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霊査事例: 2004年3月31日

2004/03/31

 以下に紹介するのは、精神統一の練習中に得た、参加者・個人あての代表的な霊査です。当然、対象となる相手によって正反対の霊査も出てくる事でしょう。  以下に紹介するのは、精神統一の練習中に得た、参加者・個人あての代表的な霊査です。当然、対象となる相手によって正反対の霊査も出てくる事でしょう。


霊査事例1

 月曜日から聞こえていたのですが、体調も悪く、連絡できませんでした。

「肩が凝るのは、肩が凝るような姿勢で仕事をするからだ。もっと自然体で仕事をなさい」

とのことです。熱心に打ち込んでも無理があるならそこには過ちが潜んでいます。リラックスして良い成果を上げて下さい。

霊査事例2

 どんなに哲学しても、それはあなたの霊格を上げはしません。霊格を上げるのに必要なものは、自分の心を把握することです。あなたはどうも外に関心を持ちすぎる。

実はそれ、自分の中から目を背けたがっているからです。いつまでもそれではちっとも前進しませんよ。

霊査事例3

 誰かの助けで、楽な道を得たとします。生活も楽になり、時間のゆとりも出来たら……次にあなたは、「助けがなくなったらどうしよう……」と心配し出します。

 それではあなたは永遠に心配を続けることになってしまいます。……覚悟を決めるなら、引く手あまたの内なのです。

霊査事例4

 まだまだ生活が落ち着かぬいま、心ときめくような新鮮な発見にどきどきしているのを感じます。それは大変良いことです。

 物事は楽しむことです。人生がマンネリになるのは現実に甘えるから。今はイヤでも新鮮さを味わいますが、退屈を感じたら、あなたの感受性が鈍っていることを心配なさって下さい。

霊査事例5

 だいぶ天気も良くなり、温かくなってきましたが、あなたの身体が冷えています。ゆっくりと風呂につかって暖めて下さい。とはいえ、湯冷めしないこと。

 風邪を引いているのが見えるのです。おそらく発病はしていないけれど、身体にストレスが溜まっていて引き金を待っている感じです。寝汗をかくぐらいに温かくして、こまめに下着を取り替えれば、風邪を引いても治りが早いでしょう。……ああ、明日は寒そうです。油断しないで下さい。

霊査事例6

 あなたの心の中には、いつも「アレをやらなければ、これをやらなければ」というのが浮かんでいます。反対に、「アレはいらない、これはいらない」という発想を大切にすると自分が集中するべきものが見えてくるのでは?

 引っ越しの際には、なるべくゴミを捨ててくるのが大切……仕事をするのにも無駄を省くのが大切ですよ。

 ああ、お年寄りは物が棄てられませんが、見えないように棄てるのも愛情です。当人の前で、「アレはいらない、これはいらない」等といわぬように。


地獄とは

2004/03/30

2004年 03月 29日


 地獄とは

 地獄があるか、否かは、実は霊媒の間にも意見の相違があります。霊媒間の意見の相違を証拠に「霊媒はやはり信用できない」という意見も聞かれます。しかし、他の心霊研究の対象にもいえることですが、霊界の事物・事象は名称を持ちません。みな、思うだけで通じるのですから、わざわざ名前を付ける必要がないのです。そして、地上言語において、「名詞」の欠いた会話がどれほどわかりにくいかを考えてみてください。

 「あれどうなった?」……あれってどれ?

 「彼の病気は治ったか?」……彼ってだれ?

……ここに、心霊研究の成果を説明することの難しさがあります。

 地獄があるかないか……つまり「地獄」という名称のついた場所はなく、交霊などで「地獄とはどこか」と質問すれば、解答する霊毎に「地獄という名にふさわしいのはあそこかな?」などと、それぞれが主観で答えますから、解答毎に異なることが決して不思議ではないのですね。

地獄という場所はない

 端的に言えば、霊界には、「地獄(という名称)」の「場所(という名称)」というのは全くありません。おとぎ話や仏教説話に出てくるような、牛の角に、虎皮のパンツをはいた鬼がいて、亡者を虐めている世界などは、存在しません。また、生前悪いことをした人だけが特別に集められる場所などもありません。そして、生前悪いことをした人をわざわざ集めて回る神霊などもいません。

 そもそも、すべての霊には、「死後に○○に行かなければならない」等といった義務は全くありません。ただ、推奨する居住環境があるだけのことで、行きたくなければ行かなくても済むことです。

 ただし、人には持って生まれた境遇があるように、人の死後にもその人の心境に応じた暮らししかできないのが「霊界の法則」といわれています。この法則は誰かが取り締まるということではなく、水が高い所から低い所に自然に流れていくように、その霊魂がとどまれる場所に自然に落ち着くという程度の意味でしかありません。つまり、生前、どんな良い行いをしようが、どんな血縁を持っていようが、この法則を覆すことは出来ません。

(福徳と功徳の違い)

 もっと良い世界に暮らしたいと思った所で、自らの心境を高めぬ限り、居住環境は変えようがないのです。ただ、生前、良い行いをしていたり、強力な血縁を持っていれば、神橋を帰るチャンスがより多くなるだけのことです。

