‘異界の窓’ カテゴリーのアーカイブ

霊媒の資質

2006/04/12

 霊媒の資質について重要な事があります。聞けば当たり前すぎて、ばかばかしくなる事ですが、でも、身近に霊媒能力の持ち主がいる人にとって、この資質を満たしていない霊媒があまりに多い事に驚かれるでしょう。そして霊媒の知り合いがいない人は、あまりの単純さに呆然となさるかもしれません。

その資質とは、「人の話を聞く」事なのです。

 実はこれがとても難しいのです。特に霊媒能力の持ち主にとって、これがどれほど高いハードルであるか、想像も出来ない事かもしれません。

 「霊媒は、口を利いてはいけない」というのではありません。話が無駄に長いのは迷惑ですが、霊媒ならではの体験談や目撃談を心待ちにしている人も多い物です。ですから、話をするのは大いに結構です。問題は、話すばかりで一向に人の話を聞かない霊媒です。

 人の話を聞くためには、集中力や寛容力、理解力をそれなりに求められるものです。生きている人相手であれ、死者の魂であれ、共通の資質なのです。ですから、人相手に話を聞かないのなら、果たして霊を相手にちゃんと話しているのか、疑問に持たれる事でしょう。実際、「人の話を聞けない霊媒」は、ただ思いつきだけで話し続けるもので、そういう霊媒ほど、人を誤解しがちです。

 しかし、人を誤解する霊媒に、いかなる霊力を期待できるというのでしょうか?

 あなたが誰かに相談を頼む時、あなたを誤解するような霊媒と、あなたを暖かく理解してくれる非霊能者と、一体どちらが頼りに出来ると思いますか?

 霊媒の葛藤

 しかし、私も霊媒ですし、未熟さを徐々に乗り越えてきた身ですから、理解できる事もあります。霊媒が人の話を聞くのは容易なことではありません。

 子供の内は、素晴らしい空想力を備えていても、大人になる過程で現実的になる事を迫られます。そうでなければ他人と価値観が共有できないからです。そして、空想と共に不可知なものを無視する分別(?)を身に付けて人は大人になっていくのです。しかし、そのような分別のあり方は霊媒のあり方と相反するものです。

 霊媒は、他人には説明し難いものを見聞きし、感じ取る力を持っています。でもそれは同時に、人とは知識や価値感を共有できない孤独へと霊媒を追い込んで行きます。もちろん、霊界側は手厚く霊媒を保護しますが、霊媒の社会性が失われかねない危険性を拭い去る事は出来ません。

 振り返れば東洋思想……特に老荘・仏教思想の素養が、多少なりともあった事が私にとって救いだった事でしょうが、私も、霊感発現後に得た世界観、価値観と、いままでの自分との葛藤に苦しんだ事を覚えています。この葛藤から逃れる事は容易ではありません。必然的に霊感を得た人は、自分自身を信じる以前に、誰かに自分を信じてもらいたい欲求にとりつかれます。

 理解者を得られない霊媒は、死ぬほど孤独に苦しみます。そういう実例を私はたくさん見てきました。でも、その状態を自力で脱しない限り、人としても霊媒としても中途半端な存在となってしまいます。

 理解してもらいたいがために、よけいな事を言い、余計な事を言うがために人から嫌われて自滅に向かう霊媒も数多くいます。その原因は明らかです。霊媒であろうと無かろうと、不安や不信は高級霊との絆を断ち切ってしまうからです。

 寛容であるべきです

 特に霊媒能力を持っている人は、寛容であるべきです。いえ、心霊に関心をお持ちの方はすべからく寛容さを身に付けるべきです。と同時に、奉仕の気持ち、それも無償の奉仕の気持ちをお持ちになるべきです。

 (私は有料の心霊相談には、それなりの価値があると思っていますが)

 人は皆、懸命に生きていればこそ、知らず知らずに敵を作り、罪を作るものです。そんな皆様を許し、導き、幸せに成れる用に努力する霊たちの心は、寛容さと無償の奉仕の念でしめられています。ですから、皆様の心も寛容さと無償の奉仕の念で満たされるなら、寛容で奉仕の念の篤い霊たちとの間により強い絆を結ぶ事が出来るでしょう。

 反対に、狭量で横着な人々がいかなる霊と絆を結ぶ事になるのか……出来る事ならば、体験せずに前進なされる事をお勧めします。

 謙虚であるべきです

 特に霊媒能力を持っている人は、謙虚であるべきです。いえ、心霊に関心をお持ちの方はすべからく謙虚であるべきです。なぜなら、邪悪な霊、または無責任なくせにおせっかいな霊たちから、皆様を守っているのは、力強くても謙虚な霊たちだからです。力は諸刃の剣。人に振るえば我が身を滅ぼす事もあります。

 だからこそ、無用な力の行使を避けるためにも、人は謙虚であるべきです。

 分別をお持ちになるべきです

 謙虚である事と一部かぶさるところがあります。

 理想に燃えた努力家は、親切なあまり人の迷惑を顧みない事がある……実にばかげた事です。人権の意味を知らない人が余計な事まで手を出し、迷惑がられるのです。そして、人権の意味を知らないというのは人を知らないということです。

 自分が為すべき事と、為すべきでない事、その分別をお持ちになるべきです。


 霊媒に不向き

 以下の人は、霊媒に絶対に不向きです。

 いわゆる自己肥大。自我のインフレーションなどと呼ばれる精神状態にある霊媒です。尊大な態度をとるために霊媒になるような人も世の中には多いわけです。そして、日本では交霊の事を古来から、「神降ろし」と表現していますが、神降ろしの最中には、霊媒は神となるのです。神となるで生まれる自尊心の酩酊に溺れたら……神となるために必死に霊(?)の言葉を聞き取り伝えようとします。

 ですから霊媒内では、こんな軽口が出たりします。

『あの人、とうとう神(仏)様に成っちゃったよ』

 この場合の、神(仏)様とは、人の話を聞けない相手を皮肉った言葉でもあります。念の為に申し上げますが、この様な自我肥大は、霊媒に限った事ではありません。聖書や仏典、カルト文学から、霊訓まで、良く出来た言葉を利用して、神様・教祖様になりたがる人はたくさんいます。

 そこまでいかないまでも……おしゃべりな人は霊媒に向きません。自分に勝てない人が一体誰に勝てるというのでしょう?


