‘2004/04’ カテゴリーのアーカイブ

死への恐怖

2004/04/30

2004年 05月 29日


 人体というのはおもしろいものです。姿勢が悪いと疲れやすいものですよね。なのに元気がよい時は自然と姿勢が伸び、元気がなくなってくると姿勢が悪くなります。そして姿勢が悪いと疲れやすい、疲れるとますます疲れやすい姿勢になるのは、まるで身体が休む為の言い訳を用意するように感じます。

 ところが、逃げたくても逃げられない事情が人生にはついて回ります。身体が嫌がっているのにだれだらと続けるこの不自然さ。心身不一致で続ける努力は往々、事故、病気の原因となります。

 実際問題として、先週からこの方、私の生活は非常に多忙を極めました。むろん、娯楽(旅行)の為の時間も含まれていたわけですが、旅行もまたスケジュールに縛られて思うままに行かぬもの。当然、疲れが溜まり、姿勢も曲がり、悪寒がさし、精神活動も鈍くなり、しきりに休養を欲するようになります。

 当然充分、十二分に睡眠は取りました。ところが睡眠というのは取りすぎても疲れるもの。身体を動かすのも纏まった時間がないと難しい、結局、上手に疲労発散できない不器用さが私にはあります。……疲労度を自覚できるだけでも上々なのですが、目指すべき処は更に遠い。

 軽く身体を動かし、しっかり休む。疲れている時にはむしろ飲食を控える。……人間の消化器とは栄養吸収器官だと思うのは嘘ではないが偏見です。実際の重点は過剰な食物を排泄する所にあるのです。だから、食べ物を程々にする事が身体に負担が少ないのです。ただ浮き世の付き合いがあり、人は必要性よりも食欲で食べたがるから……身体の調子の悪い時には食欲が衰えて本当に必要な量が意識上に認識されるのです。

 疲れる為に無理をして、排泄する為に食べる。私たちは人生を無駄な事に浪費しています。そういう生き方をしていながら、病気や事故を恐れる。なんという事でしょう。毎日の10パーセントを無為に過ごすのと、寿命が10パーセント短くなるのとどう違うというのでしょう?……主観的に大違い? まあそうかも知れません。しかし、視点が反対なのです。

 毎日を大切に過ごしている人が死を恐れるのと、毎日を無為に過ごしている人が死を恐れるのと、もしもあなたに選択権があったとしたらどちらを助けるでしょう? 

 また人が死を恐れなくなったら、果たして、毎日を大切に過ごせるものでしょうか。

 自殺者が多い昨今、死を恐れぬ人は珍しくもありませんが、死を恐れるのは人間として自然な発想です。また、「私は死後の個性存続を信じているから死を恐れない」という心霊家がいても、果たして本当かどうか……つまり、人生の意味・意義を適切に知った上で死を恐れないというのでしょうか。

 死の恐怖……確かに人はそれを感じ取ります。しかし、生の意義を見いだすことなくどうして死の恐怖を乗り越えられるというのでしょうか? 死とは生と一対のものなのです。死だけ、生だけを取り出して考える事は「反面」だけを理解する事しかできません。


懸命に働く諸君へ

2004/04/29

04年 04月 29日


 良い仕事をするコツは、良く休む事です。

 「柔軟さ」こそが、人間の心身の長所なのです。人の心も体も、木ほどの堅さも持ちません。といって、草葉のように非力でもありません。ある時は堅く、また、ある時は柔らかく、時と場合に応じて硬軟長短・変幻自在、その意に応じて自由自在に変えられるのが本来の人間の心身なのです。 と同時に、堅くだけ用いたら堅くなり、柔らかくだけ使えば柔らかくなるのも心身の特性なのです。そして、堅くなっても木ほどの堅さを持てず、柔らかくなっても草葉ほどの柔らかさが得られぬなら? 堅さ、柔らかさ、そのどちらか一方に偏る事は折角の心身の長所を捨て去るだけの事。変化力こそが人間の力の根元なのです。

 ある時は堅く、ある時は柔らかく、心身を自在に変化させてこそ、長所を生かす事が出来ます。両辺に滞まらず、双方を自由に行き来する。――心身もまた中道に置いてこそその実力を発揮する事が出来ます。

 だからこそ、良い仕事をする為には、良く休む事です。日中、思い切り働いたなら、夜は努めてリラックスする事。公私を上手に切り替えて、決して両辺のいずれにも滞まらぬ事が大切です。


 ……「昼夜を問わず一心不乱に打ち込むべき」ですって! それが一体何十年続けられると思うのです?