……地獄という場所はなく、死者を裁く裁判官も霊界にはいません。ただ、自分の魂に一番ふさわしい場所に自ずとたどり着くのが霊界の仕組みなのです。これは、お釈迦様でもイエス様でもイカサマは出来ません。この事は聖書や経典とは食い違って見えるかも知れませんが……(淺野和三郎氏などはこの心霊事実をもって聖書や経典を過ちと見なすが)……いえ、違って見えるのは解釈の問題に過ぎないのです。

 唱名念仏――念仏を唱えるのは、「名詞」を呼びかけることではありません。名詞が意味を持つのは地上だけです。

 悔い改めよ――悔い改めるというのは、自分の罪状(名詞)を認知することではありません。(心霊書の多くはここに誤解がある)

 心境の変化こそが、死後に住むべき世界の引っ越しに相当するのです。気持ちを変えなければ、死後には何の変化もありません。

 そして……多くの人々が死後に彷徨うというのは……結局、死生観について確たる信念を持たなかったというだけのことなのです。

 

でも地獄はある

 地獄という名の場所はありません。しかし、「苦しみが苦しみを呼び、抜け出す努力をするほどますます苦しんでしまう心境」ならば、あります。その心境を地獄と呼ぶのならば、確かに地獄はあります。しかも、その地獄は、死後の世界だけにあるのではなく、魂のある所すべてに存在し得るのです。

 そもそも、霊界と地上とは、相対的な世界ではなく、地上は霊界に含まれている世界なのです。だから、地獄も極楽・天国も、死後の世界にだけあるのではなく、日常生活の中にもしっかりと含まれているのですね。

 たとえば悪いことをすると地獄に堕ちる、といいますが、嘘をついたり、盗みをはたらいて、……『ばれたらどうしよう。捕まったらどうしよう。このまま無事に捕まらずにいられるものだろうか』と不安な日々を過ごさなければならなかったら、それこそが生きながら地獄に堕ちた状況といえます。

 これが地上の生活なら、様々な気晴らしや、義務や必然に追いかけられて忙しさに罪悪感が紛れもします。しかし、純粋に想念だけの世界では罪悪感がそのまま感覚のすべてを支配して心の苦しみを受けることになります。地上では幸せも、苦しみも、非常に鈍感な肉体を通じてしか感じられないが、死後、想念だけの中に暮らすようになると、幸せも、苦しみも純粋に激しい現実感を伴うのです。

 地獄というのがこの程度と思えば、なかなかピンとこないかもしれませんが、思い煩ったあげくに具合が悪くなる人がその典型的な実例です。そして、多くの霊界通信で聞かれることですが、死後の世界は、その上層にいくほど(肉体の影響を脱するほど)、より想念の持つ影響が強くなるというのです。つまり、善い想念を持てば地上より遙かに強い幸福感がわき上がるのが霊界、悪い想念を持てば地上よりも遙かに苦悩が増すのが霊界であり、心はどこにもうつろわなくとも、その心境のあり方一つで天国・極楽にも地獄にもなるのが霊界です。

 

まとめ

 特定宗教の教義にあるような地獄、いや天国・極楽も霊界にはありません。あるように見えても所詮は想念の生み出した張りぼてにすぎず、そこに止まる価値も理由もありません。

 しかし、人は死後に自分の想念に翻弄されてしまいがちです。罪悪感を持てば苦しく、悲観的な人は常に悲しく、楽観的な人は無意味に楽しく暮らすことが出来ます。

 どの世界で暮らすことになるのか……それを左右するのは当人の信教、境遇、血縁などとは関わりなく、当人の心境こそが重要なのです。 ・・・

 

 私の観察した地獄。

 私も心霊相談を通じて、地獄を見たことがあります。といって、くどいようですが、地獄と呼ばれる場所を霊視したというのではなく、相談者の心境の中に『ああこれが地獄というものだ』と思わしめるものを見いだしたということです。

・・・

 地獄を描写した絵巻の中にこのような地獄の描写があります。

 罪人が目前の木を見上げると美女がいる。美女を求めて木を登ろうとすると、その木には刀のように鋭い刃がついていて、登る内に全身が傷だらけになってしまう。血まみれになってようやく登り切ると、美女は消え、気がつくと地上で微笑んでいる。罪人はそれを追ってまた血まみれになりつつ木を降りていく……

 または、女が、やはり刀のような葉のついた木が林立する林(刀葉林)のなかで美男子を追い掛けて走り回り血だらけになる……

 欲しいものを手に入れようと必死に努力して傷だらけになっていく。追い掛けている内は夢中だから痛みもないのに、ある時冷静になって気がつくのです。なぜこんなに私は苦しいのだろう!! と 。

 しかし、私が、心霊相談を通じてみた地獄というのは、苦しみに気がついただけで終わりません。

『私はこんなに苦しんでいます。だから、私の為に○○を……』

 それを追い掛けるから苦しむのに、自分の力では足りないからと人を頼みにする。でも、人の助けを借りた所でより強く傷つくだけなのに……これが私の見た地獄です。いや、ある意味この光景は現代日本で当たり前の光景かも知れません。