2006-04-12

鐘を撞く

2006/04/12

 十数年前の話です。霊媒・永戸先生(故人)の講演会に参加いたしました。正直言って、話を聞いていても永戸先生のどこが大霊媒なのか、私にはまったく理解できません。いえ、 話題を一つずつ追いかけると、私の勤め先に関する興味深い話も聞けたし、私にとっては笑えない霊現象の体験もあったのです。

 でも、大霊能者と呼ばれる、その精神性の深みに触れる事は出来ませんでした。むしろ、その霊現象のことが腹立たしく感じられたぐらいです。

 しかし、その帰り道、私の先生がヒントを下さいました。

「霊媒は鐘とおなじ」

 意味がわからずにいると、

「きれいな音を出すには、上手に撞かないとね……」

 なるほど、質問が悪ければ、良い回答は引き出せません。

 ああ……大霊能者と呼ばれるのは、素人にもわかりやすい霊能者ではなく、霊能者から慕われる霊媒なんだな……確かに素人の評価なんて、身勝手なものです。当時の私の未熟な視点では、永戸先生の講演会は、ただのばあさんの自慢話以上ではなかったのですから。

 霊視を含めた、見た目や語り口だけでは、鐘の撞き方など、思いもしません。不幸にして、永戸先生とお目にかかる機会は二度とありませんでしたが、私の先生から教わった一言は、その後、様々な霊媒との出会いで役に立ちました。



 霊媒の講演会――トランストークであろうと、無かろうと、霊媒が霊界の意をあらわす場に立ち会うと……必ず、虚栄心、自惚れに酔っている質問者が一人や二人いるものです。

 通訳が困っているのに、自信満々に自説を提示し、霊媒に「霊界への意見を求めてくれ」と要求し、その内容に周囲があきれても気がつかずにいます。それを見ていて未熟ではあってもやはり霊媒である私などは、これらの質問や回答などに関心を抱けません。

 人の誠意に対するのに必要なのは、技量や才能ではなく、精一杯の誠意です。お互いの誠意は、魂の共感を引き起こし、強く分かり合えるのですから。しかし、人に認めてもらいたいだけの人には誠意は通じません。そういう人をあしらうには、一種の技能・才能が重要なのです。

 どんな相手であろうと、ぶしつけな態度は相手を傷つけるよりも、自らの品位を傷つけますから、できることには確かに限りがあります。そして質問者は一言つぶやいて退場します。

「どうせ、あんな奴には理解できん」

 ……それが聴こえた私も一言つぶやきます。

「私にも理解できません」

 人とわかりあうために必要な事を理解しない人が、一体どうして理解者を得られると思うのでしょう。結局、不満ばかりを募らせて、最後の神頼みなのでしょう。方法を間違っていると努力しても結果は出ないのです。


 霊界に認めてもらいたがるといえば、たとえばヒーラーをやっている人が、霊能者に自分を鑑定してもらいたがる事も見かけますね。そういう方々とお話する機会は、幸い(?)にもありませんでしたが、私などは、先生に叱られてばかりで、誉められたのは一度きりです。

 一度しか誉められていない事は、誇りに思っています。なぜなら、欠点を直されるたびに私は向上していくのですから。私はおだてられなければ生きられない人間ではないし、誉められたって欠点は直らないのです。

 霊媒から「あなたには、もう指導する事はない」といわれたら、最後です。地上にありながら、霊界の誰よりも秀でる事などあるはずが無いのですから。叱られるということは、私の指導を行える器量を持った霊たちが、見捨てずに私に付き合っているということなのです。

 そして、誉められた理由というのは、「あなたはいい物を持っているし、心霊をお金に換えていませんね」というものでした。それ以前から、私の先生は持論として、「男の子は定年で退職するまでは心霊に関わるな、関われば心霊をお金に換えるだろう」と言っていたのです。

 先生の持論は、結果として偏見だったわけですが、そもそも障害や困難を乗り越えずして、いかなる修行があるというのでしょう。先生の偏見は、私の乳離れを促しただけの事です。

 一生修行です。もしも、霊性の意味を知っていたら、そして、心の内面を磨くという事の意味を深く考えていたら、かのヒーラーも霊能者へ鑑定を求めはしなかったでしょうね。なぜなら、人々には心の内面なんて、見えるはずも無いのです。ただ、心がきれいな人なら、迷いや抵抗を感じることなく、人々に奉仕できるというだけの事です。


 思うのです。

自分の行いの結果以上に、厳正な評価があろうかと。

そして、真の助言とは、より良い結果を導くものだと。

 人に認められたところで、それは真の評価を意味しません。なんとなれば、人とは身勝手なものですし、移り気なものなのですから。

 霊媒は鐘とおなじ、どんなすばらしい鐘だろうと、上手に撞かなければきれいな音が出ないのです。もしもあの質問者の方々が、自分の行いへの評価ではなく、自分がより高められる行いへの意見を、霊媒に尋ねたら、いえ、尋ねる事が出来たなら、きっとすばらしい霊訓が飛び出したかもしれません。

 虚栄心や自惚れを暴かれて、霊媒を逆恨みしている人は多いですよ。守護霊信仰というか、「霊媒ばかりが霊界の助けを受けて幸せになりやがって…… 」と恨み言をいわれたことも何度もあります。

 努力の伴なわない才能に、どれだけの力があるというのでしょう。摂理や真理の霊的側面に関する無知が僻《ひがみ》みを生むのです。


2006-04-12

霊能力

2006/04/12

 時折、霊能力の開発法を尋ねられます。

 私は、「善良に、そして奉仕と共に生きることだ」と答えます。


 どんなに素晴らしい道具をもっていても、怠け者では仕事が進まないし、いざという時に道具を撰んでいる暇などありません。果たして、道具がなければ出来ない……と、ぐずぐずしている人がいざという時に役に立ちましょうか?

