‘2004/06’ カテゴリーのアーカイブ

誰の気持ちが責めるのか

2004/06/11

2004年 06月 11日


家庭争議に行き詰まった人から、愚痴のメールが届いた。詳細はむろん、触れられない。

自分が悪くて争議になるなら、その苦しみは自業自得だ。家庭争議でも、自分が選んだ配偶者の問題なら、やはり自業自得だろう。……当事者は、「自業自得」という言葉を受け入れてはいるけれど、その体験談をまともに聞かされたら、私が安易に、「自業自得」という言葉を繰り返すのを見て嫌気がさすかも知れない。……好きで自分を不幸にする奴がどこにいるんだろう?

うん、まったくだ。もし私がそれを考えないとしたら、私はきっと偽善者なのだろう。

私が申し上げたいのは、「自業自得だから苦しくて当たり前」という、間違った考え方ではない。「自業」とは、要するに自分の欠点であり、「自得」とは、結局、自分の欠点を自覚するということだ。

つまり大切なのは、自分の欠点を自覚し、克服する過程なのである。

・・・・・・・

 だけど!! 人間は無意識に、ただ眼前の苦しみから逃れることに気を囚われてしまう。いや、そもそも、この自業に囚われるのは、眼前の幸せに飛びつくからだ。たとえあなたが幸せであろうが、なかろうが、砂糖がまぶしてある物の中まで甘いとは限らない……

自業自得なのは判った。謝りもするし、改めもする。だからもう助けて!!

と、祈って報われない人ばかり。たまたま、心霊主義/スピリチュアリズムなどの知識と出会うと、なんとなく、自分を反省してみれば苦しみから救われるかのように錯覚して……所詮錯覚だと気がつく。やはり楽にならない。

うん。その原因は簡単だ。祈る人の心に嘘があるから――「私の考えが甘いから苦しむことになる。だけど、世の中には私よりももっと甘い考えで、でも、幸せな人もいるじゃないか!!」……苦しみから逃れようとあがいている人なら空手形を乱発することも不思議ではない。困っている人の誠意を信じるのはナンセンスだ……祈ったって救われはしないよ、そもそも……

加護の強い人や、信仰心の強い人が救われると考えるのは、実に幼稚な因果観としかいいようがない。本当に強い加護を受けている人なら、世の中に、苦難があることすら気がつかずに暮らせるものだ。助けてといわなければならないのはそれほど手厚い保護下にあるとはとても言えない。いわないよりはましだろうけれど。

つまり……苦境に陥るのは、あなたが良いとこのお坊ちゃん/お嬢ちゃんでないからですよ。辛いという一言で、上げ膳据え膳、すなわち、座して待つだけで助けて貰えるはずはないのです。ならば、自分の苦悩から抜け出るには、死にものぐるいに働くことです。あざけ嗤われようが、足を引かれようが、苦悩の解決とは関係ないことで、邪魔するなと怒鳴りたいことであろうが……とにかく働くことです。そうやって、徳を積まなければ弱い加護が強くなるはずがない。

痛み止めをいくら飲んでも健康にはなりません。ただ、ジタバタとするより心身が休まり、ひいては自然治癒力が働くというだけ。苦楽だけで考えずに為すべき事を考えて下さい。痛みを止めることよりも痛みを利用して幸せになれないかを考えるのです。

・・・・・・・

 勝ちがたい相手なら……肉を切らせて骨を断つ……すなわち、我が身を犠牲にしても相手に勝つ気概が必要です。痛いのがイヤなら、負け犬の如く、犬小屋に籠もって、わんわんきゃんきゃんと神経質に泣きわめくしかありません。

自分の傷の手当ては、相手に打ち勝ってからにすべきです。それが出来ないのは……自分に勝たずに人に勝とうとするもの。自分に負けながら、人に勝とうとするのはナンセンスです。

……今回は、どうナンセンスなのかをお話ししたい。

苦しい。負けたくないが苦しさに耐え難い。苦しみに耐えて勝つのでもなく、苦しみに耐えかねて負けるのでもなく……負けるのも苦しいのもイヤだ!!

こういう人がどういう行動を取るのか……大抵は自分の味方に八つ当たりをするもの。ねえ、そんなことをしたら自分の味方を減らすだけとは思いませんか?

・・・・・・・

 苦境に陥るのは、自分が未熟だから。そして、自分を守るものが弱いから。――駄々をこねても問題は解決しないし、泣いても喚いてもどうにもならない。出来るのは苦しみに耐えて死にものぐるいに努力するか――泣いて諦めるかだけ。あえていえば、今回は泣いて諦めても、それが自業からくるなら、次々に同じような苦しみに襲われるということ。

これは信仰の問題でも、心霊的な問題でもないのです。

・・・・・・・

 じゃあ救い/希望がないのかって?

いや、問題は別な所にあります。

その希望はあなたを助けるのか、それともあなたの苦しみを増すのか?

・・・・・・・

 行いが正しいかどうかで、苦しみが決まるわけではない。何も為さなければ何も得られず、多くを為せば反動も大きい。すなわち、勉める人ほど大きな苦しみを得る。しかし、人には好むものと好まざるものがあるのと同様、耐えやすいものと耐えがたいものがあるのが自然の理。

気がつけば、弱点のある所に澱みのごとき、災難が集まるのは、物事の流れを水にたとえるとわかりやすい。すなわち、何の障りもなければ水は蕩々と流れ、障りがあれば、その後ろに渦が巻くのが流れなのである。

神仏……すなわち、情ある力が、汝らの不幸・災難を、魂を磨く良い題材と喜んでいるわけではない。何となれば、それは自然の理が生み出す一つの現象であり、一つの難が、何十もの苦しみを舞い上がらせるという働きを持つがゆえ。

人の苦しみが、一つの罪に一つの苦しみだけなら、なんとわかりやすく、耐えやすい試練なのであろうか。だが、人の行く道は、大げさで判りにくく耐え難い。

信仰は節理を知る為の手段の筈が、苦しみに耐える為の手段に落ちぶれている。これでは人が救われようはずもない。

痛みから学ぶのは難しい。大変に難しいのだ。だが、諦めては苦しみて何も得られず、その困難な道は誰が仕組んだのでもなく、ただ眼前にあるだけ。すなわち、あなたが選んだ道なのだ。

