2004年 08月 29日
オフ会活動の見直し
「人生は魂の修行の場である」――これが心霊主義の立場である。
修行中の身であればこそ、人は己のレベルについて敏感であるべきだと思う。人々の権利は平等であろうとも、人々の歩んできた道は必ずしも平等ではない。時間を大切にする人、他人を大切にする人、自己表現を大切にする人、ただ楽しむ事を大切にする人。様々な人があり、人々が混じり合って社会を構成する。私の主催するオフ会にだって様々な人が訪れる。たとえ名目が心霊主義者の集まりであろうとも、一人一人が心霊主義に思う事は、決して同じでないのだ。
魂の修行が目的だという。修行の過程は人それぞれだ。そして、すべての過程を同時に集めて友に研鑽する事が可能か否か?……門戸はすべての人に開かれていても、すべての人が良い影響を受けられるとは限らない。それがこの世の特徴であり、欠点でもある。
私の心霊活動は非営利の本心に基づいている。オフ会の中での先導役と聞き役、立場は違えど、経費は等分で賄われる。つまり平等であるという事だ。悪平等かも知れないが、恨みも少ないだろうと思う。
しかし、この平等は果たして公平な平等であるのかは疑問の残る所だ。ただ、楽しむだけのオフ会であるなら、私、老神いさおの参加は必要不可欠とはいえない。しかし、精神統一などを目的の一つとするならば、霊媒である私の欠席は、オフ会の成立を左右する。私は基本的に、私の代りに霊査を取れる霊媒の育成を志してはいるが……未だ実現していないからだ。
私は威張りたいわけでも、報酬や賞賛を求めているのでもない。ただ、私のいない老神心霊研究所主催のオフ会が成立せず、一方で、他の誰かが欠席したからといって、オフ会が成立しないということがないことをただ指摘するのみである。
何を言わんとするのか、戸惑われる方もいるだろう。話は少々混み合っている。
私の参加が不可欠であるのに、少なくとも私の存在が不可欠なオフ会……その維持には、私の好意が少なからず関わっている事を認識して頂きたいと思う。すなわち、恩を着せたいのではなく、オフ会参加者の一人一人に、私、老神いさおが好意を持ち、愛情を注いでいればこそ、オフ会が成立する事を、無理に肯定しないまでも、少なくとも否定して頂きたくない。
名誉欲や、権力欲、ましてや、女性参加者への愛欲といった目的で、オフ会を企画していると思われるのは心外である……それ以前に迷惑である。
木の種類を見わけるのに実を見るというのは聖書の知恵だが、私の動機もまた、そのオフ会の結果として表れる事だろう。つまり、個人的な目的で招集されたオフ会で満足を得るのは一体誰であるというのだろうか?
オフ会において、私自身も心がけているように、参加者皆にも要求したい事は、なるべく参加者全員が楽しみ、そして笑って別れ、また、次のオフ会も参加したいと思えるようにするという事だ。
私は私の喜びだけを優先することなく、また、特定の参加者を個人的に接待さえて誰かのご機嫌を取る事も潔しとしない。……私も人間である以上、個人の幸せの追求を行っている事も事実であるが、少なくとも心霊主義と心霊研究は、個人の幸せ追求を目的とするのではなく、我が魂の将来への投資なのである。個々では私の個人的な欲求は二の次、三の次に位置づけている。
いや、分かりにくいかも知れないが、私は何も自己弁護の為にいろいろと主張するのではない。
言葉では「愛情」と一括りにするが、果たして愛情とは、たった一つの何かだろうか?
参加者に好意を抱き、愛情を注いでオフ会を開く……ここでいう愛情と、健康な少年が、可憐な少女に抱く愛情と同じものだろうか? または、母親が我が子に抱く愛情と、妻が夫に抱く愛情とが果たして同列に勝たれるものであろうか?
たとえば、オフ会参加者同士が恋に落ちたり、また、主催者である私が、参加者に恋する事も無いとは言えないし、それを否定する気もない。それどころか、夫婦揃っての参加や、恋人と一緒に参加してくれるのは大歓迎ですらある。でも、互いに愛情を深め合うチャンスは他にいくらでもあるはず。わざわざ、皆で、お互いのスケジュールを調整し、遠路はるばる参加するオフ会であるなら、個人の楽しみよりもみんなで楽しめる事を優先して貰いたいと私は思う。さらにいえば、その場で、個人的な好意云々を話題にするのは無粋で迷惑ですらある。いや、互いに個人的な親密度を競うならば、人間関係が妙な方向に流れないとはいえない。
愛情というのは、その人その人の理解力に応じる。その人の示せる愛情は、いわばその人の器の大きさですらある。器が小さくとも家族だけに愛情を注ぐならば、情が篤くも思えるだろうし、社会一般に愛情を注ぐ人であるなら、個人の視点では酷薄に見えるかも知れない。
いわばその人が、一つの愛情に対してどう評価するかは、その人なりの愛に対する理解度の深さを示し、また、人間性の器を表わすわけだが、心霊主義者はやはり、より深い愛情の探求者であって欲しいと思う。すなわち、誰が誰に対してであろうとも、つまらぬ断定はして欲しくない。断定するよりもむしろそこから、別の何かを学ぶべきだと思うのだ。むろん、その愛情表現が、私利的で強欲なものであるとしたら、それは拒絶して貰って構わない。すなわち、私以外の参加者から迷惑な愛情表現があったなら、私は喜んで仲裁役に立つし、私から迷惑な愛情表現があったと感じたならば、その旨を直接言って貰って構わない。その勇気がないのならば……私はオフ会への参加を強要した事はないのに、なぜ参加するというのだろう? 私の好意を迷惑に感じる人が?