 有益なのは、今ある手段でやり抜こうとする意思であって、あなたが決意を抱けば、手段や道具は自然と集まってくるものです。

「ああ、私に霊能力があれば、人々のために懸命に働くのだけど」

 ……霊能力が無くても、世のため、人のために懸命に働く人は大勢います。そして……この世に霊能者は十分足りているのです。ただ、人々の甘えた心や虫のよい願望を満たすほどには足りないだけで。


 先日、「あんたなんかで心霊相談が勤まるの」と、先生に聞かれました。

「私じゃだめみたいだけど、先方(相談者)の背後様が頑張っていらっしゃるようです」

 と返事すると、先生は笑っていました。先生の守護霊も見守っています。……叱られなかったところを見ると、どうやら、今の私の努力は及第点を戴けたようです。


2006-04-12

霊感の主要因

2006/03/21

2006年 03月 20日


 昨日は、一年ぶりに、師と一緒にあちこちに出掛けた。今回は用事が立て込んでのことで、興味深い霊体験などはないが、過去の思い出から考察してみる。

 師と共に出掛け、その行く先々で、神社仏閣などをお参りするのは私にとっていつも楽しい経験となった。師と見たものを確認することで、自分の霊視内容に自信が得られるからだ。おおむね当るのである。ここでおおむねというのは、それぞれが印象を語るのであって、その内容の詳細を比べる手段がないからである。

 たとえばとある神社に一緒に参拝したとき、瞑目した私の眼裏には炎状のラインで画かれた、五大明王が次々に映し出された。とにかく、線画であった事と、その線が炎状に赤く揺らめいて濃淡が変るところが印象的であった。すると、師がおもむろに言出す。「へんねぇ、ここは神社なのにね」……そう私は、描画方法に感心するばかりで、、神社なのに仏像が見えることに疑問を抱かなかったのである。

 反対に、違うものを見て、それが一対であったことも印象に残っている。川崎太子を訪れたとき、師は龍を見、私は女神を見た。一対の竜神のそれぞれを見たのである。

 では、私は師と同等の霊視能力を持っているのか……その精細さや表現方法などを比べることは難しい、なんとなれば我が師は、すこぶる表現がヘタなのだ。そのことは買物を頼まれていつも苦労するところである。「円くて、でっかくて、びゃーとなる奴」等という表現だけで、師の欲するものを買ってくる私は、我ながらいつも関心しているぐらいだ。だが、その制約があれど、口にするテーマが同一であることから、私は充分に師に追いついているといえるのだろう。……というだけなら、ただの自慢話である。

 だが、師と一緒にいるときに感じるものは、私の普段よりも質が高いのである。実を言えば、買物も、車の運転手をするのも、他の誰かに頼まれ、又は一緒に行くときよりもよほど脳裏に対象がくっきりと映るから、うまくいく面が多い。何のことはない、師は口べたであるが、一種、テレパシーが巧く、私はそれを受信しているのだ。

 これはつまり、霊媒を受信機に見立てたときにその仕組がよくわかる。おそらく受信機としての性能は、その感度に差があれど、私は必要最低限を充分にクリアーしているのだろう。残る差は、送信機の性能にあるのだ。

 師の背後霊は、簡潔かつ必要十分の情報を提供することに長けている。一緒にいたときに私が多くを感じるのは、単にコピーを貰っているからに過ぎない。

 霊能者(あえて表現を変える)の才能とは、霊媒の個人的才能で決るのではなく、その背後霊の能力・才能に大きなウエイトが掛っているのである。そして、その背後霊は、必ずしも霊媒の独占契約というわけではない。…… だから旅行時などに私が同じものを見ることもあるし、逆に私だけが見えたりすることもある。

……では、背後霊を継承できれば霊能開発も簡単に思えるだろう? 実際、イタコや、いわゆる拝み屋などでは、神憑け等と称して、背後霊の継承を行っているようだ。これに関してはおもしろい話がいくつかある。「神様」にも好き嫌いがあるから熱心な人には神が憑かず、ボンヤリしている人が選ばれたとか、「神様」が師から弟子に乗換えてしまって師が突然に霊感を失い、嫉妬のあまり悶え死んだ等ともいう。

 ここで大切なのは、背後霊にも人格があり、好みがあって霊媒の思い通りにはならないと言うことである。私の師の背後霊達は、師の信仰心が素朴なところをとても愛していて、大半の霊達は、理論派である私のことを嫌悪……まではいかないが遠慮している。私のことを大事にしてくれるのは師の守護霊と祖母の霊ぐらいなものだ。その一方で、師のその又師の背後霊は、我が師が文物を大切にしないことから遠慮しているようだ。……背後霊たちの動機は、ドロドロはしていないが、実に人間的なのである。

 なお、念のために明記するが、私は師を低く見るのではない。山口で滝行したときなど、身を切られるように冷たい水に足をつけたまま、弟子である私らが滝行を終えるまで読経を続けていたことは私にとって強烈な印象であった。姉弟子等は水の冷たさに岩の上に逃げだし、私は一番最初に瀧に打たされて、後は早々に追出されたのである。(行着は濡れると透けるので、女性行者の所では実質男子禁制だ。)まったく、その精神力には頭が下がる。それゆえ私などは「口舌の徒」扱されても口を噤まざるを得ない。私だって男の子、「おれだってな!!」という気概はある。が、努めてそれを慎む。何しろ、

 巧言令色少ないかな仁……と、言われないだけ幸せなのだから。

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 同時に思う。霊感の主要因が背後霊であるのと同様、霊能者の問題解決力の主要因は、相談者自身の背後霊の強さであると。

・・・・・・・

 霊界通信の多くはいう。霊界の者達が好む資質は、素直であることと正直であることだと。同時に利他的であることも好意的に受け止められる。自分だけ助かろうとすることがなにより嫌われるのである。……たとえば、根が善良な人も視野が狭くて家族以外をみな敵と見なす例もある。……敵多くして人は滅ぶのである。