仮にあなたが救われるとせよ……あなたが選んだ道だ、あなたが犠牲を免れる道はない。それがあると思った時、あなたは出口のない迷宮に迷い込むのである。傷つくべき因縁は傷無くして出られない。ただ、傷を少なくする可能性があるだけなのだ。


憑依現象を考える

2004/06/09

 久しぶりに霊障に関する相談が舞い込みました。むろんプライバシーが絡みますので詳細な説明は出来ませんが、考え方なりとお役に立つかも知れません。

霊障……憑依を自覚する

 憑依現象とは、『主に悪霊であるところの憑依霊に支配されて、意志とは異なる行動を取らされる』と、一般には考えられていることでしょう。

 ところが現実問題、実務的にいうなら、当人の意に反する行動を強要するのは非常に困難です。

 仮に出来たとしても……その可能性を論じるのは非建設的です。困難だからといって出来ないわけではないし、現実に行われたら対処の方策が必要なのですから。

 重要なのは、憑依によって当人の意志に反する行動を強要することが非常に困難であると言うことです。困難であるというのは憑依霊にとっても苦痛・苦労があり、出来ることなら相手も止めたがるだろうと言うことです。

 俗に、お線香や供養、またはお札や霊媒・行者によって除霊が出来るというのは、憑依霊よりも強い霊力があるからではありません。はっきり言って、お線香やお札に霊力はないし、御経・祝詞などにも霊力は期待できません。

 ただ、憑依霊の面目が立てることで、退きやすくするというのが本音なのです。

 自分が辛い時には相手も辛い。こういう時に意地を張るよりもこちらが折れてやる方が穏やかな解決に向かいます。反対に何者かの助けを得て更に強引に押し出そうとすると、相手も意地になって助けを集めたりします。……戦場になるのは相談者。苦しむのは相談者なのです。

 しかしながら……意に反するのは難しくとも、意に添うことならどうでしょうか?

 たとえば禁酒・禁煙の誓いを立てている人に、その誓いを破るような誘惑をする場合はどうか……これは意に反するわけではないので案外易々と成功したりいたします。正直言って、心霊知識と霊的能力に乏しい方が、自らの憑依霊に気がつくとしたら、それは比較的難易度の低い問題なのです。本当に難しいのは、被害者自身が憑依されているのに気がつかないような憑依霊現象です。……意に反することを強要するのは困難、そういう困難に取り組んでいる憑依霊が相手だから除霊は比較的簡単なのです。でも、意に添うことをささやく霊はむしろ被害者の助けを得て易々と憑依状態を維持します。これを打ち破れる霊媒は果たしてどれだけいるだろうかと思います。

 更に言うと、意に反するのは困難……困難であるにも関わらず実現してしまうとしたら、その被害者には相応の精神的な弱点があると言うことです。――つまりは、一般的にいって、憑依霊現象を自認する被害者は、霊媒でなくても解決しうる問題を抱えているものであり、それが解決するだけで憑依霊現象も解決しうるということです。

 霊媒は決して無能・無益ではありませんが、反対に唯一の解決策とは限りません。つまり、霊媒抜きでも大多数の場合、除霊が成立するでしょう。結局、大半の憑依霊現象は、精神病や気の迷いと言いきることも難しくはありません。

 

強い憑依霊がいる

 たとえば合気道という武術では、相手の力を利用して放り投げたりいたします。相手が強いか弱いかは、さしたる問題ではなく、自分が相手よりも巧みであればそこに勝機はあります。


 災難が続くので、霊感の強い友人に見て貰ったら、『強い悪霊が憑いていて私にはどうにもならない』といわれて不安になった……憑依霊に関する相談にはこういうパターンが多いのです。失礼ながらこう言わざるを得ません。

 中途半端な心霊知識が事態を拗らせている。

 世の中には悪い人もいるけれど、良い人もいます。世の中の善し悪しは、善人、悪人の存在の有無ではなく、善悪のバランスが問題なのです。強い悪霊がいた所でなんだというのでしょう。それ以上に強い祖霊や守護霊がついているなら心配はいません。反対に、守護霊・祖霊がそっぽを向いていたら、どんなに弱い悪霊でも酷い障害をもたらし得ます。

 人はほんの一押しで大きく運勢を変えるのです。問題は悪霊の強弱ではなく、自分を取り巻く環境の善悪のバランスなのです。

 物事の一面(この場合は悪)だけを見て、全体を考えようとするのは、それこそ半人前の霊媒の仕事です。……どんなに霊感が強くても、偏りがあることは否めず、偏りは往々、別な問題の温床となるのです。

 憑依霊の判定に限らず、政治でも何でも、善悪のバランスで考えず、悪なら悪の問題点だけを論じる人を散見します。しかしながら、私は、せめてバランスで物事を見ない人は三流の論者として耳を傾ける気が致しません。そして、バランスで物事を見る人も、せいぜいは二流の論者としてしか受け止めません。

 しかし、世の中には慧眼という表現が当て嵌まる論者をたまに見掛けるのです。そういう人は何を語らせても周囲を唸らさずにはおきません。

 つまり……心霊にある特別な物の見方、視点というのに囚われぬ事です。社会一般にあるのと同様なくだらない視点が多いのが現実なのですから。正しい視点というのはすべてに対して有益な物の見方、考え方であり、それこそが大切なのです。

 霊障に出会っても、人は良識を求められるのです。


2004年 06月 09日

魂を磨く

2004/06/09

霊性の向上

2004-06-08


一体、私たちの心はどこから生まれ、死んでどこに行くのでしょうか。

 無から生じて無に帰っていく・・・だとしたら、なんと寂しい事でしょう。心霊思想の中には輪廻や再生と呼ばれる「生まれ変わり」に関するテーマもありますが、ほとんどの人々は前世に関する記憶がありません。

 もしも、人々が前世に関する記憶を持ったまま生まれてくるのであれば、誰も死を恐れず、科学的な証拠がないからといって、心霊思想を否定する事もないでしょうに、再生論を信じるかどうかは別として、誕生は前世との断絶であり、死は現世との断絶であるのは、こと、心に重点をおく限り一般的な事実として逆らい様が在りません。

 そう、私たちの人生の前には、死が恐怖を伴なって立ちはだかっています。生まれてこなければ死を恐れる必要がありません。もしも、世のオカルト話がみな本当で、死後の世界が怨霊の跋扈する恐ろしいところであるなら死とは単なる恐怖に留まりません。

 反対に、霊界がすばらしいところならなぜ、わざわざ地上に生まれ変わり、労働に従事し、天候を憂い、飢餓や病気、そして老衰と争わなければならないのでしょうか。

 地上に生を受ける事、それに一体いかなる意味があるのでしょうか?


