‘異界の窓’ カテゴリーのアーカイブ

迷いの解消・前は後ろの正反対(新編集)

2010/01/17

前は後ろの正反対

2004年 06月 17日

 前を見れば欲が出る。あれもしたい、これもしたい。

 前を見るから脇道に入りたがる……一体前ってどっちだろう?

 一生懸命に生きるから、どうしたいのかが判らなくなる。

 そんな時は真後ろを向いてみる。自分が一番イヤな選択肢は何であるか? それを真剣に見つめてみる。そして、その正反対を見てみると……自分が絶対に目をそらしてはいけない前が見る。

 一刻も早く、一歩でも前に。そう思う気持ちが道をそらす。

 真っ直ぐな道より、近道はないというのに。頭で判っても気がつけば曲がっている。曲がっていることに気がつかずに、道が見えないと絶望する。迷っているのではなく自分を信じていないだけ。自分を信じずにいては、自信がなくなるのは当たり前だ。


迷いは万病の元

2004年 07月 13日

「君は迷いが多いね」と指摘されてもピンと来ない人も、設問を逆さにしてみるとわかりやすいもの。「打ち込んでいる物がないでしょう」違いますか?

 何かに打ち込んでいる人は、自分の力の大部分を目的に注ぎ込めます。ゆえに猛烈な力を発揮できる物ですが、迷っている人はいつまでも足踏みを続けます。迷って足踏みをしていると、前に進まないのだから楽なようにも錯覚するけれど、実は泥沼に落ちた自動車宜しく、エンジンを吹かしても車輪は空回りを続けるようなもので、浪費される活力は相当な物なのです。……迷うことに焦るから……迷った時には様子を見る。様子を見るというのは、一念専心休むことが大事なのです。身動きできなければ精神統一するぐらいの気持ちが大切です。それが出来なければ、全力疾走している人よりも心身をすり減らすのが迷いだとおもうべきです。これは全く、迷いを万病の元と呼んでも差し支えないほどです。


衣食足りて礼節を知る

2004年 07月 13日

 衣食足りて礼節を知る――といいます。豊かさと善良さは比例するというのです。これは反対にも働きます。つまり衣食が足らず礼節を失う――というわけです。特に小心な人ほど……と表現されて、「ああ、自分のことか」と思える人は幸いですが、ともかく、僅かな不足、欠乏、不安、などから、衝動的な行動に打って出て、挙げ句の果てに自分の立場をますます悪くする人がいます。

 まずい!――と感じたならば、自分の立場が良くなるように工夫すべきなのに、ますます悪くなるようにがんばってしまう。これはつまり、迷いが迷いを呼んでいる状態です。


迷いの原因

2004年 07月 13日

 知識の不足が迷いを呼ぶ……というのは、ありがちな解釈です。確かに、知識の不足も迷いの原因の一つには違いないのですが、もっと大きな要因は、理想と現実のギャップに求めることが出来ます。つまり、人は理想の実現に困難さを感じると、ついつい、理想と現実を結びつけるような奇抜なアイデア(というより妄想)を弄んでしまうわけです。

 これを業《カルマ》に振り回される等と呼ぶのですが、自分の欲が人を迷わせるというわけです。

・・・・・・・

 穏便とはいいがたい話です。迷いの主たる原因が欲にあるとします。すると、迷いを断つためには、まず欲を断つ必要が出てきます。欲さえ断てれば後は摂理、すなわち自然の法則に任せるだけで、自ずと真理の大道に合流していくわけです。

 ところが、どうしても欲を断てないとすると、迷いも断つことが出来ません。しかし、人は自分の欲の強いことには往々我慢が出来ますが、自分の迷いの強いことは往々我慢しがたいものです。すると、人は迷っていたことを忘れようとします。つまりは、ボーっとしていればいいのですから、迷いを忘れるのは比較的簡単です。

 それでも問題が残ります。迷いは人の活力を浪費するのです。そして、迷いを忘れ、浪費も忘れたとしても……実際に浪費は続きます。疲れた、気力が萎える、めんどくさい、誰かに頼りたい、大事にされたい。更にあなたが相対的な情念を理解できるならこうもいえます。自分が相手を大事にする以上に、相手から大事にされたい。自分が相手を愛する以上に、相手から愛されたい。

 これらは、迷いを忘れた迷い人の症状です。そして魂はゆっくりと堕落していきます。

 迷いの苦しみに欲を断てる人は、すなわち人生の試練をこなせる人です。反対に、欲を断てぬ人は、試練を自らの躓きに変える人です。ある人にとってのチャンスが、別の人の災難となる。人はこうしてふるいにかけられています。これをして無情というのは簡単ですが、宇宙は広くても、人類が使える資源は限られているのです。限られている以上、ふるいがあるのは避けがたいのですよ。


工夫の無さは迷いの証

2004年 07月 13日

 押してダメなら引いてみな――うまく行かないなら、無理をするよりも工夫すべきです。やり方を変えてみたり、ちょっと間をおいてみたり、無理をしても自他共に傷つくだけなのですから。

 ところが、押してダメならもっと押せ――と努力する人の多いこと。それでも開かなければ、人の助けまで借りて更に押そうとする。引いたりズラしたりすれば簡単に開く仕掛けであっても……このような人は無益な苦悩を生み出します。そして、無益な苦悩を人々に振りまきます。

 身近にこういう人がいて、縁が切れなければ……無益な苦悩以前に、自分の因縁に苦悩してしまうのが霊能者の苦労と言えましょうか。


ヒントを遠慮して答えは欲しがる迷い

2004年 07月 14日

 心の迷いが起因する問題について、いくつか相談を頂いております。しかしながら、霊査がなかなか出てきません。では、回答以前に何を語るべきかと探ってみますと、こういう事なのです。

 相談者の方は、気を遣い、ヘルプを乱用しないつもりで、霊媒(老神いさお)に相談するのを堪えている。そして、行き詰まって相談するが、それは結局、問題集に取り組んで回答を見るのと変わりがないというのです。なぜ、ヒントを見ないのか。

 ヒントを見ることを遠慮しながら、でも、答えを見ようとする。その間の相談者の努力とはただ迷いの生み出す苦しみに耐えるだけで、ちっとも成長がない。大事なのはヒントであって、答えではないのです。

 にもかかわらず、皆様は、ヒントは遠慮して答えを求める。……というのも、欲を棄てられず、また迷うことを棄てられないから、ということです。


人の迷いを背負い込む

2004年 07月 14日

 前述、「迷いを忘れた迷い人」――なる者がいたとします。自分自身は迷いを忘れても、迷いを棄てたわけではありませんから、そこにどうしても矛盾が生じます。その矛盾のしわ寄せを一人で背負うのは自滅行為ですが、ありがたいことに、又は、とても迷惑なことに、人は一人で生きられず、家族や社会の中で暮らしています。するとつまり、自分の生み出す矛盾や葛藤を、第三者に押しつけられる場面が往々存在し、それが悲劇の源となっていることを散見いたします。

 迷いの生み出す問題を解決するためには、迷いを棄てるほか有りません。しかし、誰かに押しつけられるなら、迷いが生み出す苦しみからは逃れることが出来ます。そして……苦しくないなら待つことも辛くはありませんね。

 迷いは苦しいからこそ、迷いを棄てようとする……冷酷なようで破滅を避ける仕組みがそこにはあるのに、迷いの苦しみだけを誰かに押しつけてしまえるから、迷いを棄てられずに魂の破滅を招くことが生じるわけです。

 自分の愛しい人の矛盾や葛藤を受け止める……一見、利他的な行為ではありますが、でも、因果応報、自らの迷いは自らが解決せねばならぬのに、迷いの苦痛を逃れたら、迷いを棄てることがますます出来なくなるもの。恋人や親兄弟の業《カルマ》を消すならいざ知らず、ただ苦悩ばかりを預って、利子を付けて返すのでは残酷な話です。

 表面的にいうならば、人は業《カルマ》よりも苦悩を嫌いますから、ただ、苦悩を取り去ることを善として、苦痛を伴い業《カルマ》の消滅は嫌がるのが普通です。そうして人々は愛する人々と一緒に「危地」を進むわけです。――感情的な不安よりも、真実の危険を軽視するなんて、私には耐え難いことですが、それが世間の良識であり、覚者だろうと抗いがたい強制力を持った誤解がそこにあるわけです。


人の迷いをなぞる

2004年 07月 14日

 まったく、まったく。迷いから醒めるには何が必要なのでしょうか? 人類の歴史はおそらくは迷いの歴史。ならば、迷いから抜け出る手だては、いくらでもヒントが見つかりそうな物……ええ、有るのです。ただ、迷える人が考えたことなら、それは迷いをますます深めるような表現を多用しているのが当たり前。

 いや、解脱者もいるけれどね。彼曰く「色即是空、空即是色」

 結局、迷いを棄てた人だけが理解できそうで、迷える人はますます訳の分からぬ言葉に出会ってしまう。

 要するに、迷える人が解脱しようとすれば、人の迷いをなぞることになります。すると、自分の迷いの他に人の迷いまで背負うことになるのです。……勉強で迷いを断つのは難しいものです。


心で、心の迷いは解きがたい

2004年 07月 14日

 前述のように、迷いに関しての相談をいくつか受けました。そして、その霊査はなかなか得られません。それは心の問題を、ただ心だけで解決しようとするから生じるのだと私は思います。