質問の仕方で答えが分かる

2004/04/28

04年 04月 28日


福徳と功徳

 童話のサルカニ合戦で、冒頭、サルとカニは柿の種とおむすびを交換します。サルは首尾良くオムスビを手に入れて腹を満たしますが……おむすびは食べたら終りです。対して柿の種はというと、実るまでに時を必要としますが、いずれは毎年の実りをもたらしてくれます。そして、童話の中では結局、サルは柿の実まで独占してカニを死に至らしめ、壮絶な敵討ちに合うわけです。つまり、オムスビというのは短期的かつ一時的な所得の象徴であり、柿の種は、長期的かつ永続的な所得の象徴、そしてサルは目先の欲に流される強欲さの象徴と受け止める事が出来ます。これを踏まえて以下の話をお読み下さい。

 さて、善因善果といい、良い事をすれば良い結果で報われると考えたいのが人間です。まあ、心霊家や宗教家などの中には、御利益を期待して良い事をするのを浅ましいと見る向きもありますが、「因果律」の教えは古今東西にあまねく知られた智慧の一つでありますし、ここでは努力に相応する「手応え」についての考察は省きます。

 一体、善事を行う人はいかなる利益を求めているのでしょうか? つまり欲しいのはオムスビなのか、柿の種なのか……という問題です。

 たとえばただ働きをさせられたとします。人間は、寝る場所も食べる物も必要で、それらを得るには金が必要ですから、人の為に働くと言った所でただ働きばかりでは自分の人生が達行かなくなってしまいます。しかし、働く事によって、技術の向上やノウハウの蓄積が生じるのも事実です。ある意味、ただ働きという善事が「柿の種」を得た事になるかも知れません。

 「ただ働き」に不平不満が生じるのは無理もない事ですし、ただ働きをしても、「良い勉強になった!」と言えるのはやはり生活にゆとりのある人でしょうから、この一点を絶対視する必要はありませんが、ここで所得を得ても使えば無くなる。ノウハウは使えば益々増えるのだという事実に注目してみて下さい。

 ただ働きに不平不満をいうよりも、そこで得たノウハウをどのように生かして増益に結びつけていくかの方がよほど大切なはずです。いや、そう考えるなら、不平不満など言うだけ無駄なことと思える事でしょう。

 ところで、この短期的かつ一時的な所得を、仏教では「福徳」とよび、長期的かつ永続的な所得を「功徳」と呼びます。……どちらも利益(というより御利益《ごりやく》)ではありますが、福徳は使えば無くなり、功徳は使えば益々増えていくのです。

……何を言わんとしているのか……

 一生懸命、奉仕を行い、また勉強や修行を波源だとして、その手応えが果たして福徳であるのか功徳であるのか。……功徳を積むという事は魂の能力が向上する事であり、ひいては霊格が上がるという事ですが、使えば無くなる福徳は魂の向上には直接関係はありません。せいぜい、福徳を持つ者は、より良い環境で勉強や修行を行える、いわばチャンスが増えるというだけの事です。

 むろん誰もがある程度の福徳を必要とします。しかし、功徳を積まなければ人生は意味を失います。――それを知る私は、自然と人を二分して見てしまいます。すなわち、功徳の価値を知る者と、福徳の価値しか知らぬ者です。

 多くの人は福徳だけを尊び、福徳を得て浮かれます。危ういかな……一度使えば無くなる物を、どうして頼みに出来るというのでしょうか?

 

質問の中の福徳と功徳

 メールや掲示板に寄せられる質問の中にも、この福徳と功徳の違いが見て取れます。ある人は、知識としての答えを求め、ある人は人生を考える糸口を求める。知識としての答えは、その問題の答えでしかありません。しかし、答えよりもむしろ考え方や目の付け所を学ぶなら、一つの答えが他の答えを導く手掛かりにもなるでしょう。

 質問の質の違いは、同時に質問者の霊格の違いであり、霊性の働きの違いでもあります。そもそも質問者の目の付け所が、福徳に集まるなら、人生で疑問に思う事もまた、福徳に関する事なのです。

 また、日常の会話に置いても、価値観の相違から意見がまるで合わない人があるものです。大勢の中で、社会道徳や奉仕を大切にしようとすると、無駄な事だと、バカ呼ばわりする人が必ず一人や二人いるものですが、これもまた、社会道徳の擁護や、他への奉仕が、短期的な利益を生まない……むしろ短期的には損失を生じる事を、「人生の損害」であると考えるからです。こういう会話の空しさは、刹那を生きる人と永遠を生きようとする人の違いとも言えます。

 本来、永遠の生を主張する人にとって、利害もまた、永遠という時間の中で考えるべき事です。つまり、福徳にだけ価値を見いだす人は心霊家とは呼べぬ……いや、永遠という言葉の意味をよく掘り下げる必要があるといえましょう。

 

質問の仕方で答えが分かる。

 つまりはこういう事です。

 一つの質問がある時、その質問者が求めているのは福徳であるのか、功徳であるのか。与えるべき答えはその質問に適切な解答であるよりもまず、質問者が求める利益……すなわち、福徳を与えるのか、功徳を与えるのかを考える必要があるという事です。

 福徳を求めているのなら、たとえ重要な真実であろうと、質問者の利益にならぬ事を告げれば、その解答は侮辱の対象になります。対して、福徳を求めているなら、一見とんちんかんに見える解答の中に、質問者は答えを見いだすかも知れません。

 さらにはこういう事です。――福徳的な答えを求める人は、何年付合っても同じような質問を相変わらず繰り返して向上が無く、解答する者にとって退屈な相手となる。

 そして、こういう事も散見します。――功徳的な答えを求めている人も福徳的な話題に流されていつしか功徳的な問題の大切さを忘れてしまう事もある。

 質問者はただ、答えを求めているだけのつもりでいて、実はとても多くの事を回答者に提示しているのです。

 