「霊性」の意味が分からない!

2004-06-09

2009-12-26 修正 

 

 シルバーバーチの霊訓を読むと、霊性や、霊性向上という言葉が頻繁に出てきます。この霊性、霊性向上という言葉の意味がわからないという話を良く聞きます。

 自明のことはわざわざ説明しない――それはある意味、当たり前の事で、日本ではスピリチュアリズムが独立した一つの思想体系と勘違いされているようですし、宗教とは別なものと考えている人も多いようですが、物質偏重主義に行き詰まったキリスト教に対する一つの回答がスピリチュアリズムなのです。 世界に広く知識を求める人には自明の事ですが、霊性、霊性向上というのはキリスト教思想から受け継いだもので、「宗教心のあり方」と解すようです。霊性は決してスピリチュアリズム固有の概念ではありません。


寛容と慈愛を学ぶ

2004-06-10

 

 親が子を愛するように、あなたは人々を愛するべきです。相手の未熟さ、思慮の浅さに対して寛容をもって接し、怒りを和らげ、悲しみを慰めるように。

 怒りや悲しみ、そして愚かさで曇った人の心こそ、親が子を愛するような、偉大で寛大な愛を必要とするのですから。

 たとえ相手が報いる事がなくても、あなたが偉大な愛を実践すれば、必ず偉大な愛によって守られます。しかし、我が子は愛しても、人を憎むなら、たとえあなたが難を逃れても、災難はあなたの子供に受け継がれてしまいます。

 あなたが人を害する時に相手の弱点を狙い撃ちするように、復讐もまたあなたの弱点を狙ってくるからです。独善的な愛は、あなたの愛するものを害し、公平な愛は、あなただけでなく、あなたの愛するものも守ります。人を憎むのは簡単であるけれど、人を愛さずには苦しみから逃れられない……それが神の定めた摂理なのです。

 私たちの心から生じた一切は、自らの元に戻ってきます。因果律の定めは誰も曲げる事は出来ません。いかに偉大な宗教や思想を持ち、立派な祈りを捧げたところで、死や病を免れる事も、因果律の定めから逃れる事も出来ません。

 真理を学んで身を律する……悪しき種子を蒔かなければ、悪しき収穫の責めもなく、良き種子を蒔けば、良い収穫という報酬があります。祈るだけで人生が豊かになる事はありません。

 真理を学んで幸せになるというのは、因果律の働きを用いて幸せを生み出すという事なのです。あなたが人を愛すれば、人もあなたを愛します。その愛が公平で寛大なものなら、あなたも公平で寛大な扱いを受けるでしょう。

 しかし、偏狭さを正義と呼び、自惚れを寛大さと呼び、名誉欲を愛と呼び、独善を真理と呼ぶ人が、一体何を受け取るのでしょう。真理の働きは、その呼び名でなく中身に応じて働くのです。

 私たちは寛容と慈愛を学ばなければなりません。それこそが、私たちを見守る力なのですから。寛容さに対して偏狭で答えてはいけないし、慈愛に対してむさぼってはなりません。

・・・・・・・

 あなたが神の愛、真に偉大な愛の助けを切望したところで、あなたが憎悪を振りまいていればどうして神の愛があなたの元に届きましょう。

 慈愛で満ちた心は、自ら大いなる愛を感じられるでしょうが、慈愛を失った人々、寛容と寛大さの大切さを忘れた人々は、人の手を経なければ神の愛を感じる事は出来ません。

憎悪や妬みが、大いなる愛を遠ざけるのです。

 人の憎悪に、憎悪を持って返せばもっと多くの憎悪が戻ってきます。許す事を知らなければ、憎悪は増えるばかりです。

 寛容と寛大さを学ばなければ、この泥沼から這い出ることは出来ません。いかに神の愛が偉大であろうと、私たちの心がちっぽけで浅ましければそれを感じ取る事が出来ません。

憎悪で満ちた自らの心を、洗い、清めて、神の愛を感じる。

 霊性の向上とはそうして行われるのです。


魂を磨く

2004-06-11

 

 霊性向上をテーマにしながら、霊性の意味や、霊性向上法がわからない(多くの人が聖典視する「シルバーバーチの霊訓」中に説明がない)……といった矛盾は、スピリチュアリズムに日本古来の心霊思想を付け加えた、心霊主義では考えられない事です。

 別に心霊主義がスピリチュアリズムよりも優れているという意味ではありません。目指すものが同じであっても、心霊主義ではキリスト教思想よりも神道や仏教思想の影響が強いために考え方が異なるのです。

 具体的には、霊性と霊性向上という表現をあわせて、「魂を磨く」と考えるのです。そして、これはスピリチュアリズム導入以前から日本にある考え方です。もっとも、スピリチュアリズムにおける「霊性向上」の矛盾と同様、心霊主義における「魂の研鑚」にも、大きな葛藤があります。一体誰が、人の心を指差して、ここが魂だと具体的に示す事ができるでしょうか?

 突き詰めれば、愛こそが霊性の本質ですが、では、我が子のためなら人殺しも辞さない……というのが愛・霊性であるのか、好ましい相手の意を得るためには、ストーカー行為も辞さないというのが愛・霊性なのか。……愛を持てば良いというのではなく、愛の質を高めていく事が大切なわけです。

なにしろ魂を見出さない限り、磨きようが無いではありませんか。

 

思想の違い

 蛇足ですが、霊性向上というテーマで文章を作成していたら、

 『かまどではご飯が炊き上がっているのに、わざわざパンを買いに行く。無駄な事だ』と聴こえました。心霊主義もスピリチュアリズムも、同じく霊界の一つの計画の一部であるのにも関わらず、表現方法の違いから微妙に差があることをどう説明したものかを考えていた時の事です。

 日本人に、マイヤースの「永遠の大道」や、「シルバーバーチの霊訓」が不要であるというのではありません。外国産でも良いものは良いのです。しかし、日本古来からある良いものまで、わざわざ輸入品に置き換える必要は無いだろう……というのです。

 まあ、主に古い活字・文体を読むのが面倒という理由から、文献には、スピリチュアリズムの代表であるシルバーバーチの霊訓を活用しつつ、相変わらず、自分では「心霊主義」という表現に拘る霊媒の、その背後霊が言うことですが。……が、事はそう単純ではありません。

 日本人の背後霊に、神道・仏教の思想概念と、キリスト教の思想概念と、一体どちらが扱いやすいと思いますか?

