‘心霊小論’ カテゴリーのアーカイブ

尊敬される個性とよそ者

2007/03/23

2007年03月23日


なぜ、かくも人々は「在ること」に苦痛し、恐れるのだろう? 常識なるものによって責められる人々。個性よりも常識をもって人の価値を計るというのか?

他が持たぬ資質を持つことがあまりに軽んじられ、時としては責めを負い、標準的であることのみがただ罪を免れる。だが、他より多くない者が、また、他より少なくない者が何所にいようか? 人に標準があろうとも、標準を具現する人はいない。あり得ぬ有り様を目指すことに苦しみが生じぬはずもない。

西洋では魔女狩として知られた蛮行が、その残酷なる処罰方法を取除いた上で東洋には未だに残っている。あまりに強い差別、差別、差別。誰もが当り前に差別し、当り前であるから差別と気が付いていない。

その差別をする人がただ、己の意に沿わぬ者に「不要」という意を表すだけとしても、神でもあるまいに、人が要・不要を決めて何になるか?

世は教場、しかれば人に要・不要はなく、総ては向上を必要とする人々である。そして、自らの向上に努めている限り、どれほど未熟で愚かであろうが、それは善い生徒であり、他の学びを邪魔するのは悪しき生徒のすることである。

他の愚かさを歎く前に、己の修行の進まぬ事を歎け――不満こそが人の眼を暗くする。――真に不要と感じたならば、関わることで時間をつぶすな。それを忘れて人は道を外れる。(無駄なことに構い過ぎる)

つらい時、行き詰った時にこそ、人の本性が顕れる。――行き詰ってこそ、創造力が求められるというのに、己の霊性を省みずして、書をあさり、人にすがり、ひいては、責任を転嫁し、他を責める。これらは、霊性の何たるかを知らぬ人である。その修行は未だ始ったばかりで、次の段階に進む事のいつ終るか判らぬ人である。

知識も経験も、霊性の必要性を示唆するだけで、霊性を生み出しはしない。たとえ行き詰っても、あなたは焦らずに心を落着け、知識や経験から生じる偏見を鎮めて、心、その心だけが共鳴できる「総てを支配する存在」を感じよ。……あなたは決して独りでない。ただ、独りであると信じすぎているだけだ。

繰返す、「非難するな。」――他を非難することは、己は違うと主張することだ。己を主張するから、「総て」から離れて「孤(個)」にいたる。たとえその非難で賛同者を得、仲間を得ても、それは「総て」から離れた「孤(個)」なのである。

地上では、それもまた個性と尊ぶかも知れない。だが、全体の中で個を確立した者達は、全体から離れた個を単なる部外者(相容れぬ者)として扱うのだ。

あなたは尊敬される個性を目指すのか、邪魔なよそ者を目指すのか、どちらか?

己の個性に惑う人よ、己の個性を誇るのと同時に、全体も愛し、敬意を払うことだ。……全体に対するあなたの理解力、それこそが、あなたの霊性の限界である。


失敗を恐れるな。

2007/03/20

2007年03月20日


あちこちから悲鳴が聞こえる。


なぜ、争うのだろう? 事態はただ現実への妥協を求めているだけなのに。

人の思うとおりに環境は変わらない。もしもあなたがより良い未来を求めるのであれば、環境と争うことなく、むしろ利用するつもりで行かねばならぬというのに。物言わぬ、いや、物言えぬ環境と争って人は力をすりつぶす。

本当の、本当の敵は自分であるのに、自分と争うことを嫌って変わるはずのない境遇や環境の変化を願っている。だが、本当に自分と争うのは悪いことなのか、辛いことなのか? ――なぜ、達成感を楽しもうとしないのだろう?

勝ち負けに置換えて、負ければ終わりだと焦っている。――競うが故に努力に夢中になり、競うが故に進むことが楽しいとなぜ思えないのか? 人の心を支配しているのは敗北感、敗北への畏れ、敗北に不安になって、競争すら負けている自分。負けたが故の敗北ではなく、勝負に逃げる敗北。

だが、本当に勝ち負けは逃げなければならぬ事であるのか? ――嘲笑したいが故に他者を貶す人々、そんな人々との競争と、人生を完成する努力とを一緒にしてはいないか?

人は未熟として生れ来て、完成を目指して日々を過ごすべきなのに、つまらぬ中傷を嫌って人は努力を避けようとしている。……今日の負けは明日の活力と思えぬ人々。敗北をかくも恐れる。

胸を張って生きよ人々。――我らは皆、神の申し子、神と共にある。失敗も敗北も、全ては神の御心の内、負ければこそ見えるものがあるからこそ、人は負けるというのに、神の慈悲を知らぬ人々が、勝ち負けにささやかな幸せを求めるが故に、社会は敗北を嫌うようになったのだ。……ことさらに勝ち負けを大騒ぎするのは悪魔の使い、我らは、明日の価値のために、真の価値のために、その時々の敗北感を努力に繋げるのだ。


不足という祝福

2007/03/15

2007年03月15日


地上の人々は(地縛の霊も含めて)、肉体がいかに厳重にして、光の差込む余地の乏しい牢獄であるのかを理解しない。心霊を学びて知識に溢れると自負する者ですら、いや、自負する者ほど理解しない。

牢獄に囚われ、乏しい資料と経験とを持って霊界の様相を理解に努める……それがいかに陳腐な学習法であるのか。……物質的な障壁のない霊界においていう障壁とは、移動を妨げるものでなくして、理解と認識を妨げるものである。

世界は余りに広く、人の知り得ることはわずかしかない。……それを知識として知りながらも、人は己の知ることを鼻にかけ、十分に知りたることを誇り、そして、新規な物を嘲笑する。……それは、魂の本来の有り様ではなく、永く幽閉された囚人が自由の何たるかを見失った痛ましき姿である。

彼等は真の自由を恐れる。……真の自由が意味することは、己の境遇の余りにみすぼらしきを認識することだからだ。

ああ、牢獄に囚われようとも、心の自由までは失ってはなるまいに……偽の自由に没我してまでも、人は己の自由を信じたいのか?

