‘2004/09’ カテゴリーのアーカイブ

一得一失・努力の意義

2004/09/07

一得一失

2004年 09月 06日

 以前、飛び入りの掲示板投稿者が「なんで努力なんてしなければいけないんだ!」と、噛み付くように書き込んでいった事があります。さらには常連の何人かも迎合して……ナンセンスです。私は「努力の大切さ」などを主張した事がないのですから。したければすればいいし、したくなければしなければいい。……

 一得一失。何かを得るためには代償が必要で、代償が惜しければ求めなければいい。もっともこれは私のポリシーであって、「努力が嫌だ!」という言葉への返答ではありません。

 努力とは楽しいものなのです。――努力に実績が伴うならば!! 報われる努力ならば苦しみを自覚するよりも先に、その成果に目を奪われて、寝食を忘れてしまうのが人間の本質なのです。

 では、努力が苦しいと叫ぶ人は、一体何をやっているのでしょうか? 私の目には報われぬ事に血眼になっている用にしか見えないのです。

 たとえば……今は温室栽培やら、輸入品やらで、季節感もうすれてきましたが……真冬にスイカを食べるならば、夏に買うよりも相当に割高になりますよね。時期が来れば触れずとも落ちるようなチャンスが、時期が合わなければ砂に水を蒔くような不毛な努力を強いられる事もあります。

 努力する……努力が嫌だ その二者択一の前に、考えるべき事があると思うのですが……努力のする人は多いが、努力の意義を知っている人はあまりに少ないと思います。


努力が嫌だ!

2004年 12月 21日

「努力が嫌だ、努力せずに生きたい」とか「勉強なんてしたくない」という人を往々、見掛けます。そういう人が最期にたどり着くのが心霊サイトだったりするわけで、私もその扱いには苦慮せざるを得ません。乱暴にも、 『努力や勉強は大切だ!』と言い切りたい気持ちもあります。では……

努力や勉強に嫌気がさしている人は駄目な人なのでしょうか? 

そういう言い方では社会のゴミばかりが増えやしませんか?

・・・・・・・

 私が繰り返し指摘するのは、「努力や勉強が辛い、と思えるのは、手段や方法を間違っているのだ」ということです。そもそも、生きていく上で、努力や勉強は欠かせません。それをせずに生きるのには無理があるし、よしんば出来たとしたら今度は必ず退屈さに襲われることでしょう。いや、退屈せぬ程度には努力や勉強をする人もなかなか多いようですが、そういう人々も、親の死後や、自分の老後について大きな不安を抱えていることが多いようです。……すると、努力や勉強で苦しむか、不安に戦くか、その間で揺れ動いて苦しみながら生き続けている場合が多いということです。

 (「退屈でもいいから楽をさせろ!」 といわれて呆れたことがあるが、そういう屁理屈はお断り)

 つまり、「努力や勉強をしたくない」という悩み事には解決策はあり得ず、それを助けようとする神仏…霊媒もいないということです。いえ、ご自分で霊感をお持ちの方ならば、おそらく努力や勉強をしなくて済むための沢山の霊的メッセージを受信することが出来ます。それも、あまりにも多すぎて、それこそ、気も狂わんばかりの状況に追い込まれかねません。そんな思いをしてでも楽が出来るならよい(?)かも知れませんが、実現の可能性がない与太話ばかりだから困るわけです。

 努力や勉強に嫌気がさしている……だから努力や勉強を止めたい……という発想はナンセンスといわざるを得ません。

 むろん、安易で簡便なアイデアの持ち合わせはありませんが、具体的な解決の可能性のあるのは、苦にならぬ、努力や勉強法を会得することでありましょう。ああ、もっとも、受験生に対して、もっとランクを落とせば……とは言い難いものですが。


溺れる人に泳ぎを教える

2004/09/07

04年 09月 06日


 当サイトは、『人助けサイト』ではありません。強いて分類するなら、『自己啓発』のためのサイトです。

 われながら滑稽な気もいたしますが、『溺れる人を見て助ける』のではなく、『溺れている人に泳ぎを教える』サイトです。

 溺れている人にしてみれば、「今から泳ぎ方を覚えろ!」と言われたら、「何を悠長な!!」と怒り出す人も多いものです。まあ、同情致します。しかし、なぜ溺れたのでしょうか?