受身の統一

2006/03/19

2006年 03月 18日


  精神統一中に初心者が良くやる間違いは、一点に集中しすぎることである。これが結局、柔軟さを失い、受信を困難にしてしまう。 必要なのは己の意思を明瞭にすることであり、同時に返答を受信し、返答に応じて最善なる実現方法を自己の中に構築していくことである。

 易しく言換えると、人は自分の意志が伝わったという手応えがないから、さらに強く祈ったり、しつこく祈ったりするが、自分の意志を伝えようと力めば、「返事」が聞き取りにくくなってしまうのである。…… 「返事が欲しくて返事が聞こえなくなる努力をする」それでは努力に意義がない。意義のない努力は無駄であるし、なによりも無駄な努力に気がつかぬ事は、間違った方向性に向かっていることを恐れるべきである。

 ところで、霊的メッセージを受けるとき、霊媒は無論、邪念や妄念を捨てて精神を統一するのであるが、そんな時、私が言われるのは、 「完全を目指す必要はまったくない、最低限をクリアーすればよい」ということだ。つまり、より良い受信状態を目指すよりも、作業が出来れば十分であるというのである。と同時に、 「あまり熱くなるな」とも言われる。通信の面白さに霊媒が興奮してしまうと、脳の働きが活発になって、いわば筆がひとりでに動いてしまうのである。だが、その運びは、すでに通信霊の手を離れて霊媒のものとなっている。それでは、故人の面影が薄れてしまうのだ。

 つまり、霊媒……少なくとも私の精神統一は、ゆったりと静かな気持ちを持ち、それを維持することが目的であってそれ以上はすべて霊界側に任せている。一方、霊感を持たぬ人がなぜ霊的メッセージを受けられないかというと、それはもう人の数だけ答があるが、私が気がついた特徴的な事例では、

  1. 自分のために答が欲しいのは利己・エゴの働き、それを助けようとする霊媒は利他心が働き、霊達は利他心に応じる。―― 利己心を嫌うのは単に波動や好き嫌いの問題ではなく、 応じると要求がエスカレートしていくからである。(最重要)
  2. 聴き手の一喜一憂が通信を中断させてしまう。(修行を必要とする)
  3. 偏見が強くて答が歪む恐れがある。(かなり重要、こういうタイプの人には私も苦労する。 最初当たり障りのないメッセージだけに止めて、だんだん本題に近づいていくという手順を取るから、数回の参加を必要とする。)
  4. 頑固な人――性質的に頑固な人は、霊媒的には聞き下手と見なせる。
  5. 優柔不断な人――不用なことまで感じすぎて、重要なことを聞き落としてしまう。取捨選択が上手にならなければいけない。(勉強・ 修行を必要とする)
  6. 霊感の自覚は無いが、聞き上手な人――時折霊的メッセージを受けているが、霊視・霊聴の形式でないため、 自己の想念との区別がつかず、結局、自分の考えと霊的メッセージの区別がつかず、重要なメッセージを把握できない。(勉強・ 修行を必要とする)
  7. 非を改められない人、または追いつめられている人。(非常に危険)――自分に都合の良いメッセージしか聴こうとしない人には、 「自らを正せ」というようなメッセージこそが必要である。でも、そういう都合の悪いメッセージは聴かないという悪循環にある。 つまり正しいものを退け、間違いを欲しがっている状態なのであるから、霊的メッセージを得られないならまだ安全、 間違いを欲しがる(自分の苦境が誰かの間違いだと思いたいのだから困る)のだから、嘘やデタラメをいう霊を集めやすいのである。 ……念のため注意するが、嘘やデタラメをいう霊を侮ってはいけない。 地上の嘘つきも往々寂しさ故に口から出任せをいうものだが、 これが死者であるなら生活の必然もなく非常にしつこく、 また必死にしがみつく傾向がある。 こういう霊との縁を絶ちきるのは非常に困難である。
  8. 夢想家――地に足のついたメッセージを軽んじてしまう。7項の人と同傾向であるが、比較的軽度。


 以上の様な障害を克服することが必要と思う。


返事に戸惑う

2006/03/15

2006年 03月 15日


 当サイトの読者……つまりは心霊仲間が私宛にメールを出すと、私からハイテンションの返事が返ってきてずいぶんと戸惑うものらしい。それを必要とする人もいる一方で、すでに落ち着いた人から見れば何やら不快感も覚えるのだろう。傍目から見たら滑稽に見えるであろうことの出来事は、霊的修行……当人は無自覚の場合もあるが…… が進んでいる事の傍証でもある。

(今までこの問題を省みなかったのは大変な落ち度であろう)

 神霊(高級霊)の存在と、その加護を信じられるようになると、おのずとじたばたする事が減ってくる。

 助けを求める事が必要なのではなく、助けを受け止められることが大切なのだ。そして、闇雲に手を伸ばすよりも手元に流れてくるのを待つ方がよほど早いのだと経験し、加護の自覚が出来て、心はますます静まっていく。

 興味深いことは世に多いが、焦るほどのものは何もないとわかってきて、心は更に澄んでいく。無理な作為を考える必要はないのだから… …。

 心が落ち着き、心が澄んでくると、足りないものがあっても、人よりも少なくとも、無駄がないから自分が豊かだと思えてくる。と同時に、豊かさとは、得ることではなく、持っていることを生かすことだと理解するから、人の欲望に惑いを見抜き、他人がわずらわしくもなってくる。なにしろ、日々の生活の中で感受する刺激の中に十二分に向上のチャンスが含まれているのだから、いまさら他人に教えを請うて、自分の心の身の丈に合わない助言など必要としなくもなる。

 こういう状態に至った後は、人とグダグダ論じることに魅力を感じなくなる。……無論、会話も人生の喜びのひとつであるし、人である以上寂しさも感じるから、一切の会話がなくなるのではない。ただ、不毛な会話、レベルの低い話題を嫌うだけだ。

 私に迷いを打ち明けた上で、ここまで至った人が、私が忘れた頃に突然メールを打って(または掲示板への投稿)大変に焦ることになる。

 送信者も、そして、私もおおむね忘れていることだが、送信者と私とは、かつて不毛で低レベルの会話ばかりが続いていた。すべての答えは自分の中にあるのに、埋もれていた霊性を掘り出すまでは、当たり前のことばかりを話し合っていたのである。

