‘2002/01’ カテゴリーのアーカイブ

心霊主義

2002/01/07

心霊主義

最終更新日 2002年01月17日

 人生の中で心の在り方に留意すると、精神活動から更に奥深い霊的な働きがおぼろげにみえてきます。その霊的な働きを生かすライフスタイル。それが私にとっての心霊主義です。

  •  この世に生まれてきた事は偶然ではなく必然だと思う。
  •  たかだか百年前後の生物的な寿命で人生を考えたくない。
  •  老衰や、障害や、病気によって、自己表現が制約されたとしても、愛する人の本質は何も変わらないと思う。
  •  死によって、自己表現の手段が失われても、愛する人の本質は何も変わらないと思う。

 以上の四点は、(少なくとも現状では)普遍的な真理とは言えませんし、科学的に証明するような事でもないでしょう。だからこそ「主義」なのです。

 たとえば菜食主義者の中に、乳製品を食べない者もいれば、アイスクリームならばいくらでも食べる人もいるように、主義はその人の個性の現れであり、あまりにかけ離れた思想の持ち主には、違う主義名を名乗って欲しいと願うかもしれませんが、多少の違いは尊重されるべきだと思います。

 また、死後の世界を信じる事は、死後の世界との関わりも肯定する事になるわけですが、人生に置ける比重で考えるなら、他との繋がりよりも、自己の在り方である、「人生は霊性向上の修行の場」、「知る事より感じる事」、「方法ではなく、表現に乗せられた相手の心を感じる」といった信念が、心霊主義の根幹ともいえます。


心霊主義とは


 心霊主義という言葉は、本来、スピリチュアリズム (Spiritualism) の訳語として生まれました。そしてスピリチュアリズムとは、後に様々な思想を付加されはしましたが、本来は死後の個性存続、霊魂の実在肯定論として生まれた思想です。

 私は、スピリチュアリズムに敬意を払いつつ、新しいスタンスで、心霊を語りたいと思います。そして私が目指すのは、新・心霊主義ではなく、真・心霊主義であり、真であるがために、あえて、心霊主義を名乗りたいと考えます。しかし、それは誰かの過ちを正すとか、新しい思想を述べるとかいうことではなく、もう一つの視点を与えようという試みに過ぎません。

私は「心霊主義」を提言いたします。

 それは死後の個性存続、転生や再生の証明や信仰を目的にするのではなく、自分の本質を霊魂に置こうという提言なのです。

 心霊主義への祈り

 私の信念は、心霊主義に捧げられています。それは単にスピリチュアリズムの訳語として「心霊主義」という言葉を使うのではなく、人間の本質を心・霊に置くという考えからのものです。

 『人間の本質は、肉体ではなく、心でもなく、心の本質であるその魂である』 私が求めるのは、物質的な豊かさ、でも精神的な豊かさでもありません。いえ、もちろん、豊かさの大切さを否定はしません。ただ、私が真に望むのは、魂の豊かさなのです。魂の豊かさ……それは死してもなお失われる事のない、永遠の財産の事です。

 私たちが生まれてきたのが、偶然ではなく、必然であるなら、私たちが学ぶべきは「死後の世界」ではなく、私たちが生きるこの世界であるはずです。死は誰も免れえませんから、心の準備をするのは大切ですが、私たちは死ぬ為に生まれたのではなく、生きるために生まれてきた事を忘れるべきではありません。ですから私にとっての心霊主義というのは、霊界研究が主たる目的ではなく、前世、今生、来世と連なる人生において、良く生きる方法を学び、考えるという意味をもっています。

 そう、私が望んでいるのは、死でも、生でもないのです。

 肉体の生死ではなく、永遠の生なのです。

・・・・・

 そして永遠の生に

 霊は実在するのか?   死後の世界は?