 水に落ちたから? 突き落とされたから? 波に攫われたから?……事情は様々にある事でしょうが、要するには泳げないから溺れるのです。そして、せっかく(?)溺れたのなら泳ぎを覚えて岸に這い上がれたなら人生に自信もつくでしょうが、人に助けられて岸に上がっても惨めなだけではありませんか。もっとも、助けられた事への感謝の念で胸が一杯になって惨めさなど忘れているでしょうが、そうしているうちにまた、水に落ちたらどうするのでしょう。何度も何度も助けられて、それでも泳ぎを覚えられず……

・・・・・・・

 まあ、霊媒というのは人生一般よろず相談的な扱われ方もいたしますが、基本的に霊的な相談が主な分野と見なせましょう。さて、霊障的な災難に遭った人は、誰がどういおうが、死後の個性存続を確信(もしくは盲信・妄信)いたします。

 上記の比喩でいうなら、水に落ちるとは霊界と関わる事となります。地上において死者と関わるのに助けて貰うばかりの人が、死んだら誰に助けて貰うのでしょうか?

 守護霊? 祖先の霊? 神様仏様天使様??? その霊達は、なぜ今のあなたを助けてくれないのでしょうか?

・・・・・・・

 水に落ちて溺れる……大切なのは水に落ちないようにする事なのか、それとも泳ぎを覚える事なのか。どちらだと考えますか?

 当サイトは、溺れる人に泳ぎを教える事を目的としています。むろん、溺れる前に泳ぎを覚える方がよほど良いかとも思うのですが……比喩がかえって惑わす事もある……心の迷いや霊的な悩みは、それが悲惨な結果を招くまでは、なかなか気がつかないものなのです。


霊能力と霊格は異なる

2004/09/07

2004年 09月 08日


 心霊の現場、即ち霊媒を通じた心霊実験などにおいては『霊覚(霊能力)と霊格は異なる』と見なします。ズバズバと物事を当てる霊能力の持ち主が、必ずしも高い霊格を持っているとは限りません。

 その事でとても危険に感じるのが、心霊論者の中に、霊媒の判定法として『当てモノ』を第一としてあげる人が多く見られることです。しかし、たとえば一〇〇パーセントの的中率を誇る霊媒を見つけたとして、その霊媒から『あなたは明日交通事故で死にます。』と予言されたらどうなるのかを考えてみてください。当たるということと、助言者として有益であることとは両立するとは限らないのです。まして、当てモノが上手な霊媒が詐欺をもくろんだとしたらどうなるでしょう? ただの心霊詐欺師よりも霊感を持った心霊詐欺師の方がよほど怖いのはいうまでもありません。『霊覚と霊格は異なる』だから、当てモノの成績だけで霊媒の発言すべてを信じるのはとても危険なことです。

・・・・・・・

 ところが、机上の空論ばかりで現場を知らない人が、勘違いして、霊能者をバカにするためにこの言葉を用いるのを耳に致します。ナンセンスなことです。「バカとハサミは使いよう」という言葉があります。即ち、金切りばさみで糸を切るのは愚かだし、モノを大事にする人ならば、糸切りばさみでブリキは切りません。霊媒に限って考えても、本当に知恵ある人なら、人格に問題があろうともその人の才能を上手に使うモノです。たとえば深い洞察が苦手な霊媒でも、当てモノが得意ならば失せモノ探しを頼めますし、当てモノが苦手な霊媒も洞察が深ければ、込み入った悩みに有益な助言をくれるでしょう。まして、霊格の低い人ほど、プライドが高いモノだが反対におだてがきいて扱いやすいもの。その事実をありがたがってもバカにするのはナンセンスです。


『霊媒は鐘と一緒、音は撞き方次第』――どんな名鐘も、撞き方が悪ければ良い音はしない。すなわち、どんな名霊媒だろうが、質問が悪ければ良い回答が得られないモノです。それを知らずに、質問が悪いことを棚に上げて霊媒批判するなどというのも、やはり、「バカとハサミは使いよう」……使い方が下手なのを恥じることなく道具ばかりを批判していては、道具の意義がありません。それは、霊感を授からなかったが故の負け惜しみであるのか、、使いこなせぬ人だからこそ霊感を授からなかったのか興味深いところです。訓練して霊感を会得した人がいるという事実が、心霊研究家に真理をかいま見せてくれます。

