開運法ブーム
2007年02月16日
買い物をしてレジの行列に並んでいたら、脇に雑誌が並んでいた。相変わらず開運関連のタイトルが多い。……やれやれ、と思う。持って生まれた人生の意義をおろそかにしながら、どんな開運法があるのだか……
神様はそれぞれに使命を与えて人を地上に送り出しているのに、人々が地上で何をするかというと、使命をそっちのけで、豊かになりたい、幸せになりたい、と心がフラフラとしている。
で、豊かになり、幸せになって、その後はどうするのだろう?……今度は人生の意義を見いだせずに退屈するのではないか? 目標に向かって、努力すればこそ、努力が苦にならず、豊かさにも喜びを感じるだろうに、順序が逆ではないか。……などと説教臭いことが心中に湧き上がるのは、私の内心に不満がわだかまっている証であろう。
やれやれ、反省すべきは我が身にあり。 と、私の批判精神が一回りしたときに、フッと声が聞こえた。
・・・・・・・
『目くじらを立てるな。対した問題ではない。あんな本を買う家には、使われない健康器具や健康食品が山と有り、賞味期限の切れた食材が冷蔵庫を塞いでいるのだ。使われなければ無いのと同じ、物質的豊かさの空しさがそこにある。
『心が豊かならば浮ついた本などを必要としないし、心が貧しければ浮ついた本など役には立たぬ。ただ、金が流れるだけ。不満をいいながら稼いだ金が、無意味な浪費に消えていき、苦労して稼いだ金なら有益な買い物に使われるのだ。
『存在感に階層があるのは、霊界だけではない。しっかりと地上にも階層があるのに、その事を見抜ける人と見抜けぬ人がいるだけだ。』
……レジで支払を済ませ、私は歩き始める。
『人と幸福とを絶縁するのは“不満”である。なるほどお前のいうとおり、時として愚痴は有益だ。……いわぬに越したことはないが。
『だが、愚痴をこぼす人々を見よ。愚痴をこぼす間は手が休み、足もおろそか。有益なことには気が散漫なのに、愚痴をこぼすことには集中する。一体どちらが人生にとっての大事であるのか、見ているとまるで愚痴をこぼすために生きているようだ。
『その挙げ句、愚痴をこぼせばとりあえず満足して、改善のための努力も忘れてしまう。愚痴を聞いてくれる人が見つかるまでは、あれほど改善向上を妄想していたというのに。
『そうして大人しくなったと思えば間もおかずにまた、同じつまずきで再び大騒ぎを始める。……何度も同じ事を繰り返して飽きることがない。よほど愚痴をこぼすのが好きらしい。
『人生の試練は、人が現状に安住しないためにあるというのに、これではまるで、愚痴という娯楽に興じる為の口実ではないか。……そんな人々の「不幸の嘆き」など、真面目に聞くのがバカバカしい。大部分の人はただ、不幸を口実に愚痴をこぼしたいだけだ。その願い通り、好きなだけ愚痴をこぼせばいいのだ、せっせと自分を不幸にして。』
……ひょっとしてそれも愚痴では? と私は問う。
『ハハッア! そら、目を向けることが無駄と気がついたであろう。見て「くだらぬ」と想ったら、くだらぬ、くだらぬと分析するより、有益なことに気を向けよ。』
……いや、有益なネタに詰っているのだけど?
『それこそ、開運法に飛びつく手合いと同じ事だ。有益な何かに手を伸ばすよりも、まずは自分の抱える無駄を見つけて、減らすことだ。それが出来れば後は簡単と気がつくだろう。何となれば人々は、無駄が多くて飢え、飢えて焦るから無駄多く生きているのだから。餓えが収まればじっくりと向上していけるのだ。険しい道はいつまでも続かぬ。』
何やら結局、また話題が一回りした気がする。
ところで、この通信を文書に纏めている最中に一つ疑念が沸いて確認した。
Q 『つまり、人は不幸になろうと努力しているというのか?』
人が意識して欲しがるのは、金や物や、色欲の成就だ。だが、なかなかそれを意識出来ずにいるが、人が内心で一番に欲しがって、「他の好意」なのである。
功上げ、名を得て自慢話が出来ればなお気持ちよかろうが、残念なことに自慢話は嫌われやすい。容易に他の好意を獲得するには、不幸になって泣き言を言うのが簡単と人は本能的に知っているのである。
なにしろ、人は赤子の頃に、泣き喚けば誰かが構ってくれることを経験から学んでいる。笑みを浮かべていれば大事にされるような恵まれた子供でなければ、なおのこと、泣き言だけが他の好意を得る手段と想っている者こそ(つまり不幸な人ほど)不幸になることに幸せを感じて、しかもそれに気がついていない。
一方、世の中には、我が身の不幸を口にすることを恥じる者もいるというのに。 ……誰もが幸福を求めるが、不幸であることに幸福を見出している人はなにより不幸であろう?
Q「ひょっとして現代の心霊ブームも……」
大衆が愚痴をこぼす相手を見つけただけだ。……だから見よ、苦しいという相談は来るが、より幸せになるにはどうすべきかという相談が来ない。それこそが大切なのに。
不幸になるために生きているのか?