 せめてオフ会などでちょくちょく合っている人ならばともかく、久しぶりの連絡に私が慌ててリロードする記憶は、この不毛で低レベルの相手ということである。送信者にとって見れば落ち着いた自分が当然となっているのに、私の記憶では迷える人でしかないのだからそこに大きなギャップがある。世話になったという思いが、送信者にして下手なメールを書かせるのに、返ってくるメールが高飛車に見えれば驚き、避けたくもなるだろうが、誰もそれを指摘することがない。……これが相談メールであれば、その都度、私もとるべき態度を背後に相談したうえで返事をするし、あった上で話すのならば百聞は一見に如かずの反応が出せると思う。だが、単に近況を知らせてくると、慣れた道でお説教をはじめてしまうのである。

 こんなつもりじゃなかったのに……いやまったく申し訳ない。


守護霊は口が重い

2006/03/14

2006年 03月 13日


  以前、札幌で出会った女性霊媒は、「あなたは人の話を聞く役目の人ですね。私もそうでしたが……」といった。彼女にとって霊媒とは、人に語る人ではなく、話を聞く人、であるのだ。と同時に、いわれてなるほどと思った。姉弟子達もなるほど、話を聞くのが上手である。例外なのは我が師一人……もっとも、(相談者の中に)聴くに足る話をする者がいないだけかも知れないが。

 まあ、私も周囲からは聞き上手で通っている(ようだ?)が、それは人を見る眼のない連中の意見かも知れない。私は、人の話を聞き流すのが得意……聴いているフリをするのが得意なのだ。正直、聴いていない。もっとも、要点だけはしっかりと聞いているようで、概ねちゃんと相づちを打っているから聞き上手と見なされているらしい。私にしてみれば、これは霊視・霊聴以上の才能ではないかと思う。

 自己弁護はこれぐらいにするとして、ようするに延々と人の話を聞くのは苦手なのである。……だから結論はなんだっていうんだ!!! と思ってしまう。

・・・・・・・

 大体、私の経験で見ると、(一般的に……つまり相談者のも)守護霊は滅多に、守護霊として霊媒に口を開かない。最近、忙しくて通信してはいないが、実に雄弁・文才ある守護霊が何人かいて、その方々の通信をまとめると随分と楽にブログを更新できるのだが、それはあくまで一個人としての通信であって、守護霊としての通信ではない。公的な通信ではないが故に、逆に私もみだりに通信できない想いがある位だ。

 それに反して、両親、祖父母、祖々父母位の近縁者の霊魂は、実に安易に通信を寄こす。中には洒落者がいて興味深い話…… というよりも実に楽しい通信をくれるが、概ね、こういう近親者の霊魂は頼み事が多くて困る。

 これを整理するとこうなるであろう。

 神界(高級霊界)のお勤めをしているような霊魂は、無理や甘えた願いを、たとえば高級霊界に依願する事はあっても、地上にそれを向けることはない。だが、公的な仕事を任せられたことのない様な近親者の霊魂は、神仏等と呼ばれる高級霊が相手にしないような、無理な願い、甘えた願いを聞いてくれる相手を探して、霊媒にしつこくすることがよくあるのだ。

 その意味からいうなら、守護霊が通信に困るとしたら、それは語って良い話題を吟味しているからであろう。みなまで言わなくても分かる。返事がもどかしいのは、語って良いことが少ないか、私があまりにせっかちなのか、どちらかである。念のために明記するが、私は進んで嘘をつくことをしない正直さと不都合なことは進んで言わない大人らしさを兼ね備えている。

 等と言い訳は程々にして、改めて耳を傾ける。

・・・・・・・

『私は、小さい頃から、あなたのことをずっと見守ってきました。今もあなたの側にいます』…… と蚊の鳴くような声で聞こえてきた。こんなひねりのない通信でよろこぶ様なおめでたい奴がいるのだろうか、等と思うのは心霊主義者の驕りであろうか。とはいえ、私が勝手に息巻いているのも事実である。

 そもそも守護霊と庇護者の間には共通の欠点があるのが普通である。察するに、私がこれほどせっかちに息巻いてしまうのも、はたまた、某守護霊の反応がこれほど遅いのも実はそこに原因があるのだろう。

 それはつまり――何とかしようと焦るのである。だが、何とかしなければいけない状況というのは、当たり前のことではあるが、自分の実力に余ることなのである。実力に余るのに焦ったら果たしてうまく行くのだろうか? 落ち着くことが必要なのは間違いないし、落ち着くだけでは間に合わないかも知れない。

 当人は、その時、焦りと努力するのに夢中なのとで、自分の失敗を正しく認識していない。だからどうしても同じ過ちを繰り返して、その対処がどうにもならない。

 急かされたら、頭を下げて、「すいませんが不器用な私にはそれを全部は出来ません。せめて、半分なりとも迷惑の無いように仕上げますので、それでご勘弁下さい」といえば、不足は半分に済むだろうに、全部をやろうとして全部をしくじるから、全部不足して、しかもその後片づけで苦しまなければならなくなる。そしてなにより可愛くないのは、出来ないことを出来るといって、出来なかった後に開き直ることなのだ。

 なんのことはない。男が女難に苦しむのは、色気ムンムンの女に迫られるときではなく、薄幸の女性が不運を嘆いているときなのである。助けようと男気を出して泥沼に陥る……いけない、肝腎の守護霊の通信だが……

・・・・・・・

『周囲の人々善意を信じ、また、悪意から身を避けて、自分らしさを棄てず、自分らしさだけを追わず、助けられ、助けて、人情の中に生きなさい。無理をせずとも生きられます。無理をしたいのは負けず嫌いが生み出す落とし穴だと気がつきましょう。出来ることの範囲で頑張りますといって、笑う人がいればそれは人生の敵、あなたの味方はきっと頷きます。

 私がそばにいてもあなたはなかなか気がつきませんが、あなたの廻りに常に味方がいることは、私があなたを守っている証です。感謝はいりませんが、どうか恨み言を言わないでください。……常にあなたと共にいます。』

