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近代心霊思想の近代たる所以

2004/10/29

2004年 10月 28日


 空虚な霊媒批判

 たとえば、現代において心霊研究を志す人々は、霊媒の不足を嘆く。しかし、「良い霊媒を見抜く」という命題一つを見ても、みな、霊媒の疑い方の追究ばかりに励んで、そもそも信頼関係が相互作用に支配されていることを忘れている。いくらすばらしい霊媒と巡り会ってもその霊媒から信頼されなければ心霊実験どころか心霊相談にだって応じてはくれまい。

 念写の研究で多大の実績をあげた福来博士の協力者である御船千鶴子は世論に責められ自殺した。その悲劇を生かす覚悟が後年の心霊研究家にあるのだろうか?……信頼関係の大切さを論じずに、霊媒の識別法ばかり論じる人々を見るにつけて、近代心霊の退歩を感じざるを得ない。

 生き神様批判のズレ

 また、くれぐれも霊媒を神仏の化身扱いするな……と主張する心霊家は多い。これも観察者の一方的な主張であると思われる。いや、そこに個人的な怨恨すら見いだせる場合も数多い。そもそも、一体、誰が、何の為に、霊媒を神に祭り上げるというのだろうか?

 そもそも、物事の価値は需要と供給の関係で決まる。生き神様だけでは宗教は成立しないが、信者だけでも宗教は成立するのだ。宗教に生き神様が現れるのは、周到に用意された詐欺・またはそれに類するものであるかもしれない。だが、そういう詐欺が成立するのも「生き神様」の需要があるからだ。まして、現代において、理性を超越した必要性でもなければ中々に信仰心は発揮しがたい。それこそ、平凡な日常の中で神仏に手を合わせる清らかな信仰生活を送っている人なら、「生き神様」などという、名前からしてうさんくさい存在に魅力など見いださぬことだろう。要するに、理性では解決できない問題があるから、生き神様を必要とするのである。そういう人々に、「霊媒を神仏の化身扱いするな」と説くのは、火事場で慌てる人々に防火の大切さを説くようなものだ。そんなことは、火を消し終えてから論じるべきことである。火を消すのを手伝うものが、後で防火の大切さをいうならばまだ良いが、火事の真っ最中に防火の大切さを説くのではただ邪魔なだけだ。あげく、せっかく鎮火しても「だから防火が大切だといっただろう……」などと追い打ちを掛けようものなら、被災者いじめにしかならない。

 さらにいえば、霊媒をたんに霊媒として扱わず、わざわざ神様に祭り上げるのは、信者側の複雑な心理も働いていよう。人間的な好き嫌いを理由に見捨てられるのが怖いとか、自負心が邪魔をして、特別な存在以外には自分の弱みを見せたくないという場合もあるだろう。また、見落とされがちなことだが、敬意の払えない相手に本当の相談を持ちかける人はいないのだ。

 なるほど霊媒を神仏の化身扱いするのは間違いだが、その必要性を解消しないまま、取り上げることは結局、問題を拗らせるだけのことだ。飢えているものをますます飢えさせることは善行とはいえず、食が足りている人間が、「そんな汚いものを食べるな」と、飢えた人から食べ物を取り上げるのは偽善に均しい。汚いものを食べるなといって恥じる必要がないのは、ちゃんとした食べ物を与えつつある人なのである。

……真実は二面、またはそれ以上の角度から見てこそ、語って嘘でなくなる。しかし、一面だけを見て理解したつもりになっている人はとても多いし、これからも増えていくのだろう。たとえば淺野和三郎氏の著作を見ても、繰り返し霊媒を神仏扱いするなという主張が見られる。その主張には大本教時代の失敗からくる内心の葛藤が見られて、私などは読むのに苦痛を感じるぐらいだが、霊媒を批判する一方、良質な霊媒の供給に努力していたのも事実である。つまり、言葉と行動の二面で悩める人を救おうとしていたのである。

 ところが現代では、淺野和三郎氏の言葉を模倣するだけで行動が伴わず、結局、偽善を行う人もかなり多いと見受ける。それは未熟な霊媒を成熟させる代わりに、使い物にならなくなるように潰しているように見える。逆境に耐えるものだけが生き残るなどというなかれ。そんな傲慢な態度で時代の革新を望む者は、実は改革の邪魔者に過ぎぬのだから。

生き神様は本当に間違いか?

 ところで、生き神様はともかく、生き仏様に関しては、少々、複雑な論理が存在する。以下は仏教の普遍的な見解とはいえないかもしれないが……そもそも、阿弥陀様や観音様が人を救うという観念は、民間信仰のもの……そもそも迷信であり、僧侶らがそれを否定しないのは仏教が、飢えた者から腐っていても食べ物を取り上げぬのと同じ論理であろう。本音は、他を助けよう、他に親切にしようという人々の心の働きを、阿弥陀と呼び観音と呼ぶのではないか……だから、誰でも仏の化身として働く瞬間があると良識ある仏教徒は考える。

 また、霊媒に限らず、商売の神様だ、博打の神様だ、野球の神様だ、等と騒がれる生き神様方も、やはり尋常ならざる背後霊の指導があってのことと見なせるだろう。すると、有力なる霊媒が神仏の化身であるというのは、瞬間的、そして観念的には間違いとはいえない。むしろ、神仏の化身にならざる霊媒が何の役に立つのかと私はむしろ疑問に感じる。……いや、尋常ならざる背後霊であっても、それを神仏と呼ぶのは間違っているというのであれば、それはそれで結構だが、死んだら誰でも尋常でない働きが出来るという誤解を広めやしないだろうか? 物事の一面だけを見ては真理は判らない。表面的な動きだけでその原理を論じるのはナンセンスというより、迷信の代わりにでたらめを教えるだけのことだ。

長南年恵を例として

 かつて長南年恵という人がいた。祈祷数分で数十本のビンを薬水で充たし、裁判中にも、薬水を呼び寄せて無罪を勝ち取った破天荒の霊媒である。非常に欲の薄い人であったそうだが、周囲から神様扱いされ、大騒ぎされなければ裁判に掛けられることもなかったであろう。彼女の被った被害は一体、心霊事実を認めない社会が悪いのか、はたまた、利に群がる人々が悪いのか、それとも祭り上げられて断らない霊媒が悪いのだろうか?

 果たして長南年恵は、神の化身か、ただの有能な霊媒か? その疑念は、一人の女性に視点をあわせるのとその背後霊を見るのとでは答えが異なることだが、裁判の前からその死の後まで、多くの人々から神様扱いされていたことは間違いない。では、彼女はビンに薬水を詰める仕事を辞めるべきだったのだろうか? 生き神様と呼ばれるのを避けて、才能を隠し、平々凡々な生き方に身を置き、治せる能力があっても病人を放置し、迷える者がいても口をつぐんで黙る……そういう生き方を善良と呼ぶのだろうか?

 所詮、善悪は、利害にうるさい地上のもの。利害を超越すれば善悪も気にならぬものだそうだが、私は長南年恵をわざわざ神女とは呼ばぬまでも、尊敬に値する霊媒であろうと強く思う。それは彼女の持つ、能力才能の強さに対する敬意でなく、自分の持つ能力・才能・そして運命に対して逃げずに生きた一人の人間として尊敬するのである。

 霊媒能力に限らず、いかなる才能・能力も、強さに応じ、また需要に応じて多くの反応を身に引き寄せるものだ。嫉妬やおもねり……攻撃を受けることもあれば、利用しようと画策する人もいる。「寄らば大樹の陰」ともいうが大樹は誰に助けを求めるのだろう? 翻って思う。一面だけを見て批判をするのは、正義の行為というより、無思慮の表れだと。

 近代心霊思想の近代たる所以

 近代心霊研究や、スピリチュアリズム等といっても、古典的心霊論と比べればましというだけで、公に理解されているのは、真理というより表面的な理解だけでその原理を解釈されているのではないかと思う。天文学でいうなら、いまだ大地は不動で、太陽や月が廻っていると主張する天道説のレベルを脱していないと思われる。いや、霊界に一方的な援助を求める幼児期にあるともいうべきか。19世紀に興った近代心霊思想は21世紀に入ってもなお、つまらぬ問題に足を引かれ続けている。

 霊媒批判の諸問題なども、利己的な視点から一面のみを見た結果であるといえよう。つまり自分の立場を絶対視し、地上を不動のものと信じて、天を見上げて星が動くと主張するのに均しい。事実は、天も地も互いに動き、不動なる物は観念の中にしかないということである。今や宇宙から地球を観察する時代となって、誰もが地動説を不思議に思うものは珍しい。が、宇宙旅行が実現される数千年前から、深い洞察力を備えた人々は地動説を論じていた。観察することは大切だが洞察力は時として観察をしのぐ。

 宗教が科学を支配していた17世紀のヨーロッパにおいて、地動説を唱えたガリレオが処罰されたが、彼は信念を曲げなかったという。教会や民衆も天動説が誤りであることを理解するのはガリレオの死後のさらに後のことである。

 人々が信じるものを変えることは難しい、特に多数の者が信じ、徒党を組んで信念を守ろうとする時、暴力を辞さないことを歴史が示している。そして真実の追究が難しい世の中は、果たして霊性向上に有益であるといえようか? 停滞は精神の死である。近代心霊が知らしめた「死後の世界」は、生き生きと躍動する精神の群れであるのに、新規な思想を冷笑し、批判し、沈黙せしめようとする者が溢れている地上を、支配するのは精神的な死者の群れかもしれない。そもそも、その精神的停滞を打破するための、大々的活動が近代心霊ではないのか?

 「自分もまた、不確定要素の一部として人間関係や心霊について考えていく。」――そういう発想の転換こそが人々に求められているのである。決して、学者の研究結果や、華々しい物理霊現象、うやうやしい言葉に彩られた霊訓をありがたがることを指して、近代心霊思想と呼ぶべきではない。それを受け止める人心に変化が起きなければ、新しい樽に古い酒を詰め込むようなものだ。せっかく薫り高く仕上がった酒が、樽臭くてまずくなってしまうのである。古酒は古酒として飲み、新しい樽には新しい酒を詰めて熟成を計るべきなのである。

 視野の狭き人、狭くても自己主張が強い人は太古の昔から絶えることはない。古典的思想が、そのような人々に台無しにされてきたのと同様に、近代的な思想もまた時代と共に偏見を増やしていずれは新思想に取って代わられるのだろう。しかし、今の我々には眼前にあるその思想を大切に育てる義務があるのだ。


家系・家庭環境について

2004/10/27

 人により、様々な事情があることも理解します。しかし、何が、そして、誰が原因であろうとも、苦しいのが自分であるなら、自らが率先して勤めるべきです。……それが理想論であることも重々承知していますが、助けを待って手遅れになることはよくあることです。

re: 1、道に迷ったら、まず立ち止まるべきなのです。

『正論ですが、パニックになるほうが多いのではないかと思います。』

 それは現実的な意見ではあります。しかし、一得一失。安易に手に入るものにはそれだけの価値しかありません。選択肢を変えなければ変化は訪れません。……むろんこれも正論であると同時に理想論である事を承知しております。正直申し上げてこの部分に関して意見をやりとりすることはナンセンスだというのが本音です。

 二通のメールで、長々と、しかし、曖昧に、でも、しっかりと書こうとしていることは十分に理解しております。……まあ、『誰かにコントロールされている』等という『妄想』の軽度なものと表現するのは刺激的でしょうか? むろん悪意はありません。

