‘2002/12’ カテゴリーのアーカイブ

心霊研究とは

2002/12/24

心霊研究(Physical Research)とは

2002年12月24日

 心霊研究を自称される方の中には、「怪談の収集家」等もいらっしゃいますが、もともとは単なる死後の個性存続の肯定論であった「スピリチュアリズム  (spiritualism) 」が、死後の個性存続を前提とした人生論を発達させ、宗教化への道をたどる一方で、心霊現象を科学的に研究しようという形で発達したのが、心霊研究 (Physical Research) です。

 なお、当ホームページで、「心霊研究」という場合は、心霊相談への回答をよりよく理解するための背景的な知識、霊能者が低級霊にだまされたり、思い込みによる誤解を避けるための知識、または、通俗的な心霊知識や宗教的解釈の検証、そして、いずれ迎える死への準備といった事柄の考察が主なるテーマとなります。


心霊研究の障害

(再掲載:2006-04-14)

 心霊研究の最大の障害は、その観察手段として、科学的な測定器が実在しないことです。必然的に、体験談や霊能者の感覚を頼りに研究を進めることになります。しかし、人間は、主観によって感覚を捻じ曲げる事があります。霊能者の視点も、主観の影響を受けざるを得ません。

 もうひとつの問題は、つい自分の研究に熱中するあまり、心霊研究には霊界の協力が不可欠であることを心霊研究家が忘れてしまいがちな事です。そのために、心霊現象が再現できない……実験に応じられる優秀な霊媒がいない、等々を愚痴り始める場合が多いようです。

 本来、19世紀から20世紀初頭の心霊ブーム等は、科学万能主義、資本主義、合理主義などの、人間らしさを阻害するような思想の台頭を抑え、精神面にも関心を持たせたいという霊界の意思から始まったものです。

 残念ながら、心霊ブームは、心の問題を大切にする人よりも、現世利益に結びつけようとする人々により熱狂的に迎えられました。それゆえに、今ではあまり霊界も霊の実在を証明することに熱心ではありません。信じる者に応える事を最優先としているかのようです。ですから心霊研究を志す人は、真摯にそして静かに研究なさる必要があります。そして、何よりも目的を見失ってはならないと思います。

 大切な事は、大宇宙の真理の探究ではなく、より善い人間として生きる事なのですから。私たちの善良さが独善とならぬようにする為に私たちは大宇宙の真理を解き明かす必要があるのです。


必要なのは証しか、智慧か

最終更新日 2002年01月20日

 身体が丈夫なうちには、心霊を否定しながら、いざ難病の告知を受けたとたんに心霊に関心を持たれる方がいます。心霊は人を幸せにする知識の宝庫であり、その知識を生かす為には「不滅の魂・永遠の生」という「事実」を受け入れる事が大前提となりますが、わたしはことさら、霊界の実在を主張する必要を感じてはいません。

 私たちが生きているこの現世。死に直面して「現世(うつしよ)は夢幻のごとし」という人もいますが、大抵の人は、無条件に現世の存在が、確実で疑いの無いものと考えているようです。

 しかし、現世を「確実」と感じるのは人の心・意識であり、意識には多くの錯覚が伴うものです。心霊現象の多くも錯覚と説明できる場合が多いですね。また、この世の事柄は意のままにならず、貯えた財産や愛する家族ですら、災害や気まぐれによって失われる事もあります。となると、現世は確実に存在するという事に何か意味があるのでしょうか。そこにあるのは「意味」ではなく、他の事を考える余地や、その存在のあり方に疑問を持つゆとりも無いほどの、忙しさや居心地の悪さではないでしょうか。

 霊界や想念の世界は確かに存在します。そしてそれは、一人一人の心にいつも訴えかけています。しかし、多くの人は現世に流されるばかりで、流される事が存在の証明であると勘違いしているのです。だから霊現象や神秘体験などといった、想念の世界に流されて初めて霊界の存在を信じる事になります。でも、流されて居場所が無いような霊界に果たして魂の置き所があるでしょうか。それはちょうど、幸運に恵まれた人が、夢ではないかと疑って自分の頬《ほほ》を抓《つね》るようなものです。苦痛を感じずにはその実感が得られないというのは不幸な事です。

 現世も、そして、霊界ももっと素直に理解すべきです。それは自分の魂の置き所なのですから、必要なのははっきりとした存在感ではなく、居心地の良さと労りあえる仲間の存在の筈なのです。

 わたしがオカルト信者や、心霊議論を嫌うのは、霊の世界がわたしの魂の置き場であるからなのです。考えて見てください。住まいに必要なのは、住み心地をよくする努力であって、理論や議論はインテリアコーディネーターや、建築家たちに任せるべきです。そして、霊界を設計・建築するのは……一体、誰なのでしょうか。

 趣味で理論研究をなさったり、議論をなさる事まで止めはしません。また、親しい者との死別や、死に直面すれば、真摯に死後の実在を感じたいと願うのも、人として当然の情でしょう。 しかし、いくら霊界の実在を信じても、霊界の住人から受け入れ難い想念を持ち、魂の牢獄に封じ込められたり、ただ外部の想念に振り回されるだけであるなら、信じる事に何の意味がありましょうか。必要なのは、感じ、そして、参加する事なのです。そこに行き着かない限り、信じる事も信じない事も大差はありません。その知識からあなたが得るものは単なる先入観念のみなのですから。


 端的に言えば・・・

2009-12-27

 心霊実在の証拠をすべての人にわからしめる努力よりも、信じる者への努力を優先したい、ということです。


霊とは何か

(再掲載:2006-04-14)

魂は不可知ではない

 世の心霊談義をみていると、霊や魂の具体的な定義もないままに、その有無を論じています。一体、定義もないものの存在を論じるというのは、感情論とどう違うというのでしょうか?

 たとえば、「精神活動の源を魂と呼ぶ」という定義ならば、死後の個性存続の肯定派も、超常現象の肯定・否定派の双方とも、魂を否定はしない事でしょう。

 問題なのは魂の有無ではなく、その魂にいかなる可能性、いかなる行動力があるかということなのです。

肉体と魂の関係

人間の本質は魂である。 人間の中核に霊がある。

 この二点は、確かであっても、人間の主導権を握っているのは必ずしも霊魂とは限りません。むしろ思考機械としての部分の方が人間にはより大きな影響を持っているのです。

 「魂」には、胃もありませんし、性器もありません。ですから「食欲」も「性欲」も本来、魂にはあるはずの無いものなのです。しかし、人間の意思決定には、食欲も大切ですし、疲労や眠気をきちんと認識する必要があります。いえ、認識するも何も、私たちの心の中では理性よりもむしろ、これら生理的な欲求が支配権を握っているといっても過言では無いでしょう。