――霊能力を持つのは人間にとって大きな負担だという心霊家も散見しますが、その判断はいかなる霊格の元に下されたのでしょうか。向上のなんたるかは棚に上げるとしても、死者の霊たちとコミュニケーションを取らずに、死後に一体どうするのか、これまた不可思議に思います。もっとも私自身、生きている最中に死者の相手ばかりすることも不毛と考えておりますが、霊感の使い道は必ずしも死者とのコミュニケーションに限定はされません。

 まして現代の心霊研究において、たとえ未熟であろうとも霊媒の需要は多いものです。今の能力が低かろうとも、訓練・練習、自己研鑽をつうじて、どれほど大きく成長していくのか――まして、心霊知識を学んだ人ならば、それが心霊主義だろうが、スピリチュアリズムであろうが、『地上を修行の場』と見なすことは基本的に変わりません。できが悪いからこそ修行するのだから、未熟であることは正直な修行者、反対に、自分を虚飾してさも充分にできあがっているかのように装うのは、いったい何の修行をしているのか不可思議に思います。反対に、霊覚(霊能力)乏しく、霊格も低い心霊家の需要はさしてありません。

 霊媒という立場もあって、私は盲目的な霊媒批判に強い拒絶心を持っているのも事実です。が、『霊覚(霊能力)と霊格は異なる』という言葉の霊覚・霊能力を才能、霊格を人格という普遍的な表現に置き換えてみてください。『才能と人格は別』……これは、学者や芸術家、職人などに置いてもあてはまることです。『霊覚(霊能力)と霊格は異なる』と霊媒批判をする人が、果たして社会人として、職業人として、その才能と人格の双方が、人々の尊敬の対象となりうるのか否か……まあ、周囲から尊敬されているような人ならば未熟な相手にはなおのこと鷹揚な態度を取るものですね。つまり悪口の主などは、見るべき人格ではないといえるわけです。……という私の人格について、皆様がどう判断なさるか?

 人の価値判断は所詮、個人的な利害や好悪といった感情が左右します。――そして利害や感情に左右されるようなものは真理とは呼べないし、絶対的な価値とも見なせません。様々な都合が世の中を覆い隠し、その外に真理があります。――大切なのは、誰が、何をどう見なすか、というより、あなたが何をどう扱うかです。『あいつは使えない』という評価は、使える何かを提供できない限り不毛であり、真理のかけらも含みはしません。そこに危険があるなら必要なのは「危険」という看板ではなく、その危険を避けるには、又その危険を無くすのには何が必要かという知識です。そして、人々を不毛な結果に導く者を心霊の現場ではなんと呼ぶのか……『霊覚と霊格は異なる』という表現よりももっとストレートな表現があることに誰もが気がつくことでしょう。

・・・・・・・

 多くの霊媒批判は不毛なものですが、霊媒を自認する者にとっても、自らの才能を不毛な利用に貶めぬように努力する必要があるでしょう。『霊覚と霊格は異なる』……才能は天が(または、神、仏、運命と読み替えてください)が与えたものだとしても、霊格・人格は、自らが勝ち得たものなのです。霊覚・霊能力を、みずからの霊格・人格の向上に生かして、良い人生を、そして、良い死後を迎えられるように生きてこそ、心霊家としての霊媒の生き方でしょう。

 また、霊覚の乏しき方も、人はそれぞれ才能を持って生まれているもの……それぞれが、それぞれの才能を生かし合ってこそ世の中は多様で豊かになるのです。霊媒も、そうでない人々もそれぞれ持っている才能の研鑽と人格の向上に努めることこそが大切なことの筈です。

・・・・・・・

 机上の空論的な意見を忘れてしまえば、霊媒の鑑定法というのは、案外簡単なものではないでしょうか? 悩める人が自分の人生のレベルに見合った相談相手を見つければ良いのです。自分の分を超えた相手を求めるから、理解できず、理解できぬままに信じようとするから、後々だまされた気がする。いや、本当にだまされもするでしょう。そうして、被害者意識の下、自分の悩み事を忘れて復讐に走るのでは本末転倒といわざるを得ません。

 自分のレベルにあった……つまり、自分が理解できるように、そして、無理なく解決できるような助言をしてくれる人を選ぶならば、結果が思わしくなくとも、恨むことなく次のステップに進めるでしょう。それこそが建設的な意見だと思うのです。


2006年 04月 22日

「霊覚と霊格が異なる」というのは、「知覚と人格は異なる」と置換えることが出来ます。たとえば美的センスが優れている人が必ずしも高人格とは限りません。芸術家だって嫉妬や憎悪から無縁とは限らないのです。