 簡単なことから、行動に移せば、それだけで糸口が見つかり、突破口が広がっていく。案外そういう物なのです。

 ある人の霊査も、なかなか降りずに心配していたら、先方からオフ会参加の打診がありました。すると途端に霊査が降り始めたりして、結局、行動しようとしたことが呼び水になったのでしょうね。もっとも、オフ会の準備に忙しくて、まだ筆記していませんが。

 迷える時は、出来ることから行動を始めるべきです。行動しながら考えることが良い。つまり、人は、考えすぎを防ぐ仕組みを持っているのです。自分を守る仕組みを寝かせておいて、苦しい、助けてというのは、ナンセンスというより、危険なことかも知れませんね。


痛い相談

2004年 07月 15日

 ここ数日、『迷い』をテーマにした更新を続けています。私としてはこんな辛気くさい……でも重要なテーマよりも、取りかかりたいテーマがいくつか出かかっているので心掛かりなのですが、必要な手順を省く事は後々面倒の種となる事を知らないわけではありません。

 迷いの生み出す苦痛について、霊感の鈍い方々は、「苦痛』として自覚していない場合も散見します。ところが、これを霊媒などが共感すると、胃の周囲が痛くなるのでやっかいです。つまり、霊媒能力の強い人が、『あの人、どうしているかな?』……などと思うと、とたんに自分の胃が痛くなるわけです。

 まあ、痛みを感じる事に恐怖するようでは霊媒はつとまりません。本当の交信は、感覚や体験の共有という形で行われるのですから、痛みを表現しようとする霊が居たら、その痛みをそのまま感じるのが霊界での交信なのです。胃が痛くなる相手が何人か居います。

 つまり、交霊で痛みを感じるのは、地上で、痛みに関する話をするのと同じ事です。別段自分の身体に悪いところがあるわけで成し、交信をやめればたちどころに痛みが消えるので、じたばたするほどの事もありません。

 ところが、特に人間相手で困るのは、交霊と比べて話がしつこくなりがちで、しかも、相手の切り替えが下手だから、いつまでも痛みが伝わってくる事です。さらに悪い事に、精神的な痛みの感じ方というのは非常に個人差があり、当人はせいぜいが不平不満の解消程度しか認識していなくても、その話を聞く霊媒には激痛が感じられる場合がある事です。幼少時の体験が原因だったりすると、もう痛みになれて悪夢を見たり、無意識に自傷行為に走ったりする程度で、自分の抱えている問題を適切に認識できない場合があるのです。

 こういう場合、当人にしてみれば、ただ愚痴を聞いてもらいたいだけなのですが、それに付き合わされる霊媒にしたらたまりません。愚痴を聞いているだけなら何年も、何十年もその苦しみを共有させられるのですから、うんざりです。特に、当事者が問題解決に乗り気でなければ、痛みに耐える事が不毛な努力に過ぎないのですから。

 もう一言付け加えるなら、人間の持ち時間には限りがあります。どうせ不毛な事をするなら楽しい事をしたいし、どうせ耐えるなら有益な事をしたいものだ――そうは思いませんか? 私は強く、強くそう思います。

・・・・・・・

 さて、強く痛みを生じる相談が三件ほど寄せられています(中には相談の自覚がないが)。例によって詳細は書けませんし、そもそも痛みを生じるという事は、当人が解決するのに迷いがある事を暗示しています。というわけで、直接のお返事の他に、相談者を想定しつつ、普遍的な回答をする事は、冷静に問題を受け止める良いチャンスかもしれません。

Q「願望成就しない。自分には縁がないと諦めた。」

 適切な譬喩とは申せませんが、良く引き合いに出す話を流用致します。

 「お金持ちになりたい」という願望が成就しない人がいます。障害を明らかにしようと、「なぜお金持ちになりたいのか?」と問うと、「もっとお金を使いたいからだ」と答える。……使っていたら貯まるはずがありません。まして、安物買いの銭失いというわけで、お金の使い方次第では効率の悪い事、おびだたしくもあります。

 この「願望が成就しない」という件も、守護霊様の意見とは別に、私が霊査致しましても、どうも無駄な事に力を注ぎすぎて、肝心な部分に力不足を感じます。

 それは結局のところ、正しい努力をしているというより、自分のカルマに振り回されている状況といえましょう。

 すなわち、自分が幸せになるための願望成就ではなく、自分の欲に引きずり回されている状況での願望成就……すなわち、不幸になるための努力の過程にあるのだと私は判断致します。

 もっとも、あなたの守護霊の判断と私の判断の違いは、視点の違いに過ぎず、問題は縁の有無というより、時機を失して、次の時機がまだ先にあるという事です。待つのもつらいが、待つ間にもすべき事があります。そして、待ち時間を有効に使ったものだけがチャンスに遭遇してそれを無駄にしないのです。

Q「伴侶との行き違いについて。」

 心霊相談を休業する以前から、恋愛相談などはお断りしてきましたが、家族・特に夫婦間の問題や、恋人との間の問題についても、相談したくても相談できずにいらっしゃる方、また、断りの対象になっている事を失念していらっしゃる方などがあります。

 大事な事は、相手の心をどうにかしようとするのは邪である、そして、邪な事を手伝わせようとするのはもっと邪である。という事なのです。

 人生の伴侶に相対するのに、他人の手助けを必要とするなら、それはもう伴侶とは呼べません。つまり大切なのは、どうしたら自分は伴侶たりえるか、という事であり、相手が悪いと思えても、それを補えてこその伴侶、至らぬ同士が助け合うのが伴侶であるとしっかり認識する事といえます。

 もっとも、人生の伴侶に関する悩みの大部分は、「相手が責任を果たそうとしない」という事でして、これがとても難しい。一方的な依存、つまり、夫が、稼がず、かといって家事もせず、あげくに女を作った、なんて話なら、「別れろ……」としか言いようがありません。

 しかし、相談の大部分は、相手の長所を無視して、欠点ばかりが目につくという場合が大部分です。こういう問題は、実は心霊相談よりも整体などの方がよほど効果的な回答を提示できるでしょう。この手の不平不満は、大抵の場合、不健康が理由だからです。

 不健康というのは、病気を意味しません、ただハツラツと生活が出来ず、だるいとか、面倒だとか言って、人の手を煩わせてしまうから、そこに不満が生じ、不満が積もり積もってイライラしてしまい、イライラが高じて感情的になっていく、という悪循環に陥っていると見なすわけです。

Q「親・子との行き違いについて。」

 ここでは、親・子との問題に集約しましたが、縁を切りがたい相手と広く捉えてかまいません。

 特に相手との関係が重荷になるのは、要するに縁を切りがたいからです。で、そこまで問題がこじれてしまうのは、当事者の一方、または双方が、姑息な人間関係の手法を使うからといって良いでしょう。つまり、相手の好意を確認するのに相手を困らせてみる……という事をやるわけです。

 たとえば仕事に行こうとすると病気になるとか、無理難題を吹きかけ、応じなければ泣きわめくとか……こういう無茶な行動に出るのは信頼関係が破綻している……痛みでしか相手の存在感を確認できなくなっているという状況です。

 これは正直辛いし、はっきり言って痛い。そして、解決策もまた無数に見いだせるでしょうが、この手の問題も、やはり、心霊的な解決よりも整体的な解決策の方が効果的でしょう。

 つまり、お互いが不健康だから、不健全な見方・視点で相手を見てしまうのだ、また、不健康だから依存心が強くなり、不健康だから相手の依存心が重荷に感じ、お互い辛いからイライラして和解策もとれなくなっていく。

 この問題の解決は忍耐を要します。また、ここでは不健康と表現しましたが、加齢も、問題の一因となりますね。

抑圧された心

 特に女性に多いのですが、親に対する不平不満から迷っている人が多いのです。もう霊媒だけが分かる痛々しさというより、誰でもこのいびつさに気がつくのではと思えます。

 そして、この問題を大げさにしているのは、親の悪口への病的な嫌悪です。親の悪口をいわず、親の欠点を見まいとする……自分の親を無理に尊敬する為に、自分を騙し、自分をだますから何が真実であるかが分からなくなるのです。

 褒めるの価値観もゆがみ、貶す価値観もゆがみ、何を言わんとしているのかがわかりにくい。こうした事例がすべて、親への不平不満が言えないためとは申しませんが、私の知る限り、こういう事情の持ち主がとても多いのです。

 しかし、赤の他人の行為なら許せる事も肉親の言動ならば許せぬ事もあるはず。他人に冷たい仕打ちをされたところで所詮は他人なのですが、身内が冷たい仕打ちをすれば恨む気持ちも生じますよね。つまり、親だからこそ許せない事の一つや二つ、ないとしたら、それは他人に接するような冷淡さで親と接していると言えなくもないのです。

 大事な事は、親への復讐ではなく、欠点は欠点と正しく認識する事で、適切な……つまりいびつではないフォローが出来るようになる事です。

 ところが……これがなかなか出来ないものです。自分は変われても親を変える事は出来ず、親が変わらなければ悩みは増すばかりですよね。こういう場合、親が死ぬまで治らぬのかな……と思います。

総論

 以上、四点の事例を紹介したわけですが、実はこれらの回答事例は、枝葉末節に過ぎません。こういう回答もしなければ、へっぽこ霊能者が相談者を煙に巻いているようだから書いているだけの事で、もっと簡潔に指摘する事がよほど大切だと私は考えます。

 これら、迷える人は、果たして問題に悩んでいるのだろうか? と私は考えます。むしろ思考過程にだまされて悩んでいるのではないかと思うのです。

 まず、各事例は、自分の大事な人をかばおうとするが故に生じる苦しみです。いわば自分の愛情に苦しめられているようなものですが、なぜかばう事で苦しむのでしょうか?

