‘2003/06’ カテゴリーのアーカイブ

心霊研究について

2003/06/30

Q 「心霊学の先駆者達の努力にいびつなものを感じて仕方がない。」

 勝敗に関わらず恨みが残る――人に完璧はあり得ぬ。ましてや人は助け合い補い合うように出来ている。他者の過ちを告げれば、相手もあなたの過ちを探しにかかるだろう。相手の詮索や非難が不当なものであり、矛盾したものであろうと、これだけは事実である。相手の利を損なえば、相手は自衛のために戦うだろう。

 果たしてどちらが強かろうが、最後に残るのは真実である。それゆえに、天(神)はもっとも公平な審判者たり得る。されど、その判定は人の都合には関与せぬがゆえに、多くの場合、そして近視的に見ゆれば正しき者よりも強き者が勝利を得るのだ。

 信念を貫く事と、他者に打ち勝つ事は必ずしも両立し得ぬ。それゆえに、他に勝とうと努めれば信念が疎かになることも多い。だから言う。他に勝とうとする前に己に勝てと。争う事よりも信念を貫く事を大切にせねばならぬ。争えば、勝敗に関わらずそこに恨みが残らぬはずがなく、その恨みこそが人からさわやかさを損なうものである。信念にのみ生きる事は難しい。なぜなら、あなた自身がすぐさま争いに飛び込むからである。

 過ちを正すのは命がけ―― 一つの過ちを正すことは容易に思えるが、相手はいかにしてその過ちに至ったのか、一つの過ちの根はとても深い。そうして掘り進めれば過ちの原因は人生の根幹に触れるかもしれぬ。ゆえに些細な過ち一つですら、それを正すということは相手の人生すべてを揺らがしかねぬ大事業なのである。それゆえ、仏家にとって師従の誓いは血の誓いである。師は命がけで弟子の指導に当たらねばならぬ。

 最近、青年の愚行を諫めて、殺されたる者があるとか。心ある者がその出来事を嘆く気持ちはわかる。が、車道に横たわるという青年の行為は、人々から見れば愚行であろうと、青年はふざけながらもその愚行に命を掛けているのだ。命がけの行為を諫めるのならば、命がけで接するべきは当然である。かようにとるに足らぬ愚行であってもその過ちを諫めて命を奪われるのが世の中である。頼まれても人の過ちを改めるのには注意が必要なのである。

Q 「心霊研究は、多くの人々との間に葛藤を生むようだ。」

 学ぶには時機がある――人の器量を見ることはとても大切だが、いかに器が小さかろうが、いったん中身を空にしてやれば、驚くほどの勢いで満ちようとする。しかし、いくら器が大きかろうが、器を超えて入れることは出来ない。

 地上の生にだけ限ってみると、肉体の成熟とともに器が広がり、老いとともに器も萎びていく。これは断じてその魂の器量ではないが、人として生きると言うことは、その肉体で表現するということで、それ故に肉体の変化は人の変化といえなくもない。

 そして、人はその魂の器量の大小にかかわらず、新奇な知識さえも取り入れられる時期もあるが、また、当たり前なことさえも受け付けられない時期がある。新奇を受けぬどころか、今まで信じてきたものまで否定しだす事もある。

 草花は、春に花咲き、秋に葉を散らし、一年の間に器の伸縮を繰り返すが、人の器の伸縮はその一生の中で見なければならぬ。あなたがどんなに心を砕いて真理を説いても、多くの人にとって真理を受け止められるのは一生の間のわずかな期間にすぎない。若い頃は知識を取り入れることにどん欲なようだが、それはただ真似るのみである。情熱に駆られて知ることに努めても、真偽を見分ける力は身に付かぬ。

 熱心に学ぶ者は真理も嘘もともに飲み込み、学ばぬ者はただうるさがるだけである。ましてや、心霊だ、真理だといったところで、そのような知識を生きる上で必要とする者が果たしてどこにどれだけ居るというのか。知識が生きる支えになるというのなら、空念仏を支えに生きる人もいる。真理に関心を持つあなたは、前世においても篤く宗教に帰依していただろうが、果たして前世と同じ宗教を今生も大切にしているだろうか。

人を見て説け――私は見る。熱心な学徒、熱心な信者ほど、前世とは異なる思想や宗教を抱いている者だ。真理とは普遍である。たとえ人によりて呼び名が変わろうとも、普遍こそが真理であるから、心底、真理を学び得た人はおのずと普遍性を身につける。一つの思想、一つの教義に拘り、異なる意見を排斥するのは、真理の普遍性に気がつかぬからである。

 奇異に感じるかもしれぬ。しかし、異なる意見の中にさえ共通の真理が隠れているのが真実である。対立する意見など論者の未熟さでしかない。不完全な真理の把握が未熟な表現になり、未熟な理解力が意見の対立を見るのである。

 ここに一人の禅者の逸話を語ろう。風になびくのぼりを見て、二人の若い禅僧が論を交わした。「あれは風が動いているのだ」「イヤあれはのぼりが動いているのだ」そこを通りかかった禅者は、「動いているのはあなた方の心だ」と二人を論破した。いったいどこに真理があろうか。風も動けば、のぼりも動き、それを見る人の心も動く。総てのものは動き、変わり、その変転を繰り返すというのに。風という一面、のぼりという一面を見て、それを真実と信じる。風ものぼりも動いているのである。

 互いに未熟であるなら、せめて補い合ってより真理に近づくべきだろうに、己が優劣を競い合う。それを「至らぬ」と呼ぶのである。己よりも愚かな者がどれほど大勢いるとせよ、それで安堵できる人にいかなる救いがあるのだろうか。世の中に賢者はわずかしかいないものだ。ならば賢者に絞って探せば良さそうなものを愚者の数を数える人々。真理よりも他の過ちに目が止まるようでは一生かかっても前には進めぬ。

