‘2002/04’ カテゴリーのアーカイブ

恋愛問題

2002/04/23

恋愛や、結婚、離婚の相談などはお断りいたします。 どうしても恋愛問題で、相談したい場合は、この以下の点を心に留めて下さい。

 「他人に相談しなくては、維持できないような恋愛はいずれ破局する」

 「うまく行っているように思えても、他人に相談するのなら、恋愛に酔っているだけでうまく行ってはいない」

 もしも恋愛問題で、相談を思い立ち、巡り合ったのが私のページであるのなら、それは破局の確認の為と覚悟してください。

 とは言うものの、恋愛が人生の一大事である事を、私が軽視しているわけではありません。しかし、恋愛問題というのは往々に当事者の身勝手さが拗れた結果なのです。痴話げんかは犬も食わぬといいますが、よほど勝手を知った相手でない限り、親身になるのは愚か者だけです。 さまざまな助言がなくもありません。ですが、見知らぬ人の相談には絶対に乗りたくないのが、恋愛相談なのです。


祝福される恋愛を

最終更新日 2002年04月23日

 当人にとってどれほど大切な想いであろうと、どれほど恋い焦がれ、または、どれほど哀しい思いをしようと、それは当事者にとっての重大事であり、往々にして周囲にとってはただの迷惑となることも在ります。

 恋愛や結婚は人生の一大イベントではありますが、決して最終目標ではありません。良きパートナーなくして、良き人生はありえませんが、だからといって恋愛だけで人生を満たすことは出来ないのです。

 そして、一つのイベントだけに心奪われて、他をおろそかにしてしまい、結局、心の底から恋人を愛すればこそ、自分を不幸にしていく人がいます。周囲の人々が、あなたの人生の一大イベントだからと、大目に見たとしても、因果律の法則を免れる事は誰にも出来ません。

 人々が口先でどんなに祝福しようとも、自分の幸せのために、人の迷惑を顧みない人が相手では、『この子を幸せにしてあげよう』という周囲の人々や背後霊たちの気持ちが覚めてしまうのです。

 互いをパートナーとして自らが幸せになるだけではなく、周囲にも幸せを与えられるような恋愛……すべての人々が、心の底から祝福できるような恋愛をなさって欲しいと思います。


美しくなる恋愛を

最終更新日 2002年04月23日

 

 往々にして、人は恋愛に人生のすべてを掛けます。実際、それだけの価値がある恋愛もあります。配偶者の良し悪しは、実力以上の人生を得るか、実力を生かせずにチャンスを無駄にするかという、重大な要因だからです。

 ですが、世の恋愛の中には、人生の伴侶……共に歩む道連れ……を得るための努力ではなく、単なる独占欲の対象としての恋愛も存在するのです。

 手強い獲物を得るためにこそ、自分を磨く努力もあるでしょうが、それも所詮はうわべの装いだけのことです。伴侶を得て、心のゆとりがまし、人々に優しくなる人ならば、内面から美しさがにじみ出て雰囲気が易しく変わっていくものです。

 しかし相手の心を独占しようと努力するなら、獲物を追いかける肉食獣の殺気のような、殺伐とした雰囲気が内面からにじみ出てしまいます。

 当事者は、うぬぼれと、脳内麻薬の酩酊により気が付かないものですが、恋愛すると美しくなる人と、醜くなる人がいるのです。これは周囲からは明らかに見えます。その醜さはその人の心の未熟さを表すと同時に、心の不毛さを表すのです。

 ですから、常に心豊かであるように工夫し、美しくなる恋愛をなさっていただきたいと思います。


大人になれる恋愛を

最終更新日 2002年04月23日

 

 人生の伴侶を得るというのは、人生の良し悪しを決める大切な条件ではありますが、そもそも、恋愛の相手は、自分の理想の未来を託す相手だということです。その恋愛の出来不出来は、そのまま、自身の人生観の出来不出来を意味するといっても過言ではありません。

 とは言っても、思春期の頃に人生観を確立するはずもなく、結局のところ、恋愛によって人生観を決めていく人々が大半でしょう。人生のために結婚があるのではなく、結婚のために人生がある……ここに結婚生活を維持する難しさがあります。