 その事を理解せずに、霊媒だけが知覚と人格が異なるかのように理解するとしたら正に一知半解、霊媒がその直覚を誤るのとどう違うというのでしょうか。

 正しい直覚を持たない霊媒は、全人類の中にどれほどの割合を占めているのか。社会に害毒を垂れ流すのは霊媒よりも、霊媒以外の人々の思いこみなのです。

霊感考

2004/09/05

2004年 09月 04日


 霊感とは往々、答えがあって答えに至る過程がない。一見突拍子もない答えであっても、その答えに到る道筋が合理的であれば人々も納得するだろうに、過程を飛ばして突拍子もない答えがあれば聞いた人がいぶかしく思うのも道理である。まして、合理的な知性の持ち主であれば、「過程のない答え」を嫌悪するのも無理はない。

 これが芸術分野であるなら、過程のない答えは別段批判の対象とはならない。抽象的な作品やシュールレアリズムなる作品は、好き嫌いはあってもそれなりに世に受け入れられている。この現実が心霊研究の滑稽さだ。

 霊媒を通じて得られる霊的なメッセージは、心霊研究上、主観的心霊現象と呼ばれるが、個々の霊媒の性質・特徴から、写実的なメッセージ表現あり、抽象的なメッセージ表現あり、そして……心霊研究上は迷惑でもあるが、シュールレアリズム的なメッセージ表現もあるのだ。

・・・・・・・

 ところで、心霊否定論者は往々、霊感とは不合理なものと決めつけているかのようだ。また心霊肯定論者も往々、霊感とは不合理なものと諦めている。そして困ったことに、自分自身の不合理、または非常識な発想を「霊感である」と理由付けして、公言している人がいる。

 心霊関係者がことごとく非常識であるかのように批判する人がいるが、心霊関係者以外にも非常識な人はいる。問題は心霊肯定論にあるのではなく、人間のあり方にある。

 そして一種皮肉なことに、心霊研究も又、人間のあり方が研究の対象といえなくもない。人間のあり方……人間とは何であるか、というより、人間は何を目指すか、という考察において、肉体よりもその魂……永遠の存在としてよりも、欲望や感情よりも純粋な動機の源泉をもたらす何かとしての魂を研究することが大切だと思われるのである。

 それ故に、心霊研究は心霊主義と不可分の関係を持つ。

 さて、日本における近代心霊研究の先駆者、故浅野和三郎氏は、欧米の spiritualism の訳語として、『新霊魂説』、『新精神主義』、『心霊主義』、『神霊主義』と、いくつもの言葉を生み出した。果たしてどの訳語が適切であったのかは、主にそれを受け止める個人の精神性にも関わってくる。つまり、 spiritualism は、スピリチュアリズムであろうし、神道、特に復古神道の強い影響下にある浅野氏とその直系の人々にとっては、『神霊主義』であることが当然なのかもしれない。「財団法人 心霊科学協会」では、『心霊主義』を採用しているようだが、わたしも心霊の現場に立って強く思うことがある。

『いかなる高級神霊が相手であっても自覚のない人は変わらない。本来とらえどころがなく、主観性が強い霊(死後個性)の研究とは、その研究者の心の研究ともいえる。だからこそ、オカルト話の収集家でさえも心霊研究家を名乗るのだ。それを差別すべく神霊研究と呼んでみたところで、だれが神の意を汲む人間たり得るのか。自ら神・仏を名乗る信仰宗教家が数多いことを思えば、呼び名に拘ることはむしろ自分を縛ることになるだろう』

 霊が対象のようでいて、実は自分の心を相手にしているから、心霊研究・心霊主義なんだと私は思う。そして、霊の研究にいそしみ、また、霊の相手にいそしんでいる人々は、共通の対象を相手にしているとしても、異なる道を歩む人としか思えないのだ。


霊査事例: 2004年9月2日

2004/09/02

 以下に紹介するのは、精神統一の練習中に得た、参加者・個人あての代表的な霊査です。当然、対象となる相手によって正反対の霊査も出てくる事でしょう。  以下に紹介するのは、精神統一の練習中に得た、参加者・個人あての代表的な霊査です。当然、対象となる相手によって正反対の霊査も出てくる事でしょう。