 無関心な者に真理を説くのは時間の無駄だ。だが、熱心だからといって油断は出来ぬ。(真理を)学ぶのは一生の大事業である。あなたが学ぶことは難しいが、あなたが人の学びの世話をすることも難しい。あなたが生きている間に、あなたの言葉を真に必要とし、真に生かせる人と巡り会うのはさらに難しい。教えようなどと思うな、ただ言葉を残せばよい。あなたは心霊を学んでいるとか。ならば、あなたが真に人を導く時は生きている間ではなく、死後にこそ訪れる。

 あなたは心霊論者の教えに歪みを感じるとか、その歪みとは生臭さに浸りながら真理を説く者の宿命である。生きている限りその歪みから無縁であることは難しい。しかし、その歪んだ世界で生きることを嘆くなかれ。地上にいる中に歪みなき真理を学び得ないとしても、そこで鍛えた真贋を見抜く力が、死後にあなたを高みに招く。

 目を見開けば地上には知識があれている。死者達の世界にはさらに多くの知識があふれている。そのあふれんばかりの知識の中に、あなたにとって必須の知識はわずかである。その大半の知識は無益であるか、未熟であるか、デタラメである。故に、知識を学ぶことよりも、必要なるものを見分ける力こそがより強くあなたを導くのである。それは人を見る目にも当てはまる。

 あなたには地上に為すべき事がある。ならば努めよ。だが、人には人の勤めがある。あなたが他人の事でじれる必要はない。あなたが熱心に学ぶことで人との葛藤が生じたとしても、それは魔境に迷い込んだのではなく、あなたが学ぶべき現実の一つと対面したにすぎぬのである。

(2003年6月29日)


,

幸せを得るために

2003/06/27

Q 「人は何ゆえに不幸を感ずるか?」

 報いられぬ思い――人は報われぬ時に不幸を感ずる。どんな困難に出会おうと、それが報われると信じられる限りにおいて、人は幸福なのである。

Q 「幸福に生きるために何ができるか?」

 赤子が知りながら、あなたが知らぬ事がある――なんと!「幸福に生きる方法」を問うか。人は求めて生まれてきたなら、その使命を果たす事こそ幸福であろう。すなわち、幸福に生きるために大切な事は、あなたが、あなたとして生きる事である。そこにいかなる知恵や技を要するというのか。あなたは人生の価値も意味も見失っている。それではいかに工夫をし、努力をした所で、あなたは幸せにはなれまい。行くべき先を見失いながらも、懸命に前に進もうとするなら、あなたは何所に向かうというのか。

 見よ、あなたは幸せを求めるのではなく、己が欲を満たさんとして進む。それは人生の浪費であり、一時の歓びのほかには何も残らぬ。思い出も大切な財産という。しかし、苦もなく財を得た思い出を大事にしながら汗を流して働けようか。高慢にふるまった思い出を大事にしながら人に謙虚に接せようか。横柄に人に指図した思い出を大事にしながら人に使えられようか。人々はその思い出に縛られて眼前の幸せに手を伸ばせぬ。

 人は天に祝福されて生まれ出る。その瞬間こそが人生至福の時である。後にあらぬ欲を覚えて、不平不満を育てていく。人は赤子で生まれて知恵を学ぶのではない。満たされぬ事を覚え、不平不満の表現の仕方を覚えるばかりである。

 あなたは不幸を学びに地上に生まれ出たというのか。生まれ落ちたばかりの赤子が知りながら、あなたが知らぬ事がある。それに気がついたときに、真の幸せの糸口をあなたは手にするのである。あなたの努力や工夫を「無駄」というのではない。「努力や工夫で誤魔化すな」というのである。

 何をもって幸福とするか――何をもって幸福とするか、それは人によりて異なる。ある人はよき酒を飲むことを幸せに思い、ある人は色欲を追って幸せに思う。それを幻想なりと笑うのは容易《たやすい》い。しかし、その人々の器量に応じた幸せを誰が笑えるというのだろう。僧侶でさえも、真理を追いかけて魔境に落ちぬとはいえぬのだ。

 正しく生きんと努めても、その時々に信ずるものが正か、否かは後の世になって始めて見えるものである。であるから、「(人生は)霊性向上の修行なり」と、努める事は愚かにも見える。その成果は来世にようやくその価値が現れるものだからだ。即ち、ある人生を上手に生き抜いたとしても、それが特殊な事情に精通しただけなのか、普遍的な真理を獲得したのかは、生まれ変わらぬ限りは推し量れぬものである。

 見よ、地上の人々を。その大半は過去に信仰に生きた者である。しかれど、前世と同じ信仰を続ける者は数少ない。人が前世で学びし事と、現世で学びし事を、縒りあわせて来世へつないでいく事は稀である。そうであるから、人は今を大切にすることしかできぬ。たとえ例外があろうと、普遍的に人が望み得るのはこの一点である。

 己の器、精一杯に生きてもなお、過ちを犯す事もあろう。ならば、その過ちから何かを学べばよい。上手に生きるというのは、無駄なく生きるということである。己の過ちですら、無駄に捨ててはならぬのである。「過ち無く生きる」など妄想に過ぎぬ。そこまで過保護にされて、一体どこにあなたの自由があるというのか。

 人に完璧は僥倖ぎょうこう》である。未熟なあなたが過ちもなく生きられるとしたら、あなたには操られているのか、さもなくば何も行わぬのか、どちらかに違いない。それはあなたがさして有益な存在ではない事の証である。

