‘2003/04’ カテゴリーのアーカイブ

人は何所へ行くべきか

2003/04/05

Q 「人は何所へ進むべきでしょう、人生の指針を見誤らぬ為の助言を下さい」

迷うなかれ――人は迷う。煩悩に振り回されている事も知らず、迷うことから逃れようとはせぬ。多くは辛い現実から逃れるために、その心があらぬほうを向く。人は真実から目を背け、さ迷い歩く。

 あなたが、進み行くべき道を知らずにさ迷うのであれば、いずれは誤って正しい道に出るやも知れぬ。しかし、真実と現実とを嫌い、それを避けてさ迷い歩く者が、どうして、正しい道とめぐり合おうか……正しくない道ばかりを選んで歩む者が、正しい道に横着するとしたら、それはなんともひどい勘違いといえよう。そのような勘違いがどうして長続きしよう。

 さ迷うなかれ、正しき道を知っていてもなお、さ迷うの者は決して正しき道を歩めぬ。

 過ちを正してこその人生である――何ゆえか、人は正しき道を厭う。神や仏よりも、悪霊、邪鬼が優しいとでも言うのか……いや、なるほど天魔はとても優しい。その誘惑の毒牙に獲物を捕らえるまでは、神や仏よりもなお、優しかろう。しかし、それは、あなたのために優しくあるのではない。魔が優しげにふるまうのは、あなた方を捕らえるのに都合が良いからである。魔は、己のためにだけ他に優しいものだ。己の欲を満たすためだけに人に優しくするだけである。

 神や仏は、あなた方の過ちを責めもせず、あなた方を捕らえはせず、あなた方に強いもしない。あなたはいつ神仏に救いを求めても良く、そして、いつ立ち去ろうとも誰も止めはしない。しかし、神も仏も、あなたに隷従はしない。あなたがどれほど懇願しようが、正しくない望みには耳も貸さぬ。

 思え、望んで得られぬなら、あなたには過ちがある。その過ちを正す事こそ、地上の生の最大の眼目である。地上で過ちを正してこそ、霊界にて正しく知識を会得できるのだ。

 人生に愛情をもて――世の中に、どれほど多くの道があろうと、ただこの道以外に何所までも続く道は無い。後はどれも行き止まりである。行き止まるまで奥行きがあろうと……この道を生み出したのは、神や仏と呼ばれる以上の存在であって、神仏等も、所詮は道の番人、道の案内者に過ぎない。

 歩める者ならば、だれでも目的地を目指す権利がある。あなたがどれほど多くの過ちを犯し、どれほど恥ずかしい思いをしようと、あなたが持つ、この権利を奪う事は出来ない。罪に償いが必要だとしても、誰もあなたに間違った道を強いる事はできない。天魔・邪鬼は権利があってあなた方を誘惑し、邪魔をするのではなく、また、いかなる神仏も、正しき道を歩もうとする人を拒絶する権利を持つわけでもない。

 しかし同時に、誰もあなた方に、「正しき道を歩め」と懇願はしない。権利があろうと、その権利を行使しなければ、無駄になるのは何事にも当てはまるのだ。まして、自ら歩まぬ限り、正しい道の上にいるのか、誤った道の上にいるのか、どう違うというのだろう。目的地にたどり着けぬには変わりは無いのだ。

 あなた方は人生に愛情を持つべきである。あなた方の人生を「つまらないものだ」と、けなすのは浅き智慧しか持たぬ凡夫であり、何よりあなた自身なのである。正しき道を歩んでよいのに、勝手に、誤った道を歩ませようと自らに強いるのもあなた方である。

 天魔や邪鬼が跋扈《ばっこ》する原因は、あなた方が誘惑を楽しみ、障害を言い訳に用いんとするからである。地上にあって神や仏の肩身が狭いのは、自らの過ちを正す事よりも、過ちがあってこそ人間らしいと、人々がこぞって開き直っているからである。