 姿形だけを見ていれば、都会に溢れるきれいに着飾った美男美女の群れ。でも、ひとたび会話をしてみると浮かれているか……落ち込んでいるかのどちらかでしかない。客観的には天国の様でいて、刀葉林の中を走り回っているように……地獄は、決して遠くにあるのではありません。

 

 魔境を知らぬ。

 

 罪を悔いる心境を地獄と呼ぶ――この事は大変合理的に思うと、評価して下さる方は多いのですが、同時に、『悪事を成しても、捕まえて見ろといわんばかりにふんぞり返っている奴がいるなんて、神様も不公平ねぇ』等という感想を漏らされる方がいらっしゃいます。または自ら『悪事を成しても後悔するから苦しむのだ、開き直ればいいんだよ』と開き直る人もいるでしょう。……世の中に勧善懲悪のシステムがあると決めつけるのも行き過ぎですが、実は、開き直ってもやはり悪いことをすれば苦しみます。

 それが魔境と呼ばれる心境です。地獄と同様、魔境も仏教思想からのものですが、現実に思想をあてはめてみることで整理が進みます。いえ、現実逃避という呼び方の方が一般には通りがよいでしょう。しかし、地獄の思想との繋がりでここでは魔境で通します。

 魔境、または、天外魔境とは、当の住人にとっては、天国の様に見えるのに、住人以外が見れば地獄の様に見えてしまう状態を指します。たとえば、兎角、新興宗教の信者というと狂信的で迷惑に思われがちですが、信者達にとって見ればその教団の中こそが天国に思えるというのも、この魔境と呼ばれる心境に分類できるのです。

 当人が幸せならば、魔境で暮らしたっていいではないか。

 夢はいつか醒めます。

 ならば永遠に夢見ていたい。

 それこそが夢であります。

 魔境は苦しみの中で得られる一時の安らぎですが、人は生活の質を落とせぬものです。すなわち、苦しみの中で魔境に逃げ込むと、その後の現実は益々惨めになっていきます。結局のところ、大概の人々にとって魔境は地獄への入り口なのです。

 

結語

 地獄が心境であり、地獄の心境といっても自覚のないことがある。いや、幸福の絶頂期にあるようでいてもそれは苦しみをより大きくする為の準備であることさえもあり得るのだ……これが地獄であります。そして、地獄は死後の世界に止まらず、生きている今も、容易に落ちる心境である……しかし、地獄が身近であるのと同様、天国・極楽だって、身近にあるのです。

 眼を地獄にばかり向けるのではなく、天国・極楽にも向けて頂きたいと思います。


困った時の神頼み

2004/03/27

2004年 03月 26日


 俗に、「困った時の神頼み」などと申します。普段、調子の良い時には、「神様も、仏も知ったことか」と、強引にマイウェーを決め込む人も、胃にポリプが見つかったりすると、途端に熱心に神仏に祈り出したり致します。 普段は傲慢に振る舞いながら、困った時だけすがるというのもあまりみっとも良いものではありませんが、それはそれです。神仏の御胸の内は覗けなくとも、人智を越えた思惑が結果として表れるかも知れません。しかしながら、心霊の学んだ人にとって、「苦しい時の神頼み」は心霊研究の結果から、難しいだろう事が推測できます。

 霊媒は、交霊の際に「波動があう」とか、「波動があわぬ」とか表現致します。交霊の体験者にとって、この表現はまさに! と思えるほどしっくりと来る表現なのですが、一般向けに表現するなら、気が合う同士の会話に割り込むのが難しいが、気が乗らない会話に割り込むのは実に簡単だ……ということから類推して頂けると思います。

 つまり、誰でも没頭できる話題ならば集中力が持続するけれど、退屈する話題ならば集中力が続かないのです。……交霊においても心境があまりに違う相手と通信するのはとても苦痛でうまくいかないものなのですね。

 すると、ワガママ、独りよがり、ご都合主義的な祈りというと、神仏……とまで行かないまでも普通の霊ですら、その願い事に耳を貸すのが退屈でたまらず、相手にされないのが普通なのです。……「退屈でも忍耐強く聞いてくれるのが神仏という霊ではないか!」と反論されたことがありますが、端的に言って、ワガママ、独りよがり、ご都合主義の祈りというのは自己矛盾を内包していて実現の見込みはないのです。慈悲・慈愛こそが神仏の本分だとしても、夢想に付合うのはナンセンスですから、やはり、波動が合わなければ相手にされないと考えるのが普遍的な考え方と言えましょう。

 整理すると……

 『神仏の心境に達するような志でないと、祈っても通じにくく、もとより実現の可能性もない』ということです。

 ですから……

 『苦しい時の神頼みは、無駄と考えられる……少なくとも、最善の策ではありません』

 以上が、「霊媒の体感」への論理的な考察であります。端的に言えば、波動が合わなければ願いは通らぬ(実現しないということではなく、加護の手応えが得られない)というだけのことです。

 では、反対に、どういう祈りならば、聞き届けられやすいのでしょうか。……心境を言葉で表わすのは誤解も多いのですが……

 『打つ手なし、神仏我を助けたまへ』と祈るよりも、『いざ行かん、神仏我を助けたまへ』と、打つ手も気力もあり、実は勝つ自信のある時にこそ、神仏に祈って過誤の無きように万策を尽くすのが、守られていることを体験しやすいでしょう。

