真実
2006-04-16
時折、新興宗教や、特定の霊能者を指して、「インチキ」と表現する人がいます。宗教や霊能者に限らず、人々を啓蒙しようという人には、長短、可否が付きまとうものです。その真偽をいちいち論じていては切りがないので取上げはしませんが、世の中にインチキがある事よりも、もっと重要視すべき問題があると私は思います。
真実の追求方法です。
インチキを駆逐するのが真実であれば、迷いは、正しい答えの求め方を学ぶチャンスとして人生に生かす事が出来ます。しかし、インチキを駆逐するのがただの否定、非難であれば、迷いはますます昏迷を深める事でしょう。
溺れるものはわらをも掴むといいますが、我が身を引き上げるにはあまりに頼りないわらであっても、そっと引くなら岸に近づく助けになりましょう。なのに、溺れるものを助けもせず、ただわらを取り上げようとする偽善者の何と多い事か。
まして、永久不滅の真理、真実をわずか百年程度の生しか持たぬ身がどうして明らかに出来ましょうか?
そして、人生にいかなる価値があるのか、人生を全うもせずに、誰が「これこそは真実」と語れるというのです。出来る事はせいぜい、自分が信じている事だけではありませんか。つまり程度の差こそあれ、だれもが人生の狂信者である事には間違い無いのです。
貧者の一灯は、仏教でもキリスト教でも貴ばれる奉仕ですが、人に光を与える事もせずに、吹き消してまわるのは何と罪深い事でしょう。
妄想と霊感
04年 09月 14日
霊媒こそが一番有力なる霊界調査機関であるから、妄想家と霊媒の違いを知る事は、心霊研究の第一歩です。……勘違いしてはいけません。ここでいう妄想家とは、自称霊媒に留まりません。むろん、霊媒だって、妄想に陥ります。しかし、霊感と妄想が区別できなければ霊媒など勤まりません。霊媒として扱われたならば、妄想家と霊媒との違いは実力の差として現れますが、では、霊媒を名乗らぬ妄想家ならば、見分ける機会が乏しい事に気がつくでしょう。
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何を持って妄想と呼び、何を持って霊感と呼ぶのか……私が掲げる定義を吟味して下さい。決して丸飲みしないように。
理想と現実とのギャップを塞ぐのが妄想で、理想と現実とのギャップを無くすのが霊感です。人は理想の実現のために知恵を絞ります。しかし、理想と現実との間にはギャップがある。そのギャップをどう扱うかが知恵の絞り処なのです。
真の霊感・豊富なるインスピレーションに恵まれた人であれば、理想と現実との間が少しでも狭まるように努力します。出来る事ならば理想と現実が合一するように努力するのです。それは妥協ではなく調和の形を成すものです。
ところが妄想家は、理想と現実とのギャップをどうしたら埋められるかに腐心します。「もっと、お金があれば」、「誰かにコネがあれば」、「超能力でもあれば」……そして、妄想の中で、理想と現実とのギャップが埋まったと喜びますが、埋まったというよりむしろくさびを打ち込んだのに等しい事です。なぜなら、お金なり、コネなり、超能力なりが得られなければ理想が実現しないという事なのですから。……そうして、今度はお金がない、コネがない、超能力がないと嘆き、もだえます。そしてますます妄想が強くなる。
元々の理想はまだ実現の可能性があったのに、妄想するから実現が遠ざかり、実現が遠ざかるからますます妄想するようになる。
妄想の真の恐ろしさは、その論理の矛盾ではなく、エスカレートする事なのです。霊感はエスカレートしません。エスカレートして見えるのは霊感の振りをした妄想なのです。良い霊媒ですら往々、エスカレートする霊感という妄想に騙されます。それは霊媒能力がニセなのでも、嘘なのでもなく、ただ人間であるという事実の一環です。
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人は訳知りがおに、当然の如く言います。「妄想するな!」と。
私も同じく言います。「妄想するな!」と。――ただ、どうすれば妄想せずに済むかの答えを模索しながら。ところが、「妄想するな」といわれた人から、「ではどうすれば妄想せずにすむか?」という質問を受けた事がありません。むろん答えは人の数だけあります。ですが大方こうはいえるでしょう。……出来る事から始める。最初から難しい事に取り組もうとするから何も出来ず、何も出来ないから妄想するのだ。
私から問題点を指摘されて、「がんばります!」と答える人々。その答えが既に妄想なのだと私は思います。妄想せずに入られぬ世の中、空理空論がまかり通る世の中、そんな世の中にあって現実を見失い、現実を見失うが故に、不安と猜疑心に苛まれる人生を送る人々。妄想するから……いや妄想する事を強いられているから苦しいのです。でも止められない。皆と一緒に妄想して生きるのが一番楽な現代日本での生活なのです。ただ問題は、現実を共有するよりも、妄想を共有するほうが難しいという事実。かくして人は孤独に苦しむか、人々の中で苦しむかの選択に悩みます。
何が正しいのか?
