‘2003/01’ カテゴリーのアーカイブ

自分を知る

2003/01/31

Q 「自分を知るための思考の手順のようなものは無いのでしょうか?」

 過ちを減らす事――人は過ちを避ける事は出来ぬ。そうであればこそ、人は過ちなき事に拘るよりも、むしろ、過ちを減らす事を心掛けるべきである。「過たぬ」という覚悟は立派であっても、『過るのでは』という恐れがむしろ人の心に油断と隙を生むのである。まして、知らぬものを知ろうというのである。そこに過ちが入らざるはずが無く、試行錯誤が不要なはずもないのである。

 ここに一つ指摘せねばならない。今回の質問者は、素直で善良なる哉、過ちを恐れるよりも、過ちを正せぬ事をむしろ恐れる。しかし、人の大半は、過ちを恐れるが故に、過ちを直視しない。過ちの可能性も直視しない。それでは過ちが減る事も無い。ただ、自分は正しいと盲信するのみなのである。

 観たくない物を観よ――あなたが探し物をなかなか見つけられぬ時は、一番あって欲しくない所、観たくない所を探してみるがよい。探し物の努力は、意図せぬ無視によって阻まれるものだ。

 人は己の姿を見出せぬという。見出す事が難しいという。誰が邪魔をするのでもなく、自分自身が邪魔をしているのである。己が己の裏をかくのは難しい、なればこそ、確かに己を見出すのは何よりも難しかろう。しかし、難しくとも探しどころは明らかなのである。

 人に寛大であれ――己を見出すのに、人に寛大である事は大切なことである。正しい見解の持ち主なら、人に寛大にならずに、どうして自分に寛大になれよう。人に厳しく、己に寛大という人は身贔屓もはなはだしく、そういう人が己を知ろうにも贔屓しか出来まい。

 自分に厳しく当たれば、見たくない自分を正しく見出せると思えるかも知れぬが、それは過ちである。心とは本来柔軟なものであり、厳しく接すればいかようにも姿を変え、緩めた途端に本性を取り戻すものだ。すなわち、寛大に接した時、はじめて本当の姿が見えるのである。

 しかし、己に寛大であって身贔屓《みびいき》にならぬのはとても難しい。そうであればこそ、人に進んで寛大に接する事が大切なのである。

 善悪に拘ってはならぬ――善悪に拘ってはならぬ。心に善悪の区別をつけてはならぬ。善悪の区別は行いにこそ必要なのである。臆病であれ、卑怯であれ、怠惰であれ、己の心を知って、心を叱ってはならぬ。

 己が臆病や、卑怯や、怠惰であるなら、為すべき時、為さねば成らぬ時に、己を励ませ!、為すべき時、為さねば成らぬ時に叱りつけたら、心は外の敵、内の敵を同時に相手にせねばならぬ。いざという時に役に立たぬのは、みだりに叱る人である。

 ありのままの己を知ってこそ、人は己の活かし方を知る。己を活かしてこそ人は自信を得られるのだ。>

(2003年1月30日)


罪障消滅

2003/01/11

Q 『心霊の勉強を始めるに当たって、様々な障害が足かせになるものです。それらの障害にどう対処すればよいか、教えてください』

 総ての困苦は修行の課題である――心に留めなくてはならぬ。総ての困苦は修行の課題である。困苦からいかに逃れるかを考えた時、「逃れんとする心」が罪障となる。同時に忘れてはならぬ。真理は人に罪障を与えぬ。いわば、修行者の心の迷いが、課題を解く事を拒み、手をこまねいているうちに罪障を育ててしまうのである。

 外なる敵――救われざる理由は他にもある。人は内外に敵を持つ。内なる敵とは即ち迷いである。そして罪障とは即ち外にいる敵である。ここで気をつけねばならぬのは、内の敵、外の敵、どちらか一方とだけ戦う事は出来ぬという事である。

 ところが人は、往々にして、内なる敵を忘れんがために外に敵を見出す。内なる敵への敗北を紛らわせる為の戦いであるのだから、その戦いに勝ち負けは関係ない。気がつけば、心の内外に数え切れぬ敵を得て身動きが出来なくなる。そうなったらもう誰がとりなせよう。

 目を見開き、耳をそばだてる人ならば導けよう。しかし、目を閉じ、耳をふさいで、しかも、外から漏れ来る光や音から心を遠ざけようと、妄想に逃げ込む者……魔境に遊ぶ者はどうにも救いがたい。妄想よりも楽しい現実を用意してやらぬ限り救いがたい。しかし、妄想に逃げ込むような怠惰なものに、誰がそこまでしてやるのか?

 真に救われがたき人は、愚かゆえに救われぬのではない。徳が無きために救われぬのである。

 生きた師を得よ――罪障が苦しいからと言って、不可知なる神仏に、不可知なる救いを求めてはならぬ。(霊信を正直に表現すると「神に救いを求めてはならぬ」)果たしてあなたにいかなる徳がありて、神仏があなたに尽くすと言うのか!。迷い、苦しむ、あなたになど、救われる価値などありはしない。

 罪障はあなたの未熟さが育てたものである。その責はあなたから生まれ、あなたに戻るのである。誰かの邪があなたの苦しみの直接的な原因に思えても、それを受けざる得ないあなたの不自由さを思うが良い。なぜ、あなたは自由ではないのか? あなたが至らぬからともいえるのだ。

 そうであるなら、救われる事を求めてはならぬ。不可知なる神仏に祈るのではなく、生きた師と見て神仏に祈るのである。すなわち、罪障消滅を祈るのではなく、罪障消滅の手本を見せてくれと祈るのである。

 総ての責は、生み出した人の元に帰る。あなたの生み出した罪障は、いかなる神仏でさえ、肩代わりは出来ぬ。仮に、無理をして一度は肩代わりをしてくれても、あなたが新たな罪障を生み出す事を留める事は出来まい。

 真の信仰の大切さ――もしもあなたが、自由な眼を持ち、すべからく天下から、罪障消滅の手本を得られる視点を持てば、あなたが祈る神仏は、不可知ではなく生きた師となる。生きた師とは変幻自在、応用無辺の存在である。この世には神も仏もいない。だが、あなたが自由な眼を持てば、あなたの心に生きた神仏が宿るのである。

 不可知なる神仏に祈るのは、信仰とは呼ばぬ。迷信と呼ぶ。神仏を「生きた師」にしたものを、信仰者と呼ぶのである。


 注; ここで特記せねばならぬ。私が見る限り、天の救いの不足を大きく嘆く者は、他に優しき人である。周囲の者に対してとても親切で、わが身を投げ打ってまで人を助けようとする人である。

「我がすくわんとするのに、なぜ天は救わぬのか。天の情とは、我が情、人の情よりも薄いのか」、心掛け清き者もそう嘆くのである。しかし、なぜ、天はその哀れなる者を助けようとせず、なぜ、あなたは天が救わぬ者を助けようとしたのか?

時として、天はあなたの手を用いて、その哀れなる者を助けようとするだろう。だが忘れてはいけない。天は愚や怠惰を助長せぬ。他の愚や怠惰を救おうとした時、あなたはいらぬ苦労を背負うのである。このような罪障は、自らの驕りが招く。人の哀れなる行いを見て、先ず想わねばならぬ。努力が報われぬのは何ゆえか?