 その迷いの原点は、物事を善悪で計るところにあると思われます。つまり、善ならば良し、悪ならば拒絶するという価値観と、大事な人に悪いところがあればそれを受け止めようとするところに、矛盾と葛藤の種があるのです。

 善悪で考えるというのは、宗教で言うところの二元論に相当します。つまり、善悪は相対・不離の、たとえば電気にプラスとマイナスがあるように、また、光があれば影が生じるといったように、相対不離で一方には必ず他方がつきまとい、相互に争いを続けるといった思想です。

 しかし、近代心霊思想は、一元論で受け止めます。プラスとマイナスは中性の揺らぎ、光と影はただ濃淡が違うだけ。善とはより高度な存在であり、悪とは未熟な存在を指す。いや、老子の思想を考え合わせれば、影があるから光を認識できるのです。

 悪だから異質の存在……なのではなく、未熟だからあなたが補わなければならない。そう受け止められれば、ここに迷いはなくなるはずなのです。

 つまり、愛しい人に悪があれ、それをどう取り除くかに心を痛めなければなりません。それはつまり、相手の欠点が二人の間の障壁であるという事です。

 しかし、愛する人にあるのが悪ではなく欠点ならば……相手はあなたを必要とするという事、すなわち、欠点があるからこそお互いが、強く結ばれざるを得ないという事です。

 愛する人の、または、あなたの親の欠点を正しく認識しなさい。というのは、あなたが大切に思う人の悪を見つけろ、相手との断絶を直視しろと言うのではなく、あなたがより強く結びつけなければならない点を見つけなさいという事なのです。

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人生の伴侶がなかなか見つからない

 まあ、以上で終わりにすれば話もきれいなのですが、ちょっと強欲な質問にも答えておきましょう。

 むろん、人生の苦楽をともにするのですから、その相手はなるべく頼りがいがあり、また、迷いや不正の少ない方が良いものです。……で、速やかに伴侶を手に入れる人は、ほとんどの場合、「私がいなければこの人はだめだから……」と、欠点を補うつもりで相手と接しています。(そのくせ、不健康になると、相手の欠点を重荷に感じて不平を言うのだから……いえ、そういうカップルを支える事も友人の勤めですよね)

 対して、伴侶を得がたい人は、「この人がいなければ私はだめだから……」と、欠点を許さぬ態度でいます。

 不幸にして……欠点のない人はいませんから、このような態度では死んでも伴侶を見つけられません。往々、「あの世で伴侶を見つけろ」と怒鳴りたくなるような強欲な人もいるぐらいです。間違って見つけた人がいるなら、人を見る目のない人か(当事者さえ幸せならば、ねえ)――控えめな人なのでしょう。

 いや、いや既婚者から恨まれるような発言は慎みましょう。


迷いは霊感の大敵

2010年1月17日

「霊能者は自分の未来は見えない」・・・等という。なんのことはない、そもそも迷いが生じたとしたら、それは背後霊の庇護を外れたということなのだ。――庇護下に無いのに霊感を使えば、回答者がいないのに良い返事が得られるはずも無い。イヤそれどころか、野次馬な霊にミスリードされる危険もある。

 私もまあ、誰かの助言を欲することもあるが、なんとか自分の霊感内で収まるか、追認程度で済むことが多いのは、ちょっとしたコツがある。

 まず、迷いが生じた事自体を楽観視しない。行き詰まったら元きた道を戻るぐらいの覚悟を決める。

 また、答えが無いのも答えのうち、とも覚悟する。つまり、何も答えがなければ、まあ、何とかなる、ということだ。

 そして要領の得ないメッセージを受け取ったら、それこそ、とことん行かなければならない、ということだ。途中下車は許されまい。

 人生で横着する様々な事態は、所詮、途中経過であって、良いことも、悪いことも、最終結論ではない。つまり、どう転がるか、わからないのである。だから、今は悪くてもジタバタしない。それよりも何よりも、霊媒にとって恐れるべきは、状況・事態の悪さではなく、背後霊らとの絆の有無なのである。それゆえ、たとえ不幸を味わっているさなかでも、自分が愛されていることを信じなければならない。

「人生は、背後霊(守護霊・祖霊)との二人三脚」と思うなら、迷いとは、チーム全体の危機なのです。眼前の事態だけの問題ではありません。それに気がつかなければ・・・視野が狭いということです。ならば・・・運が悪いならそのうち改善するかもしれませんが、自分が悪いなら、決して改善しないことを暗示します。

 それはもう、ただの迷いではなく大問題、いや大問題というより、救いようの無い問題、ではありますが。

船頭多くして船山に上る

2004年 11月 15日

 兎角、気弱な方は、いろいろな方面の意見を求めます。確かに多方面からの情報は物事を立体的に浮き上がらせるものですが、情報が増えれば増えるほど、物事の理解には高度な分析能力が求められるものです。

 特に分析中に難しいのは、取捨選択で、人の意見には主観もあれば偏見もまじり、切り捨てることがなければ、立体的に浮き上がらせるどころか、矛盾だらけで組み立てようがなくなることもよくある話です。

「船頭多くして船山に上る」といいますが、あちこちの意見を聞いて廻り、かえって迷いを増やすのであれば、気弱さから迷うという悪循環に呑み込まれてしまいます。

……さて、気弱さ故に迷ってしまった人が、そこで己を反省したとします。

「なぜ、私は迷ったのだろうか?……そうだ! きっと船頭が悪いからに違いない。今度は別な船頭を頼もう!!」

 しかし、気弱さからまた、たくさんの船頭を雇い入れればやはり船はやはり山に登っていくのでしょう。

……この意見は、迷える者をあまりに見下していないか! そう思われますか?

 智慧あれば助言に頼らず、分別あれば助言に迷わず――智慧も分別も無いから助言を受けて迷うのです。すべての迷える者が救いがたいとは申しません。しかし、間違った助言の受け方をしている人は救いがたいと思います。


霊感とは

2006/04/15

「私には霊感がない?」

 「私には霊感がない」と自認する人は、ほとんどの場合、人生に非常に悪い影響を及ぼす、重大な誤解を抱いていらっしゃいます。

 人間は、死んで突然、魂に変わるのではなく、肉体を持った魂なのです。生きていても魂なのですから、死なねば他の魂とコミニケーションが取れないというのはまったくナンセンスです。それとも肉体的な障害者と同様に、死者の魂にも障害があるのだろうか……実はありますが……基本的に問題は別な所にあります。

 確かに霊的なコミュニケーションの取り方には、うまい下手があります。この事を指して霊界通信などは、「肉体の牢獄の鉄格子の隙間から外を覗くだけ」等と表現しますが、これは他に手段がないという事ではありません。皆は、他に手段がないと信じきって疑問を抱いていないだけなのです。

 霊感は発想力の源なのです。ですから本当に霊感がない人……周囲から霊感がないと思われるのは、頑固で融通の聞かない人や、それこそ生きる屍となっているような人に限られます。

 そして、魂の障害とは、他の霊とのコミュニケーションの方法・手段の有無というより、他の魂を侮蔑し、認めず、大勢の中にあっても孤独となる魂のあり様のことを指します。

 会話は交わせても、心を交わせない……こういう人にとっては死後の世界の研究よりも、真の意味での心霊を学ぶ必要があるのです。

 

霊感とは?

 死後、肉体を失った後も、視覚、聴覚等の肉体的な感覚を用いたがる霊は、よほどの低級霊に過ぎません。

 肉体を捨て去り、魂の真の自由を得た魂ならば、霊視、霊聴などといった手段を非常に面倒に感じます。言葉によるコミュニケーションでは、心を十分に表現することは出来ませんし、出来ると信じているのは、傲慢というより、薄っぺらな感情しか持ち合わせていないといえるでしょう。

 この様な霊格の霊たちが用いるコミュニケーションの手段は、もっぱら、知識や経験の共有なのです。この様なコミュニケーションがなった場合……霊的交感とよぶ……話し掛けられたというより、「分かった!」という感覚に包まれます。聞くというより理解するという感覚なのです。

 たとえば、職業的な直観、洞察、芸術的な直観や発想などのインスピレーションのすべては、それが自己の魂から生み出されたものであれ、守護霊や背後霊たちの外部の魂から生み出されたものであれ、まさにインスピレーション……霊感なのです。

 多くの人が、霊感と思い込んでいるもの…… 霊視、霊聴などの感覚は、霊媒・霊能者の職業的な技能であり、これらは交霊力、または霊媒力などと呼ぶべきものです。そして、交霊能力は特殊な才能であるだけではなく、特殊な環境を要求されるものですが、霊感自体は誰でもあるのです。


2006-04-14

霊能者の憂鬱

2006/04/15

 学校生活中にクラスに一人ぐらいは、霊感が強い子がいた記憶がないでしょうか。その事から、単に霊を感じやすいといった人は、おそらく五十人に一人以上の割合でいると推測できます。

