2004年 09月 08日
心霊の現場、即ち霊媒を通じた心霊実験などにおいては『霊覚(霊能力)と霊格は異なる』と見なします。ズバズバと物事を当てる霊能力の持ち主が、必ずしも高い霊格を持っているとは限りません。
その事でとても危険に感じるのが、心霊論者の中に、霊媒の判定法として『当てモノ』を第一としてあげる人が多く見られることです。しかし、たとえば一〇〇パーセントの的中率を誇る霊媒を見つけたとして、その霊媒から『あなたは明日交通事故で死にます。』と予言されたらどうなるのかを考えてみてください。当たるということと、助言者として有益であることとは両立するとは限らないのです。まして、当てモノが上手な霊媒が詐欺をもくろんだとしたらどうなるでしょう? ただの心霊詐欺師よりも霊感を持った心霊詐欺師の方がよほど怖いのはいうまでもありません。『霊覚と霊格は異なる』だから、当てモノの成績だけで霊媒の発言すべてを信じるのはとても危険なことです。
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ところが、机上の空論ばかりで現場を知らない人が、勘違いして、霊能者をバカにするためにこの言葉を用いるのを耳に致します。ナンセンスなことです。「バカとハサミは使いよう」という言葉があります。即ち、金切りばさみで糸を切るのは愚かだし、モノを大事にする人ならば、糸切りばさみでブリキは切りません。霊媒に限って考えても、本当に知恵ある人なら、人格に問題があろうともその人の才能を上手に使うモノです。たとえば深い洞察が苦手な霊媒でも、当てモノが得意ならば失せモノ探しを頼めますし、当てモノが苦手な霊媒も洞察が深ければ、込み入った悩みに有益な助言をくれるでしょう。まして、霊格の低い人ほど、プライドが高いモノだが反対におだてがきいて扱いやすいもの。その事実をありがたがってもバカにするのはナンセンスです。
『霊媒は鐘と一緒、音は撞き方次第』――どんな名鐘も、撞き方が悪ければ良い音はしない。すなわち、どんな名霊媒だろうが、質問が悪ければ良い回答が得られないモノです。それを知らずに、質問が悪いことを棚に上げて霊媒批判するなどというのも、やはり、「バカとハサミは使いよう」……使い方が下手なのを恥じることなく道具ばかりを批判していては、道具の意義がありません。それは、霊感を授からなかったが故の負け惜しみであるのか、、使いこなせぬ人だからこそ霊感を授からなかったのか興味深いところです。訓練して霊感を会得した人がいるという事実が、心霊研究家に真理をかいま見せてくれます。
――霊能力を持つのは人間にとって大きな負担だという心霊家も散見しますが、その判断はいかなる霊格の元に下されたのでしょうか。向上のなんたるかは棚に上げるとしても、死者の霊たちとコミュニケーションを取らずに、死後に一体どうするのか、これまた不可思議に思います。もっとも私自身、生きている最中に死者の相手ばかりすることも不毛と考えておりますが、霊感の使い道は必ずしも死者とのコミュニケーションに限定はされません。
まして現代の心霊研究において、たとえ未熟であろうとも霊媒の需要は多いものです。今の能力が低かろうとも、訓練・練習、自己研鑽をつうじて、どれほど大きく成長していくのか――まして、心霊知識を学んだ人ならば、それが心霊主義だろうが、スピリチュアリズムであろうが、『地上を修行の場』と見なすことは基本的に変わりません。できが悪いからこそ修行するのだから、未熟であることは正直な修行者、反対に、自分を虚飾してさも充分にできあがっているかのように装うのは、いったい何の修行をしているのか不可思議に思います。反対に、霊覚(霊能力)乏しく、霊格も低い心霊家の需要はさしてありません。
霊媒という立場もあって、私は盲目的な霊媒批判に強い拒絶心を持っているのも事実です。が、『霊覚(霊能力)と霊格は異なる』という言葉の霊覚・霊能力を才能、霊格を人格という普遍的な表現に置き換えてみてください。『才能と人格は別』……これは、学者や芸術家、職人などに置いてもあてはまることです。『霊覚(霊能力)と霊格は異なる』と霊媒批判をする人が、果たして社会人として、職業人として、その才能と人格の双方が、人々の尊敬の対象となりうるのか否か……まあ、周囲から尊敬されているような人ならば未熟な相手にはなおのこと鷹揚な態度を取るものですね。つまり悪口の主などは、見るべき人格ではないといえるわけです。……という私の人格について、皆様がどう判断なさるか?
人の価値判断は所詮、個人的な利害や好悪といった感情が左右します。――そして利害や感情に左右されるようなものは真理とは呼べないし、絶対的な価値とも見なせません。様々な都合が世の中を覆い隠し、その外に真理があります。――大切なのは、誰が、何をどう見なすか、というより、あなたが何をどう扱うかです。『あいつは使えない』という評価は、使える何かを提供できない限り不毛であり、真理のかけらも含みはしません。そこに危険があるなら必要なのは「危険」という看板ではなく、その危険を避けるには、又その危険を無くすのには何が必要かという知識です。そして、人々を不毛な結果に導く者を心霊の現場ではなんと呼ぶのか……『霊覚と霊格は異なる』という表現よりももっとストレートな表現があることに誰もが気がつくことでしょう。
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多くの霊媒批判は不毛なものですが、霊媒を自認する者にとっても、自らの才能を不毛な利用に貶めぬように努力する必要があるでしょう。『霊覚と霊格は異なる』……才能は天が(または、神、仏、運命と読み替えてください)が与えたものだとしても、霊格・人格は、自らが勝ち得たものなのです。霊覚・霊能力を、みずからの霊格・人格の向上に生かして、良い人生を、そして、良い死後を迎えられるように生きてこそ、心霊家としての霊媒の生き方でしょう。
また、霊覚の乏しき方も、人はそれぞれ才能を持って生まれているもの……それぞれが、それぞれの才能を生かし合ってこそ世の中は多様で豊かになるのです。霊媒も、そうでない人々もそれぞれ持っている才能の研鑽と人格の向上に努めることこそが大切なことの筈です。
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机上の空論的な意見を忘れてしまえば、霊媒の鑑定法というのは、案外簡単なものではないでしょうか? 悩める人が自分の人生のレベルに見合った相談相手を見つければ良いのです。自分の分を超えた相手を求めるから、理解できず、理解できぬままに信じようとするから、後々だまされた気がする。いや、本当にだまされもするでしょう。そうして、被害者意識の下、自分の悩み事を忘れて復讐に走るのでは本末転倒といわざるを得ません。
自分のレベルにあった……つまり、自分が理解できるように、そして、無理なく解決できるような助言をしてくれる人を選ぶならば、結果が思わしくなくとも、恨むことなく次のステップに進めるでしょう。それこそが建設的な意見だと思うのです。
2006年 04月 22日
「霊覚と霊格が異なる」というのは、「知覚と人格は異なる」と置換えることが出来ます。たとえば美的センスが優れている人が必ずしも高人格とは限りません。芸術家だって嫉妬や憎悪から無縁とは限らないのです。
その事を理解せずに、霊媒だけが知覚と人格が異なるかのように理解するとしたら正に一知半解、霊媒がその直覚を誤るのとどう違うというのでしょうか。
正しい直覚を持たない霊媒は、全人類の中にどれほどの割合を占めているのか。社会に害毒を垂れ流すのは霊媒よりも、霊媒以外の人々の思いこみなのです。