 努力が足りぬのか、方法は正しいのか。そもそも目的が正しいのか。

足りぬ努力は手伝えよう。だが、間違っているなら正さねばならぬ。正さぬなら、無駄な努力を続けねばならぬ。そして、無駄な努力を手伝う事に、誰の益があろう? 愚の助長は同時に苦の助長なのである。

(2003年1月10日)


対人関係 3

2003/01/11

Q 『言っても判らない人、話し合いで問題が解決できない人と、どう接するべきか。』

 理解の欠如――質問の趣旨には面白い前提が含まれる。あなたは何を話し合おうというのか、つまりは、「止めて貰いたい」ということである。または、「義務を果たせ」ということである。「言ってもわからぬ」というのは、「自分の言うがままに相手が動かぬ事」を指さぬ。そのような横暴な方法を私は知らぬ。

 では、相手はなぜ、止めろと言われても止めず、義務を果たせといわれて義務を果たさぬのか。相手は、「自分の言うがままに相手を動かそうとしている」からである。それは既に話し合いのあり方ではない。

 世の中に、話し合って分かり合えぬ人はいまい。だが、人の話を聞かずに一方的に話したがる人は多い。こういう状態で会話は成立しない。それは話し合いとは呼べぬのである。

(2003年1月10日)


除霊とは

2003/01/05

 憑依霊とは

 類は友を呼ぶといいます。気が合えば会話も弾み、気が合わなければ会話は途絶えがちですね。この気が合う、気が合わないということを霊能者は交霊において、波動が合う、合わないと表現します。憑依は、一般的に霊的な波動があうことによって生じます。まれに「この人に……!!」という強い必然性が生み出す憑依もありますが、気の合わない人との二人きりにされる苦痛を想像してください。物質的な障壁のある人間同士ですら苦痛なのに、想念だけの霊にとっては波動が合わないということは大きな苦痛なものです。

 では、霊障で苦しんでいる人というのは低級霊や悪霊と同波動なのか……と気を悪くされる方がいらっしゃるでしょう。しかし喧嘩は売られても、買わなければ成立しません。憑依現象にも、売られた喧嘩を買うに等しく、外部から見たら同じ波動の持ち主と思われがちなものなのです。また、少なくとも、死者の霊がどこに行くべきか、霊界がどこにあるのかを知っている人ならば、迷える霊を導くことが出来ましょうし、霊障に苦しむ事もないはずです。

 さて、地上の人間関係では、物理的な……端的にいえば生活上の必然性から、好むと好まざるとにかかわらず縁がとても切りにくいものですが、霊界にはその様な制約は全く在りません。ですから、気が離れる……つまり相手に執着することを止めた途端に離れていきます。この辺の素早さは、霊界が自由であるということの証でもあります。(自由には責任も伴いますが……)

 考えても見てください。人は大地の上に立ちます。では、大地がなければどうなるでしょう? この問いかけに即答できない人は霊界入りが困難な人です。大地がなければ立つ必要がないのですから。つまり、肉体があるから不自由なのであって、肉体を失うということは自由を得たということなのです。人に憑依するのはわざわざ不自由な状態に我が身を置くのに等しいのです。

 つまり憑依霊というのは、物理的な制約に執着している魂のことで、その苦しみは自ら生み出しているのです。その苦しみを他人に解決してもらおうとしているからいつまでも苦しみ続けなくてはならないのですね。しかし、自分の執着心は他人には断てないのです。


知恵対知恵

 時折、農作物に対するサルの被害が報道されます。サルたちは電気柵などを設けても、立ち木を利用して柵を飛び越し、玉の出るホビーガンで脅しても、いずれ弾の届く範囲を覚え、人が居なくなればまた戻ってきます。

 畑の四方や上部を完全に囲い込んでも、サルは留め金程度ならば上手に外し、トウガラシでお仕置きして山に放してもたちまち舞い戻るサルたち。効果的に畑を守るには莫大な費用を必要として、そんなに経費をかけるなら畑を放棄した方がよいというのが、農家の方の苦しみです。しかし相手を獣と蔑む心が解決策を見えにくくしていますが、いかにサルが人に劣るとしても、相手は知恵ある存在なのです。

 知恵ある相手に鞭を振るうだけだから、反撃を受けるのであって、本当にサルと共存を図りたいのなら、ムチだけではなくアメの使い方を工夫しなければなりません。人間だって、困難なほどやる気が出るし、知恵とは困難に対処する必然性が育てるものです。追い払う事ばかり考えるから、サルを知恵付かせるのです。

 まして、野生のサルたちにしてみれば、生きるという事は餌の獲得に他ならないのですから、生きている限り、そしてより容易に獲得出来る餌がない限り、農作物を狙うのはむしろ当然でしょう。サルを追い払うよりもサルに畑の作り方を教えた方が解決が早いのではと思います。(深山中に果実の木を植えるなど……まじめな提案です)

 さてサルの話を持ち出したのは他でもありません。一般的に思われている除(浄)霊法は、効果が上がらない猿害の対処法と良く似ている為なのです。

 電気柵を「結界」、トウガラシを「塩」、また、霊能者による除霊をホビーガンによる威嚇や射撃と置き換えて見てください。サルですら、知恵を尽して柵をこえ、トウガラシへの恐れを欲望で克服し、警備員の手の内を読むのです。元は人間であった霊がサルに遅れをとる事がありましょうか。

 付け加えるなら、御札やお守りは、非常ベルの押しボタンのようなものです。困った特だけの神頼みで、非常ベルを鳴らしてもだれも来ない、ただのこけおどしになる事でしょう。ただの脅しなら相手に舐められては、効果はいずれ無くなります。

 一般に思われている除霊法は、実は効果の上がらない猿害対策レベルの知識なのですね。

 霊とは意志を持った存在ですから、機械の操作のように、このボタンを押したらこう反応するといった法則はありません。呪文やお経は術者の心に働きかけるもので、言葉に呪力があるわけではありません。意識ある相手との関係は、コミニケーションが解決の鍵を握っているのです。そして肝心なのは互いの誠意です。

 霊障解決策はケースバイケースで柔軟に対処する必要があり、御札やお守りといった道具だけで対処出来る物ではありません。


 除霊法概略

 除霊というと、身体の中から霊を追い出すことと考えがちですが、ただ追い出しても戻ってきてしまえば一時的な解決でしかありません。だから、除霊ではなく浄霊であるべきだ……と、霊を諭す方もいますが、「霊界入りしなさい」と言って、どこに霊界があるのか、生きている人間が案内できるものでしょうか?

 確かに、自分の死を悟らずにいる人に、その過ちを悟らせることは大切ですが、本当の浄霊というのは霊界の者に引き渡さずには終わらないものなのです。また、それは除霊についても同じことです。霊界のしかるべき相手に引き渡して、監督してもらって初めて戻らなくなるのです。

 ですから、霊感があってもきちんとした背後霊がつかないと、その霊媒には除霊能力が身に付きません。ですから霊能者と呼ばれる人は霊的な仕事をバックアップしてくれる霊界側のスタッフを持っている霊媒をいうわけです。では、そんな背後霊を持たない人には除霊が出来ないのか、霊能者を頼るしかないのか……といえば、そんなことはありません。

 守護霊の盲点

 人は鈍重な肉体を纏った魂で、除霊とは魂対魂の対決ですが、肉体を纏っている分だけ人間にはハンディーがあります。実をいえば肉体には憑霊を防ぐ仕組みがあり、霊能者の中にはその仕組みを活用している人もいますが、憑霊状態にある人はすでに肉体の防壁を乗り越えられているために、その仕組みを生かすことは出来ません。

 その様に不自由な存在である人間を守ることも、守護霊の役割の一つです。また、守護霊が手に負えない相手には、それをバックアップするための高級霊が存在します。その様な霊は、日本においては神社仏閣などを拠点(後述)にしているのが普通です。