 しかし、神仏により遠く、天魔・邪鬼により近づく、その心はいかなる境涯にあるのか。地上はなるほど境涯のるつぼであって、さまざまな境涯の者たちがひしめき合って暮らしている。しかし霊界はそうではない。在るべき所に在るべき魂が暮らす。人に甘えた暮らしは霊界では難しい。地上だけの習慣は死後の苦しみの種でしかない。あなたは果たして人生を愛しているか。己に苦しみの種を蒔いて。

 自覚せよ――あなたは正しい道を知っている。少なくともあなた方の魂は正しい道を知っているのである。その正しき道を見えにくくしているのは、あなた方の罪悪感であり、不信であり、僻みである。

 正しき道を知りたければ、自らの良心の囁きに耳を貸すが良い。正しき道がどれであるのか、聞き取りにくければ、誤った道がどれであるかを良心に尋ねてみればよい、おのずと道は絞られる。

 正しき道がいくつも見えたとしても、過ちを恐れる必要は無い。正しき道とは幅広いもので、高みから見下ろせば、複数に見えるのは錯覚で、実は一つの道であることに気づくだろう。

 自覚せよ、己の罪悪感を、不信を、僻みを……それらが生み出す障害を。あなたは正しき道を知っている。ただ、それを選べないだけである。

(2003年4月4日)


人との縁

2003/04/05

(2003年4月4日)

Q 「盧氏の生前について……?」

修行とは日々の暮らしの中にある――人の縁とは、暖かなものである。遠く離れた異国の地で、知り合いに出会う……その不思議に横着すれば、感じる暖かさは筆舌に尽くしがたい。霊界から心霊主義なるものを眺めていれば、いわば、その背後の霊達と地上の人たち、この生死で隔てられた両者が、いかに手を合わせて修行するかの、修行よりむしろ、その魂と魂との繋がりを育てる事にこそ、真の意味があるかのようである。

 そう、修行とは、心霊主義の中にだけあるのではない。仏教、無論、禅の中にあるのでもない。精神統一の中にあるのでもなく、神への祈りの中にあるのでもない。読書の中に在るのでもなければ、人に教わるもの中にも無い。

 修行というのは、あなた方の、日々の過ごし方の中にあるのだ。

 あなた方が学ぶべき事は数多い、それらは、みな、あなた方が魂を磨いていく上での手段であり、道具である。その手段や道具を使ってこそ魂が磨かれる。しかし、道具の収集家になってはならぬ。使いもしない道具を沢山抱え込んでいる者をわれらは大切にはせぬ。使わぬ道具を増やすだけだからだ。一つ一つの道具を頻繁に用いる者こそ、新たな道具を授けたいと切に願う相手である。そして、切に願うが故に、われらは、あなた方を大切にする。縁というのは、想い・想われて育つものである。その事を言葉にせずとも行える者こそが、数多くの縁を得る。

 人は縁を求める。繋がりを求める。多くの慈愛に包まれたく思う。その思いは自然である。そして地上で繋がりというと、姿が見えることであり、声が聞こえる事であり、便りが読める事である。心霊を学ぶ上において、感じるだけの繋がりはたとえ霊媒でもさびしくもあろうし、まして、人伝に聞くだけであれば、その繋がりは頼りなくも感じよう。

 せめて名を聞きたい。その気持ちは、かつて地上で生を送った者から見れば、よく分かる願いである。しかし、名を知るだけで中身を知らぬ繋がりは空《うつ》ろである。あなた方が死後、ただ「ろ」という、音だけを頼りに私を捜し求めたとしても決して私のもとを訪ねる事は出来まい。あなた方が背後に頼んだとしても、空《うつ》ろな繋がりだけの相手に、私は会うまい。