 そして、多くの人々は肉体の発する信号ばかりを自己と認識し、創造力などの源である魂の意向を無視しがちなのです。そして、自分の魂に活躍の場を与えない人が、自分や他の魂を軽視するという悪循環をもたらすのですね。

 また、人の死によって、その魂は損なわれないものですが、思考機械としての部分は肉体と共に滅びますから、死は精神性の変化をもたらすのが本来の形です。ですから、人が老いて、肉体が不自由になるという事は、逆に言えば、肉体の影響を排し、精神性への回帰を促す摂理ともいえます。

 しかし、幸か不幸か、魂というのは人間の本質の究極的な形態ではなく、「幽体」と呼ばれる、物質的な肉体と魂を繋ぐ媒体や、死後の魂の道具となる「霊体」等も、肉体同様に魂に影響を与えるものなのです。そしてこれが、霊界に階層を生み出す原因ともなっています。


霊を考える

2002年01月17日


 

 絵の具を塗りたくった一枚の紙を見て、それが絵であるか、筆に余った絵の具を擦り取った紙であるか、科学がどう証明出来るというのでしょうか。たとえそれが偶然の産物であれ、それに美術的な価値を見出す者がいるとしたら、それでも科学は絵ではないと証明出来るでしょうか。

 私の研究対象の心霊とは、この喩えでいうと、「なぜ多くの人々がそれを『絵』と感じるのか……」という事なのです。つまり、霊が、人間の観念の産物なのか、実在なのかは別として、ともかくそこには霊と呼ばれる存在がいる事は確かなのですから。その存在の有無を論じるのは愚かな話としか言いようがありません。

 実のある論議といえるのは、霊の存在の有無ではなく、霊が「観念」か「実在」かの判定なのです。

 もう少し考えてみましょう。心理学という社会的に認知された学問があります。だれもが心の存在に疑問を投げかけはしませんが、心を具体的に測定する手段が存在するわけではありません。だれもが自分の心に確信を持っているから、心の存在に疑問を持たないだけなのです。

 同様に、人間が認識する「」、又は、「魂」の正体が、心の働きの一部であるとしても……、そして心の存在を無視して生活する事が難しい一方で、霊魂の存在を無視しても生活に何の支障がないとしても……、現にそこには、応用技術が存在するのです。その応用技術者が、霊能者であると考える事が出来ます。

 そして、他の霊を認識する事はだれにでも出来る事ではありませんが、心霊の知識は、霊能者以外に応用方法が無いわけではありません。自分に内在する霊性に気がつけば、霊能者が第三者に行うような応用技術を、自分自身に応用する事が出来るのです。

 多くの人々は、冷静な第三者にはっきりと証明や説明が出来ないままに、単なる錯覚として片付けたくない、不可思議な経験を持っているものです。そのささやかで不可思議な体験を、ムリに論理的に、または感情的に第三者に論ずるよりも、あるがままを受け止めるほうが良くはありませんか。

 子供の頃には理解できなかった事柄が、大人になって分かる事は多いものです。特に、感傷的な事柄は……たとえあなたが死後の個性存続を信じて、死をまったく恐れないとしても、死は大切な人との別離の時でもあります。「死の時」が現実的に思えるようになればなるほど、死後の世界の実在の有無以上に大切な事が、あなたの心を占めるかもしれないのですから。

  •  死後の世界がある……それであなたは幸せですか?
  •  死後の世界が無い……それであなたは幸せですか?

 死後の個性存続の有無を単に証明したいというなら、死んで見れば分かる事です。でも生きている今、わざわざ研究するのは、人生が単純に生と死とで割り切れないからなのです。


霊界を考える

最終更新日 2002年01月17日

 肉体の有無・制約は、表現方法の変化をもたらしますが、表現の方法が変わっても人間の本質は変わりません。

 仮にあなたの親が老人性の痴呆症にかかり、世話に手が焼けるようになったとしても、壊れた家電製品を捨てるように、あなたは親を棄てたりはしません。病気や怪我、又は、老化によって上手に自己表現が出来なくなっても、人間にとって親は、自己表現方法の有無に関わらず、親なのです。いえ、死別してもなお、親である事には違いがありませんね。そして、心理学的に合理的な説明があったとしても、死別したはず人の意志を、多くの人が感じているのです。

 人々は、死んでもなお互いに結びつきあい、互いに依存しあうから。ですから、いわゆる霊魂が、観念であるか、実存であるかは棚上げして、霊界も存在するのです。

 現実には、親子といえども殺し合い、また、棄てる者もいるのですが、それは親子関係は真理や法則によって支配されているのではなく、人間の情によって支配されているという事の証でもあります。その情の行き着いた先が、生死によって人間の本質が変わる事が無いという信念であると考えて見てください。

 死後の世界の存在は、確かに非科学的かもしれませんが、否定的な証拠が無いのに死後の世界を否定するのは、「非人道的」とは言えないでしょうか。情は証拠にはなりませんが、情を否定したら死後の世界は必然性を失うのです。そこには個人がただあるだけになるでしょう。

 つまり、たとえあなたの意識が、肉体の死後にも存続したとしても、あなたが他の霊魂との精神的なつながりを否定したら、ただわが魂だけしか感じる事の無い孤独の中に存在を続ける事になるのです。

 魂と魂のつながりこそが霊界の意味なのです。ですから、人と霊界は決して不可分ではありません。便宜上、この世とあの世(霊界)と分ける事があっても、人は肉体の有無に関わりなく、霊界に属しているのです。霊魂との精神的なつながりを信じている限りにおいて。

 ……信じる限りにおいて存在する。

 それはまるで、おとぎ話に出てくる妖精の国のようなフレーズですが……

 決して煙に巻くための方便ではありません。物質的な制約さえなければ、人の心はどこまでも自由になります。しかし、自由であるということは同時に、他との関係を結ぶ必然性が希薄であるということでもあります。簡単に言えば、自由とは他を必要としないことを意味するわけです。

 地上においては、必然的に他の存在と関係を結ばなければならないがゆえに、現実や他の意思を無視して生きることは出来ません。ですが、物質的な制約が無い、自由な存在となったら、現実も他の意思も、その一切を無視して生きることが出来ます。

 誰でもたった一人の王国の王様と奴隷に同時になり得るわけです。そして人はより普遍的な価値観を他と共有できない限り、自身の了見の狭さに閉じ込められてしまいます。

 心霊を学ぶ者も、霊界通信も独善性を極度に嫌います。その訳は、独善的な価値判断の持ち主は自分の王国の中でしか暮らせず、他と軋轢を生じて和解しないからなのです。

 低級霊や自縛霊、または悪霊といった他に迷惑を及ぼす霊魂の共通する要素は、この独善性にあります。


寂しさの克服

2002/12/10

Q 『寂しさを苦にする人は多い。意思の交流の難しさも底にあるなら、寂しさを克服する智慧はとても価値があると思う。』

 弱さが寂しさの原因――間違ってはならぬ。人は寂しい時に他の優しさを求める。しかし、人が寂しさを感じるのは、自らの弱さに気がついたときである。人に癒しを求める事にはウソがあり、葛藤がある。