 しかし、守護霊や、そのバックアップのための高級霊(俗な表現をするなら神様・仏様)は、非常に高い波動を持っています。ですから、欲深い魂や、生に執着する魂とは気が合わず、感応しないのが普通です。考えてみてください。人間は日に何度も空腹を感じ、日に何度もトイレに行きたくなりますよね。その様な欲求にまでいちいち守護霊が感応していたら、肝心の守護がおろそかになってしまいます。また、執着心を叶えるために努力していては、物欲が苦しみを増すことになりかねません。まして、守護霊の第一の仕事は人生の全うであり、行くべき道を指し示すことなのです。

 小さな欲望は見ても無視するのが、高級霊たちのマナーですし、まして波動の合わないもの、特に波動の低いものに合わせるのは苦痛を伴いますから、必然性が生じない限りは、行われないものなのです。結局、人間の霊的防御とは、人が気持ちを高尚に抱いて最大限の効果が発揮されるものなのです。

 しかし、いくら守護霊が低級霊と感応しにくく、しかも人間の思念を捕らえにくいといっても、明示的な除霊以来……例えば熱心に手を合わせて拝んでみたり、塩をまいたり、お守りを握り締めたりという行動をとれば、異変に気がつきチェックを入れてくれるものなのです。ですから、霊障に苦しむ人はまず、塩やお守りの効果に期待せず、それを合図に守護霊に助けを求めることを念頭に置くべきなのです。

 下手な霊能者の除霊より、または、霊感の強い友人よりもはるかに大きな除霊力を守護霊は持っています。それは一般市民が犯罪の対象になったときに、警察の保護を期待できるのと同じことなのです。これで問題が解決しなければ、相手に危害を加える意思がないか、自身もまた犯罪に手を染めていることを危惧しなければなりません。

 実は、相談者が霊障と考えているものの大部分は、霊障ではなく相談者の勘違いや、思い違いなどなのです。その中には祖先の霊が危険を知らせに来ているという事例もたくさんあります。また、霊障の中にも霊を利用しようとして起こる霊障も多いものです。

 神様の居場所

 守護霊をバックアップする高級霊を、人々は俗に神様とか、仏様と呼びます。このような高級霊は、地上では神社仏閣を拠点としています。

 拠点と呼ぶと、「そこにいる」というイメージを抱く人もいますが、霊には物理的な肉体はありませんから、ようするに参拝者を重点的に観察していて、必要に応じて手を貸す……というのが、より実情に合っています。また、霊感の強い人は神社仏閣などの聖域でも低級霊を霊視して、落胆する人がありますが、物理的な大きさのない霊にとって、どこそこにいる、というのは単に関心があるということに過ぎませんから、場所によって特定の霊が見えるというのは単に共感したということに過ぎません。

 これを例えるなら、有名人のホームページに設置された掲示板を想像してください。

 この掲示板は、物理的にはどこかのサーバー内にあり、有名人宅にはありません。そして、もしかしたら海外のサーバーに置かれているかもしれないのです。用意にアクセスできるということと、物理的な距離とが関係ないのが電気通信の世界ですし、物理的な大きさのない霊たちも電気通信のように振る舞うわけです。これが拠点という意味です。

 そして、その掲示板に投稿するのは主にファンで、その有名人からの書き込みはめったにないというのが、神社仏閣などの聖域で低級霊がたくさん見えるということです。しかし、積極的に掲示板に参加する有名人もいるように、親しく霊媒にかたりかけてくれる霊がいる神社仏閣もあります。

 さて、霊障の問題に戻ります。もしもあなたが病気になったら、患者が寄りつかない病院と大勢患者が集まる病院のどちらを選ぶでしょうか。症状が軽ければともかく、大病の疑いのあるときは患者の多い病院に安心感を感じるのではないでしょうか。

 しかし、大勢の患者が集まる大病院にいって、院長に診断を申し込んでも、多忙な院長がかならず応じてくれるとは限りません。また、大病院にはそれぞれ専門の診察分野を持っている担当医がいるものです。まして、変な人に絡まれていたり案内を請われているときは、院長先生よりもむしろ守衛さんの方が頼りになりますね。

 実は神社仏閣を拠点にする高級霊たちも独りで働いているわけではなく、分業をしているのが普通です。そして、守衛に当たる霊は、聖域の中でも、拝殿や本殿ではなく主に御神木に拠点をおいているのが普通です。

 御神木とは、聖域の中で特にしめ縄をはっている木で、小さな神社仏閣などでは、一番太い木を、御神木として扱え無くも在りません。そして霊障の苦しみについては御神木に祈る方が効果的な場合があります。つまり院長経由で守衛さんに頼み事をするよりも直接守衛さんに話す方が早いというわけです。

 また、小さな神社や祠を拠点にする霊の方が、一般的に親切なのですが、霊感のない人や、あっても霊感が安定しない人は、寄らば大樹の陰と、やはり大きくて、人の管理が行き届いている神社を頼られた方がよいでしょう。さ迷う霊は神社仏閣を頼るのが当たり前で、低級霊を感じるのが普通だといっても、自営の心得がなければ、やはり見守る高級霊の目が多い場所の方が無難だからです。

 でも霊能者も必要

 人間関係のトラブルの大部分は、誤解や行き違いが原因ですし、誤解や行き違いが事態をこじらせる主な原因です。霊との間のトラブルにも、大抵、誤解や行き違い要因があります。このような場合、問答無用で「出て行け!」とやってしまったら、簡単な問題も拗れてしまいます。

 また、一般的に除霊というと塩を持ち出す人がいますが、考えても見てください。親戚や友人に塩を投げつけたら、帰ってくれるかもしれませんが、押し売りに塩をかけたらかえって居直られるのが落ちです。とにかく除霊というのは暴力に他ならないのです。ですから使い所には注意しなくてはなりません。

 つまり、十分に意志疎通を図ればトラブルの大半は解決するし、意志疎通を軽視すれば起こる必要の無いトラブルが起きてしまう事もあるという事なのです。霊がらみのトラブルの解決は、人々が意識するにせよ、しないにせよ、主導権は霊界側がもっているのです。この様な時に求められる霊能者(霊媒)の役割とは、無用なトラブルを解消する為の折衝役なのです。


私の体験

 まともに戦えば霊に勝てない

 強い霊能力を持てば霊障を打ち破れる、修行が足りないから苦しむ、と誤解する人がいます。私自身もそうでした。その発想を改めるまで、文字どおり、のた打ち回って苦しんだものです。振り返って見れば実に馬鹿げた考え方でした。どれほど腕力をつけようと、一人の人間の努力では多勢に無勢、まして、こちらは睡眠や食事や排泄が必要な肉体を抱え、逃げる事もままならず、霊は睡眠も食事も排泄も必要としません。

 そして腕力に差があったとしても、自由度の高い霊が、ヒットエンドランを繰り返せば、睡眠不足から衰弱して気力も失われてしまいます。そう、相手を低級霊と馬鹿にしても、まともに争えば、どんなに強力な霊媒も、獅子身中の虫の喩えのごとく、さしたる抵抗も出来ずに負けるのが道理なのです。

 また、低級霊を追出しても、低級霊が憑依しようとする欲望まで無くせませんから、常に周囲に気を配らなくてはならず、そのストレスもまた、身体を苦しめる事でしょう。低級霊を惹きつける何かを持ちつづけている限り、人は苦しまなければならないのです。

 どんなに鍛えても一人は一人、その力が何倍にも何百倍にもなる事はありえません。大切なのは、戦う事よりも味方を作り、守られるようになる事なのです。そうなればその力は、何倍にも、何百倍にもなります。

 霊界の事は霊界に任せるのが基本なのです。肉体を抱えた人間が霊とまともに戦って勝てるはずがありません。それでも勝っているかのように感じるのは、守護霊や背後霊、祖霊たちの加護があるからなのです。その加護へ感謝を忘れてはいけないと思います。何らかの行き違いがあって(つまり霊界が定めた人の道に反して)守護霊たちが、見えざる守護を中止したとしたら?