 しかし、私の言葉を人生に生かし、私のいわんとする事の何たるかを、しっかりと感じ取ってくれた方であるなら、その喜びが私に伝わらぬはずも無く、たとえ頼まれなくても、私は頻繁にあなた方の許を訪れるであろう。そして次の言葉を用意するであろう。それが絆《きずな》である。

 霊界において繋がりとは、感動を共有する事であり、体験を共有する事であり、思想を共有する事である。心霊家も祈りを大切にするとか……、その祈りとはあなた方が、背後のもの、先達、または、仏や神なるもの達との感動の共有でなければならぬ。あなたが心の底から喜びを得た、その感謝を念じる事こそが真の祈りであり、その祈りこそが、霊界人との強い絆を育む。それ以外の祈りは、いわば縁を育む、その準備や練習にすぎぬのだ。

 思え、知はうつろ(空)である。そのうつろに、いかに血肉を与えるか、それは、あなた方が地上の体験において、感動し、反省していく中で育つものである。体験という血肉をもった知を得た者なら、名など知らなくても、私を身近に感じるのである。

 反して「良い言葉であるが、今の苦しみには何の救いもならぬ」と思うものであれば、たとえ私の名を知ったところで、遠く隔てた存在である事に何らかわらぬのである。

 絆を育てよ、これは私の言葉に限らぬ。あなた方が、一つの言葉を人生に生かして喜びを得、その喜びに感謝の意を表せば、見えなくともそこに絆が生じる。師なくして学ぶ事が困難であるように、独学では独善から脱しがたいように、その絆こそが歩いては登れぬ崖さえも登る手段となるのだ。

・・・・・・・

 この霊信を受信中、とある霊が、盧氏に「独学の弊害」を質問した。

・・・・・・・

 独善者は独学を好む。己が過ちに気づいているが故に己を人にゆだねる事が出来ぬ。善き師が見つからぬとうそぶく者もいる。しかし、縁を育てる力を持たぬ者は、いかなる善師であろうと導く事が出来ぬ。

・・・・・・・

生前、僧であった霊が、『(注;日本では、無や空という言葉で仏教を捉える事を反省して)あなたを見ていると私が学んだのは、空《から》仏教であったようだ』と質問したのに答えて

・・・・・・・

 あなたは生前、空《から》仏教を学んだのではない。人を大切にする事を学んだのである。慈愛を知らぬ人が真理を学んで理解する事は出来ぬ。空《から》真理(無や空という仏教観)は誰も幸せにせぬ。しかし、あなたは人々を幸せに導いてきた。

 あなたが文字から学びえたものには多くの過ちが混じっていたかもしれない。しかし、あなたは正しき方向へと学び進んできた。人々を導き、育むのに重要なのは思想ではない。慈愛であり忍耐である。善き智慧は大きな力となるが、慈愛や忍耐のない力は乱暴である。

・・・・・・・

 一人が学んだ事は、多くの者等と共有する事が出来る。一つの絆は、数多くの絆と結び合わされ、撚り合わされて、より堅固な絆に育っていく。霊界ではそれぞれの境涯に分かれて、階層を織り成しているがゆえに、異なる階層の魂らと出合うことは難しい。それに反して地上は、異なる境涯の魂らが、ひしめき合って暮らしている。それ故に貴い出会いが生じもする。驚きも生じる。驚きがまた人を磨きもする。

 地上では、あなた方の肉体を養う為の日々の糧を得るのに多くの努力を必要とする。しかし、魂を養う為の糧は、道ばたにも転がり、皆、見向きもしないほどに豊かである。

 地上には境涯の異なる多くの出会いがあるがゆえに、良き驚きばかりが待っているわけではない。又、驚きばかりならば飽きもしよう、疲れもしよう、疲労が苦悩に変わりもしよう。……であるから、あなた方は、魂の糧におぼれぬ術《すべ》を身につけなければならぬ。まずは、欲をかかず、あまり手を広げぬことである。


人間関係……縁

2005/05/19

 