 一般的に、恋愛の過程においては、女性の方が夢想的で、失恋から学ぶことも少ないようですが、結婚以後は、日常生活の様々な雑事や、義理の家族の対人関係、そして特に妊娠・出産によって……つまり、女性の方が結婚によって大きな生活上の変化を受けるから……女性の精神性は男性よりも速いスピードで成長を遂げていくものです。

 愛する人の後ろに付いていたつもりが、又は、共に歩いていたつもりが、いつのまにか先頭を歩いている……こういう悩みを持つ女性は少なくありません。反対に置いていかれることに寂しさを覚える男性もたくさんいるものです。

 人生は霊性向上の修行の場であり、生きるということは、成長するということなのです。かりに二人が、自分の心を育てることの大切さを忘れていたとしても、日常の様々な出来事の中で、否応もなく人の心は成長を遂げます。しかし、心の成長を人は目で見て理解することは出来ないのです。ただ漫然と配偶者を眺めていては、その変化に気がつかず、変化に気がついたときには、心の断絶が埋められなくなっている……そういう悲劇は世に満ちています。

 結婚すると大人になる人と、配偶者に甘えて子供になる人がいます。たいていの場合、恋愛で醜くなる人は、結婚で子供に成り下がります。

 日々の営みは、食事や給料の受け渡しだけではありません。心のやり取りも大切になさっていただきたいと思います。


交際相手に霊の影

2005-07-14

Q 「交際中の彼に、女性の霊が憑いて居るのを感じます。どうしたら取り除けるでしょう?」

 浮気心を生き霊の働きと見たり、色情因縁霊のせいと思うのは、オカルトマンガの読み過ぎです。――昔の人、または、素直な人ならば、こういうときは文字通り、「女の影がある」と理解します。つまり、他にも交際中の女性がいると見なすのです。

 ここでいう影とは必ずしも比喩ではありません。実体がもたらす影響を直感的に感じ取ったものだから「影」と呼びます。そして、影とは実体があり、照らす光があって初めて生じます。実体なしの影もなければ、照らすものなく影は生じません。実体をそのままで影を消そうとするのはナンセンスな話ですし、ここでいう照らすものとは即ちあなたを導く光なのです。
 要するに、あなたの守護霊や祖先の霊が、交際相手の誠意の不足を知らせてくれているのです。

 そもそも道義的にいっても、このような除霊はうまく行きません。あなただけを見ている人なら、生き霊や因縁霊が働きかけても、相手にしないことでしょうから。


道ならぬ恋

2006-04-15

質問

 長年の友達(女性)が彼女のいる人と関係を持っています。いくら止めても本人同士の問題なので、止まりません。それはわかります。でも、「二股かけているような男が誠実なわけないでしょ?自分でわざわざ苦しむほうへ向かってどうするの?」と言ったところ「あなたなら私を止めてくれると思って相談したの。私を止めてね。」というのです。
 まぁ、こんなやり取りを数ヶ月やっているのですが・・・酔って電話してきた友達とケンカ直前までいってしまいました。私は純粋に彼女が心配で、彼女が苦しむ姿を見ているだけに居たたまれなくなり、つい言ってしまったのですが・・・。
 余計なお世話をしてしまい・・・また、自分が短気なことに自己嫌悪・・・そこで質問ですが、

1,人の道から外れようとしている友達を助けたいと思うのは偽善なのでしょうか? それとも自己満足でしょうか?? いい人でありたいという願望から起きた行動なのでしょうか??
 どの道長く続く関係ではないのだから黙って見守るべきなのでしょうか??

2,悪いことをしていると分かっている(本当に分かっているのかどうかは分かりませんが・・・)人に正論で責めた私は汚いでしょうか? キレイ事を並べてるだけですか??