質問が見えぬ質問者

 ところで、質問を読んでいてると、やはり、質問の仕方の上手下手を感じるものです。どうせなら箇条書きにしてくれると解答もしやすいのですが、複数の問題が同列に並んでいると、何を尋ねているのかが理解しにくいもの……いや、『質問に答えが欲しいというよりもただ、理解者が欲しいだけなのだろうな』というのが現実なのでしょう。むろん、理解者を欲しない人はいませんから、度合いの問題なのですが。

 一方、プライバシーの問題などから、口を濁して判りにくい質問・相談も、質問者が事前に悩み抜いた問題であると案外に理解がしやすく、また解答も簡潔に済ませられる事をよく感じます。

 結局、その質問者がどれだけその質問に意義や価値を感じているか(つまり功徳を求める事)が、解答の質となって現れるようです。つまり単に、当座の問題を誰かに肩代わりさせようという姑息な態度では、質問も上手に纏められないといえるわけですが……自分で解かずに誰かに押しつけようとするのは、答えが分からぬというより問題の整理が出来ないから自分自身では解決の努力の糸口さえ見つからぬという事なのです。


それって違うんじゃない?

2004/04/28

愛する、尊敬する、感謝する……これらの言葉が表わすものは一つであるとしても、その意味するものを人がどう感じるのかは人によって異なります。人は、その人間性の範囲でこれらを解釈するのです。

心霊を勉強する上で大切なのは、人を愛する事、尊敬する事、そして、感謝を忘れない事……いえ、違います。邪な人間にだって愛するものもいるし、自分に都合の良い相手を尊敬もすれば、感謝もいたします。知る事が大切なのではなく、追求する事が大切なのです。

より深く愛し、より素直に尊敬し、より誠実に感謝する事――それこそが向上であり、人生において目指すべき事です。


心霊ではさらに、死者への愛、尊敬、感謝も、人生の大切な要素として考えます。

心を澄まし、素直に自分と向き合いつつ、一つ一つの心の働きをおろそかにしない、覚悟と修行。

しかし……生きている人との間でさえも、行き違いや勘違いが多いというのに、死者相手にどうすれば手応えが得られるのか……心霊を学ぶ者の頭を悩ませる事の一つです。


心霊的な修行に立ち会う霊媒として意見を述べるのなら、当事者の修行への真摯な態度よりも、むしろその背後霊の社交性や霊媒能力(霊媒というのは地上だけでなく、霊界…地上の双方の霊媒が助け合ってはじめて有効な通信が出来る)によって、修行者が得られる手応えが決まるといえます。正直、ろくな修行が出来ていない人でも上手な背後霊を持つ人はそれなりの霊査が得られるもの。……いや、当事者の心構え如何で沈黙を守る背後霊もいるわけですが……いずれにせよ、沈黙を守るというより、やはり通信が上手でない背後霊の持ち主もいると感じます。

すると当然、修行者の中にも、良い霊査がポンポンでて、修行が楽しくて仕方のない人もいれば、つまらぬ霊査ばかりで修行がつまらぬ人も出てきます。むろん、ただ霊査が貰いたいだけで、心中ではつまらぬ、つまらぬという態度でいる人の場合は、その背後霊が何ら通信を送りようもないものですが、ある人はろくな修行がないのに面白い霊査や実例が多く、ある人は一生懸命なのにまるで霊査や実例が出ない事も起こりえるわけです。

……この辺には霊媒のジレンマも見え隠れするわけですが……心霊家の中には、手応えの有無で修行の深度を測る向きもいます。――うがった見方をすると、苦労せずに強い能力を発揮できる方に多いようです。


確かに、修行の手応えはあった方が良い。そう思います。特にオフ会の参加者と共に喜びを分かち合う体験はとても修行の励みになります。昨年の伊勢旅行や滝行オフ会などは実によい思い出となりました。

ですが、それはそれ。

たとえば、今日の朝と明日の朝は同じものでしょうか。ならばなぜ、冬至と夏至とでかくも日照時間が異なるのか。変化は日々、訪れるのです。朝日が昇らなければ朝を感じられぬ人であれば、日照の移り変わりが意味する事を正しく理解できるでしょうか?

見える、感じる、という事でだけ、物事を理解するというのは、何も理解していないのに等しいのです。


え? 判りにくいでしょうか?

つまり、手応えに甘えて成長の止まっている人に感じるものがあり、人を正すよりも我が身を律する事が大切と知りながら、そっとこぼしてみただけなのです。

霊査事例: 2004年4月21日

2004/04/21

 以下に紹介するのは、精神統一の練習中に得た、参加者・個人あての代表的な霊査です。当然、対象となる相手によって正反対の霊査も出てくる事でしょう。  以下に紹介するのは、精神統一の練習中に得た、参加者・個人あての代表的な霊査です。当然、対象となる相手によって正反対の霊査も出てくる事でしょう。


 人を訪ねて、玄関も叩かずに帰ってくる。……何の為に出掛けたのでしょうか?

 人を訪ねて、挨拶も忘れて帰ってくる。……何の為に面会したのでしょうか?

 人は往々に過程の為に努力いたします。しかし、努力に結果が伴わぬのは寂しい事です。……過程の為に努力していかなる結果が期待できましょうか?