 中には自分の能力をひけらかす者もいますが、感じ取れない人にとって見れば、「君さえ騒がなければ何の問題もない」事でしかありません。普通には見えない、感じない物を感じ取っている人にとって、霊の存在は大変重要な問題かもしれませんが、それは普遍的な問題になりえないからこそ、多くの霊感保持者は歳を重ねるにつれて沈黙の道を選びます。

 一般常識的にいえば、人に見えない物が見え、感じるというのは、普通ではありませんから、周囲に警戒されるのは当然ですし、何よりも、霊能者という言葉には、超人的な者が期待されているものですから、霊感を口にする事で二重の責め苦にさらされる事になります。

力への期待と、理想と現実とのギャップです。

 実に多くの人が霊能力にあこがれます。しかし霊能力というのは目標ではなく、手段に過ぎないものなのです。霊能力を得たから何でもできるのではなく、次には霊能力を使いこなす努力が必要になるものなのです。いくら霊感を得ても使いこなせなければわが身を傷つけます。実に私に寄せられる相談には、霊感がほしいという相談よりも霊感を止めたいという相談のほうが多いのです。

 そして、欲しい、止めたいという相談の双方に対して、私の回答はただ一つしかありません。「才能は天与のものです。自分の才能を活かすことを忘れたら天罰が下ります」 霊感が欲しいというは、自分の才能を活かすことを忘れて、人の才能を欲しがるという悪行があり、霊感を止めたいという人には、天与の才能を生かすことなく無駄にするという悪行が在るのです。

 それにしても世の中には、人に言えない悩みというのが存在するものです。中でも、人に見えない物が見える、感じる事の悩みは、相談が最も難しい悩みといえましょう。

一体誰に相談すればいいのか?

 常識的にいえば、霊能者ということになるのですが、一匹狼の多い霊能者の世界は、我流や思い込みによって支配されていて、個人から指導を受けると同時に偏見を植え付けられる事も多いのです。そして、霊能力について書かれた書籍は、机上の空論か、または職業霊能者の自己PRが大部分で、霊感の持ち主には役に立たない情報が多すぎ、一方でどれが役立つ情報なのか、判然としない事があります。


2006-04-14

審神術

2006/04/14

 交霊相手の霊格を見抜くのに必要な技術。それが審神術です。机上の空論で審神術は行うのは非常に危険ですが、人間関係においても生かせる有益な技術です。しかし、 「審神者」の章でも説明したとおり、霊格を見抜く方法に、安易な手段はありません。

 また、霊格を計る基本は、相手の知性(教養……知識ではありません)すなわち、相手の反応がどのような境涯かによって測ります。

 審神術

 霊能者と言うのは結局、情報の仲介業なのですから、その情報の確度を高める為に、交霊相手の霊格を見抜く審神術を会得する事が必須となります。しかし、基本的に100パーセント確実な方法はありえないと思います。

 日常会話においては、主観的な会話の比率が高いものです。そして主観的な会話は真偽が問題になることはありません。客が「コーヒーより、お茶が好きだ」といえば、お茶を出せば済む事ですよね。

 しかし、交霊で重視される情報は、真偽が大切な事実と予測に関する事柄です。そして真偽は実際に試してみないと確認出来ないものでから、最初から拒絶するか、騙されるのを覚悟して試してみる必要があります。騙される事を覚悟で信じ、経験を蓄積して、信頼関係を確立していく事が大切なのですね。ですから付き合いの浅い相手の場合、重大な影響を及ぼしそうな事柄は信じないで、信頼出来る相手に検証してもらうこともあります。

 信頼関係の醸造も重要です。通常の人間関係でも、単なる茶飲み友達として信頼出来るというのと、自分の人生や財産を預けられるほどの信頼とは別なものなのです。相手にとっても大切な……必要な人間になるように努めなければ、自分が望むだけの加護を与えてはくれません。

 相手を過信すると、本当に必要な大事件が起こった時に「そこまで面倒見る事は出来ない」と断られる事もあります。それは相手が非常だからではなく、付き合いの深さがその程度だという事なのです。

 次に重要な要素は、個人識別です。たとえ特定の霊と信頼関係を結んでも、偽者に騙されては信頼関係が意味を成しません。そして個人識別はとても難しいものです。

 当掲示板には、突然にハンドルネームを代える人がいますね。ハンドルネームを変えてもわざとメールアドレスなどを残している事も多いのですが、投稿文を読めば、誰の投稿だか、分かる事も多いものです。ただしこの場合、投稿文が短すぎて、例えば挨拶だけであると、どんなに親しい間柄でも投稿主を判断する事は出来ないでしょう。判断材料は豊富な方が間違いが少なくなるものです。

 しかし、多くの人は、ハンドルネームで相手を区別し、どんな物の考え方をし、文章にどんな癖がある人か……といった、内容で相手を区別する事が苦手です。そして、霊媒初心者が低級霊に騙される一番の要因がここにあります。名前は容易に偽れますし、名文・美文も引用する事が出来ます。偽れないのは自在な返答だけなのです。どんなに探しても得られなかった回答を与えてくれた相手は、たぬきを名乗ろうが、狐を名乗ろうが、質問者よりも上位にある霊と判断出来るのです。

 しかし、いくら自分の知識と相手の知識を比べた所で、自分以下の知識の持ち主を見極める事が出来ても、相手がどれほど上位の霊であるかを判断する事は出来ません。まして、実地に試す機会もない、霊的知識を基準に相手を偽者と決め付ける事は、結局、自分の間違いを正すチャンスを失う事になります。

問題を整理すると、

  1. 騙される事は避けられない。 騙される事を前提に交際を広げていく。
  2. 信頼関係を大切にする。信頼関係を片務にしない。
  3. 個人識別をおろそかにしない。
  4. 自分の知識で相手を判断しない。

 となります。そう、技能系の仕事をする人は、最初から難易度の高い仕事に取り組みはしないものなのです。

 無知の智

 人間の理解力には、限界があります。自身の知性を超えたものを理解する事は出来ません。理解出来ないものの正否を断定するのは、僭越を越えて愚かと言えます。しかし理解を超えたものがあるからこそ、勉強に目標が出て励みになるのです。地上において、すべての答えが出たのなら、もう学ぶ必要など無いではありませんか。それは成長の限界に至った事を意味します。

 人は知性や霊性の向上と共に、理解力が進んでいきます。今慌てて、正否を断定しなくても、いずれ正否が自ずと分かる時が来るのです。今まで当たり前に思えてきた事が、当たり前に思えなくなる。それもまた知性の向上の結果なのです。「バラの木にバラの花が咲く」これがどうして、当たり前の事なのでしょうか。人間であるという事は、人間の肉体を持って生まれてきたから……ただそれだけの理由でしょうか。

 世の中にわからない事があるのは、決して恥ずかしい事ではありません。それはあなたの生に意味があるという事なのです。

 世の中にわからない事が無いのは、とても恥ずかしい事です。それは疑問を持てるほどには世の中を知らないという事なのですから。もしも疑問が持てないままなら、あなたの生はすでに、後退期に入った事を意味します。 このような霊性の境涯は夢幻界なのです。

 一を聞いて十を知る

 一を聞いて十を知るのは、知性のなす所です。しかし勘違いしてはいけません。世の中には、一を説明するだけで、十を証明したと言い切る人の何と多い事か。小手先の手品や、口先だけの美言で偽真理を売り込むの者を見抜く事こそ、智性を持った者に望まれる事です。まして、一を聞いて十を知ったつもりになるのは、机上の空論しか扱わない証といえます。真理は戸棚の飾り物ではなく、人生に有益な実用品なのです。そして真理を生かさずして霊性の向上はありえないのです。

 もとより高級霊界の事柄は、言葉では表現できない美しさと精妙さを持っている物なのです。それを物質的世界の言葉での表現に拘れば、地上界の智慧と差が無くなってしまうのです。まったく高級霊界の叡智をわざわざ色褪せさせてから、智慧として取り込もうというのは、なんというおろかな事でしょう。

 このような過ちをするのも、変化と向上を嫌う夢幻界の住人でしょう。

 真理は智性に宿る

 真理は智性に宿るのであって、知識に宿るのではありません。辞書や聖書に出てくる言葉は、容易に引用出来ます。霊訓からの言葉も同様でしょう。しかし、意味を理解して使っている者は希だという事を認識して下さい。

 例えば、あなたが何かの商品を買い求めたとします。その商品が偽者でないかどうかは、ラベルや容器ではなく、中身である事に留意して下さい。ラベルは付け替える事が出来ます。容器は詰め替える事が出来ます。しかし、容器やラベルが違ってもあなたが必要とするのは中身のはずです。

 霊的な叡智を確かめるのに、誰でも引用出来る言葉や、知識さえあれば智慧なくても答えられるような質問で相手を確かめるような真似をせずに、自分には気が付かないような、ハッとする気付き……「感じる」事を大切にして下さい。

 少なくとも物質的な豊かさよりも精神的な豊かさを貴ぶ者であるのなら、ラベルや容器を集めて喜ぶような真似はしないはずです。

 知識や記憶を引き出すのに必要なのは、霊性ではありません。物知りが必ずしも人徳者ではないのです。人が学ぶのは必ずしも楽しいからではなく、人を見下す事に喜びを感じている場合もあるのです。相手の霊性を測るのはあくまでも相手が、大智を備えているかによります。そして真に知識を理解しているかによるのです。