 人は自らの心が慈悲に満ち溢れている時、初めて他人を理解できる。ゆとりが無ければ相手の都合や相手の意思が、己の心のささくれに痛く感じるものだからだ。だから、寂しさの中で人を感じることは出来ぬ。ただ、寂しさという圧力に屈して、現実と妥協しているだけである。それは錯覚と呼んで差し支えない。

 寂しいからといって理解者を求める者が本当の理解者を得ることは無い。見えざるウソや葛藤がゆとりを得た時に必ず騒ぎ出す。それは、相手に問題があるのではなく、寂しさに歪んだ心が生んだ錯覚や妥協の清算である。寂しい時には耐えていた……わがままや独りよがりを止められなくなるのである。

 間違ってはならぬ、寂しさに苦しむのは不遇なのではない。魂の試練なのである。他人のやさしさに甘えて、安易に寂しさを癒してはならぬ。そのような怠惰には、誤解と落胆が待っている。寂しさにつらい時には、ひたすら寂しさの苦しみを学ばねばならぬ。一体、どのように他人に接して貰いたいのか……寂しさの中にあって自分が望むものは、そのまま寂しき人々を助ける手段となる。

 癒し方が判らぬまま、癒しを与えられても、それは客として招かれたに等しい。客人は主人の都合で追い出されもする。癒し方が判らぬまま追い出されたら、あなたは途方に呉れるしかあるまい。嫌われる事を恐れていれば卑屈になり、嫌われて途方に呉れれば、刹那に溝を深めるような行為にも走る。癒しを人に求めればこそ、卑屈になり、自堕落にもなるのは、人の優しさは寂しさの解決ではないという証しである。それは明らかに袋小路なのだ。真の解決方法は、自らを鍛える事にある。自らが人を癒せるほどの慈悲を得て、初めて人は寂しさから卒業できるのである。

(2002年12月09日)


霊媒の義務

2002/12/10

Q 『霊媒に対して人々は様々な期待を抱いています。霊界と人々との間に入って、私たちは何を心掛けるべきでしょう?』

 この回答は盧氏以外から回答がありました。セリフ中に括弧で括ったのはニュアンスとして受け取った部分です。……
 品良く、そして丁寧に、深々と頭を下げる男性の霊が見えます。

A 「あなたは、天(不可知なもの全般)に対しては謙虚に、人(他)に対しては親切に生きるべきです。」

Q 『……?(質問の趣旨とは異なる回答に戸惑う)』

A 「あなたはただ、天に対しては謙虚に、人に対しては親切に生きるべきです。そして、人々に何かを求められたら、『あなたは天に対しては謙虚に、人に対しては親切であるように勤めなさい』と、答えればよろしいのです。皆が天に対して謙虚であれば、世に不安が広がる事も無く、皆が人に対して親切であれば、世の中の憎しみが減っていきます。」

Q 『あっ……!』

A 「私が見ておりますと、あなたが心霊相談を受けて対応に苦慮する人々は、天に無理を言おうとし、自分は親切なつもりでも思慮の浅い人である事が多いのです。ですから、あなたは、霊媒であると気負うことなく、ただ、天に対しては謙虚に、人に対しては親切であるように心掛けるのです。その心掛けがあなたの言動からにじみ出るようになれば、おのずと無理な質問に苦しむ事も減るでしょう。あなたは、
いえ、あなた方は無用な気負いで自ら苦しんでいらっしゃいます。」

同様の問題を、盧氏からも返答いただきました。

Q 『霊媒にとって背後霊団の獲得はとても大切です。霊界の援助、志の賛同者を得る為に心掛けるべきは何でしょうか。』

 自覚が大切である――人々の為に働くというのは容易ではない。人の為に働けば、往々に自分の務めがおろそかになる。それは善行とはいえない。善事よりも悪事の方が多いからである。自分の務めを果たしてなお、その余力を人々に向けて初めて善行と呼べる。

 その意味で、もしもあなたが人助けを志すなら、確かに多くの霊達の助けを得られよう。だが、それが果たして大切な事であろうか。そうして得た背後霊の意図に埋没して、あなたは自分を見失わずに済むだろうか。

 人々の意思と力の焦点になること。それは決して容易な仕事ではない。背後霊団・霊界における心霊作業の協力者を得ることよりも、あなたがその援助を正しく世の中に引き出す事が、本当に大切な事である。

 私などが見回したところ、適切な霊媒がいれば顕幽交通に携わりたいと思う霊は多い。問題はこの適切な霊媒という意味である。力を望むものは多い。しかし、その力に押しつぶされない強さを持つ者は少ない。

(2002年12月09日)


意思の交流

2002/12/10

Q 『対人関係において、意思の交流の難しさを感じる。』

 慈悲――様々な理由もある。しかし、何より心掛けていただきたいのは慈悲である。人は、飢えて居る時には、真っ先に自分の飢えを満たそうとするものである。同じように飢えている人々に先を譲る事は難しくてあたりまえある。気がつけばわれ先に飢えを満たすことばかり考えて、一人で口を動かしている。人々の意思の交流も似たようなものがある。心を飢えを満たすために必死に口を動かし、聞く者への気配りが無い。互いに慈悲が無いのである。

 相手に慈悲を求め、自らの稚拙な言葉を黙って聞くように求める者は、飢えた獣が獲物にむさぼりつくのに等しい。腹が膨れるまで黙って食われていよと言うのか。人々は慈悲を忘れた者を見下す。対話の姿勢が醜き者は、同情はされても共感は去れぬ。少なくとも慈悲慈愛を持ち合わせた人々からは共感されぬ。

 雄弁を誇る者も霊界から見ていると、飢えを満たすのに忙しく口を動かしているように見える。沈黙こそが雄弁に事実を物語る事もあれば、言葉はただ誤解を産むだけのこともあるのに、飢えたる者は口をつぐむ事が出来ない。このような者にとって、美句麗言は人々への贈り物ではなく、飢えた心に獲物を運ぶハシのようなものである。美句麗言で獲物を掴み獲物を屠るのである。

 智者とは沈黙をもって人々の心に語りかけられる者をいう。自己顕示欲の奴隷となった者はなるほど美句麗言を知っていようが、正しくそれを用いる事はめったに無い。

 聴者にひれ伏せ――話すというのは「相手に言葉を贈るのだ」と思っていよう。否である。話すのは、相手に理解を請うているのである。話者は、聴者にひれ伏し、礼を尽くして理解を押し頂かねばならぬ。これは、師から弟子に対しても同様である。親から子に対しても同様である。言葉を与えるなどと傲慢な態度で対話に臨めば、誤解という名の罰を受けよう。師が、親が、礼節を持って弟子や我が子に接した時に、聴者に尊敬の念が生じ、善良なる理解が得られる。反対に聴者に軽蔑の念をもたれたら理解にゆがみが生じるであろう。話しは与えるものではない。理解を頂くのである。