 

re:2、 庇護者・背後の霊たちの間には相互関係があります。

『これには、さらに詳しい解説が必要だろうと感じています。』

 人間と守護霊の関係は、あまり表立って書きたくないのです。どうも、片務を求める人……どうしても霊媒の周囲には、「自分の義務はなるべく拒み、自分の権利は最大限活用したい人」が、集まってしまいます。その辺を斟酌してかなり曖昧な書き方を好んで私は行っています。もっともこれはナンセンスな気もいたします。他の霊媒が本をネタに、『その通りにならない!!』と、私に食ってかかる人もいる始末ですから。まあ、この辺はなるべく静かにしておきたいのが本音です。

 

re:3 無理解が間違いを産み、間違いが無意味な努力に駆り立てがちなことです。

 『そもそも「まともな頭」と良質の情報がなければ、どこに助けを求めて良いのかすら分からないのではないでしょうか。つまり、悪循環を絶つために、霊的な能力を持つ人間に接しても、それがさらに悪循環を支えるようになることは双方ともに不本意のはずです。』

 ご意見は一般常識的であり、私の考えが非常に年寄り臭いくて、むしろ非常識と捉えられがちですが……昔ならば、霊媒を名乗って、当て物の一つや二つをしてみたぐらいで、そこそこ信用もされて、突っ込んだ命題……たとえば結果が出るのに何年もかかるような指導も出来たのですが、近代心霊以後、そういうことは否定されつつあります。迷信打破は相応に意義があることですが、その一方で近代心霊思想の牽引車となる人々、心霊思想家はどうにも証明を念頭に置きすぎて、片務に陥ってしまいました。

「信頼出来る霊媒はどこで見つかるのか?」「ニセ霊媒に騙されないためにはどうすればいいのだろう?」……これらの疑問は、心霊学の表面に触れた人が陥る初歩的な間違いであると私は思います。たとえどんなに素晴らしい霊媒と出会おうとも、その霊媒から信用されなければ、本気・親身に相談に乗って貰えないではありませんか。そして、疑うばかりで相手から信用されるものでしょうか?

 そもそも信頼関係というのは、相互の努力が大切です。霊媒を信用せずに、前提条件の説明もないままに次々と質問をする。それに対して延々と、霊媒・霊等は答えていく。前提条件の説明をしないということは、質問を纏める手間が省けることでもあります。手間が省ける=楽が出来る。次々質問する内に、楽することを覚えた相談者はだんだん横着になっていく。このような関係において誰が利益を得るのでしょうか? 受益者が楽をして援助者が苦労をする。……援助者が苦労して、受益者が怠惰になっていく。これでは霊媒が苦労することは報われぬ処か罪悪です。……そしてまともな霊感の持ち主がわざわざ罪悪に手を染めるでしょうか?

 信頼というのは求めて得るのではなく、お互いに高めあっていくべきものです。自ら信用されるような努力無くして、誰が本気で相手をするのか?……本気で相手をしてくれぬ人をどうして信頼出来るのか? ここに悪循環の種があります。

 闇雲に信じればよいとは言いませんが、世間一般に信用されている人であろうとも、一方的に証明を求める猜疑心の強い人が相手であれば、本気で相手はしないものでしょう。また、相手がどんなに素晴らしい知恵を持っていても聞く側に理解力が伴わなければ、馬の耳に念仏となります。相手に高いものを求めるならば自分もそれに見合った努力が大切といえましょう。

● 本題

『実際に厳密な検証を行ったわけではないのですが、このような話、つまり、「良く分からない悪循環」現象が発生する場合、視覚的に視えているはずの、文字や記号なども見えていないことがあります。比喩的には脳が機能するのを阻んでいるかのように。あるいは、「お手上げ」であるかのように。もし、これが本当に脳の機能障害でも、医療現場で納得できる解決法はまだないようです。

 私の理解する限りでは、日本では、このような話を持っていけるのは、明かに精神障害が見出せない限り、霊的な世界です。そして、ミイラとりがミイラになっているような印象すらうけます。』

 「主体性が得にくく、質問が纏めにくく、パニックに陥りやすく、思考が混濁しがち」――確かに霊媒、もしくは、霊能者の守備範囲です。……そして重要な要素は霊媒能力…霊能力よりもむしろ、相互の信頼関係です。(ただし、上述の条件の他に、人格障害を持っていたりするとお手上げです。霊媒と精神科医が協力して治療に当るなどということはまず日本では考えられませんしね)

 おそらくメールの投稿者氏は、かなり合理的な思考の持ち主ですから解決の可能性はありますが、基本的に、単純な憑依霊現象や、何らかの霊的因縁といった、霊能力的には比較的難易度の低い問題ほど実は解決は難しいのです。

 たとえば短気な人がヤクザ相手にケンカをしてしまい、死にそうな眼にあったのならば以後は行動を慎むでしょう。しかし、その態度に腹を立てた小心者、または小心者達が、こっそりと嫌がらせを始めたとしたら、おそらく、災難を恨みはしても自分の短期を反省はしにくいことでしょう。……しかも、短気といった、社会通念上の欠点の持ち主ならば、何らかの機会に反省することもあるでしょうが、「足を踏んだが気がつかなかった」等という理由で恨まれた日にはいつ解決するやら予測も出来ません。

 こういう問題の解決には、霊媒が、『君、そんなことをしちゃダメだ。つまらぬ事に思えて実は大きな影響があるのだよ』と注意してそれを守れる相談者でなければ、霊能力的に難易度の低い問題は拗れていく一方なのです。……注意を守らぬ人がどうなろうとも気にも留めない……というより、トラブルメーカーと好んで付合うこともありませんが。

●精神統一について

「このようなことも考えて、なるべく宗教的に、フリーなかたちでの精神統一が必要だと考えている次第です。」

 日常の思考がぼやけがちな方が、精神統一を行うことはとても危険です。……不完全な憑依状態下の人は、往々、思考がぼやけ、行動力が抑圧されがちになります。こういう人が霊的感受性を高める精神統一を行うと、より支配されやすくなってしまいます。

 始めに、何が/誰が、何のために、感化を及ぼしているのか、それを突き止める必要があります。そういう指導を受けられる環境にないなら、また、特定宗教に深入りしたくないなら、ちょっと大きな神社仏閣で、お祓い・祈祷を何度か受ける方がよほど気が利いています。霊媒が主催するような新興宗教と違って、歴史のある神社・仏閣は組織化などにあまり熱心ではありませんから応対は至ってサパサパしたものですし、神道・仏教の区分けなど所詮は人間の都合ですから霊的にはさして違いもありません。……もっとも増築・改修工事中などの場合、しつこく金をせびられますが……神霊の働きは金額の大小とは無関係です。


2004年 10月 27日

善悪を論じる意義

2004/10/27

2004年 10月 28日


 他と議論する上で価値観の共有はとても大事だ。お互いが最善を目指していても、その価値観が違えば求める答えは違ってしまう。むろん、立場が違えば利害も異なり、利害が異なれば価値観が違ってむしろ当たり前……真理を見いだすための議論などというのは、その道の上辺にいる一握りだけが出来ることで、大方の人々にとって、議論とは互いの価値観を再認識する場であると思うべきなのだろう。それが「議論」の現実的な捉え方だと思う。

 とはいえ、価値観の差もあまり大きいと、お互いの価値観を認識し合うどころか、全く噛み合わないことがある。特に私は心霊家として、議論を戦わせるに値する相手を、 相対観の出来る人であるのと同時に、善悪で物事を裁かぬ人としている。その二つをもたざる人とは議論に価値を見いださない。

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 相対観というのは、別段難しい手法の話ではない。立場を変えて考えるということだ。たとえば、死刑の是非を論じるならば、死刑制度にも欠点ばかりではないはず……つまり一方は欠点に眼を瞑って長所だけを主張して批判に対抗し、時を置いて立場を変え、欠点をあげつらって弁護を打ち破ろうとする。こういう議論の仕方が修行者には大切だ。でないと高尚な議論のつもりが往々に自分の利害にすり替わってしまう。

 たとえば、霊感を持たぬ心霊家は、どうにの霊媒批判に陥りがちだ。これはかの浅野和三郎氏にも当てはまる。出口王仁三郎の批判はごもっとも様だが、借金してまでキャンペーンを張って予言を外し、大正日々新聞を潰したのは誰だっけか? と思ってしまう。

 もう一つの、「善悪で裁かぬ」ということは当サイトでもたびたび主張してきたことで、常連の中には心がけている人も多いことと思う。霊界通信などでは、善悪で物事を裁かず、当人にとっての都合不都合を持って物事の善し悪しを論じるというものだ。

 つまり、いわゆる悪いことというのは、地上的論点からいえば、「私が迷惑に感じるから止めなさい」という意味合いが強いが、霊界に置いては、「そんなことは目先の利益はあっても長い目で見て損・苦労するぞ」という意味合いが強い。……という主張だが、解る人は会得し、解らぬ人は相変わらずだ。「老神め、生意気をいいやがって……」と受け取る人が多いらしい。

 まあ、その根拠について長らく何ら質問もなかったが、時期が来たらしく、少々掘り下げよということに相成った。

 衣食住(物質)の世話というのは、手間が掛るが、この手間は、心の媒体が物質(つまり肉体)であるから生じる手間である。想念に応じて形を変える、幽界や霊界において、日常生活は至って簡単で、基本的に衣食住の心配はない。従って日常生活上の手間は地上と比べて皆無といって良いし、それは、他に依存する必要性が皆無であるということだ。

 そもそも善悪とは、利害関係が其の根底にある。が、他に依存する必要がなければ利害関係も希薄であるということになる。利害関係が希薄であるなら何をもって善悪を論じるのだろうか? 死後の世界で誰がどれだけワガママを言おうが、自らの想念の中で自慰的に欲望を満たせるのである。

 地上では横暴な暴君と呼ばれたとしても……死後の世界では、自らの妄想中の暴君様で終わる。当人の心は盛んに征服していても、妄想は妄想で夢と同じ、他者から見たらくだらぬ夢を見ている睡者の一人に過ぎない。

 地上では他に迷惑を及ぼしたがる人ほど、死後は妄想の深みにはまって、大人しい睡者と成り下がる。欲が強いほど妄想に囚われて、他と利害を交えることはない……善悪を論じ、利害を他と争わなければならないのは、地上の特質であって、善悪などは想念世界では希薄な概念に過ぎないのだ。

 私は、悪を勧め、善を軽んじているのではない。ただ、利己的な意見を善と呼び、不都合なことを悪と呼ぶような、嘘偽りを嫌うだけだ。と同時に、死後の世界が、その上方に昇るほど利害の希薄なことを知り(充分に会得し)、生活上の必然はさておき、心霊学上の諸問題を論じるのに、善悪という、地上とその辺部で有意義とされる価値観を用いる心霊家を低レベルと見なすだけのことである。…… 魂の向上を人生の命題としながら、低級霊界の手法で物事を論じるのはナンセンスだ。

 往々、子育て時に精神的なゆとりのない親がいうことだが、自分に都合の良いことを善とよび、自分に都合の悪いことを悪と呼ぶ。よい子とはすなわち親の手を煩わせない子供のことだ。……こういう間違った価値観を幼少時に教わると、大人になっても善悪の見えない人間が出来上がる。すると、善悪に拘るのは少なくとも親子三代の過ちだと思わざるを得ない。