 木を判断するのに実を見る事はとても良い事です。どんなに立派な名前が付いた大樹であっても、その実が苦く、食べられない物であるのならそれはあなたが必要とする木ではありません。どんなに見てくれが悪くて名前が汚くても、あなたの喉を潤す実を付ける木ならばそれはあなたが必要とする木なのです。まして、名前など何とでも付けられます。名前や言葉や目先の知恵に騙されてはいけません。

 記憶

 人間の生前の体験は、魂に刻まれてその霊性を方向つけます。例えば苦労をした魂なら、人の苦労を見捨てられなくなるか、人の苦労であっても見るのも嫌になるか……というように魂に刻み込まれるわけです。

 同時に記憶として、脳に蓄えられるのですが、当然、死後に魂は脳を放棄せざるを得ないのです。もちろん魂は、必要に応じて記憶の大海(永遠の大道・記憶の章を参照のこと)より、記憶を引き出す事が可能ですが、それは安易な行為……少なくとも交霊中においては簡単な行為ではありません。つまり交霊中の霊にとって経験的な回答は容易でも、記憶的な回答は苦手なのが普通なのです。

 また、交霊中において、その中継の霊は、霊媒の脳にある言葉を利用して、返答を構成します。つまり脳内に収めらている、短文をつなぎ合わせて、長文を作成しているのです。これは単に効率的なだけで選択されているのではありません。霊媒の言語機能を完全にのっとる事が困難で、しかも危険であるためにとられる手段なのです。

 このことは、審神者(さにわ)を行うのに当たって、霊媒の安全確保上決して忘れてはならない事です。

 むやみに本に書かれているような調べればわかるような事を、交霊において頻繁に求めてはいけないのです。知識は霊格に比例しませんから知識を求める事は審神にとって無価値ですし、まして、知識比べなら、自分以下の知識の持ち主か、どうかの判定は出来ても、自分の知らない知識を持っている相手の、レベルを測る事など出来ない事に留意しましょう。結局、高級霊たちから見れば、このような質問は見下した態度と受け取られる事でしょう。そして、このような非建設的な交霊に応じるのは審神者(さにわ)の霊格相応の霊ですから、意地悪で知識だけある低級霊しか降りてこない事でしょう。これは、結局、霊媒に対して危険な行為を強いて、しかも、低級霊しかおろせないといった、やってはならない行為なのです。

 審神

 相手の霊格を見抜くのに重要なのは、まず欲心を捨てる事です。相手を利用しようとするから、付け込まれるのです。

 第二に重要なのは、おのれの慢心を捨て去る事……無知の智を悟る事です。人の心を見透かせる霊たち相手に既存の知識で勝負をしても意味がありません。まして本に書かれているような知識をわざわざ霊界から取り寄せる事に何の意味がありましょうか。むしろ、現在抱えている問題の解答を求めて御覧なさい。あなたに思いつかないような、そして実現性あふれる回答を得られたとしたら、少なくとも相手の霊は、あなたよりも高い知性と霊性を持っていることが伺われます。仮にあまりに高度で理解が及ばない答えが返ってくるのならそれはだまそうという意図をもつ霊と考えて差し支えありません。

 この手段でも基本的に、自分よりはるかに高い霊性の持ち主を測る事は出来ません。ただ自分より上である事を測れるだけです。そして注意すべきは、本当に高い霊性の持ち主は、その霊性をひけらす事がなく、懸る霊媒、対する審神者(さにわ)の霊格にあわせ、それよりもやや高めの回答を心がけるという点です。すなわち慈悲深く、知性あふれる霊は、相手に合わせて発言する能力の持ち主だという事なのです。

 反対にいくら立派な発言をしても無意味であったり、杓子定規であったりするのは背伸びをしている低級霊に間違いがありません。このような霊に騙される霊媒は多々いるのですが、それは分不相応な霊と一足とびに交霊をしようという意図に付け込まれるからです。結局、交霊術も、審神術も人間の他の才能と同様に分相応で、努力を要求するものなのです。


2006-04-14

質疑:霊感について

2006/04/14

Q「ターミナルケアに関する本を読んだら、病気の親族の死期が気になって仕方がない」

 不安……ですね。不安というのは正しい知識を持たぬ事から生じるものです。すなわち、その本が中途半端な知識しか与えてくれぬからあなたが不安になるのです。

 なお、死についていうなら、「未来」は当てるものではなく、生み出すものです。確かに人は永遠に生きることは出来ません。そして考え方を変えた所で寿命を延ばすことは出来ません。しかし、たとえ短くとも有意義に生きることも出来るし、たとえ長くとも無駄に生きることも出来るのです。

 永く生きようとあくせくする人はストレスから心身をすり減らし、より良く生きようとする人は楽しく長生き出来るのが現実。決して不思議な話ではありませんよね。

Q「霊感が強く、職場のある部屋に誰かいる気配がして、しょっちゅう振り返ってしまうこともあります。」

 霊性の大切さに気がついて下さい。霊性とは、理性や知性とは別個の心の働きです。すなわち、理性・知性を纏めて一つの目的に向ける働きをする心の働きなのです。

 ……振り返っても見えないなら、どうしたら正しく受け止めることが出来るでしょう?

 いたずらに振り返るのを止めて、正しく心の目を向けるべきだと思いませんか? 当たり前ではないものを感じ取りながら、なぜ、当たり前の人間のように振り返り続けるのでしょうか。そこに理性や知性の働きがあっても霊性の働きがありません。なにより向上心がありません。振り返って見えなければ、それで安心なのですか?

 なぜ振り返ってしまうのか。それは、あなたが真実に関心があるからだとは思いませんか?

Q 「昔、霊感の強い人から私が予知ができるようになるようなことを言われたことはありますが、余りよい感じはしませんでした。」

 ならば、良い感じのする何かを求めれば宜しい。その違いが分かりますか? 判るはずです。あなたはとても聡明な方なのですから。でも、遠慮が美徳だと思っている。手に入れやすい大きな望みよりも、手に入れがたい小さな望みを求める方が美徳だと思っている。理性や知性がそれを美徳と呼んでも、霊性は違うことを答えるでしょう。……それは愚かだと。

 人には向上心があるのです。なぜ大きな贈り物をもらうことを拒むのでしょう?

 なるほど、もらった贈り物に押しつぶされるのは滑稽でしかありません。ならば、いつでも受け止められるように心身を鍛えれば宜しい。少なくとも、何ももらえなくても健全な心身があなたのものとなるはずです。もらわなくとも恨まない。それこそが謙虚というべきです。

Q 「年取ればそれなりに予想できることはありますよね。その程度以上のことは望みたくありません。」

 中道・中庸は、古今東西の聖人が薦める正しき道であります。しかし、中途半端と中庸とは違います。役に立たな鋳物を選ぶのは極端な選択といえるのです。

 人は智慧に溺れて滅びることもありますが、愚かでも滅びます。……求めるべきは、智慧か、愚かさか、そのどちらか……本当にその二者択一ですか? 第三、第四の選択肢はありませんか? すなわち、あなたはたった二つの選択肢にだけ目を向けて将来を決めようとしているのです。それは……何と呼ぶべきでしょう?

 あなたの疑問は、あなたの思い描く選択肢の中だけに答えがあるものでしょうか? 答えが見えない……それは、答えを出せないのではなく、単に残りの選択肢が見えていないだけではありませんか?

 それを、「不明」と呼びます。有り体に言えば、「心の目が見えぬ」ということです。未来が見えてもその意味の分からぬのでは困ります。……そして、あなたが悩んでいるのは、眼を開くか否かではなく、見ても判らぬか、見えぬ事にも気がつかない愚者であるかの選択ではありませんか?

 眼を開きましょう。人はいつか死ぬのです。死期が見えることを執着とするのではなく、その人が死ぬまでに何をすべきかを見る人になって下さい。

 人生の価値は長さで決まりません。その充実度で決まるのです。どうしたらその人の人生が充実するのかを考えられる人になって下さい。

 なにしろ、人は死を免れることが出来ないのですから。


ニセ霊感

2006/04/13

 果たしてそれはインスピレーションか。

 霊感とインスピレーション(”inspiration”)とは、本来、全く同義なのです。まず、その事を踏まえて以下をお読みください。

 ある人の心中に閃くメッセージが、外部の(霊的な)影響であるのか、はたまた、自己の内面、極端に言えば、ただの妄想や狂気の結果に過ぎないのか、その判断はとても難しいのですが、正しいインスピレーションであるのか、否かを判断するのは実は容易です。

 創造的な閃きが含まれているものが真のインスピレーションであり、否定的な意味合いしかないのは真のインスピレーションではありません。

・・・・・

 数年前、愛と平和を説くチャネラー(?)と出会った事がありますが、私は彼に何ら、霊的なきらめきを見出す事がありませんでした。「戦争が悪い事」や「人々が愛し合い、信じ合い、いたわりあう事の大切さ」なんて、わざわざ、霊的なメッセージとして与えられるまでもない事です。ちょっと気が利いた人ならば、誰だってそんなフレーズは口にするのに、それでもなおかつ、世の中には憎しみや不信が渦巻いているのです。死者の霊が、そう言っているからといって、それが何だというのでしょう。『思わぬ方がむしろ変、いや、わざわざ言う事がむしろ変』それが良識と言うものでしょう。

 わかっているのに克服出来ない事を、一体どうしたら克服できるのか、そのための智慧が人類には必要なのです。「努力と工夫が必要!」……そんな事も判りきった事です。わかりきった事を、神憑って話す。くだらない事だと思います。信じあい、労り合い、仲良くする事……そんな事は人間として当たり前の事であり、その当たり前の事を霊信やら、神憑りでなければ発言できない、または理解できないのだとしたら、その人は何と低俗な人なのでしょうか?