 私は過ちを勧めるのではない。過ちの恐怖に竦み上がるあなたを励ましているのだ。過去を悔いるばかりで償わぬあなたを励ましているのだ。恥にのぼせ上がっているあなたに冷静さを説いているのだ。

 何をもって幸福とするか、それは人によりて異なる。いずれにせよ、あなたが、あなたとして生きる事こそが大切である。それを忘れて幸せになる道などはありはしない。

 幸福とは未来への信頼である――たとえ貧しくとも、教の努力で明日の豊かさが得られるならば、人は幸福に思えるものである。しかし、どんなに豊かで強大な権力を得ようとも、失う事を恐れていてはその喜びを楽しむ事が出来ぬ。将来の恐怖から逃げるために、懸命に今の快楽を追及しても、人は老いからは逃げ切れぬ。病も襲い来るし、苦は必ずつきまとう。……休む事の叶わぬ幸せ、苦悩と表裏の幸せは、己が将来を蝕む病である。

 幸福とは、今の喜びではなく、未来への信頼である。それゆえに、幸せであるか否かは、心静めて、無念無想を試みてみればよい。己が未来に信頼を寄せている者だけが、正しく瞑想ができるものなのだ。

 未来の信頼であるがゆえに、自らの将来を危険に晒して幸福は得られぬ。豊かになるために人から盗めば、捕縛される事を恐れねば成らぬ。同様に、幸福とは、信用・信義、正義を代償にしては、獲たように思えて失われていくものである。まして他人を犠牲にして、人はどうして心静かに幸福を味わう事が出来ようか。また、むさぼってはならぬ。今、足りる以上に貪れば、明日には不足をきたす。生きている間に不足を感じずとも、人生の収支は貪る事で貧しくなるのだ。

 なんという事はない、幸せになるための努力とは、人として当たり前の行為にすぎぬ。安易な道もなければ近道もない。だが、決して遠回りでもない。ただ、あなたの焦る気持ちが道を誤らせねば良いのだ。

 誠実であれ――豊かさは容易に失われ、人も裏切る事がある。そうであっても、よき収穫を信じて種を蒔き続けよ。たとえあなたが収穫を失おうとも、盗っ人を富ませるだけでなく、回りまわって善人を潤すものである。蒔いた種はあなたを潤すか、社会を潤すか。いずれにせよ、最後にはあなたのものとなるだ。

 たとえ多くを奪われ様と、誠実である事を忘れてはならない。盗っ人を利用する人はいても、盗っ人に感謝する人はいないのだ。そうであるから、よき種を蒔く事を止めてはならぬ。盗人を憎んで盗っ人に陥ってはならぬのである。

 あなたが地上で感じる豊かさとは、造物主が生み出したものである。すなわち神(天)とは創造力である。ゆえに、生み出す事を止めた者は、神(天)意から遠ざからんとする者なのである。そして、奪わんとする者は、神(天)意とは縁遠い者なのである。

 身を守るために人々に不誠実になることはやむおえぬ事かも知れぬ。しかし、神(天)に不誠実であってはならぬ。己に不誠実であってはならぬ。その二つの罪を犯した時、あなたは破滅の他に行く場を失うのだから。

 あなたが幸せになるために出来る事は多い。しかし、大切なのはこの一点である。あなたは答えを知っている。知っているが故に地上に生を受けたのである。そして、未知の方策は、あなたを幸せではなく迷いに誘うのである。

(2003年6月26日)


6月18日

2003/06/18

 以下に紹介するのは、精神統一の練習中に得た、参加者・個人あての代表的な霊査です。当然、対象となる相手によって正反対の霊査も出てくる事でしょう。  以下に紹介するのは、精神統一の練習中に得た、参加者・個人あての代表的な霊査です。当然、対象となる相手によって正反対の霊査も出てくる事でしょう。


 霊査事例1

 いけません。

 あなたは何にでも手を出したがりますが、実をいえば簡単なものにしか手を出そうとしません。しかし、簡単なものには、それなりの価値しかないのです。

 確かに、無理難題にみだりに取り組む事は、人々に迷惑をもたらします。ですが、迷惑をもたらすかどうかは、あなたが考えるべきではなく、相手が考えるべきなのです。

 自分が考えるべき事と、相手が考えるべき事を、混同しています。それはいけません。

 

 霊査事例2

 あなたにお説教は意味をなしませんね。大切な事、伝えたい事はただ一つです。

 朝、起きたらば、太陽に向かって大きく深呼吸する事。

 どんなご馳走を食べたところで、良い息をしなければエネルギーには変わりません。反対にどんな質素な食事でも良い息を吸う事で効率よくエネルギーに変えられます。何度も繰り返す事ですが、あなたはこれを疎かにしがちです。

 いつもひょうひょうと生きているがごときあなたですが、決してストレスに無敵というわけではありません。背伸びと深呼吸とを大事にしてください。原則無宗教無宗派のあなたに神への祈りなどを強いるつもりはありません。ただ、自分が活かされている事を感じるならば、それで十分です。

 そしてあなたは、活かされている自分を理解しないほど愚かではありません。いいですか。宗教というのは、理論や説法、施設や戒律をいうのではありません。自分を活かしてくれる全てのものに対する感謝の念なのです。

 あなたは、感謝すべき事を知るだけの智慧がありながら、宗教を形式だけしか考えない愚かさがあります。私の見る限り、あなたはこの統一会で一番信仰心が篤く、そして迷信から一番遠い人なのです。くだらぬ思いこみを捨ててください。例えあなたが鰯の頭を拝もうが、私は笑いはしません。ただ、自分が見知らぬ誰かに活かされている事に素直になれるならそれでいいというのです。