 そのような目にあった霊能者の逸話は数多くあります。

 私の事例

 私を救ったのは一つの発想の転換でした。

 『低級霊をすべて追い出すことは出来ない。それは丁度、部屋を真空に保とうとするのと同じぐらいの努力が必要だろう。気圧の差から針の穴でも真空は破れる。ならばガスを充填すれば少なくとも気圧の差は減じられる』

 低級霊を追出す事よりも、高級霊がよって来るような人間になれば良いのです。少なくとも自分の苦しみは自分で解決出来るような霊なら、身の回りにいくらいても苦にはならないはずですから。

 「低級霊を退けるよりも、高級霊に守られる状態を作ることが大切なんだ!」

 そう悟った私を光が包みました。憑依霊現象に苦しんでいるときには、人目が怖くて明るい内は外出も出来なくなっていた私が、再び自由に出歩けるようになった瞬間でした。

 以来、私は常に、そして少しでも、善良であろうと心がけています。心の闇の恐ろしさを充分に理解しま下から。地獄はもうたくさんです。

 一人の努力には限度があります。どんなに自分を鍛えたところで、一人は一人です。しかし、誠実さと善良さと、「お互い様」という気持ちを持ちつづけていれば必ず味方が現れます。そうなれば力は一人分では収まりません。


悪霊の手口

 知恵ある悪霊が、除霊能力の強い霊媒を凹ませるには、一種、「美人局」的な手法を使います。つまり、仲間の悪霊が霊媒に助けを求め、もう一方が虐め役をやり、ご丁寧に通信妨害役の霊を置く。……さらに助けを求める「虐められ役」の霊が複数いたら、いかに強力な除霊力を持つ霊媒であろうと振り回されるだけです。しかも虐められ役だけでなく、虐め役も囮で、その事に気がつかないから通信妨害役の霊にいいようにからかわれる。

 おまけに霊媒が直接危害を受けているのでなく、霊媒はただ、助けを求める者を助けようとしているだけだから、通信妨害役の霊がいることも相まって、霊媒がからかわれていることに守護霊も気がつかなかったりします。―― こういうミスは普段から守護霊と定期的な通信を心がけていれば避けられることですが――この手法を使われると、霊媒は直接的な攻撃ではなく、焦りや自負心といった、いわば自分の心に苦しめられることになります。

 私も霊感発現直後に、これをやられたことがあるし、他の霊媒の経験談でも聞くことですが、外からの攻撃は防げるし他に助けも求められるけれども、内側から責められては防ぎようもなく、助けの求めようもありません。……まあ、対策は比較的簡単で、不安や恐れといった、現実ではない苦しみに冷淡になればよいだけのことですが、感情コントロールを身につけない霊媒には辛いことですね。

 私の心霊思想が、人助けに冷淡なのはこの経験があってのことです。結局、霊媒に危害を加えられぬ霊達も、その家族や友人、またはその同僚に危害を加えるのは比較的簡単なわけです。……とすると、霊媒と友好関係を結ぶのは危険この上ないことにも思われますが、霊媒の知人がいない人なら、悪霊たちの天下となるわけです。

 まず、制空権を確保する。――相手が要塞に籠っているなら、補給路や通信線を断つ。

 ……兵の常道です。で、心霊に関心を持つ人も、真に悪霊への備えのある人をなかなか見ることがありません。お札や塩、呪文やら印型をいくら知っていても――生兵法はケガの元でしかありません。まして己の霊力に頼るから、上述のような計略を用いられてしまいます。

 霊界に於いては守護霊等との連携を計り、地上にあっては良き理解者を持つことこそが最大の自衛策なのです。


死を考える

2003/01/05

 思索の前に

 死とは何か、死をどう受け止めてよいか……というのは、宗教・哲学の一大テーマですが、死は決して単体で成立せず、生と対になって初めて生じるもです。つまり、生まれざるものに死は有り得ず、生命なきものにも死は有り得ません。

 しかし、多くの人は誕生の意味、生きることの意味を十分に論じることなく、死だけを論じています。木を見て森を見ず……死のみを論じて一体何が明らかになるのでしょうか?

 全ては正しい

 死というのは、無であるとか、永遠の(霊的)生の始まりだとか、様々な意見があります。そして、心霊主義は死後の個性存続を肯定する立場を取っているわけですが、この世の中で物質的な豊かさだけを追い求めて生きた人ならば、死によってすべての財産を失うのです。死後の個性存続があろうと、死は人を空しくする力を持っているのです。

 だからといって精神的な豊かさを追い掛ければ、死後も豊かであるか……というと、ここに大きな誤解が潜んでいます。魂がわざわざ不自由で重苦しい肉体を纏う意義を見出せなければ、人生は魂の牢獄となってしまうでしょう。

 そして、人生の意義の受け取り方については、人によって異なる見方があるのです。結局の所、世にある死生観については、どれも正しいと言えなくもないのです。

 心霊的な死生観

 心霊知識の会得がない人から見れば、死とは大きな恐怖の対象でしょう。しかし、中途半端な心霊知識で考えると、死とは大いなる解放を意味します。

 たとえば肉体を持った身では、すぐ側にいる人であっても、病気になるほど恋焦がれる相手であっても、分かり合うことが難しく、人は容易に信じあう事が出来ません。裏切られるのでは・嫌われるのではと、ついつい不安が生まれるものです。まして、距離や時間の壁の何ともどかしいこと。思った場所にたちどころにたどり着けるなら、何と自由なことでしょう。死後の世界とは、このような不自由さから程遠い世界とされています。

 では、死後の世界こそ素晴らしいと考える心霊家が、なぜ苦しい生を中断せずに、死を選ばないのでしょうか。心霊家の多くは、「自殺は神が定めた大罪だから」という返事でお茶を濁しています。しかし詭弁は所詮詭弁にすぎません。その詭弁を丸呑みすると、「自殺は大罪なのなら、人を助けるために我が身を犠牲にした事も罪になるのか……」と言った不毛な議論が生じることになります。

 死というのは生の結果なのです。そして、自殺が大罪であるというのは、せっかくの人生を独善とわがままによって中断させることが大罪であるという事なのです。そして、人生を全うすることが何よりも大切である理由は、本来別な所にあります。

 人は、言葉も話せず、立つ事も出来ず、自我も空《うつ》ろで、非力な肉体(赤子)として地上世界に生をうけます。たとえ誕生前にその魂がいかなる重大な使命を抱いていたにせよ、その使命を知る術も理解する術もなく人は生まれてくるのです。

 大抵の魂にとって、成長こそが、そして人生こそが、人生の目的・地上に生を受けた目的といっ手も過言ではありません。もちろん、魂の成熟度によっては「魂の自覚」だけが目的である場合もあれば、肉体との結合への訓練のために、流産・堕胎・早世と言った制約のある肉体に降りてくる場合もあるでしょう。

 また前世をはっきり記憶していて、肉体の制約以上の霊的大事業に取り組む魂もあるでしょう。人生は人の数だけその有様があるのです。そして死は生の結果であるなら、死の意味も価値も、人の数だけ有様があるということです。決して一つの形に括ることは出来ません。