 思考せよ――人々は身についた贅沢を恥じるというのに、言葉の贅肉は恥じぬ。愚かであるから無駄な言葉をつかい、顕示欲を抑えられぬから、華美な言葉をえらぶ。これらは皆、言葉の贅肉である。

 賢者は沈黙を持って雄弁に代える。余計な言葉は聴者の理解の助けになるより、むしろ、聴者の頭の働きを散漫にする。良い師は、往々にして、教える代わりに、一つの疑念を言葉にする。師が教えるべきは知識ではない。事実に面してどう頭を働かせるかということなのだ。知識を与えることは考える事をおろそかにする。そして、知識は本からでも学べる。しかし、頭の使い方は生きている師こそがふさわしい。

 本に書かれていることをわざわざ語り合う。そこに思考の輝きは無い。霊界ではありふれている心の輝きが、地上の会話には見られない。我らは人々の会話に興味を抱かぬ。であるから、我らは、人々の会話の円滑なる事を守護しない。吾らが守護するのは思考の輝きがいや増すことである。知的とは知識的ではなく知能的の意味である。対話に当たっては知識に頼らず、各々の心の働きを大切にせよ。

 本に書いてある事を一々話すな、本に書くべきことを一々話すな。対話とは互いの言葉を楽しむのではない。互いの心の働きを楽しむのである。

 自覚せよ――自覚せよ。あなたは言葉を楽しみたいのか、それとも、心の交流を楽しみたいのか。それとも自らの心の寂しさを癒したいだけなのか。言葉を楽しむのは智慧にあらず。そして、自らの心を癒して他に与えぬのは強盗と同じである。強盗に合って喜ぶ者はいまい。慈悲を持ち、そして、思考せよ。それでももし分かり合えぬなら、時間を無駄にせず勉学に励め。愚か者よりも良書に親しむ方がよほど心を豊かにするからだ。

(2002年12月09日)


対人関係 1

2002/12/10

Q 『相談回答時に時々、名状し難い感覚での拒絶を感じる。背後達が質問者を嫌っている事は理解するが、拒絶の理由を詳しく説明願いたい』

 基礎不足――あなたは、穴の空いた器に水を注ぐ事を拒むという。なるほど無駄になる事に努力したくないのは、当たり前の事ではある。あなたが、人々に自明な理由で相談を断る事があるように、私たちもやはり自明な理由で相談を拒む。その第一の原因は、基礎の不足である。

 私たちが与えた物を、使いこなせぬのはまだ良い。私たちの仕事が無駄になっても、求めて与えられた信頼は、とても重要である。何も与えずにただ信じよというのは無理がある。だから、私たちは無駄を嫌っても惜しみはしない。しかし、私たちが何かを与えたが為に、崩れ落ちてしまうのでは手を出しようがない。助けようにも基礎が足りず、土台がしっかり固まっていない者には手を出せない。それが私たちの拒絶である。

 無礼者――また、正しい方向に努力していると信じているが、本当に結果が得られるか不安であるという相談を扱った事があるはず。それに対して、正否を示して上げるのはたやすいことだ。しかし、相談者の中には、一言では足りずに、何度でも同じ質問を繰り返す者がいる。……私たちの言葉を信じられぬというのなら、なぜ、私たちに質問をしようとするのか。実に無礼ではあるが、腹を立てるには当たらない。かような者達は真に信じられる者に巡り合えぬからだ。これもある意味の基礎不足で、心の未熟さゆえに、信じる事の意味も価値も判らぬのである。

 そして、未熟さゆえに大切に導き育てる必要はあるが、敬う心を持たぬ者を教え導くことは出来ない。なぜなら、どんなに素晴らしい叡智に対しても、わずかでも理解の困難な事があれば、勝手に自分の知恵を差し挟んで、素晴らしいものを台無しにしてしまうからである。

 叡智の取扱には注意が必要なのである。教えを受けて敬わぬものは、自らの知恵によって滅びる。自らの浅知恵で自らの人生を台無しにしてしまう。そのような者に教えを与えると善い使い方はせぬ。善知識を学ぶものは身を守らねばならない。

 さもしい者――私たちが拒絶する間もなく、あなたが拒絶するものに対しても説明を試みよう。自分の器以上に望む、さもしい者である。このようなものにいくら与えても皆無駄になる。しかし、時間も労力も限りがある。善智識を学ぶものは限りあるものを惜しまねばならない。

 しかし、人は誰も自らをさもしい者とは思わぬ。では、何をさもしいと呼ぶのか。何も人に与えようとしない時である。代償を払う気がのない者は致し方が無い。しかし、求めることに囚われて、他に気がまわらない者もさもしさに陥る。かような過ちは、あなた(老神いさお)のわずかな配慮で救うことが出来る。

 『困っている今のあなたは、誰も救えぬかも知れぬ。しかし、楽しい話を集めてきて、皆に紹介するぐらいの手助けは出来よう。それも大切なことである』

Q 『類は友を呼ぶと言うが、私は往々に争いごとに巻き込まれる。これは私が喧騒だからか。』

 意味が違う――「類は友を呼ぶ」というのはお互いに引き寄せあうという意味である。一方的に好まれるのはこの限りではない。類は友を呼ぶ。喧騒な人々、怠惰な人々や、恩知らずな人々……いや、凡俗な人々と呼ぶべき人々と友好を結べるのが、その同類の人々なのである。

 であるから、争いが絶えぬからといって、その者たち総てが喧騒であるとは限らぬ。門外で揉めるのと、門内で揉めるのでは争いの意味が大きく違う。

 どんな肥沃な土地も、手入れを怠ればたちまち荒れ果てる。肥沃さを維持するには、手間ひまが不可欠である。だからこそ、怠惰な人は、荒れ地にしか住めない。どんな肥沃な土地も、手入れを怠ればたちまち荒れ果てるからである。自力では肥沃さを維持できぬから外に力を求め、荒廃が止められないから他に楽園を求める。怠惰とはいえ、困苦を嫌う気持ちはあるがゆえに、怠惰な人こそ楽園を探す事にはとても熱心で、彼らに狙われないのは荒廃した地だけである。

 反対に、いかなる荒れ地でも勤勉な人が耕せばやがては肥沃な農地に変わる。善男善女はいずこであろうと楽園を築くことができる。だからあえて楽園を探そうとはしない。彼らは極楽の住人ではなく、彼らこそが極楽なのである。であるからこそ、善男・善女は、閉じ込められて奴隷とされる事を恐れても、追い出される事を恐れない。