 ええ、人として当たり前の事が、霊憑り、神憑りでようやく理解できる人が相手であっても、信じあい、労り合い、仲良くする必要はあるでしょう。いえ、そういう人こそ周囲からの温かい保護が必要と言えましょう。 しかし、温かい保護はインターネット経由で出来るような類ではありません。この事は決して極端な話ではありません。

 特に、派手な神憑りをする人……には、自我肥大の傾向があります。人の注目を浴びたくて卒倒して見せるような部分があるのです。そして、周囲の人々から冷遇されていると感じている人は、普通に話しても注目されないが為に、「霊がこう言った……」と、いう場合が多いのです。

 これが実に滑稽である事に当人は気がつきません。まともな人なら、注目するのはタイトル/ラベルではなく内容なのです。どんなに素晴らしいタイトルだって、内容が陳腐であればたちまちうんざりしてしまいます。陳腐な会話しか出来ないからこそ、人々が相手にしないのに、「霊が……」、「神が……」と騒いで、しかも内容が変わらなければ、相手にしないどころか、その正気を疑うようになるのが当然でしょう。

 一度や二度はタイトルに魅せられて騙される人がいても、三度も四度も騙されるのは同じレベルの人だけです。結局、ますます人々からまともに相手にされなくなった時、このニセ霊媒には二つの選択肢があります。

 神憑るのを止めるか、更に極端なパフォーマンスを起こすか……一方は正気への道、もう一方は狂気への道なのです。ですが、私の心霊相談上の経験から言うと、霊感を欲しがる人は、何らかの切っ掛けを得た時、必ず狂気への最短コースを選択して、人の話を聞きません。こういう狂気は本当に治りにくいものです。さらに狂気に等しい霊憑り……つまり、低級霊との同化が起こった場合は、まず除霊は不可能です。

 なぜなら、患者にして見れば、正気を失った状態の方が幸福だからです。もう現実が耐えられないからこそ狂気に走っているのです。こういう人に努力を求めたらますます、深い狂気に逃げ込もうとするでしょう。


 くどいようですが……チャネリングの内容について。

 問題は、どうしたら憎しみあう人々が和解できるのか――という事のはず。愛と平和を説く。それは一見崇高な様ですが、具体的な方策が無いという一点を見れば、ただ愛と平和を説くだけの人が、ただ社会に対して不満を提示しているだけの批判家に過ぎない事が判るわけです。

 むろん、戦いを鼓舞する人々よりはよほど善良かもしれませんが、だから何だ、というのでしょうか。地上には六十数億もの人間が暮らしているのです。人にはそれぞれ様々な価値観があり、様々な思想があります。世界は六十数億の人々の仲介者を切実に求めていますが、人々がやっている事は自分の思想を押し付けあう事だけの事です。

 ただの批判家も、それに迎合する人々もつまらないと私は思います。愛と平和を説くのも同様。その人の独善的な正義を周囲に押し付けているだけで、人の話なんてまるで聞きはしません。世界が必要としているのは、愛と平和の伝道者ではなく、愛と平和の実践者なのです。

 それ以後、数人の「霊界から使命を与えられた救世主」からのメールを頂きましたが滑稽な事に、皆一様にありきたりな事を繰り返すばかりで、人の話など聞いてはいません。まるで、社会不適応者が自分を変えるのではなく、社会を変えようとしているようにしか見えないのです。勉強が嫌いな子供が、学校の無い社会を作ろうとするような物――せめて人の話を聞く人ならば、話をする意味もあるでしょうが、夢想的な話を一方的に聞かされるのは時間の無駄としか感じられません。

 そもそも人間は未熟な存在なのですから、その人間が集まって出来る社会もまた未熟な存在でしかありません。ですから、社会に問題があるのは当たり前のことで、それに気がつかない方がおかしなことです。そうであるにも拘らず、「自分は特別な存在で、霊的なインスピレーションによって社会の真の問題に気がついた……」などとは、禅宗でいう魔境、全く狂気の第一歩であって、「社会の抱える真の問題に、自らの思考力で気がつかない人」が、一体どうして一人前の大人として社会に貢献できるというのでしょうか?

 その程度の事を、霊的なインスピレーションでようやく気がついた人がいるとしたら、それは霊格者ではなく、ただの愚か者に過ぎません。嫌な事を自分から嫌だといえない人が、「霊(神/仏等)がこう言っている」と言い訳するのに等しいことです。こんな逃避的な心の人が社会に有益なる事、いや、誠実な友人として振舞う事が出来るでしょうか? 私はこういう手合いを全く信じてはいません。関わる事に価値も見出しません。


 現実逃避的な狂気――当事者は自らの境涯を天国であると称するが、周囲の人々から見て狂気の沙汰、または地獄の様相である状態を「魔境にある」といいます。まあ、極端な禅宗の方々は、心霊家一般を「魔境」と一括りにしますが、まともな大人が真剣に研究している物を部外者が一括りに論破出来ると思うなら、その僧侶はさぞかし高い悟りに達しているのでしょう。……という低レベルな話題は、脇に置くとして、上記、「神憑り」の問題は、実に禅宗の中で多く見られた事に注目すべきです。

 心霊を学ぶ上、特に自己の霊感と向きあわねばならぬ人((先天的霊能者)は、形式的・形而上的な呪術よりも、形而下の問題に関心を持つべきでしょう。密教よりも禅にこそ、自己の才能を真に買いかさせるヒントがあると私は思います。

 さて、確か、白隠禅師の逸話なのですが、ある若い僧が、「悟りを得て釈迦を超えた」と思いこみ、用便《トイレ》を済ませた後に、経本を破いて尻を拭くようになりました。先輩の僧侶が止めるように諌めてもいうことを聞きません。とうとう白隠禅師が乗り出したのですが、この若い僧侶の話を一通り聞いた後、「そんなに偉い如来様のお尻を、古紙(つまり経本)で拭く等というのはもったいない。これからは新しい紙で拭きなさい」といって席を立ったそうです。

 大抵の皆様には、十分に笑える逸話でしょうが、念のために補足します。

 この若い僧侶が、本当に悟りを得て釈迦を超えたのであれば、わざわざ経本で尻を拭くというパフォーマンスは必要なかったのです。それよりもむしろ、全く新しい事を始めるべきでしょう。しかし、「偉い如来様の尻を古紙で拭く」という大間違いをしでかしたわけです。これは結局、良いものを踏みつけには出来ても、より良いものを作れぬ愚かさが、こうさせているというわけです。

 このようなバカバカしさが、現代の自称メシアや、大如来様の方々にも散見するわけです。釈迦やキリストを超えたといいながら、そこら辺の霊媒やら、つまらぬ心霊サイトに集まる凡夫の説得に拘るという視野の狭さを持っている。本当に悟りやら神託やらを得たのであれば、堂々と世界を相手に自分の教えを問うて見せるべきなのです。自分の正気を世界に問うて見れば良いのです。

 でも、笑って許してくれそうなところを選んで、自分の狂気を小出しにするのです。わずか百年足らずにつまり、どこか正気の部分があって、いつまでも狂気の中に逃避し続ける事が出来るようにコントロールしているのです。それは、一生懸命、現実と向き合い、常に理性的に、そして前向きに努力して生きようとしている人から見れば、我慢し難いほどに卑怯な態度です。

 また、私も過去、そうでしたが、突然、霊感が発言しても普通に生きようと苦悩してきた者、そして、現実的な心霊思想を普及しようとしてきた者から見れば、現実逃避の理由に「心霊」を利用し、世の心霊嫌いを助長するような人は、とても不愉快です。現実と向き合えない弱者だからこそ、確かに社会の理解と保護が必要なのだけど、特定の個人が背負うべき類の親切ではないのです。


 念のため……

 上記、自称・霊媒、または、自称・チャネラーの方々と、私がどう違うのか、私自身がどう思っているかについて、関心をお持ちの方もいらっしゃるでしょう。

 「私は一人でも心霊研究を続けられます。」 

 実際に過去、十八年間は、自我肥大と向き合い、ひたすら聞き役になろうと努力して来たのですから。もちろん、せっかく心霊研究のホームページを開いているのですから、読者の反応は気になります。ホームページ開設当初は様々な試行錯誤も試みました。でも、人気第一で主義主張を偽ったりする事は今後も無いつもりでいます。

 つまり、「迷惑だと言われても人に付きまとう必要は感じないし、それどころか、わざわざ人を追いかけて教えを説きたいなんて思いません。」


2006-04-12

沈黙の意味

2006/04/13

盧氏との間で、「霊媒の義務」について通信中、突然割り込んできた通信が、このページの元になっています。


 交霊能力を得る為に修行を志す者は多いのですが、慎みを知らない霊媒を、重要視する霊はおりません。顕幽交通に誠実であろうとする上で霊媒の慎みは非常に重要です。

 私達が、質問者に対して沈黙を守ろうとした時に、霊媒が代わりに意見を口にする事は顕幽両者の信頼を損ねますし、または、霊媒自身が興味惹かれる話題に対して、支配霊の意を無視して自らの私見を述べる事は、霊界の意見を求める質問者を騙す事にも通じます。