 少なくとも確かなのは、多くの人は恐怖に慄きながら死を迎えるにしても、一部には自らの運命を受け入れて微笑みを浮かべて死出の旅路をたどる人がいるという事です。要するに、死に決まった形、あるべき形はないとしても、当人の納得の行く死に方、行かない死に方があるという事です。

 そして好ましいのは納得の行く死に方であり、その納得はどこから生じるかというと、死に方、死の形ではなく、生の在り方から生じるのです。死とは生の結果なのです。過程を無視して良い結果だけを望むのは、人生がバクチに似ているにしても、あまりに勝ち目が少ないバクチとなるでしょう。

 人生の目的について……ヒントとして

 人に不安をもたらす最大の要因は、正しい知識がないからと言えましょう。情報が少なければ努力しようにも対策も立て難く、何も手がないことがますます不安に拍車を掛けます。そして人は死をとても不安に感じます。死を不安に感じていないのは、忙しくてその暇のない人ぐらいなものでしょう。死は人生の結果であると同時に、人生の締め切りでもあります。

 さて、人が人生の目的の達成どころか、人生の意義さえも見出せずにいるなら、果たして一体、死にたいして、いかなる心構えを用意出来ましょうか。死について考える前に、まず生を考えねばなりません。ですが、人は人生の目的を知らずに生まれてくる……心霊的に言えば目的を忘れて生まれてくる……のです。

 だとすれば、人生の当初の目的は、まず、人生の目的を理解出来るだけの精神的な成長であり、その精神活動を支えるだけの肉体的な成長であることでしょう。ついで、人生の意義と目的の模索が始まり、そして、目的の達成に至ります。

 「人生の目的が、目的を知ることだ」というのは、一見矛盾しているかの様ですが、人生が旅にたとえられるのは、まさにこの点といえましょう。旅の目的は、出発前には日常からの脱却であり、出発の後は行く先々で出会う、真新しい物・体験を通じて新たな目的が心の中に育まれて行くものです。

 霊界から見た人生の価値

 霊界から見れば、物理的な世界というのは単純で野蛮で非常に制約が多い世界ですが、制約の多い世界に身を置くからこそ、自由の意味と責任の重さを学べるのです。そして、自由な時には見落とし、疎かにしてきた事々が学ぶチャンスとなるのです。

 ぜひ考えて見てください。人は人生の意義を知らずに生まれ来て、そして人生の意義を模索しながら成長していきます。そんな回りくどく不自由な努力をするのは、果たして霊界では学べぬ素晴らしい叡智を学ぶためでしょうか……いえ、実は、霊界では疎かにしがちな、なにかを学ぶために、人はわざわざ不自由な世界に生まれ来ているのです。

 人は恵まれた環境の中では、何とでも言えるのです。現実の厳しさに絶えられない、夢想的な意見を指して、机上の空論と言いますが、霊界の者たちが、地上に生まれ来るのは、自分の思索が正しいものであるか、それとも机上の空論であるかを試しに来ていると言っても過言ではありません。

 あまりにも自由な世界で、たどり着いた思索の結果が、現実に当て嵌まるものならば、制約の多い物理的な世界においても、上手くいくはずでしょう。それぞれの魂が抱いている、理想が正しいことであるなら、その人は不幸になるはずがありません。

 が……現実には机上の空論に過ぎぬから、人は地上で苦労をせずにはいられないのです。実を言えば地上の来る下の殆どが、だれかしらの独り善がりの結果と言えます。結局の所、独り善がりであることを認めぬ魂が、身のあかしを立てるために地上に生を受け、独り善がりの結果として地上で苦しみを受ける……そういう仕組みが地上には存在するのです。


2006-04-14

 

ニセ予言が生じるわけ

2003/01/05

一般の方々は、霊能者と呼ばれる人に予言の能力を期待いたします。でもそこに往々、落とし穴が口を開けているのです。

 誰にとっての重大事か

 考えても見てください。予言通りに死ぬ人と交通事故や病気で死ぬ人と、果たしてどちらが多いでしょうか?

 ノストラダムスの予言ブームだった頃を思いだしてください。人類の終末は免れましたが、それでも多くの人々がこの世を去ったのです。病気や事故や自殺で……。あなたが恐れるべきは「予言の成就」でしょうか。仮に過去100パーセントの的中率を誇る大預言者がこの世に現れて、『人類は来年滅びる。誰一人として生き残るものはいない』と断言したとします。そんな事が合ったら確かにショックを受けるかもしれませんが……では、あなたは年内には死ぬ事がないと考える事が出来るでしょうか?

 交通事故にもあわず、大病もせず、世を儚《はかな》んで自殺などせずに予言の成就を待つ事が出来るのでしょうか。一般的な意味での予言が、あなたの人生を含んでいるのか、いないのか……あなたの人生を含んでいない予言であれば、それがあなたに何の意味があるのでしょうね?

・ ・ ・ ・ ・

 私が思わず、『世も末だ……』と、つぶやくと、終末予言がらみか、と勘違いされて妙に気を使ったとりなしの意見を頂いたり致します。別に私は、人類の終末を思ってこう呟くのではなく、目先の小さな事件が後に面倒な事に引き起こす前触れである事に気がついて……わかっているのに避けられない運命を歎いているだけなのです。

 誤解を招くような表現にも問題がありますが、でも考えていただきたい。

霊媒の私にとっての重大事とは一体なんであるのか。

 心霊家である私にして見れば、人を犠牲にして豊かになったり、自分が生き残る為に人を犠牲にしたりすれば、後味の悪い人生になる事を知っていますが、それでもとっさの時には人のことなど考える事も無く、まず自分の身を守ろうとするものです。むろん献身的な努力の大切さは、人に教わるまでもないぐらいに重々承知していますが、無謀な人の身代わりになろうなどとも考えません。

 まして、私には志がありますから、わが身を気安く危険に曝す事など思いもよりません。反対に志を棄てて、人に迎合したり、安楽に暮らそうとも思いません。霊媒の私にとっての重大事とは、私が私らしく生きる事、自ら背負ってきた宿命を果たして人生を全うする事であって、他の誰かを幸せにしたり、喜ばせたり、楽しませたりする事ではないのです。

 そう、霊媒である私にとって見れば、人類の終末など待つまでもなく、十分に不幸で、嘆かわしい事はいくらでもあるのです。ですから、仮に私が 『ああ、もう終わりだ。この世とはおさらばだ!!』 と、天を仰いで絶叫したとしても、それはただ私にとっての終わりであって、皆さんの終わりであるとは限らないし、そんな重大な霊的メッセージが私一人に下されるなどとは、心霊を学ぶ皆様には考えて頂きたくないのです。

・ ・ ・ ・ ・

 さて、本題の『ニセ予言』に戻ります。その予言者にとっての重大事とは一体なんでしょう。彼/彼女は、自分の運命よりも皆様の運命を案じる事が出来る偉大な精神の持ち主でしょうか。

 自分が飢える事よりも皆様の飲食を気に掛けられる人でしょうか。自分が着飾る事よりも皆様の衣料に注意を払える人でしょうか。

 大抵の皆様は、予言者というと、その的中率ばかりを気にしがちですが、『あなた』の無事が眼中にあるのかどうか、それこそが一番大切なのです。いくら予言が大当たりでもその結果が、あなたの人生に何ら関わりがないものであれば、その予言はあなたに何の意味や価値があるのでしょうか?

 いえ、あなたの人生に関係があるかどうかよりもむしろ、その予言者以外に関係のある予言であるのか否かをまず考えるべきだとは思いませんか?