事例1

  •  我慢、我慢、今は忍耐の時です。……一体いつまで忍耐が必要なのか? それを思う時のあなたの気持ちに留意してください。
  •  改善のために何が出来るか……そう考えられるのならば道が開けます。 ただ不平不満が募るだけならば、まだまだピークにたどり着いてはいません。
  •  あなたの人生を難しくしているのは、怒るべき時に堪え、堪えるべき時に怒る事です。
  •  これはいわば、あなたに加護がないわけでなく、また、あなたの業《カルマ》が特別深いわけでもありません。船から岸に移るのに、波を見極めないから海に落ちるようなものです。

事例2

  •  なんとなく、精神統一の面白さが分かってきたように感じます。
  •  坐忘……あなたの座右の銘は、「坐忘」であると以前伺いました。
  •  忘れる事が出来る人とは、しっかりと認識している人なのです。うろ覚えな人や中途半端な人は、すべてを忘れようとした時にふと思い出してしまうからです。つまり、思うものをすべて思い、忘れるべきものをすべて忘れた人だけが、心の動きを完全に止める事が出来ます。
  •  あなたは普段、思い切り考えず、考えるべき事を絞って考えるから、大事な時に忘れたり、忘れるべき時に思い出したりします。すなわち、普段の思考のメリハリが無いのです。でも、素養があるから無意識にメリハリが出てしまいます。コントロールしましょう。

事例3

  •  静岡オフ会参加、ご苦労様です。オフ会・夕食の参加者の一人が、「私が一生懸命質問している時に、皆は遊びが過ぎると思います」なる、感想を抱いたそうな……でも違います。理屈は本《book》からでも学べますが、感覚や認識は本《book》からでは学べません。わざわざ面談している時だからこそ、大切なのは、本からは学べない事です。
  •  ところであなたは感覚的に恵まれているのに、どうにも理屈にあこがれます。その動機はズバリ、他に理解して貰おうという意識です。しかし、果たしてあなたは、理解したいほどの精神的存在でしょうか?
  •  いえいえ、なかなか興味深い人ですが、大方の人々にとって、陽気で楽しい人(ついでに付き合いの良い人)……その程度でしかないと思いませんか?
  •  心霊とは、熱く語るものであるより、むしろ、「あなたはどうして幸せなの?」と問われた時に、にっこり笑って「私は心霊を学んでいるからね」と答える醍醐味だと思うのですが。

事例4

  •  平穏すぎて、霊査のネタがありません。変な同居人(随伴霊)が見えるけれど、格別悪さをする様子もなく、以前、廬氏が言った事に反して、ペットの健康的な不安もなさそう。霊的な問題は順調に勝たずいているでしょう。ご主人も特に問題なし。
  •  強いていえば、他人との接触が少ないかな。……まあ、あえて争う必要も無し。暑いしね。こういう時間も大切だと思います。
  • ……平和だと食いっぱぐれるというのは霊媒の悲しさかな、人々に不安がないと良い酒が飲めない……などと軽口をいえる勤め人。

事例5

  •  姿が見えません。まさか、静岡オフ会に参加しなかった事を恥じていらっしゃるとか? さもなければ……詮索されたくない状況とか?
     取り敢えず危険がなさそうなので、無理には見ません。

事例6

 今日は霊査なしで、お返事となります(?)
 あなたの母方の血族の欠点は、考えすぎてしくじる事です。

 なしのまま行けば易き道あるを、
    あぜなずろうや魂の曇るに by吉田綾

 あなたのご先祖も、守護霊も、みな、あなたの幸せを……

 そして、あなたのお母様も、叔母様も、皆、それぞれに守護霊も祖先の霊もいるのに、なぜあなたばかりが、お母様や叔母様や、その飼っていた猫から、会社の人々の健康問題(エアコンが強すぎるとか、たばこを吸いすぎるとか)などといった事まで心配しなければならないのです?

 因果応報……は仏教用語、キリスト教でも因果律でしょう?

 神様のなさりように気を揉むよりも、真理…摂理の働きを黙って観察する方が有益だと思います。その意味で、あなたのお父様は、口はともかく行動は天に任せて堂々としていらっしゃったと思うのですが。

 ああ、もっとも、今日もとても……充分にリラックスしているようで何よりです。その状態に罪悪感を抱くのではなく、これが当たり前と思えるようになってください。さもなければ守護霊さんが、前世に置いてきたはずの胃を抱えて呻いてしまいます。それも可哀想ですよ。


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