回答

 問題の捉え方が間違っています。彼女は恋をしているのではなく、ドキドキ感を追いかけているだけです。ですから、「危険な恋」でなければいけないし、他人から批判される「恋」でなければならないのです。

 酔って電話をするのもつまり、あなたに反対してもらいたいから。反対されることでドキドキ感が増し、「恋」が燃上がっているのです。まして、裏切られるかもという恐怖感も又、「恋」を燃上がらせているのです。

 そもそも、問題の捉え方を間違えば、解決策など見えてきません。あなたにとっての間違いは、「彼女の幸福を願うこと」で、その彼女が望んでいるのは幸福ではなく、ドキドキ感……快楽という捉え方もできるし、暇つぶしのための興味の向かう先とも捉えることができます。

 また、彼女にとっての間違いは、ドキドキ感と「恋」との混同、スリル感と快楽の混同、忙しさと充足の混同、ひいては幸せの感覚です。

 あなたが、「人の不幸の上に自分の幸福はありえない」と事実を諭しても、彼女は表面的にはともかく、本音は幸福を求めているのではなく、精神的な快楽を求めているのですから、あなたの話に価値を見いだしはしません。こうなると、もう「人の恋路を邪魔する……」というより、「バカに付ける薬はない」に近いでしょう。実際、心配をかけることに喜びを見いだした友人は、単なる疫病神です。それだけは絶対に止めて欲しいものですね。

 さて、質問に順を追って答えてみます。

1-1, 「助けようとするのは偽善か?」

 いえ、むしろ、単なる「あなたの迷い」にすぎません。人はそれぞれの人生を歩み、それぞれの選択肢の中から最善を選んでいるのです。むろん助け合いは大切なことです。ですが、その友人が、本当に相談する気があるなら、あなたの言葉を大切に実行しようと努力すべきです。むろん、他人の生き方をあわてて付け焼刃したところで実行するどころか、かえって拗らせることがよくあるのですが、それはそれ。他人に助けを求めながら、自身の努力が欠けたらそれこそが人の道に反します。

 恋愛問題は、人の道云々以前に、心身の欲求に負けた……という捉え方もあります。恋は、たとえ間違った恋であろうとも、熱病のような物として扱うべきであって、病気の結果として仮に友人を裏切る結果となっても寛大に許すべきことの一つでしょう。――ですが、病気になっても適切な治療を施さないのであれば、それは不可抗力というより、単なる人災です。こちらの方が罪は重いと考えるべきです。

1-2, 「黙って見守るべきだったんでしょうか??」

 たとえ相手が迷惑な相手であれ、又結果が不毛であろうとも、人には成すべき事があります。この場合大切なのは結果で はなく、あなた自身の行為です。友人には友人の勤めがあります。たとえ結果がどうであろうとも、あなたは、為すべき事を誠実になさねばならぬのです。それが友人であることの代償です。


2、「正論で責めた私は汚いでしょうか?」

……あなたには、身にやましいことがあるか否かは詮索いたしません。

 心霊主義は、物事を善悪では捉えません。可否で捉えるのです。その意味でいえば、スリルからくるドキドキ感を、恋愛感情と錯覚しているカップルに対して、倫理で物事を語るのは、キレイ事というより間の悪い冗談でしかなかったでしょう。 大切なのは、間違いに気がついた後の対処と、その経験から何を学び取るかということです。

 たとえば……自分が間違った恋愛、または曲った恋愛にどっぷり浸っているときには反省し得ないようなことも、友人・知人の恋愛からは多くの経験則を学び取ることができます。また、感情起因の動機……たとえば好き嫌いなど……が、決して神聖なものではなく、むしろ多くの錯覚に起因していることも大切なことです。自分の心に起る事々についての正しい洞察力がなければ、決して自分を満足させることはできず、満足できなければ次々と間違った努力を重ねることになるでしょうから、錯覚に気がつくこと、せめて錯覚が多いことに気がつくことは人生においてとても大切です。

 あなたが努力の結果、余計なことをしたと感じるのは、努力の結果が不毛であったからにすぎません。 相手にとっての結果が不毛だっただけでなく、あなた自身も適当な結果、つまり経験則の学習が出来なかったから、「余計なことをした」という感覚に捕われるのです。

 でも、この問題は、恋愛問題ではなく、「快楽主義の生き方」にあるのです。設問を間違えば、正しい答は導けませんし、なによりも重要なことは、 人々が自分の目指すところを正しく認識しているとは限らないことです。

 ではどうするかって?……人の勘違いを正すには、論理よりもトンチが適当だったりするのですが、あまり品の良い話題にはなりませんので、私信でのみお返事いたします。


何を学ぶべきか?