 これはたとえば、私が主催するオフ会などの心境でもあります。皆が楽しんでくれるように事前に思慮を巡らせた上でオフ会に臨む。すると思った以上にうまく行って、皆で「ああ、お手配だねぇ」と感心することがあるもの……実は、精神統一によって至る心境よりも、守られていた事への関心の方が、より有益なのではと思えてなりません。


霊感を止めたい

2004/03/25

霊感を止めたい

04年 03月 25日

 

 霊感を欲しがる人がいる一方で、自分の霊感を止めたいと願う人がいます。世の中、なかなか思い通りにいかないものです。なぜ欲しがる人に霊感が芽生えず、欲しがらぬ人に霊感が芽吹くのでしょうか。実はここに、「霊感を止めたい」という問題の解決の糸口があります。

 心霊問題一般にいえることですが、高度な霊能力の持ち主であっても、針の穴から世界を覗くかのような、状況把握の難しさがつきまといます。まして、初心者や素人であるならなおのこと、自体の全体像を把握することはとても難しいものでして、大抵の場合、悩みを聞けば、その悩みの解決だけを懸命に考えてしまいます。しかし、原因があって結果があるのです。原因の追及無くして真の解決はあり得ません。

 霊感を持っている人の霊感を止めるということにだけ眼を向けていると、実は設問自体が間違っていることを見失ってしまうのです。

 

なぜ霊感が要らないのか

 そもそも、なぜ、「霊感がいらない」というのでしょうか。たとえば金品であれば、価値はあっても邪魔になるかも知れません。しかし、霊感をはじめとする才能の数々は、置いておくのにスペースが必要なわけでもなく、また免許証の書き換えが必要なわけでもありません。まして、欲しがる人がいるというのに、いらないという人もいる。一体、霊感には価値があるのかないのか……なぜ、持っている人は棄てたがり、持たざる人は欲しがるのか。このギャップはどうして起こるのでしょうか。

 そう、霊感自体には本来価値はないのです。その事を気がつかない人が霊感を欲しがり、その事に気がつかない人は霊感を棄てたがるのです。そして霊感に価値を与えるのは、実に簡単、コントロールなのです。

 霊感を欲しがる人は、当然のこととして、コントロール可能な霊感を欲しがっているのです。間違っても、霊感に振り回されることを望んで、霊感を欲しがっているわけではありません。そして、霊感を棄てたがっている人は、霊感に振り回されて苦しんだからこそ霊感を棄てたがるのです。もう既に充分に苦労した為に、たとえコントロールが可能になろうとも、もう霊感なんてこりごりだ……と思っているかも知れませんが、最初からコントロールが可能であれば、わざわざ霊感を棄てることなく、ただ、使わなければ済むことなのです。

 実際、霊能者として活動する人も、霊感を隠して生きる人も、その能力を自分のコントロール下に置いているから霊感を棄てようとジタバタせずに済むのです。

 

霊感は止められないのか

 私は、ある程度幸いなことに、霊感発現から一年程度で自分なりのコントロール法を会得しましたが、霊感を止めたいという方には、何年、何十年来と苦しんでこられた方が大勢いらして、私と出会った時には、もう堪忍袋の緒が切れていて「屁理屈は良いから止めてくれ!」と食ってかかる方が多いのです。……コントロールできない霊感の辛さは私も経験しているものですから、食ってかかられても同情こそすれ腹も立ちません。極端な話、無視されて苦しむのは相手なのですから、八つ当たりされた所でわざわざ復讐する必要すらない話です。ですが、この手の問題は、信頼関係が確立できなければ指導は出来ないものです。結局、食ってかかるような方にはもう何も出来ないというのが現実です。

 更にいえば、霊感に限らず、才能一般は、皆、天与のものです。天与のものを人がどうこうしようとするのは暴論でありまして、霊感を止めたいという事情に無理はなくても、そこに現実的な解決の糸口はないのです。「霊感のコントロールが出来ない」という問題に、「霊感を止める」という方策は、実は袋小路、その努力は死門なのです。

 ……霊感は止められない。

 これが現実であると受け入れた上で、別な解決の糸口をお探しになるべきです。

 

霊感の持つ弊害

 俗に、霊能者を自称する人が、「私だからこれですんだけれど、霊感のない人なら殺されていたかも……」等という発言をすると聞きますが、現実には、霊感が強さと霊障の影響力とは比例しますから、霊感の無い人ならば何の問題もないことがあり得るわけです。これはたとえば、騒音に絶えられるのは、耳の良い人か、それとも難聴の人であるかを考えてみれば判ります。難聴の人は耳が悪いがゆえに危険を感知できずに事故に遭いやすいかも知れませんが、騒音に弱いのはむしろ耳の良い人なのです。

 霊感の強い人が、霊障に耐久力があるというのは、要するに対処法を知っているというだけのことです。霊感が強くても対処法を知らなければ一般人よりも始末が悪いと考えるべきでしょう。

では、何が出来るか

 ……霊感を止めることは不可能であり、問題は霊感のコントロールを得ることだ……そこまでは判った、ではどうしたらよいのか?

