‘2002/05’ カテゴリーのアーカイブ

「倹約」につき、商人の霊語る。

2002/05/16

2002年5月15日

……時代劇に出てくる様な商人風の格好をした霊が一言述べたいといってます。……


景気が悪くて、世の中もだいぶ倹約を大切にするようになりましたが、私の時代と比べればまだまだです。何より、倹約の意味が判っていない。

倹約というのは誰かを苦しめるためにするものではなく、豊かになるためにするものなのです。 料理をするのにもなるべく捨てるところを作らず、捨てるべきものも生かす工夫をする。使わぬ明かりはこまめに消して、水も大切に使う。使えるものはみだりに捨てず、最後まで大切に使う……もっとも今時は、古い機械をいつまでも使うと、電気だ、ガソリンだを無駄に使うとの事、だから古いのをいつまでも使えとはいわないが、新しいものを追いかけて、ご自分の暮らしを辛くせぬ事です。

 ところが見ていると、世のケチンボは、節約するのに口ばかりを使って、自分の労力を惜しむ。それでいて、太っては身体に悪いと運動して調節するのだから始末におえない。節約とは自分でするものです。人にさせるものではない。人に惜しませるのは意地悪です。

 タバコや酒を節約すれば、薬代だって浮くだろうに、自分を苦しめるような事にばかりには、財布の底が抜けている。それでいて人に節約せよとは気の抜けた話です。

 節約して浮かせた金は、楽しく使って構いません。なんとなれば、浪費が世の中を豊かにするのですから、貯めたらしっかりお使いなさい。どうせあの世まで金を持ち越せるわけでなし、世が豊かになればあなたも豊かになるのです。

 しかし、ガソリンなどは、使えばいつかは(地上から)なくなります。きれいな水だって使えば環境が変わっていきます。ごみを出せば大地が汚れる。こういう(一切衆生の)苦しみを増す事のために、せっかくの努力や労力、そして苦労を浪費せぬ事です。

 倹約するところはしっかり倹約し、豊かに楽しく暮らしてください。楽しく暮らすためにこそ、努力や労力を傾ける事です。 自分だけいい思いをしようとするから、後々苦しむのです。商人の仲間内で地獄に落ちたのは、人の稼いだものまで欲しがる者で、自分の働きで財をなした者に地獄で苦しむような者はおりません。周りが貧乏人ばかりなのに、左団扇で涼しい顔をした人だって地獄になんぞ、落ちやしません。まあ、布施が多い者は、より高いところに行ったようですが。

 自分で稼いだ金で遊ぶからこそ、心の底から楽しめます。そうやって楽しい人生を生きてください。


死を考える

2002/05/16

死を考える

最終更新日 2002年05月22日

親しい人との死別を嘆かれ、何か出来ないかという、ご相談に関するお返事です。 非常に長い文章になりましたが、死者に対して何かをしたいという気持ちは、どんなに純粋なつもりでいても、相手に望まれての事ではない……つまり、自分が望んでいることに、留意してください。 実は、供養というのは相手のためではなく、自分のために行っているのです。死者への祈りや行事は、自己満足が目的である事を自覚しないと、どれほど努力してもむなしい事になります。

 最初に

 心霊主義というのは、死後の世界への関心、というよりも、死への恐怖をやわらげるために生まれた思想といえなくもありません。生と死の問題に限らず、客観的に研究するよりも、現実逃避的な意見が多いのは、とても残念なことです。

 もっとも、現実から目を背けたがるのは、心霊主義・死後の個性存続肯定論者の特質ではなく、人間の特質なのでしょう。もしも現実に幻滅したとしたら、それは、妄想癖が悪いのか、観察力のなさが悪いのか、それとも現実が悪いのか、一体どちらなのでしょうか。

 死を考える時、何よりも大切なのが現実を受け入れる努力なのです。この世で出会う全ての事よりもなお、死に関しては客観的にならなければなりません。死が人生の締めくくりなら、死に方を誤っただけで、人生がふいになるのですから。

 死とは何か

 「死とは何か」、古今東西、大勢の人々によって思索されていることですね、夭折でもしない限り「死とは何か」を考えない人はいないでしょう。ですが多くの人は、恐怖を弄り回すばかりで問題の入り口にすら届かないものです。