2002/04/03

迷える霊が来て、あなたに霊界の道を訊ねたとします。

あなたはきちんと道案内出来ますか?

出来ないとしたら、あなたは死後に、

迷わず霊界に行けるでしょうか?

死後に迷わずにいられないとしたら、

あなたと迷える霊とどこが違うのでしょう?


2002-04-03

 

心の汚物

2002/04/03

2002年4月20日の精神統一会にて

2002年5月23日追加

 ちょっと複雑な霊査内容です。

 突然汚い話で申し訳ありません。

「人は毎日顔を洗うけれど、心を洗う人は稀……」という話がありますが、身体は動けば垢も出るし、皮脂も浮きます。心だって、喜怒哀楽すれば、汚れた妄念が生じるものなのです。

「美人は絶対に排泄しない」という戯言がありますが、お腹の中に排泄物が溜まった美人なんて、想像するにあまり香しくはありません。ですから排泄物はお腹に貯めずに、どんどん吐き出していただきたいと思うのです。

 同様に、善良であろうとする人の多くは、心の汚物(愚痴や恨み言など)を出さないことを美徳と考えていらっしゃいますが、人前で排泄したり、はたまた、人に汚物をぶつけたりするような事は論外として、やはり心の中を汚物でいっぱいにするより、ちゃんと出すべきところで排泄するほうがより善いと思います。

 具体的には湯船につかりながら愚痴るとか、トイレの中で一人で愚痴るとかの、工夫が必要でしょう。ただし、二つ、大切なことがあります。

  1. まず、拭くことを忘れない……最後には気分を切り替えて明るく前向きになることです。
  2. ドアを閉めて用を足す……これから心の排泄をしますと、背後に宣言し、または自分でドアを閉めるところを想像してから始めるといいでしょう。ただし、閉めたら出るところも想像しましょう。

 人からなじられて、いつまでもそれが心のわだかまりになっている人は、相手の汚物をぶつけられた・心の毒気に当てられたと考えてください。復讐を思うのはナンセンスですし、相手の態度を見れば反省すべきかどうかが判断できるはずです。

 突然話題を変えますが、善人だって怒る時もありますが、「発つ鳥跡を濁さず」で、捨て台詞を残したりはしません。下手に捨て台詞を残したりすると、追い掛けられたりして再び面倒ごとに巻き込まれてしまうからです。つまらない相手とは関わらないほうが結局、自分の心を健やかに保てます。

 ところが、腹黒い人の場合、怒った後は捨て台詞を残すものです。普段から自分を善良そうに見せるために無理をしているから、決別する時にバネが弾けるように抑えきれなくなるのですね。

 人の腹の底を覗いたら、誰とも付き合えなくなるものですが、別れ際の態度を見ると、覗かなくても性根が判るものです。そこで問題なのは、いくらお腹に汚物を溜め込んでいても、性根が正しい人は、いずれ汚物を吐き出して素直になれるけれど、性根の曲がった人は、汚物を吐き出して、そこから叩き直さないと真っ直ぐにはならないのです。


 タオルで汚物を拭う。

 身体を拭うのには、タオルを使いますね。中にはブラシを使ったり、また手ぬぐいの愛好家もいるかもしれませんが、まず、入浴時に雑巾を使って身体を洗う事はしないでしょう。

 しかし、汚物が身体に付いたときには、洗い流せるならばともかく、タオルよりもむしろ雑巾を使います。無論、タオルで拭いてもかまいませんが、汚物を拭くのに使ったタオルはいくら洗ってもあまり入浴の際などに使いたくないものです。

 さて、普段、仏など拝みもしない人、説法などに関心を持たぬ人が、苦しいとき、特に霊障を感じた時などは、にわか仏教徒になって般若心経などを唱えたりする。霊媒の中にも、読経を進める人もいますが、なるほどそれで楽になる場合もあるでしょう。

 私は、読経するよりも読み解く方が大切だと思う性質なのですが、心鎮めて読経していると、目の前に光が現れ、聞き届けようとする霊が現れるのを確かに感じます。こうした時に読経者に憑依霊でも憑いているなら、きっと取り去ってくださるでしょうね。