 

 霊査事例3

 あなたが今考えている事は正しい。しかし、自信が足りません。

 先祖供養などというのは、先祖を納得させるためのものではなく、自分が納得するためのものなのです。なぜなら、自分が納得せずに行う全ては、偽善ではありませんか。

 嘘つきというと、人を偽る人とばかり考えがちです。確かに、偽られて気持ちの良いはずがありません。ですが、我が身を守るために嘘をつくのはいわば正当な権利です。自衛のための嘘に騙されて相手を恨むのはある意味筋違いです。人間というのはそういうものなのだから、騙される方が悪いとすら言っておかしくありません。

 ですが、人はどうも、己を偽る嘘つきには寛大どころか、関心すら払いません。むしろ、他人に嘘をつく人よりも、自分に嘘をついている人の方がよほど多いのに。世の中で善良と呼ばれる人の大部分は自分を偽る人であり、それ故に、誰も見ていないところで七転八倒にもがいているというのに。

 他人を偽るのは自衛の為。では、自分を偽るのは何のためでしょうか?

 自衛のための嘘と、虚飾や自尊心を満たし守るための嘘とどちらがより許されるのか……他人を騙す嘘の方が悪どいように見えて実は必然の帰結であり、自分を騙す嘘の方が 他に迷惑を及ぼさないように見えて、その動機はかえって浅ましいものなのです。

 いえ、物事を善悪で計るべきではありません。大切なのは適うかどうかです。でも、自分に嘘をついたら、いったい何が真実で何が嘘であるのか、どう見極められるというのでしょうか。

 私は思います。自分を騙す人は、結局、正義のなんたるかを見失うと。

 「人に迷惑を掛けなければ良い」という生き方は、一見、合理的なようにみえて、その結果に「自分は何者か」という人生最大の命題を見失う事になりがちなのです。

 

 霊査事例4

 停滞期の一番深い頃です。頭ではいろいろ考えて、実行に移しているようで、実は何も成果を上げていません。自分では良くやっているようでいて、でも、人から見たら何もやっていないように思われる。それが停滞期です。

 幸いにも、車を運転するわけでもなく、事故などの危険性はないし、思うようにいかなくても、悪い方には転がりません。

 

 霊査事例5

 楽しそうに働いている姿が見えます。

 和気藹々《あいあい》としているようで、特に問題も見あたりません。

 向上というテーマで考えるなら、こういう状態の時にも問題を見いだすべきだろうし、あなたもそういう性格ですが、時にはこういうゆとりも大切です。帰宅時に手足を伸ばしてゆっくりと入浴する事も忘れずに、

 また、あなたは、どうも帰宅が遅くなりがちです。防犯ベルなどを持ち歩くと共に電池などを時々点検してください。バッタリなんて、泥棒と鉢合わせした時に後悔しても遅いのですから。

 

 霊査事例6

 あなたはいい人だし、いい人であろうと努力する人です。でも気がつけば自分のために充分な時間を割いていないと嫌気がさす事があるはず。自分の為に充分に時間を割いた人ほど、人助けが素直に行えます。もっと腹の底に溜まった古い息を吐き出すようにしてください。

 

 霊査事例7

 ボーと見ている間にも時は過ぎ去ります。

 あなたは人を見るのには、少々辛辣なところがあるのに、自分を上手に見ないから、気がつけば敵を育てて味方を育て損ないがちです。

 時間は限られています。後悔を残さぬように。


恋愛の問題

2003/06/18

 前世で僧であり、また既に死したる者にとって、似つかわしざる話題と言われようが、今日は、気分を変えて、恋愛の問題について語ろう。人々の多くは恋愛の最中を人生最良の日々と感じるとか、だが、人生のつまずきの多くもまた恋愛から生じる。人生を語るにおいて恋愛という話題を避けることは出来まい。

 恋愛問題とは、あくまでも感情論である。

 ――相談を受けてもっとも厭なのが、恋愛相談だとか。なるほど、恋愛というのは愛という感情がすべてであり、理知的な者は感情問題を嫌う。そもそも感情のもつれは他人にはいかんともしがたい。智慧あるなら、他人の感情にまで踏み込まぬがよい。したがって、ここでは自分の恋愛感情について語ろう。

 感情論であろうと恋愛を否定せず。

 僧侶は修行の妨げになるからといって、恋愛を遠ざける。また、大望を抱く者も同様である。あまりに高尚な問題に取り組む者も、感覚的に物事を受け止めがちな女性を蔑視しがちであるが、逆に女性から恥をかかされることも多い。

 何よりも男性僧侶達をやっつけるのは、釈迦さえも女性の腹を借りて生まれたという現実である。伝説で釈迦は母の腋の下から生まれたとされるが、どこから出でようと母の胎内に養われたに相違ない。

 いかなる聖人君子であれ、母の胎内で養われずには世に出でぬ。またいかなる神通力に恵まれようとも……女性の胎内を避けてこの世に生れ出るような性差別主義者が聖人君子たり得ようか? 情に流されることを恥じるのは良い。しかし、男女が結ばれるのは摂理である。摂理を否定して真理には至れぬ。

 愛は至高にあらず、至高こそが愛なり。

 妻を持てば、妻子に楽をさせようとして貪欲になるとか。たとえ自分一人はつつましく暮らしても、愛する者には楽をさせたいというのは一つの人情であり、その人情に縛られて悪事に手を染める者も多い。