 争いに面する事を恥じるよりも、凡俗に蹂躙されぬ事を誇りに思え。崇高だからこそ、善男善女を友にできる。凡俗に迎合すれば凡俗しか集まらなくなる。それが、類は友を呼ぶという事である。

Q 『私も門内での争いを体験している。』

 善者の葛藤――人生には大きな葛藤がいくつもある。人には親切にすべきである。だが、人は、親切に狎れて増長する凡俗な者と、親切に心開いて誠意を抱く善良な人とに大別できる。元から「人を見たら盗徒と思え」と、疑ってばかりでは誰とも親しむ事が出来ない。

 多くの人は善良であろうと勤めるものだから、付き合ってみればこそ、その人の本音が見えるものだ。まして、人々は、不平等を悪と見なす。そうであれば、明確な基準を示す事も無く、或る者は厚遇し、或る者は冷遇すれば、人々は戸惑うばかりである。霊感に頼って人を嫌えば誤解を受けるし、まして強欲な者ほど利に執着して逆恨みの害を生じる。

 しかし、いずれは逆恨みされようとも、日頃、善意を尽くせば心有る人々は信じてくれよう。悪党に施すのは不快に思えるかもしれないが、その施しが逆恨みの念からあなたを守るのである。

 逆恨みに迎合するのは強欲なる者である。争いを恐れ、嫌うより、強欲な者に支配される事を恐れよ。自由の維持には代償が必要なものだ。

(2002年12月09日)


心を清く保つ

2002/12/08

Q『執着心、雑念、自負心への対処方法についてお聞きしたい』

 誤った努力が原因――争ってはいけない。争うから勝敗があり、そして敗北が待つ。自分の心と戦う事は、容易には決着のつかぬことに飛び込むことである。それは外敵を利するだけだ。そも、自分の総てを人生に注ぎ込むことなく、自己と戦おうとする段階で、既にあなたは負けているのである。

 善き事に執着せよ、工夫を楽しめ、善事を自負せよ。無駄な事、害ある事に心が働くのは、自信を失い、正道を外れ、導きの太陽から顔を背けているのである。執着、雑念、曲がった自負心が悪いのではない。挫けた心が問題なのである。正しい努力が続けられるなら、その努力が人々に認められるなら、そして正しき自己に誇りを抱けるなら、誰が無駄な行いに埋没しよう。恨みや妬みの心も同様である。自ら成功が掴めるのであれば、誰を妬む必要があろうか。

 正道を歩む事をあきらめてはならぬ。邪道は近道に見えてけっして近くない。また、過程を省いて目的地にたどり着く事を望んではならぬ。どんな境涯に安住しようが、道を問われて教えられぬ者は、ただの客人に過ぎぬ。客人は主人の都合で追い出されもするのだ。道を知らずに追い出された者は、途方に呉れる以外に何ができよう。

 正道を歩むのが辛くなったなら、必要なのは近道を求める事ではない。心身を休める事である。無駄な考えは疲労を増しこそすれ安らぎを与える事も無い。間違えば正せ、正せぬなら止まれ、止まれぬ者が動き出せば破滅を待つだけである。良く重荷を運ぶ者は、決して無理をしない、一度に運ばず、繰り返し運ぶ労を惜しまない。悪しき心が働くのは、無理をして、それに気がつかぬ者である。止まれ、破滅に向かって進んではならぬ。

 善き事に向かって勤めよ、そして自覚せよ。限界と責務を秤にかけて、決して自分に無理を強いてはならぬ。無理は総てを台無しにする。人を愛するように自分も労われ。あなたの犠牲による恩恵を負担に思う者は善であり、当たり前に思う者は悪である。悪を働いてはならぬし、悪人のために働いてはならない。ならば、善事は責任を分かち合い、厭きずに前に進む者のみが担える事になる。そして着々と丁寧に人生を生きているなら、くだらぬ悪心が働く、いとまも無い。自己の心の働きに思い煩うのは、あなたが間違った努力を重ねるからである。

(2002年12月7日)


心霊研究の意義

2002/12/08

Q 『心霊研究の意義について、あなたのお考えを教えていただきたい。』

 夢想に浸らない――私は生前仏家であった。そして不可知なものを学ぶより、未知なるものに柔軟に接する心の修養を大切にしてきた。私は生前、自らの前世を知り、また、自らの死後も知っていたが、それを人に説く事をせず、その事に何ら不足を感じなかった。

 私は死後を説く事の無駄を良く知っている。死後に楽園があるなら、どうすればたどり着くかを人は悩む。しかし、楽園は場所にあらず人の境涯にある。肥沃な農地であっても、怠惰な人が買い取ればたちどころに荒れ果て、いかなる荒れ地でも勤勉な人が耕せばやがては肥沃な農地に変わる。死後にいかなる世界があるかよりも、あなたがどのような世界に自分を住まわせたいのかが大切なのである。

 見よ、心霊家の多くはそれをわからずに、ただ、美しい世界に移り住む事を願う。しかし、人は死後に思い知らされる。幸せは誰が作っていたのかということを。ある者は煩《わずら》いを捨て去りより幸せになり、ある者は支えを失ってどん底に陥《おちい》る。善男・善女が住むから極楽が生じ、善男・善女が去れば極楽も消え去る。その逆ではない。

 「経文・聖典は道にあらず、ただの道標《しるべ》なり。」これはあらゆる宗教・心霊思想についても当てはまる事である。いくら読み、そらんじ、唱えても、進まなければ何所にも行けぬ。身体が動かぬ者が助けを求めたならば救いは必要である。しかし身体を動かさずに口を動かすだけの怠け者を誰が救うというのだろう。怠惰も悪なら、怠惰を進める者も悪である。知識は進むべき方向を指し示す。必要なのは進む事であり、知識の生み出す夢想に浸ってはならない。

 人生は死者の見る夢――多くの人々は総ての努力を自らの生に捧げる。しかし、死はその努力を奪い去る。従って、「人は死して無」というのは、大抵の人々にとって正しい。いかなる科学的な実験で証明して見せようが、死後の個性存続を前提にして生き方を変えられぬ限り人は死して無になる。

 地上に生を受け、総ての努力を生に捧げ、そして死んだ者にとって見れば、地上の生とは霊界で見る夢に過ぎない。そして、夢から覚めれば現実が待ち受けている。大方の魂にとって再生などは、人々の睡眠と覚醒の繰り返しと何ら変わりがありはしない。人々は一体夢から何を学ぶというのだろう。