 出来なくは無いが、やり難い……無駄が多いという事なのです。そして、背後の力を生かせないで、交霊主義はなりたちません。

 しかしまあ、背後霊というのは、けなげなものです。人が手枷足枷をかけているのに懸命に働いています。そう、現実として、心霊研究は、研究者・霊媒・背後霊団の同床異夢の葛藤の上に成り立っているのです。


心霊研究の意義

2004/06/07


 心霊研究が対象とするのは死者の魂、それは自我を持った存在です。そして、心霊研究の有力な手段となるのは、霊媒であり、それもまた自我を持った存在です。あなたが心霊研究を志すなら、幾人もの自我の手を煩わせねばなりません。そして、その研究の良否は、あなたの研究者としての態度よりも、むしろ接する相手……例えば霊媒であり、対象となる霊であり……の自我の問題こそが重大な影響を与え事でしょう。


心霊研究の意義(霊界の言い分)

 事実の究明、真理の探究とは、人が求めてやまぬ本能の現れであります。他の動物が生きることと、子孫を残す事に本能を傾けるのに対して、人々は心の繋がりや、探究心の満足を、自らの命よりも、そして、子孫を残す事よりも強く求める事が出来ます。

 私ども(霊界)が、皆様に働きかけ、明らかにしようとする「死後の真理」は、単に皆様の好奇心を満たす為のものではありません。これらは私どもが生前抱いていた、疑問と懊悩《おうのう》に対する答えでもあります。

 心霊研究に携わる多くの皆様は、不確かな霊媒の勘を通じてのみ霊界の真理に触れ得る事をとてももどかしくお感じの事でしょう。「出来る事ならば直接に見聞したいものだ」 そうもお考えでしょう。私ども死者は、すでに霊界の真理を直接に見聞しております。そうして得た知識を自己満足の引き出しにしまい込まずに、地上の皆様と分かち合いたいというのが、心霊研究に対する霊界側の意図であります。

 皆様の求める心に、生前の自分たちの渇望を感じ取り、私どもは今、皆様にこうして語りかけております。皆様の懊悩《おうのう》は私どもの懊悩《おうのう》であり、皆様の喜びは私どもの喜びであります。

 私どもは今、肉体が生み出す不安定や欲求から開放されて、いささかゆとりのある境涯を得ております。反して、皆様の探究心は、身体が発する不安や欲求に揺さぶられて、留まることなく揺れ動いております。私どもから見て、岸壁から揺れる小船に荷物を運び込むような難しさが、地上の皆様との交流には伴ないます。

 皆様は、常に揺れる小船にあって、揺れている事がむしろ当たり前に思えているかもしれません。いや、中には己の不動を信じて、自らの心を、揺れる小船に譬えられる事を不愉快に感じる方もいらっしゃる事でしょう。いずれにせよ、私どもとの交流が難しい事には違いありません。

 単なる技能だけで、皆様と私どもを隔てる困難を乗り越えられるとは思わないで下さい。困難を乗り越えるには努力が必要であり、努力には根気と誠実さが求められ、根気と誠実さを与えるのは献身の情熱であり、その情熱の火元はお互いの友愛であります。

 友愛が必要である……皆様、私どもは、皆様に愛を強いているのではありません。しかし、利己は利己を、力は力を、愛には愛を持って報いるのが公平であり、人情というものでありましょう。私どもは全てにおいて愛で報いたいと常に努力しておりますが、私どもの思う愛と皆様の思う愛とが食い違う事も多々あります。顕幽両界、手に手を取り、協調から調和へと向かう中で感じ取れる友愛を大切になさってください。その友愛こそが私どもとの絆であります。

 皆様が地上において、利の絆、力の絆、血の絆を不可欠のものと見なしている事は仕方のない事でもあります。しかし、肉体を失った後に、真に残るのは実に友愛の絆だけであります。生きている今、他に大切に思えることは数々ありましょうが、肉体の滅後にも残るものをどうぞ大切になさってください。

・・・・・

 真理を明らかにするという意味においては、私どもは一枚岩ではありますが、なかには子孫の幸福を強く願うものあり、死の恐怖を和らげんと発願するものあり、はたまた、ただ、とくとくと人に説くことを楽しむ者もあります。そういうばらばらの思惑は、決して霊界だけではなく、私どもの努力に応える地上側の参加者にも混乱を見る事が出来ます。

 小異に拘らず大同につくす覚悟で共に真理の探求に臨みましょう。真理を求めている限り、あなた方は決して一人ぼっちではありません。私どもの姿をお見せする事は適わなくとも、皆様が正しい目的の元に歩み続けるのならば、見えざる友はあなたと共にあり続けます。

 反対に、あなたが小異に拘れば意見の違いが論争を招きます。小異とはたいていが未熟なる見識から生じるものであり、小異を論じる事は互いの見識の未熟さを論じる事でもあります。あなたが己の未熟さを突きつけられても冷静でいられる方ならば、冷静な方々と議論を通じて見識を深め合う事も良いでしょう。しかし、未熟さから始めて頑迷さにたどり着く事の無い様にしてください。

 自分を守ろうとすれば、自分以外の全てを敵と恐れなければなりません。自分たちを守ろうとしてこそ、自分以外の味方を期待する事が出来ます。そして、争う事を止めたとき真に敵を滅する事が出来ます。

 真理に接する態度もこれと同じ事、自分のためにだけ問題に取り組むならば、自分の力だけしか当てにできません。人々の為に取り組むのならば、広く人々の力を当てにする事も出来るでしょう。そして、求めるのを止めて理解する事を心がけてこそ、はじめて完全なる答えにたどり着きます。

 真理が全てを支配するなら、自分があることもまた真理の働き。真理に有らしめられている自分が真理を求める事は、自分に真理が無いという葛藤《パラドックス》を生み出します。葛藤とは思考の袋小路、行き止まりなのです。まず、自分を有らしめている真理を理解する事です。そうしてはじめて人は葛藤することなく真理に至ります。

