‘異界の窓’ カテゴリーのアーカイブ

霊媒が、知ろうとしてはいけないもの。

2016/10/10

禁忌といえば大げさだけど、霊能者・霊媒、おそらくは占い師らも、関わってはいけない問題というのが多々ある。

生まれてくる子供の性別であるとか、老人の死の時期とか・・・

ダメというのは、それなりの理由があるもので、関わりたければ関わってみると良い。もしかしたらたまたま事情があって答えられるかも知れない。・・・べつにふて腐っているのでは無く、私自身、自らの失敗から学んだ事が多い。

生まれてくる子供の性別というのは、本当にばからしい。真実を見抜くより、目の前の相談者、子供の性別を聞いてくる親の「好み」を読み取り、惑わされるのがオチである。

まして「死の時期」を見るなんて、悪行に荷担するのも同じ、余計な事に首は突っ込むまい。

例えば、「将来、自分と結婚するのは、どんな相手であろうか?」・・・というのも、実に危険だ。時至れば、「この相手こそ好ましい」と思うかもしれぬものを、あまり早く知りすぎると、「そんなのは嫌だ!」と変更を試みるかも知れない。好みの相手と、必要な相手は違うのである。相手の好みに反した答えは、得てして変更の圧力を受ける。だが、必要な相手をどうして変更できようか?

人は己の定めを知りたがるが、知る事への責任を担えるものは少ない。善悪は時代と共に変るし、好き嫌いも時代と共に変る。社会の基準が変るだけで無く、己の好みも時と共に変る。・・・丁度その時に知れば良い方向に向かうものを、知るべきで無い事を知ったが為に必要なものを捨て去るとしたら、それはとても大きな損害だ。人は無知なのである。特に、未来に対して無知であり、無知ゆえに恐れる。信じる。主には信仰というカタチで、自分の未来を信じる事も大切だ。

好まぬ未来を提示されても、「それこそが自分にとって一番良い道なのだ」と、信じられるなら、そういう人であれば、天機は全て明かされるであろうに、季節外れを好むものは無駄な出費に後に苦しむ羽目になる。・・・わかる。私だって、待たされ、焦り、手を出そうとして苦しみ、未だに手に入らぬ事でまた苦しんできた。

遅れるには訳があり、訳というのは大抵、聞けば聞くほど不幸になるものだから、黙って待つのが一番良い。・・・のである。

男女が結ばれ・・・いや、表向きとは異なる事情もあるが、つまりは、男女が結婚すれば、次は子供を求めるのは、自然な形だ。求める事に関しては。・・・得られるかどうかは別な話。「子供を作る」は、言葉の綾である。本当に作るというなら、時期も選べよ、性別や容姿、性格も選べよ・・・この夫婦からなら絶対に美男美女、とか、スポーツ万能間違いなし、などと、遺伝的な視点から意見をいうものも多いが、その仕組みは解き明かされたとは言いがたい。例えば、いわゆるハイリスク、ハイリターンな組み合わせも多い。そう、紙一重、と表現される様な人は生み出しがたい。

子供は、得さえすれば良いのか? それだけで無いなら、あまり自分で作るとか、作らぬとか言わず、神仏に任せるが吉。

 

そして、何事にせよ、上記のような疑問(愚問)を思うのは、つまり、心を空っぽにする努力をしていないからだ。自分の希望への回答を受信できずにいる。そういうのも大きな目で見ると、自業自得の範疇だけど。

どんな子供を作ろう、等と不遜な事を考え出す前に、天に預けるべきは、天に預けよう。

霊界通信再開しなくては…

2016/09/21

最近、ページの更新といえば霊査事例ばかりなのは、霊能力が失せた、とかいう話ではなく、まあ大きい理由は、心霊相談を打ち切ったので、霊界側が通信の必要性をあまり感じていないというのが多い。

もう一つは、個人的な理由で、私自身を取り巻く環境が、とても生臭くなっている事にある。仕事が変り忙しくなって事もあるし、老親の生活が成り立つように、努力と工夫、そして大きな犠牲が必要となったことも大きい。これが自分の老後の話であれば、「ああ、カスミ喰っていますからお構いなく。」ともいえる/いってみたい? 事も出来るだろうが、年金だけで生活費がまかなえない親に向かって、「カスミ喰っていれば、金いらんよね?」というわけにもいかない。

別に背後の霊たちに後ろめたいことをしているわけでは無いが、いかんせん・・・これが自分の事であれば、不満をどうするかについて、とことん背後と話しあう必要があるが・・・親の不足・不満と折り合いを付けている最中に、超然的な意思なんて、老人イジメ以外になりようが無い。痴呆って病気(身体の異常)なのに、真剣に悩んで論理的な返答を組み立てたって意味が無い。見守り、先回りし、危険を取り除くのがせいぜい、しかも、一人で出来ずに、人の助けを借りなければならないからこそ、私は、超然とした部分を進んで捨て、人で有らねばならない。この状態で霊界通信なんてもらったって、うっとうしいだけ。ほぼ、そういう理由で、あまり心霊にリソースを回せない状態が続いている。まだ当分先まで続くだろう。

仕方がない。人間としての義務なんだから。これに王道は無い。・・・別に誰かの同情を求めているわけでは無く、淡々と、ケアマネージャーの助けを借りて、この件は進めている。

まあ、時期…であるから、ジタバタしても仕方がない。以上、この件の話は終わり。

 

私も、一社会人なので、色々付き合いもあり、それなりにSNS等も使っている。で、ある時、というか、この投稿のそう遠くない時間帯に見かけたキーワード・・・あー、心霊家がよく使う言葉だけど、まあ、別なページで論じる、かも。・・・を見た時、ふと生理的な不愉快を感じた。

べつに、上司の命令というわけで無く、私が被告の裁判で裁判長が下した判決というわけで無く・・・SNSで、だれが、何を言おうと、それが私にとってなんであるというのか? 個人的な誹謗中傷だって、真っ向から関わって良いことなど無いはず。どうでも良い話に、自分の心が揺らぐのは、何か別な問題があるだろう。

つまり、自分自身が、今の状況を詰まらなく思っているのだ。生きるために生きている今の状況を。明日への投資が出来ていない状況に。

うわぁ。自分の背後達と、ゆっくり話したいなぁ。生活費とか、生活消費センターへの相談なんて、今は考えずに、ひたすら自分の修行について助言を受けてみたいな・・・と思う。・・・または、SNSにある、つまらぬ記事、下らぬ記事なんて見たくない。(嫌なら見なきゃいいんだが)・・・どうせ時間を割くなら、それなりに価値のあるものと触れ合っていたい。

心霊家だって、悩むよ? でも、今考えても仕方のないことなら、気を揉む代わりにインスピレーションを待つ。すぐに答えは出なくても、一人で延々と考えるより、インスピレーションを待つ。言い訳じゃ無くて・・・つまり、見栄えの良い言葉を待つのでは無く、よりよい結果が期待できる、具体的な行動プランが沸き上がるのを待つ。

心霊て、善く死ぬための思想では無く、善く生きるための思想なんです。終わり(死)を意識することで、死までの過程を、大切に、そして活用しきるための思想なんです。今を思い切り生きるから、いずれ力尽き、眠るように死んでいけるのです。一見、無駄に見えても、遠回りに思えても、仕方がないのです。一人の人生では無いから、どうしても各々との時間調整が発する、ただその待ち時間を大切に使うことが、よりよい明日を求めることに繋がります。