Q 「うんざりだ! 嫌なものは誰だって嫌なのに、出来ない、判らない、急がしい、用事があるといってすぐに苦労を人に押しつけようとする。そういう人が尊属や上司にいたら浮世のしがらみで容易に縁も切れない。せめて今生だけのつきあい、死後はこういう人々に患わされず生きたいものだけど、この縁は断てるのだろうか?」

 ゆえに階層が出来る――天に昇るには試練がある。試練にあって逃げようとするものは降り、試練を乗越えてこそ天を昇る。この試練を乗越えてこっそりと天上に忍び込むことは出来ないし、助けを求める声もこの試練の壁はくぐり抜けることがない。

……忘却とは主に肉体の仕組が為すもので、肉体の呪縛が取払われると、忘れたい過去の様々な記憶がすべてよみがえる。恥ずかしかったこと、辛かったこと、苦しかったこと……さらには、苦難に出会ったときの自分の行為までを思い出せば、卑怯な行いまでがすべて表に現れて隠すことが出来なくなる。それ故に善く生きようとしたもののみが光あふれる世界に入れ、後ろ暗いことを隠そうとするものは、逃込むべき闇のある影の世界に入っていく。
 誰が責めるのでもない。自分の記憶に苦しむ人がいく世界が地上で地獄として知られる世界の実相である。

Q 「いささか安心しました。薄情に思われようが自分の修行が手につかないのでは困りますから……」

 むろん……人にはそれぞれ果すべき義務があり、課題がある。人はそれぞれに出会う苦難を誠実に乗越えていくだけで、自然と修行が成り、自然と向上する。いい訳や、縁を頼って人に任すことなど、この世でこそ通用することであって、死の直後に出会う試練を乗越える役には立たない。

 他人の義務を肩代りしたところで相手の修行にはならぬし、歩むべき道の異なる自分の修行にもなりがたい。生死や人生の善し悪しが絡む助け合いは大切なことであるが、人によっては愚にもつかぬ事ばかりに他を頼んで、自分の人生の命題をないがしろにしている。

 確かに神仏、または、死して人々を見守る霊達は、すべての人々にとって善くなるように守り導こうとはしている。だが、善なる行為の中に、無条件の奉仕は含まれていない。悪事の助けも、怠惰の助長も善なる行為に含まれない。
ただ、自分の良心を研ぎ澄まし、そして、慢心・偽善を戒めて生きていれば、自ずと良き助けが手の内に入り、悪しき助けが身を避けていくようになる。

Q「自己向上の修行三昧のその前段階にいるということですか」

 そもそも地上の修行というのが、修行三昧の前段階なのである。

Q「死ぬまで待つのではなく、今生で縁を切る方法がないでしょうか」

 むろん、我らはよけいな縁は断てるように手を貸している。だが人は業が深い。売り言葉に買い言葉で、切るべき縁を切ろうと争い、争うことで憎しみという太い縁を結ぶことも多い。常に、憎むよりも悪縁を断つことを心がけよ。安易な手段はないが見捨てもしない。

Q「浮世のしがらみで、一つの悪縁を棄てると連なる大切な縁もともに切れる恐れがあります。それが悪縁を断ちがたい理由の一つになっていると思うのですが……」

 縁は人の意志だけでは断てぬ―― 結ばれるべきものは誰が断ち切ろうとしても断ち切れぬものではないし、結ばれぬものは、誰が骨を折ろうとも結ばれることはない。今、一つの縁に拘って悪縁が断てぬとするなら、その悪縁がじゃまをして良縁が遠退きもする。……摂理に委ねるなら、自然と良縁が近づき、悪縁が去っていくものなのに、摂理を超えて縁を引寄せようとするから悪縁が断てず、悪縁が挟まって良縁との距離が狭まらぬ。