 人情が絡むと、人はどうも残酷にもなり、貪欲にもなるもので、自分が生きるために他を犠牲にするのを嫌う者も、愛する者を飢えさすまいと人を殺しもする。虫も殺せぬ乙女が、母になると赤子を案じて害無き虫まで殺して歩く。まして、恋する者を獲得せんと、悪しきことに手を染める人のなんと多きことか。

 全くおかしな事である。人々の多くは恋愛の最中を人生最良の日々と感じるというのに、その最良の日々の中で堕落していくとは。人生のつまずきの多くもまた恋愛から生じる。恋愛とは、果たして至高の喜びなのか、最悪の悲劇なのかどちらであろう。

 恋にはいろいろと難しき事が多いが、勘違いしてはいけない。愛が至高のものなのではなく、至高の感情を愛と呼ぶのだ。人生に最善を尽くして得た恋はひたすらに幸せを味わえようが、全てを投げ出し恋に最善を尽くしては、人生を失いかねぬのである。……人生を疎かにして恋にうつつを抜かしながら、失恋を嘆くのは自業自得といえよう。いや、恋愛で幸せを掴むのも、不幸になるのも因果応報ということである。

 最良を求めて不幸になる。なんと惨めな人生であろうか。しかしこれは、全ての魂のたどり行く道にあらず。最良を求めて幸せをつかむ者もいるのである。勘違いしてはいけない。愛が至高のものなのではなく、至高の感情を愛と呼ぶのだ。

 幸せを掴むために必要なこと。

 情に流されればさながら密林で迷うが如し、しかれど、理知的にだけ生きるなら不毛の砂漠の最中で暮らすが如し。他人の情乱に付き合わぬのは共に迷うのを嫌っての事で、人生には潤いも必要な事、いや、潤い以上のものが恋愛にあろう。

 死したる者から見れば地上の生などというのは、一夜の夢のように淡いものである。しかしながら、地上に生きている最中において、人生の伴侶を持たぬのはなるほど侘びしいものであろう。いや、修行者には神仏という伴侶があろうが、それはそれ、霊的な伴侶と、浮き世の伴侶と、生きる世界が異なれば求める伴侶も異なるものである。

 しかし、伴侶を求める心の奴隷になり、伴侶の奴隷になってはならぬ。それは人生のすべてを放棄するに均しい。神仏に滅私で尽くすのと、愛する者に滅私でつくすのとは、大いに異なる。神仏の天地のごとき大いなる欲、一切衆生ことごとくおおわんとするような大望に仕えるなら、その志の一翼さえも担えなくても、あなたによき影響を及ぼさずにはいないだろう。だが、情に支配され、欲に支配されている人間に滅私でつかえ、その行動にたとえ一片の私欲が混じらなかったとしても、他の私欲を満たすために働く事は即ち悪である。

 私は見る。多くの者達が、愛欲ゆえに悪行に手を染め、善を成さんとする心と、罪悪感に責め苛まされているのを。人世に漲る罪咎のほとんどは、愛を口実に行われている事をわきまえねばならぬ。

 他宗のものはいう。『愛せよ』と。善き事である。『愛は実践する事である』と。実践の伴なわぬ愛は無益である。されど、私ここに一つ付け加えたい。

 『愛の意味を覚らずに愛するな』と。そして、『他を求める心を愛と呼び、愛を至高のものとして悪事の言い訳に用いるな』と。

 なによりも、『人に愛されんとする欲望』を愛と呼ぶのは大きな間違いである。それはただの執着心に過ぎぬ。愛とは『人を愛する事』をいうが、人を愛する事と、人と愛されんとする事の区別すらつかぬ、飢えた心の持ち主があまりに多すぎる。

 心せねば成らぬ。人は己を知らぬがゆえに、何をして良いのかを知らぬ。人は己を過信するがゆえに、身に余るものを求めて身を持ち崩す。無知で滅びるのではなく、わが身を滅ぼさんとする者を無知というのだ。

 人は愛を求める。

 人は愛を求める。されど容易には愛を得られぬ。相手にも求める心があるから、あなたの求めにばかり応じられる者はいない。そして、求めて得られぬが故に人は愛に飢える。

 飢餓にある者は、美食を受け付けぬ。胃が弱っているからである。飢餓にある者を救えるのは、いと薄き粥なのである。故にわきまえよ。己が餓鬼の如く愛情に飢えているのに、美食を欲しがる者のなんと多き事か。与えられなければ心が飢え、与えられたら吐き戻して飢えてしまう。誰も与えぬから飢えるのではなく、求める者を与えられるがゆえに飢えるのである。

 己が餓鬼と知れば、美食を避けて粥をすすりて体力も戻せよう。その後に始めて美食を、すなわち豊穣なる愛を求めればよいのだ。……が、体力が戻るまで美食を待てぬというのか。その焦りこそがあなたを苦しめている元凶である。

何の施しもせぬくせに、人から貰うことばかりを考える。まるで乞食のように振る舞いながら、王者のように扱われたがる。その厚顔さがあなたを苦しめている元凶である。

(2003年6月17日)


6月14日(東京オフ会)

2003/06/15

 以下に紹介するのは、精神統一の練習中に得た、参加者・個人あての代表的な霊査です。当然、対象となる相手によって正反対の霊査も出てくる事でしょう。  以下に紹介するのは、精神統一の練習中に得た、参加者・個人あての代表的な霊査です。当然、対象となる相手によって正反対の霊査も出てくる事でしょう。