私の背後がざわめいているけれど、それはそれ、これはこれ。今はただ、「時には良いものに触れよう」・・・その時間を作りたいと思っていることを、結びとしたい。

職業に貴賎なし。

2014/10/13

私のことを思いやっての事と思うが、「霊能者は堕落しやすいもの、気をつけてください」と、注意してくださった方がいる。

そういう言い伝えがあることを私も知っているし、いささか、自慢の嫌いもあるが、私が未だ二十代前半の頃には、『虎は死して皮を残すというが、私は弟子を残したい。今の弟子たちは皆金に汚くて・・・』と、暗に弟子入りを求められたことがある。

今から思えば、人情的には・・・すでに師事をしていたし・・・どうかと思うが・・・可能ならば弟子入りして、他派の知識を得ることも・・・いや、それは人としてはどうかと思うし・・・いや、やれば良かったかな・・・なんて、思ったりして・・・

話を元に戻す。私自身は『霊能者は堕落しやすい』という言葉を不審に思っている。もちろん、自分だけは堕落しないと思うわけでは内。

堕落するのは、貴賤・職業・性別・年齢に捕らわれる話ではあるまい。裁判所の職員や銀行員が痴漢で捕まったりするご時世である。なぜ、わざわざ霊能者だけの堕落をいうのか?

例えば、自分の弟子をいさめる言葉だとする。でも私なら別な表現をするだろう。「人は堕落するものだ。だまされるな。だますな。」 ・・・のように。そもそも、物事は一得一失。作用には反作用。物事の一面だけを言い表して、いったいいかなる真理を説くというのか?

ゲスな憶測をあえてするなら、『霊能者は堕落しやすい」とは、「自分以外の霊能者を信じるな」といっているようにも思えてしまう。それは論理的帰結というより、論理が破綻しているが故に感じる侮蔑の言葉である。

「おまえは堕落するな!」であれば、私は常に心がけている。正直、高尚な思想の元にそうであるより、目先の利益より、長い目で見た安定を重視するだけかもしれない。・・・だからといって自分を卑下することをしない。何となれば、世の中には結果として自分に返ってくるような悪口をとくとくと語るものが多いことに気づいているからだ、

私も、私なりに、私の論理で、日々、自分を律する努力をしている。

職業、性別、年齢に貴賤なし、ただ、その人の生き方にのみ貴賤がある、と。

 

 

蛇足かもしれないが。

どうも、宗教や心霊を学んでいる人には、基本的な人権を軽視する人が多い気がする。いささか下品な表現をするなら、「あんたはどれほど偉いのか?」などと思うこともある。・・・いえ、関わらない方が利口ですよね。

私に触るな!

2012/04/05

注: この原稿は、数日に分けて編集されます。編集終了後に、この注意書きは削除します。


  問題としては具体的だが、説明が抽象的になるので、言葉で説明するのが難しく思えて、放置してきた問題を取り上げる。まあ、相談されたも事もないし・・・とはいえ、悩みとしては案外多いと思われる事例である。

多分、霊障(ここでは「霊的な障害」を指す。「心霊的な障害」と表現すると心理的な問題まで含まれてしまうので下記とはそぐわない。また、霊的=病気の場合を例外とする。)というと

1, 思考を読まれる、または、干渉される。

2, 行動を抑制される、または、強いられる。

3, 災難 (偶然かも?)

4, 何らかの事象を体験する (気のせいかも?)

等がある。本来なら、行動を強いられることが事故の原因にもなって大問題のはずだが、自身の思考に影響がない限り、当人としては「戦える」と判断できるらしく、一番嫌われるのは、思考に対する干渉のようである。

とはいえ、人間は希望があると無駄にあがき、苦しみを長引かせることがある。病気でもケガでも、自分ではどうにもならない、と思えばこそ、急いで医者・専門家に相談するものを、「寝ていれば治る」等と軽視することで、往々、手遅れになったりする。

つまり、手口の悪辣さからいうと、自力で何とかできそうな問題のほうが、巧妙で逃げ出しにくかったりする。

また、これまた悪辣な話だが、たとえささやかな嫌がらせでも、どうしても抜け出せなければ、やはり自力での解決を諦めてしまうだろう。

例えば、寝ようとすると話しかける。これは迷惑だ。会議中やテスト中に話しかけられるのも気が散る。無意識に返事をしようものなら、立場が危うくなるだろう。

また、入浴中やトイレなど、他の視線が不快なときに声、とくに異性の声が聞こえたら落ち着かないどころではすまない。

または、手で触れられる感触がある、首や脇、さらには陰部に感触があるのは、人間の尊厳に触れる冒涜である。

・・・こういう嫌がらせが続くのは、やはり大問題ではあるが、その嫌がらせが、たとえば、念を送ったり、手で振り払うことで退けることが出来るとしよう。すると、やられたらやり返す、やられたらやり返す、という繰り返しに陥りかねない。

反撃しているつもりでいると、往々、自分の苦しみが紛れてしまって気付き難いが、一方的にやられている時よりも気が散っているし、意識せずに異様な行動を撮り始めたと、周囲に疑われかねない。

しかも、振り払うどころか、真剣に反撃している時ほど、相手の抵抗が強かったりすると・・・要するに反撃可能というのは、いいように遊ばれていることがある。

 

獅子身中の虫

・・・いいように遊ばれる? では、敵はどこに潜むか?

もしもあなたが、いたずらを仕掛けるなら、その結果をどこで見たいか?

または、身を隠し、身を守る上で一番都合のよいのはどこだろう?

相手の後ろ?

相手の上? ・・・または???

隠れるなら、また、仕掛けるのに一番便利なのは、敵の中であろう?

そして、偽の情報を与え、混乱させ、あわよくば、同士討ちをさせる。

さらには・・・延々と争い続けさせ、相手の心が荒むように仕向ける。

 

人を呪わば?

敵と戦う。・・・もしかしたら、いや、多分、それは正義の戦いかもしれない。だが、戦い続けるあなたは、正義を忘れずにいるだろうか?

「とにかく敵を倒す!」・・・手段と目的の混同。それがないといえるか?

ましてや・・・相手の手口も気づかずに、相手に弄ばれていたとしたら、あなたに正義はあるのか?

暴力の言い訳に「正義」という言葉を用いていないか?

多くの、多くの霊能者が「除霊」が必要という。・・・暴力で解決するのか?

多くの、多くの霊能者が「浄霊」が必要という。・・・洗脳が正義か?

戦い続ける「修羅」を生むのが正義なのか?・・・そんな選択は、きっと誰かが悲しむだろう。

あなたは戦い続けて、いつか勝つかもしれない。だが、それは神の勝利となるだろうか?

あなたが勝って(自称)、神が負けたなら、この世は滅びに向かうだろう。

あなたは、この世の滅びに手を貸していないか

 

基本に帰る。

では、どう解決するか、するべきか?