 何の為に? それを見失わずに生きて下さい。

霊査事例1

 日々の移り変わり、感情の移り変わりに気を止めないで下さい。静かに穏やかに生きる事の喜び。自分の生れ持った幸せにもっと誇りを抱いて下さい。

霊査事例2

 幸せは理屈で納得するものではありません。人にはそれぞれ幸せのかたちがあります。誰かと比べて幸せの善し悪しを計る事は、幸せを計るつもりで結局、人間を計るという事です。幸せを計らずに幸せを計ろうとするから、幸せの意味が分からなくなるのです。

 互いに思いやっているのに、なぜかケンカになってしまうこの不思議さ。●●(事例1)さんにもいえる事ですが、「幸せの定義」が、お互いに違うのにその食い違いに気がつかずに幸せを語り合っているから起こるすれ違いです。

 不幸にしたいのではなく、幸せの意味が見えなくなっているのです。

霊査事例3

 新しい職場で張り切るあなたは、またまた、自分らしさの意味を見失おうとしています。自分らしさを発揮できなければ、嘘を演じるのに疲れて心に不幸を貯めてしまいます。

 自分を偽る事は、恐ろしい結果を生みます。あなたは我慢が強すぎるから。

 人に苦しめられる事で恨むのではなく、人に遠慮する自分に苦しめられて人を恨んでしまうのです。自分らしさを見失わないで下さい。作り笑いではなく真の笑顔を取り戻して。

霊査事例4

 でも、しかし、だけど、……不平不満でも、ワガママでもありません。矛盾なのです。あなたの口から出る事は。そしてあなたが強く願う事は。矛盾に解決策があり得ません。矛盾に気がついたら、速やかに気持ちを整理なさる事です。

霊査事例5

 あがいてもダメなら、苦しみながら待ちますか? 待たねばならぬ時、あなたは苦虫を噛み潰したようにまちますか。あなたは本来、人生を楽しむのが上手な方の筈。そういう待ち方をする事が明日の幸せの助けになりますか。

 程々の幸せでよい。そういう姑息な態度は結局、一番の貧乏くじです。開き直るか、死にものぐるいか。どちらかを選んだ方が良いでしょう。

 なお、混信かも知れませんが。弟さんの捜し物、不動産のようですが「東が良い」と聞こえます。川の側です。未だそういう話が無いなら……まあ、忘れて下さい。

霊査事例6

 言い訳が増えています。しかし、理屈は洞察力の障害となります。真実の追究に孤独が必要とは申しませんが、あなたは内面の修行よりも、人に振り回される事が目的となってはいませんか。まあ、それも一つの生き方ですが、その生き方があなたに何を残すのでしょうか。


地獄の話

2004/04/21

Q 「『地獄の有無について』質問を受けました。」

廬氏; 無意味である――たとえ地獄があろうと、なかろうと、人に苦しみがあるのは事実である。人が苦しみを逃れられぬなら、地獄の有無に何の意味があるのか? 豊かで穏やかな暮らしの中に、不平不満を抱えて憔悴して生きる者もいる。貧しく忙しい暮らしの中にも生き甲斐を見いだしてはつらつと生きる者もいる。極楽に行こうが苦しむ者は苦しみ、地獄に堕ちようと楽しむ者は楽しむことだろう。地獄はむしろ人の心の中にあり、その外にはない。……自らの心に地獄が有りや否や? それを人に尋ねていかなる答えが得られようか?

Q 「悪事を犯して、死後にそれを責められると不安を抱いているのなら?」

地上での極刑は死刑であろう。だが、死後の世界にいかなる死刑があるのか? 苦しみを恐れるだけなら、地上の方がよほど辛かろう。肉体があればこそ、老病死苦に苦しみ、飢えぬ為に働き、名利を得るために努力を重ねなければならない。そのような苦しみの中で生きてきた者が、死後に何を恐れるというのだろうか? 問題は地獄の有無ではない。希望のないことである。

Q 「だから地獄の話を書くのを止めようとしたのですか。」

魔境という心境はある。地獄という心境もある。また、人を苦しめてでも自分が幸せになろうとする者が大勢集まれば、そこは地獄の様相を見せる。まして、地獄など、死後の世界に求めなくても、地上のそこかしこが地獄である。それでもまだ、地獄の有無を問うのか。

 苦しみが苦しみであると思うのは、それを乗り越える喜びを知らぬ者が考えることである。苦しみを喜びに変える方法を知らぬ事こそ、人を苦しみにつなぎ止めておく元凶である。恐れるべきは地獄ではなく、幸せを得るのに必要な智慧のないことである。


 確かに苦しみがある以上、地獄の有無など問う意味もない。しかし、自分の未来が良くなるものなら、一時の苦悩は必ず報われる。ならば地獄など恐れる必要もない。そして、地上を見渡せば、善き行いの者がどれほど悲惨な境遇にあることか。善行は必ずしも救われぬ。では、悪人の方がましな生き方が出来るといえようか? こそ泥は捕縛され、小悪党は悪党に牛耳られ、大悪党はつけ狙われる。善人も悪人も苦しみを避けることは出来ない。ただ、苦しみを乗り越える喜びを知るものと、知らぬ者とがいるだけである。