 私達は、肉体に閉じ込められた方々の質問に総てお答えするわけには参りません。きちんとした質問者であるなら、一時に総てを質問することなく、まず、お互いの信頼関係を築いた上で、重大な質問をしていく事でしょう。私達にとっても、質問者の真意を適切に捉える上において、重要な質問を受ける前に、幾度か簡単な質問をしたいと思うのです。それは質問者にとっても有益なはずです。

 私達が、様々な思慮の上に、わざと質問をはぐらかし、又は沈黙を守る事も、質問者が自身の思慮で問題の真意にたどり着く為には必要なことなのです。大切なのは質問者に回答を示す事ではなく、質問者が回答を理解する事なのですから、沈黙こそが最善の回答である事も往々にして起こりうる事です。

 それをもしも霊媒が自己の私見を持って、顕幽交通の沈黙を破るとしたら、質問者と回答する霊達の努力は水泡に帰するでしょう。こういう失敗は数多いのです。霊媒能力者の大半は、沈黙の大切さに気がつかぬ故に、人々の失笑を買っているのですから。

 悩める者は、自らの苦しみから逃れる為に懸命に知識を求めているものです。それゆえに、往々に一点については専門家顔負けの知識を有している事も多いのです。このような人への回答に必ずしも専門用語が必要なわけではありません。大抵の場合、質問者が見落としている問題解決の鍵を指摘するだけで事が足りるのです。

 果たして高度に専門的な回答か、果たして含蓄に富んだ回答か、その両極端の回答こそが質問者を満足させる事ができるものです。しかし、霊媒の私見は含蓄もなく、高度な知識も無い中途半端なものになりがちです。これが質問者の失笑を買うのです。

 霊媒に大切なのは、いかなる時にも言語明朗に回答する事ではありません。相談者に適切な回答をする事なのです。ですから必要な時には沈黙を守れなければなりません。そして・・・霊感を求める人、更に強い霊感を求める人はとても多いのですが、そのような人々の中に、沈黙というメッセージを読み取れる人は一人も居ません。

 沈黙というメッセージを正しく読める人ならば、自分が充分な霊能力に恵まれている事に気がつく筈だからです。

・・・・・・・・・

 世の霊媒の欠点として目に付くのは、往々に余計な事まで言葉にしたがる事です。このような霊媒を通信手段として用いる霊は、自分の言葉だけでなく、霊媒の発言まで責任を負う事になりかねません。ですから分別のある霊は、まず、霊媒の資質として慎み深さに注目するのです。

 その意味で、霊媒になりたがる、霊と言葉を交わしたがる人々というのは、その動機から言って、霊媒には不向きなのです。そのような人々は、余計な一言によって霊界の信頼を失墜させかねないのですから。


2006-04-12

 

霊媒能力の使い方

2006/04/12

口伝 1


 不特定多数に公開して、一体何が口伝なのか、自分でも笑ってしまいかねませんが、少なくともこの意味・価値がわかる人にとっては貴重な言葉となるでしょう。必要以上に詳しく書けないのですが、霊媒能力をお持ちの方にはぜひ、心の隅に止めておいて貰いたい事が、二点あります。


1, 霊媒能力の使い方

 人の心は指で、指し示す事が出来ません。となれば、人が物事に対する心構えを学ぶ事はなんと難しい事でしょう。皆それぞれに、これが愛だ、慈悲だ、無私だ、無欲だなどといってみても、それはしょせん、肉体という牢獄に閉じ込められた魂の独白《ひとりごと》にすぎません。

 ところでもしも、人の心の動きやその精粗を見抜ける人がいたらどうなるでしょう。このような人は、口先だけの知者と本物の智者をたちどころに見抜いて無駄な勉強をしませんし、教えを会得する事に無駄に悩んだりしないでしょう。

 世の中には、こういう形で霊媒能力を用い、学業を大成し、偉業を成した方が大勢いらっしゃいます。私はやむを得ず心霊研究の道を選びましたが、真理の探究の隙間道《すきまみち》をたどっている感を免れる事が出来ません。霊媒という生き方に必然はある、でも王道ではないのです。

 私はこの事に気がつくまでに20年近い時間を費やしてしまいました。もしも、もっと早く気がついたら、別な道を……強引に選んだかもしれません。とても難しかったでしょうが。

 人は死ねば否応もなく死霊と付き合わなければならないのに、生きている今、死霊と付き合う事はせっかくの生、人生をないがしろにする行為といえます。霊媒能力の持ち主が、往々に病弱であるのは、こういう問題にも関わりがあるのです。

 霊媒能力をどう生かすか、というのは、人生をどう生きるのかという問題に付属することなのです。霊媒能力に人生を選ばせてはいけません。人生の中、生きることの中に霊媒能力を役立たせるのです

2, ビギナーズ・ラック

 バクチの初心者は幸運に恵まれ、欲をかいてのめり込み、その挙句、大火傷をする……ビギナーズ・ラックという言葉があります。心霊にも似たところがあります。

 最初の頃はささやかな善行で、実に大きな見返りが得られたりします。それはちょうど小さな子供がお使いすると、お駄賃をもらえるようなものです。

 ところがある程度霊的修行が進むと、なんの見返りも得られなくなります。あなたはもう大きいのだから親の手伝いをするのはむしろ当たり前だ……という訳です。

 さらに段階が進むと、この「当たり前」の部分がどんどん大きく膨らんでいきます。つまり……

 『知る事には責任が伴なう』 のです。

 摂理を知れば善行は人のためではなく、結局自分のためだとわかるはずです。あるレベル以上に進むためには、自分の内面を磨くだけでなく、人々の内面を磨く手伝いをしなければどうにもならなくなります。そう、一人ができる事業は、しょせん限度があるからです。<

 笑顔で迎えられたのは、挨拶だからです。挨拶の笑顔だけで甘えた考えをもつと、悲惨な事になります。どうか覚悟をしっかり持って前にお進みください。あなたの指導霊たちはあなた方を知れば知るほど厳しくなりますが、決して鬼でも悪魔でも有りません。

 あなたが努力した分だけ、確実に満足感や達成感が得られるように要所要所で配慮してくれています。ただ、あなたをして指導霊たちを裏切らしめるのが、あなた自身の甘えた考えなのです。

 『こんな厳しいのは、(神仏守護霊が)私を憎んでいるからだ』そう思ったが最後、あなたは真実の道から堕落への道と進む事になるのです。


2006-04-12

霊媒の資質

2006/04/12

 霊媒の資質について重要な事があります。聞けば当たり前すぎて、ばかばかしくなる事ですが、でも、身近に霊媒能力の持ち主がいる人にとって、この資質を満たしていない霊媒があまりに多い事に驚かれるでしょう。そして霊媒の知り合いがいない人は、あまりの単純さに呆然となさるかもしれません。

その資質とは、「人の話を聞く」事なのです。

 実はこれがとても難しいのです。特に霊媒能力の持ち主にとって、これがどれほど高いハードルであるか、想像も出来ない事かもしれません。

 「霊媒は、口を利いてはいけない」というのではありません。話が無駄に長いのは迷惑ですが、霊媒ならではの体験談や目撃談を心待ちにしている人も多い物です。ですから、話をするのは大いに結構です。問題は、話すばかりで一向に人の話を聞かない霊媒です。

 人の話を聞くためには、集中力や寛容力、理解力をそれなりに求められるものです。生きている人相手であれ、死者の魂であれ、共通の資質なのです。ですから、人相手に話を聞かないのなら、果たして霊を相手にちゃんと話しているのか、疑問に持たれる事でしょう。実際、「人の話を聞けない霊媒」は、ただ思いつきだけで話し続けるもので、そういう霊媒ほど、人を誤解しがちです。

 しかし、人を誤解する霊媒に、いかなる霊力を期待できるというのでしょうか?

 あなたが誰かに相談を頼む時、あなたを誤解するような霊媒と、あなたを暖かく理解してくれる非霊能者と、一体どちらが頼りに出来ると思いますか?