 

まずは、正論が、往々、不快であることに注意すべきだ。

正しいと分かっていても、不快で選びがたい。・・・つまりは、そこに自身の修行の余地があるということだ。

正しい行い、他者のための行いなのに、それを行う自分自身が不快という壁に阻まれる。まして、その苦痛の先にある結果は、相手が向上した果てに与えられるとしたら・・・葛藤。

だが、葛藤が生じるのは、道に迷うがゆえ。・・・ヒヨコのオスメス選別のようなものだ。分かる人には解り、分らぬ人には解らないのである。

だから私は、二者択一の正解は三番目、三者択一の正解は四番目という。

今の答えより明日の正解。今日のベストより明日のベスト(それは往々今日のベター、比較的良い答え)という意味でもある。いや、そうあるべきだ。

 

繰り返すが、為すべき解決法は不愉快なものである。

なぜなら、人間は、その時々で終わらせたいものだからだ。創作者にとって「・・・続く」という結末は、次回への布石、露骨にいえば利益への誘導である。だが、読者にとってはストレスでしかない。

続くの次は続く。そして最後は、「なんちゃって?」・・・誰もがそれを恐れている。・・・人生の多くはそのように振舞うがゆえに。

・・・でも、あえて言う。私が思うに、あの世のことはあの世に任せるべきだ。つまり、不快であるなら尚の事、自ら速やかに追い払おうと思うより、霊たちに解決を任せて自身は我慢すべきだ。

勝つか負けるかではなく、自ら、「戦わぬ」「争わぬ」ということが大切と悟るべきである。

これは例えば、「世界平和に反する奴はとんでもない!!!」と怒るような、戦闘的平和主義者(世の中には案外多い)を見たなら、我が身を振り返って、為すべきを為すべきだ。

勝てるかどうかではなく、不戦こそが、神の道であろう。

 

 

 

・・・続く

座を開けて待つ。

2011/12/31

人として、ひとつの信念を持つことは大切だろうと思う。・・・周囲に振り回されていては、人生を棒に振る。

とはいえ、その信念が頑なであれば、他者の拒絶となり、他者の拒絶は同時に、周囲からの拒絶に繋がる。

そして、

心霊を学ぶ者に、気をつけるべきことがある。

「頭」は、信念のみの容器ではないし、単なる思考器官でもない。

創造性や、直感、いわば霊感(インスピレーション)を受け止める受信機でもあるのだ。

 

自分を、または、家族をも・・・無防備にさらしてまで、答えを出したり、迷いと格闘せねばならぬか、どうか?

または、答えが出ずに迷っているのか? 自身の心と頭の使い方に迷っているのか?

霊感は、座を開けて待つ必要がある。心にゆとりを。

あなたの至った真実は本物か?

2010/11/09

「霊感かと思っていたが、違ったようだ。」と、古い友人からメールがきた。

・・・・・・・

 人生は概ね、儘《まま》ならないものだ。霊感があろうとなかろうと、その点に大きな差異はない。

 例えば飲食店が百軒並んでいたとして、霊感があれば、その中の美味しい店を見いだせるかもしれない。もしくは、まずくない店を避けられるかもしれない。

 だが、どんなに優れた霊感を持っていようと、無い袖は振れない。店が一軒もない場所で、飲食店を見つけられるはずもない・・・。

モノには限界があるし、無理を強いればどこかで破綻する。

 あなたは、無理を強いて、我が身を害していないか? ・・・これは例えば、神仏に祈ることも含まれる。・・・天に唾する・・・無理な祈りを重ねて、神仏を従わせようとしてもうまく行かない、というより、それで精神を病んだ人を何人か知っている。

 (ほら、あなたと一緒に一泊オフ会に参加した人も、その一人ですよ。)

 そもそも、祈って『応《おう》!』という返事がなければ、それはつまり「その祈りが正解」ではない、べつな答を探せ、という無言の返答と思うなら大過は無かったはずだ。

 ねだって上手くいけばめっけ物・・・いや、相手が許す以上を求めるなら、それは盗もうとするに均しい。しつこいのは罪と知るべきだ。それに気づかないから、我が身を害しても許されない。

・・・・・・・

 霊感といえば、超常現象などに例えられるが、単にそのルールが知られていないだけであって、常識をすべて超越しているわけではない。
 その証拠に・・・。  (は、最後の方に)

・・・・・・・

 統計を取っているわけでもないので、つまりは経験的に思うのだが、霊感は伝染する。といっても、細菌やらウイルスやらが霊感の原因だというのではない。

 おそらく、己の直感を口にする・・・他者にいうことに抵抗が無くなって行くのだろう。

 だが、抵抗を減らす、または、ブレーキを外す・・・今まで動かなかったものが急に動き出せば、そこに衝突の機会も生じることになる。

 動くものを制御できなければ危険が生じる。それゆえ、制御できないものを動かすのは無責任である。

 それゆえ、霊感を得た者が、まず真っ先に行うべきなのは制御、端的にいえば、「いかにそれを止めるか」ということになるのだが、人が動かしているのを見てきた人は、動かすことの危険を思うより、動かすことの便利さを思う。事故を起こすまで、なかなか危険性が腑に落ちないようだ。・・・抵抗がない事には同時に長短がある。

 むろん、霊感の発現、すなわち動き出すのは、当事者の意思とは無関係で、予想外のことであろうから、当面の危機管理も容易ではない。概ね、失敗を繰り返して学ぶしかあるまい。

 だからこそ、 「失敗したのは霊感が悪い」と思うのは、それこそ、己を使いこなすことの出来ない者の考え方だ。失敗は辛いが、それを財産とせずにはいられまい。・・・なにしろ、人は死を免れることが出来ないのだから。なんとなれば、死後に霊感を使わずにいられようか? 引きこもって誰とも合わずに過ごすのか? または、断ってもつきまとい続ける霊たちにしがみつかれて過ごすのか?

 他の成功ばかりを真似するから、他の失敗の跡を追うことになる。成功を学ぶには、同時に、相手の失敗からも学ばなくてはなるまい。

・・・・・・・

 さらに悲劇的なのは、失敗して始めて「霊感を自覚した」という場合で、逃げ出す前より事態が悪くなり、逃げ切れなくなってとうとう、「その霊感が(思うものと)違うものだ」と気づく場合だ。

 その霊感(・・・なるもの)は一種の現実逃避であり、現実逃避は、本能的な選択であって、そこに理性を期待するのは間違っている。それゆえ、いくら尊敬する相手から「その霊感を信じてはいけない。その内容は絶対に変だ。」と注意されても信じようとしない。説得するのもまず無理であろうし、そもそも、その話題を口にするだけで相手に苦痛を与えることだろう。・・・真実はなによりひどく人を傷つけるのである。

 事故を起こしたがゆえに、動かすことを恐れてしまうのは仕方のない。だが、動かすことにはかけがえの無い利便性もあるし、そもそも人が霊としての一面(死後の個性存続)があるとするなら、霊感を使うことには必然性もある。

・・・交通事故の多くは、運転する人の側にあるのと同様だ。まあ、多少は車の機械的な原因もあり得るが・・・それを人間に喩えるなら、霊感と思っていたが実は精神病であった、という場合もあろう。

 果たしてそれは霊感か、それとも精神病の結果か。・・・それはどちらに主体があるかを思えば、悩む話でもない。

 ヒラメキがあるから問題が打開できる。自分で考える上での手段としてヒラメキを使うなら、それは必ず人生の力になる。 だが、ヒラメキに流されていては落ち着きがあるまい。・・・または・・・霊感を超常現象と信じる人は、大切なことを見落としているかもしれない。

 そもそも、事態を解決するのは行動である。行動なく解決すると信じるのは妄想であろう。・・・手を出さずに口だけを出すようになったら、それは無駄に加齢したか、きっと気付かぬうちに身体を病んでいるのだろう。

 あなたは、あなたが迷惑と嫌っていたあの人に、近づいているのである。

 問題は霊感にあるのではなく、霊感の使い方にある。別な言い方をするなら、知識の不足が不幸の原因である。ならば、知らずにはさらに苦しむ。・・・心の眼を塞いではさらに苦しむ。

 眼を開ければこそ、汚いものも見えるのだけれど、汚いものを見ればこそ、それを避けることも出来る。

 あの時、霊感と信じていたものが、果たして真に霊感であったか、それとも、ただの妄想、または病的な妄想であるか。・・・それが果たして問題であろうか?