 人はいずこより来て、いずこに去っていくのか……無より生じて、無に帰ると信じるかぎり、人は葛藤から逃れられません……未熟な考えは、その不完全さによって滅びます。

 生きる事は真理に従う事ですが、真理の為に生きるのは本末転倒となります。善く生き、その体験を理解し、真理を感じ取りながら生きてください。それこそが心霊研究の真の意義です。

 霊の境涯(霊界の風土)を数千に分類し、霊魂の職務を数万に分類したところで、謎が謎を呼ぶだけの事です。しかし、霊魂の目指すものは一つであり、霊魂が進む道は二種類でしかありません。……つまり行き止まりの道と行き止まらぬ道=真の回答につながる道だけです。

 皆様、どうか見極めてください。今を見るなら……この世界はなるほど複雑怪奇であります。しかし、未来を眺めるなら……進むべき道は一つであり、そして今は正否が判らぬからこそ、皆様が選べる道は二つだけなのです。

可能性のある道か、可能性の無い道か。

 未来はたった二つの道に絞る事が出来ます。


2004-06-06

霊査事例: 2004年6月2日

2004/06/02

 以下に紹介するのは、精神統一の練習中に得た、参加者・個人あての代表的な霊査です。当然、対象となる相手によって正反対の霊査も出てくる事でしょう。  以下に紹介するのは、精神統一の練習中に得た、参加者・個人あての代表的な霊査です。当然、対象となる相手によって正反対の霊査も出てくる事でしょう。


短気な総論

 季節柄、皆さん、身体にストレスが溜まっているようです。休みにはよく遊び、風呂で伸びをして、早めに寝る事です。

霊査事例1

 思い切り息を吐きながら、肩を上げ、息が続かなくなったら、とんと離す。 これをに三回繰り返して下さい。それから自分で肩を揉んでみる。

 柔らかくなっているはずです。大分。

 さらにげんこつで自分の頭をぐりぐりとしてみる。堅くなっているのに気がつくはずです。 しわが増えたとか、白髪が見つかった等と考えるよりも、重大なのが、凝りが抜けなくなった、堅さが戻らなくなったという事なのです。

 ここまではよろしいか?

 年寄りだから頭が固いのではなく、頭が固いから老化が早いのです。むろん、心の柔らかさを大切にしても、身体の老化は完全には止まりません。しかし、その努力は、老いてもなお好かれる人と、老いなくても嫌われる人の差なのです。

 老化を恐れるよりも、愛されなくなる事、心の柔軟を失う事の方が大問題と知って下さい。それに気がつけば、私たちがあなたの何を大切にしているかを理解しやすい事と思います。

霊査事例2

 無駄な努力を棄てる。それを達観などといいます。

 疲れ果てれば否応なく達観しますが、あなたは努力と工夫で達観を遅らせたがります。でも、精神統一の修行とは、疲れ果てる前に達観する事を目指しているとは思いませんか。

 あなたの眼前にはなるほど困苦の森林が広がっているかも知れません。でも、あなたが正しい方向に進んでいるなら、きっと力強い助力が得られる。そうは思いませんか?

 あなたにとって、努力とは、守護霊・祖霊の力を借りない事のようです。

霊査事例3

 ネズミが見えます。あなたの部屋の真ん中で、えさをむさぼっている姿。

 それはつまり、ついつい姑息な生き方の中に大義を見いだそうとしているけれど、実は自分の生活の心配をしているだけという事です。

 勝手に生きて良いというのではなく、もっと胸を張って生きて良いのです。たとえネズミであろうとも、神の被造物に違いはないのですから。

霊査事例4

 あなたの心の中にも、まだまだ沢山の、言い訳が潜んでいます。どんな立派な行為をしても、下手な言い訳がすべてを台無しにしてしまう事もあります。反対に、大きな失敗を言い訳もなく受け止めて評価される事もあります。

 たとえ拙くても最善を尽くす。ほら、あなただって我が子にそういっているでしょう。なぜ自分では出来ないのですか。それではいずれ、我が子と目が合わせられなくなりますよ。かわいい子なのに、その目を見つめられないなら寂しいではありませんか。

霊査事例5

 小声で、早口に、コチョコチョいうのは止めましょう。日常でそういう話し方が多いから、あなたの言葉が背後に注目されないのです。あなたは自分の心を表現する事が下手だと自認しています。そして、その練習方法が見つからずにもいます。

 自分の心を表現する事を棚上げして、自分が目にした事実を言葉にする練習を始めたらどうですか。たとえば、霊査事例さんと一緒に目にした物を短く簡潔にそして興味深く表現する事を競うとか。

 良いコミュニケーションになりますよ。

霊査事例6

 肩こりや疲労を肉体だけのものと思ってはなりません。よほど寝不足でもない限り、幾晩も疲れがとれぬほど疲労する事は人間には出来ないのです。

 あなたの肩こりの原因は、疲労というより、明日への緊張がもたらすものです。自分の苦労を良く分析してみる事です。必ず活路は開けます。


霊査事例: 2004年6月2日

2004/06/02

 以下に紹介するのは、精神統一の練習中に得た、参加者・個人あての代表的な霊査です。当然、対象となる相手によって正反対の霊査も出てくる事でしょう。  以下に紹介するのは、精神統一の練習中に得た、参加者・個人あての代表的な霊査です。当然、対象となる相手によって正反対の霊査も出てくる事でしょう。


短気な総論

 季節柄、皆さん、身体にストレスが溜まっているようです。休みにはよく遊び、風呂で伸びをして、早めに寝る事です。

霊査事例1

 思い切り息を吐きながら、肩を上げ、息が続かなくなったら、とんと離す。 これをに三回繰り返して下さい。それから自分で肩を揉んでみる。

 柔らかくなっているはずです。大分。

 さらにげんこつで自分の頭をぐりぐりとしてみる。堅くなっているのに気がつくはずです。 しわが増えたとか、白髪が見つかった等と考えるよりも、重大なのが、凝りが抜けなくなった、堅さが戻らなくなったという事なのです。

 ここまではよろしいか?