 一方、霊媒の中でもベテランに属する人は、素人が霊障時に読経すると、かえって、供養してもらいたい低級霊が集まって危険だという人もあります。これは要するに心構えの問題なのですが、心鎮めて読経するのでなければ害が出る事もあるということは心に留め置くべきでしょう。

 また、私も除霊を求めて素人が読経することには反対の立場をとります。まるでタオルで汚物を拭うようなものだからです。

 いえ、お坊さんなどでは、「心の汚物を拭うのに読経するのは大いに結構、仏は穢れぬ」……という立場をとる方もいるでしょうが、困ったときだけ読経をするような人は、お経を雑巾扱いして、つらい時、苦しい時だけ読経し、心を清める為という、本来あるべき目的には使わぬのではないかと思うのです。……つまり、汚物をぬぐうのにタオルを使ったら、その後はタオルを雑巾にしてしまうでしょう。なるほど仏は穢れなくとも、使う人が仏を雑巾扱いする事はあるのです。

 除霊が必要ならば、一回、般若心経をあげるより、『助けてください』と十回唱えた方が、手っ取り早く、効果的だと思います。そして、助かったら、感謝の意を表すつもりで、静かにお経なり祝詞なりを上げればいいわけです。

 苦しみから逃れたくてあげるお経や祝詞というのは、聞いていてあまり美しいものではありません。それはまるで魔術的で、素直ではありません。素人が知りえるお経の大半は、要するに仏様にゴマをするための言葉の羅列ですし、祝詞だって神をたたえる言葉だけで、こういう言葉を唱えるというのは、助けてもらう為にへつらうような醜さがあります。ですから、つらいなら、はっきりと「たすけて」という方がよほど嘘が少ないではありませんか。

 ほっと一息ついたとき、受けた恩を忘れずに、極力静かに感謝の祈りを捧げられるなら、単に災難から逃れられるだけでなく、難が転じて福となる事もあるでしょう。私はこういう祈り方をしています。


心霊とは何か

2002/04/02

霊を考える

 絵の具を塗りたくった一枚の紙を見て、それが絵であるか、筆に余った絵の具を擦り取った紙であるか、科学がどう証明出来るというのでしょうか。そして偶然の産物であれ、それに価値を見出す者がいるとしたら、科学はそれでも絵ではないと証明出来るでしょうか。

 私の研究対象の心霊を、この喩えで説明すると、「なぜ多くの人々がそれを『絵』と感じるのか……」という事なのです。つまり、霊が人間の観念の産物なのか、実在なのかは別として、霊は存在するのです。その存在の有無を論じるのは愚かな話としか言いようがありません。実のある論議といえるのは、霊が「観念」か「実在」かの判定なのです。

 もう少し考えてみましょう。心理学という社会的に認知された学問があります。だれもが心の存在に疑問を投げかけはしませんが、心を具体的に測定する手段が存在するわけではありません。ただ自分の心に確信を持っているから、心の存在に疑問を持たないだけなのです。

 同様に、人間が認識する「」、又は「」は、その正体が心の働きの一部と仮定し、心の存在を無視して生活する事が難しい一方で、霊魂の存在を無視しても生活に何の支障がないとしても、それが何らかの働きを持つ以上、応用技術が存在するのです。

 その応用技術者が、霊能者であると考える事が出来ます。そして、他の霊を認識する事はだれにでも出来る事ではありませんが、心霊の知識は、霊能者以外に応用方法が無いわけではありません。自分に内在する霊性に気がつけば、霊能者が第三者に行うような応用技術を、自分自身に応用する事が出来るのです。

霊界を考える

 肉体の有無は、表現方法の変化をもたらしますが、表現の方法が変わっても人間の本質は変わりません。魂を人間の本質に置く事から導かれる「主義」です。仮にあなたの親が老人性の痴呆症になったとしても、あなたは山に棄ててくる事はないでしょう。病気や怪我、又は、老化によって上手に自己表現が出来なくなっても、人間にとって、親は、自己表現方法の有無に関わらず、親なのです。いえ、死別してもなお、親である事には違いがありませんね。そして、心理学的には別な説明があったとしても、死別したはず人の意志を、多くの人が感じているのです。だから観念か、実存かは棚上げして、霊界も存在するのです。