 その能力が正しくても、つながった相手が嘘付きならば、騙されずにはいられないのだから。

 さらにいえば、言葉の真偽を思わずに騙された、としたなら、あなたを騙した本当の相手はだれか?

・・・・・・・

 確かに、騙されたなら、嘘をついた者が悪い。・・・だが、嘘付きがなくならない世の中で、嘘を避けて生きることが出来るだろうか? 

「◯◯の霊」と名乗る相手や、神や仏を名乗る霊を尊ぶのは、果たしていかなる心の現れか。 たとえば、子供の戯言や、酔っぱらいの世迷言にも時には真実は潜んでいるだろうし、学識者や宗教家のいうことにだって、時には嘘や間違いがあるかもしれない。・・・肩書きを信じて、その内容を検証しないのは誰の非で、誰の損か?

・・・・・・・

 そもそも、人が死んで皆・正直になると思う人はいなかろうが、死んでこの世に未練を残すのはどういう人か、想像してもらいたい。 ・・・遣り残す事のある人。であろう。ではその、遣り残しとはなにか? 事件・事故の結果という強烈なものもあるだろうが、霊感の強い人が振り回されるのは概ね、考えるばかりで行動しない人、生前は(肉体的)行動力を持たずに、ただ精神的な行動ばかりを行った人と思うと、霊感の自覚のある人の、腑に落ちるはずだ。

 または、頼まれもしない人宛にいろいろメッセージを送ってくるのは、概ね、こういう霊である。大げさな話なので、見分けるのは比較的簡単だ。

 グズグズいわずに行動しろよ! という、生活態度の人なら、端から相手にしない筈である。(・・・とはいえ、誰もが、最初から安全対策に詳しいわけではないし、ベテランだって初めて知る話題もあるだろうから、知っていて当たり前というのではない。)

「ではどういう霊を信じろというのか?」と、問う人もいるだろうが、◯◯なら信じて良い、という単純な判別法があると信じるのは、 肩書きを信じるのと変わりない。ただ、いわゆる霊感初心者と話をしていて違和感を感じる点が、ヒントになるかもしれない。

 姿を見せたり、声で聞こえたり・・・というのを霊感の標準と考えてはいないか? それは本来姑息な表現と割り切るべきだ。

 本来、匂いもあれば、手触りを感じもする。または、なにやらうそ臭いとか、余裕がなさそう、といった雰囲気も伴うし、行動力の伝染・・・ヤル気が乗り移ったりもする。

 とくに、言葉ばかりが伝わってくるなら、「口先だけの相手」と思うのが無難で間違い無い。たとえば、職業霊能者のリップサービスをみて、こういうモノだと思うべきではない。

 それはともかく、石橋を叩いても渡らないタイプ、考えるだけで行動を惜しむタイプの人で、霊感が強かったとしたら、その体質を変えない限り、霊感は騙されるためにあるといってよさそうだ。もっとも、霊障(この場合はつきまとう霊が多い)を持つと、行動力が失われがちで・・・悪循環だ。

・・・・・・・

 そういえば、私がメールで心霊相談を始めたことを知った、私の霊能の師(私は「霊感」と「霊能」という言葉を使い分けています。) から、

「メール一本で、足も使わずに相談したって、解決なんてするはずない!」と、いわれたことが有った。実際のところ、メール相談といっても、切っ掛け・手段の一つであって、無駄ではなかったと思うが、さすがに、無料相談に甘えて、明日の天気まで訊いてくる人がいることを思うと、私は師から大切なことを確認された、と痛感する。なにしろ私の師は、結構な年齢なのに行動力があって、私は未だに煽られぱなしであるから・・・

 

(さらに…)

霊感が強ければ、憑霊は避けられない。

2010/08/11

 霊感の強い友人たちによく言うのですが・・・(これはもともと左遷問題とは別な人宛です。)

 物事に対して、好き嫌いを口にしていると、事態が拗れるものです。

 すなわち、嫌いとは弱点を暗示し、庇護者である守護霊、さらにはその上位の産土神、産土神が決定してしまえば、否応もなく祖先の霊たちまで試験官役となって、弱点克服のために嫌なことに立ち向かわされる・・・ということになりがちです。

 苦手なことを免れれば、浮かれるのも人情ですが、それが往々、試練の引き金になったりしますが、まあ、他人の目から見れば、目先の苦労で、長い目で見た災難を克服できるなら、意義もあるかとは思います。とはいえ、何も好き好んで不意をつかれる必要はありますまい。

 そもそも、守ってくれるはずの守護霊が、「やむを得ず。」と思ったのなら、事態は重大です。責められるばかりで庇うものがいなければ、霊界不信に思うのも仕方がありません。それほどの危険を犯してまでも、守護霊が突き放すなら(どうせ適当なところで手を差し伸べるとしても)、それはリスクに見合う事態なのです。・・・極楽行きを諦める、というか地獄行きを覚悟せよ、と思うべきでしょう。

 まあ、別段、怖がらせようという話でもありません。・・・が。


 霊感の強い友人から電子メールで質問がきました。 (語法の差は、年齢差です。^^)

「憑依と、神憑りはとどう違うか?」・・・・この二つは、懸かる霊の目的意識に違いがあるだけで、手段は同じです。

 あえていえば、低級霊の憑依は努力で克服できますが、(真の)神憑りは抵抗するだけ無駄です。とはいえ、低級霊に憑かれても恥ずかしいだけですが、神憑った仕事の一つもできなければ、人生は寂しいものです。

・・・まあ、霊憑って、苦しくていらっしゃる方には、ある意味、答になっていませんが。

 いわゆる高級霊というのは、いざとなればひどく強引な手にでます。が、概ね、「嫌!」と言われれば手を引きます。でも、悪霊・低級霊の手合いは、嫌と言われればむしろチャンスと見ます。  (この差を理解しない人は多いのですが、悪霊・低級霊は手を出してはいけないときに手を出し、いわゆる高級霊は、手を引いてはいけない時に、往々、手を引く、ということです。・・・つまり、霊憑るのを嫌う人は、いざという時に弱いのです。)

 つまり、悪霊・低級霊を拒絶する巧い方法なんて無いのです。どんな手管を使おうが、相手はその裏をかきます。私達人間が、如何に強い霊能力を持っていようが、生きている限り、寝なければいけないし、食わなければいけません。すると、霊たちから見れば隙だらけなのが人間なのです。

 ではどうするか、どうすべきか。

 憑霊を防ぐ方法なんてありません。なにしろ、如何に強い霊能力を持っていようとも、生きている限り、寝なければいけないし、食わなければいけません。世俗はうるさく、身体的な欲求は引きも切りません。それでは、霊たちから見て隙だらけなのです。