04年 09月 28日
「誰のいうことが正しく、またどの書に書かれたことが正しいのか?」
このような疑問は、当たり前のようでいて、実は心霊家にとってこれほどナンセンスな疑問はありません。すべての真理が著された真の聖書、真の経典がどこにあり、それがいかなる表現方法で著されたかを考えれば自明のことです。 地上にあるのは、真の聖書、真の経典を、物質的に表現した模造品に過ぎません。模造品を取り上げて、何が正しく、誰がそれを見抜くかと言い争うのは、悪党共が自らの善良さを比べるのに等しいことです。……五十歩百歩、目くそが鼻くそを笑う……ナンセンス極まりない話です。
どれもが不完全、不完全であればこそ……さて、何が必要なのか。それを知ることが大切です。
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論者が最善を尽くした言説、著者が最善を尽くした書物であっても、読み手が理解を誤ればそこに被害が生じます。つまり、正しい論者、正しい書物を見つけることと、誤らざる事は別問題なのです。
「誰のいうことが正しく、またどの書に書かれたことが正しいのか?」……この問いが、いかに空虚であるか。
知るとはまず自分を知ること。理解を誤らざるものだけが、真に言説を論じ、また、書物を論じる事が出来ます。もしも、理解を誤らざるものが言説を論じ、また書物を論じるのは、ただ己の愚かさを世に問うだけのこと……世に問うて、それで過ちが認められるのならばまだしも、理解だけでなく、理性の乏しさまで世に問うては、学んで学び得ぬ事になります。……こういう自傷的な行動は、そもそも正誤・善悪以前の問題と考えねばなりません。彼/彼女は学んでいるというより、幼少時(時として前世に遡る)心の傷を癒そうと努力してうまく行かずにいるのです。
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拘るものがなければ、生きることが空しく、空しさに耐えるには人生は厳しすぎる。
だから……空虚な者ほど、空虚なものに拘る。
有意義に生きる者は、有意義なる者に拘る人だ。
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正しきものに拘るのは、真実を知らぬ者だ。
なんとなれば、単純に善悪で割り切れぬものがなんと多いことか。その曖昧さの中に流されて、藁をもすがる気持ちで真実を求め、求めるものが真実ではなく、実はただ、自分と世界とをつなぎ止める絆を求めていることに気がつかぬ者だ。
……間違っているからといって、すべてを断罪したら、この未熟な世の中、すべての存在の存在意義を両立させられぬ狭隘の世界の中に、裁かれぬ者などいやしない。なぜ、誰かを押しのけようとするのか? 自分の居場所がないからだ。自分の中に自分の居場所がないから、正義を盾に自分の居場所を独占しようとしている。
しかしだ!。 もしも大地が無くなったとしたら人はどこに自分の居場所を占めればいいのだろうか? もしくは、時間と空間を超越した存在になったとしたら?
自分の居場所を探している人は、死後の居場所のない人なのです。少なくとも低層にしか……。