私は、オフ会に参加した人への除霊や運命鑑定を約束した覚えはないのだけど、なんだか、不可思議な噂が立っているようだ。私は自らへの誤解を膨らませるためにオフ会を開催するような、そんな業《カルマ》の深い心霊活動を望んでいない。……最近一連の不幸もそうだが、どうやら私は魔境に足を踏み出しつつあったようだ。その反省から見てもオフ会の開催方法が一考を必要としている事を強く感じた。
甘えられては身の破滅
良心の掲示板を監視している人が増えている。なるほど他人のトラブルは面白い。まあ僻むつもりもない。私と古くから付き合いのある人は気がついているだろうが、掲示板に投稿してはすぐ削除するのを繰り返す人はこれで二人目だ。その発言・行動に共通点があることを見いだしている人もいるだろう。
さて、メールについては私信であるから、その内容がどんなに酷いものでも一般公開するわけにはいかない。もっとも、こういう相手からのメールはきちんとプリントアウトして保存しておくのは最低限の自衛手段だ。
しかし掲示板に関しては、皆が見る場所である。そこに投稿したものについては、私がわざわざ隠してあげるべき話でもない。……といって、投稿者が消した全文を、意地悪くもわざわざ投稿しようなどとも思わない。ただ、私はうすうす知ってはいたが知らんぷりをしていた事実を、投稿者が掲示板に書いたとい現実がある。つまり、私は知らんぷりをする必要がなくなったと言うことだ。
話は8月29日のトップページ投稿「オフ会活動の見直し」に飛ぶ。静岡オフ会の後に、一人反省しての原稿である。この件については元々曖昧な書き方をしていたからあちこちずいぶんと同情のメールを頂いた。見当違いではあったが同時に嬉しくもあった。正直、「たまには泣き言をいってみるのもいいな!」等と思いもした。ましてその方がファンが増えたのではないかと皮算用もした。……そうしなかった理由も心霊主義的題材としては興味深くもあるだろう。他人の同情を惹こうとすると低級霊としか感応しがたくなるのだ。霊に感応しやすい霊媒にとって意地汚さは厳禁だが、渇仰は重要なのである。意地汚いだけで渇仰を持たないが為に霊媒能力が発揮出来ない人もいるぐらいだ。
まあ、友情に感謝の意を表わすだけで本題に移りたい。
8月14日の横浜オフ会、そして8月28日の静岡オフ会において、私(老神いさお)が怖い……と参加者に説いて回った人物がいるのである。セクハラ的な行為があったと主張さえしている。が、怖い、怖いといいながらオフ会に参加するのだ。あげく、静岡オフ会に至っては、帰りが遅くなることが判っていながら、電車で集合地点に現れ、そして私に自宅まで遅らせているのである。(ちなみに往復で80キロもある。静岡からの帰り、深夜にさらに全行程の4分の1を走らなければならない苦痛をご理解頂けるだろうか?)
そして翌月の東京オフ会の前日、9月10日には場所が判らないので駅に迎えにこいとまで電話があった。ここで私の忍耐が尽き、参加を断った。……私の悪口を言いふらしている相手を、わざわざ出迎えに行く。それではまるで恐喝のネタを増やしてやるようなものではないか。
怖いといい、セクハラされるといい、それでも深夜に自宅まで送らせ、あまつさえ、駅にまで迎えにこいという。……私は一体いかなる弱みを、または、いかなる義務を彼女に背負っているというのだろうか? 強いていうなら一つある。私は後腐れない形で縁を切りたかったのである。が、それが無理なことも判明した。そして、もしここで相手のいうことを聞こうものならそれこそ周りの人間は、彼女の言い分を信じるだろう。……それこそナンセンスである。
何がナンセンスであるか多くを語る必要はないと思う。8月29日の「オフ会活動の見直し」でいいたかったのはただこういう事だ。
「私が主催するオフ会に、私が参加してはいけないのか?」
この疑問がどれほどナンセンスであるか、むしろ逆に、何でこんなナンセンスで、取るに足らぬ戯言をわざわざトップページで取り上げるのか不思議に思われる人がいるだろう。それこそ泣き言、いや、それこそ言い訳ではないかと思われるかも知れない。実際、彼女のオフ会参加停止について意見を求めた一人は、こういった
『取るに足らない話です。私も笑って聞いていました。それを信じるか信じないかはそれぞれの自由、そんな話を信じる人ならそれも仕方がないのでは?』
それは正論ではあるが、私の本音はこうなのである。
……とんでもない相手に同情を寄せてしまった……
そして
……過ちを正すのに躊躇するなかれ……
なのである。
更にいえばこうである。
災難を招くのは、悪意よりも未熟さ、不運よりも要領の悪さである。
同情を寄せて失敗したのは、これが最初ではないし最後でもないだろう。だが、暴言に屈しても、泣き言にほだされても、それが明日の不幸に通じるのだ。……それを試したい人がいるなら、どうぞ試してみて欲しい。私はもう御免だ。