 善・悪が人を幸せにするのでなく、人の工夫と努力が人を幸せにするのである。地獄の有無には意味がないが、幸せになるための智慧の有無は切実である。たとえ地獄がなくとも、幸せになれぬのなら、苦しまずにはいられない。苦しみも乗り越えられるなら報われるが、乗り越えなければいつまでも苦しい。……だから問題は希望であり、そして智慧であるのだ。

Q 「そうすると、次の質問は……」

因果はくらませぬ。安易に得た答えを使って得られるのは安易な結果だけである。過ちを悟るのには一瞬で足りても、未熟の克服に掛かる時間は相応に必要なものである。まして答えは自分の心中にあるものだ。自分をしっかりと見つけた者だけが正しい答えを理解できるが、自分が見つけるべきものを人に質問しているようでは、万言を費やしても理解は難しいだろう。ここには書けぬ。

(2004年4月20日)


心霊現象は視線を嫌う?

2004/04/19

2004年 04月 18日


 現代はとんと物理霊媒の数も減り、物理的心霊実験を体験するチャンスは、それこそ幽霊と遭遇するよりも難しい時代であります。やむを得ず、豊富な事例を収集なさった、淺野和三郎氏の一連の著作の研究を重要視せざるを得ません。

 その淺野和三郎氏が上げた、心霊実験中の経験則の中に、「心霊現象は視線を嫌う」……つまり、皆の視線が注目している所ではなかなか現象が起こらず、皆ふと気がつくと、何らかの現象の結果を目撃することになるというのです。

 こういう部分を見ると、心霊否定論者の方はそこにインチキを暴く糸口があると思われるでしょうし、心霊肯定論者の方はそこにもどかしさを感じて時として霊媒を叱咤致します。ところが「心霊現象は視線を嫌う」という経験則は、何も物理的交霊実験に限ったことではありません。ここにその原理解明の糸口が見え隠れ致します。

 私も霊媒なる看板を掲げておりますので、いろいろな相談事を持ち込まれます。中には切実な問題を持ってこられる方がいて、断るに断れず、天を仰いで嘆息することしきりであります。それは何も相談を嫌ってのことではありません。まさに、「心霊現象は視線を嫌う」……からなのです。

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 具体的に事例をご紹介出来れば興味深いことでもあるのですが、プライバシーもあり、相談内容は伏せさせて頂きます。まあ、一種の家庭内騒動です。これがまあ、どうもなかなかに前進しない。当事者は一生懸命頑張って、頑張って、でもうまく行かず、諦めた頃に、ぽろっと、ほんのちょっとだけ事態が前進するのです。

 ああ! と私は理解したのですが、ご相談者の方は取り敢えず、相手の背後霊の優柔不断さ、冷淡さと、解釈していらっしゃいます。(まあ、私がそうし向けた部分もあります。)

 のど元で、『実はそうじゃないんだ!』という言葉が出掛けて、でも飲み込みました。なぜなら、気持ちが解決に向けば霊達の働きの足手まといになるから。

 霊的な力というのは、精神的な力なのです。そして、精神が物質に働きかける作用は測定不可能なほど小さい……それ故にゼロだと思われていることを念頭に置いて下さい。精神的な力の根元は、その情報量であって伝送の強さではありません。そして……人間もまた精神活動を行っているのです。

 つまり、人間というのは精神波(と取り敢えず呼ぶ)の有力な雑音源なのです。しかも、関心を向けることは同じ対象に異なる力を集めることと同等です。仮に当事者が成功を祈った所で野次馬の応援が精密な作業の助けになることは希です。つまり、息の合わない協力者はかえって足手まといなのです。

 願望の成就を祈るのは、人間の心情として否定は出来ませんが、しかし、熱心な祈りは往々にそれを助けようとする霊達の足並みを乱すのですね。だから物理的心霊実験の際に霊達は、人々の関心が向いていない対象を選んで実験材料とするのです。

 同様に、困った人への援助も、ジタバタあえいだあげくに、何もならずに諦めた、そのホッとした瞬間を選んで実施されたりするものなのです。

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 ジタバタせねばうまく行くものを、ジタバタしすぎてかえって遅らせる。こういう事例を見て、この相談者を嗤わぬようにして下さい。人は、「焦るな!」と言われると益々焦るのものなのですから。だからといって「焦ろ!」というのは効果があっても嘘がある……霊媒というのは因果な商売だなぁと思います。

 誠実さは不合理、合理的には嘘が必要。……それが真理であるなら、私は心霊主義なんて大嫌いだと思うのです。(いえ、本当に嫌っているのです)

 でも、不誠実だからといってその結果を受け取れないとは言えないこの切なさ。

 この件は、私の指導力の中にある矛盾を改めて私に突きつけましたが、同時に思います。「焦りはあなたを救わない。焦る気持ちに同情するけれど、私の同情もあなたを救わない」

 家庭内の問題はどうしても感情的な問題にすり替わりがちです。そして感情的な要素を捨て去ることがより良い解決に不可欠であるとしても……人は草木国土ではないのです。感情を棄てることには無理・矛盾があります。しかし、目標は情動で選んでも、到達手段は理知的であるべきです。そうであってこそ、あなたは夢の実現に一歩近づくのですから。