 現実には、親子といえども殺し合い、また、棄てる者もいるのですが、それは親子関係は真理や法則によって支配されているのではなく、人間の情によって支配されているという事の証でもあります。その情の行き着いた先が、生死によって人間の本質が変わる事が無いという信念であると考えて見てください。

 死後の世界の存在は、確かに非科学的かもしれませんが、否定的な証拠が無いのに死後の世界を否定するのは、「非人道的」とは言えないでしょうか。情は証拠にはなりませんが、情を否定したら死後の世界は必然性を失うのです。そこには個人がただあるだけになるでしょう。

心霊主義

 人生の中で心の在り方に留意すると、精神活動から更に奥深い霊的な働きが、おぼろげにみえてきます。その霊的は働きを生かすライフスタイル。それが私にとっての心霊主義です。

  • この世に生まれてきた事は偶然ではなく必然だと思う。
  • たかだか百年前後の生物的な寿命で人生を考えたくない。
  • 老衰や、障害や、病気によって、自己表現が制約されたとしても、愛する人の本質は何も変わらないと思う。
  • 死によって、自己表現の手段が失われても、愛する人の本質は何も変わらないと思う。

 以上の四点は、普遍的な真理とは言えませんし、科学的に証明するような事でもないでしょう。だからこそ「主義」なのです。

 たとえば菜食主義者の中に、乳製品を食べない者もいれば、アイスクリームならばいくらでも食べる人もいるように、主義はその人の個性の現れであり、あまりにかけ離れた思想の持ち主には、違う主義名を名乗って欲しいと願うかもしれませんが、多少の違いは尊重されるべきだと思います。

 また、死後の世界を信じる事は、死後の世界との関わりも肯定する事になるわけですが、人生に置ける比重で考えるなら、他との繋がりよりも、自己の在り方である、「人生は霊性向上の修行の場」、「知る事より感じる事」、「方法ではなく、表現に乗せられた相手の心を感じる」といった信念が、心霊主義の根幹ともいえます。

抽象と具象

 霊界の代理人としてのわたしは、相手と相談・質問内容を見て、わざと曖昧な表現を繰り返すこともあり、反対に明言することもあります。そもそも、霊とは物質の対語としても用いられる言葉であり、姿が無いからこそ見えないのです。霊視とは、姿の無いものを抽象として捕らえているのであって、実相をしめすものではありません。

 つまり、心霊の話の大部分は、あくまでも抽象を対象としているのであり、具象を説明しているのではないのです。その事を理解している相手ならば、端的に説明しても誤解はないことでしょう。もちろん、具象に関する事ならば明言も出来ます。

 しかし、抽象的なものを説明するには、やはり抽象的な表現が一番嘘が無いのです。

 私が再三、「知る事よりも感じる事」「頭で考えるな腹で考えろ」と皆に言うのは、霊界の風景も、生活の様相もしょせんは、抽象であって、実相でないからなのです。たとえば、複数の霊能者が、一個所に集まり、同じ人を霊視したとします。ある霊能者は生前の容姿を見て、「美しい人だ」といい、別な霊能者は心がけを見て「醜い人」という事もあるのです。物質的な観点を霊界に持ち込んでも正しい認識は出来ないのです。

 抽象、具象の区別が付けば、霊に関する記載の矛盾の大部分が霧散する事でしょう。人々が心霊をいかがわしく思うのは、抽象画を風景画と思い込むところにあるのです。抽象画である事をわきまえるなら、何の不思議も無い世界なのです。

様々な意見

 霊界の代理として言うのなら、心霊知識は地上の言語で表現する事に限界があり、霊能者としての立場で言うなら、そこには心霊で生活する者の利権を守る為の様々なトリックが常識として横行し、正直言って、私は心霊の肯定論者に名を連ねるのは苦痛を感じます。否定論も肯定論も、もっと良く考察し、本質を見誤らない努力が必要なのです。

 ですから、真相を追求するのに、感情論を展開する学者(学者に限りませんが)は論外として、否定であれ、肯定であれ、心霊に関してまじめに接してくれる学者が増えてくれる事を切に願っています。