この拘留は永遠には続かない。……なぜなら、自由の真義を理解するための体験でしかないから。だが、もしも地上で、真の自由の何たるかを見失えば、人は何に拘束されるのか? 肉体を捨去っても、誤解に縛られれば、人は死しても自由を選べず、地縛の霊として救いを夢見る……それは決して珍しい姿ではない。

あなた方は知るまい。……真実は向上の何よりの助けとなるが、誤解がどれほど多くの障害になるかを。真実は人を解き放つが、誤解は人を縛るのである。……己の間違いを恐れる人ほど、強く誤解に縛られる。

そしてあなたは、真実と誤解の区別が付くか? 地上に縛られし、狭い視野で。地上に溢れる情報すら、真偽を選びかねるというのに、真理の真偽を見抜けようか?

地上の知識のいかに危ういかを、知りたる者こそが霊的真理を求めるというのに、地上の知識の中に霊的真理を求めるのは何事か?

言葉は手がかりに過ぎない、真の意図を察するための……その、意図を察する力こそが霊性であり、その霊性を磨くことこそが、地上における魂の修行の目的である。

不自由な暮しの中で、いかに真実を選別し、吸収していくか。……満足するなかれ、囚人の有り様に。あなた方は不自由で、心貧しく、そして愚かだ。その惨めな境遇の中でベストを尽すからこそ、恵まれた境遇よりも遙かに早く向上するのである。

・・・・・・・

豊かな者は足りぬものに気が付かず、知りたる者は、知らざることに気が付かぬ。……惨めな人よ、その惨めさこそが、あなたが一番に誇りに思うべき事なのだ。

飛躍の可能性を秘めたる人よ、惨めな境遇は決してあなたを呪うものではなく、あなたを祝福するものなのだ。それに気が付いた人こそ幸いである。

知らぬ事も、出来ぬ事も、手の届かぬ事も……あなたが成長し、達成の悦びを知るための祝福なのだ。肉性に囚われたる囚人達よ、あなた方が牢獄と信じるのは祝福である。祝福に挫折し、祝福から目を背けて、囚人であることに幸福を求めてはならない。

たとえ、死後の生を信じぬ人であろうと、死した後にも自我の継続することに気づいたなら、誰もが天国を目指そうとする。……が。地上の生が牢獄であることに気がつかなかった者は、牢獄の天井を目指して、天国とは異なることに挫折する。

人は自由である。たとえ一時は幽閉を強いられるとしても。だが、自ら外に出ようとしない限りは、ずっと牢獄の中である。それこそが地縛であり、自縛である。

不足を素直に認めよ。そこから、真価の追求が始まる。

不自由を認識せよ、そこから自由への旅立ちが始まる。

人の弱さを理解せよ、そこから霊性の発揮が始まる。

限界を意識せよ、そこから進化が始まる。

貧しい自分、不自由な自分、無能な自分、それをどうすることも出来ない自分、霊性進化はそこから始まる。……そして豊かな者は、自由を過信する者は、己を誇るものは、限界に気がつかない者は、牢獄の中を踊り回っているだけであることに、死してもなかなか気がつかないのだ。

不平にしがみつくなかれ、不平は、不足を克服するための動機なのである。

不足に諦めるなかれ、不足は向上を促す仕組なのだ。


不平不満の思わぬ害

2007/03/08

2007年03月08日


精神統一中、ある人物の顔が思い浮かぶ。……『いけないな』と感じる。不平不満が多い。

なるほど物質世界で暮らしていれば、あれこれ不足が生じるのはやむをえない。……当然、人は大なり小なりの不平不満をいくつも抱えることになる。不平不満を意識しない人はなるほど多いし、不足に気がつかない幸せな人もいるだろうが、未来を確信して不満を抱かぬ人を、残念な事に見た事がない。むろん、他人の未熟さを嘆くよりも自分の未熟さこそ克服すべきだが……不満を克服する努力が足りない。

不平不満というマイナス要素を多分に持ちながら、発奮・努力というプラス要素を持たなければ、バランスが崩れ、運命が暗転する。

俗な表現をするなら、「不平不満」という一種の誘蛾灯を煌々と灯して、低級霊・悪霊を呼び集めているようなものだ。いや、それもまた個々人の自由である。ただ、感応障害(低級霊を感じて辛い)のでなければ。

一方で低級霊を呼び寄せながら、それを除霊してくれ、と願うのはナンセンスである。……ナンセンスとはつまり、単にうまく行かないというだけでなく、そんな身勝手な要望で他を煩わされれば、相手はあなたの事を、友好的な相手から、迷惑な相手に分類を変更してしまうだろう。

欠点が、己の手の中にある……他に助けを求めずに解決できる範囲であれば、他がとやかく言う問題でもない。だが、他に助けを求めるならば、せめてその間はわが身を慎むのが本筋だ。さもなければ、助けに来た人や霊にも迷惑をかけるであろう。