 霊査事例1

 仕事の事について、心配が過ぎて注意が足りなくなっています。あたえられた命題に気をとられて、その周りが疎かになっているのです。

 自分の能力以上の仕事をやろうとするから無理が出ます。あたえられた仕事に対して、自分の実力でどうこなしていくかを工夫することが大切なのです。

 あなたは、あまり感情を表さないせいか、「仕事が出来る」と上司にあてにされて、どうしても無理してしまいます。また、責任感が強いから一生懸命になるのですが、どうもいわれたこと以外には気が回らなくて困ります。ですから、仕事が行き詰まった時には、気晴らしのつもりで観点をかえ、時には全体を見る習慣をつけてください。

 

 霊査事例2

 もっと自信を持ちなさい。あなたに一番辛辣な意見をするのはあなた自身です。他人はしょせん無責任なものなのですから、あなたは、もっと自分を冷静に批判・反省いたしましょう。

 お腹の中に「力の泉」があると想像してください。その泉が吹き上がり、頭まで届くようにイメージしてください。

 気の迷いがあって実力を十分に発揮できない人ですね。ですが、気持ちの整理が進むと共に、良い仕事も見つかるでしょう。

 

 霊査事例3

 今まで、緊張しすぎたためか、今日はとても緩んで見えます。

 それを見て私が、『まだ終わったわけではないのにな、これからが大変なのにな……』と思っていたら、『大切な人が幸せになるために努力するのに、どうしてそれが不幸に思えましょうか』と聞こえました、余計なことをいうなと叱られたのです。

 今しばらくは、のんびりと楽しんでください。

 

 霊査事例4

 「頼り来る人多し」と聞こえました。あなたを当てにする人が群がってきますが、あなたは自分がやりたいことをしっかりと抱いていてください。

 

 霊査事例5

 あなたの内心に、確信と覚悟が見えます。その内容は見せられてはいませんが、こう伝えよと言います。

『あなたの確信は正しいが、覚悟については、近視眼的である。先行きにもっと大きな視野でもっと高い志を身につけることになる。』

 

 霊査事例6

 目の前に、基板上のものが見えて、それがなんだか分からないのだけど……思い当たることがありますか、「ない?」、後でもう一回見ます。

 分かりました。

 あなたの背後に、生前、あなたと同じ仕事をしていた人がいて、やり残した仕事をあなたに継がせたくていたのです。で、一言注意しました。

「あなたは、亡者ですね」

『私はいい仕事をしてもらいたいだけだ』

「金の亡者という言葉をあなたも使ったことがあるでしょう。お金のことばかり考えている人のことをいう言葉です。あなたも自分の仕事の事ばかり考えているから、仕事の亡者です。あなたがこの方にご自分の仕事を継いでもらいたいのなら、仕事だけでなく、彼の人生全体に責任を負う気が必要でしょう」

『なるほど……』と去っていきました。

 つまらないものを見てしまって、申し訳ありません。

 

 霊査事例7

 写真に文章をつける時には、音楽を掛けて、「流れ」をイメージしてください。ストーリーを思い浮かべて、その一連の流れの中のどの部分であるかを考えて、流れを誘導する形に文章をもちいるのです。

 

 霊査事例8

 あなたが見ているものは全体の中の一部です。喜びも悲しみも人生の一部であって、決して全体ではありません。今嬉しいからといって自惚れることなく、今悲しいからといって絶望することなく、喜びと悲しみが連なる様を楽しんでください。


 

 質問に答えて

 呼吸を楽しみましょう。

 滋養を得ようと、どんなに素晴らしいごちそうを食べても、酸素がなければ食べ物はエネルギーに変わりません。ですから、空気の悪いところでごちそうを食べるよりも、空気の良いところで、そばやうどんを食べる方がよほどエネルギーを生み出すものなのです。呼吸を大切にしてください。

 なお、「呼吸を大切に」と、いうと、人はどうも吸うことばかりに関心を持ちますが、吸うばかりでは悪い空気がいつまでも肺に残ります。悪い空気の上に新しい空気を吸い込んでも血液に入るのは悪い空気なんです。ですから、思い切り息を吐く様にしてください。すると、自ずと新鮮な空気が肺の奥深くに入り込みます。

 勉強するのでも何でも、潜入観念等を捨てることもなく、次々と新しいものを取り入れようとして、結局全てを無駄にしている人が多いものです。捨てればこそ、自ずと入るものがある、これが大切なんです。


死への心構え

2003/06/12

Q 「死の直後の体験についてお話下さい」

 動揺は記憶に留まらぬ――過日、「死の直後の体験」について問われた。生憎と私はあまり強く覚えてはいない。心霊家にとって、生と死の間際の出来事は大切な研究対象かも知れぬが、仏家である私にとって、平常心こそが極めるべき事である。また、病の苦痛も医者にとっては大切な体験かも知れぬが、私は一心に養生して修行に励むのだ。病も死も、平常心の妨げであってはならぬ。一時の事、一過性の事、それらは一大事ではない。平常心を失い、自身を失う事こそが一大事である。死に至らなくても、虫一匹が飛び出しただけで大騒ぎをするものもいる。それを思えば、死の心構えを改めて問うのはなんと愚かしい事だろうか。虫一匹で騒ぐ、心の座らぬものに死の心構えを説いてなんの役に立とう。

 確かにあの時、迷いが生じ、焦りが生じ、そして苦痛に襲われた。過去の苦悩を思い出し、忘れていた羞恥が込み上げ、葛藤が甦り、修行の為に捨てた亡き母の事が思い浮かばれた。しかし、それらは一過性のことに過ぎず、そして仏家は何事にも囚われぬ。

 なるほど霊は、記憶を留めて忘れがたい。しかし、環境の激変に伴なう(心の)動揺などというものは、記憶として扱われる事も無い。当事者は大変かも知れぬ。しかし、乗り越えてみればなんということも無い事である。生きている時には、死を明らかにする事がなるほど重要な事にも思えたものだ。しかし、死してみれば,生も死も、朝起きて顔を洗うがごとき日々の営みの一部に思える。