 死後の世界の有無など、夢から学びえる事と大差ない。霊界との付き合いは、夢占いの有益さと大差ない。地上の生から学び得た事はその程度にすぎない。それが大方の死者の感想である。人は死後、霊界にてその魂の境涯に見合った世界に暮らす。そして、人は生前、その心の境涯に見合った世界観の中で暮らす。一つの世界に留まり続けて他の境涯を知らぬ者にとって霊界などまったく存在しない。死後の個性存続も存在しない。人は死して無になり、魂は悪夢から目覚める。ただそれだけの事である。

 自覚しない者は夢の中にある。死後の個性存続の証明など、くだらぬ事である。その証明の努力は、寝ている者に向かって「あなたは今、夢を見ている」と教えるようなものだ。大切なのは、覚醒である。つまり、認知しえる世界観を脱して、より大きな世界観を獲得すること、そして、獲得した世界観に見合った生き方を見出す事である。

 そう、生きている内から、死後を思い悩んでは、限られた時間が無駄になる。心霊知識が人生に有益となるのは、生き方の変化をもたらした時なのだ。

 死後の個性存続――そう、死後の個性存続を、知る……せめて、信じる……事が重要であるのはこの理由である。つまり、僅か百年前後の時間の中だけで人生を考えるのか、それとも更に大きな時間の流れで、人生を考えるのかで、その人の行いの大きさが決まる。

 現実に、「肉体を失った死者達の世界」があるか無いかに関わらず、地上の人々は、生の枠を越えた先人たちの努力の上、先人達の様々な遺産の上に暮らしている。「多くの霊媒は『先祖供養、先祖供養』と繰り返す、祖先とは何と浅ましいものか」と、口にするものもいるようだが、先人の努力は甘受しながら先人に敬意を払わぬなら、あなたがたもその子孫から軽蔑されよう。心霊研究なるものは、あらゆる先人の努力を敬わねば意味を失うだろう。

Q 『心霊に対する取り組み方法について。反対論にどう接するべきだろう。』

 沈黙と慈悲を持って接せよ――人に説く時は、あなたの思うままを説くのでなく、相手の視点の高さにたって説かねばならない。あなたの理解力と相手の理解力は異なり、相手の利害とあなたの利害は異なる。それを忘れて意見を説けば、相手は穏やかな気持ちで聞くことが出来なくなる。まして言葉には限界がある。こと、抽象的な問題を論じるのに、言葉は非常に用い難い意思伝達の手段である。

 相手が自ら聞く気にならなければ、あなたの言葉は無駄になるし、聞きたがる相手も、真実を求めるより、都合の良い話だけを求めている場合もある。言葉すくなに話して、相手がじれて質問を始めるようにせよ。疑念を抱いた時、聴者は初めて言葉ではなく、内容に関心を向ける。そして疑念が解けた瞬間、聴者は知的昂奮を抱く。好奇心に囚われた人は、百の名言よりも一つの事実に大いなる感銘を受ける。しかし、忍耐を強いられた聴衆の心は、かたくなで新しい事柄を受け止めはしない。

 大切なのは事実の解説ではない。相手の目が事実に向く事なのである。そして、相手の視点を強いて曲げようとしてはならぬ。暴力は事実を汚すからだ。自らの思考を人に伝えるなら、沈黙と慈悲を持って接せよ。決して慌ててはならぬ。

Q 『迷信者、偏見者とどう接するべきか、教えていただきたい』

 時機が大切――酔者に飲酒の害は説けぬものだ。説教したければ無粋な真似をせずに、二日酔いの朝を待つのが良い。しかし、いくら説教しても飲酒の害は免れられぬ。問題は飲酒ではなく、飲酒に追い込む他の原因があるからだ。真の原因を直視する、酔者にその覚悟が生まれるまで、酔者を救う事は出来ぬ。

 酔者は、飲酒の害を知るゆえに酩酊に落ちているのではない。酩酊に価値を見るがゆえに酔者なのである。迷信を信じるのも、偏見を棄てぬのも、その状態に価値を知るが故である。

 人の過誤は、指摘して正す事が容易であるが、人の未熟さを導く事は容易ではない。導こうとして導けなかった時、自分の未熟さに気がつくならば、自分も相手も成長するだろう。だが、導けぬもどかしさから怒りや憎しみを育てるようでは、いつまでたっても未熟さを克服できない。つまり、眼前の悲劇を救うのではない、眼前の悲劇に救われるのだ。ただ、幸せな境遇にあるから悪事を行わずに済んでいるだけの傲慢な魂といわれても仕方がない事である。

(2002年12月7日)


心霊学の学び方

2002/12/05

Q『心霊を学ぶための注意点を教えて欲しい。』

 教わる事と学ぶ事は別――この心霊研究(老神いさお)の方針については、明白な問題点がある。ただ知識を得ることは「学ぶ」とは呼べぬ。教えを請う者は、新鮮で高度な知識を得ようとするよりも、むしろ自説の肯定者を求めて人に頭を下げている事が多いものだ。

 人はみな賛同者を求め、追従者を求めたがる。学習とは協賛者を求める手段ではない。真実の追究は静かな場所で行うべきであり、人々の眼前で行うべき事ではない。

 止まれ、その意義はわかる。日陰者扱いされる心霊論者に集う手段を与える事は大いに意義がある。そうであるなら、志を同じくする者を集めて安寧を与える事に専念せよ。真理の追究は秘せよ。真理がいかに実用的であることか、理解し得ない者は空理空論を並べて比べるであろう。しかし、真理の意義を理解できない者にとって、真理と空理空論との違いは無いのだ。空理との論争に体力知力を費やしてはならぬ。人生は限りある時の狭間だ、一瞬一瞬を大切にせよ。

 見よ、真理に意義があるなら、その意義ゆえに空理空論を寄せ付けぬ。淘汰は大自然に任せ、お前は真理の追究に専念せよ。ついてゆく者が少なくとも、何にを迷うというのか、お前の轍《わだち》を道標《しるべ》とする者は、お前がどれほど先を歩もうと気にはすまい。

 「木を見分けるのに実を見よ」という言葉があるのか、ならば私はこう言うだろう、馬車を見るよりも、その轍《わだち》を見た方がより価値を見取れる。空荷の馬車は轍《わだち》が浅く、積み荷の多い馬車は轍《わだち》が深い。御者がよければ轍《わだち》は伸び、御者が悪ければ轍《わだち》は荒れる。

 今は、道に轍《わだち》も残らぬ時代か。そうであっても智慧あるものは頭を働かす事の意味を知る。見掛けに騙されぬための最善は、直視しない事であるのだ。正しく物を見るならその物よりも、あらしめている物を見よ。

 心霊思想は今の世にあって日陰者扱いという。それは、心霊だけを追いかけるからであって、心霊をあらしめている物を追いかけるなら誰が疎かに扱うか。人の心は永遠の成長を望む。それは死を恐れ、無目的に生きるより、はるかに意味も価値もある。心霊を扱う上で大切なのは永遠の時の遊戯ではなく、永遠を生きる覚悟の今である。

