作手法』
  •  『出来ることはままある。前途はあまりに広く、希望は満ちている。このような原野を前にして失ってならぬのは志である。欲で道を汚さぬように。必要なものだけを取って前に進みなさい。』

事例2

  •  『「具合でも悪いの?」 と、はぐらかすのもケンカを避ける一つの手です。』
  •  『心配を無くすよりも、望画する事』……人生が苦しくありませんように、とか、ケガをしませんように、病気になりませんように、といった消極的な願望というのは、慎ましい願いのようでいて、その実、実際に叶える側にとってとても面倒なものです。たとえばケガをしないようにする……その願いを実現するためには四六時中見張って守らなければならなくなります。ですから、むしろ、事業の拡大、とか、実績を上げたい、等といった積極的な祈りが、叶える側にとっては楽なのです。むろん、楽だからといってすべてを叶えてくれるなどと、私が保証するのものではありません。ただ、一般に遠慮し、慎ましい祈りであると思われているものの方が、実は面倒で強欲であることを指摘致します。
  •  『祖先の向上は、汝の財産。先祖供養を怠るべからず。力を集めて共に歩め』……先祖供養というのは、先祖が祟るから行うとか、福徳が欲しいから行う、というものではありません。先祖にとって子孫の繁栄は力だし、子孫にとっても祖先の向上が力なのです。共に力を合わせて邁進する。互いに力を合わせるための「かけ声」のつもりで、祈るべきです。大切なのは供物や墓参の回数ではありません。心に仏壇を持つ気持ちが大切です。

事例3

  •  『他に認められたい』という気持ちが強く出ています。人に話を聞かせる人間よりも、人の話を聞ける人の方が人望が篤い者です。
  •  『まず腹をくくりなさい。だんだん良くなっていきます』……ご家族と一緒に心霊の勉強をしたいと思う気持ちはありがたいのですが、たとえば部屋の掃除をするのに、全部の部屋の押入を一斉に表に出したら、収拾がつかなくなります。掃除はまず、一部屋一部屋進めていくべきですよね。ですからまず、自分のことに専念致しましょう。
  •  『今は小さな事からこつこつと』……参加回数の多い人は、それなりに霊査も長くなります。短い霊査だからといって気になさらないで下さい。まずは足元を固めて行くことが大切なのです。

事例4

  •  『歯を食いしばって働くのを止めましょう。あなたはどうも、努力というと歯を食いしばり、我慢する事であるかのように考えがちです。それよりも工夫を大切にして下さい。』……創造性は霊的な成長に不可欠です。
  •  『人の目から見た自分ではなく、人に見せる為の自分を思い描いて下さい。』……他人が自分をどう思っているのか、等と悩み始めたらきりがありません。むしろ積極的に、「自分をこうアピールしよう」と努力して下さい。
  •  『生き物を扱う職業の人は、お日様に手を合わせる習慣を持つべきです』……生き物というのは理屈道理には働きません。思わぬ事で命が失われもします。それを一々心配していたら気苦労が大変です。運命は天に預けて、自分が出来ることに専念致しましょう。といって、一宗一派に偏るよりは、お日様に手を合わせる方があなたの心の制約が少ないことでしょう。
  •  『楽しかろう、楽しみなさい』……いろいろと脇で口出しもありますが、それはいうなと指示されました。楽しむというのは理屈ではないのです。ところが往々、楽しみに理屈をつけたり、言い訳をしたり……そうして心の純粋さが穢れていくのですから。

事例5

  •  『考えすぎです!』……仕事について、あまり考えすぎないように。私などは三秒考えても答えが出そうに無ければ、背後霊に任せて別なことを考えるようにしています。
  •  『今は数より質の時代です。数を増やすのは簡単ですが質はすぐには上げられません。』……質の高いものを増やすのは比較的簡単ですが、粗製濫造の質を上げるのはとても大変な仕事ですよ。
  •  『なやむより、心みだるる、夕べかな』『人は生かされています。悪人もまた』……頭とは思考の器官なのです。お腹が空いたらグウとなるように、頭だって考えることがなければ妄想を始めます。どうせ妄想するなら意味のないことを妄想すればいいのに、大切な問題まで妄想するから、「いくら考えても答えが出ない!!」と焦れることにもなります。大切なことは妄想しない……答えを出すために必要な条件が揃わなければ頭を切り換えることです。

事例6

  •  『とんちは程々に。』……自分の直感のあり方に固定観念を持たないで下さい。
  •  当初、頭に光が集まっていました。そういう精神統一のやり方もありますが、まずは受け身の姿勢を正しく作りましょう。意念は頭ではなく、腹に下げるようにして下さい。
  •  『お前には神のいうことを聞かぬ背後霊が多い。それではいつまでも未熟なままだ。背後霊とは一蓮托生なのだから、お前が積極的に祈ることだ。背後の霊達が、神々に関心を抱けば、向上も容易になるだろう』

事例7

  •  『頭で考えることと情で考えることを使い分けよ。事業計画は理で煮詰め、実施の際は情に配慮しなければ成果は上がらない。』
  •  『気を揉みすぎです。天はあなたに何をさせたいのか、それを思うことです。』
  •  『うらみより、希望を胸に、まっておれ』

事例8

  •  『あなたは必要以上に人に認められようと努力しています。それではストレスが溜まりますし、他人から見て滑稽にも映ります。もっとリラックス致しましょう。』
  •  『もう一度、はじめからやる。』

事例9

  •  『何をしたいのかを明確にすることです』……往々、あなた動機と結果だけで、過程の説明を忘れがちです。
  •  『理は満ちても、情が生かせぬもどかしさ』……あなたの言い分はもっともなのだけど、もっともな言い分だからといって、人々が動いてくれるとは限りません。人は往々、理よりも利で動くものなのです。その辺の事情を汲んであげましょう。

事例10

  •  『大いにやるべし。欲で成す仕事に負けるべからず』


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