 ならば、発想を逆転すべきです。

 憑霊が防げないなら、せめて、憑依する霊を選ぶ。

 ・・・昔から、霊感の強い人はそうしてきたのです。

 眷属を得るとか、式神を得るとか・・・へりくだって、守護神を得る、・・・・または、だいぶ民主的な表現として、背後霊・背後霊団(支援者)を持つとか。

 現代の考え方では、霊たちの助けを得て生きるというのは、おしりの座りが悪く感じるかもしれませんが、実を言えば、当人が意識しているか、いないかの違いに過ぎず、意識しなくても出来る仕事もあれば、出来ない仕事、というか、乗り越えることの出来ない試練もある。そう思えば・・・抵抗が無駄、とは言いません。でも、嫌がるよりもまず、受け入れた先に得られるメリットを確認すべきだと思います。なにしろ、いずれ一人では乗り越えられない試練にぶつかるのですから。 

 協力した経験のないままに一人では出来ない試練に立ち向かうより、協力した経験を持った上で、一人では出来ない課題に立ち向かうべきだとは思いませんか?

強さと伝わりやすさは違う。

2010/03/28

 これは再三繰り返している言葉。

 過ぎたるは及ばざるが如し――「強く願えば叶う」というのは真理というより心理、願望というべきではないか。……なにより、「適宜」を知らぬなら無様だ。と、いうのは個人的視点であり、周囲に目を配るなら迷惑だ。極論に走るのは机上の空論家のなす事、と言うのは果たして言い過ぎか。

 そもそも、心霊家……少なくとも実践を疎かにしない心霊家であるなら……霊たちとの協力関係を疎かにすべきでない。で、協力するとは、大声を上げることだろうか?

 ……なぜ、大声(強く願う)を上げるのか。

 霊達よりの返事が無い……少なくともそれを感じ取れなかったからだろうとは思う。だが、返事が聞こえないなら、為すべきことはクドクドと話しかけることであろうか。……質問者は果たして、心静かに耳を傾けているのだろうか、と。


 ところで、聞くことが下手な人に、果たして「聞くことの大切さ」が、伝わるだろうか? まあ、いつかは、誰かに伝わるかもしれない。……べつに、冗談でも、嫌味のつもりもない。だが、良く考えてみてもらいたい。

人の話を聞かない人に、いかなる助言が可能であろうか、と。

 返事がもらえるまで強く念じ続ける……というのは、それだけを見れば些細な問題である。だが、どうしてそのような選択をしたのか、といことまで思いを巡らせれば、とても大きな問題であることに気付く。

 であるから私は、精神統一を大切にする。祈るためではなく、聞くために。

 

 しかし往々、聞く人は騙される。あげく、聞くことを辞める人がいるのはいささか不思議である。信じることの大切さをいかに考えているのだろうか?

 

 

嗚呼悩ましい

2010/03/25

 自分の霊感がアテにならなくて。……という人が多い。尋ねられたことはないが、「どうしたら克服出来るのだろうか。」と考えているのだろう。が、気を付けるべきは、設問を間違うと良い答えには至らぬということである。

 誰もが経験するであろうことだが、行きたいところと行かねばならぬところは往々異なる。行きたいところにこだわっている限り、人は、行くべきところに着くのが遅れる。

 故に思う。あなたの霊感がアテにならないのだろうか? それとも、質問が不適切であるのか。

 むろん、質問の出来が悪いのもあなたの責任であろう。だが、その二つは、解決策の違いでもある。霊感がアテにならなければ霊感を磨く修行が必要であろうし、質問が不適切であるなら、自分が何のために生まれてきたのかを内観する必要がある。もしくは、発想の転換が。

 ところで私も判断に迷うことがある。これは果たして私の霊感がアテにならないのか、それとも私の質問が不適切なのか?……まあ、いいじゃないか、と私は思っている。慌てて答えを出さなくても、その時に近づけばまたヒントを得るし。なにより、悩むことも大切であろう。悩めば悩むほど、自分で結果を得たかのように錯覚出来るではないか。

 結局の所、人生にはどれほどたくさんの選択肢があろうとも、至る所は同じで、ただ、進んで行うか、背中を押されて行うかの違いしか無い(かのように見える)のだから。

 

 

 

迷いの解消・前は後ろの正反対(新編集)

2010/01/17

前は後ろの正反対

2004年 06月 17日

 前を見れば欲が出る。あれもしたい、これもしたい。

 前を見るから脇道に入りたがる……一体前ってどっちだろう?

 一生懸命に生きるから、どうしたいのかが判らなくなる。

 そんな時は真後ろを向いてみる。自分が一番イヤな選択肢は何であるか? それを真剣に見つめてみる。そして、その正反対を見てみると……自分が絶対に目をそらしてはいけない前が見る。

 一刻も早く、一歩でも前に。そう思う気持ちが道をそらす。

 真っ直ぐな道より、近道はないというのに。頭で判っても気がつけば曲がっている。曲がっていることに気がつかずに、道が見えないと絶望する。迷っているのではなく自分を信じていないだけ。自分を信じずにいては、自信がなくなるのは当たり前だ。


迷いは万病の元

2004年 07月 13日

「君は迷いが多いね」と指摘されてもピンと来ない人も、設問を逆さにしてみるとわかりやすいもの。「打ち込んでいる物がないでしょう」違いますか?

 何かに打ち込んでいる人は、自分の力の大部分を目的に注ぎ込めます。ゆえに猛烈な力を発揮できる物ですが、迷っている人はいつまでも足踏みを続けます。迷って足踏みをしていると、前に進まないのだから楽なようにも錯覚するけれど、実は泥沼に落ちた自動車宜しく、エンジンを吹かしても車輪は空回りを続けるようなもので、浪費される活力は相当な物なのです。……迷うことに焦るから……迷った時には様子を見る。様子を見るというのは、一念専心休むことが大事なのです。身動きできなければ精神統一するぐらいの気持ちが大切です。それが出来なければ、全力疾走している人よりも心身をすり減らすのが迷いだとおもうべきです。これは全く、迷いを万病の元と呼んでも差し支えないほどです。


衣食足りて礼節を知る

2004年 07月 13日

 衣食足りて礼節を知る――といいます。豊かさと善良さは比例するというのです。これは反対にも働きます。つまり衣食が足らず礼節を失う――というわけです。特に小心な人ほど……と表現されて、「ああ、自分のことか」と思える人は幸いですが、ともかく、僅かな不足、欠乏、不安、などから、衝動的な行動に打って出て、挙げ句の果てに自分の立場をますます悪くする人がいます。

 まずい!――と感じたならば、自分の立場が良くなるように工夫すべきなのに、ますます悪くなるようにがんばってしまう。これはつまり、迷いが迷いを呼んでいる状態です。


迷いの原因

2004年 07月 13日

 知識の不足が迷いを呼ぶ……というのは、ありがちな解釈です。確かに、知識の不足も迷いの原因の一つには違いないのですが、もっと大きな要因は、理想と現実のギャップに求めることが出来ます。つまり、人は理想の実現に困難さを感じると、ついつい、理想と現実を結びつけるような奇抜なアイデア(というより妄想)を弄んでしまうわけです。