 「死」とは、人生の状態の変化、またはある種の人生の状態をさす言葉であり、人生を考えずして、死は論じられません。いうまでもなく、生なき物に死はありえないのです。

 そして、「死」は、「生・誕生」と一対をなす言葉であり、「自殺願望を持つ人」というのは、「生に価値を見出せない人」と言い換えることができます。

 そして、死が人生の状態の変化であればこそ、死に備えずして生きることは、無駄・無思慮・乱暴な生き方といえましょう。死んでから後悔しても遅いのですから。

 人が死んでから出来ることには限りがありますし、死んだ人に対して出来ることも限りがあります。

 死は責務の果てである。

 人は死の間際に苦悩の表情を浮かべるせいでしょうか、死を汚れや敗北と錯覚している人が多いのですが、死後の個性存続を考えるなら、人は肉体を維持している時間よりも、肉体から解放されている時間が長いのが普通なのです。

 この事は多くの霊界通信にも見て取れますが、憐れむべきなのは、死者ではなく、生きている人間なのです。わざわざ、重苦しく、世話の焼ける肉体を抱え込めば、人は飢餓、病、苦痛と争い続けなければなりません。人は生きているというだけで、苦労し続けなければならないのです。

 今地上には60億もの人間がいます。豊かな者有り、貧しい者有り、健康な者有り、病を抱える者もあれば、戦乱に心悩ませる人もいます。そんな地上にわざわざ産まれてくるのは、霊的な責務があっての事で、人は持っている責務を果たすのに最適な環境を選んで生まれてくるのです。ですから自殺や不注意が招いた事故による死を除いて、責務を果たして肉体を離れたのならば、後に残るのは自由だけなのです。

 祈りは誰のためか。

 人は死んで、天国、極楽、はたまた地獄に行くという表現を良く聞きます。信じているかどうかは別として、一種の常識といえましょう。ちょっと心霊を知っている人だと、「霊界に入る」などという表現もします。また、「成仏を祈る」などという言い方をしますが、天国・極楽・地獄・霊界とはいったいどこにあるのか、また、成仏というのはいったいいかなる心境を指すのか、正しく知っている人がどこにいるというのでしょうか?

 もしも、死んでも迷わずにいけるような、明白な場所、明白な心境であるなら、残された人は、恩着せがましく祈る必要はありません。しかし、行き着くのに困難であるなら……自分自身が知らぬ場所に、「行け!」というのは、たとえ気持ちは暖かくとも、なんと冷酷な事実を突きつけることになるのでしょう。

 誰がどんなに祈ろうと、行き着けない人にとっては、何の助けにもならないし、黙っていても行き着けるのならば、「想い、祈りを送ること」は、いったい誰にとって価値のあることなのでしょうか?

 供養や祈りというのは、死者のためのものではなく、残された人々の自己満足のためにあるのです。その現実・真実を認めないで、死者の冥福を祈のっても、相手のためになるどころか、身の回りに迷える死霊を呼び寄せてしまうのが落ちなのです。ですから、霊感の強い人は、大抵、読経や写経を嫌います。そうすることで、成仏を手伝ってもらいたい霊が集まることを体験的に知っているからです。

 また、毎日欠かさずに、読経を続けても、その読経を死者に無理やり届けたら、死者は霊界になじむための勉強の時間が奪われます。たとえば老衰や長患いの末に亡くなった人ならば、やっと肉体的な苦悩から解放され、自由に飛び回る開放感に少しでも浸りたいときに、抹香くさいお経を贈られて喜んだという霊の話を私は知りません。

 たとえば、真剣に仏教を勉強した僧侶であっても、霊界で目覚めたならば、地上の読経よりも、霊界にいる高僧に教えを請いたくて、うずうずしていることでしょう。それでなくても、新しい世界に入ったならば、いつまでも古い世界に未練を持つよりも新しい世界に馴染むことこそが大切なのです。