 霊媒の葛藤

 しかし、私も霊媒ですし、未熟さを徐々に乗り越えてきた身ですから、理解できる事もあります。霊媒が人の話を聞くのは容易なことではありません。

 子供の内は、素晴らしい空想力を備えていても、大人になる過程で現実的になる事を迫られます。そうでなければ他人と価値観が共有できないからです。そして、空想と共に不可知なものを無視する分別(?)を身に付けて人は大人になっていくのです。しかし、そのような分別のあり方は霊媒のあり方と相反するものです。

 霊媒は、他人には説明し難いものを見聞きし、感じ取る力を持っています。でもそれは同時に、人とは知識や価値感を共有できない孤独へと霊媒を追い込んで行きます。もちろん、霊界側は手厚く霊媒を保護しますが、霊媒の社会性が失われかねない危険性を拭い去る事は出来ません。

 振り返れば東洋思想……特に老荘・仏教思想の素養が、多少なりともあった事が私にとって救いだった事でしょうが、私も、霊感発現後に得た世界観、価値観と、いままでの自分との葛藤に苦しんだ事を覚えています。この葛藤から逃れる事は容易ではありません。必然的に霊感を得た人は、自分自身を信じる以前に、誰かに自分を信じてもらいたい欲求にとりつかれます。

 理解者を得られない霊媒は、死ぬほど孤独に苦しみます。そういう実例を私はたくさん見てきました。でも、その状態を自力で脱しない限り、人としても霊媒としても中途半端な存在となってしまいます。

 理解してもらいたいがために、よけいな事を言い、余計な事を言うがために人から嫌われて自滅に向かう霊媒も数多くいます。その原因は明らかです。霊媒であろうと無かろうと、不安や不信は高級霊との絆を断ち切ってしまうからです。

 寛容であるべきです

 特に霊媒能力を持っている人は、寛容であるべきです。いえ、心霊に関心をお持ちの方はすべからく寛容さを身に付けるべきです。と同時に、奉仕の気持ち、それも無償の奉仕の気持ちをお持ちになるべきです。

 (私は有料の心霊相談には、それなりの価値があると思っていますが)

 人は皆、懸命に生きていればこそ、知らず知らずに敵を作り、罪を作るものです。そんな皆様を許し、導き、幸せに成れる用に努力する霊たちの心は、寛容さと無償の奉仕の念でしめられています。ですから、皆様の心も寛容さと無償の奉仕の念で満たされるなら、寛容で奉仕の念の篤い霊たちとの間により強い絆を結ぶ事が出来るでしょう。

 反対に、狭量で横着な人々がいかなる霊と絆を結ぶ事になるのか……出来る事ならば、体験せずに前進なされる事をお勧めします。

 謙虚であるべきです

 特に霊媒能力を持っている人は、謙虚であるべきです。いえ、心霊に関心をお持ちの方はすべからく謙虚であるべきです。なぜなら、邪悪な霊、または無責任なくせにおせっかいな霊たちから、皆様を守っているのは、力強くても謙虚な霊たちだからです。力は諸刃の剣。人に振るえば我が身を滅ぼす事もあります。

 だからこそ、無用な力の行使を避けるためにも、人は謙虚であるべきです。

 分別をお持ちになるべきです

 謙虚である事と一部かぶさるところがあります。

 理想に燃えた努力家は、親切なあまり人の迷惑を顧みない事がある……実にばかげた事です。人権の意味を知らない人が余計な事まで手を出し、迷惑がられるのです。そして、人権の意味を知らないというのは人を知らないということです。

 自分が為すべき事と、為すべきでない事、その分別をお持ちになるべきです。


 霊媒に不向き

 以下の人は、霊媒に絶対に不向きです。

 いわゆる自己肥大。自我のインフレーションなどと呼ばれる精神状態にある霊媒です。尊大な態度をとるために霊媒になるような人も世の中には多いわけです。そして、日本では交霊の事を古来から、「神降ろし」と表現していますが、神降ろしの最中には、霊媒は神となるのです。神となるで生まれる自尊心の酩酊に溺れたら……神となるために必死に霊(?)の言葉を聞き取り伝えようとします。

 ですから霊媒内では、こんな軽口が出たりします。

『あの人、とうとう神(仏)様に成っちゃったよ』

 この場合の、神(仏)様とは、人の話を聞けない相手を皮肉った言葉でもあります。念の為に申し上げますが、この様な自我肥大は、霊媒に限った事ではありません。聖書や仏典、カルト文学から、霊訓まで、良く出来た言葉を利用して、神様・教祖様になりたがる人はたくさんいます。

 そこまでいかないまでも……おしゃべりな人は霊媒に向きません。自分に勝てない人が一体誰に勝てるというのでしょう?


2006-04-12

鐘を撞く

2006/04/12

 十数年前の話です。霊媒・永戸先生(故人)の講演会に参加いたしました。正直言って、話を聞いていても永戸先生のどこが大霊媒なのか、私にはまったく理解できません。いえ、 話題を一つずつ追いかけると、私の勤め先に関する興味深い話も聞けたし、私にとっては笑えない霊現象の体験もあったのです。

 でも、大霊能者と呼ばれる、その精神性の深みに触れる事は出来ませんでした。むしろ、その霊現象のことが腹立たしく感じられたぐらいです。

 しかし、その帰り道、私の先生がヒントを下さいました。

「霊媒は鐘とおなじ」

 意味がわからずにいると、

「きれいな音を出すには、上手に撞かないとね……」

 なるほど、質問が悪ければ、良い回答は引き出せません。

 ああ……大霊能者と呼ばれるのは、素人にもわかりやすい霊能者ではなく、霊能者から慕われる霊媒なんだな……確かに素人の評価なんて、身勝手なものです。当時の私の未熟な視点では、永戸先生の講演会は、ただのばあさんの自慢話以上ではなかったのですから。

 霊視を含めた、見た目や語り口だけでは、鐘の撞き方など、思いもしません。不幸にして、永戸先生とお目にかかる機会は二度とありませんでしたが、私の先生から教わった一言は、その後、様々な霊媒との出会いで役に立ちました。



 霊媒の講演会――トランストークであろうと、無かろうと、霊媒が霊界の意をあらわす場に立ち会うと……必ず、虚栄心、自惚れに酔っている質問者が一人や二人いるものです。

 通訳が困っているのに、自信満々に自説を提示し、霊媒に「霊界への意見を求めてくれ」と要求し、その内容に周囲があきれても気がつかずにいます。それを見ていて未熟ではあってもやはり霊媒である私などは、これらの質問や回答などに関心を抱けません。

 人の誠意に対するのに必要なのは、技量や才能ではなく、精一杯の誠意です。お互いの誠意は、魂の共感を引き起こし、強く分かり合えるのですから。しかし、人に認めてもらいたいだけの人には誠意は通じません。そういう人をあしらうには、一種の技能・才能が重要なのです。

 どんな相手であろうと、ぶしつけな態度は相手を傷つけるよりも、自らの品位を傷つけますから、できることには確かに限りがあります。そして質問者は一言つぶやいて退場します。

「どうせ、あんな奴には理解できん」

 ……それが聴こえた私も一言つぶやきます。

「私にも理解できません」

 人とわかりあうために必要な事を理解しない人が、一体どうして理解者を得られると思うのでしょう。結局、不満ばかりを募らせて、最後の神頼みなのでしょう。方法を間違っていると努力しても結果は出ないのです。


 霊界に認めてもらいたがるといえば、たとえばヒーラーをやっている人が、霊能者に自分を鑑定してもらいたがる事も見かけますね。そういう方々とお話する機会は、幸い(?)にもありませんでしたが、私などは、先生に叱られてばかりで、誉められたのは一度きりです。

 一度しか誉められていない事は、誇りに思っています。なぜなら、欠点を直されるたびに私は向上していくのですから。私はおだてられなければ生きられない人間ではないし、誉められたって欠点は直らないのです。

 霊媒から「あなたには、もう指導する事はない」といわれたら、最後です。地上にありながら、霊界の誰よりも秀でる事などあるはずが無いのですから。叱られるということは、私の指導を行える器量を持った霊たちが、見捨てずに私に付き合っているということなのです。

 そして、誉められた理由というのは、「あなたはいい物を持っているし、心霊をお金に換えていませんね」というものでした。それ以前から、私の先生は持論として、「男の子は定年で退職するまでは心霊に関わるな、関われば心霊をお金に換えるだろう」と言っていたのです。

 先生の持論は、結果として偏見だったわけですが、そもそも障害や困難を乗り越えずして、いかなる修行があるというのでしょう。先生の偏見は、私の乳離れを促しただけの事です。

 一生修行です。もしも、霊性の意味を知っていたら、そして、心の内面を磨くという事の意味を深く考えていたら、かのヒーラーも霊能者へ鑑定を求めはしなかったでしょうね。なぜなら、人々には心の内面なんて、見えるはずも無いのです。ただ、心がきれいな人なら、迷いや抵抗を感じることなく、人々に奉仕できるというだけの事です。


 思うのです。

自分の行いの結果以上に、厳正な評価があろうかと。

そして、真の助言とは、より良い結果を導くものだと。

 人に認められたところで、それは真の評価を意味しません。なんとなれば、人とは身勝手なものですし、移り気なものなのですから。

 霊媒は鐘とおなじ、どんなすばらしい鐘だろうと、上手に撞かなければきれいな音が出ないのです。もしもあの質問者の方々が、自分の行いへの評価ではなく、自分がより高められる行いへの意見を、霊媒に尋ねたら、いえ、尋ねる事が出来たなら、きっとすばらしい霊訓が飛び出したかもしれません。

 虚栄心や自惚れを暴かれて、霊媒を逆恨みしている人は多いですよ。守護霊信仰というか、「霊媒ばかりが霊界の助けを受けて幸せになりやがって…… 」と恨み言をいわれたことも何度もあります。

 努力の伴なわない才能に、どれだけの力があるというのでしょう。摂理や真理の霊的側面に関する無知が僻《ひがみ》みを生むのです。


2006-04-12

お知らせBy老神いさお。

ただいま、メールヘのお返事が遅れています。今しばらくお待ち下さい。

移行途中のデータが時折、トップページに掲載されますが、編集作業の都合ですので、今しばらくご容赦ください。旧作については、本文右上に日付が記載されます。

東京オフ会: 3月度の東京オフ会は3月20日(土)午前に開催いたします。参加申し込みは、メール・フォームメールなどでお申込みください。

大阪オフ会: 大阪オフ会は4月11日(日)午後に開催いたします。参加申し込みは、メール・フォームメールなどでお申込みください。
 打ち合わせ用のページを作成しましたが中身はありません。今後参加者の皆様にパスワードをお知らせすると共に内容を追加して行きます。

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