 これを業《カルマ》に振り回される等と呼ぶのですが、自分の欲が人を迷わせるというわけです。

・・・・・・・

 穏便とはいいがたい話です。迷いの主たる原因が欲にあるとします。すると、迷いを断つためには、まず欲を断つ必要が出てきます。欲さえ断てれば後は摂理、すなわち自然の法則に任せるだけで、自ずと真理の大道に合流していくわけです。

 ところが、どうしても欲を断てないとすると、迷いも断つことが出来ません。しかし、人は自分の欲の強いことには往々我慢が出来ますが、自分の迷いの強いことは往々我慢しがたいものです。すると、人は迷っていたことを忘れようとします。つまりは、ボーっとしていればいいのですから、迷いを忘れるのは比較的簡単です。

 それでも問題が残ります。迷いは人の活力を浪費するのです。そして、迷いを忘れ、浪費も忘れたとしても……実際に浪費は続きます。疲れた、気力が萎える、めんどくさい、誰かに頼りたい、大事にされたい。更にあなたが相対的な情念を理解できるならこうもいえます。自分が相手を大事にする以上に、相手から大事にされたい。自分が相手を愛する以上に、相手から愛されたい。

 これらは、迷いを忘れた迷い人の症状です。そして魂はゆっくりと堕落していきます。

 迷いの苦しみに欲を断てる人は、すなわち人生の試練をこなせる人です。反対に、欲を断てぬ人は、試練を自らの躓きに変える人です。ある人にとってのチャンスが、別の人の災難となる。人はこうしてふるいにかけられています。これをして無情というのは簡単ですが、宇宙は広くても、人類が使える資源は限られているのです。限られている以上、ふるいがあるのは避けがたいのですよ。


工夫の無さは迷いの証

2004年 07月 13日

 押してダメなら引いてみな――うまく行かないなら、無理をするよりも工夫すべきです。やり方を変えてみたり、ちょっと間をおいてみたり、無理をしても自他共に傷つくだけなのですから。

 ところが、押してダメならもっと押せ――と努力する人の多いこと。それでも開かなければ、人の助けまで借りて更に押そうとする。引いたりズラしたりすれば簡単に開く仕掛けであっても……このような人は無益な苦悩を生み出します。そして、無益な苦悩を人々に振りまきます。

 身近にこういう人がいて、縁が切れなければ……無益な苦悩以前に、自分の因縁に苦悩してしまうのが霊能者の苦労と言えましょうか。


ヒントを遠慮して答えは欲しがる迷い

2004年 07月 14日

 心の迷いが起因する問題について、いくつか相談を頂いております。しかしながら、霊査がなかなか出てきません。では、回答以前に何を語るべきかと探ってみますと、こういう事なのです。

 相談者の方は、気を遣い、ヘルプを乱用しないつもりで、霊媒(老神いさお)に相談するのを堪えている。そして、行き詰まって相談するが、それは結局、問題集に取り組んで回答を見るのと変わりがないというのです。なぜ、ヒントを見ないのか。

 ヒントを見ることを遠慮しながら、でも、答えを見ようとする。その間の相談者の努力とはただ迷いの生み出す苦しみに耐えるだけで、ちっとも成長がない。大事なのはヒントであって、答えではないのです。

 にもかかわらず、皆様は、ヒントは遠慮して答えを求める。……というのも、欲を棄てられず、また迷うことを棄てられないから、ということです。


人の迷いを背負い込む

2004年 07月 14日

 前述、「迷いを忘れた迷い人」――なる者がいたとします。自分自身は迷いを忘れても、迷いを棄てたわけではありませんから、そこにどうしても矛盾が生じます。その矛盾のしわ寄せを一人で背負うのは自滅行為ですが、ありがたいことに、又は、とても迷惑なことに、人は一人で生きられず、家族や社会の中で暮らしています。するとつまり、自分の生み出す矛盾や葛藤を、第三者に押しつけられる場面が往々存在し、それが悲劇の源となっていることを散見いたします。

 迷いの生み出す問題を解決するためには、迷いを棄てるほか有りません。しかし、誰かに押しつけられるなら、迷いが生み出す苦しみからは逃れることが出来ます。そして……苦しくないなら待つことも辛くはありませんね。

 迷いは苦しいからこそ、迷いを棄てようとする……冷酷なようで破滅を避ける仕組みがそこにはあるのに、迷いの苦しみだけを誰かに押しつけてしまえるから、迷いを棄てられずに魂の破滅を招くことが生じるわけです。

 自分の愛しい人の矛盾や葛藤を受け止める……一見、利他的な行為ではありますが、でも、因果応報、自らの迷いは自らが解決せねばならぬのに、迷いの苦痛を逃れたら、迷いを棄てることがますます出来なくなるもの。恋人や親兄弟の業《カルマ》を消すならいざ知らず、ただ苦悩ばかりを預って、利子を付けて返すのでは残酷な話です。

 表面的にいうならば、人は業《カルマ》よりも苦悩を嫌いますから、ただ、苦悩を取り去ることを善として、苦痛を伴い業《カルマ》の消滅は嫌がるのが普通です。そうして人々は愛する人々と一緒に「危地」を進むわけです。――感情的な不安よりも、真実の危険を軽視するなんて、私には耐え難いことですが、それが世間の良識であり、覚者だろうと抗いがたい強制力を持った誤解がそこにあるわけです。


人の迷いをなぞる

2004年 07月 14日

 まったく、まったく。迷いから醒めるには何が必要なのでしょうか? 人類の歴史はおそらくは迷いの歴史。ならば、迷いから抜け出る手だては、いくらでもヒントが見つかりそうな物……ええ、有るのです。ただ、迷える人が考えたことなら、それは迷いをますます深めるような表現を多用しているのが当たり前。

 いや、解脱者もいるけれどね。彼曰く「色即是空、空即是色」

 結局、迷いを棄てた人だけが理解できそうで、迷える人はますます訳の分からぬ言葉に出会ってしまう。

 要するに、迷える人が解脱しようとすれば、人の迷いをなぞることになります。すると、自分の迷いの他に人の迷いまで背負うことになるのです。……勉強で迷いを断つのは難しいものです。


心で、心の迷いは解きがたい

2004年 07月 14日

 前述のように、迷いに関しての相談をいくつか受けました。そして、その霊査はなかなか得られません。それは心の問題を、ただ心だけで解決しようとするから生じるのだと私は思います。

 簡単なことから、行動に移せば、それだけで糸口が見つかり、突破口が広がっていく。案外そういう物なのです。

 ある人の霊査も、なかなか降りずに心配していたら、先方からオフ会参加の打診がありました。すると途端に霊査が降り始めたりして、結局、行動しようとしたことが呼び水になったのでしょうね。もっとも、オフ会の準備に忙しくて、まだ筆記していませんが。

 迷える時は、出来ることから行動を始めるべきです。行動しながら考えることが良い。つまり、人は、考えすぎを防ぐ仕組みを持っているのです。自分を守る仕組みを寝かせておいて、苦しい、助けてというのは、ナンセンスというより、危険なことかも知れませんね。


痛い相談

2004年 07月 15日

 ここ数日、『迷い』をテーマにした更新を続けています。私としてはこんな辛気くさい……でも重要なテーマよりも、取りかかりたいテーマがいくつか出かかっているので心掛かりなのですが、必要な手順を省く事は後々面倒の種となる事を知らないわけではありません。