人の善し悪し

2005年 06月 20日

 犯罪を犯したから悪人、犯罪を起さないから善人という判別は、地上ではやむを得ない物の見方です。しかし、結果だけで物事を判断することは愚者にも出来ます。……悪意が悪しき結果をもたらす……悲惨な事件が後を絶ちません。ですが多くの場合、悪い結果をもたらすのは、悪意よりも未熟さ、不運よりも要領の悪さなのです。故意の悪人と出会わなくとも人は不幸になり得ます。

 それ故に、本来人が備えたい人物眼とは、自分に危害を与える人か、そうでない人かという判別力でありましょうが、しかしこれが難しい。すなわち、悪をなし得る要因は誰もが持っているものだからです。

 無思慮、不注意、怠慢、錯誤、衝動……これらは単にその人の持つ性質如何とは限りません。その人の体調にも左右されるでしょう。

 さらには、悪を育てる縁も多くの人が持っています。……独りよがり、過剰な自尊心、無知無能、落着きの無さ、負けず嫌い……失敗に気が付けば、すぐに方向転換をすべきなのに、行いを正すよりも別なことを優先して、大きな罪、大きな失敗に育ててしまう。

 誰もが悪との因縁を持っていて、それでも善良に生きようと努力しているのです。その努力を評価せずに、ああ、この人も悪人、この人も悪人と分別したら世の中に善人は一人もいなくなるでしょう。

 いや、滑稽なことに、そういう視点でもなお、善人が見いだされるのだからそこには矛盾が潜んでいます。……つまり、人は理よりも利で善悪を判断し、また、自分と同じ性質の者を悪人とは認めがたいという心理の働きを持っているのです。

 業は自ら解消を求める―― つまり、自分自身が認め、正そうとしない欠点は、自分自身に不幸・災難をもたらす事になるわけで、それ故、誰が導き正すことをしなくても、自ずと正されてしまうわけです。多くの場合、その過程で悩み、苦しみ、心霊の門を叩く人が居るわけですが、正しい道に戻るための苦痛を人は避けることが出来ません。
 そして、利で人を見れば騙され、身びいきは身内に裏切られて大失敗を致します。

 人の善し悪しを見る……難しいというのは、つまり他の善悪を見る前に己の善悪を正しく見なければならないからです。そこに必要なのは技能よりも素直さ、技巧を得るよりも身を棄てて素直に真実と向合うことを、文明という偽善に身につけた人類はなによりも苦手としているのです。


天の無情

2005年 07月 04日

 正義の不在を嘆く人が多い。――特に最近、私の周りでその嘆きが良く聞かれる。

「悪い奴らがのさばって、神なんているのだろうか!?」……そう思うのも個人の自由、その自由は信教の自由として日本国憲法に認められているが、心霊主義では神に正義を求めていない。

神が「唯一絶対」的な存在であれば、世のすべては、悪も含めて神の責任に帰するのだろう。だが、私たちは「摂理・自然則」の擬人化としての神を論じはするが、絶対なる神は迂遠すぎて扱わずにいる。……従って、あなたが絶対なる神への信仰心を大切にしたいのであれば、少なくとも私のサイトはお門違いだろう。

 神とは摂理の擬人化……念のために言っておくが、日本の霊媒にとっては、神道で言うところの「神」を無視できないが、この神と、近代心霊思想のいう、大霊・神などとは同一ではない。相対的に見て神に近くとも……

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 心霊主義では善悪を重視しない。重視するのは理に適うか否かだ。

 たとえば刃物で脅されている最中に正義を説いてなんになるだろう? 取り敢えず生き延び、そして犯罪撲滅運動に努力すべきだと私は思う。違うだろうか? いかなる種類の神であれ……摂理の擬人化であろうが、神道の神であろうが、悪を憎むという属性を持つ。しかし、それら神々の時間的感覚で正義が為されるのを待っていたら、人は退屈どころか数回生まれ直さなければならぬだろう。

 私は悪を肯定しないが、同時に神に期待をもしない。

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「だって酷いとは思いませんか!!」――思うよ、思います。でも、この不完全で矛盾だらけの世の中で、正義を貫こうと生きられることを幸せとは思えませんか? 多くの人々は、不正・不誠実な生き方に身も心も浸っているのに。

悪を憎む……不正や不平等に苦しむ人々から見れば、悪を憎む人は希望の光に等しい……でも、悪を憎んで悪を倒せず、そのうち世のすべてを憎みだしたらどうなるのだろうか?

「人間がいる限り悪の消えることは無し」――では人間を滅ぼしてしまえ!!

 正義漢の怒りが往々にたどり着く結論だ。……昂奮が伴うが、ひねりに乏しくつまらぬ結論だ。 


不善人者、善人之資

2005年 08月 10日

 老子の一節に「不善人者、善人之資」とある。照れ隠しにいうと、私は老子を諳んじているわけでなく、しっかりと資料を確認している。読み下すと、「不善の人は善人の資《もとで》」となるが、まあ、ここでのテーマとはちょっとずれるかも知れない。

 私も反省を試みるなら、人の批評にいささか神経質かも知れない。しかし、サイトを開いていると皮肉な結果に気がつく。…… 私のサイトは時折急激なアクセス増を記録するが、最近の私はすっかり自分のサイトに閉じこもって他を訪れることがない。一体、誰が私のサイトの「広告」をしているのだろう? 仮にそれが善意の広告であるなら、アクセス増は決して一時的なものに留まるまい。すると、誰かが私のサイトを批判する度に、私のサイトが急激なアクセス増を記録するのだろう。

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 他人の意見を否定するのは、安易な自己表現方法で、それを使う人は多いが、否定にいかなる価値があるだろう? 否定は誰にでも出来るが、価値ある創造は優れた人でなければ出来ないものだ。だからこそ、世の中には批評と受売りが氾濫している。

 そして自己宣伝はみっともないが、他人から誹謗中傷された際に、自己弁護を図って悪いはずもない。まったく、「不善の人は善人の資《もとで》」というが、人を誹る人がいるから、自己宣伝の代りに弁護で同じ目的を達することが出来る。

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 ここ数日、霊障問題を取り扱っているが、相手を力押しで任そうというのはなんとも工夫の無いことだと思う。 悪意ある相手は、その悪意を逆手にとって、相手の力で相手を負かせる……さもなくば、相手の妨害を自分の利益に繋げるのが智慧というものだ。

 自分を守るには、相手より強い必要など無いのである。 ……だが、見ているとどうもより負けるために努力している人が多い。

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 心霊思想では善悪をあまり重視せず、代りに、可・不可を重視する。さて、誰かを裁こうとする意志が善であるのか、悪であるのかを判断するのは難しいかも知れない。第三者がなんといおうと、自分が正しいと信じているのであればなおのことだ。

 しかし、自分の努力で自分を苦しめる事となったら、それは「不可」である……不毛であるということだ。

 一体、誰が不毛な努力に手を貸すのか? そう、不毛な行為に耽る人は霊界、いや、智慧ある人の助けを得られない。不毛な事を歓び手伝うのは野次馬だけだ。


善悪を考える

2006年 01月 24日

 善とは何か? という問いかけに、迷う人が現れてくれた。意地が悪いが良い反応だと思う。

 私には何通りか、または、複数の階層的な理屈をいう用意はあり、それ相応に聞手を感心させることも出来るだろう。だが、善悪の意味を真剣に求める人にとって本当に相応しい答は……

「善とは考えるものではなく行うものだ、悪とは考えるものではなく正すものだ」ということになる。禅問答的屁理屈に思えるだろうが、まずはこの言葉を噛みしめて欲しい。

 世に論語や老子や様々な名著があるにも拘らず、人がそれを活用し得ないのは安易に結論だけを取込んで、その結論に至る過程をないがしろにするからだ。たとえば英和辞典は、単語の意味よりもむしろ文例が大切なのだ。

 話を戻す……なぜ、善悪を考え、結論に至らぬのか?

 大多数の人に当てはまるのは、まず嫌な者があって、それを善悪で裁こうとすることだ。だが、司法関係者であるならいざしらず、「善悪観」で人を裁いても、「悪人」はのさばり続け、「善人」は忍従を強いられ続けるのである。ここで理論と事実の食違いが生じて、自らの理論が信頼できなくなるのである。……つまり、思考の目的が違っているから、手段の選択を誤り、手段が間違っているから答に至らないのである。

 自らの正当を主張するために善があるのでなく、人の行いを否定するために悪があるのではない。

……自らの出来る範囲で善を行うなら悩む必要はない。自らが迷惑に思うことを人に及さぬ配慮をしているなら悪を悩む必要もない。

……身体を動かさずにいるから(大脳の生理的働きにより)妄想し、延々と考える間に、思想が妄想に浸食・汚染されてしまうのだ。

 そうやって利害を一旦棄てて身体を動かしているなら、思考が素直になって、悩まなくとも答が見えるようになっていく。

・・・・・・・

 個々の善悪を考えれば、なおのこと真実が見えなくなる。

 たとえば、死にかけている二人のうち、一方だけしか助けられなかったとする。もう一人を見殺しにすることは、罪か否か…… こういう議論こそが、「群盲象を撫でる」にたとえられる。全体を見ないから判断を誤るのである。

・・・・・・・

 大抵の人は、善悪を相対的にしか受け止めない。

 ……以前滑稽に思ったのが、心霊肯定論者同士がのの知り合う姿だ。互いに低級霊呼ばわりして、いずれは地獄に堕ちるのだろうという。双方とも地獄に堕ちるというオプションが見えないのだろうか? これなども善悪を相対的にしか見ない結果と思う。

 「私よりも酷い人間は大勢いるのだから、私が地獄に堕ちることはないだろう……」 

一体正義はどこにあるのか?

 「心霊を学んでいるのだから、些細な過ちは勘弁して貰えるだろう……」 

ああ、これは「野狐禅」の筋書きだ。千年程狐に転生して修行せねばなるまい過ちだ。

 だが、仏教の地獄説話には実に合理的かつ普遍的な解答が潜んでいる。……亡者はただ、生前の行為を見せられるだけ。自らの過去を顧みて恥じ入るものが地獄に行き、恥じない者が地獄行を免れるというのだ。

 ここに善悪を論じることの滑稽さの一つがある。

 「お前が悪い!」と、いくら証拠を突きつけても、相手は理解しないかも知れない。理解力があっても現実逃避に走るかもしれない。又は開き直るかも……いずれにせよ、非を提示したあなたを憎み、責任転嫁して悔悟することがないものだ。だが、善悪を言わず、ただ事実だけを突きつけたら? 事故の内面から湧き上がる罪悪感から相手は逃れることが出来るだろうか? 強がることも出来るし、虚勢をはる事も出来るだろうが、自分から逃れられる人はいない。ましてや、自分の罪を他人に転嫁するような者なら、なおのこと自分には勝てぬものだ。

・・・・・・・

 善悪を論じる……それは実に興味深いテーマではある。だが、善悪は論じない方がその姿を捕らえやすいのである。


袋小路

2006年 02月 06日

 人は往々、利害で善悪を推し量る。だから、利他的な人、特に、自己に便宜を図る人を善良であると認識する。だが、このような価値観は共通の利害を有する者の間でのみ通用する。

 利他的な人が果して普遍的な善悪観に従おうとしているのかというと、甚だ怪しいことが多い、なんとなれば、やはり一個の人間として、利害で善悪を推し量り、味方に優しく、敵に厳しくしているからだ。……自分に都合がよいから利他的であるというなら、その「利他」なる表現に矛盾が生じるが、往々それが人間の限界であり、限界の拡張も又、大切な向上のテーマであるから、一概にそれを非難するわけにも行くまい。