 年寄りだから頭が固いのではなく、頭が固いから老化が早いのです。むろん、心の柔らかさを大切にしても、身体の老化は完全には止まりません。しかし、その努力は、老いてもなお好かれる人と、老いなくても嫌われる人の差なのです。

 老化を恐れるよりも、愛されなくなる事、心の柔軟を失う事の方が大問題と知って下さい。それに気がつけば、私たちがあなたの何を大切にしているかを理解しやすい事と思います。

霊査事例2

 無駄な努力を棄てる。それを達観などといいます。

 疲れ果てれば否応なく達観しますが、あなたは努力と工夫で達観を遅らせたがります。でも、精神統一の修行とは、疲れ果てる前に達観する事を目指しているとは思いませんか。

 あなたの眼前にはなるほど困苦の森林が広がっているかも知れません。でも、あなたが正しい方向に進んでいるなら、きっと力強い助力が得られる。そうは思いませんか?

 あなたにとって、努力とは、守護霊・祖霊の力を借りない事のようです。

霊査事例3

 ネズミが見えます。あなたの部屋の真ん中で、えさをむさぼっている姿。

 それはつまり、ついつい姑息な生き方の中に大義を見いだそうとしているけれど、実は自分の生活の心配をしているだけという事です。

 勝手に生きて良いというのではなく、もっと胸を張って生きて良いのです。たとえネズミであろうとも、神の被造物に違いはないのですから。

霊査事例4

 あなたの心の中にも、まだまだ沢山の、言い訳が潜んでいます。どんな立派な行為をしても、下手な言い訳がすべてを台無しにしてしまう事もあります。反対に、大きな失敗を言い訳もなく受け止めて評価される事もあります。

 たとえ拙くても最善を尽くす。ほら、あなただって我が子にそういっているでしょう。なぜ自分では出来ないのですか。それではいずれ、我が子と目が合わせられなくなりますよ。かわいい子なのに、その目を見つめられないなら寂しいではありませんか。

霊査事例5

 小声で、早口に、コチョコチョいうのは止めましょう。日常でそういう話し方が多いから、あなたの言葉が背後に注目されないのです。あなたは自分の心を表現する事が下手だと自認しています。そして、その練習方法が見つからずにもいます。

 自分の心を表現する事を棚上げして、自分が目にした事実を言葉にする練習を始めたらどうですか。たとえば、霊査事例さんと一緒に目にした物を短く簡潔にそして興味深く表現する事を競うとか。

 良いコミュニケーションになりますよ。

霊査事例6

 肩こりや疲労を肉体だけのものと思ってはなりません。よほど寝不足でもない限り、幾晩も疲れがとれぬほど疲労する事は人間には出来ないのです。

 あなたの肩こりの原因は、疲労というより、明日への緊張がもたらすものです。自分の苦労を良く分析してみる事です。必ず活路は開けます。


交霊主義

2004/06/02

交霊主義とは

2004-06-01

 

 交霊主義とは、聞き慣れない言葉かもしれません。19世紀に欧米で成立したスピリチュアリズムの別称(心霊主義と同様に)……交霊・霊からのメッセージを通じて人生を善くしていこうとする生き方から生じた和名です。

 人の数だけ生き方が有るように、人々が交霊に望むものも人それぞれです。ですが、とりわけ「霊性向上」「永遠の生」というテーマを抱く人々にとって、交霊という手段は重要な意味を持ちます。

・・・・・・・

 ここに一冊の書物があるとします。人の数だけ理解の方法があり、人の数だけ応用方法があります。そして、本は書かれていないことは何も答えてくれません。

 では、書かれていないことはどうして知れば良いのでしょうか?

 そしてあなたが正しく理解しているかどうか、どうやって知れば良いのでしょうか?

 スピリチュアリスト達の回答は、交霊会を行うことでした。

・・・・・・・

 知識を人と比べることは容易です。ですが、霊性や霊格の高さはどうやって比べればよいのでしょう。(そもそも霊性・霊格の意味を理解している人がどれだけいることでしょう)

 人が死後、皆同じ境遇に有るというならいざ知らず、人は生れてきた段階からその環境は大きく異なるのです。果たして、自分は死後、いかなる境遇に置かれるのか、一体どうやって知ることが出来るのでしょうか。心霊書・霊訓の中の珠玉と讃えられる、シルバーバーチの霊訓ですら、「霊界の様相は言葉で表現することは出来ない」としているのです。

 言葉で表せぬものを感じ取るのに、一体何が必要でしょう?

・・・・・・・

 霊界に意見を求めようとする交霊主義は、守護霊を神に祀った宗教ではないし、霊媒を教祖とする宗教でもありません。そもそもスピリチュアリズムとは、古来から有った霊媒現象に、客観的な見方を持ち込んだことに意義があるのです。交霊もまた、客観的に行われなければなりません。

 霊媒の言うことが、信じられるか、否か……そんな論争は、霊性向上・霊格向上の修行法を知らない素人のものなのです。大切なのは信じることではなく、知ることなのです。

 人間関係の構築には、小さな信頼を、時間をかけて積み重ねていく。他のどんな方法が信頼できるというのでしょう。熱しやすければ冷めやすい、容易に手に入ったものはそれなりの価値しかないのです。


交霊の意義

2004-06-02

 

 あなたは地上で学んだ心霊知識だけで、死後に低級霊や悪霊に惑わされたりしないと確信できますか。きちんと霊界でのガイド(案内役)にめぐり合う事ができるでしょうか。

 今、身近に霊による障害を感じていない人も、死後に低級霊に騙されるかも知れません。未経験のこと、いまだ起こらざる事におびえるのは愚かではありますが、自分を過信するのは愚か以上に危うい事でしょう。

 実をいえば、私は、死後の事は死んでから学んでも間に合うと考えています。少なくとも、生きている今、一番大切なのは死後の事よりも人生を全うする事なのです。そして、今の使命をおろそかにする人を一体誰が大切にするというのでしょう。不満屋・皮肉屋を大切にしたがるでしょう。死後の境遇に小細工を労するよりも、すがすがしい人間として生きることのほうが良い……そう思いませんか?