 迷いの生み出す苦痛について、霊感の鈍い方々は、「苦痛』として自覚していない場合も散見します。ところが、これを霊媒などが共感すると、胃の周囲が痛くなるのでやっかいです。つまり、霊媒能力の強い人が、『あの人、どうしているかな?』……などと思うと、とたんに自分の胃が痛くなるわけです。

 まあ、痛みを感じる事に恐怖するようでは霊媒はつとまりません。本当の交信は、感覚や体験の共有という形で行われるのですから、痛みを表現しようとする霊が居たら、その痛みをそのまま感じるのが霊界での交信なのです。胃が痛くなる相手が何人か居います。

 つまり、交霊で痛みを感じるのは、地上で、痛みに関する話をするのと同じ事です。別段自分の身体に悪いところがあるわけで成し、交信をやめればたちどころに痛みが消えるので、じたばたするほどの事もありません。

 ところが、特に人間相手で困るのは、交霊と比べて話がしつこくなりがちで、しかも、相手の切り替えが下手だから、いつまでも痛みが伝わってくる事です。さらに悪い事に、精神的な痛みの感じ方というのは非常に個人差があり、当人はせいぜいが不平不満の解消程度しか認識していなくても、その話を聞く霊媒には激痛が感じられる場合がある事です。幼少時の体験が原因だったりすると、もう痛みになれて悪夢を見たり、無意識に自傷行為に走ったりする程度で、自分の抱えている問題を適切に認識できない場合があるのです。

 こういう場合、当人にしてみれば、ただ愚痴を聞いてもらいたいだけなのですが、それに付き合わされる霊媒にしたらたまりません。愚痴を聞いているだけなら何年も、何十年もその苦しみを共有させられるのですから、うんざりです。特に、当事者が問題解決に乗り気でなければ、痛みに耐える事が不毛な努力に過ぎないのですから。

 もう一言付け加えるなら、人間の持ち時間には限りがあります。どうせ不毛な事をするなら楽しい事をしたいし、どうせ耐えるなら有益な事をしたいものだ――そうは思いませんか? 私は強く、強くそう思います。

・・・・・・・

 さて、強く痛みを生じる相談が三件ほど寄せられています(中には相談の自覚がないが)。例によって詳細は書けませんし、そもそも痛みを生じるという事は、当人が解決するのに迷いがある事を暗示しています。というわけで、直接のお返事の他に、相談者を想定しつつ、普遍的な回答をする事は、冷静に問題を受け止める良いチャンスかもしれません。

Q「願望成就しない。自分には縁がないと諦めた。」

 適切な譬喩とは申せませんが、良く引き合いに出す話を流用致します。

 「お金持ちになりたい」という願望が成就しない人がいます。障害を明らかにしようと、「なぜお金持ちになりたいのか?」と問うと、「もっとお金を使いたいからだ」と答える。……使っていたら貯まるはずがありません。まして、安物買いの銭失いというわけで、お金の使い方次第では効率の悪い事、おびだたしくもあります。

 この「願望が成就しない」という件も、守護霊様の意見とは別に、私が霊査致しましても、どうも無駄な事に力を注ぎすぎて、肝心な部分に力不足を感じます。

 それは結局のところ、正しい努力をしているというより、自分のカルマに振り回されている状況といえましょう。

 すなわち、自分が幸せになるための願望成就ではなく、自分の欲に引きずり回されている状況での願望成就……すなわち、不幸になるための努力の過程にあるのだと私は判断致します。

 もっとも、あなたの守護霊の判断と私の判断の違いは、視点の違いに過ぎず、問題は縁の有無というより、時機を失して、次の時機がまだ先にあるという事です。待つのもつらいが、待つ間にもすべき事があります。そして、待ち時間を有効に使ったものだけがチャンスに遭遇してそれを無駄にしないのです。

Q「伴侶との行き違いについて。」

 心霊相談を休業する以前から、恋愛相談などはお断りしてきましたが、家族・特に夫婦間の問題や、恋人との間の問題についても、相談したくても相談できずにいらっしゃる方、また、断りの対象になっている事を失念していらっしゃる方などがあります。

 大事な事は、相手の心をどうにかしようとするのは邪である、そして、邪な事を手伝わせようとするのはもっと邪である。という事なのです。

 人生の伴侶に相対するのに、他人の手助けを必要とするなら、それはもう伴侶とは呼べません。つまり大切なのは、どうしたら自分は伴侶たりえるか、という事であり、相手が悪いと思えても、それを補えてこその伴侶、至らぬ同士が助け合うのが伴侶であるとしっかり認識する事といえます。

 もっとも、人生の伴侶に関する悩みの大部分は、「相手が責任を果たそうとしない」という事でして、これがとても難しい。一方的な依存、つまり、夫が、稼がず、かといって家事もせず、あげくに女を作った、なんて話なら、「別れろ……」としか言いようがありません。

 しかし、相談の大部分は、相手の長所を無視して、欠点ばかりが目につくという場合が大部分です。こういう問題は、実は心霊相談よりも整体などの方がよほど効果的な回答を提示できるでしょう。この手の不平不満は、大抵の場合、不健康が理由だからです。

 不健康というのは、病気を意味しません、ただハツラツと生活が出来ず、だるいとか、面倒だとか言って、人の手を煩わせてしまうから、そこに不満が生じ、不満が積もり積もってイライラしてしまい、イライラが高じて感情的になっていく、という悪循環に陥っていると見なすわけです。

Q「親・子との行き違いについて。」

 ここでは、親・子との問題に集約しましたが、縁を切りがたい相手と広く捉えてかまいません。

 特に相手との関係が重荷になるのは、要するに縁を切りがたいからです。で、そこまで問題がこじれてしまうのは、当事者の一方、または双方が、姑息な人間関係の手法を使うからといって良いでしょう。つまり、相手の好意を確認するのに相手を困らせてみる……という事をやるわけです。

 たとえば仕事に行こうとすると病気になるとか、無理難題を吹きかけ、応じなければ泣きわめくとか……こういう無茶な行動に出るのは信頼関係が破綻している……痛みでしか相手の存在感を確認できなくなっているという状況です。

 これは正直辛いし、はっきり言って痛い。そして、解決策もまた無数に見いだせるでしょうが、この手の問題も、やはり、心霊的な解決よりも整体的な解決策の方が効果的でしょう。

 つまり、お互いが不健康だから、不健全な見方・視点で相手を見てしまうのだ、また、不健康だから依存心が強くなり、不健康だから相手の依存心が重荷に感じ、お互い辛いからイライラして和解策もとれなくなっていく。

 この問題の解決は忍耐を要します。また、ここでは不健康と表現しましたが、加齢も、問題の一因となりますね。

抑圧された心

 特に女性に多いのですが、親に対する不平不満から迷っている人が多いのです。もう霊媒だけが分かる痛々しさというより、誰でもこのいびつさに気がつくのではと思えます。

 そして、この問題を大げさにしているのは、親の悪口への病的な嫌悪です。親の悪口をいわず、親の欠点を見まいとする……自分の親を無理に尊敬する為に、自分を騙し、自分をだますから何が真実であるかが分からなくなるのです。

 褒めるの価値観もゆがみ、貶す価値観もゆがみ、何を言わんとしているのかがわかりにくい。こうした事例がすべて、親への不平不満が言えないためとは申しませんが、私の知る限り、こういう事情の持ち主がとても多いのです。