 ただ、善く生きようとするのは人として大切なことではあるが、あまり善悪に拘って生きると、思わぬ人の利害に反して、つまらぬ争いに巻込まれることもある。……なによりも、余計な波風を起すことは決して褒められた態度ではない。だから、霊達の助言は、善悪よりもむしろ可否でもって行為を決める。仕方のないことを無理に裁いたりはしないし、当り前のことをわざわざ強いることもないのだ。

 真に叡智を得た者の言うことは、理想に思えて実現が難しくはない。なんとなれば、そこに矛盾がないから充分な努力が有れば実現が出来るのである。

 反して身勝手な人の言うことは、実行がたやすく思えて実現が難しい。矛盾だらけで努力の生きる余地がないからだ。

 安易な選択を、袋小路にたとえる所以である。

 ところで、自分に厳しい人が自己矛盾に陥っている場合は、何とも救いようがないが、現代ではそういう人をあまり目にすることもない。しかし、欲求の追求に妥協のない人もまた、矛盾の実現に無理を重ねて反省がない。

 大切なのは、目指すものを諦めることではない。目指すものを実現することだ。……にも関わらず、どうして矛盾の中に人生の目標を置きたがるのだろう? 夢を諦めさせようとしているのは一体誰なのか、それすらも知らずに人々は苦悩をやめようとしない。


善悪より適不適

2006年 07月 16日

 人の個性は、善し悪しよりもむしろ適不適……その場に合わせて自分を生かしたり、抑えたりすることが大切。……つまり、使いようだ。

 使いようが大切なのは、人の個性、という人間の一部分に限らない。人もまた使いようだ。いや、世の中にあって使いようの大切でないものがあるだろうか?

 一つの智慧は無限に応用が利く…… 一芸あるものは語るべし、だ。

 化粧や洋服選びだって、流行がそのまま最善というわけでもない。自分に似合わない化粧や洋服は、自分の価値を高めるどころか、返って下げる。単に見苦しいに留まらない。似合わぬ事に気が付かない愚劣さも他者の評価の一部である。

 適材適所……卑近なところでは、「バカとハサミは使いよう」……だが、耳を澄ませば世間の人は平気で己の愚かしさを自慢をする。「あれは使えない」「あいつは使えない」……使いこなせば自慢になるが、使いこなせないのは自慢にならない。

 にもかかわらず人はいう

「自分が悪いんじゃない、あいつが(または、あれが)悪いんだ!」……だが、人生が、そして環境がどれほど一個人の自由になるというのだろう? あるもので用を足せないなら、いつ用を足せるのか? ……私は無能ですと、気が付かずに自己紹介している人のなんと多いことか。そして他に問う……「私のいったいどこが悪いというのでしょう?」……だが「頭隠して尻隠さず」、人は頭を隠すことと、尻を隠しそびれることの、どちらをより恥と感じるだろう?

 かくして人は、真実を求めて己の浅ましさに打ちのめされる。恐れるべきは真実よりも、歪んだ己の心である。なんとなれば真実はそこにあって動かず、己の心は常に自分と共にあって逃げることが出来ないから。

 真実に沿うことこそが一番自分に優しいと、気づいて素直になった人が直面するのは、世の多くは責任転嫁の対象を求めて素直な人を狙う餓狼の群れであることだ。人が己の欠点から目を背けるうちに、世の中もまた本質的な悪を野放図にしてしまった。人は自分の借財(カルマ)を減じるだけでなく、社会の借財(カルマ)を減じることを求められている。

 物価が安くても消費税が重くて、買物を控える。……たとえればそれが現代のカルマ事情であるが、その消費税は引上げられる一方だ。……にもかかわらず、後回しにして負担を増やしている人のなんと多いことか。


行為の可・否を重視する。

2006年 12月 19日

 人の管理する集団では、必然的に行為の善悪が重要視される。それに対して、心霊思想は善悪よりもむしろ可・否を重視する。それは、善悪を軽視してのことではない。

  怠惰や卑怯さを持たぬ人がいるだろうか?

  悪意や敵意をまったく持たぬ人がいるだろうか?

 人の心には少なからぬ悪意が潜んでいる。……その事に敏感な霊、または、霊媒が主導するからこそ、心霊思想では人の善悪を敢えて見ようとしない。

 人には少なからぬ悪意が潜んでいるのに……にも関わらず、善悪を論じたらどうなるか? 自分の悪は庇い、他の悪は必要以上にあげつらう……互いに非難しあうか、互いの悪に眼をつぶるか。かくして人は成長しない。


宗教に善悪なし

2007年 02月 24日

 すべての宗教は、その背後に霊的な存在の働きがあるにせよ、人間の必要性から生じ、守り育てられてきた。……心霊思想だって例外ではない。

 宇宙の運行を司る、神や仏、天または大霊が主催者者であるとしても、人々がその意を汲み、理解、実行してこそ有益なものとなる。例えどれほどの至言、美語であろうと、理解はむろん、実行の時期を誤れば良い結果は生じず、良い行為とはならない。

 誰もが、人類の犯す最大の悪行と認めるであろう、戦争ですら、……いや人々が悪と認めるが故というべきか……戦争すら、正義、そして神の名の下に行われる。

 それは果たして神の意図が人々の苦悩に沈むことにあるということか? それを信じる人の心に、果たして真の神が宿るのかどうか。そしてなにより……そんな芸言《たわごと》に惑わされる人が、真に神の御許……正常なる魂の境涯に上っていくことが出来るのか?

 多くの人々は、出会いそのものに歓喜する。だが、出会いそのものはきっかけであり、始まりなのだ。人と人との出会いであれ、宗教や思想との出会いもまた始まりであって到着ではない。……到着する前にはしゃぎ過ぎて、底から出発する事を忘れてはならない。

 すばらしいものに出会ったなら、あなた自身もすばらしく変化するはずである。もしもあなたによい変化が生じなければ、……あなたが出会ったものの真価とは何か。気休め、気晴らし……その出会いのどこが間違っているのだろうか?

 偽物? 見せ掛け?……それともあなたの理解不足? または、あなたの不誠実か?

 戦争すら、人々の間では、神と正義の名の下に行われる。……誰もが霊性にしたがって生きているわけではない。多くの人は利己を本能として、己の欲するままに生きている。信仰や真理だって利用されるのだ。

 宗教そのものに善悪はない。……ただ、興味深いものとつまらぬものがあるだけである。人々が善悪を区別し、正しい行いを選んでいれば、世にいかなる宗教があろうとも、なにも恐れる必要はない。

 だが多くの人々が、己の行動を正当化するために宗教を、神を、仏を、真理を利用する。そして、宗教が悪いというのだ。……善悪の判断ができないことを恥じようともせず。

 正しい事よりも、欲する事を行う。そういう獣性の人であれば、いかなる宗教、いかなる叡智を学ぼうが、社会に害悪をもたらさぬはずがない。……言葉に、姿にだまされて、本質を見過ごしてはならない。

 問題は人なのである。その人が、何を選び、どう受け止め、何を行うのか……信仰や真理が人に理性を与えるのではなく、理性ある人が信仰や真理を心の糧として善い行いをするのである。

 善良な人は、信仰や信条にかかわらず善良である。反対に、いかなる信仰・信条であろうと、悪人が入り込まないはずもない。むしろ、心に悪を抱えているものほど強く信仰を求め、真理を学び、ただ、それを生かせずに苦悩しながら生きるのだ。または周囲を苦悩させながら。

……言葉に、衣服にだまされて、本質を見過ごしてはならない。

 宗教に善悪はない。ただ、善悪を省みない人々がいるだけなのだ。


絶対悪

2007年 05月 26日

 なるほど善悪は計りがたい。少なくともその時、自らは正しいと信じたものを他人から否定されるのは辛い、というより無意味であろう。なにしろ、自らの心以外に、何が一体善悪を断定できるというのか。――まあしかし、選んだ道が行き止まりであれば、それはきっと道を間違えたのであろう。永遠の生を生きている魂にとっては。

 そう。善悪が相対的に見えるのは、他者と意見を戦わすからである。もしも、ただ一人、我が心だけで善悪を考えるのであれば、少なくとも絶対に進むべきでない道は存在する。


善悪は相対か?

2008年 09月 20日

 善・悪なんて相対的なもの。立場が変われば善・悪も入れ替わる。

「悪人から見れば神や仏こそが悪かも知れない。」……霊感発現以前、高校生時分には、私もそんな青臭いことを考えていた。が、霊感発現後に得た霊信ではこのような考え(善悪は相対)という考え方は一笑に付された。……まあ、いろいろ事情があって今まで伏せてきたし、これからもあまり詳しく解説するつもりもないが。

・・・・・・・

『なるほど、人の考え方は十人十色である。だが、十人が十人とも正しく生きているのか?

『自分は正しい。と想い、そう主張しながらも、皆、不平不満を心に抱いている。……変ではないか。

『その想いが正しいなら、……なぜ巧く行かぬのか? 善が悪より弱いのか……。それとも想うことが正しくないのか。それでは理に添わぬのではないか。』

『考えても見よ。理に添わぬ善や正があり得ようか? ならば、実現不能な事がはたして正しいと言えようか?』

『確かに人の考え方は十人十色である。だが、理に添わぬ考えが世の中にあまりにも多くはないか。実現不能なこと、実現困難なこと、他の犠牲無くては成らぬ事、ようするに、間違ったことが多くはないか? 十人十色、だが、その中の一人として正しい者がいるのか?

『善悪はなるほど相対的ではある。善の反対が悪、悪の反対が善、なるほどその通りだ。だが、人々の心、人々の思いは、果たして無理がないか? 無理があれば、他の誰も非難しないとしても、それは成らない。成らぬものが正しいと言えようか?

『人々は、「絶対善」なるものはないというが、単に、それぞれ自身に善が無い、いや、己が無理・矛盾に囚われているのである。……己に善のない人・魂の歩む道は、永遠の苦痛以外のなんであろうや? ……その苦しみで、人々は悪夢を見る。世を支配する悪魔の存在を。

『己の無理を棚に上げて、世の中の無理難題を難ずる。……そのどこに解決の道が見られようか? 世の悪の原因を、互いに擦り付けあって……』


善悪以前に考えるべきこと

2007年 07月 19日

 心霊を学ぶと生き方も変わる。他者は知らず、私は、人の行いを善悪で判断することをしなくなった。……といえば、「かっこつけやがって!」という人が往々出る。それは生き方ばかりに注目して、「なぜ生き方が変わったか?」という、疑問を持たない者の意見である。

 善悪を論じなければ、他者を切り捨てないのか、といえばそんなことはない。向上の余地のない人に何の価値やあらん、ともいえる。すなわち、善悪を論じないとは、悪人だからダメだ、という判断ではなく、成長の余地があるか、反省の余地があるか、ということを重視する、というだけのことなのである。

 7月の東京オフ会の霊査につき、疑問を呈した参加者がいる。……むろん私の霊査が絶対とはいえない。そもそも私自身に、過ちの警戒感が無ければ霊媒(兼、審神《さにわ》)として役に立たぬといえよう。が、その疑問が何のことか判らずにいた私に、畳みかけるように質問してきたので、ようやく問題を理解した。他者の霊査を自分のことと誤解していたのである。まあ、私のページ表現方法にも問題があった、といえようが、その誤解に気づいた参加者はよほどバツが悪かったらしい。メールでいろいろと言い訳をしてくる。……私としては、「こりゃ、試練を与えられたな?」と、同情しているのにである。

 また、別な人からメールがあった。オフ会に一度参加しただけの人からである。その後、直接の接触がなかったためにどうなっていたか判らなかったが、前回の霊査は的を射たものであったらしいのは、私としても喜ばしいことである。その音信不通に対して、礼を失した旨が、およそ半分を占めるメールに、現在の悩みが綴ってあった。

 まあ、かっこつける訳じゃないが、私はその「失礼」なるものを、まるで気にしていない。(が、それは必ずしも相談者の為になるとは限らない。) つまり、私が気にしているのは、

 「私の助けでこの人の状況が好転するか、どうか、」であるから。

 なにせ、私の助けでどうにもならないなら、相手の失礼を許そうが、真剣に返辞をしようが、さしたる意味もないではないか。

 さいわい、この問題は私の得意な分野らしいし、私と質問者との相性も悪くはないらしい。が、往々、私の文章は、「難しい」と表されることが多い。……問題は、何が難しいのか、ということだ。私の表現方法が難しいのであれば、私が努力しなければなるまい。が、相談者が受け止めがたい……耳を貸すのが難しい、というのであれば、どうすればよいだろう?