そもそも、感応障害に苦しむ事すら、奇天烈な事である。(いや、私も経験者ではあるが)、たとえるなら、家を留守にするから不法居住者が住み着くのだ。それを追い出したらどうなるか? 空き家で電気が煌々とついていたら、多くの宿無しから狙われる事であろう。一人追い出せば、三人入り込み、三人追い出せば十人住み着くことになっても、なんら不思議はない。……というより、なまじ、霊障対策イコール除霊/浄霊 という先入観を持っている人ほど事態を拗らせる。

そもそも、守護霊がちゃんと庇護者(あなた)を管理していれば霊障などにあう事もない。前世や家系にまつわる、いわゆる因縁であれば進級課題としての苦労もあるかもしれないが、少なくとも事故的霊障は、守護霊の不在なくして、起こるはずがない。


守護霊の不在、と聞いて、「なに! 私の守護霊は何をしているのだ!!」と、腹が立つ霊障被害者もいるだろうが――誰のせいで不在であるのかを、まず考えたほうが良いだろう。

あなたが生まれてくる前に準備された軌道(レール)に従うのであれば、あえて守護霊が出かける必要もない。だが、あなたが、分相応に満足できないのであれば、チャンスを獲得するために、守護霊は進んで他の守護霊やさらにその上部の霊たちと交渉に当たらざるを得ない。

つまり、あなたが将来に不満を抱くから、守護霊が出かけ、守護霊が出かけるから、あなたの守りがおろそかになるのである。……せめてあなたが、守護霊不在の状況を慎み、耐えるならば、あなたの守護霊は何らかの運命打開策を獲得して戻ってくるかもしれない。だが、大抵の人は、将来にも不満を持ち、現状にも耐えられずで、結局、守護霊の力・問題解決力を生かさず、無駄にして、ただ、自分の不平不満を温めるだけで生きることになる。(あなたが、「こんな将来は死んでも嫌だ」と、泣き喚いているのに)

強く願えば守護霊が叶えてくれると信じている人は多い。――決して間違いではないのだが、守護霊に願望成就を託したら、いったい、あなたの背後は誰が守るのであろう?

あなたは、自らの願望と、己の安全とのどちらが大切なのか?――もしも適うのであれば、安全よりも願望のほうを優先する人は多いだろうが……また、あなたの守護霊が、あなたに誠心誠意、奉仕する覚悟があるとしても――他者の守護霊等は、あなたの身勝手で、不毛な願望の成就のために、自らの庇護者のチャンスを譲ったりするだろうか?……叶わない願いであっても、あなたは自分の安全を犠牲にしはしないか?

表現を変えて整理しよう。――大抵の場合、誰かの勝利は、誰かの敗北である。あなたは実力で得られぬ勝利のために、自分の守護霊の助けを借りたとする。……では、相手には守護霊がいないのか? そして果たして、自分の守護霊は相手よりも強いのか。……自他の実力の差とは、もしかしたら、その守護霊の力量の差ではないのか?

一得一失――守護霊を安易にお使いに出すと、本来業務がおろそかになって、思わぬ被害に会うものだ。本来の守護霊との共存法……祖霊等と守護霊とをあわせて背後霊などと呼ぶが、あなたは守護霊等(いわゆる背後霊)を、自分の霊的背後の守りに活用するか、それとも成就の可能性不明の願望実現に利用するか、どちらだろうか?

あえてリスクを選ぶのは大抵の場合、勝算よりもむしろ、危険性の認識不足だ。――だからこそ、パチンコ屋などのギャンブル産業が多大な利益を得る。……儲ける人よりも損をする人が多くなければ、ギャンブル産業が稼げるはずもない。


各自宛の霊訓

2007/03/06

2007年03月06日


結局、普遍的な意見というのは、実行するのに中途半端なものだと痛感する。……向き・不向き、得手・不得手が絡んでくる。

あまりふさわしくない例えかもしれないが、太った人と痩せた人とでは水行をするのにも差が出てくる。同じ時間、瀧に打たれても身体への負担が全然違う。……時間が長ければより修行になるというわけでもないし、身体に負担をかければ修行になると言う事もないが……個体差を考えずに修行を論じる事はできない。

これをたとえば仏教などでは、「貧者の一灯」などと称す。金持ちが万灯を奉納するよりも、貧者が捧げる一灯のほうが尊いというわけだ。

――価値や努力目標を普遍的意見や一般論で割り切る事はナンセンスだ。

やはり、個々人の性格や志向にふさわしい修行方法、向上法を知ってこそわずか百年前後の短い時間に、より多くを学べる事となるはずだ。……それゆえに、心霊に関する好著を読むだけでなく、審神・霊媒の意見に耳を傾ける事が有益となる。


今回、3日のオフ会でも、それをしみじみと感じた。

A氏は、集中力があるが視野が狭い。精神統一をすれば、統一に集中しすぎてインスピレーションを拒絶している。(一歩間違えば狂信者に化すだろう)

B氏は、信仰心は篤いがその態度が周囲から往々、傲慢に受け止められる。眼が神に向いている人は、どうも人々に視線を合わせるのが苦手だ。

C氏は、理性的であろうとして覇気が足りない。つまり行動力に欠けている。

D氏は、周囲を立てようとするやさしさを持つが、それが結局、自分を生かせていない。自分の才能や可能性を伸ばすよりも他を引き立てる事に集中してしまう。

E氏は、他人を気にかけすぎるあまり、リーダーシップがおろそかになっている。

などなど……それぞれの特性は、一面の長所と一面の短所を併せ持っている。その特性を強める事は同時に短所を強める事にもつながりかねない。すると、単にそれぞれの特性を強めるだけではなく、適切な方向性を身につけて、長所を生かし、短所を庇うようにしなければならない。……したがって、まず、自分を知ることが大切になる。