 ですが、縁あって心霊を学ぶ事になったなら、自分が無事に霊界入りするための練習までしておくにこした事はありません。その目的のためにも交霊は有益です。この時大切なのは、霊媒相手に交霊をするのではなく、霊媒の介助の下に交霊を行うのだ……という認識です。霊を信じて、自らの人生を任せるのが目的ではなく、自分が交霊を望んだ時、いかなる霊が語りかけてくれるか……ということも大切なのです。

・・・・・・・

 私が心霊相談を通じて感じたことですが、相談を受けて直ちに、素晴らしい回答を受信し、相談者の返事だけに使うのはもったいないと、ホームページで皆さんに紹介した事が多々あります。

 反対に、非常に回答を得るのに難儀する事も多々あったのです。難儀した時には、私も師匠らに意見を求める事があります。その結果などを考えると、この差は私の能力の不安定さというより相談者の持っている縁の違いと言えます。

 誰もが良い助言を得られるとは限りません。しかし、今助言を得る事が出来ず、良い助言を受けるための努力や工夫もないまま死んだとしたらどうなるでしょう?


瞑想

2004-06-03

いかに魂を認知するか

 たとえば、死後の個性存続をテーマにする心霊学は、内外の偏見と差別によって、科学として認知されません。その一方で、同様に科学的な測定手段がない人の心を扱う心理学は科学として認知されています。

 たとえ科学的な測定手段がないとしても、誰もが自分の心の実在を実感している一方で、死者の霊魂を認識する人はそう多くなく、まして人に実在を説けるほど信念を持つ人は稀であるからともいえるでしょう。

 しかし、ここで取り上げたいのは、心霊学の科学的な認知ではありません。心は誰でも実感できますが、魂を実感するのは難しいという事なのです。

 実を言えば、『自己の主体を魂に置こう』という提言は、決して真新しいものではありません。ただ実現方法が非現実的であったというだけで、仏教では全ての人に宿る『仏性』の発現こそが悟りであると教えていますし、キリスト教でも、霊性の向上こそが神へ近づく手段であると瞑想を行います。その目指すところは心霊思想と大きく異なるものではありません。

実践・体験

 たとえば身体を鍛えるなら、運動すればよい事を誰もが知っています。では、人の心や魂は一体どうやって鍛えればよいのでしょうか。オカルト的に言えば、除霊や悪霊との対決は、なるほど、魂や霊力の鍛錬を必要としそうですが、誰もが除霊を行えるわけではありません。

 もしもあなたが知識を向上させるなら、良書に親しむと共に実践を行う事が大切です。良書に親しむだけならば身勝手な理解に陥りかねませんし、机上の空論を元に、他の知識を推し量れば、過ちが真実を押しのける事になりかねません。しかし、心霊知識を一体どうやって検証するというのでしょうか。

 信頼できる先達・先人と友好を結び、その知識や体験を生かす事で机上の空論に陥らないようにする事もできるでしょう。ですが霊的な体験なくして、その先達・先人が正しいと一体、どうして知ることができるのでしょうか。

 実践と体験、それなくしては、『魂を自己の中心に置く』という、心霊主義のテーマは絵に描いたモチに過ぎません。その手段として心霊主義では、仏教やキリスト教などでも用いられる瞑想を行います。しかし、何よりも特徴的なのは、仏教やキリスト教ではまったく省みられなかった手法、むしろ積極的に否定された手法こそが、心霊主義における魂の実感方法……すなわち、交霊なのです。

瞑想 (精神統一・心霊統一とも呼ぶ)

 たとえば修行者が、仏性や霊性を見出す努力を続けて実りがないのも、生きていく上で必要な矛盾と、自身の向上のために必要な理想との間にうまく折り合いがつけられなからといっても過言ではありません。

 ですから仏教でもキリスト教でも、肉体の働きを静めて心を働かせる瞑想(仏教では禅や諦観などと呼ぶ)を行い、一時的に矛盾を棚上げしようと努力します。身体の働きに対する関心を止める事がなければ、心の修行・精神修養などは成り立つはずがなく、肉体的な荒行も、止めるための動きである事を理解しない人では、荒行をこなした分だけ修行者が傲慢になっていきます。

 これは肉体的な修行だけではなく、知的な修行にも当てはまります。知性を止めるための動きとして勉強でないと、勉強した分だけ傲慢になり、見知らぬ現実に直面した時、現実よりもむしろ自分の知識を信じて、現実を無視してしまう傲慢な知者となるのです。本当の知者とは本からではなく現実から真理を導ける人なのです。

 動と静、心の働き、知の働きにブレーキを持たない人は、ありもしない不安におびえ、無駄な妄想に囚われて現実がおろそかになってしまいます。そういう人は、世間になんと多い事でしょう。そういう人が心理的なカウンセリングを受けると、『しっかりと自分を持って……』と助言されるそうですが、自分とは果たしてどう持てばよいのでしょうか……

 という心配はさておき、正しい瞑想は、普遍的でゆるぎない自分を見出す役に立ちます。わざわざ『正しい』と表現したのは、座禅の形だけで妄想していたり、心を空にするのではなく、「空っぽ」や「真っ白」を真剣に考えている人もいるからです。

 心霊主義における、瞑想の特徴は、基本的に霊能者の介助の下で行う点にあります。「空っぽ」や「真っ白」を真剣に考えている人にその過ちを指摘し、心の耐え切る限界を見定め、妄想を生み出す軽度の憑依を取り除く事で円滑で意義ある瞑想をもたらすのです。


交霊

2004-06-04

 


いかに魂を認知するか

 魂の働きだけでは人間は成り立つ事が出来ません。そんな人間が、自らの魂を見出そうとするのは、波にゆれる小船の上で平衡を保とうとするぐらいに滑稽な事です。そして生きている人間に助言を求めるのは相手の利益と自分の利益が噛み合えばよし、相反してしまえば互いが敵同士になりかねない危険性があります。

 ではいっそのこと、すでに利害を超越した……つまり死んだ……相手に助言を求めてはどうでしょうか……このような考え方を一般的に交霊主義と呼びます。(心霊主義の別称でもある)

 ですが交霊は、仏教やキリスト教が、むしろ積極的に否定した手法なのです。果たして、交霊に危険はないのでしょうか。

 はっきり言って多大な危険、多大な悪影響が存在します。しかし、正しい指導者の元に行わなければ仏教やキリスト教の修行にも危険が伴なうのです。禅は発狂と紙一重の荒行ですし、神がかり的な教祖に組織されたカルト教団が、集団自殺や組織暴力に至ることは多々見られることです。

 むろん、他の手段にも危険性があるのだから交霊を行っても良いというのではありません。手段に罪があるのではなく、用い方によって悪影響がでるという事なのです。

 釈迦やキリストが、交霊に対して否定的である理由は実に明白です。このような聖人に比肩するほど、いや、無知な人々を指導できると認められる程の霊・人格の高い霊と、その助言を中継できる霊媒が、その当時にはほとんどいなかったということなのです。