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 事情を知る者(当事者は除く)にとって、上記の話は私の言い訳……「知っていたけれど嘘をついていた」……と聞こえるかも知れません。良識に照らして……というより、心霊研究上の重要事としてはっきりこれを否定させて頂きます。問題点に気がつきながらも沈黙していた部分はありますが、私は自らの信じる所を発言し、怪しい所はなるべく沈黙していたのです。

 私の見たイメージは、その時のイメージではなく、将来のイメージだった

 というのは、私が自分に言い聞かせる言い訳の一部ですが、同時に霊媒として真剣に考えねばならぬ重要な課題が潜んでいます。……そしてこれは霊界に助けを求められません。

 ……たとえばここに、一人の受験生が霊媒(甲)に「私は受験に受かるだろうか?」と相談したとします。霊媒に相談するぐらいですから、自分の実力に自信を持てず、あわよくば神憑り的な力で合格できないかという下心を持ってのことです。

 すると、霊媒(甲)はジレンマを抱え込みます。

 受験生はさらなる努力を必要としています。

 ……受かるといえば、安心して努力を忘れ

 ……落ちるといえば、落胆して努力を諦め

 何を口にしても、それが受験生の不合格に繋がるとしたら、霊媒は、どうすればいいのでしょうか?

 私は、今は心霊相談を事実上休業しておりますが、実はこの霊媒のジレンマを解けぬがゆえに相談を休業しているのです。

・・・・・・・

 『黙って待て!』といえば、忍耐の生むストレスにまけ、

 霊感と反対に『諦めろ!』といえば、「まだ努力できるのに!」と、無益な努力が足手まといとなる。
 無益な努力をし向けて疲れさせ、疲れたといったら諦めさせ、諦めて視点がずれたら霊達が働き出す。

 結果オーライと割り切れば、これは良いアイデアです。でも、騙さねばならぬなら何の為の真理なのか。――この現実は霊媒である私も辛い。けれど、背後も楽しんでいるわけではなさそうだ。鞭打たれて働くのはイヤだけど、鞭が無くとも働くか、せめて、報酬を求めないか、どちらかにせねばならないのでしょうね。

・・・・・・・

 ああ……こういう事態に、ベテランはどうするだろうかって? むろん私は見知っています。その上で思うのです。私は二流以下なのだろうと。そう、私に邪魔なのは、青臭い理想主義なのです。

 でも、それを恥じてはいません。持っているものはいつでも棄てられるけれど、持っていないものはなかなか手に入れられぬからです。そしてなにより……理想主義が結びつける縁《えにし》に計り知れぬ価値を感じているからです。

・・・・・・・

 霊媒のジレンマは、もう一つあります。

 「苦労こそが魂を磨く、しかし、人は苦労を嫌う。」

……苦労を無くせば相手を堕落させる。

……苦労をさせれば相手に恨まれる。

 楽に「幸せ」にしてくれる霊媒……そんな考えは矛盾なのです。一般の評価を求めればなるほど実績はあがります。真理を追究すれば、相談者は選ばざるを得ない。

 幸い私はこのジレンマだけは脱しております。

 人々は幸せを求めるが、幸せの意味を知らない。

 知らないのに求めれば、得ても満足は出来ないものです。そんな矛盾に私は付合いません。


「心霊現象は視線を嫌う?」について、質問を受けました。

質問1


>一人の受験生が霊媒(甲)に「私は受験に受かるだろうか?」と相談したとします。
> すると、霊媒(甲)はジレンマを抱え込みます。
> 受験生はさらなる努力を必要としています。
> ……受かるといえば、安心して努力を忘れ
> ……落ちるといえば、落胆して努力を諦め

私なら『……受かりそうだけど努力を忘れたら落ちる……今のままだと落ちるが、〇〇を頑張れば受かる』と教えて欲しいな。

返答
 複数の理由から、こういう霊査は降りません。いえ、降りないというよりこういう霊査は信用がおけません。

  1. この事例の前提は、自分の努力に自信の無い受験生です。人に強いられたり、利益に釣られて行うのは真の努力とは言えません。また、利益で釣るのは動物に芸を仕込むようなやり方です。こういうやり方は、まともな大人・成熟した精神の持ち主がやって良いことではありません。
  2. 「○○のためには、□□せよ」……というのは一種の交渉です。交渉とは対等な立場であってはじめて成立します。こういう交渉を持ちかけるのは低級霊です。
  3. そもそも、誰の為の努力なのか。人からとやかく言われないと出来ないのでは真の努力とは言えません。そういう努力しかできないのなら、必要なのは試験の合格ではなく、身に付くまで苦労することです。

質問2


『黙って待て!』も、何故待たなければならないのかが理解できれば待てなくもないような気が・・・結局、解決策が分からないのや、どうしてそうした方が良いのかが理解できなかったのが一番辛かったように思います。

自分で分からない本人が一番問題なんですけどね。

返答

 「黙って待て!」という指示は、霊界でも試行錯誤を必要とする場合によくあります。要するに、説明できる頃には問題が解決しているのです。

 待つのが辛い……という気持ちもよく分かりますが、そもそも誰の問題なのかを思い起こして下さい。できるのは、まかせるか。自分なりに納得するまで行動するか。そのどちらかになります。