霊格を測る

 かつて、とある未亡人に対して、『あなたは家に引きこもりがちだから、車の免許をとると良いですよ。生活に張りが出ます』と、助言した事があります。ところが、この女性、周囲の人々に止められたからと躊躇《ちゅうちょ》しているのです。

『免許を取って、車を買い、保険に入って……とかかるお金でどれだけタクシーに乗れるの?』といわれたのだそうです。

 それをいうなら、確かに車に乗れば事故にあう確率も増えるものですし、家に引きこもっていれば全くお金もかからないわけで、これほど安全で経済的な事はありません。ですが、家に引きこもって暗々と暮らして果たして幸せでしょうか?

 まったく、世の中には、様々な助言者がいますが、有益な助言者というのはなかなか見出し難いものですね。いえ、それよりも重大な事があります。助言者の価値を推し量れない人が、果たして有益な助言を選ぶ事が出来るでしょうか?

 (私の助言が世界で唯一有益であるというつもりなど全くございません。現実問題として、私だって悩めば師匠や他の霊媒、姉弟子達に相談するのですから)

 ですから、この女性に申し上げたのです。『「駄目」というのは簡単ですよね。事故にあえば、「私が注意したのに!」といえるし、無事なら何の問題もないわけですから。でも、安全で長生きすれば幸せという事ではありませんね。まして、「免許を取るな」というのは、安易で何ら建設的ではありませんよね。たとえば、「あなたはおっちょこちょいだから安全運転に気を付けて、出来たらあまり乗らないようにしてね」という話ならば建設的な意見だと思うのです。否定だけなら誰でも出来るし、わざわざ人に聞くまでもありませんよね。』

 私もかつて、様々な人々から、様々な意見を頂きましたが……建設的で思わずうなるような意見をしてくださる方は極めて稀でしかありませんでした。有益でしかも親愛の情を最も示してくださったのが私の先生で、他にも多くの有益な助言者がいらっしゃいますがその多くが最早この世にいらっしゃらない事がとても残念と思います。そして、大半の自称・友人は……全くつまらない助言者でしかありません。

 否定ばかりで、何ら建設的でなく、「自分が都合が悪いから文句を言っているだけではないか……」と思わし得るものだからです。それならばまだ、『私の為に○○してくれないか?』というならば考慮に値しますが、『あなたのためを思っていうのだけど、あなたは○○すべきだ』などといわれては、『やっぱりこいつは自分の都合の為に友情を利用する奴だよな……』と思ってしまいます。

 しかし、心霊を学んでいてもっと卑劣に感じるのは、いかにも親切ぶって、『あなたの為にいうのだけど……』と私欲を丸出しにする人ではありません。『神様のお告げだけれど……』という人です。自分が嫌な事を「神さま」に言わせる。こういう人が自分の言動に責任を持つでしょうか?

 全くつまらない助言者だと思います。ここでいう「つまらない」とは、単に「くだらない」という意味で使っているのではありません。人生には必ずリスクが付きまとい、大きなメリットにはより大きなリスクが付きまとうものですが、リスクを恐れていては何も得られない……そういう意味でのつまらないです。つまり、こういう人の意見に従っていては、人生を無為にしかねないという意味でのつまらなさなのです。

 こういう問題を踏まえて見ると、多くの人の助言が二つに大別できると思います。リスクはあるが面白い助言。そして、リスクは少ないが何の利益もないつまらない助言。そして、人が二つに大別できると同様、死者からの助言も二つに大別できるのです。そして……予言に絞って考えるなら、果たして神たるものが、建設的ではない、まったく、つまらない予言などをするものでしょうか?

 

 世の中には変な予言が多い……こういう話題はキリがないかもしれません。ですから、端的にいえばこういう事なのです。

 霊媒(自称)は、自分が嫌な事、止めて欲しい事を、予言や神さまのお告げとして、口にしていないか?

 霊媒が自ら、「ああ。これは私自身の小言です」と気がつく場合よりは、更にヒステリックに予言やお告げを口にする霊媒の方が多いと思います。上述のように、それはわりと簡単に見分けられます。

 1、非建設的な意見……くだらない。問題外です。

 2、その霊媒・予言者の関心の範囲。……それは予言の範囲を示します。

 私自身、霊媒である事を自認していますが、その私だって、時とすれば他の霊媒に相談する事もあります。しかし、特に自分が嫌な事を『霊の言葉』として表現するような自分に甘い霊媒の助言は、時間の無駄だと思います。

 未だ霊感の発現する前、私がいまだ高校生の頃に、某キリスト教系新興宗教に誘われた事がありました。当時すでにかなり東洋思想に傾倒していましたので、こういう勧誘者のいうことなど幼稚でくだらなく感じたのですが、振り返って見ると、実に良い勉強になっていたと思います。

 理論だてて反論しているのに、相手は一向に非を認めず、いい加減面倒になった時です。『もう約束の時間に間に合わなくなるし、家に帰って考えます』と席を立とうとしたら、「いや、洗礼は早い方が良い」というのです。「天国の事なら、あわてなくたって良いでしょう。それとも、80歳になってから悔い改めたのではイエス様は助けてくれないのですか?」等と反論したのですが、なかなか開放してくれなかった事を覚えています。

 つまり、自分のいう事を聞かせるためには、自分の言葉を「神の言葉である」と偽るのは、霊媒だけではなく、人間一般を支配している原則なのです。この事を良く覚えていてください。心霊研究上の諸問題は、大部分が霊媒の人間性に起因した問題です。ですが、霊媒の人間性に起因する問題というのは、霊媒だけが背負う問題ではなく、霊媒が人間であるからこそ生じる問題なのです。この現実を笑うものは、決して第二の試練を乗り越えることが出来ないのです。

 ああ!、ニセ予言者の害よりももっと身近な問題があります。世の中にはニセ予言者の何千万倍も~~いい加減な助言者がいます。それを見分けるためにも助言者の霊格を判定することは大切で、ニセ予言者を見分けるより有益でしょう。また、神の代弁者はよりも、虎の威を借りて親切ぶるエセ智者もとても多いですよね。


「人類の終末」は誰が思うべきか。

 まず考えて見てください。

 1、 あなたの運命は、一体、誰が責任を持つべきものでしょうか?

 他ならぬ、あなた自身が責任を持つべき事ですね。確かに人々はお互いに大きな影響を及ぼし合いますが、あなた自身の意思が一番大きな要因である事はいうまでもありません。(自分に無責任な人が私のホームページから何を学べるというのでしょう。時間の無駄ですよ)

 2、 人類とは一体、誰の事でしょう?

 いうまでもなく、あなたを含む全ての人々の事ですね。

 3、 では、人類の運命は一体誰が責任を持つべきものでしょうか?

 あなたの運命の責任者があなた自身であるように、人類全体の運命は、あなたを含む全ての人々が責任を負わなければならない事です。

 4、 人類の運命は一人の人間が背負えるものでしょうか?

 果たして一人の人間がどれだけの責任を背負い、そして果たせるというのでしょうか?

 もしも、私が「人類の終末」を予感したとします。ならばまず、『なぜ、私が予感したのか?』を考えます。

1、 神は私に、全人類の責任を押し付けようとしているのか?

2、 神は私に、「人類の罪に巻き込まれるな」と告げているのか?