 死者にとって、残された一番の苦しみは、別離の寂しさにあります。ですから、死者に対して未練の念を送り付けるほど死者に苦しみを与えるものはないのです。たとえば口寄せなどといった交霊術がありますが、よほど客観的に重大な事情でもない限り、死者に余計な負担をかけないために霊界は取り次ごうとしません。

 ですから、死後の肉親と会話するというのは、良くて死者の守護霊や背後霊が代理であり、残された者の心のケアに気を配りますが、大抵は、退屈をもてあました低級霊のいたずらで、聞き手の喜びそうな会話ばかりをします。

 くれぐれも勘違いしてはならないのは、死別の悲しみは、残された者にだけあるのではないということです。まして残された者は、(大抵は)一人を失い、悲しみと共に日常生活があるだけですが、死者は、多くの知り合いと別離し、今までとはまったく異なる環境に身をおかねばならないのです。

 死別した人に未練をもつのは、生きている者の想像を絶するほど、死者にとっての負担になるのです。


 ある交霊実験で。

 ある心霊研究団体での、交霊実験での出来事です。

 霊媒は大勢いるのに、なかなか実験に降りてくる霊が見つかりません。主催者の一人で、審神者(さにわ)を勤めた、某氏は、借金を返さずに亡くなった故・霊媒H氏を降霊することにしました。

 しかし、参加者が待てど暮せど、お立ち台(霊媒a)に霊は降りてきません。皆がじれてきた頃、観客の一人の霊媒bの耳元で『私は生前、審神者を務める某氏に借金を残している。それが心配なのだが、当人に確認してくれまいか……』と囁きます。

 出過ぎた真似はイヤだけど、このままでは実験が進まぬと、「お金を貸していらっしゃいましたか?」と某氏に訊ねると、件の某氏、事情を察したのか、「借金は生前のことですから、死んだらチャラです」と答えて、しばらく後にお立ち台に霊が降りたのです。

 さて、この故人、以後、二度と交霊実験に降りることなく、霊界での生活を楽しんでいらっしゃるそうです。

 もっとも、この話題を過去何度かご紹介するたびに、ウインクしている男性が見えるのですが……交霊実験に参加するよりも、生前の借金を理由に協力を強いられることが嫌だったのかもしれませんね。

 迷える霊に何が出来るか。

 霊感の強い人なら、時折、迷える霊と遭遇することがあります。このような霊に対して、霊界入りを勧めるのは、理屈で言えば、上述の様にナンセンスなことです。どこに霊界が在るのかも知らないのに、「行け」というのは本来失礼極まりのないことです。

 この様なときに心がけるべきは、自分の守護霊に呼びかけ、迷える霊を導いてくれるようにと、依頼することなのです。霊界のことは霊界に任せるのが正しい対処法なのです。地上の人間の親切心は、ただ混乱を生み出すだけに成りかねません。ぜひ考えてみてください。お線香や読経で自分の何が変わるか……霊界がどこにあるかを知らずに、どう相手を導けるのか……親切心は尊いものですが、正しい結果を出すために用いなければわが身を傷つけることになります。

 また、実際に、「霊界に行け!」と念じたら居なくなったという事例は、相手が諦めたか、事情を察した守護霊が、無言で助け船を出したかのどちらかなのです。

 送り出した霊はどこに行ったか。

 では自分が死別した者は、果たして無事に霊界にたどり着けただろうか……というのは、ある意味当然の疑問でしょう。しかし、人が誕生するとき、母親の努力だけでなく、医師や看護婦、助産婦などの援助を受けるように、霊界でも無事な霊界入りの準備をしているものです。

 ところが、未練や恐怖感から、せっかくのお迎えから逃げ出す者がいるのです。また、精神性が低すぎて、死も迎えも理解できない魂もたまに居ます。こうなると、当人が納得するまで……つまり霊界入りが最善の選択であることを納得するまで、地上をさまよわずにはいられないものです。

 自らの意思が固まるまで、放置するしかない……という事態もあるのですね。葬式というのは、死者の未練を断ち切る場でもあるのです。

 死者に対して何が出来るか。

 死の間際に苦悩を浮かべるとしても、それは魂の苦しみではなく、肉体の苦しみですから、人は死ねば、ほとんどの苦しみから解放されます。老衰で痴呆の症状が現れたのを見て、「魂も病にかかるのでは?」と心配する人もいますが、単に魂の表現器官である肉体の異常に過ぎません。