心霊を学ぶとは、行き着くところ、自分、そして、人を学ぶという事でもある。……他の人間論とあえて差別化を図るなら、心霊の人間論とは、死んでも終わらない価値観、死では逃げる事のできない責任感の追求でもある。


白いオーラよりも、色のついたオーラのほうが良いのか? と質問を受けた。私は、職業適性の問題と答えた。

なお、無色(未熟)ゆえの白と、さまざまな色が合わさった白(完熟)とでは、価値も意義も全然違うと、背後の霊たちから指摘を受けた。

そう、結局のところ、地上が魂の向上の場だというのは、より多くの経験を積むために来ているというのとかわりはない。だが、どうせなら効率よく学ぶほうが良いと思うが。


目指すべきは荒野

2007/02/28

2007年02月28日


ブルーオーシャン戦略

うろ覚えの人名を確認したくて、ネット検索でたどり着いたスピリチュアリズムの某サイト。本来ならば、サイト名をきちんと紹介したいのだが、いささか引っかかる点があって自粛する。……嫌ってのことではなく、先方に遠慮してのことだ。――そのサイトは、昨年の六月以降、更新が止まっている。何があったのかと臆断する事は避ける。

肝心の探し物はこのサイトになかったが、ザーッと読んでみてガッカリしてしまった。このサイトに不満があったからではなく、表立った更新が無くなったことがだ。

どうもスピリチュアリズム(spiritualism ではなく……つまり".jp"限定で)には原理主義的な傾向が色濃い。いまだ私が、".com"を収得する前のこと、当時、心霊で怪奇系以外のサイトを数えるのが片手で足りる頃の話であるが、やたらとケンカ腰の某心霊サイト管理者と関わっていささか辟易の感を受けた。いい加減あきれて背後の霊たちに進退を質問をしたところ、返って来た答えが……

『なに、品格卑しい者が威張っているとな? そは、不可思議な事。汝、道を間違えたるや?』……と言われて、カチンと来た。霊たちは、正しき心霊の道に、心得違いの者がいるはずがないというのである。

とはいえ、不愉快ながら、得心が行った。なるほどその通りだ……私にはその問題を瞬時に悟ることのできる知識があった。――高校生自分の頃に、講談社の新書・ブルーパックスで「ゲームの理論」を読んでいた。……これは自慢というより、情報が古い事への言い訳である。……ゲーム・競争は大きく分けて、ゼロ和《サム》ゲーム、非ゼロ和ゲームに分けられる。つまり、一つのパイをいかに分け合うか(プレーヤーの損得の総和はゼロ)であるか、どちらがより新しい領土を獲得するか(プレーヤーの損得の総和はゼロにならない)という事である。

この知識は、心霊問題と直面しても有益であった。別段、ゲーム理論を適応して心霊問題を解いたわけではない。だが、たとえば、良い学校に入れますように、良い会社に入れますように、良い恋人を獲得できますように……という相談を受けたとする。これらはゼロ和ゲーム、つまり、祈祷が成就すると、誰かが泣かねばならないのである。――もしかしたら、相談者よりも多くの努力をしている人が、私の祈祷が成就すれば不幸な思いをする事になる。……したがって、こういう相談ごとにはあまり肩入れしないようにする、という配慮の元となったのが、「ゲーム理論」に関する知識である。

反対に、誰もやった事のないことならば、どれほどムキになって祈祷しても罪を犯す恐れがない(実際には、未来の事業家の可能性を奪う事になるが)、というわけで、相談者の願いが、ゼロ和(領土の奪い合い)であるか、非ゼロ和(荒野を目指す)であるのかは、私にとって重大な判断基準となった。

そう、妨害者などいるはずがないだろう、といわれて、カチンときたのは、そこに背後霊たちの嘘を感じたからではなく、

『お前は、他人の領土を欲しているのか?』……と非難されたと感じたからだ。 目指すべきは荒野であって、既存の農地ではない。確かにそうだ。いや、荒野を農地にすれば結局、相手の顧客を奪う事になるかもしれない。だがそれは別な話だ。

まあ、いろいろと縁あって、心霊書籍、特に浅野和三郎氏の著作のフリーテキスト化に協力はしているが、これは一つにはセルフコントロールに苦労している霊媒初心者への援助と、心霊研究者等の質的向上を願っての事である。したがって、私は改竄はしていない……誤字までは否定できないが、少なくとも意図的には……つまり、著者が「神霊主義」と書いているのを「スピリチュアリズム」と書き換えてはいない。

(こういう書き換えは慰謝料の請求対象である事もわきまえている。つまり、いくら非営利のサイトであろうが遺族から賠償を要求される可能性がある。なにより著作者人格権の侵害というのは心霊を学ぶ者としてあまりにも恥ずかしい過ちだ)

そして、私の本来の意図とは別である事を明らかにするために、主サイトとは極力別個に運営している。

そう、老神いさおは、荒野を目指している。

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最近の経営哲学に、「ブルーオーシャン戦略」なるものがあるらしい。この定義は、競争相手のいない(つまり外洋)を活動の場にするという選択との事。私の目指すのもまさにこれである。……現実のHP運営にはまるで生かされてはいないが、やむをえない。読者がついてこれなければHPを維持する意味がないからだ。

ところで、多くのスピリチュアリズム関連サイトの運営者が、往々、互につぶしあいを繰り返すのは、スピリチュアリズムが抱える本質的問題を浮き彫りにする。

彼/彼女等にとって、スピリチュアリズムは一つのパイに過ぎないということだ。端的にいえば逼塞、新しいものがないから、後は、既存の知識の解釈違いで差別化を図らざるを得ないのだろう。そこに競争どころか、つぶしあいの構図が浮き上がる。