 霊界が存在するという、確たる証拠なんて存在はしません。

 と同時に、心が存在するという事も、誰にも証明できないのです。

 すべての人に心は宿ります。それは当り前の現実というだけで、科学的に心が証明された事はありません。それは脳の反応かもしれませんし……全く別の何かという可能性も、残されています。となれば、あなたは一体どこに存在するのでしょうか。脳?それとも心?または魂?

 ここに死を恐れる人からのメールがあります。「霊界があるという確かな証拠があれば、強く生きられるのに……」、申し訳ありません。生とは与えられるものではなく、勝ち取るものなのです。私はあなた方に永遠の生の証どころか、今生の価値さえ示す事は出来ないでしょう。

 私のいう、心霊主義というのは、人間の本質を魂と考える思想です。肉体が滅びた後も存続する生。それは人生と同様に勝ち取るべきものなのです。ですから私には皆様に何一つ証を与える事は出来ません。ただ、自らの霊性と周囲の霊性を大切にする皆様が、永遠の生を体感できる様に努力するだけなのです。

 心霊は確たる証拠を残しません。それは決して心霊が不確かなものだからなのではないのです。私たち人間は、世界を感じるのに、肉体的な、すなわち物質的な、反応に頼らざるを得ないのです。ならばこそ、私たちが認識するすべては、肉体の中に宿る事になります。

 端的に言うのなら、肉体を通してしか知覚できないものは、すべて肉体的な要因と説明できるということなのです。 現時点では、心が存在する。その延長線上に魂や霊性が存在する、そうとしか説明が出来ないのです。と同時にあなたが自らの存在に自信を持たなければ、誰もあなたの実在を証明できはしないのです。

 ですから私のいう心霊主義とは、何かの永遠性を証明しようとする考えではなく、自らの、永遠の生の生き方を作り出していく考え方なのです。


未知との出会い

2002/01/03

 どう転んでも、人には器がありますから、理解を超えた物、存在というのがあって当たり前です。しかし、自らを超越したものが正しいとは限らないわけで、物事には、正しい、間違っている……その他に「理解の外にある」という三番目の選択肢があるはずです。

 しかし、多くの人は、「理解の外にある」を、正しいに含めてみたり、間違っているに含めてみたりして、第三の選択肢を持たない人が多いですね。ですが理解を超えたものは、「わからない」という答えで良いと思うのです。時と共に知識も増えて、いずれ理解が及ぶかもしれないのです。無理に分かった気になるよりもよほど、判らないままにしておく方が良い事でしょう。

未知との出会い”は人生に彩りを与えてくれます。未知なるものがあるというのは、確かに不安かもしれません。しかし、未知なるものに出会えなくなったとしたら、毎日が当たり前の連続となってしまいます。それはなんと退屈なものでしょうか。未知なるものを受け入れるゆとりが欲しいものです。

器の大きさ

 この理解力の限界を、人間の器と表現する事も出来ます。一般的には包容力を指して、人間の器と表現するのですが、「わからない」と言えないのは、他人どころか、非力な自分すら、受け入れる事の出来ない心の狭さを意味するわけです。

 この事は、人と議論になると痛切に感じます。余裕の無い相手と議論をすると、すぐ感情的な真偽論に流れてしまいます。仮に真偽を突き詰めても、自分たちの器の小ささを確認するだけの事にすぎないのにです。目には、物質の存在だけしか見えなくても、想像力や知性、霊性を働かせる事によって、“その物”の可能性までも“見通す”事が出来るものです。

 何かを論じ合う時、事実や真偽だけを論じるのならば、答えは一つしかないはずですが、その可能性を論じるのならば、答えは無数に、無限の広がりが出てくるものです。ことに心霊主義を標榜するのなら、物質的な視点や、時空間の制限に囚われず、もっと様々な可能性を論じて行きたいものです。

  そして、それこそが霊性向上への道でもあります。

 本来、互いの無知に気が付合うのは、楽しいものなのです。その様な議論こそは、自分の可能性を押し広げ、未知の世界を垣間見せてくれるものなのですから。


最終更新日 2002年01月20日

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