・・・・・・・

 もっとも、どんなに素晴らしい守護霊がそばに寄り添っていようとも、自分の気持ちが唯物的であれば、守護霊との隔離は数百キロに相当するだろう。そのくせ、その欠点だけは、距離にかかわらず同じであるなら、なんとも不都合なことである。

『でも、私は信じます。常に共に歩く日々を』

 そう、彼女はそれが出来る人だと思う。だが、何の気なしにこのページを見る人は、自分が守護霊と共に生きる日々を信じられる人であろうか。


霊感を鈍くしたい

2006/03/09

06年 03月 09日


 霊感を鈍くしたいという願いは、経験した者でないとまるで理解できないことと思う。霊感の自覚のない人は霊感を強くしたがり、霊感の自覚のある人は、霊感を鈍くしたがる。この一見、滑稽な事態は霊感のいかなるものかを認識する者がいかに少ないかを意味する。

私の経験から

 私は本来、心霊相談を開設することなどに全く興味がなかったし、今でも全く未練がない。ただ、霊感発現当時、高校生で親に相談すれば親はおびえて役に立たず、心霊相談をさがすにも高校生のこと、金がなくてどうにもならなかった経緯がある。結局、紆余屈折、いろいろあって現在の師に巡り会ったが、それも恐怖で約半年間引きこもっていた状態を自力で脱出した後のことである。

 さすがに当時のことを思い出すと、未だに鳥肌が立つようである。今は充分に知識も技能もあり、同時に過敏状態を克服しているので、同じ目にあってもどうということはないが、恐ろしいと思うのは、自室で布団を被ってガタガタ震えていただけの日々が、いかに危うい状態であったかを理解しているからである。……良く自殺しなかったな、と思う。もっとも、あの状況下で自殺しても肉体がない分だけ低級霊の支配を強く受けることを理解していたからこそ…… 死ねばかえって救われない状態だとかえってそれが恐ろしくもあった。

 当時の経験のあまりに重苦しいことの清算が、実は私に心霊相談所の開設を決意させた。確かに霊障も辛かった。でも相談する先もなく、金もない当時の自分が、途方に暮れて日々を送ることが遙かに辛かったからだ。過去の自分を救うためには(つまり自分の苦労を無にしないためには)、同じ苦しみを持つ人を救わねばならぬと信じたのである。

 親切な人は多い。だが、有益な知識技能の持主があまりに少なかったから、心霊知識の普及が大切だとも思った。ところが、知識を生かすべき人間の素養を強化せねばならぬ事にも気が付き、精神統一の指導も始めた……ナンセンスというか、泥沼といおうか、自分の霊障は、まあ境界を引くことは困難ではあるが一年ほどで解決した。そのアフターケアが、余程困難な大事業というのは、何ともはや振返ると自分の愚かさが悲劇にも見えてくる。なんと悪霊よりも神様のほうが手間が掛るらしい。

 

そして心霊相談を始めた

 そうして心霊相談を始めたことを……隠しきれず(あたりまえだが)私の師は一笑に付した。

『人に頼って楽しようとする人なんて、救いようがないのだから』……これについては、霊障解決よりも遙かに多くの経験を積むことになった。数の問題ではなく、私の心に強く印象が残ったという意味でだ。

 ただ、見通しに楽観を与える知識もあった。基本的に、霊障の大部分は人間側の誤解がその原因にある。糸口が見つかればトントンと解決していくことが多いのだ。問題はその糸口が見つけにくいことである。…… 糸口が見つけにくい理由の最大の原因は、霊障を腕ずくで解決する類の迷信があまりに世に多いことにある。または、独りよがりな考えというか― ―助けを求めて来ている霊は、助けが得られなければそのうち去っていくのに、ヘタに素人除霊などをするから逆ギレされ、拗れて居座られてしまうのである。こういう事例が相当に多い。

 つまり、霊障の大部分は霊力がなくても解決するのである。むしろ、霊力が徒《あだ》になることがとても多い…… 悩めるときほど人の本性は現れるというが、必要なのは力ではなく、誠意なのである。少なくとも、相手が自分よりも強く、そして、数が多いときには。

 

誤解要因のあれこれ

 背後から注意を受けたが、なるほど誤解要因について記しておくべきだ。 特に霊媒初心者が、霊障を拗らせる理由の一つに「痛みの共有」がある。たとえば、あなたが自分の痛みを誰かに説明するなら、顔をしかめて、お腹をさすりつつ、「お腹が刺すように痛いんです」等と説明するだろう。だが、霊媒相手にはもっと効率の良い方法がある。痛みを共有・共感して貰うのである。… …これはてきめんに相手の痛む場所とその強さを理解することが出来る。と、同時に、こんな面倒事はなるべくせずに済ませたいものだ。

 便利だが、厭なこと……痛みを感じるのは、基本的にコミュニケーションであって攻撃ではない。だが人は本能的に痛みを恐れる。当然、共有・共感というコミュニケーションの存在を知らない霊媒初心者は、これを霊障、攻撃であると受止めて反撃してしまうのである。

 もう一つ……人には、救いが必要な時ほど横柄になる、一種、救いがたい人が居る。救いがたい人とは同時に救いを必要とする人でもある。こういう人は横柄さに目をつぶり、メンツを立てつつ影で助けてやるか、面罵して頭を下げさせるかしないと、やっかいな態度をとり続けるものだ。

 霊障を起すような悪霊というのは、上記のような人のなれの果てなのだ。……その解決法は推して知るべしである。

 

相対問題

 また、他の霊媒が言うことの中に、私が疑問に感じることもついで心の隅に留めて欲しい。

 敵が強大であっても、味方も強ければ害を受けない。 敵が非力でも、味方がいなければ侮れない。 味方が強くても意思疎通が悪ければ力を発揮できないし、敵を侮れば自分のミスが大きな害を生む。小さな障害でも、長い間少しずつ嫌がらせを受ければその害は計り知れない。