確かに、私達、霊魂論者(心霊思想全般の持ち主)は「シルバーバーチの霊訓」などといった、高度な霊界通信から、大宇宙には大霊が存在する事までも思いを馳せてはいる。だが、新規市場の拡大が図れないのであれば、より多くのシェア(市場占有率)を確保するために、同業者を排除するしかないではないか。

当然、このような動きは、交霊の手段を持つ(つまり霊媒)スピリチュアリストには、市場の新規開拓が可能ということで関係のないことである。したがって……霊的能力に乏しければ他の足を引き、霊的能力が充分にあれば他を無視し……という構図が出来上がる。

その選択のどちらが正しいのか、という質問もあるだろうが、それこそが、実はすべての心霊思想と相容れない。……永遠の進歩向上とは荒野があればこその話である。既存の知識にしがみついていれば、それは向上ではなく独占でしかない。

はてさて、では、霊媒能力を持たなければ、スピリチュアリズムを語ってはいけないのかどうか?

私は一つの俚諺をもって、これに答えたい。

青は藍より出でて藍より青し……ここでもしも、藍色は青とは無関係と言い張る人々がいるとすれば……バカバカしい。レトリック・言論術と真理追究とは全く別なものである。


経験を積むことが大切です?

2007/02/24

2007年02月24日


静岡オフ会の車中で、心霊思想の本を読んだという、某氏が

「いろいろな経験をするために人は生まれて来た、と書いてあるのを読んで、気持ちが楽になりました」と話し出した。

いや、確かに私の師や、そのまた師も頻繁にそういう表現を使っているが……「それは、ポピュラーな心霊思想だけど、真理とはいえない。何しろ矛盾があるんだ。霊魂同士は経験を共有する事ができると言う一方で、経験する事が大切だという。いったい、共有する事ができるのか、それとも経験が本当に大切なのか?」

「でも、そう信じれば気が楽です」

とりあえずこの辺で、話題をずらした。

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……信じていられれば幸せだけど、たとえば勤め人がノルマも果たさずに「私はいろいろ経験しました」といって、澄ましていられるか?

たとえば、子供がお腹を空かしているのに、「お父ちゃんがんばったけど、給料もらえなかった。でも経験したからいいだろ」といえるか?

揚げ足取りに聞こえるかもしれないが、地上は、経験を得るためだけでは生き抜けない。確かに経験は死後も持ち越せる貴重な財産ではあるが、地上生活の特質を言い表すのに、経験という表現は不適切ではないか、と思う。

私が理解するのは、「実現するために生まれてきた」……である。想念の中で実現不能な妄想と遊んで暮らす霊魂たちに、真実と向き合わせるチャンスをもたらすのが地上での生である、と思うのだ。

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……と、聞いたらきっと、気が重くなるだろうな。というわけで、静岡オフ会に向かう道中では、気が重くなったら可哀想なので、あの時は、私の本音はいわずにおいた。

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畳み掛けるようだけど、「人生の目的は経験」という表現は、霊媒・霊能者――ひいては、通信を送る霊たちにはとても都合のいいものだ。たとえば、何とか楽して成功をつかもうとしている強欲な人を拒むのに便利である。

『楽をするのが人生ではないのだから……』……確かに。したがって、決してでたらめな理屈ではない。実際、苦労すべき苦労を免れる方法はないのだから。

一方で、しなくてもいい苦労までも、進んで背負うのはどうか? なるほどやりたければやるがいい。いや、その努力が報われるかもしれない。……稼ぐための本業や人生の本懐がおろそかにならぬ範囲でならば。……だが熱心家はわが身を省みずに他人の為すべきことに熱中するものだ。

たとえば、他人の金の利殖まで心配したあげくに失敗し、残った金で自分の生活再建を心配する羽目に陥った人などは……いい経験が積めたというべきなのだろうか?

本当に経験が大切なのか? すべての人に大切なのか?……誰の言葉かは知らぬが、「愚者は経験から学び、余は本から学ぶ」という言葉を知って、私はこの霊的真理といわれているらしい「経験を積むために生まれてきた」という言葉を、あしらい言葉とみなすようになった。

無論、経験のすべてが無駄だとはいわない。たとえば美食に関する本を読むより、食べてみたいではないか。その他もろもろ……下品に流れるのを避けるが……本で読むより実際に経験したい事は多々ある。

ましてや、手伝いを必要としている人に向かって本を差し出し、「これを読めばあなたも救われます」という人には、(宗教かぶれの中に多い)……今回のオフ会参加者にはいないが……確かに、経験が不足しているというべきだろう、いや、経験から学ぶ事が足りないというべきか。

ではいったい、人生の目的とは何か?……なにやら、私の支配霊が、良い話題だと口を出したがっているようだが、普遍的な助言を聞き取るには、今夜はもう時間がない。

人の数だけ人生があるのだ。向かうべき結末は決してひとつではありえない。結局、自分が為すべきことを無理なくすばやく感知する力を得、活用し、使いこなせるようになる事が大切だと思う。(その感知する力を、霊性とか、神心などという)

必要なのは苦労する事でも、経験する事でもない。……夢を実現する事だ。

その上で、苦労は、生き方に無駄のある証、人はさまざま経験の中で、最適解を見出していくべきなのである。経験は資材であって製品ではない。経験を加工して生かし、無駄な努力を減らしてこそ、夢の実現に近づくのである。

……と、私は思うのだが……その考えを知ってもなお、あなたは苦労や経験を、何より大切に思うか? もっと、自分の夢の実現を大切にすべきだと思うのだが……それとも夢を忘れてしまったのだろうか?