 私も往々、痛感することだが、社会とは往々、自分にとって不都合なものである。……その不都合なことを受け入れずして、解決策が見えることはない。


次のステップ

2004/10/27

次のステップ

2004年 10月 26 日

 精神統一の熱心な参加者氏より、質問が届いた。……が、どうにも返事につまる。質問自体はそう難解なものではない。ただ、回答しても、腑に落ちないだろうと思う。

 もとより、地上での学びとは、論理と共に、得心する事が大切だが、頭で学ぶことの得意な者もあれば、腹で会得することの得意な者もいる。質問だけを見ると、理には知って腹が働いていないのだと予測がつく。が、それはそれ、斯様な予測は心霊家にとって必要なことだが、人々が霊媒に求める事ではない。

 必要なのは霊媒としての答えだが、それが出てこない。出てこないのは、答えがないからだ。そう思いきれずに霊媒は勤まらない。よって回答を先延ばしにするが、次の朝も、また次の朝も出てこない。

 といいながらも感じることがあって、今日に入り、ぼつり、ぼつりと書き始めてはいた。かなりの長文になりそうな憂いを纏いつつ。

 その過程でようやく気がついた。答えがないのではなく、質問が間違っているのだ。

・・・・・・・

 答えがないと言い切り、質問が悪いと言い切る。――私の姿勢を傲慢と断定する前に、もう少しお付き合い願いたい。私はすべてに答えられる等とは思っていない。また、常に私だけが正しいとも思わない。が、人間同士の会話の中でも雰囲気を読み取ることは大切なはずだ。たとえば、相手が「嫌だ!」といっても、それは果たして絶対駄目なのか、条件次第なのか、はたまた、もう一押しを期待しているのか、言葉だけで判断せずに気配を察して次のコミュニケーション手段を考えるのは、至極当たり前なことの筈。

……私もその気配を元に、苦心しているのである。

 宜しい。ならば、回答は後回しにして、一体質問のどこが間違っているのかを明らかにすべきであろう。そう思った途端に、今まで閉ざされた暗幕が開かれて言葉が流れ込んでくるのを感じる。

・・・・・・・

 手段と目的は不可離――手段のない目的は妄想、目的のない手段は不毛である。「どうすればよいか(手段)」、「どう生きればよいか(手段)」等という、問いに答えるためには、どのような人生(目的)にしたいのかが大切であるが、人は皆、生きていく過程でその目的を明らかにしていこうとしている。これでは、「こうすべきだ」「こう生きるべきだ」という回答に支配が生じる。すなわち、手段と目的は不可離であるから、手段を教えることは同時に目的をも教える……むしろ強要することに繋がるのである。

 すると、目的を明示しない、もしくは、明白な目的意識の無い人から、当座の指針を回答することは結局のところ、私等が相談者の人生の重要部分を決定することに等しいことになる。それはそもそも心霊主義の理念に反することだ。――もっとも、それほど大袈裟問題ばかりではない。往々、霊媒を頼ってくる相談者は、問題の袋小路に陥る人が大部分であり、まずはそこから出られるような智慧を与え、出た後で目的を見いださせれば済むことなのだ。……実はそれ故に、熱心に精神統一に励む人の質問・相談に答えるのが難しくもある。つまり、出口を示すレベルではなく、入り口を示すレベルの相談だからだ。

 宗教じみて浮ついた表現を選ぶなら、必要なのは答えではなく、次のステップに進むことなのである。疑問が生じるのは理解しないからというより、従来の低レベルな視点で問題を見ているからなのだ。

 ここに至れば回答は簡単だ。 ……「目先の生き方ではなく、十年、二十年先の自分を想定した生き方を思いなさい。」という所だろう。確かに彼の質問はこれが相応しい。いや、彼に限らず、このレベルに達している人がすでに何人もいる。何人もいながら、質問をせずにただ精神統一に参加しているから、退屈を感じだしているのだろうと思えなくもない。

 が、実はこの答えは空虚であることを私は理解している。具体性に欠けているのだ。次のステップに進みなさい。と言えば、相手もうれしがるだろうが、ただそれだけのことである。彼の質問が間違っているというのは、つまりここにある。現状の指導に物足りなさを感じていながら、一方で次のステップに足をかけられずにいるのだ。それはつまり、ほとんどの過程を終了しながら、ほんの一教科、二教科の単位が足りずに進級出来ないようなものなのだろう。

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 実はここに、当サイトの精神統一会が抱える構造的な問題が見て取れる。霊媒たる私は、精神統一の指導的立場にあるわけだが、といって、参加者等との間に師弟関係を持っているわけではない。いや、参加者の大部分は相応、敬意を払ってくれているのを感じてはいる。だが、私個人が、その敬意を消化しきれずにいるのだ。つまる所、先生不在で学級委員長の指導の元自習を行っているのが現在の精神統一会であるといってよい。従ってあまり強引な指導が出来ずに、参加者の中にもどかしく思うものもいるのだろう。……それが分かっているなら、時には強引な指導をすれば良さそうなものだが、事はそう単純ではない。

 そもそも、心霊における師弟関係は、他分野のすべての師弟関係よりも遙かに、霊的な要素に左右される。つまり、霊媒が気に入った相手であっても、背後霊が気に入らなければ、ろくな指導が出来ないのである。また、精神統一会の指導についても、その霊的な関係は、心霊相談よりも遙かに複雑である。統一会には専門の支配霊がいるが、その支配霊の采配を参加者と、その守護霊等が受け入れなければ真に精神統一に参加したとはいえないのである。――結局、好奇心だけで参加されても、好奇心を満たすだけで終わってしまう。

 その一方で、好奇心を全否定してしまえば、学習意欲も萎えていく。出来ることならば主催者としては、もう少し好奇心を楽しませるような精神統一会にしたいが、上述の理由から好奇心を否定せざるを得ない状況もあり、その板挟みに苦しんでいる部分も多分にある。……まあ、霊界の本音といえば、私が虚栄心に流れるのではないかと心配しているのだろう。信頼関係の甘さはお互い様だが。

 まあ、それはともかく、今後はもう少し言いにくいことも言う必要があるのだろうと再認識した。

・・・・・・・

 構造的な問題というのも解決は難しいが、指導する上でより難しく感じる要素が、心霊とは本来、非常に抽象的な問題であるということだ。正直言って、抽象的な問題は理解者を選ぶ傾向にある。つまり、理解力のある人はどんどん理解する一方で、抽象的な問題を苦手とする人はどうにも変な解釈をする傾向がある。無知はただ無知なだけで終わるが、誤った理解は偏見を拡げる傾向にある。せめて口を慎むことの大切さを知っているならばよいが、深い洞察力を持たぬものほど、必要以上に知識をひけらかしたがるものだ。……それ故に我が師は、私がHPを開催したのを知って猛反対をした。愚者と語ることは己を愚者にすることだというのだ。逃げてばかりでは向上しないが、辟易とするのも事実である。ここにもまた葛藤がある。

 さて、乱暴な表現をするなら、教えていい相手と、絶対に教えてはいけない相手がいるのだ。私はこの辺の解釈が非常に甘かったことを今、痛切に反省している。反省しすぎて今は臆病なぐらいに慎重だ。……それは何も智慧に罪があるのではない。智慧を正しく使わぬものがいるということだ。ここでイエスの言葉を引用するなら(と言っても私が知ったのは「霊訓」からであるが)――木の種類を見るのにその実を見る――すなわち、ただ見るだけでは本質を明らかに出来なくとも、その結果を見ることで本質を見抜くことが出来るということだ。

 再度脱線を許されたい。善良に生き様とする者にとって、辛い批判は「偽善者」という罵りでは無かろうか? 偽善者という罵りを無視すれば、今度は「独り善がり」と批判される。この堂々巡りは単純なだけに説得力がありげだ。が、木の種類を見るのにその実を見る、という知識のある者にとって、答えは実るまで待たねばならぬとしても、得がたい者とはいえない。すなわち、偽善者の行いならば、偽善者の自己満足を主目的とするが故に、施された者が迷惑に感じる要素が多分にあるだろう。が、相手の幸せを真に願える人の善事であるなら、多少の行き違いがあろうとも、施された者に喜び以外があろう筈がない。

 結局、後に深いが残るとしたら、そこには単純に善とは呼び得ぬ何かがあるのだ。……自分か、相手か、その両方かに。誰の助けを借りても幸せになれぬ人がいて、誰の助けも借りずに幸せになる人がいる。後は言わぬが花である。

 が、以下に相手が善良であり、また充分な理解力を持っていようが、実・結果を見るより明白な立証手段がないのであれば、学び、また、指導するのにあせりは禁物ということだ。一つの結果を確認しては次のステップに進む。そういう進み方を嫌ってはならない。

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 さて、肝腎の質問への答えである。果たして納得頂けるか否か。

『一つ一つの答えが大切なのではありません。それらは、人生で辿るべき道の一里塚でしかないのです。あなたがしっかりと目標を見据えて、迷わずにいるなら、一々目を留めるのに値するものではありません。手掛かりとは迷った時に使うもの。おろそかにしてはならないが、かといって本当に注目すべき事は他にあります。しかし、あなたがついつい目先の問題に囚われがちなのは、あなたの視野が狭いというより、むしろ別な問題を暗示致します。

 あなたが本当に欲しているのは、目先の答えではなく、表面的でわかりやすい理解者ではありますまいか? つまりあなたは、自分に味方がいることを手応え強く感じたがっているようです。いわば、真実のための手掛かりではなく、手で弄ぶための手掛かりをお求めと見えるのです。』

・ ・ ・

『気づかずに道化を演じてはいませんか? 相手を幸せにするための道化は誇りに思えましょうが、自分を寂しがらせぬ為の道化は惨めなものです。その違いは、道化を演じるという目先に囚われているものには判りません。いえ、目先に囚われているものが演じる道化は、自分を寂しがらせぬ為の道化と言い切っても良いでしょう。

 自分を幸せにするために何が必要であるのか。それを知っている者だけが、真に誇りを抱いて道化を演じられるのです。

 道化て誇りを得る者、道化て誇りを失う者、その差をもたらすのは今の自分を知るだけでなく、明日の自分を知る勇気が必要となります。』

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 この回答は質問者だけに留まらぬ事に気がつきました。霊的修行を志す人の辿る道なのでありましょう。


2004年 10月 26日

次のステップに向けて

昨日の更新「次のステップ」がきっかけとなり一通のメールが届きました。少々整理を加えてこちらでお返事致します。

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 質問の仕方

「質問をうまく立てるのは問題をよく把握出来ている必要がありますが、大抵の場合は、なにがなにやら分からないというのが実態ではないでしょうか。」

……その通りだと思います。が、問題はその次です。

 質問が充分に纏められていないのに、1,誰が答えられるのか? 2,よしんば答えを得て、それを理解できるか?