 摂理を信じず、我欲にだまされて「必要なことだ」と信じ、愛のふりをした執着心を働かすから、結局は縁の働きが苦しみに変るのである。

 すべてを投捨てよ、縁あれば投捨てても戻ってくるのだから。

Q 「(私は疑っていませんが……)本当に戻ってきますか?」

 ……不安になるのは、自分こそが相手に悪縁を為していることを知っている者である。その現実に目を向ければこそ救いもあるが、反省無いものはどれだけ失おうとも良縁が去って悪縁ばかりが残ることになる。

Q 「人間関係には距離も大切ですよね。その距離を保つのも難しいのですが」

 すべては、座して待ち、寝て待って片付く問題ではない。だがやはり、妙に小手先の知恵を使わず、執着に惑わされなければ自ずと良い距離となりその間隔も自然と落着くようになる。……恐れるなかれ、恐れる心がつまらぬ知恵に頼る気持を育て、自らの過ちから目をそらし、世の中の不幸災難ばかりに過敏にして、生きることを苦しくさせるのだから。

Q 「せっかくですので良縁を育てる方法などにもご助言ください」

 それこそが大切だ……摂理に背かぬ事である。無理は決して長続きせず、無理は愛と執着心を混同させるからだ。

 なるようになる、なるようにしてこそ長続きすることが本当の縁であることを互いに認識していれば、無駄な苦しみが間に入る込むこともない。


戦乱の時の心構え

2003/04/05

 この通信者を仮に、「小嬰(腰が低くてとても背が低く見えたことから)」と呼びます。


・・・イラク戦争に関して・・・

 私がここで申し上げたいのは、世に戦乱ある時の、心構えであります。

 戦争は確かに痛ましく、憎しみは確かに厭うべきものです。しかし、憎みあう者同志も人間であり、殺し、殺される者もまた人間なのです。殺す者のみを憎み、殺される者を愛するというのは、大きな偏見であります。大きな偏りであります。もしもあなたが、その争いの最中に割って入ろうとするのであれば、くれぐれも冷静さを失わぬことです。そして、冷静さを失わぬためには、まず理《ことわり》を見失わず、礼節を正して語るべきです。

 くれぐれも、争いの道が愚かであるとか、暴挙であるなどと言つてはなりません。それは仲裁者の態度ではなく、一方の加担者であるということです。

 勝敗は必ずしも善悪を現しません。弱者は必ずしも善ではありません。堂々と宣戦を布告するのが悪であるなら、宣戦を布告せず、兵を動かさずに殺し合えば卑怯でもあります。

 かの地、イラクは、喧々と争いが絶えず、殺し合いが絶えずにありました。その地に平和をもたらすのに、果たして戦争が必要であるのかといえば、わたくしもまた、反対ではあります。

 しかし、人々が愛し合い、分かり合おうとしなければ、銃弾が飛び交う事が無くても、それだけでは平和と呼べません。子供達を銃弾が貫くのも心痛む光景ですが、殺伐とした雰囲気が子供達を毒していくのもまた百年近くも続く心の汚染なのです。

 ただ祈れとは申しません。あなたが本当に平和を愛する人ならば、一方に荷担することなく、冷静で平等な仲裁者の立場を大切になさってください。一市民に過ぎぬあなたが、国家間の戦争の仲裁者足らんという態度をとるのは、笑止に思えるかもしれませんが、戦争に反対しながら隣人との諍いを止めぬような事こそが、真に笑止なことです。

 まず、隣人を大切になさる事です。時間がかかろうが、隣人との調和をひろげてこそ、真の平和に世が包まれるのですから。

 皆様は、人生を考えるのに、生死を超越した心霊の立場より考えるとの事。そうでありますならば、正義や善悪を超越して、相手が人間である事も、どうぞお考えくださいませ。争いで平和は勝ち得ませんが、差別や憎しみからも平和は生じません。

 どうぞあなたの御心が平和に包まれます事を。そして、どうぞ皆様が仲良く暮らせます事を。

(2003年4月4日)


お知らせBy老神いさお。

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