あれは八岐大蛇だ。

2007/02/22

2007年02月22日


 心霊研究会発足後の浅野和三郎氏の大本教批判は熾烈だ。が、太平洋戦争中の空襲被害や物資欠乏、さらには広島・長崎の原爆被害を知ってもなお、その筆は変らずにいるだろうか。興味のあるところだ。なるほど出口直氏のお筆先の表現は拙かったかも知れない。だが、その誠意が注がれている先を浅野氏が見通していたとは到底、言い得ないとおもう。

 大本教批判も、大本教擁護も、私の念頭にはなく、あえてこの話題は、霊界通信の奥の深さを指摘するに留める。高度な用語を多量に駆使しているからといって、その意図が高尚とは限らないし、幼稚な表現の短文が、えてして的確に真相を言表わしている場合もある。

……さて、結論からいえば、以下に紹介するのは、別段、高尚・高度な内容を紹介しようというのではなく、童話的表現だからといって看過してはいけないということである。


 テレビの報道番組で、中国の話題が取上げられていた。見ている私の霊耳に、かく聞えた。

『かの国等は「八岐大蛇」だ。信用ならぬ』

……いやぁ、古事記・日本書紀ですか?

『そうではない。一つに見えるが、顔・頭が沢山ある。つまり、誰と交渉して良いかが見えない国だ、ということだ。

『すべてがそうだとはいわぬが……ある頭と仲良くなっても、他の頭から狙われる。他の頭とも仲良くしようとすると、仲が良かった頭からも狙われる。全体の論理よりも派閥の論理が優先し、担当者が変れば方針も変る。

『交渉で相手の考えを変えようとしても、他の頭が邪魔をしてうまく行かない。何しろ、派閥抗争に忙しくて、対外的な妥協が出来ずにいるのだから、本質的に交渉の余地はない。かような状況では、相手に理性を求めるのは難しく、ただ、先方の内情が流れ着くままを受入れるしかあるまい。

『そういう内情を抱えていることを指して、「八岐大蛇」に例えたのである。いくら霊界の住人だといって、生きた八岐大蛇を見た事はなく、無意味にその名を使うこともない』

……なるほど、八つの頭、というより、たくさんの頭、一つ一つの頭にはそれなりに理知的な理由があるのだろうけれど、全体としてみると野獣の本能的な反応しかできない、ということ?

『軍事開発(衛星迎撃)が国際的批判の対象、それも軍事的脅威が問題ではなく、環境破壊が問題視されるなど、ナンセンスとしか言いようがない。国威を掲揚しているのだか、卑しめているのか。国を守っているのだか、食いつぶしているのだか……』

……かつての日本も、陸軍は中国と、海軍は米国と戦争を始めて、結局は負けたわけだけど……

『三人寄れば文殊の知恵、とは、助け合ってこその話である。意志の統一がうまく行かなければ、船頭多くして船山に上る、であろう。葛藤は自滅の第一歩だ。そして、葛藤は古今東西ありふれた事である。』

……ところで、北朝鮮の行動なども、八岐大蛇なのだろうか?

『あれは、虎の背に乗る、というべきだ。小心であるほど、一度走り出した席から降りる事も出来ない。皆おびえながら威張っている……相手がおびえている事に気がつかずに迎合する者もいる』


他を嫌うな

2007/02/20

2007年02月20日


浮世を見回して思う。「大人気(おとなげ)ない」ということに、羞恥を覚えない人が多すぎる。舐められないようにするんだ!!……と、屁理屈を押し通す。

舐められぬ代わりに向けられる侮蔑。――「あの人は大人気(おとなげ)がない人だから」との周囲の人々が気遣い、大人の態度をとって取り繕う。……当人はよほど恥ずかしがり屋のはずなのに、恥ずべき状態を理解せずにいるのだから、なんとも幸せな事だ。


いつまで庇えるのか? いずれ破綻する矛盾なのに。……だからといって、私が率先して現実を示す気もない。何しろ不毛ではないか。間違いなら正せばいい。でも、出来ない人を出来るように手伝うのにどれほどの手間が掛るのか? 私は他にいくらでも仕事があるのだ。――いや、本題は愚痴ではない。

『好きにならなくても良いから、嫌いになるな』とは、私の師の、そのまた師の言葉である。……私はこれがなかなか守れないのだが、ある意味情けないことに、私の師も、言い出したそのまた師も『嫌いになるな』という、霊智を苦手とした。理由は実に自然……未熟な私でさえも、相手の腹の底に潜むものに気がつき、辟易とするのである。私よりも敏感な師等のことは推して知るべしだ。

くだらない奴に限って、それをごまかすために受け売りと言い訳が多い。で、わざわざ受け売りを聞いて何が楽しいのか? どうせなら直に本物と接するほうが良いに決まっている。所詮、広告は広告。広告だけを信じて商品を買うのも良いが、後悔の有無は自己責任である。

いや、この商業主義の世間において、わざわざ広告を打つのは大抵は中身が伴わないものでないか? さもなくば抱き合わせ商法か。……というより、ピン!とくるものがなければ相手をしたくない私にとって、ピンとこない説明文は助長で迷惑でしかない。……ゆえに辟易とするのである。