 ノアは、神から『大洪水が来る』と告げられた時、神の言葉を信じなかった者達を信じさせようと努力したでしょうか? 伝説と言えばそれまでですが、ノアは周囲の冷笑の中に、黙々と長さ130メートル以上もの箱舟を作り上げて難を逃れたのです。神の予言があっても助かるためにはそれほどの努力が必要だというのに……いえ、人類、いや、地上の全生物が絶滅するであろう大災害に備えるのに、その程度の努力だけで済んだのは、むしろ幸いとはいえますまいか。

 もしも現代人類が滅びるかもしれない大災害が起こるとしたら、あなたが為さねばならない努力は果たしてどれほどの物となるでしょう。自前の核シェルターを用意できる金持ちや、原子力潜水艦の乗組員たちよりも安全な環境をあなたはどうやって手に入れるのでしょう?

終末予言……?

 そんなもの受け取っても、私は嬉しくありませんねぇ~。その情報を活用するのは、人並みの才能や努力では足りそうにありませんから。

サーバーエラーを予言した!?


 私事、当老神心霊研究所で借りているレンタルサーバーが2004年7月28日にダウンしました。前夜、虫が知らせてあわてて掲示板のデータなどはバックアップを取ったのですが、所詮は泥縄、ブログ関係のデータが一部失われてしまいました。幸い、読者の中にわざわざダウンロードして読んでくれていた方がいるので、おおよそリストア出来ましたし、ちょうど良い機会ということで、ホームページのメンテナンスに取り組みはじめ、その結果がこのページにも反映されております。
 さて、この体験が示すことは重要です。サーバーダウンを予見しても、バックアップの技術が足りなければ難は免れないのです。災難は必然の結果……予言に果たしてどれだけの価値があるだろうか。そう思います。
 いえ、一切の予言が無効と思うわけではありません。相応に役立つ事も体験してはおります。ただ大切なのは、避けがたい難も多いということです。それを忘れて予言を求めることのナンセンスさを考えて頂きたいのです。


2003年01月05日作成

2004年08月08日補足

予言について

2003/01/03

……予言に関する原稿を書こうとした時に、突然盧氏からメッセージを得ました。……

Q 『予言について』

 不安が人を不明(盲目)にする――人はなぜ、予言を信じるのか……不安を紛らわせるためである。

何ゆえ予言が悪いのか……現実に対して人を盲目にするからである。

Q 『予言はありえないのか?』

 不要である――私は予言を知らぬ。そのようなものが必要とも思わぬ。高級霊が人類を導くために故意にその智慧を示す事は考えられぬ事は無い。だが、現代に予言は不要である。むしろ悪しき物といって良い。

 人々の霊的向上を目指すのであれば、大切な事は人類の自主性を尊重する事である。霊界が為すべき事は、親愛の情を示す事であり、包容力を示す事であり、決して甘やかせる事ではない。

 今、「予言」という言葉を聞いて、一体誰が振り向くのか。安易な手段で豊かさを得ようとする者、自己の地位の向上を測ろうとする者……ただの好奇心の場合もあるが、予言が果たして、いかなる霊的向上の助けになるのか。努力には関心のない者、努力とは縁のない者ばかりが盛んに予言に吸い寄せられる。

 かつて霊界は、人々の精神性への回帰を促すために大規模な働きかけを行ったという。その結果に何を得たのか。

 熱心な探求者……しかり。 だがそれだけではない。

……霊界のプロジェクトの成果について反論が合った。『決して無益では無かった』と……

 強引な方法は必ず反動を引き起こすものである。人類の物質的文化の劇的な向上は遥かな過去よりわかっていた事である。それに対してもっと緩やかに自然な形での働きかけが出来なかったのか。

 確かに急速な生活環境の変化は多くの人々を惑わせた。だが、その迷いこそが人々にとって苦悩の原因だと気がついた多くの人々は、自ら進んで仏家の思想に帰依した。果たして死者達は、生きている者達に叡智を授ける必要があったのか?

 それは先見性の足りぬ景教(キリスト教)の都合によるものであろう。

Q 『私個人は、スピリチュアリズム運動そのものは理解しても、あまり有意義とは思えない結果を数多く見ている。だが、果たして日本人にとってスピリチュアリズム運動は無駄な事だろうか』

 私は心霊思想の普及に価値を見出す者である。だからこそ、この霊界通信に手を貸した。だがひつとだけ釘を差さねばなるまい。

 己の善良さのみを杖とせよ。他(霊界)の援助を担保として物事を安受け合いするな。多くの仏家は、仏の加護を口にして人々を信頼を騙し獲た。偽善である。あなたが人々に与え得るのはあなたの持ち物だけである。仏家2500年の過ちを繰り返してはならぬ。

 他者の叡智にわが身の運命を預けてはならぬ。それは自身の放棄であり、何らあなたの霊的向上には結びつかぬ。自らの叡智に、自らの運命を委ねてこそ、その困難があなたの向上につながるのである。

 予言……くだらぬ。霊的助言……くだらぬ。自覚せよ。あなたの努力なくして、あなたはいかなる生き方が出来るのか。努力の方法がわからぬからと言つて他者に己の運命を委ねるな。それは自分を棄てる事に繋がる。我が身、我が運命を捨て去る者が、いかなる助けを得ると言うのか。いかなる助けを得られたとしても、自らを棄てたものが、自覚を得る事はないのである。

 人生をはかなみ、不満を口にする。自身の価値を見失った者が,いかなる存在に大切にされるというのか。自分の価値さえも知る事の出来ぬ愚か者に、誰が価値を見出すと言うのか。助けを求める者は救われよう。だが、自らの不満に溺れる者が誰に救われるというのであろう。

 人智を超えた「神」なるものがいるとせよ、己の価値を知らぬ者がその道具に用いられる事はあり得ぬ事である。私は予言を知らぬが、己の価値を知らずに大事を為した例も知らぬ。そも、他人の誰よりも身近な自分を知る事の無い愚か者が、一体誰を知るのか。誰に自分を知ってもらうというのか。

 霊界の叡智で救われうる者などおらぬ。いるのはただ、霊界の叡智等を利用して自らを救う者だけである。自らを救わぬ者は、いかなる救いもその魂に届く事が無いのである。

(2003年1月2日)


対人関係 2

2003/01/01

 智者は知る事を秘する。どこまで知識を得ようと、それは究極への道程に過ぎぬ事を知るから。しかし、愚か者は、自分の知る事の全てをさらけ出して自らを誇る。知識が乏しき者を愚かというのではない。己を知らぬ者を愚か者というのである。


…… だいぶ以前に受けた質問ですが、諸般の事情から今の公開になりました……

Q 『「身内争いについて」の質問を受けた。漠然として掴みにくいが答えられる事があればお願いしたい。』 

 双方の未熟さ――身内争いの問題は、この一言に尽きる。そして私が論じたいのはこの一点である。人に依存している限り人間関係の生み出すそれぞれの苦しみから、人は逃れる事が出来ないと。

 互いに未熟である事を認められぬから人にただ頼り、依存するから相手の未熟さが自分の苦しみとなって跳ね返る。もしも相手に何も望まぬのであれば、その相手から苦しみを受ける事もない。黙って別離の道を歩めばよいのである。

 とはいえ、なるほど血縁者が相手であれば、容易に別離は選べまい。だがこうも考えられる。そのような血縁者とともに地上に生きることにはいかなる意味や価値があるのかと。

 持って生まれた肉体然り、家の財産然り、血縁者の人格然り、それは総て地上にうまれてくるに当たって、その個人に与えられた試練の一部である。人はその試練を免れる事は出来ない。その試練を乗り越えた者だけが、堂々と死を迎え、死を恐れることが無い。

 しかし、与えられた試練のただ一つの課題だけでも、解決を逸して死を迎えたならば、その人は死を恐れる。なぜなら、その人の境涯は自ら解決で消えぬ困苦を抱える事になるからだ。