 しかし、赤の他人の行為なら許せる事も肉親の言動ならば許せぬ事もあるはず。他人に冷たい仕打ちをされたところで所詮は他人なのですが、身内が冷たい仕打ちをすれば恨む気持ちも生じますよね。つまり、親だからこそ許せない事の一つや二つ、ないとしたら、それは他人に接するような冷淡さで親と接していると言えなくもないのです。

 大事な事は、親への復讐ではなく、欠点は欠点と正しく認識する事で、適切な……つまりいびつではないフォローが出来るようになる事です。

 ところが……これがなかなか出来ないものです。自分は変われても親を変える事は出来ず、親が変わらなければ悩みは増すばかりですよね。こういう場合、親が死ぬまで治らぬのかな……と思います。

総論

 以上、四点の事例を紹介したわけですが、実はこれらの回答事例は、枝葉末節に過ぎません。こういう回答もしなければ、へっぽこ霊能者が相談者を煙に巻いているようだから書いているだけの事で、もっと簡潔に指摘する事がよほど大切だと私は考えます。

 これら、迷える人は、果たして問題に悩んでいるのだろうか? と私は考えます。むしろ思考過程にだまされて悩んでいるのではないかと思うのです。

 まず、各事例は、自分の大事な人をかばおうとするが故に生じる苦しみです。いわば自分の愛情に苦しめられているようなものですが、なぜかばう事で苦しむのでしょうか?

 その迷いの原点は、物事を善悪で計るところにあると思われます。つまり、善ならば良し、悪ならば拒絶するという価値観と、大事な人に悪いところがあればそれを受け止めようとするところに、矛盾と葛藤の種があるのです。

 善悪で考えるというのは、宗教で言うところの二元論に相当します。つまり、善悪は相対・不離の、たとえば電気にプラスとマイナスがあるように、また、光があれば影が生じるといったように、相対不離で一方には必ず他方がつきまとい、相互に争いを続けるといった思想です。

 しかし、近代心霊思想は、一元論で受け止めます。プラスとマイナスは中性の揺らぎ、光と影はただ濃淡が違うだけ。善とはより高度な存在であり、悪とは未熟な存在を指す。いや、老子の思想を考え合わせれば、影があるから光を認識できるのです。

 悪だから異質の存在……なのではなく、未熟だからあなたが補わなければならない。そう受け止められれば、ここに迷いはなくなるはずなのです。

 つまり、愛しい人に悪があれ、それをどう取り除くかに心を痛めなければなりません。それはつまり、相手の欠点が二人の間の障壁であるという事です。

 しかし、愛する人にあるのが悪ではなく欠点ならば……相手はあなたを必要とするという事、すなわち、欠点があるからこそお互いが、強く結ばれざるを得ないという事です。

 愛する人の、または、あなたの親の欠点を正しく認識しなさい。というのは、あなたが大切に思う人の悪を見つけろ、相手との断絶を直視しろと言うのではなく、あなたがより強く結びつけなければならない点を見つけなさいという事なのです。

・・・・・・・

人生の伴侶がなかなか見つからない

 まあ、以上で終わりにすれば話もきれいなのですが、ちょっと強欲な質問にも答えておきましょう。

 むろん、人生の苦楽をともにするのですから、その相手はなるべく頼りがいがあり、また、迷いや不正の少ない方が良いものです。……で、速やかに伴侶を手に入れる人は、ほとんどの場合、「私がいなければこの人はだめだから……」と、欠点を補うつもりで相手と接しています。(そのくせ、不健康になると、相手の欠点を重荷に感じて不平を言うのだから……いえ、そういうカップルを支える事も友人の勤めですよね)

 対して、伴侶を得がたい人は、「この人がいなければ私はだめだから……」と、欠点を許さぬ態度でいます。

 不幸にして……欠点のない人はいませんから、このような態度では死んでも伴侶を見つけられません。往々、「あの世で伴侶を見つけろ」と怒鳴りたくなるような強欲な人もいるぐらいです。間違って見つけた人がいるなら、人を見る目のない人か(当事者さえ幸せならば、ねえ)――控えめな人なのでしょう。

 いや、いや既婚者から恨まれるような発言は慎みましょう。


迷いは霊感の大敵

2010年1月17日

「霊能者は自分の未来は見えない」・・・等という。なんのことはない、そもそも迷いが生じたとしたら、それは背後霊の庇護を外れたということなのだ。――庇護下に無いのに霊感を使えば、回答者がいないのに良い返事が得られるはずも無い。イヤそれどころか、野次馬な霊にミスリードされる危険もある。

 私もまあ、誰かの助言を欲することもあるが、なんとか自分の霊感内で収まるか、追認程度で済むことが多いのは、ちょっとしたコツがある。

 まず、迷いが生じた事自体を楽観視しない。行き詰まったら元きた道を戻るぐらいの覚悟を決める。

 また、答えが無いのも答えのうち、とも覚悟する。つまり、何も答えがなければ、まあ、何とかなる、ということだ。

 そして要領の得ないメッセージを受け取ったら、それこそ、とことん行かなければならない、ということだ。途中下車は許されまい。

 人生で横着する様々な事態は、所詮、途中経過であって、良いことも、悪いことも、最終結論ではない。つまり、どう転がるか、わからないのである。だから、今は悪くてもジタバタしない。それよりも何よりも、霊媒にとって恐れるべきは、状況・事態の悪さではなく、背後霊らとの絆の有無なのである。それゆえ、たとえ不幸を味わっているさなかでも、自分が愛されていることを信じなければならない。

「人生は、背後霊(守護霊・祖霊)との二人三脚」と思うなら、迷いとは、チーム全体の危機なのです。眼前の事態だけの問題ではありません。それに気がつかなければ・・・視野が狭いということです。ならば・・・運が悪いならそのうち改善するかもしれませんが、自分が悪いなら、決して改善しないことを暗示します。

 それはもう、ただの迷いではなく大問題、いや大問題というより、救いようの無い問題、ではありますが。

船頭多くして船山に上る

2004年 11月 15日

 兎角、気弱な方は、いろいろな方面の意見を求めます。確かに多方面からの情報は物事を立体的に浮き上がらせるものですが、情報が増えれば増えるほど、物事の理解には高度な分析能力が求められるものです。

 特に分析中に難しいのは、取捨選択で、人の意見には主観もあれば偏見もまじり、切り捨てることがなければ、立体的に浮き上がらせるどころか、矛盾だらけで組み立てようがなくなることもよくある話です。

「船頭多くして船山に上る」といいますが、あちこちの意見を聞いて廻り、かえって迷いを増やすのであれば、気弱さから迷うという悪循環に呑み込まれてしまいます。

……さて、気弱さ故に迷ってしまった人が、そこで己を反省したとします。

「なぜ、私は迷ったのだろうか?……そうだ! きっと船頭が悪いからに違いない。今度は別な船頭を頼もう!!」

 しかし、気弱さからまた、たくさんの船頭を雇い入れればやはり船はやはり山に登っていくのでしょう。

……この意見は、迷える者をあまりに見下していないか! そう思われますか?

 智慧あれば助言に頼らず、分別あれば助言に迷わず――智慧も分別も無いから助言を受けて迷うのです。すべての迷える者が救いがたいとは申しません。しかし、間違った助言の受け方をしている人は救いがたいと思います。


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