では、もっと敏感な我が師、そのまた師等はどうであったか? ……実はいろいろと武勇伝を聞いているが、多くの方々にはまるで関係のないことであろう。

以前、とある喧嘩っ早い、自称スピリチュアリストについて、我が師に意見を問うてみた。ろくに説明も聞かずに我が師から返って来た答えは、

『くだらない。相手にするな』であった。

思わず、噴出してしまった。……前述の霊智、『好きにならなくても良いから、嫌いになるな。』とは、要するに「相手にするな」という意味だったのである。

たしかにそうだ。人間性の円熟さが感じられない人が、どんな立派な事を言ったところでどうせ受け売り、言葉と目的とが違うのだから、理解に間違いが隠れていないはずがない。……最初から美言・至言が、ある意図の元に捻じ曲げられているのだ。業の深い言葉に相手をする意義はない。

まして、志の低い人と話をすれば、どうしても話題が下品に流れる。……相手を理解させようと、すればするほど、相手のレベルに話題を下げて、気がつけばくだらない話題になっている。

いくら相手に合わせて話題を下げたとしても、それを見た周囲の人は、私を笑うであろう。「一緒になって、なんとくだらない事を言っているのか!」と。……私はずいぶんと時間を費やし、多くの事例を経て、ようやくそれに気がついた。


ところで、心霊知識はいう。霊格が相対的にあまりに違いすぎると、コミュニケーションは出来ないものだ、と。自分と比べてあまりに高い相手、あまりに低い相手とは話にならない、というのだ。……それは霊相手に限らないのである。……何せ人間は、肉体をまとった霊魂なのだから。

話が合わなければ、話の会う相手に任せればよい。一人ですべてと渡り合おうとするのはナンセンスなのだ。それに気がつけば、ほどほどに距離を置いて、嫌いにならぬ付き合いも出来るだろう。……それも程度もの、相手の、腹の底の澱み具合によりけりだが。

いや、いまさら誰かを侮辱したいわけでも、また、過去の下品な言動を弁解したいわけでもない。ただ、こう伝えてくれと聞こえたのである。

「おい君、下品に流れるな。自ら進んで魔界に落ちるな」と。……大した問題ではない。日々感じるインスピレーションのうち、比較的明確な一例に対して、表現を尽くしただけの事だ。

どうせ相手は、理解などしないことは、皆、百も承知だし。


開運法ブーム・・・不幸になるために生きているのか?

2007/02/16

開運法ブーム

2007年02月16日

買い物をしてレジの行列に並んでいたら、脇に雑誌が並んでいた。相変わらず開運関連のタイトルが多い。……やれやれ、と思う。持って生まれた人生の意義をおろそかにしながら、どんな開運法があるのだか……

神様はそれぞれに使命を与えて人を地上に送り出しているのに、人々が地上で何をするかというと、使命をそっちのけで、豊かになりたい、幸せになりたい、と心がフラフラとしている。

で、豊かになり、幸せになって、その後はどうするのだろう?……今度は人生の意義を見いだせずに退屈するのではないか? 目標に向かって、努力すればこそ、努力が苦にならず、豊かさにも喜びを感じるだろうに、順序が逆ではないか。……などと説教臭いことが心中に湧き上がるのは、私の内心に不満がわだかまっている証であろう。

やれやれ、反省すべきは我が身にあり。 と、私の批判精神が一回りしたときに、フッと声が聞こえた。

・・・・・・・

『目くじらを立てるな。対した問題ではない。あんな本を買う家には、使われない健康器具や健康食品が山と有り、賞味期限の切れた食材が冷蔵庫を塞いでいるのだ。使われなければ無いのと同じ、物質的豊かさの空しさがそこにある。

『心が豊かならば浮ついた本などを必要としないし、心が貧しければ浮ついた本など役には立たぬ。ただ、金が流れるだけ。不満をいいながら稼いだ金が、無意味な浪費に消えていき、苦労して稼いだ金なら有益な買い物に使われるのだ。

『存在感に階層があるのは、霊界だけではない。しっかりと地上にも階層があるのに、その事を見抜ける人と見抜けぬ人がいるだけだ。』

……レジで支払を済ませ、私は歩き始める。

『人と幸福とを絶縁するのは“不満”である。なるほどお前のいうとおり、時として愚痴は有益だ。……いわぬに越したことはないが。

『だが、愚痴をこぼす人々を見よ。愚痴をこぼす間は手が休み、足もおろそか。有益なことには気が散漫なのに、愚痴をこぼすことには集中する。一体どちらが人生にとっての大事であるのか、見ているとまるで愚痴をこぼすために生きているようだ。

『その挙げ句、愚痴をこぼせばとりあえず満足して、改善のための努力も忘れてしまう。愚痴を聞いてくれる人が見つかるまでは、あれほど改善向上を妄想していたというのに。

『そうして大人しくなったと思えば間もおかずにまた、同じつまずきで再び大騒ぎを始める。……何度も同じ事を繰り返して飽きることがない。よほど愚痴をこぼすのが好きらしい。

『人生の試練は、人が現状に安住しないためにあるというのに、これではまるで、愚痴という娯楽に興じる為の口実ではないか。……そんな人々の「不幸の嘆き」など、真面目に聞くのがバカバカしい。大部分の人はただ、不幸を口実に愚痴をこぼしたいだけだ。その願い通り、好きなだけ愚痴をこぼせばいいのだ、せっせと自分を不幸にして。』

……ひょっとしてそれも愚痴では? と私は問う。

『ハハッア! そら、目を向けることが無駄と気がついたであろう。見て「くだらぬ」と想ったら、くだらぬ、くだらぬと分析するより、有益なことに気を向けよ。』

……いや、有益なネタに詰っているのだけど?