 もしも地上の課題がこなせぬなら、どうして死後の課題がこなせよう。人々は共に生きることの大切さを学ぶとともに、自立した魂を鍛えさせられる。孤独は辛く、人間関係は難しいものなのだ。

 争う同士の共通利――身内同士というのは、本来共通の利害を有する者である。それが争うのは、多くの場合、共通の利害を見失っているからである。そして、人間関係が生み出す苦しみには、相互依存の心がある。

 人は死を免れられぬ。互いに依存しあい、依存しあうがゆえに苦しめあうのは、互いに生きているからである。しかし、いずれは死別の時を迎える。死別の後は一体誰に依存心を向ければよいのか、身内には許された甘えを、他人が果たして許すものか。身内との争い事は、未来の基盤を食い荒らす事に通じる。

 しかし、知って行う者は導き易い、知らずに行う者には手取り足取りの指導が必要である。無知なる者を導くなら、最後まで導く覚悟が必要である。それが無い者は偽善者と呼ばれよう。

Q 『質問はどうも「親子関係の仲裁について」ということらしいのです。』

 悪意の発生――悪意は邪まな心よりも、むしろ思いを遂げられぬの事から生じる。外から見ればどれほど悪辣な出来事が身内で行われていようと、血縁者同士の真情は、他人には計りがたく理解も難しい。度を過ぎた子供の甘えも親心には甘美な麻薬であることも多い。成長した子供を頼もしく思える親よりも、子供の成長を寂しく思う親が多いものだ。このような思い違いは、時代が豊かになるほど散見される事である。

 この親子の歪んだ絆を理解しないまま仲裁しようとすると、その絆に絡め取られる。他人が口出しするまでは、世間がどう思おうと当事者同士ではうまく行っていた関係が、周囲を巻き込んで憎悪の渦を生み出す事もある。

 仲裁というのは、そも総ての関係者がより幸せになることを目指すものである。甘える事、甘えられる事に沈溺する者に道理を説いても疎まれるだけ、酔者に飲酒の害は理解できぬ。現実の幸せを与える事が出来ぬ限り人々は酔夢に浸りたがる。いや、現実の厳しさに耐えられぬ人に現実を見せてなんとなろう。それは偽善であるのか、または、甘えに沈溺する者への嫉妬であるか。いずれにせよ善意のつもりで悪意を生み出すのは、避けねばならない。

 無思慮・近視眼――人はそも、幸せへの最短距離を歩まされている。最短とはいえ、なお長く感じ、待ちきれぬ者も多い。更に近道を求めて隘路に迷い込むのが人である。

 酔者に飲酒の害は説けぬものだ。説教したければ二日酔いの朝が良い。しかし、いくら説教しても飲酒の害は免れられぬ。問題は飲酒ではなく、飲酒に追い込む他の問題があるからだ。真の問題を直視する、その覚悟が生まれるまで酔者を救う事は出来ぬ。

 眼前の悲劇を救うのではない、眼前の悲劇に救われるのだ。人の過誤は、指摘して正す事が容易であるが、人の未熟さを導く事は容易ではない。導こうとして導けなかった時、自分の未熟さに気がつくならば、自分も相手も成長するだろう。だが、導けぬもどかしさから怒りや憎しみを育てるようでは、いつまでたっても未熟さを克服できない。

 ただ、幸せな境遇にあるから悪事を行わずに済んでいるだけの傲慢な魂といわれても仕方がない事である。


 個人宛てへの回答

 もう一つ問題があろう。当事者も未熟であるが、質問者も未熟である。どちらも自分では理解できない事柄に理解できぬまま取り組もうとして意味を取り違えている。我が子のよからぬ事を拒絶できない親を一体誰が救い得るのか。ただ(親の)自覚のみが、この親を救えるのである。


Q 『「酔者に飲酒の害は説けぬ」というのは、非常に面白い表現です。確かに心霊相談の中で往々にしてこういう事例につき当たりました。』

 自分を偽りながら生きようとするものはとても多い。自分の幻想だけでは現実に立ち向かえぬからと言つて、人まで巻き込んで幻想を育てようとする。

……別な霊から割り込まれる……

 霊界というのは、人々の想念が集まった世界です。しかし、近代において、他者と想念を共有できる人々がどんどん減っています。まるで自分達の世界に閉じこもっていくかのように。

 原始、一つの大きな想念を共有していた霊界は、いま、個人(独我)という小さな気泡を放ちながらどんどん縮小しています。まるで、朝露が朝日の昇るに連れて消えて行くかのように。それは決して、個我の成長ではありません。個我の変質です。私達の世界はゆっくりと消滅の危機に曝されています。

……盧氏……

 永遠に見る事の出来る夢など無い。妄想に没頭するものほど辛い現実が待ちうけているものである。妄想の害など思う間もない。あなたは自らの心を守らねばならぬ。(人のことよりもまず自分を案じよ……というニュアンス)

 地上の人の使命は、己を知る事である。それは決して簡単な事ではない。なぜなら、人は肉体という鈍重な衣に包まれ、隠されているからである。人は我が身を縛る呪縛を侮る。しかし、人はその呪縛ゆえに地上に生まれ変わるのである。

 いち早く、己を縛る呪縛に気がついた者こそが自由を勝ち得る。しかし人々は呪縛に絡め獲られていながら自由を妄想する。幻想こそが苦しみの根源である。見よ、人は何故に苦しむのか。現実の苦しみよりも、不安や不信こそが人の心を責め苛んでいるのが現実なのである。

 人はただ、現実さえ見るのであれば、苦しみはわずかであるし、迷いも少ないものである。理想と妄想の区別もつかぬものが苦しむのは、自業自得である。霊界は揮発するという。良き事である。妄想に負けるような現実などは消えて無くなれば良いのである。

(2002年12月31日)


 自分を偽りながら生きようとするものはとても多い。自分の幻想だけでは現実に立ち向かえぬからと言つて、人まで巻き込んで幻想を育てようとする。

……別な霊から割り込まれる……

 霊界というのは、人々の想念が集まった世界です。しかし、近代において、他者と想念を共有できる人々がどんどん減っています。まるで自分達の世界に閉じこもっていくかのように。

 原始、一つの大きな想念を共有していた霊界は、いま、個人(独我)という小さな気泡を放ちながらどんどん縮小しています。まるで、朝露が朝日の昇るに連れて消えて行くかのように。それは決して、個我の成長ではありません。個我の変質です。私達の世界はゆっくりと消滅の危機に曝されています。

……盧氏……

 永遠に見る事の出来る夢など無い。妄想に没頭するものほど辛い現実が待ちうけているものである。妄想の害など思う間もない。あなたは自らの心を守らねばならぬ。(人のことよりもまず自分を案じよ……というニュアンス)

 地上の人の使命は、己を知る事である。それは決して簡単な事ではない。なぜなら、人は肉体という鈍重な衣に包まれ、隠されているからである。人は我が身を縛る呪縛を侮る。しかし、人はその呪縛ゆえに地上に生まれ変わるのである。

 いち早く、己を縛る呪縛に気がついた者こそが自由を勝ち得る。しかし人々は呪縛に絡め獲られていながら自由を妄想する。幻想こそが苦しみの根源である。見よ、人は何故に苦しむのか。現実の苦しみよりも、不安や不信こそが人の心を責め苛んでいるのが現実なのである。

 人はただ、現実さえ見るのであれば、苦しみはわずかであるし、迷いも少ないものである。理想と妄想の区別もつかぬものが苦しむのは、自業自得である。霊界は揮発するという。良き事である。妄想に負けるような現実などは消えて無くなれば良いのである。

(2002年12月31日)


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