 物事というのは相対的な見方、全体を見通してこそ、始めて正しく認識が出来るものだ。それをしないで、「強い悪霊だから大変である」とか、「加護が強いので大丈夫」というの意見は、あまり助けにならない。まして、本当に障害を及そうとする霊なら、当人に憑依するよりも当人に死活的影響力を持つ人を標的に憑依する法が効率がよいのである。つまり、家庭で障害が起っているとしても、それを個人を標的とした攻撃と考えるのは適切とはいえない。もしも個人攻撃を目的とするなら、勤め先やら、取引先に工作すると考えるべきなのである。

 障害が、個人攻撃を目的としていないなら……除霊や封印やらという、スリラーめいた対処が拗らせると恐れるべきである。

 

でも効験あり

 かくいう私の言説がまともに見えて、迷信じみた用語の多い霊媒(特に御高齢者)を侮るべきではない。いっていることがまるで無茶苦茶なのに、問題解決力のすごい霊媒というのはあまた存在する。……なんのことはない。霊媒というのは氷山の一角、その霊力の源は、霊界にいる擁護団、背後霊団なのである。つまり、霊媒抜きでも問題解決は可能なのである。

 反対に、いくら理論整然とした霊媒であれ、背後霊が貧弱であれば出来ることに限界が生じる。そもそも理論構築は霊媒の仕事というよりも、研究家、もしくは審神者(さにわ)の仕事なのである。ただ私の場合、他に信頼できる者が見いだせないから自分でやっているだけのことだ。

 言うことが無茶苦茶でも霊力がある霊媒を相手にするときには、言動で見下したりせず、また礼金で頬を叩くような考えを持つことなく、失礼の無いようにすべきである――少なくとも私ならへりくだる。仁徳篤い祖先を持っていたり、想像もつかぬ荒行経験や、豊富な人助けの実績を持っているからだ。何しろ、背後霊達が大切に守っているのであるから、大切にして損はなく、敵に回して良いことはない。その会話にではなく、その体験に価値があるのだ。たとえば私だって寒中の瀧行ぐらい進んで行うが、早朝に腰まである雪をかき分けて瀧行場に行くなどという修行は出来そうにない。…… こういう迫力のある霊媒等の世代交代が進んでいるのはとても残念に思う。

 それはともかく……

 霊障問題の大多数は、あの世だけで解決可能なもの……ただ、霊達が問題を認知していないだけである。残る一部は、人と霊との相互関係に問題があるもの……この場合は仲裁者(霊媒)が必要となる。そして中には、一方的に人が悪い場合もある……この場合は、霊媒が取り直しても解決しないこともある。この三分類が、「霊障の大部分は正しい心霊知識が無いために起る」という所以でもある。

 もしもあの世だけで解決可能な問題であれば、素人祈祷でも十分に効果が生じる。要は問題提起があればよいのだ。ただし、仲裁が必要な場合は、やはり経験ある霊媒に頼らざるを得ない。……もっとも仲裁が無くても先方が諦めてしまうこともあるようだ。

 とにかく基本は、あの世のことはあの世で、この世のことはこの世で、仕事を分担してそれぞれに分を尽すことが大切である。逆に言うと、背後霊団を持たない霊媒は苦労を免れないとも言える。

 

あの世のことはあの世で、この世のことはこの世で

 むしろ難しいのは霊ではなく、人である。霊障を受ける要因が人にあるなら、その人が変らなければ問題は解決しない。だが人が変化するのはとても難しいのだ。霊と比べて感性が非常に鈍重。しかも物質と関わりが深い日常を送っているので、気持だけが少々変っても、肉体やら生活習慣やらの影響で又元の気持に戻ってしまったりもする。

 無理に気持だけが変れば、日常生活や肉体の生理面に無理が生じて病気をしたり、怪我をしやすくなりもする。

 あの世のことはあの世の連中にケアを任せておけば良いのだが、霊媒が担当すべき、この世の連中のケアはとても面倒である。何しろ、知識が足りない。知識があってもそれを生かす素養がない。目先の安心を求めて、安易な選択をしがちであるし、すぐにおたおたし、不安に流され、疑心暗鬼に陥り、ねたみ、ひがみ、腹を立てて墓穴は掘る。感謝すると泣いて見せてものど元過ぎれば熱さを忘れてまた同じ事の繰返し。

 時折、霊障に苦しむ人を見て、無性に除霊したくなることがある。霊ではなく、その人をだ。……それは私の担当ではないのだが。責任転嫁の多い人を相手にするのは難しい、私が逃げるその前に、背後達が嫌がってしまうのだから。


嘘はまことに扱いにくい

2006/02/26

2006年 02月 25日


  私も人の子、そして浮き世の中で暮らしていれば、言い訳や取り繕い的な嘘もつく。たとえば仕事に遅れた理由をグダグダというのはみっともないが、送別会を忘れていて欠席したなどというのは真実を言えばかえって相手に失礼になるだろう。ましてや、内心では「ザマー見ろ」と思っていてもお悔やみを言ったり、「コンチクショー!」と思っていてもお祝いを言わねばならぬのが人間社会の常識である。いかに神様が正直者を愛するとはいえ、無闇に人を傷つけぬ工夫は、たとえ猿知恵であろうとも片目をつぶって見逃していただけるのではないかと思う。

 ところで、霊媒などをしていると、嘘に対する姿勢は浮き世のように柔軟には行かないことを痛感する。それはなにも感情論ではなく、実際的な必要性から生じる結論であるから、いかに寛大な神様、仏様であろうとも同じ感想を抱くのではと愚考する。

 たとえば……

 これは心霊知識と云うよりも心理的な知識だろうが、捜し物がどうしても見つからない時には、あって欲しくないところにあるものだ…… つまり、そこにあるはずがない、とすでに決めてかかっているところに落ちていたりするのである。

 もっと具体的に云えば、間違いがあってはならないところに間違いが残りやすいのは、そこにあって欲しくないという気持ちが邪魔をして間違いを見つけられないのである。

 そして失せもの探しを依頼された霊媒が、それを指摘すると……探す前から、「いえ、そこにはありません。何度も見ました。」などと返事をしてしまう。するともう霊媒に打つ手はない。しつこく云うのも一つの手と思うかも知れないが、探す前から返事をする人は、しつこい霊媒の言葉に耳を貸すよりも別の霊媒を捜し始めるものである。