 ここからが容易ではありません。勘違いであれば、注意の喚起だけで事足りるかも知れません。しかし、未熟さの克服には練習・教習が必要です。まして長い年月抜け出せずにいた問題なのです。そうそう簡単に修正が可能であると考えるのは身の程知らずと自覚なさるべきです。

 

除霊の勘違い


「難しいことは後で聞くから、取り敢えずチャチャッと、このうるさい霊を何とかしてくれ!」

 霊感を止めたい――端的に言えば、自分が意図せぬ交霊を止めたいということです。ならば、交霊してくる相手をつまみ出せば、当面の解決になるはず。素人考えでいえば、除霊さえすれば問題解決しそうに思えるのも無理はありません。

 しかしながら、ここに大きな誤解が潜んでいます。

 そもそも霊とは本来、肉体を失った意識なのです。物理的な肉体がないということは物質的な制約がないことを意味します。それはつまり、側にいなくても霊障は起こせるのです。

 例えるならこういう事です……

 玄関を嫌がらせのように叩いてうるさくて大変なら、玄関先に飛び出して追い出すことも出来ます。ガードマンを雇って玄関前を守らせるという手もあるでしょう。……一般の方々が、霊障と除霊に関して抱いているイメージは、この玄関を守るのに似ています。ところが、霊感が敏感であれば、距離に関係なく霊障をうけます。つまり、いくら玄関前を厳重に守った所で、イタズラ電話までは防げないのです。

 霊感の鈍い方が受ける霊障であれば、除霊、または浄霊……表現の差などは些末な問題に過ぎません。霊障を起こしている相手が、「実は距離に無関係に霊障が起こせるのだ」ということに気がついていないのなら、しっぽを掴むのは簡単ですから。しかし、距離に無関係に霊障が起こせることに気がついた霊なら……除霊するどころか、その正体を掴むのにさえ苦労することになります。

 要するに、霊障には除霊…浄霊では解決のつかないものもあり、その場合、その場合に合わせた対処法が必要となるのです。霊を感じたからとにかく取り除くとか、とにかく説得するというのは、必ずしも充分な解決法ではありません。いや、解決法というよりは偏見であるとお考えになるべきです。

 霊感を止めたい――霊感のコントロールが出来ない……というのは、その相談者が無能・未熟であるというより、偏見を前提にした間違った努力をするから、求める結果が得られないと考えられるのです。


それは本当に霊感なの?

2010年01月02日

 

 こうなるともう、心霊問題とはいえないのだが、「声が聞こえて辛い」という相談には往々、首をひねらされる。

 これはよくよく注意してもらいたいことだが、霊感の強い人が、悩める人を「霊視」すると、「影」や、その他もろもろが見えることがあるものだ。が、これが果たして原因で有るのか、それとも精神状態の影響で見えるものなのか、その判断がある意味難しい。安易にこれを原因と判断する自称霊媒もいるようである。また、「除霊」をすると、相手の気持が明るくなったりするので、なおのこと、そう判断したくなる。

 が、気分が明るくなることと、事態が解決することとは往々別物だったりする。結局、霊が見えるのが霊媒で、見ようと思えば、無関係の霊も見えるのが霊媒である。気分の変化だけでは原因と断定することは出来ない。

 むしろ、心理的な要因があるから影がさす、と考えるとしっくり来る場合が多い。たとえば、自意識過剰で、誰かに自分を認めてもらいたくて気が急いている人などが・・・行き過ぎて、「声が聞こえてきた」と、思い込んでいることが決して少なくないと思う。その病的な部分が、霊視上で影のように感じられているのだろう。


人を謗る

2004/03/24

悪を誹らず

04年 03月 23日

 他の悪を謗る人は、悪を嫌っても、「悪を転じて善と為す」 だけの智慧をもたない。

 魂の修行とは、己の善きところをのばし、悪なる所を無くす事である。なのに、悪を嫌うだけならば己の悪所をどう正すのか。

 己の悪を隠して、他の悪を謗るだけなら、救いがたい悪人というべきである。ゆえに修行者は、他の悪を謗らず、他の悪を見て己の心を正そうとすべきである。

 他人に断罪されたら、悔いるよりも反論したいのが人情。その人情を超越しているのならばいざ知らず、迷いを捨て去らぬ人ならば悪といわれたら悪に走るのが悲しき性である。他の悪はあなたの罪ではないが、あなたの悪はあなたの罪である。人に正される前に己で見つけて己で正す。それが一番、容易な生き方である。

  •  他に言われずに過ちを改めるのが智慧というものである。
  •  他に責められて過ちを改める……つらくとも救いはある。
  •  他に責められて意固地になれば……つらく、そして救いはない。
  •  責められるのを恐れて孤独に生きれば……何のための人生か。
  •  痛みから学び、痛みを繰り返すなかれ。

 今生で修行をせずに、課題を来世に持ち込む。

 人に責められるのを嫌って、神に責められるのを選ぶのか?

 人の好意に拗ねてみても、拾う神もあるだろう。だが、神の好意に拗ねたら、一体誰が救うのだろうか?