 そして、人は死ねば、糧を追いかける必要もなければ、寒さに震える必要もありません。ただ恐れるべきは、卑怯な行いや無責任な行いの結果、自らが招いてしまう孤独という苦しみや、思い込みという呪縛によって自らの可能性を狭めていってしまうことなのです。

 苦痛の大部分は肉体の反応に過ぎませんが、別離の苦しさ、孤独のさびしさ、迷いや不安の苦悩は、魂にもついて回ることなのです。

 死者は、残された生者よりも、はるかに自由で、不足の少ない存在なのです。まして、人が誕生以前に、忘れ、置き去った世界にいるのですから、生者のわずかな知恵で助言できることなど、わずかしかありません。

 残された者たちにできる一番大切なことは、旅立つ者が未練なく行けるように送り出すことです。

 そして、死者を案じ、祈ることが未練であってはなりません。たとえば、読経や供物で死者の境遇があがるというのならば、まず自分の境遇を上げてみることです。僧侶の修行としての読経と、素人の口真似が同じ効果を上げるとは思わないほうが良いでしょう。

 最後に

 死別は寂しくても、悲しい物ではありません。新たな世界へ旅立つ方に、お礼と、励ましと、そしてしばしのお別れを告げることは、とても大切だと思いますが、生きている者が死者に与える物は、風習・儀式以上の価値はないのです。

 何より大切なのは霊界の出来事は霊界に任せることです。


命の価値

  時として人は、生きることの意味と価値を見失い、漫然と時を過ごしがちです。死別は確かに悲しい事ですが、命の価値を学ぶ事は、より充実した生を送るのに不可欠な事なのです。ただ悲しむのではなく、そこから何かを学んでこそ、死者も浮かばれます。

  「供養」とは、「尊敬」という意味なのです。皆様が、亡くなられた方と共に過ごされた時間を幸福に思い起こしてくださり、その存在に感謝の念をお持ちになれば、それが最高の供養なのです。仏事はそのための儀式に過ぎません。皆様が、亡くなられた方に感謝の念を抱けば、その念が励みになって、先立たれた方は霊界で、皆様と再会する、その時の為の準備をはじめる事でしょう。それが広義の「成仏」なのです。

 死別の悲しみが癒しがたい事は承知しておりますが、わずか百年ほどの人生が長く感じられるのは、肉体という五感に閉じ込められた環境にあるからなのです。永遠の時の流れの中では、生は一瞬のことに過ぎません。いずれ再会のその時まで、亡くなられた方の分まで一生懸命に生きてください。

  惜別の涙は、死者と生者の間に深谷をうがちますが、悲しい時には素直に涙を流したほうが悲しみから立ち直りやすいものです。しっかりと涙を流し、それから、ご供養なさってください。  さて、生者には生者の勤めがあります。死者を思う事よりも、死者を嘆かさないように、がんばって悲しみを乗り越えてください。


哀別を悼む

2006-02-22

 大切に思えばこそ、失う事に痛みが生じます。あなたの心の痛みは、そのままあなたの愛情の深さでもあります。どうぞその悲しみを恨まずに、ご自分の愛情深さに誇りを持ってください。

 出来ることならば避けたい悲しみですが、何度も生まれ変わるべき魂であればこそ、一度は味わうべき痛みでもあります。

歓びに甘えぬように、幸せが貴重であることを確認するために。

 望まなくても死は訪れ、望まなくても別離は訪れます。すべては流れの中にあり、今の悲しみは永遠ではありません。

 生と死、出会いと別れは表裏一体、一方を避けるためにはもう一方も失わなければなりません。つまり死が嫌であれば生を拒否しなければならない……一方に目を囚われて、大切なことを失わぬように。

 別離の悲しみに、出会いの歓びを忘れぬように、

 離れている苦しみに、共にあった日々の楽しみを忘れぬように、

 相反する一方がすべてと思ったとき、そして、一つの欠点に目を奪われたとき、人は最悪と一緒に最善をも失います。それは間違いなく不幸なのです。

 心の痛みから逃げられずにいるあなたは、幸福と共にあります。どうかそのことに胸を張ってください。


 