 同様のことには、「あなたの配偶者は浮気をしています」……などという霊査内容にも当て嵌まる。これはもう何度か経験があるが、ものの見事に無視をされるか、とんでもない大騒ぎにしてしまうかの二通りのパターンを何度か私も経験した。恋愛・夫婦関係の相談を断る所以である。

 要するに、相談者は意図はしなくとも、(おそらく無意識に)嘘をつくことで、私のような第三者の協力を、無駄と云うよりむしろ邪魔にしてしまうことが良くあるのだ。これがせめて、嫌なことなら黙っていてくれれば、表現方法を工夫して納得させることも出来るのだろうが、とっさに嘘をつかれてはもう何を言おうとも、その嘘を暴くようで気まずい思いになっていく。……気まずいのはなにも霊媒側だけでなく、相談者においても同様であろう。かくして、助言をして被害を最小限に抑えるよりも、霊媒が生み出す心の傷が大きくなりそうな気配を察して、背後霊等と霊媒とは口を噤んでしまうのだ。

 もっとも、「ごめんなさい、事情は言えないんです」……と、いわれても、霊感で『それは誤解からきた結論である』などと知らされると、当人が事態を取り繕うと腐心していることを覆すのもバツが悪くて、やはり霊媒は板挟みに苦しむ。―― 相談相手から信頼されない霊媒は力の振るいようがないのだ。しかも現代は、自分を騙そうと努力している虚飾・虚構の中に生きる人があまりに多すぎる。

 結局の所、人が悩むのはその器量の内側に問題を抱え込むのに等しいから、いっそすべてを委ねてくれた方が楽だなぁ~。と思うのである。霊媒ですらそう思うのだから、神様はもっと強くそう考えるだろう。人が人に対して嘘をつくのはある意味必要悪ですらある。だが、真理を追究するものにとって嘘は死活問題ですらある。……だって、考えてみて欲しい、心の中に嘘の一つもない人がいようか? 「霊媒なら嘘をあばいて見よ、どうせ見つけられるはずがないさ!」と、思い上がる者は大勢いようが、他人の嘘を暴く者が、第三者からどういう表現をされるかご存じだろうか?……「大人げない」である。つまり、嘘をそのままにすれば騙されるが、嘘を暴けば往々、大人げないと非難されるのである。どっちに転んでも不幸であるなら、人は悩まずに入られまい。

……では、人間は神の操り人形か、自由意志はどう育てればいいのか!……という議論になるだろう。その答はある意味簡単だ。つまり、学ぶというのは、真似ることから始まるのである。我流は基礎が出来てから行えばいいのだ

 だが、ある意味、こんな難しい答もない。では誰の真似をすればいいのか、そしていつまで真似を続ければいいのか、なにより、誰がその正否を判定できるのか。……実はその答は案外簡単なところにあるのだけれど、困ったことに、真実というのは一番あって欲しくないところにあって、人は懸命に、その場所以外を探すものなのである。

 素直に生きることが大切であると云われる所以である。

 嘘や取り繕いがもたらす利益は実に消極的なものであるが、素直に生きることで得る利益は実に膨大なものなのだ。……ただ、素直に生きることの利益は誰にでも見えるものではないのだ。それが難しい点である。

――折角なので、大雑把にまとめてみるが――自分よりも器量の小さな人を相手にするなら、多少の嘘はやむを得ない。だが、出来るだけ、嘘を言うよりも無言を貫くことを優先すべきだ。そして、自分よりも器量が上の相手には、すべてを任せ、委ねた方が無駄な努力が減るだろう。ただし、本質的には、無意識に取り繕いの言葉が出て、それが自分をまずい立場に追い込むのが、一般人が抱えている業《カルマ》なのである。


日の当るところだけで善事をする

2006/02/25

2006年 02月 24日


 霊媒の中で、私は理論派かもしれませんが、私のやり方が有益であるかどうかはいささか疑問です。言葉は容易に変えられますが、人の生き方は容易には変りません。ならば人に変れと言葉を尽すよりも、ただ背中を見せて一心に祈祷することが、往々、相手の心にものすごく大きな影響を与えることを私は知っているからです。

 大抵の人々にとって、背中を見せて一心に祈祷されることなど、退屈なことに思えるかも知れません。ですが、主観性が高く、抽象的な心霊の話などを懇々と聞かされることは理解を深めるよりも、誤解を増やすだけかも知れません。ならば、いっそ、背中を見せて、一心に祈祷してくれる人の、その背中に向かって、深く御礼が出来るようになれば、人はもっと健康で幸せになれることと思います。

 感謝はしている――なるほどそうかも知れません。でもその感謝なる気持ちも又、言葉で考えてはいませんか? 言葉で理解し、納得し、それで満足している。でも、果たしてそれで身に付くのでしょうか?

 背中は多くを物語ります。それを読み取ることも人として大切なことだと思います。

 背中は多くを語ります。と同時に、背中は良く人を見ます――時として、相手の前で頭を下げるよりも、相手の背中に頭を下げる方が、誠意が伝わるものなのです。なんとなれば、目の前で頭を下げるのは、感謝する人ばかりとは限りません。偽善者もいれば、おべっか使いもいます。でも、背中に向って頭を下げ続けることの出来る人は、本当に感謝する人ばかりです。なにより、日の当るところでだけ善事をするのは、「神の道」のなんたるかが判っていない人のやることです。

 一度や二度は、浅知恵で振りをすることも出来ます。ですが真似事はなかなか背中を通じて相手に伝わりません。


お知らせBy老神いさお。

・PC再起動成功。
 動かなかったのは湿気のせいか、RAMを抜き差ししたら無事に再起動しました。

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 (最近は復旧する暇がなくて新作が多いですが。)

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 7月度の東京オフ会は7月10日(土)
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 8月度の東京オフ会は8月14日(土)
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 次回の大阪オフ会は10月の予定です。

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 私事多忙で復旧が滞っております。

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