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孤独の意味

2004/07/22

Q「人が孤独であることの意味を問う」

 かつて、私が地上に生きていた時、孤独を感じる理由は明白であった。生は楽ならす、一人で支えるには人生はあまりに重たかったからだ。私の父は、私の幼い内に帰幽した。母は幼子の私を懸命に育て、私は追いたる母を懸命に養った。父がいてくれたら……、助け合う兄弟がいたら……、懸命に生きてはいても、時として、そのような思いが心の中に繰り返し生まれ、そして消えていった。

時が過ぎ、仏法を学ぶようになっても、私は孤独であった。師と呼べる人は遠く、仏はさらなる彼方。兄弟子と呼べる方々もあまりに尊く、私はあまりに惨めであった。信念だけを友とし、頼みとして生きたのである。


 信仰が救いとなるか否かはここでは論じぬ。篤い信仰があればこそ、私の信念も貫けただろうが、すべての信仰に力があるわけでもない。大切なことは他にあるだろう。

 仏家の往々犯す間違いは、信仰の篤さを極めようとすることである。熱烈なる信仰は狂気に似て殺伐としたものが残る。かといって、怜悧に論理を追いかけるなら、百年たっても一歩も進めぬ。

 必要なことを知り、前に進む。その進み方に二通りあることを知らねばならぬ。

 すなわち、前から見るか、後ろから見るかである。

 前から見るというのは、学ぶべきものを手前から観察するということで、これは分かったようで正面のただ一面しか学べぬ。遠くから一別しただけで知った気になるという賢者が何よりも侮蔑する過ちも犯しやすい。

 後ろから見るというのは学ぶべきものを通り越して後に観察するということで、これで初めて四方八方自在に観察することが出来る。すなわち知る事に労力を惜しまぬという事である。

 仏説に限らず何事も、前から見ただけの知識と後ろから見た知識とを混同してはならない。手の届かぬ物を論じる人と、その傍らに立って論じる人の言葉は決して同等に扱ってはいけない。


 さて、本題の孤独についてもこれが言える。人が孤独の意味を理解せぬのは、人が孤独を前から眺めているからである。すなわち孤独の意味よりも孤独の苦しみを恐れるばかりである。孤独の中に浸り、孤独の持つ意義を理解し、それを用いるのならば、時として孤独が必要である事も理解できる。そう、後ろから孤独を眺めるならば、瞬時に多くの答えにたどり着くだろう。

 果たして人は、理解者をもたぬから孤独なのか。周囲を拒絶しているから孤独なのか。それとも、分不相応を追いかけるから孤独なのか……悪いのは周囲か、はたまた自分か。それとも時期や環境に問題があるのかどうであろう?

 いずれにせよ、孤独の要因には様々なものがある以上、原因にも様々なものがあり、要因の数だけ考慮すべき対処法があるだろう。しかし、孤独の解決策を見いだせぬ人の心は、ただ二つの要因が支配している。人を責める気持ちと、自らを責める気持ちだ。その二つが主導権を争って人の眼を暗くする。その葛藤ゆえに、人は真実から目を背け、正しい考え方を阻害し、間違った言動に導き、苦悩を増す。すると、こうも言える。

 孤独とは愚かさだ。自分を取り巻く友愛に気がつかぬ愚かさを指す。

 ことに、友人を作るのが下手な者は、努力するほど孤独に陥る。愚かさは努力では補えぬ。愚かな者が努力をすれば傷を広げるだけなのに、工夫をせずに努力をするから苦しむのである。……人はここに逃れようと努めるほどはまり込む苦悩に足を取られる。仏家が地獄と呼ぶ境涯である。


 傍から見れば豊かな人でも、当人が足りる事を知らなければ貧しさに苦しまねばならない。孤独にもこれがあてはまる。どれほど多くの人に囲まれようとも、自らの心を開かなければやはり孤独なのである。それはつまり、孤独というのが人の心の外にあるのか、内にあるのか、それを見つけねばならない。

 この事は霊感の発現にもあてはまる。人は霊感が得られぬと嘆くが、その原因は外にあるのか、内にあるのか。

 自分に尽くすものだけを友と呼び、自分に味方するものだけを神と呼ぶ。そのように傲慢なものが、誠実なる友を得、また、正義の神を味方につけられようはずもない。

 そう、暗黒を友と呼ぶのなら、人は暗黒の中にあってなお、孤独を味わうのである。この様な境涯もまた地獄と呼ばれよう。


 なぜ人は孤独に苦しむのか。人は孤独の中に自分の居場所がない事を知っているからである。では、なぜ人は孤独に陥るのか。人は自らが進むべき道を知らぬからだ。

 孤独とは愚かさの表れである。ここでいう愚かさとは、学識・知力の低さではなく、生きるのに必要な智慧が足りぬという事である。

 求めるものをただ追いかけるから、一つを得るのに一つを犠牲にする。名誉や金を追うから孤独になり、無理を重ねるから命を失う。

 私は、あなたに「求める物を捨てよ」等とは説かない。ただ、欲しいものがあるのに両手がふさがっていたら、どうやって掴むつもりなのかを問うまでである。

 どうやって掴むか。その智慧があるなら、あなたは二度と孤独に苦しむ必要はない。

(2004年7月22日)


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