 求める者は多いが、掴み取れる者は僅かである。これはいかなる道を歩む者にも当てはまる事だ。間違ってはいけない。与えられるものに限りがあるなら、与えるべきは求める者ではなく、必要とする者・役立てる事が出来る者なのである。

 疑念の効用――人はとかく教えたがる。それがいかなる心の働きであるかはどうでもよろしい。問題なのは、誰にとって価値のあることを説かんとするのか、である。

 教わる側に価値があり、学ぶ側に価値が見出せるならば、それは素晴らしい事だ。だが多くの場合、教える側にのみ価値があり、教わる側には価値が見出せず、または、全く価値がない話が数多い。

 そも、学ばんとする者は、未知の知識を自分のものとすべく努力を重ねる。その過程で知識の価値を推し量れるはずも無い。ここに鍵がある。教え、教わる事がうまく噛み合うためには、学ぶ者の疑問が先に必要なのだ。疑問に見事に応えてこそ、師は尊敬を得られる。しかし、疑問をもたぬ者は最後まで師に真の尊敬を抱けぬ。

 そんな弟子はただ、価値を知らぬままに知識を求め、死蔵し、そして死んでゆく。疑問を持たぬ者が尊敬するのは、ただ知識の多さだけであり、知識の多さで人を圧倒する事しか知らぬ。そういう者も価値あることを知っているかも知れぬ。しかし、無用な知識も多いだろう。

 犬を見よ、猫を見よ。書を読めなくても、生まれ、生き、生み、そして死んでゆく。人はといえば知識ゆえに迷い、恐れ、苦悩する。沢山の知識を持っていても、自分を活かすための知識をもたぬがゆえである。悔いを生まぬ過ちは無い。間違った学び方をする者は知識ゆえに苦しむのである。

 自覚せよ――私が一つの方向を指差し、あなたにこの方向に進むように促したとする。その方向があなたの知識と等しければ、あなたは自信を持って前進できるであろう。また、あなたの知識と私の示す方向が異なる時には、あなたは葛藤を抱える事になるだろう。あなたが学ぶのは、目的地に着くための努力なのか、それとも葛藤し、不安に苦しむための努力なのか。

 この答えは明らかである。未知なる事を人から教わり、あなたはどうしてその正誤を判断できるというのか。……未知なる事に接する上で一番危険なのは過信であり、一番大切なのは現実に目を向ける素直さ、そして過ちを正す柔軟さである。真の智者は未知の解明を通じて、自己を学ぶ者である。

これを「自覚」という。

 もしもあなたが自覚を得たなら、未知に接して自らの過ちに気がついても、正しい行いを選ぶ事が出来る。少なくとも最善を尽くす事が出来るだろう。反対に、自覚を得ない者は自らの知識ゆえに誤りたる行いを止める事が出来ない。

 真理は人を淘汰する――見よ。真理は人を淘汰する。誤った知識は人を打ちのめし、真実の前に葛藤をもたらす。だが正しい知識は人を幸せにする。この淘汰の激しさを知れば、口舌の徒と争う事の無意味が判るだろう。表現の巧拙で現実は覆せぬ。人々の或る者は快楽に耽《ふけ》り、或る者は病苦に苦しむ、今を見れば天地ほどの差があるが、いずれはそろって老死の恐怖に慄《おのの》く。

 死後の個性存続を信じ、霊界の栄光を信じる心霊家といえども、その多くはやはり、老死の恐怖に慄くだろう。そこに足りぬのは知識ではなく自覚である。生死は対ではなく、一本の糸であるを自覚する者だけが老死を恐れない。

 心霊家は死後の苦しみが少ないというが、否である。恐怖に憑り依かれて死んだ者の世話は決して容易ではない。これは仏家も心霊家も同様である。知識が人を救うのではなく、自覚が人を救うのである。

 沈黙せよ――学ぶのは自覚を得るためである。決して徒に知識を集め、比べていてはならぬ。妖しい言葉に騙されて自覚を得る者もあれば、善智識に頼って自覚を忘れる者もある。世の一切の邪教を謗《そし》らず、世の一切の善智識を称えてはならない。

 強者をなじって自らの至らなさをごまかし、弱者をなぶって傲慢を育てる者も世間には必要である。うわべの知者と真の智者を振り分ける働きがあるからだ。

 知識を比べ、言葉を称えあうのは、「自覚」の意味も価値も知らぬ者だけである。そういう者達を、仏家は天狗と呼び、天魔と呼ぶ。もしもあなたの目が、天狗や天魔、そして天外魔境に向いているなら、あなたが天界に尻を向けているという事だ。あなたは今、何所に向かって旅しているのか、そしてどれだけ目的地に近づいているのかを思い出すが良い。

 思考せよ――心を育てる言葉を、痛みを和らげる言葉を求める。それは確かに大切である。だが、それが総てではない。思考せぬ者は学んで何ら自覚しない。読んで思考せぬ者は何ら自覚に近づかない。人に問い、人の頭を働かせて、人から答を貰い、自分が成長したつもりに成ってはならぬ。成長したのはあなたの問いに答えた者なのである。

 文字が溢れ、絵が溢れ、言葉が飛び交う時代にあって、思考を忘れる者が多いようだ。次々に新しい言葉を求めて、焦っていては決して自覚が出来ない。思考せよ。そして話し、書き、描け。すると思考が整うだろう。創造こそが成長である。誇らしげに贅肉を晒してはならぬ。……人はわが身の贅肉を恥じるのに、なぜ知識の贅肉は恥じぬ。そのような愚かさに気がつかぬのだ。人々は自覚が足らぬ。


 仏家は、心霊を信じぬという。正しくは、学んで正誤の判断もできぬ「未知」を学ぶ事よりも、「自覚」を大切にして居るのである。私などが霊界から人々を観察していると、心霊家は正誤も判断できぬまま未知を学んで、なんとも危うく感じる。もっともこれは自覚の足りぬ仏家と比べてどちらが危ういというものでもない。自覚の無き者は運命に翻弄されて幸・不幸を味わう。自らの運命を呪いもする。神仏を恨みもする。それは誤った知識を信じ、真実を退けるからである。

(2002年12月4日)


顕幽交流の可否

2002/12/03

Q 『私はあなたから助言を安易に受けても良いものだろうか。』

 顕幽交流――それはあなたが思うほど、不平等なものではない。あなたがひらめきを欲する時、その願いの多くは霊界に届き、それに答えようとする者が集まってくるのだ。一人、霊媒のみが顕幽交流を独占しているわけではない。

 霊と人とは平等なものである。私たちは何も義務を負わず、あなた方は何の権利もない。たとえあなた方がどれほど高級神霊の援助を望み、交流を望んだとしても、あなたに神霊界の視野が備わらなければ、受けたひらめきを人生に生かす事は出来まい。