 私は生前も至らず、そして死後も至らぬ。だからこそ、日々の生活に学ぶ事が多く楽しい。この楽しみの前に立って、何を思い煩う事があろうか。生きている時には生きている楽しさがあり、死後には死後の楽しさがある。生きている時に死後の喜びを求め、死後に生きている時の喜びを求める……それでは生きても死んでも辛かろう。諸君。死は免れぬ。ならば死を楽しめ。そこには知り尽くせぬ不思議がある。諸君。死を恐れるなら、まず生を楽しめ。そこには必ず飽きがある。生と死は、二つのあり方ではなく、魂のたどるひとつの道筋であり、切り離せぬものである。時、至れば人はすべてを忘れて死への旅立ちを迎える。死を恐れる者は時いまだ至らず、死を恐れぬ者はいまだ生を知らず、すべては生命の中に備わる仕組みである。諸君は自らを信じねばならぬ。信じねば苦しまねばならぬ。それもまた生命の中に備わる仕組みである。

 恐れが迷いを生む――生前から死について学ぶ。それも健康で若いうちから真剣に死に付いて学ぶ。とてもよき事である。されど、知ることと行う事は大きく異なる。ゆえに、「そこで何が起こるか」を学ぶよりも、心がけるべき事を知ることが大切である。

 事実は強く印象付けられるが、事実はすべてを物語らない。どれほど明確な証拠よりもあなたが何を信じるかが大切なのである。そして、あなたが遭う出来事は星の数よりも多い。が、突き詰めれば、あなたの受け取りかたがすべてである。あなたが不安に負ければどんな出来事もあなたに苦痛を及ぼし、あなたが自信に満ちていれば、どんな出来事も興味深い体験となるだろう。ならばこそ、人生が魂を磨く修行の場であるというのも、あなたが不安を遠ざけ、自信に満ちて生きていればこその事である。

 あなたは死に際して、様々な事柄に出遭うかも知れぬ。そして、出遭う事柄の大半は、私の想像の外にあることかも知れぬ。しかし、霊界に住まえる誰もが死という深い谷を越えて来たのである。私達には多くの経験と知識があり、そして友愛に満ちている。あなたが拒まぬ限り、あなたは死出の旅立ちに不安を覚える必要もない。

 しかし……見知らぬ者の救いを信じるに当たりて、あなたは様々な疑念や不安を感じるかも知れぬ。が、あなたはまだ若く、そして健康である。ならば、目を見開き、耳をそばだてて、救いを求める人を探し出し、必要な相手に手を差し出せばよい。確かに、人を助けるのは決して容易な事ではない。だからこそ、いくら友愛に満ちている霊界であろうとあなた方を容易には助けられぬのは道理でもある。

 助ける者と助けられる者の間に意識に隔絶があると、助けるつもりがかえって邪魔になる事も多い。それを救い方が悪いなどと思う余地もあるまい。救われたければ救われやすき人に成らねばならぬ。

 人を助ける経験を重ねればこそ、見知らぬ人が相手でも息を合わせるのが上手になる。助ける経験を積めばこそ、助けられる者が持つべき心構えもおのずと身につくものである。

 若く健康なうちから学ぶという事は、より早いうちから心の準備が出来るという事である。今、ここで恐れるよりも出来る準備を大切にすべきである。このゆとりの無い者は、ただ心静めて一心に、「すべてをお任せします。お救いください」と祈る事しか出来ぬ。

 「善行を為せ」……そういうのは何も善行が神仏を動かすからではない。善事を為す者こそが、善事を素直に受け取る事が出来るからなのだ。

 真の障害は心の中にある――聞け、恐怖があろうと、事実は一つである。死はあなたが乗り越えるべき試練である。そこに何があろうと逃れるすべは無い。そして多くの人々が無事に死を乗り越えている。つまり、そこには決まった障害、知ることで優位に立てるような決まりきった障害などは何も無いのだ。しかし、決して少なくない人が死を受け入れる事が出来ずにさ迷う。障害は死後の世界にあるのではなく、人々の心中にこそ存在する。

 心霊家は、死を乗り越えるのが容易であるという。決して普遍的な事実とはいえぬが、確かに良く見る事実ではある。だが、死後の個性存続を信じぬ者や無神論者でさえも死を無事に乗り越える事もある。盲信は無知よりもひどい誤りであり、過信は無知よりも傲慢である。見よ、事実を、それこそが知るべきすべてである。宗教信条に関わらず多くの人々が死して迷わぬ。それこそが知るべきすべてである。

Q 「死して迷わぬ人の方が多いという事実を、人々はどう確かめたらよいのだろうか」

 統計的な事実は救いを与えぬ。――なるほど、霊感の持ち主でさえ、死後の世界には悪霊・怨霊がひしめき合っていると感じるものあり、一方で、悪霊・低級霊などとるに足らぬと思うものもある。霊媒の魂の境涯の違いで、霊界の地獄の吹き溜まりに感応するものもいれば、善良なる死者達とだけ感応する者もある。

 それゆえに、死して迷わぬ人が多いという事実は、ある人にとってはあたりまえな事であっても、人によっては、たった一人の迷い霊に苦しむ事もあるだろう。したがって、迷わぬ霊の方が多いという事実は、誰もが受け入れられる普遍的な現象であるとはいい難い。

 もしもあなたが、慙愧の念や執着心に囚われた心の持ち主であるなら、否応もなく、さ迷える魂たちと感応しやすく、その状態で霊覚が開けたならば、死者は迷える魂ばかりに思えよう。しかし、迷える魂と関わる事は人の義務でもなんでもない。あなたは勤めて、迷わぬ人々、迷わぬ魂たちと友好を結ぶ事が出来るのである。