2007年02月18日
Q「大多数の人は不幸になるために頑張っている、といわれてショックを受けています。本当でしょうか?」
言語の限界が生む錯覚――人々が幸せになろうと努力することは間違いない。だが、何を持って幸せと呼ぶのか? 幸せがあって人々がそれを目指すのではない。人々が目指すものを得て、それを幸せと呼ぶのである。
幸福が長続きしないのは、人々が長続きしないものを追い掛けているからである。
Q「確かに、幸せとは何かと問われて答えられない人が大多数でしょう」
人は過つために生きている――人々は自分の過ちを正すために生きている。正しき信念を貫くためではない。見よ、人が正しく生きて、何が生じるのか? 妬みだけである。では、人々が誤って何が生じるのか? 同情か、または、批判か?
人が正しく生きても批判は生じる。ただ、同情が寄せられるのは誤ったときだけである。
Q「確かに、幸せとは何かと問われて答えられない人が大多数でしょうが、そういわれては人生が空しすぎます」
人生に価値などない。価値があるのは努力だけである。
Q「努力しても役に立たぬ人は社会の迷惑です」
見よ、あなたにとっても人生に価値などはない。価値があるのは価値があることだけである。そもそも、価値がないものを、「くだらぬ」と言えぬのはなぜか。意義のあるものがあまりに少ないからだ。人々は、自らの価値を認識するために生きている。他を生かすためではない。
Q「そういう考えは、何か違うのではないか、と思えるのですが」
一貫性がないのはあなた方である。他人の努力を認めぬ癖に、自分らの努力は必要以上に認めさせようとする。だが、そもそも地上にあり得る可能性とは何かを考えてみるべきである。想うことの半分も実現しないのはなにゆえか。
人々が求めているのは結果ではなく評価である。評価を欲しがって結果は二の次、そんな曖昧な気持ちで何が為せるのか?
人々が、不幸を目指すというのは、決して不思議ではない。何となれば、幸福の中よりも不幸の中にこそ、たくさんの教訓が潜んでいるのだから。だが、不幸の中に学ぶよりも、幸福の中で学ぶことの方が本来は多いのである。なぜ、かような食い違いが生じるのか。
不幸の中でしか、人が素直に成れぬからなのだ。……上手く行っているときには、人々は己を過信し、反省することがない。結局、人々は痛みなくして学ぶチャンスを軽んじすぎているということだ。
痛みなくして学べない、それが人々の苦悩の源である。
Q「なるほど確かにそうかも知れません。でもそれは、摂理に反しています。なぜ、かような不自然な在り方を人々が選んだというのでしょう?」
不幸になるために生きているのか? 2
2007年02月19日
Q「なるほど確かにそうかも知れません。でもそれは、摂理に反しています。なぜ、かような不自然な在り方を人々が選んだというのでしょう?」
言語の限界が生む錯覚――繰り返す。あなたの質問は言語の限界によって問題を取り違えている。
「幸せ」とは、満足の別名に過ぎない。そして、人々が哲学する「幸せ」とは、「より永続する、または、後悔の少ない満足」という意味だ。そして人々は幸せを追求する。ただ、それが努力に費やされた時間よりも長く保たれるとは限らず、後悔が伴わないとも限らない。
そして、たちまち消え去り、そして、一時の幸福よりもはるかに大きな後悔が伴う満足を人々が求めることを指して、「不幸になりたがる人々がいる」と、いうのも間違いとはいえない。
と同時に、あなたが考えるとおり、「幸福観の未熟さから思うとおりの満足を得られない人がいる」と、理解することも出来る。それらの解釈は、いずれも一面の捉え方に過ぎない。
一面の捉え方では、真に満足する答えは得がたい。
人々はそれぞれに好む目的に向かって努力する。そして、達成だけを思う者もいれば、達成し、長く持ち続けることまで考える者もいる。……
『では、いかなる目的こそが真の幸福となりえるのか?』……その問いが不適切であることに気がつくであろう。目的は人の数だけあってしかるのである。たしかに、一個人の利よりも、複数の、多数の、大多数の利を追求するほうが、失い難くはある。それゆえに、先見の妙ある者が示す幸福観は決して無益ではない。……他者の智慧を尊べる者にとっては。
だが、人々の多くは、自己の成長を目的として地上にいる。他者の智慧を尊ぶよりも、自分らしい意見の何たるかを模索している。……つまりは、他者の意見など反抗の対象でしかない人が多いのである。
人々が従うべき知恵とは、人々が抗う知恵である。
いかなる目標が大切なのか、ではなく、大切な人生の目標には、大切に出来る目標を選べ、と助言するほうがまだ有益であろう。……そんな長ったらしい表現で相手が理解しないというのであれば、間違った助言以外は有益とはなるまい。
Q「ただの表現違いにしか思えないのですが、あなたもまた、『人々は不幸になるために努力する』……それをあなた流に表現するなら、『人々は自分が大切に思えないことに人生を費やしている』……というのであろうか?」
いや、もっと単純である。自らが大切に思えるものを見つけられずにいる……そういう人々が不満を解消できずにいるのだ。
Q「念のためにお聞きします。その状態を脱するために出来ることがあるでしょうか?」
むしろ、何が人をそこに縛り付けているのか、が大切である。 結果を求めて……過程を大切にしないこと、それは同時に、未熟な霊魂が想念の世界にあって耽る過ちと同じ種類である。