おめでたい話(出産)

2002/05/01

 先日、友人が無事、男の子を出産しました。また、いとこからの年賀状は、出産直後の赤ちゃんの写真でした。

 私にはどちら赤ちゃんのの区別もつきませんが……親には多分見分けがつくのでしょうね。

 さて、この友人のメールを読んでいると、「とってもかわいい」と幸せをかみ締めているのが良くわかります。他人の赤ちゃんですら、可愛いものなのに、我が子ならばなおさらでしょう。我が子をかわいがる事に遠慮は要りませんよね。どんどん愛情を注いで欲しいと思います。

悪神に妬まれないように

 しかし、幸せに浸りながらも一点、注意すべき事があります。自らの幸運を吹聴すると、悪神に妬まれると言います。これは決して俗信などではありません。きちんと理由があるのです。

 世の中には、赤ん坊が得られずに悩み苦しんでいる人もいます。そのような人も知人におめでたがあれば、心の底から祝意を表す事でしょう。その時に相手の気持ちも考えずに自分の幸福感ばかり口にしたら祝意が覚めて妬みに変わる事もあるでしょう。

 いえ、子供の悩みだけではなく、様々な悩み苦しみを抱いている人に、自分の幸福感を無理強いすれば、反感を持たれかねません。考えても見て下さい。あなたは人の自慢話を聞いて楽しいと思いますか?

 普通は、「ハイハイ」と聞き流すものではありませんか。それも短い自慢ならまだ良いですよね。延々と聞かされたらさすがに嫌になるでしょう。

 第一、誰でも我が子が一番可愛いものです。しかし、人の子供を預かった時などは、自分の子供にひいきしたいのを堪えて、平等に扱うものです。しかし、一人の親が我が子にひいきをしたら、皆こぞって我が子ばかりを大切にします。そうしたら親同士も子供同士も互いに協力が出来なくなってしまいます。いえ協力どころか互いに苦しめ合うのが当然となる事でしょう。

 もしも、自分の幸せで人を苦しめるような事をすると、その報いは一体どこに返るのか良く考えてください。自分の自慢話ならば自分に返ります。では子供の自慢話はどこに返るのでしょうか?……大事な可愛い我が子に、あなたの業《カルマ》を押しつけたり、変な因縁を結んだりすることはしたくありませんよね。

 自らの幸運を吹聴すると、悪神に妬まれると言います。これは決して俗信などではありません。きちんと理由があるのです。……周囲を見回し、悪神に妬まれることのないように気を配った上で、思い切り可愛がってあげてください。


2002-05-01

お知らせBy老神いさお。

・スマートホン
iPhone/Androidで閲覧時に、最適化したページが表示出来るようになりました。よろしければ、ご感想をお寄せ下さい。

・サイト再構築中
移行途中のデータが時折、トップページに掲載されますが、編集作業の都合ですので、今しばらくご容赦ください。旧作については、本文右上に日付が記載されます。

・ページ更新
 現在:1056㌻
 復旧予定: 残り480㌻位・・・

老研カレンダー
5月 2002
 12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
2728293031EC
6月 2002
 12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
老研イベントリスト
  • No events.
みにみにぶろぐ
  • ・原発全廃
  • ・その後悔の帳尻が合う生き方をしているか?
  • ・我が国だけが原子力を全廃しても、隣国が原子力発電を推進すれば、危険性は無くならない。
  • ・生きるとは生むことである。
  • ・いろいろなる不平不満はあるだろう。だが人は歩んでいる。
  • ・与えられる事を当たり前に思っている者が飢える。
  • ・なぜ、争うのだろう? 事態はただ現実への妥協を求めているだけなのに。
  • ・ 見せられると信じたくなる
  • ・豊かな者は足りぬものに気が付かず、知りたる者は、知らざることに気が付かぬ。……
  • ・ 心に不満が生じるのは、あなたが焦っている証。もう少しゆっくりと生きなさい。

More »

サイト内検索
アーカイブ
サブ・サイト