 「死して迷わぬ人の方が多い」……それを統計的な事実と受け止めても意味は無い。なぜなら、人はその心の有り様によって、迷う者、迷わぬ者のどちらにも所属しうるからである。たとえ統計的に迷える者が少なくとも、あなたが迷っているならば統計事実などは何ら役にはたたぬ。

 そして、過去の出来事や物的財産、自己の宗教信条や、他人の気持ちなどに執着しなければ、目の前の事実は当たり前のように受け止められよう。そう、心に大きな迷いや不明を抱いてさえいなければ、あなたは死して迷うことなく、迷える死者と交わる必要もない。大切なのは、「人は無理に迷う必要がない」という事実である。

 私は地上と縁を切って久しい。私は直系の子を残さず、霊統ともいうべき弟子の世話も、すでに弟子達に任せて私は地上の人々の世話をする事もあまりない。したがって死者を導く機会も多くは持たない。だが、死者を導く霊達の体験を聞くならば、当所は迷いや過ちたる観念に囚われている者も多いようだ。しかし、必要に駆られて迷い、悩める者は一人もいない。人によって長短はあろうが、みなことごとく迷いを捨て去り澄みやかな心を獲得している。一時の迷いさえも逃れた人はいまだ知らぬが、迷いから全く逃れられぬ人も私は知らぬ。

 努力なくしてすべての人が静粛に包まれるわけではないし、また、努力ゆえに静粛から遠い人もいるが、静粛を得られぬ人はいない。平穏は権利でなく、待って得られるものではないが、誰もが持っている当たり前なものである。人が迷わぬのは目前の事実とは異なるかも知れぬ。しかし、最終的な事実である。

 平穏を求めずに得られる事は無く、また、平穏を求めても執着を手放さなければ矢張り心が安らぐ事も無い。盲信・過信を手放さなければ事実を受け入れる事も出来なかろう。しかし、平穏を得ずに幸せにはなれぬ。ことに否応もなく自らの心と向き合わねばならぬ霊界において、自らの心を磨くことなく幸せを味わう事は絶無である。したがって、幸せを求めるならば迷いを捨てねば成らぬ。それがすべての魂が辿るべき道筋であり、ただ早いか遅いかの違いにすぎぬのだ。

Q 「では、迷いを断つ為に何を為すべきか?」

 重大な問題である。多くの人がその命題に悩み命を縮めた。私が伝えたい事はとても多いが、安易な解決法と思われる事も世の害になるだろう。人は無用な悩みを大切にして、人生をおろそかにしている。そう言った所で、人々が無駄な悩みを手放す事も無く、結局は悩み続ける。このような問いかけに答える事には意味も無い。とはいえ、すべてが無意味でもない。

 この世界に、解けぬ悩みはない。どのように複雑高度な問題であろうと、あなたが理解しえる範囲の中で、あなたなりの答えが見出せぬはずは無い。それが見えぬとしたらあなたに必要なのは答えではなく、自信を持つ事である。

あなたが遭う出来事は星の数よりも多い。が、突き詰めれば、あなたの受け取りかたがすべてである。あなたが不安に負ければどんな出来事もあなたに苦痛を及ぼし、あなたが自信に満ちていれば、どんな出来事も興味深い体験となるだろう。その意味において迷いというのは自信の無さが生み出す、結論の棚上げに過ぎぬ。

 迷いはあなたの中にあり、解決策もあなたの中にある。世の中に解き難き悩みも多いが、迷いとはそれとは別なところにある。すなわち、現実と理想の隙間こそが迷いなのである。現実を受け入れざる人が迷って救われぬ。また、無理な理想を抱く人が迷って救われぬ。結局は、今できる事を大切にしない人が迷うのである。

 迷いを解く方法はある。それを得てこそ人は高みに駆け上り、その方法は実は自明である。しかし、迷いを手放さぬ人にとっては、自明であっても永遠の謎に過ぎぬ。だからこそ、世の人には迷う人あり、迷わぬ人ありなのである。なんと世界は矛盾に満ちていようか。悩める者はいつまでも悩み、悩まぬ者はまるで悩まぬのだから。

(2003年6月11日)


お知らせBy老神いさお。

・スマートホン
iPhone/Androidで閲覧時に、最適化したページが表示出来るようになりました。よろしければ、ご感想をお寄せ下さい。

・サイト再構築中
移行途中のデータが時折、トップページに掲載されますが、編集作業の都合ですので、今しばらくご容赦ください。旧作については、本文右上に日付が記載されます。

・ページ更新
 現在:1056㌻
 復旧予定: 残り480㌻位・・・

老研カレンダー
老研イベントリスト
みにみにぶろぐ
  • ・原発全廃
  • ・その後悔の帳尻が合う生き方をしているか?
  • ・我が国だけが原子力を全廃しても、隣国が原子力発電を推進すれば、危険性は無くならない。
  • ・生きるとは生むことである。
  • ・いろいろなる不平不満はあるだろう。だが人は歩んでいる。
  • ・与えられる事を当たり前に思っている者が飢える。
  • ・なぜ、争うのだろう? 事態はただ現実への妥協を求めているだけなのに。
  • ・ 見せられると信じたくなる
  • ・豊かな者は足りぬものに気が付かず、知りたる者は、知らざることに気が付かぬ。……
  • ・ 心に不満が生じるのは、あなたが焦っている証。もう少しゆっくりと生きなさい。

More »

サイト内検索
アーカイブ
サブ・サイト