 答え難く、答えがあっても理解が難しいものを求めるのはいかなる動機か?

 答えを求めるというのはむしろ言い訳で、実は手をさしのべてくれるものが有るか否かを確認したいだけではなかろうか……。その事を当人が自覚しているのならば、回答は無駄にはなりません。しかし、当人が心底、回答を求めていると自覚し、他の可能性を斟酌できなければ……こういう方に回答することは、「なんだあいつのいう事なんてあてにならぬではないか」という評価が生じてしまいます。ここで問題なのは侮蔑が生じることではなく、無理解が間違いを産み、間違いが無意味な努力に駆り立てがちなことです。……つまり、「質問が悪かったな」と自ら気がつける人ならば、大きな間違いは起こりませんが、往々、過ちを拗らせるタイプの人を見かけます。

 道に迷ったら、走り出すのではなく、まず立ち止まるべきなのです。迷って走ればますます迷路の深みに陥るからです。

 質問が上手くできないなら、求めるのは答えであるよりも問題の整理、解法への助言であるべきなのです。

 どうにも、途中の経過を省いてでも答えを求めずに入られぬ人が多すぎます。これは日本の教育制度、ペーパーテストで人をランク分ける事の弊害でしょうか? 過程を疎かにするから応用が利かない、応用が利かないのは会得していないから。そして、会得せずに納得してしまうのは、死んだら灰になってしまう……大脳皮質に蓄えるだけで魂に届いていない……知識を大切にしている、非心霊的な価値観の罠にはまっていると言うことでもあります。

振り回されるということ

「問題点をはっきりさせること、そしてその問題点を解決するのに必要な方法をはっきりさせることが大切だと分かっていても、自分が望む方向と手段が異なっていることすら気がつかないということも結構あるのではとおもいます。」

 それは「自分に主体がない」ということです。


 コミュニケーションについて

『「試し」なのか、「あきらめよ」という信号なのか、別に方法があるということなのかという、メッセージの解読の問題もさることながら、見えないなにかに対して、こちらが一方的に授益者/披命令者ではありえないので、どうやら、この「どうしたらちゃんと意志が伝えられるのか」という問題と、発想の転換すら出来ない「思考のパターンを変えるにはどうしたらよいのか」と言うことだと思います。』

 ご自身が受け取るインスピレーションの扱い方という意味で捉えますと、これは三つに分解する必要のある重要な部分です。

1,メッセージの解読の問題

 一人の人間が大衆に向かって一つの疑問を投げかけたとします。すると答えは一つに纏まることは希で、結局、「挑戦を続けよ」という人もいれば、「無駄だやめろ」という人も、また、「別な方法がある」という人もいることでしょう。必要なのは解読ではなく、ふるい分けなのです。ふるい分けせずに解読しようとするから混乱します。

2、「どうしたらちゃんと意志が伝えられるのか」

 コミュニケーションというのは、当事者双方と手段の二つの観点に立って考えなければ成りません。……意念の伝達という観点からいうと、人間は肉体との関わりと同時に、生理的欲望が漲る社会の中にあって、雑音源のまっただ中にあるようなものです。この状況下で意念の交流を行うことは、大騒音の真ん中で耳を澄ませる必要があるわけです。一方、死者達は、騒音から身を離して信号を選り分けることが出来ます。

 つまり、死者達には案外しっかりと通信が送られているのに対して、人間はその返事を受け取ることにとても難があります。

3,思考パターンを変えるにはどうすればいいか

 まともな霊媒(イヤミの意図はありません。以下への伏線です)は、気安く「気持ちを切り替えなさい」と助言します。が、特にマイヤースの「永遠の大道」などを読むと、「気持ちを切り替えよ」という助言が心霊的に見て案外ナンセンスであることに気が付きます。

 つまり、人間にとっての思考とは、霊たちから見て、強度と感触をもっている糸のようだというのです。わかりやすい例でいうと、空腹や、性欲を切り替えることの困難さを考えてみてください。魂と肉体は繋がり、繋がった肉体からひっきりなしに信号が寄せられるのです。その状態で気持ちを切り替えるというのは、これらの糸(欲望)の強度に見合うだけの切断手段が必要となります。これは単純な事例でありますが、人間の動機というのがいかに多くの糸で様々な物事と結びつけられているかを知れば、思考パターンを変えることが、まさにナンセンスに思えます。そして、霊媒が優秀と評価されていく過程に置いて、これらの糸を断ち切っていく必要があるが故に……現世で、この糸を断ち切る苦労を知らない霊媒は、気軽に切り替えろというが、そんなに簡単なものではないのです。むしろとても乱暴なことというべきでしょう。

 むろん、思慮深い助言を与える、霊・霊媒もいるのです。その助言とは、「争うのではなく流すようにせよ」……「変えようとせず無視せよというのです。」これはとても重要なことです。これが出来ない人は何年、精神統一をしても意味がありません。……勘違いならばいざ知らず、故意に悪しきことをしている人に、その過ちを指摘したらどうなるか? そこに闘争心が生じ、闘争心が新たな因縁を生じて縁を切りがたくなってしまいます。……簡単に言えば拗れるということです。拗れたものを無理にほぐそうとすればますます拗れます。むしろ放置しておいた方が自然に解けていきやすいのです。

 同時に、向上心の強い人が往々陥る過ちがここにあります。欠点を直そうとして無理をするからあちこちにひずみが出てしまう。本来一枚の写真や絵であったものをバラバラにして作るジグソーパズルならば必ずすべてがぴたりとあてはまるかもしれませんが、人間の個性というのは必ずしもぴたりとはあてはまりません。多少の隙間はむしろ当たり前だし、その隙間があるからこそ、成長しても無理が生じないという一面もあります。神経質に欠点を直すよりも全体として長所が多い状態を維持することが大切なのに、小さい部分に拘って大局を失う場合がよく見られます。

○『変えようとすることに反対する人々が居ること』

 霊格を絶対値で計るか、相対値で計るかでこの差が生じます。広く世界と比べるなら相対的な計り方も絶対値に近づきますが、往々、視野の狭い人は自分の周囲だけで比べて安心してしまいます。「世界水準は知らないが、おらが村ではおらが大将。それで充分」……このような人は確かに扱いにくい。しかし、地上が霊性向上/魂の修行の場で或る以上、未熟な霊魂が多いことは避けがたいというより、避けることはナンセンスですら有ります。……残念ながらこれは避けがたいことです。後は上手に生きていくしか有りません。

○『ある人を仕組みの中に組み入れてしまう人もいます』

 勉強はまず、真似ることから始まるものです。基礎を身につけるまでは、面倒でもまねごとを繰り返すことが大切ですし、そこからはみ出ようとする人は、枠に嵌めることもよく見られることであります。そして手段に善悪があるのではなく、目的に善悪があるのだ、と考えるなら、枠に嵌めることは必ずしも悪いこととは判断されておりません。そもそも人は社会の中でひしめき合って暮らしているのです。暗黙の枠……他人が犯してはならぬ範囲を身につけて、お互いに気持ちよく暮らせるようになるための躾が必要といえるでしょう。

 自由意志や自主性が大切であるといっても、不適切な動機や目的は、自ずと淘汰されていきます。人々に迷惑を掛ければ、人々から束縛されるのも摂理の一部です。

○質問の纏め?

『平たく言えば、霊的な問題と教育というチューニングの状況では、受信も発信も本人の思考パターンも異常な状態になることもあるのではないのか、だとすれば、生きて肉体を持っている側が自発的に流れを変えようとすることが、見えない存在を変えることになるのではないのか素朴な疑問があります。』

1, 木を見るのにその実を見る……異常な状態になるのだとしたら、その過程がそもそも不適切であることを思うべきでしょう。

2, 庇護者・背後の霊たちの間には相互関係があります。互いに尊敬しあえる相互関係が樹立できないのであれば、その過程には何か不適切なものがあるのです。


○回答・総論

 最初、私もずいぶんととまどいましたが、霊的なコミュニケーションというのは、実は複数のチャンネルで同時に行われる一方で、意識に上がるのは(おそらく)たった一つという特徴があります。得心を与えた意念や、愛情を受け止めた意念と、言語的な意念とが全く別々であることも良くあります。会話が混信するのならば意味がわかりにくくなるだけでしょうが、意念の場合、本文と映像と署名とが別々なものになることも良くあります。つまり、一つに思えて実は混信の結果であり、混信していることに気が付かないから間違った理解に至ることが多いのです。


●メール送信者の方へ

 いろいろな問題が一本のメールに盛り込まれていたために、私の受け取り方に勘違いがないとは申せません。設問間違いを見つけましたらご連絡下さい。


理想的な精神統一

2004/10/23

2004年 10月 22日


 今まで私もあまり積極的に説明してこなかった、非常に興味深い命題であります。精神統一の問題については、これはもう一生の……というより、永遠の命題でありまして、現段階でこれが究極の……というものは表現し得ませんが、現在の私のベストを尽くしてみます。

  発想手法

 まず第一に考えるべきは、この問題をどう考察していくかということです。つまり発想法には大きく分けて二通り有り、下から積み上げていくか、上から分析していくか、どちらを選ぶかですが、ここは霊媒的に高飛車な態度……すなわち、上から分析を深めていく方法をとることにいたします。

  精神統一の定義

 次の問題は、精神統一とは何か? ということです。下から積み上げていくならば、より理想的な心の追求ということになりますが、上から見た場合は、むしろ、感化を与えやすい心のあり方というべきでしょう。

 以前私は、心霊主義というのは「舗装された崖のようなもの」だ、と表現致しました。急な坂道は頂上への近道、しかし、あまり急な坂、極端に急な坂ならば歩いて昇るわけには参りません。引き上げてもらわざるを得ないのが崖、その崖がさらには舗装されているというのですから念の入った話です。つまりは、どこまでも助けられること、上から引き上げられることを前提にした霊性の向上手段が心霊主義であるということです。

 この説明法はどうも、落ちる事への恐怖ばかりをかき立てたのかも知れません。しかし、引き上げてくれるものとの意識が合わない限り、心霊主義は単なる道徳訓と何ら代りがないのです。

 つまる所、心霊主義的な修行というのは、単に上がりたいと思うものだけの修行ではなく、それを引き上げようとするものとの息を合わせることが大切となります。

 したがって、その極意は、口伝的……最重要な知恵だが、言葉として聞くと実にありふれた説明……に言うなら、「しゃべっているから孤独になる。聞くことが大切なのだ。」となります。

  精神統一の必要性

 人間とは肉体をまとった霊魂だというのが心霊論者(心霊主義やスピリチュアリズムなど、心霊肯定論全般の意見)の主張であります。すると、すべての人に霊感が無ければならぬ事になります。すべての霊魂には他の霊魂、もちろん死者の霊魂とも交霊する能力が備わっているからこそ、死後の世界も成立し得るのですから。