 地上には確かに不遜な願主は多い、彼らは地上に生まれ出ずる時の約束を忘れている。人は皆、幸福までの最短距離を歩めるようにとり計られて送り出されてきたのだ。そうであるにも拘らず、最短の道よりも更に近道を求めたがる。それでは幸せを願うほどに道に迷って戻るに戻れまい。そういう体験を積み重ねたものは、正しく交流する者が妬ましくもあるだろう。しかし、古来より妬みを遂げて幸せになるものはなく、道を誤って後悔しない者はない。

 霊界の真理を知ったものは、「どうして全知全能なる者が、私の気性を踏まえて道を引いてくれぬのか」と恨み言を申す。しかし、天が万民に平等であり、晴雨が誰の利害にも答えずに平等であるのと同様に、人々に引かれた道もまた平等である。すなわち、素直に天命を信じて進む者こそが最短の道を歩めるように出来ている。その人々の気性に合わせてゆがめぬ事は、まさに天意は平等である事の証である。

 あなたがたはどしどし願いを上げても構わない。しかし、気を付けなければいけない。人は往々に執着と願望を取り違える。私たちがどれほど気配りし、また、あなた方の執着に無頓着を装って見ても、あなた方は自らの心から出でた執着の糸にがんじがらめに縛られて身動きがとれぬ事になる。私たちが執着に手を出せば出すほどあなた方は執着から逃れられなくなるだろう。だから思うがいい。願いは自らの心を汚さぬものに止めよ。執着の糸が絡むのに気がつかなくなるまで思いつめるな。そして顕幽の関係は平等である。

 誰もが、最高の神霊に語りかける権利を有する。しかし、最高の神霊が語りかけるのは最高の人徳者だけである。顕幽は平等である。人は自分の分を過ぎた相手と交流するのは難しいし、せめてより力量のある霊と交流したいと願うなら、相手にも興味深い命題を掲げ、そして礼儀に気を配るべきだ。そして反省するが良い、不遜なる者は邪魅に狙われる。傲慢なる者は容易に騙され、騙したところで罪に問われにくいからだ。自らに非がありて騙された者は憎しみに駆られ悪霊の仲間入りをする。修行で天界の高みを目指すよりも、愚か者を足許に引詰める事を好む魂は地上にも霊界にもあふれているのである。

 謙虚、友愛、寛容の心は、その霊格如何に関わらず、天上天下から愛される。そうであるから他に望まれて善良さを磨くのは心得違いである。素直で、そして心豊かであれば、自然に謙虚で、寛容になり、そして友愛を広められる事になる。つまり、険しく思えても最短の道を歩めば人は善良に生きられるのである。

 考えてみよ。小さな子供が一体何を願うだろう。想像するだに心楽しくなるではないか。しかし、大人の願いのほとんどが醜く浅ましい。霊界との交流を思い煩うなら、低級霊に騙され、また、世間の妬みを恐れるよりも、まず、自分の心の清らかさを思い煩うべきだ。顕幽の間は平等である。醜き心、浅ましき心が、清らかな交流を得るのは難しく、また、清らかな交流を維持する事は不可能である。

(2002年12月2日)

廬氏の教示

2002/12/02

 この章は、他の全てのページと同様、私にとって一つの実験であります。モーゼス著、浅野和三郎氏訳の『霊訓』に刺激を受けて、同様の手法で霊的なメッセージをもらえたら、読者諸氏に有益ではなかろうかと検討した結果に生まれたものです。

 幸か不幸か……この霊信は、モーゼスの支配霊(司配霊とも表現す)のインぺレーターからのものではありません。そもそも、私がインぺレーターからの霊信を得たとして、一体誰がその真贋を鑑別できるというのでしょう。また、既存の霊訓の真似だけでなく、その支配霊まで借用したとなれば、内容以前に真贋論争に巻き込まれかねません。

 私が、その乏しい霊媒能力をより有益に使うにはどうしたら良いか。私は、自らの守護霊・指導霊と意見を交感しました。すると、私の仏教思想の面に関する指導霊(支配霊ではない)から一つの申し出を受けました。

『私は心霊思想を良く知らないが、この分野で出来る事が多々ありそうである』

 という訳で、私が用意した質問に対する回答という形で霊信を頂き、それを定期的にまとめて見たいと考えています。

 こういった場合、重要なのは誰からの霊信か、という問題です。ここでは仮に「慮氏」と呼ぶ事にします。

 私はかなりの事を把握していますが、前世の業績などを前提に霊信を公表すれば、誤解や真贋論争によって霊信が妨害される恐れがあります。しかも、人は死後、その信条や思想を転向する事もありうるわけで、生前残した文書が当該指導霊の鑑定に役立つかどうかも判りません。まして、ある程度霊格が高ければ『相手を見て事を説く』事は、むしろ当たり前の事です。

 そうであるなら、果たして本当に『慮氏』であるのか、否か、一体、どう確かめられるというのでしょう。私には確信があっても、人々に提示できる証拠を提出できるか否か、私はかなり難しいと考えます。仮に他の霊媒に対して、慮氏が語りかけたとしても、ただ、慮氏の存在と私の霊感の証明に役立つというだけで、慮氏と歴史上の某師との関連を証明する役には立ちません。

 そう、慮氏が誰であるのか、私は最初から実証する気持ちなどないのです。ただ、ただならぬ見識の持ち主である事を皆様に感じ取っていただければ十分だと思う次第です。

 なお、慮氏に対して質問したい事などがありましたら、掲示板、または、メールでお寄せいただきたく思います。その際に一つ御注意いただきたいのは、同義的に回答不能な質問などは黙殺せざるを得ないという現実です。いえ、強いて問われれば回答不能な理由を明示する事も出来ます。が、しかし、どのような方々も、『あなたの質問はくだらない』といった返答を好まぬ事でしょう。ですから、「有意義な質問とはどのようなものか」といった知的向上心をお持ちでない限り、不掲載の理由を御詮索ならぬようにお願いしたく思います。


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みにみにぶろぐ
  • ・原発全廃
  • ・その後悔の帳尻が合う生き方をしているか?
  • ・我が国だけが原子力を全廃しても、隣国が原子力発電を推進すれば、危険性は無くならない。
  • ・生きるとは生むことである。
  • ・いろいろなる不平不満はあるだろう。だが人は歩んでいる。
  • ・与えられる事を当たり前に思っている者が飢える。
  • ・なぜ、争うのだろう? 事態はただ現実への妥協を求めているだけなのに。
  • ・ 見せられると信じたくなる
  • ・豊かな者は足りぬものに気が付かず、知りたる者は、知らざることに気が付かぬ。……
  • ・ 心に不満が生じるのは、あなたが焦っている証。もう少しゆっくりと生きなさい。

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