誹る人

04年 03月 23日

 人を誹《そし》る、または悪口を言う――その恐ろしさを知らぬ人が多いようです。実はこういう他愛のないものをおろそかにすることが、人の弱さを生み出す元なのです。

 人は、自分を大切に思えばこそ、自分を守る為の努力を惜しみません。行き過ぎれば他を誹《そし》るのが当たり前にもなります。しかし、人は社会性のある動物なのです。周囲をおろそかにすることは自分の環境を汚すことになります。

 つまり自分を大切に思うのならば、自分を大切にするのと同様に周囲を大切にする必要があります。

……どうせ誰かが、片付ける…… 他の誰かに依存しなければ生きられない。――より多くに依存して生きるのは精神的な未熟さの現われなのです。不思議なことに、他に依存する必要の薄い人ほど周囲のすべてを大切にいたします。


何を為したか

2005年 11月 30日

 被害者だから善良とは限らない。

 悪を非難したからと云って善良とは限らない。

 善悪を論じるのではなく、今、自分は何をすべきなのか、今の自分に何が出来るのかを考え、自分に不足を感じたら、明日の自分に必要なことを見いだし、あるべき理想に向って歩んでいく。

「何を為したか」が、この世に生きた証なのだから。

 口がよく働くときは……生き方に無駄がある。


一知半解の徒

2006年 01月 01日

 男性の声で、「まったく彼奴あやつは一知半解のままで成長せぬ。 」と聴こえた後、女性の声でこう聞こえた。

・・・・・・

 自分の為に学ぶ人は、「知識」を大切に扱います。学び、試し、知識を我がものとした後に次の知識を吸収するのです。その過程こそが真の学習、学び、習い、それを持って魂を向上させていく人の足取りです。

 ところが世の中には、安易に結果を欲しがり、智の真の価値を知らぬままに生きる人がおります。試す前に……、理解する前に……、無教養な人が自慢気にうわさ話をするように、聞きかじり、理解せず、試しもしないことを、ただ人に話すのです。

 このような知識の扱いをする人を指して、「一知半解の徒」と呼ぶわけですが、このような輩に迎合することは無論のこと、腹を立てて、そのデタラメな言説を覆そうとすることもまた、回り道であることに人はなかなか気がつきません。

 人生は修行の場なのです。その修行とは、あなたがどれだけ前進するかが大切なのであって、周囲にどれほど未熟な人がいるかはさして問題ではありません。

 何となれば、周囲に未熟な者が多いことは、あなたが低い学年に据え置かれているようなものだからです。

・・・・・・

 無益な行為をする人に振り回されぬことです。それもあなたが乗り越えるべき試練の一つなのですから。
 


報われる努力のために

2004/03/23

04年 03月 23日


 努力は無益か? 


 努力することはとても大切なことです。しかし、努力が報われるとは限らず、最後に努力家が幸せを掴むとは限りません。むしろ、努力のはてにつまらぬものを掴んで絶望することは良くある話です。

 揚げ句の果て、努力を諦め、嫌う人のなんと多いことでしょうか。

 ……なぜ努力が報われないのか? 何が悪くて報われないのか?

 努力が悪いのではなく、努力の方法が悪いのです。――そして、自らを誤った努力に駆り立てる自分が悪いのです。

 

「お手配」または「かんながら」

 「お手配」という表現がありますが、これは決して「果報は寝て待て」という消極的な表現ではありません。難しい表現をするなら、「かんながら」などというのもこれにあてはまりますが、「物事の自然の流れに沿うことで良い結果を得ること」をいう言葉です。

 そもそも、人がこの世に生まれ、自我に目覚めて、自問自答を繰り返すのはなぜか、少なくとも生まれてくるという時点に遡れば、そこに大自然の働きが有ることを誰もが認めずにはいられません。人間も、そして、自我もまた自然の生み出したるものなのです。そしてこの自然の働きを「神」と呼ぶならば、「人は神の祝福を受けて生まれた」と思わずにいられましょうか?

 自我も人生も、総ては神の祝福を受けたるもの。それを己の過ちを振り返ることなく、少々の不幸で捻くれてみて、「神などいない」と主張する人ももいらっしゃいますが、僅かな食い違いでも大事故が起こるのに神任せで事故が避けられると思うのは、果たしていかなる神を空想なさっていることか。

 「もうこんな不幸は要らない!」と大声で叫んだところで、大自然の法則は覆りません。注意を怠らず、努力を忘れずに生きてこそ、難を避けて生きられるというのに、運と神を過信――誤った信じ方をしていては難を受けるために生きるようなものです。

 良き努力をし、良き努力の結果を受ける。それは、春に種を蒔き、秋に収穫するのと同じ事です。決して特別なことでも超自然的なことでもありません。

 お手配も、「かんながら」も、種を蒔かずに収穫することや、冬に蒔いた種を春に収穫することもいうのではないのです。ただ、当たり前のことをいうだけのこと、当たり前のことに注意を喚起しているだけのことなのです。

 

執着の為の努力

 ……なぜ努力が報われないのか? 何が悪くて報われないのか?