 では、なぜすべての人が霊感を発揮出来ないのか……肉体の影響が強すぎて、霊魂の感覚がかき消されているからなのです。(これを勘違いしている人が多い。霊感を得るために苦行をしても、場合によってはますます身体が鍛えられて霊感が鈍くなることが起こり得る。そもそも滝行などは、霊感を得るためというより無駄な感応を止めるために行うものだ)

 ですから、霊感の強い人には病的な体質のものが多いのはむしろ当たり前ですらあります。そもそも肉体邸な感覚が鈍い方が、霊的な感覚を発揮しやすいのですから、病的・短命な霊媒が多いのはむしろ自然な事といえます。それに気がつかずに神に選ばれた存在であると自負するのはナンセンスであり、一得一失、損得のバランスはしっかり取れていて、ただ、好き嫌いがあるだけのことです。

 逆に霊感を得るのが簡単というのは、要するに死なない程度に身体を弱らせればいいわけで、ただしこのやり方の場合、往々、低級霊ほど憑依されやすいというかなり無意味な努力となります。

 また、いわゆる金縛りといった、身体は寝ているが意識が目覚めている状況は、肉体の影響が比較的少ないという点で、霊感を働かせるのには比較的良い状況です。ただ、往々結果が恐怖しかもたらさないのは、要するに心霊知識の欠如と同時に、積善をおろそかにしていることが重大な要因となります。すなわち、良き霊が尋ねてきてくれなければ、せっかく良い交霊状態になっても意味が無く、意味がない状態で霊と出会えば、恐れることに繋がりかねないわけです。

 死後には死後の精神統一のメリットもありますが、地上での精神統一と比べて、肉体をなだめるという最大の難事が無くているわけですから、死後の精神統一の法がよほど楽なのですが、結局、地上において、精神統一をする意義というと、良い感化を受けやすい精神状態と言うより、むしろ、自身の心を整理する……時間軸・記憶の整理というより平行軸・自身が心と感じている様々な意識の働きを分類・分別することこそが大切になるのだと思われます。

  精神統一の巧拙を決めるもの

 結果だけ見れば、霊媒は精神統一がうまくて当たり前と思われがちです。しかしそれは大きな誤解です。そもそも敏感(むしろ過敏)な人と鈍感な人とではどちらが大人しくしていられるものでしょうか?

 先日、友人と遠出をして、帰りに温泉に立ち寄った時のこと。友人はまあ、サウナなどで気持ちよさそうに精神統一しているのに対して、私は、拾ってしまったお客様の応対に苦労をしていました。単純に心を静めて座っているだけならば、敏感な人ほど苦労するのは当たり前、その意味において、霊媒はむしろ精神統一が苦手だと考えるべきでしょう。精神統一するよりも憑依される方が簡単すぎるのです。(「出廬」中の出口王仁三郎氏の言動を参照。氏は審神するつもりが、寄り代より先に神憑ってしまう)

 さて、もう一つ、精神統一の巧拙を決める要素があります。

 私自身も他の霊媒の指導下に精神統一をする事があります。その経験から言っても、主催する霊媒と、精神統一の容易さとは相関関係があります。要するに、上手な指導者の元でなら容易く精神統一出来るのに対して、下手な指導者の元だとなかなかうまく統一出来ないものなのですね。

 結局のところ、精神統一というのは、個人の修行のように見えて、その実、その人と、その人を指導する霊との共同作業なのです。実はこれ、死者も変わりません。幽界のものならば霊界の指導下に精神統一を行い、霊界のものならば神界(真界)の元の指導下に精神統一を行います。そしてそこでは、自分の境涯以上の叡智に触れる大きなチャンスであるわけです。

 実を言えば、霊媒は精神統一がうまいのではなく、精神統一の誘導がうまい背後霊を持っているのが霊媒なのです。また、時間や場所を決めることが大切というのは、指導してくれる霊との都合を合わせるために必要なんです。

 また、精神統一が苦手という人は、なるほど、自我・名誉欲や権力欲が強い人の場合もありますが、実は霊感が強い、過敏であるという場合もあります。すると問題なのは、精神統一の理論武装よりもむしろ、自身の欲望に見合った積善が大切だったりするのですね。

 仏典から言葉を借りると、「福徳と功徳とは違う。積善して福徳(現世利益)を求めるのは修行にならぬ。」という訳なのです。積善の報酬としては、より深い精神統一にお導き下さい……と願うなら、一度身に付いた才能として何度でもつかえるけれど、現世利益というのは一度使ったらそれでチャラなんです。

  精神統一を見る視点

 精神統一というのは、単にうまい・下手、という一つのパラメーター(変数)だけで考えてはならず、体質的・気質的、また祖霊(血縁的)・指導霊(職能的)な要素など様々なものが絡み合っています。下手であるということはなるほど改善の余地があるわけですが、一つに偏ることで解決はせず、真の解決は、実に、すべてのパラメーターに渡ってまんべんなく向上していくことにあるのですね。

 やぶ蛇的ではありますが、ようは答えよりも、せめて一度でよいから、より良い精神統一を味合わせろ……というのがよほど有益な質問(?)であったりします。むろん、問われるまでもなく、その実現手段を模索しつつあるわけですが。


質疑

2004/10/21

2004年 10月 20日


一.死の直後の退屈。

Q 『死の直後は、精神統一などの修行ばかりで死者は退屈する?』

 死の直後に退屈出来るのはかなりの贅沢――大抵の死者は、生前の執着……死んだために継続出来なくなった様々なことを諦めきれずに泣きわめく。この状態を脱するのに数十年、数百年懸かっても何ら不思議ではない。

 霊界・幽界行脚はナンセンス――死後の世界は想念の世界であり、想念の世界というのは、他人を嫌えばそこに壁が生じたりする世界のこと。旺盛な好奇心には数々の不思議な光景が現れるが、それは外にある風景ではなく、あくまでも自己の内面にある風景である。といって、悟りじみた心根を持てば、殺風景な世界にぽつんと一人あることになる。

 真の旅行とは、霊界から地上を透視出来るようになったものが地上を観察して歩くか、他人の想念に触れて歩くかしかあり得ない。実をいえば、死の直後に出歩ける旅先などというのは、幼児が親に絵本を読んでもらうのと何ら代りのないことなのだ。その当時は充分に楽しめようが、修行が進むにつれて、赤面する体験ではある。

 まあ、地上で大人になっても絵本を好むロマンチストもいるから、強ち無意味ともいえぬが。

二.心境

Q 『理想的な精神統一にある魂の精神?状態と、睡眠中に意識だけが覚醒していることを自覚している際の魂の状態、この二つの違い。』

……時間切れ、明日に追記する予定

三.魂の休息状態

Q 『魂の休息状態って、帰幽した後だけ? 魂にまで影響してしまいそうなストレスや疲労を日夜せっせと貯め込む我々肉付現世人にも、身体や意識の睡眠のほか、そういふ魂の休息状態はないんでせうか。ふつーの(身体や意識の)睡眠で、大抵は十分なんでせうか。』

 魂に疲労はない――この辺は、説明が難しいのですが、「無い」というのが一般的な意見です。これはコンピュータの比喩で考えるとわかりやすいかも知れません。……あるレベル以上の処理をさせると、全体のスピードが遅くなるだけ。……無理をしようがないのです。また、強く思えば妄想にずれ込んでしまう。……地上の物品を引き寄せようと強く念じても、目の前に現れた妄想に騙されてしまう。結局、魂を疲れさせるような事というのはあり得ないのです。

 仮に、魂が無理をして反応がきわめて鈍くなっていたとしても、それは単に時間的な感覚がずれているだけのことで、休養しているわけではありません。ただ単に大変な処理に時間を取られているだけです。

 人間とは、肉体+魂という定義を思い浮かべて下さい。肉体にも魂にも感覚が備わっていて複合的である……霊感が強い人とは、肉体感覚と霊的感覚の比率がたとえば、10:3等となっている。反対に、いわゆる霊感のない人はこの比率が100:1等となっている。

 ではこの状態で突然死んだらどうなるでしょう?

 霊感の強い人も、感覚は半分以下に減り、霊感の自覚のない人など、全く盲目…難聴状態に陥ってしまう……これは霊的な才能の如何というよりも、今まであって当たり前だったものが突然消えて無くなったというだけで、慣れれば自ずと取り戻されるのですが……突然なくなれば往々パニックに陥り、パニックは往々人を無能にしますから、あわてているが故にますます、霊的な感覚に気がつかないという悪循環をもたらします。

 さて、魂に睡眠がないというのは、疲労回復のための睡眠がないということであり、退屈するとノートパソコンのスリープモードのように時間的感覚がとても鈍くなることがあります。結局、生前依存していた感覚がなくなるために、退屈して休眠状態にはいることがあるわけです。

 しかし、霊的感覚に気がつけば、周囲の感化を受けやすくなり、休眠状態に陥ることは無くなっていきます。

四.日常の祈りについて

Q 「日常ちゃめしの無事の感謝を祈る場合と、ある目的(願い)を伝えるために祈る場合の違い。祈る相手の設定や祈り方。」

 興味深いことを伝えられました。

『志操教育の一環として、祈りは奨励されているが、祈りにさして意味はない。人々が日常の様々なことを一々感謝するとしても、それに何の意味があろうか?

『……電車の切符を買い与えたことに、一々感謝されても、結局のその切符を使わなければガッカリされる。問題は日常の感謝ではなく、その人生で何を成し遂げるかだ……

『まして、生きている人間の祈りなど、霊的意味が希薄で犬猫の寝言と大差がない。人の願望などというのは、単に祈りの言葉を聞くだけでなく、その人の人生すべてから見た必然性を推し量らなければ受け止められぬもの。したがって、神々と呼ばれているものから見れば、耳を貸さなくもないし、迷惑がりもしないが、さして重要なものとは思われない。その人の守護霊が整理したものでなければ、決して重要視されることはない。

『結局、生きている人間が祈るというのは、意志を神仏に伝えるというより、霊的なコミュニケーションの練習である。そして、人々のコミュニケーションの練習台として、もっとも好ましいのはその守護霊である。したがって、誰に祈るのかと問われたら、守護霊なり、祖霊などの、天と地の中継ぎ役の霊を対象にするがよい。 』

 ……警察に被害届を出すのにも、一般人が相談に行くのと、弁護士に訴状を用意してもらうのとでは扱いが全然違うのと同様だというわけです。

五 守護霊について

Q『(日本以外で)欧米などでも人にはそれぞれ特定の守護霊がつくのでしょうか? また、(人間以外の)動物などではどうなのでしょうか?』

 守護霊は自然則によってある。――誰かが悩んでいたとします。それに気がついた人の中には、手助けを申し出る人もいるでしょう。他に施す/奉仕する事に喜びを感じる場合もあるでしょうし、教えることから学ぶことがあることを知っている場合もあるでしょう。その他、様々な事情もあるでしょうが、要するに、手を貸せる者が、手を必要とする者に手を貸すのは自然な流れであって、特別強いられなくとも、また、法律を決めなくても、守護霊のなり手はなくなりません。

 ただし、集団が経験(ノウハウ)を蓄積するにつれて、効率の良い手法が見いだされ、ただの親切から、より洗練されたスタイルへと進化しています。とはいえ、全地球的なレベルで、完全に共通のシステムとは言い難く、要するに、「守護霊」『ガーディアン・スピリット』などと、呼び名の意味する所が似ていても、必ずしも同等とは呼びがたいものです。