 そもそも、霊とは物質の対語としても用いられる言葉であり、死後の実在としての霊や、その霊たちが暮らす霊界が、どのような姿か、どのような風景か、と疑問を抱くのは、ナンセンスなのです。姿が無いからこそ見えないのです。霊能者がそれをあえて霊視するのは、抽象として捕らえているのであって、あくまでも抽象ですから、霊能者の才能、能力によって、その表現に差が出るのは当然の事なのです。

 たとえば「慇懃無礼」、表面上は丁寧でも、侮蔑の意図が見える態度がありますね。そういう相手の表面しか見なければ、礼儀正しい人に見えましょうし、相手の心を見透かせる人なら、無礼な人と見えましょう。たとえば現象や物質の属性を分析するのであれば、観察する対象は非常に明確ですが、一体、心霊を研究する人は、例に出した、慇懃無礼のどこに注目すべきなのでしょうか。

 人間の内面、本質である「魂」を研究の対象にするのに、表面的な態度や言動だけを見て、見抜ける物ではありません。疲れていればぞんざいな態度になる事もありますし、寝ている相手に呼びかけても返事は得られないでしょう。自分に利益をもたらす相手には丁寧な態度を取り、不利益をもたらす相手には自己防衛の態度を取る。それらは表面的なごく当たり前な反応ではありませんか。

 人間の外見は、若ければそれなりに美しく見え、衣服や化粧で装う事も出来ます。魂もその自己表現はいくらでも装えるのです。

証拠もなく信じれば宗教となる

 また、多くの心霊論議は、否定論、肯定論双方が、きちんと用語の定義をしないで始めるから、当事者は知らずに、「心霊教」と、「心霊否定教」の信仰力のぶつかり合いになっています。定義のない言葉を証明しようとする段階で、すでに非論理的な議論となっていることを失念しているのです。

 心霊否定論者は、肯定論者も笑うような“物”を対象に否定論を繰り広げ、肯定論者は、観念と実在の区別をしない。これでは議論が平行線をたどらないほうがおかしいのです。

「幽霊の正体見たり、枯れ尾花」

 心霊肯定論者も、この言葉の意味を軽視する事は出来ません。一般に心霊現象と信じられている事の多くは、実は迷信や錯覚に過ぎないことを、多くの心霊肯定論者は知っているはずなのです。感情論を除いて、否定論者と肯定論者の意見の八割は同じなのではないか、傍目にはそう思えます。

 心理学が、存在を客観的に観測できない「心」を対象にしながら、きちんと科学として成立するのは研究の参加者たちが、きちんと自分の心を認識しているからとも言えます。なのに、心霊の分野においては、死後の実在としての霊に注目するばかりで、今、生きている人間の本質としての魂をとても軽視しています。死後も意識が存続するとしても、人間は、死して突然、神や仏や、高級心霊になるわけではないのです。自らの魂を観ずるならば、少なくとも死の直後にあるだろう、境涯は容易に想像がつくものでしょう。

 心がけが悪ければ、永遠にたどり着く事も出来ないような、高い境涯を論じる……そのような心霊主義(スピリチュアリズム)は、証拠もないままに神を信じる宗教とどう違うというのでしょうか。誰もが自覚のある心でさえ、客観的な観測が難しいのです。死後の実在を客観的に観測するのは、さらに難しいのはごくあたりまえの事です。手の届かない遠くの物よりも、まず、自分の中に潜む霊性、意識の中にわずかしか顕現しないと言う魂を表に出し、自分の主人に据えて初めて、心霊知識を宗教ではなく、主義になしえるのです。

地上生活に生かす心霊知識

 心霊は、手ごたえがないのではないのです。皆、見当違いなところを押しているから反応を得られないのです。そして、人間に良い人もいれば、悪い人もいるように、その延長線にある霊界にも善悪取り混ぜていろいろな霊が存在するのです。
 決して恐れないでください。しかし、決して弄ばないでください。

 物質的世界は、わずか百年前後、滞在するだけの仮の宿ですが、霊界は永遠にも等しい時を過ごすべき世界なのです。地上で失敗する事は、やり直しのチャンスが与えられますが、霊界での失敗は永遠に引きずらずにいられないのですから。


2002-04-02

お知らせBy老神いさお。

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