質問3

 私には霊媒の方がどのように霊視できるのかは分かりませんが、少なくとも私は半分ではなく全てを知りたい派です。

返答

 不謹慎かも知れませんが、私は、「面倒だから全部そちらでまかなってよ」派です。まず事情を正しく把握することがとても大変なのです。相談者・質問者の方が、きちんと気持ちを整理した上で質問に臨むとは限りません。すると、その質問を理解するだけでも大変ですし、質問が適切かどうかを把握するのも大変です。その後には解答を理解し、整理し、相談者にわかりやすく説明する義務もあります。ところが、相談者・自身が適切に問題を把握していないなら、解答の説明を理解するにも多大の努力を必要とすることになります。

 そもそも問題が解明できないのは、適切に問題を捉えていないからです。自分の問題さえも適切に把握・理解できない人がどうして解答だけを理解できるというのか。結局、誰かに問題を解決して貰おうとグズッているようなものなのです。当人は努力しているつもりでも……疲れ果てて気持ちに行為が伴っていないことがほとんどです。

 少なくとも、詳細な説明は、その時には何の役にも立ちません。大抵の場合、後の後になって役に立つのです。ですから、不要とは思いませんが、忙しい時には後回ししたいことが多いのです。


「命」の文字から地上の生を考える

2004/04/15

04年 04月 14日


 「命」という言葉は、辞書を引くと1,生命、2,運命、3,命令、これら三つの意味と説明されています。これはわかりやすいようでいて、私の目にはナンセンスに映ります。漢字は表意文字であり、一つの字に三つの意味があったら表意も又曖昧になってしまいます。実はこれが漢字のおもしろさであります。古代中国人は生命、運命、命令ということを一つの意味として捉えていたのでしょう。

 「生きる」ということは天(神でも仏でも、それぞれの信仰対象を当てはめてくださって結構です)が「人に与えた課題・命令」なのだと。

 境遇に翻弄されて、「ああこれが私の運命か!」「こうなることが私の宿命なのか!」と人々を投げかしめるのは、天から与えた課題・命令を忘れて好き勝手に生きているところに、なすべく事、なさねばならぬ事に突然気がついた人のセリフであります。

 そして命令とは、天に成り代わり(その権限の有無はともかく)人が命じるもの。

・・・

 人の死を表す言葉として、「命が失われた」という表現があります。しかし、果たして「命」とは失われるものでしょうか?

 なるほど、地上での「命」、すなわち、地上でなすべき使命……天から与えられた課題・命令は、生まれ変わりや心霊現象でも起こさない限り、もう果たせないといえましょう。その意味に置いて、「命は失われた」というのは間違いではありません。ですが、「命」という表現を「肉体」と混同しては大切なことが見えなくなります。

 「命」とは、「肉体の生」ではありません。もって生まれた目的であり、使命であり、義務の事なのです。それらを果たすことこそが人生なのです。――そう考えるなら、宗教や心霊などが教える、「自殺は大罪」という意味もわかりやすくなるでしょう。問題は、使命・義務の放棄なのです。

 また、たとえ肉体は生きながらえても、無目的に過ごし、義務を避けて生きることも「命」を放棄したことになります。

「命をおろそかにする」と言いますが、その表現もまた、命と肉体との混同が見られます。肉体を滅ぼすことが悪いのではなく……肉体を損なわなければよいというのでもありません。命の尊重とは人それぞれが元々生まれ持ってきた使命・義務を尊重することなのです。

 果たして命の大切さを説く人々は、「命」の真の価値を認識しているのでしょうか。大抵の場合は「肉体が生き続けることを大切にしましょう」というばかりで、持って生まれた「命」を尊重している人は滅多に見つけることが出来ません。

 皆、命の価値を見失っているのに、命の大切さを説くこの不思議さ。多くの人々が「命」を見いだせずにいる事こそが、私には「命をおろそかにしている」と思えてなりません。そして、意味を知らずにただ大切さだけを訴えれば、議論が、頑固に、そして感情的になろうというものです。……「淡々と語れない」、そこに現代人の無明・不明が見て取れます。


霊査事例: 2004年4月10日(横浜オフ会)

2004/04/10

 以下に紹介するのは、精神統一の練習中に得た、参加者・個人あての代表的な霊査です。当然、対象となる相手によって正反対の霊査も出てくる事でしょう。  以下に紹介するのは、精神統一の練習中に得た、参加者・個人あての代表的な霊査です。当然、対象となる相手によって正反対の霊査も出てくる事でしょう。


 事例1

 人生における様々な課題を、思い描き、また祈るのも結構です。しかし、延々と祈っていたらインスピレーションが入る隙がありません。

 一通り祈ったら、神仏にまかせるゆとりを持つことが大切です。

 事例2

 精神統一の際、ただ、座るのではなく、足から大地のエネルギーを吸い取るような気持ちでどっしりと座って下さい。一人で座っているのではなく、「神我と共にあり」という気宇壮大な気持ちが、心霊で教える瞑想の大義です。高級霊と感応しやすい状態になることで実力以上のものを発揮する……それが大切です。