 時代と共に人も進歩し洗練されていくように、霊たちもまた進歩し洗練されていくのです。交霊に関する状況は好転している一方で、二千年も前の主義・思想を現代社会にそのまま当てはめようとするのは無理がある……そういう状況を背景に生まれたのが、スピリチュアリズムであり、日本的なアレンジが為された心霊主義なのです。交霊には必然性があります。

交霊の必然性

 有り余る豊かさと膨大な情報、それらに振り回されず、自己を保つためには自らの心を鍛えざるを得ません。ですが、物質的な豊かさを追求してきた人々は、目に見えぬ心をいかに扱うべきか、という知識を急速に失いつつあります。

 たとえば見えるものならば、図に描き説明する事も出来ます。文書の形で世代を超越して伝達する事もできるでしょう。しかし一体、目に見えない人の心のありようをどう記録し伝達できるというのでしょうか。言葉に出来ず、図にも描けぬ心のありようは、身近なところでは「親の背中を見て」……つまり、身近な人とのふれあいを通じて学び、そして、より高度な手法としては相手の理解力に応じた比喩(いわゆる口伝)などを用いて、細々と伝えてきたのです。

 ふれあいを通じた学び方は、周囲の環境次第で効果に差が出ます。また、口伝で指導するにも精神性と霊性の違い、良心と仏性の違いさえも説明できない人が、何を指導できるというのでしょうか。

 心を育むのには、確かな霊性を備えた人との出会いと交わりが大切なのです。しかし、人は生きている限り、大なり小なり利害に縛られざるを得ません。そこに現世的な利害を超越した死者との交流の必然性があります。

交霊の対象

 もちろん、死んでもなお地上的な欲心を引きずっているような、いわゆる低級霊は、心霊主義・交霊主義が目指す交霊相手にはなりえません。

 たとえ祈祷を聴き入れて願望を満たし、悪霊を退けて安寧をもたらしてくれるような霊であっても……それも重要な仕事です……やはり、心霊主義・交霊主義が目指す交霊相手にはなりえません。

 たとえばあなたが生活苦にあえぎ救いを求め、神がそれを聞き届けたとします。 一つの包みの現金は一時、生活を豊かにしても使えば目減りし、いずれは使い果たしてしまう事でしょうが、しかし、豊かになる手段……たとえば、農作物の種子や、工具の類いであれば、使えば使うほど豊かになっていく事でしょう。

 差し迫った問題があるなら、「助け」は最善の手段ですが、人生に本当に必要なのは一時の助けではなく、継続的な指導であり、必要なのは問題の回答よりも解法の知識なのです。

 そう、心霊主義・交霊主義が重視するのは、個人のレベルに合った指導と、困っている時にその打開方法を示してくれる霊なのです。


交霊の危険性

2004-06-05

 

 進歩は、交霊の危険性を大きく減らしましたが、完全に消え去ったわけではありません。従って、心霊を人生に生かすには、まずその危険性を十分に学ぶ事が大切になります。このテーマは非常に大切なものであるのと同時に、これで充分という知識は決してありえないことです。

 従って詳細は、後述することになりますが、こと、交霊に関する危険について、二点掲示しなければ交霊というテーマを閉じることは出来ません。

妄想のはけ口

 宗教、そして心霊思想の多くは、科学に携わる人々から見て迷信深く思われていますが、それは子供向けの御伽噺や営業活動上の方便……端的にいえば嘘ですが、言った本人も真理と信じている事も多いのです……を、まともに取り上げた結果である事が多いのです。

 大抵の宗教や心霊でも、原因なくして結果なく、労働なくして報酬なしと因果律を説いているのにも関わらず、労力以上の報酬、いや働かずに報酬だけを欲しがる怠惰な人ほど熱心に信じる事も多々見受けられます。

 それは宗教や心霊・神秘思想が、人々の妄想のはけ口になっているという事であって、それに携わる全ての人が迷信に陥っているわけではないのです。しかし、熱心に信じ、祈る人々は、自分の願望を不可知な存在に押し付ける事に精一杯努力するばかりで、真理に耳を貸さず、真実に目を向け様とはしません。

 独善的な人はどこまでも独善的ですし、頑固な人はどこでも頑固なのです。それは、宗教思想の分野に限らず、いかなる人間関係の間においても問題になる事です。

 そして、寛容さを旨とする人々は、独善・頑固を説き伏せるよりも、そのような人々に囚われないで生きることを選んでいるのです。

遠くの灯明

 真っ暗な夜道をさ迷い歩いた人が、突然、遠くに灯明を見出したとします。灯明に向かって駆け出したいのが人情といえましょう。

 ですが、目的地が明らかになったとしても、足元が見えないことには変わりありません。たとえ気が焦ろうと、足元を探りつつ一歩ずつ前に進まなければ、つまづくか、ぶつかるか、落ちるか……せっかくの希望があなたに災難をもたらしかねません。

 心霊には、確かに危険性があります。ですが、一番危険なのはあなた自身が自分の心を押さえられない事なのです。

「心霊」

 薬も過ぎれば毒となります。 心霊主義において、交霊は非常に多くの益をもたらしますが、益に気取られて己のあり方をおろそかにすると、いかなる聖霊の教えであろうと、人生を誤る切っ掛けになりかねません。……拝霊主義

 反対に薄めた毒が薬となる場合もあります。人は失敗からも多くを学べるものですが、それは痛み乗り越えられた時の話なのです。ですから、不可知なものと接する際には、それを受け止める自分の心をしっかりと監視してください。慢心は自らを損なうだけでなく、大切な人々の信頼を損なう事だからです。

交霊の手段

 心霊主義思想に触れ、また、交霊の必然性を感じ取ったとしたら、次の関心は交霊の手段となるでしょう。一般の人々が交霊会に参加するチャンスはまずありませんし、自分自身が交霊会を行うのは才能的な問題もあります。 仮に才能的に可能であっても、低級霊に騙される事なく、有益な知識を得る事は非常に難しいのです。

一体どうすれば、交霊に参加できるか?

 私はその方法を隠しませんが明示も致しません。あなたが心霊主義を学ぶと同時に、寛容さを身につけていけばおのずと明らかになっていく事だからです。


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