 動物は群れ単位。――守護霊の成立が自然発生的なのと同様、すべての生き物は、いや風景でさえも、それを守護する霊が存在します。いわゆる自然の造形などと呼ばれるものは、往々、長い年月の間に僅かな影響力を少しずつ及ぼして、作り上げている場合もあります。

 また、「●●の主」等と呼ばれる、特別に長生きした動物などは、守護や加護等というレベルを通り越して、道楽的に肩入れしている霊がいる場合があります。つまり霊魂(神霊)もペットを飼う事があるのです。

 さて、守護霊は自然則に寄ってあるわけですが、当然、その能力に見合った仕事でなければ退屈して修行になりません。したがって、全くの趣味的に、「●●の主」とか、「自然の造形美」を磨くとか、一つのものに大きく肩入れする場合もありますが、基本的には集団に保護を与えることで能力とのバランスを保ちます。

※ 守護霊というと一方的に保護を与えて自らは何も求めないストイックな存在を想像する方が多いかも知れません。しかし、封建時代に存在した守護職と同様……保護を与えるということは、指揮・命令権をもっていると考えるべきです。たとえば、あなたがトラックにひかれそうになったとします。トラックをそらすのと、あなたに避けよと命じるのとどちらがより効果的でしょうか? 危険なことをしても助けてくれる等という虫の良いのが守護霊ではなく、危険を避けるように指導するのが守護霊である……そういう観点を忘れると、守護霊はその能力を発揮出来ないのでご注意を。

六.随伴霊

Q 「随伴霊が自動車の運転に介入してくるのはどういう状況のときでしょうか?」

 随伴霊とは、修行目的で人に懸かる霊……有り体に言えば、守護霊が暗黙の了承を与えた低級・憑依霊ですが、身体を使う作業一般に対して練習のチャンスを常に窺っています。

 基本的に難易度の低い時――危険な局面では守護霊達も厳重に見回るので、手を出す余地がない。随伴霊がチャンスを窺うのは、手を出しても怒られそうにない、難易度の低い時で、つまらないミスが連発したりするのは、随伴霊がのさばっている時です。
 随伴霊の影響を避けるためには、まず、
 練習のチャンスを充分に与えること……つまり、肉体体な修練は欠かさないこと、
 また、重要な局面に望む前には、自分に気合いをかけて、随伴霊の出る幕でないことを明示することが大切でしょう。


霊査事例: 2004年10月20日

2004/10/20

 以下に紹介するのは、精神統一の練習中に得た、参加者・個人あての代表的な霊査です。当然、対象となる相手によって正反対の霊査も出てくる事でしょう。  以下に紹介するのは、精神統一の練習中に得た、参加者・個人あての霊査です。当然、対象となる相手によって正反対の霊査も出てくる事でしょう。


ある天気談義を聞く。

『最近、台風がすごいですよね……』

『はっ、地球がおかしいんだ!』

・・・

 別に自転に狂いがあるわけで無し、太陽の活動が特におかしいわけでもない。人間が環境をおかしくしているとは思わないのだろうか? まあ、他人の批判ばかりしている人なので、それらしい回答ではあります。

 対人問題でも、健康問題でも、悪い結果が出た時、その間に変化があったものは何かを思いめぐらせてみると、往々、原因は自分にあることに気がつくもの。自分をかばおうとするから……事実をゆがめ、結局、ゆがめた事実に自分が騙されたりするのです。

 地球が悪くての異常気象ならば出来ることはないし、相手が悪い対人トラブルならばやはりお手上げです。そういうこともあるかも知れないが……本当は自分に非があるならば、他人を責めている間にどんどん自分の幸せが失われていくことに気がつくべきでしょうね。

 事例1

  •  「満足のいく仕事が出来た」と見えます。が、自分の満足を理解してくれる人はなかなかいないもの。気がついて貰えなからといって腐るよりも、共に喜んでくれる人がどれほど嬉しいものかに気がつくべきです。
  •  おめでとうといわれるのは嬉しいが、おめでとうといってあげられるのはどれほどの力となるか。
  •  実力を眠らせておかぬ事です。

 事例2

  •  ようやく、表に目を向け始めましたね。いえ、元々あなたの目が外に向いているのは確かですが、外を見たら外だけ、内を見たら内だけ、地上の生の楽しさは、外と内の連関なのです。

 事例3

  •  手は動いているけれど、心が動いていません。 嫌だという言葉を飲み込みながら、でも嫌だと精一杯に表現してみたりする。 あなたが本当に嫌がっているのは、嫌なことよりも、「嫌だ!」と言うこと。嫌だといわずに済まない状況を嫌だと感じているから、状況が複雑になっていく。 嫌だといってみたらどうです? 駄目だったら、出ていけばいい。何事も。最初からでていく事を考えるのではなく、最悪出ていくこととして、何が出来るかを考えてみましょう。 いままで、色々やりたいことがあり、でも、手を出せずに来た。で、今は手を出して『やっぱりつまらないじゃない』といえなくなっている。 闇雲に否定をすることが大切なのではなく、選んで、拒絶出来る自由が大切なんです。

 事例4

  •  大切なのは生き方を変えることではありません。あなたの心が感じられるものをもっともっと増やすことです。 端的に言えば、感動のチャンスを増やすこと。 あなたはよいものを見抜けるし、すごいすごいと褒められる人ですが、絶句するような感動の経験がありません。
  •  中道……いつも精一杯に生きているから、微細なことを踏みつけて感動のチャンスをフイにしています。

 事例5

  •  会社に殉じる必要はありません。両親に殉じる必要もありません。 共に生きるために知恵は出しても、共に滅びるために覚悟を決めるのは間違っています。誤った道を選ぶ自由があっても、他も巻き込むのは人として間違っています。
  •  殺人者は誰もが非難するが……災難は悪意よりも未熟さ、不運よりも要領の悪さが招くもの。未熟・不器用な人が迷惑であることは誰も非難しないし、逃げだそうとすると後ろ指をさされるのですよね。でも、安全と見栄とどちらが大切でしょうか?

 事例6

  •  のど元過ぎれば熱さを忘れる。どんなに強く握りしめていても、あなたが捕まえておけるものだけが、あなたのものなのです。 では一体、あなたは何を捕まえておけるのでしょうか? 金、名誉、家族&愛、知恵、人生?……そして自分? どんなに必死になろうとも、立ち去るものは立ち去りますし、失われるものは失われていきます。ただ、神があなたに預けたものだけが、あなたが持ち続けることの出来るものです。努力するだけでは引き留められないから、日常に、心を働かせて、神の意志を感じ取るようになさることです。必死に掴んでいても集中力は長続きしないもの。そっと、しかし、必要な時にはしっかりと握ることが大切なのです。

忙しい!!

2004/10/18

2004年 10月 17日


 ああ忙しい。……しかし、忙しいというのは別段有能である証でもなければ、人気者である証でもない。ただ、周囲に振り回されている哀れなものがいるだけのことだ。

 無理な努力で事態を更に拗らせるよりも、思い悩む事を止め、静養して事に当るほうが有意義であろう。というわけで、いくつかメールの返事を書いたり、写真のアップロードもしなければならないが、今日はもう休ませて頂きます。

 ではお休みなさい。


生の意義をどう捉えるか

2004/10/17

04年 10月 17日


 心霊問題を迷信と決めつける人が多いことは、それらの人々の偏見とばかりはいえません。人々は往々、その原理が理解出来ない事柄を、超常であるとか、神仏・心霊の働きにその説明を求めがちだからです。

 その一方で、いわゆる良識的、合理的、科学的な知恵が、人々の疑問に充分に応えられるとも限りません。特に心霊家が注目するのは、人々の不公平感についてです。

 ……人はどこから来て、どこに行くのか?

 つまり、人が生まれてくる前は無であるなら……才能や生まれた境遇の不公平をどう考えたらよいのでしょうか?

 また人の死後も無であるなら……死ぬまで楽しく暮らせるのならばいざ知らず、不幸に耐えるためだけに生きることにいかなる意義があるのでしょうか?

 安楽・快楽を提供出来ない無神論や唯物論が、いなかる生き甲斐を人々に提示し得るのかを私は理解出来ません。むろん、有神論や、心霊主義(唯識論とは異なる)がすべての人々に納得や同意を戴けるとも考えておりません。ただ、「 苦労には意義があり、死は終わりを意味しない」という心霊主義が、私の生き方であるというだけのことです。

 人々は、無神論や唯物論だけでは説明のつかない答えを求めていて、答えに至る過程で往々陥る過ちが迷信と呼ばれるのであって、心霊肯定論が迷信なのでもなく、また、心霊否定論が偏見なのでもなく、ただ、極端に流れて理性を失った人に過ちがあるのだと思うべきでしょう。


あわただしい先祖供養

2004/10/15

 霊媒の常として、私も先祖供養の大切さを認識しています。しかし、あまりそれを吹聴したりはしません。

 そもそも人には本音と建前があって当たり前で、本音と建前の調和が取れている人など滅多に見ることはありません。そして、 理屈というのは建前を強めるだけで、なかなか本音に滲みていかないのが普通です

 なのに、先祖供養の大切さを解いた所で、果たして本音に滲みていくでしょうか? 建前ばかりが強くなって、本音がますます遠のきはしないでしょうか?

 ですから思います。心霊家として、私は先祖供養が大切だと信じております。ですから心霊家として、先祖供養の大切さを、理屈ではなく体感的に感じ取れるために何が必要かを常々考えております。

……等といって、私は別段、安易な大道を歩めるわけでもありません。むしろ失敗談の方が多いことでしょう。


 死者には日常的な義務がないから、日時の移り変わりに疎くなる。また、帰幽後しばらくは、精神統一ばかりさせられて、退屈に流れ勝ちだ……という話を、数年前に亡くなった叔母から聞き、定期的に死者に祈ることが、使者達にとってどれほど励みになるかを知らされることになりました。

 そして今朝、目が覚めて守護霊等に挨拶をした所――礼儀というより今日も無事に過ごさせろという恫喝の意味の方が強い――守護霊が気を効かせて、叔母にも挨拶を送りました。……が、勤め人の朝は忙しいもの。目が覚めて、頭が覚醒して行くにつれて、「ああ!!! 遅刻する~~!!!」などと大騒ぎを始める出社前の一時、私の祈りの念にたまたま、関心を引かれた叔母は、そのあわただしい念にハラハラ ドキドキ。『もう朝には祈りを送って寄こすな。とても見てられない』と、懇願して寄こす始末。

……祈ればよいと言うものではないのです。祈りの質も大切なこと。もっとも、誰かに頼って帰幽後の生活に充実を得ようというのが間違いだろうと思いますが。

お知らせBy老神いさお。

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みにみにぶろぐ
  • ・原発全廃
  • ・その後悔の帳尻が合う生き方をしているか?
  • ・我が国だけが原子力を全廃しても、隣国が原子力発電を推進すれば、危険性は無くならない。
  • ・生きるとは生むことである。
  • ・いろいろなる不平不満はあるだろう。だが人は歩んでいる。
  • ・与えられる事を当たり前に思っている者が飢える。
  • ・なぜ、争うのだろう? 事態はただ現実への妥協を求めているだけなのに。
  • ・ 見せられると信じたくなる
  • ・豊かな者は足りぬものに気が付かず、知りたる者は、知らざることに気が付かぬ。……
  • ・ 心に不満が生じるのは、あなたが焦っている証。もう少しゆっくりと生きなさい。

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