 総ての努力が報われないわけではありません。夢を実現している方も大勢いらっしゃいます。そうであれば、報われる努力、報われぬ努力には自ずと違いがあるはずです。

 そして、物事の違いには無限のバリエーションが有るとしても、人が大自然・神の祝福を受けて生まれてきた――幸福になるために生まれてきたと考えるならば、人が陥る過ちはきっと数少ないのではないかと信じることも出来るでしょう。

 間違った努力が報われぬ事は誰でも解ります。ではなぜ、間違った努力に気がつかず、また、間違った努力を止め、改めることが出来ないのか――過ちにどれほどの魅力があるというのでしょうか。いや、どんな魅力のある過ちに人は心惹かれてしまうのでしょうか?

 報われぬ人は「良き考えの実現」を努力と呼ばず、妄想、空想、身勝手な欲望に執着することを努力と呼ぶのです。実現の可能性がないものに執着して身を離そうとせず、得られぬものを追い掛けて心を焦がし、焦る気持ちがまた心を痛めつけるのです。こうして努力が苦しく、苦しんでも報われぬ事になります。さらに、自分が過ちを犯しているのに、欲に目がくらんで他に原因を求めれば、「神が悪い、運が悪い、手助けしない周囲が悪い、いや、皆が揃って私の邪魔をするのだ!」などと言い訳がエスカレートしていきます。しかし、間違いの中に真実を見いだそうとすれば、論理を失い、狂気に駆り立てられてしまいます。

 狂気も一種の病だとしても、多くの狂気は欲への執着から起こります。

 すべての欲を断て……というのではありません。欲に飲み込まれず、我を忘れぬ事が大切なのです。

 

清らかに生きる

 報われぬ努力を続けては、得られるものも得られなくなります。結局、欲に執着することは、得るのではなく棄てるということなのです。

 どうせ欲を抱くのならば、棄てるために努力するのではなく、得るために努力すれば良いものを、自分の欲を見極めないから、努力と工夫で自分を愚か者に仕立ててしまうことがあります。

 なしのまま渡れば安き道あるを……欲に駆られて腐った吊り橋を渡ろうとする。お手配を求めぬ心の底には、お手配で満足できない気持ちが隠れています。

 世の中は、自分一人の持ち物ではないから、努力が実っても、一人自分で独占することは出来ないものですし、多くの人々に上前を撥ねられることも善くある……というより当たり前なのが現実です。世の中不公平に思えるけれど、世の中が巡っていけば自ずと得るべきものが手元に残り、得るべきでないものはしっかりと握っていても出て行く事が解ります。

 それで足りぬと思うことが、結局、自分の心の貧しさなのです。

 努力を止めよというのではありません。何事も、お手配を待てというのでもありません。無益な努力に自分を駆り立てるな……ということであり、自分を導く奇《く》しびな働きをしっかりと評価すべきだ……ということなのです。

 人は決して愚かではなく、また貧しくもありません。ただ、自分の物でないものを握って放そうとしないから、本来、自分の物であるものを握っていられなくなるのです。

 努力の前に無駄を省きましょう。それが物心両面の豊かの源です。無駄な努力も、無駄な欲望の追求も、あなたを苦しめはしても豊かにはいたしません。


愛と執着の混同 (恋愛問題)

2004/03/22

 恋愛相談の難しさは、問題が感情論であると同時に、大抵の人が、愛と執着とを混同していることも重大な問題です。

 論者によっては、執着心は絶対にいけない、捨て去るべきだという意見もありますが、私はそうは思いません。必要なものに執着することはある程度必要です。問題なのは執着心ではなく、極端に走ることです。つまり、不要なもの、他人のものにまで執着して手に入れようとするから罪となるのです。

 そして、恋愛問題に関して、問題が生じるのは、ほぼ確実に愛ではなく執着です。当人は恋愛問題と思っているけれど、冷静な第三者が聞けば大抵は執着問題なのです。

 恋愛と執着――相談者と回答者の認識にこれだけ差があるのです。回答を受け入れる以前に相談の過程そのものに大変な苦痛が生じることは火を見るよりも明らかです。

 また、恋愛そのものも実は大きな矛盾を内包しているものです。

 人は自分を知ることさえも難しく、自分の扱いさえも持てあましているというのに、他人、そして、異性の内面を知り、理解して、適切に扱うことが果たしてどれほど難しいか。

 一方で異性を操ることの上手な人もいる。それも自分を理解した上で相手を理解するのならば、それはすばらしいことですが、大抵の場合は、自分を扱うよりも他人を扱う方が楽だという、一種小手先の解決策の持ち主だから……これでは不器用な人を相手に努力を要求されるか、経験豊富で上手な人に利用されるか。このどちらかの極端に捉えられて、『幸せなんて所詮は理想、ただの夢物語』などと変な悟りに至るのが落ちかも知れません。

 夢ならば覚めなければ幸せだ……まあ、不正解であっても、現実的な落としどころなのでしょう。


2004年 03月 22日

感情論

2004/03/21

 「真剣に聞いているのにはぐらかしてばっかり!」と詰られることがある。

 口には出さずに思う。

『真剣に聞いているのではなく、執着しているだけだろう。聞く耳を持っている人なら真剣に話すが、自分の言説を認めさせようとしている人を相手にするのは時間の無駄だ。自分が真剣なら相手に迷惑がられてもおかまいなしの奴なんか相手が出来るか。とっとと引き下がれ!!』