 事例3

 「研究対象がつまらぬ」と聞こえます。

 手っ取り早い成果を求めては、興味深くとも手間の掛かる事案を研究対象には選べません。

 面白い研究対象を見つけるのには、「後ろを探せ」と聞こえます。つまり、あなたがイヤだなぁと避けていることの中に、面白い対象が潜んでいるようです。

 事例4

 あなたの座り方にも出ている通り……膝が開きすぎていますね。

 緩みすぎ、油断が出過ぎています。

 また、周囲からの自分の評価を気にしすぎて、振り回されて生きているようです。人生において、そういうことも面倒であるけれど仕方のないことです。が、自分が追求できる絶対的な評価を一つぐらい見つけておきましょう。

 事例5

 あなたが他に「全くこの子は大変だなぁ~」と思えるのは、ついこないだまで、あなたが追い掛けているものをその人が追い掛けているからです。そう思えるのはあなたが成長したということです。

 また、売り言葉に買い言葉でケンカにならぬというのも、あなたの成長を意味足ます。

 事例6

次の課題は、先祖供養ですね。娘さんに任せると良いようです。

 今のままだと罪業がお姑さんに出てしまいます。お舅さんが、「水が欲しい」といっているので、どうも仏壇の手入れがおろそかだろうと思います。

 事例7

 欲しいものを求めると自分の因縁に出会います。半分下がるとちょうど良いのですが。

 事例8

 商売とは、欲を相手にする、いわば一つの因縁でです。因縁の相手ばかりではなく、別な視点、別な立場でも、何かなさることが良いでしょう。欲を追い掛けてばかりいると魂が腐ってしまいます。

 事例9

 「ああしましょう」「こうしましょう」が多くはありませんか。それでは周りの人の息がつまってしまいます。人の持ち味を引き出す人が、世の中で求められている人なのです。

 事例10

 「専門バカ」なる言葉がありますが、自分に興味のあることの他は、上の空の人々です。なるべく邪魔せず、必要な時には上手にアピールして付合って下さい。

 事例11

 不満を抱けば低級霊があつまります。志を持つことが大切です。


「産めよ、増えよ、地に満ちよ」

2004/04/02

 造物主は人類の太祖に「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と命じたとか。なるほど造物主の言いそうな言葉ではある。だが、地に満ちるというのは、木を切り、山を崩し、海を産めよと言うことなのか。 わざわざ造物主が作り、育て上げた木々や、そこに住まう生き物たちを滅ぼして、代わりに人が満ちる。――人類ばかりが増えても、生物の総量は変わらないのに、造物主はこれを増えたと評価するのだろうか? 自称万物の霊長は、なかなかサル知恵から脱せぬようだ。

 豊饒なる大地に生まれ育ち、わが眼前には不毛の荒野が見える。今ある森を切り崩すよりも、草木の生えぬ深海や月や火星や金星の荒野に、人はどうして増えぬのだろうか? いや、未だ人の力はそこに及ばぬことは理解する。そして、幼獸らは兄弟ケンカを通じて、獲物を狩る力を蓄えていくことも……人類は未だ幼齢期を脱していないことを。だが、人は幼齢期を脱せるのだろうか?  幼齢期野崎にある展望を持たず、ただ、幼齢期の中で、同じ幼齢期の群魂らを相手に、修羅のごとき闘争を繰り返しながら、人は一体どこに行くのだろうか? なるほど人は月に足跡を記しただけで、その次に進めずにいる。だが、身体がたどり着けぬというのは、言い訳にはならない。

 直接攻撃、誹謗中傷、揚げ足取り――人の手を待っている荒野、人の手がなければ命を宿せぬ不毛の大地、それらは決して現実の世界だけにあるのではない。思想、知識、表現、技術、組織など、人が目指すべき荒野は幾らでもあり、そして切りがない。しかもどれもがいずれは必要となる事柄である。だが人の大多数は、楽園の中で争い、その外は敢えて目を背ける。――そうなのだ。人は楽園を失ってはいないのである。

 ただ、年齢応分の責任を持たされただけで、失楽園と嘆いているだけなのだ。……一体いつまで嘆くのか。人はいずれ、より多くの責任を持たされるというのに、いつまで過去を振り返るのか。

 努力もなく幸せな人は地上に多いが、努力もなく幸せを維持できる人は地上に僅かなのだ。

 だが人々はそれを信じない。人々は失楽園を信じているのではなく、無責任な赤子の頃を懐かしんでいるだけなのだ。ただ泣けばすべてが満たされる頃を……だが、そのままでは人類はただの出来損ないでしかない。

 智には責任が伴う。――だが、人は責任を持たずに権利ばかりを主張する。

 古代文明の中には、再生力を越えた伐採を行って地上に数多くの砂漠を作り出してしまった。そして砂は文明を、そして森林を飲み込み拡大していく……日本は幸い、森林の再生力を大切にしてきた。しかし、太平洋戦争の狂気は、杉や檜に偏った植林で現代日本人を花粉症で苦しめている。

 人は一体どこに行くのか?――ちゃんと知っているのだろうか。自分が歩むその先を。


 妖精との交信を求める人は多い。だが、人と自然との乖離は果てしない。人が人の利害を求めながら、どうして自然の意志の具現である妖精と交流できるというのだろうか? ――それもまた、人類の病的な甘え、ワガママの一部であるなら、今はまだ無視で済むかも知れないが、いずれは悲劇に繋がっていくのだろう。


2005年 04月 02日

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