 はぐらかされたら腹が立つ……人間の心理ですね。では、真っ向から反対されたらどうなるか。あなたが冷静に判断できるのならばいざ知らず、つまらぬ喧嘩の種にしかなりません。感情に配慮して、やんわりと否定しても、自説に執着し、また、誰かに認めさせることに執着して引き下がれない。「出て行け!」というのはよほどの最終手段だと、こらえていればつけあがる人まで出てくる。

 自説を認めさせるためだけに話すのは、結局、執着心の奴隷になっているということ。正しい判断どころか、自分の立場を危うくする結果しか得られぬものです。まして、自説を主張して興奮するのは盲信の証、正しければ場を改め、冷静に話しても正しいはず。興奮しないと言えないことに真実は含まれていません。事実が含まれていても偏見が真実を歪めています。

  •  感情的になっても間違いは間違い。
  •  感情的になっては間違いは災難に転じる。
  •  感情的になった時に迎合するのは過ちの共謀者。
  •  過ちを庇っても救いはありません。
  •  冷静に考えても、やはり相手が違うと思うなら、相手にする価値がないということです。
  •  興奮するより冷静であるべきです。

 そうであるから……

 冷静になれ!――この言葉が過ちに思える人は救いようがないと思います。少なくとも、冷静であることの大切さに気がつかぬ人は救いようがないと思います。

 興奮すると、自己の愚かさを忘れることが出来ますが、愚かな記憶が消えて無くなるわけでもありません。恥を忘れるために興奮するより、恥を恐れて冷静になるべきです。


2004年 03月 21日

正しく思う

2004/03/21

2004年 03月 20日


・・・心の健康について意見を求められました・・・

 悪いと知りながら辞めない、辞められない……個々には葛藤があります。葛藤とは矛盾を抱えるということです。真っ直ぐに進むのが一番早いし無駄もないのに、その場でぐるぐる回っては前に進みません。どうせなら場立ち止まって考えれば良いのに、ぐるぐる回っていては、前に進まないのに足が疲れてしまう。

 葛藤しても答えにたどり着けないだけでなく、糸口を見つけても疲れて解けなくなる恐れがあります。

 考えても仕方のないことを延々と考えている人が往々にして、変な慢性病に掛かったりするのは霊媒としてよく見る事例です。

 考えるに値することだけを考える。――これが何より心の健康に必要だと思います。

 また、身体が運動を欲するように頭も思惟を求めるものですが、思惟するなら正しく思わなければ有害無益に陥ります。そして正しい思惟には、適切なテーマがあるはず。テーマを見つけることも大切ですが、個々に一つ問題があります。

 多くの人は、正しく生きられない自分に対して後ろめたく思い、自分の間違いを見ないようにして世界を見ているものです。つまり、自分を色眼鏡で見て、その色眼鏡のまま社会を見るのですから、どうしても迷信・偏見から免れません。

 ですから、たとえ痛みが伴おうとも、自分の過ちや未熟さを正しく認識し(正見)、たとえ恥ずかしく思えても胸を張って受け止めることが、正しい思い(正見)の第一歩となります。


真理の追究

2004/03/20

 慈善に生きることは修行ではない。懸命に人々を幸せにしてみても、自分も幸せになれば因果律は満たされてしまう。慈善で償おうとしても、世にはあなたに親切にする人がいる。あなたの慈善はあなたを救って釣り合いがとれるのだ、そして欠点は直らず、過ちは消えず、あなたは新たな罪を続々と重ねていく。

 修行とはただ、動機を清め、罪を悔いて、心を正していくことである。そして善悪に迷わず、慈善に惑わされない智慧を得て、初めて罪は消えてなくなる。……真理の追究とは偏見との決別である。

 人々の夢や欲望が果てなく見えるのは矛盾と葛藤が有るからだ。矛盾と葛藤だけが残れば夢・欲望はただの苦しみとなり、矛盾と葛藤を取り除けば、夢・欲望は空気の抜けた風船のようにつまらぬものとなってしまう。

 苦もなく楽しい夢を追い掛けずに、どうして人生が有益なものとなるのか?

 大きな苦しみを夢と見るのをやめ、ゴミの固まりを富と見るのをやめよ。そうして心を清めてこそ、真に価値のあるものが見える。……真理の追究とは偏見との決別である。

 人が偏見を棄てがたいのは、世の中を見下しているからだ。自分を知って自分を信じるのではなく、世を知らず己を知らずに自分を過信する――現実以上に自分を信じるから、傲慢に振る舞って気が付かず、道化を演じて生きることになる。他を知り、己をしれば、世の中には学ぶき事が無限にあることに気が付くことになる。宇宙の智慧と比べてあまりに小さな自分に気が付けば、人は謙虚にならずにいられない。……謙虚を苦痛に感じるというのか?

 敗北を認めたものには再戦のチャンスがあるが、敗北を認めぬものは永遠に勝利のチャンスはない。ゆえに負けず嫌いは永遠の敗北者である。……真理の追究とは偏見との決別である。

 偏見を捨てぬ者は、真理を学んで真理を至れぬ。自分の真の敵から目を背けてはいけない。

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