『それこそ、開運法に飛びつく手合いと同じ事だ。有益な何かに手を伸ばすよりも、まずは自分の抱える無駄を見つけて、減らすことだ。それが出来れば後は簡単と気がつくだろう。何となれば人々は、無駄が多くて飢え、飢えて焦るから無駄多く生きているのだから。餓えが収まればじっくりと向上していけるのだ。険しい道はいつまでも続かぬ。』

何やら結局、また話題が一回りした気がする。


ところで、この通信を文書に纏めている最中に一つ疑念が沸いて確認した。

Q 『つまり、人は不幸になろうと努力しているというのか?』

人が意識して欲しがるのは、金や物や、色欲の成就だ。だが、なかなかそれを意識出来ずにいるが、人が内心で一番に欲しがって、「他の好意」なのである。

功上げ、名を得て自慢話が出来ればなお気持ちよかろうが、残念なことに自慢話は嫌われやすい。容易に他の好意を獲得するには、不幸になって泣き言を言うのが簡単と人は本能的に知っているのである。

なにしろ、人は赤子の頃に、泣き喚けば誰かが構ってくれることを経験から学んでいる。笑みを浮かべていれば大事にされるような恵まれた子供でなければ、なおのこと、泣き言だけが他の好意を得る手段と想っている者こそ(つまり不幸な人ほど)不幸になることに幸せを感じて、しかもそれに気がついていない。

一方、世の中には、我が身の不幸を口にすることを恥じる者もいるというのに。 ……誰もが幸福を求めるが、不幸であることに幸福を見出している人はなにより不幸であろう?

Q「ひょっとして現代の心霊ブームも……」

大衆が愚痴をこぼす相手を見つけただけだ。……だから見よ、苦しいという相談は来るが、より幸せになるにはどうすべきかという相談が来ない。それこそが大切なのに。


不幸になるために生きているのか?

2007年02月18日

Q「大多数の人は不幸になるために頑張っている、といわれてショックを受けています。本当でしょうか?」

言語の限界が生む錯覚――人々が幸せになろうと努力することは間違いない。だが、何を持って幸せと呼ぶのか? 幸せがあって人々がそれを目指すのではない。人々が目指すものを得て、それを幸せと呼ぶのである。
幸福が長続きしないのは、人々が長続きしないものを追い掛けているからである。

Q「確かに、幸せとは何かと問われて答えられない人が大多数でしょう」

人は過つために生きている――人々は自分の過ちを正すために生きている。正しき信念を貫くためではない。見よ、人が正しく生きて、何が生じるのか? 妬みだけである。では、人々が誤って何が生じるのか? 同情か、または、批判か?

人が正しく生きても批判は生じる。ただ、同情が寄せられるのは誤ったときだけである。

Q「確かに、幸せとは何かと問われて答えられない人が大多数でしょうが、そういわれては人生が空しすぎます」

人生に価値などない。価値があるのは努力だけである。

Q「努力しても役に立たぬ人は社会の迷惑です」

見よ、あなたにとっても人生に価値などはない。価値があるのは価値があることだけである。そもそも、価値がないものを、「くだらぬ」と言えぬのはなぜか。意義のあるものがあまりに少ないからだ。人々は、自らの価値を認識するために生きている。他を生かすためではない。

Q「そういう考えは、何か違うのではないか、と思えるのですが」

一貫性がないのはあなた方である。他人の努力を認めぬ癖に、自分らの努力は必要以上に認めさせようとする。だが、そもそも地上にあり得る可能性とは何かを考えてみるべきである。想うことの半分も実現しないのはなにゆえか。

人々が求めているのは結果ではなく評価である。評価を欲しがって結果は二の次、そんな曖昧な気持ちで何が為せるのか?

人々が、不幸を目指すというのは、決して不思議ではない。何となれば、幸福の中よりも不幸の中にこそ、たくさんの教訓が潜んでいるのだから。だが、不幸の中に学ぶよりも、幸福の中で学ぶことの方が本来は多いのである。なぜ、かような食い違いが生じるのか。

不幸の中でしか、人が素直に成れぬからなのだ。……上手く行っているときには、人々は己を過信し、反省することがない。結局、人々は痛みなくして学ぶチャンスを軽んじすぎているということだ。

痛みなくして学べない、それが人々の苦悩の源である。

Q「なるほど確かにそうかも知れません。でもそれは、摂理に反しています。なぜ、かような不自然な在り方を人々が選んだというのでしょう?」


不幸になるために生きているのか? 2

2007年02月19日

Q「なるほど確かにそうかも知れません。でもそれは、摂理に反しています。なぜ、かような不自然な在り方を人々が選んだというのでしょう?」

言語の限界が生む錯覚――繰り返す。あなたの質問は言語の限界によって問題を取り違えている。

「幸せ」とは、満足の別名に過ぎない。そして、人々が哲学する「幸せ」とは、「より永続する、または、後悔の少ない満足」という意味だ。そして人々は幸せを追求する。ただ、それが努力に費やされた時間よりも長く保たれるとは限らず、後悔が伴わないとも限らない。

そして、たちまち消え去り、そして、一時の幸福よりもはるかに大きな後悔が伴う満足を人々が求めることを指して、「不幸になりたがる人々がいる」と、いうのも間違いとはいえない。

と同時に、あなたが考えるとおり、「幸福観の未熟さから思うとおりの満足を得られない人がいる」と、理解することも出来る。それらの解釈は、いずれも一面の捉え方に過ぎない。

一面の捉え方では、真に満足する答えは得がたい。

人々はそれぞれに好む目的に向かって努力する。そして、達成だけを思う者もいれば、達成し、長く持ち続けることまで考える者もいる。……

『では、いかなる目的こそが真の幸福となりえるのか?』……その問いが不適切であることに気がつくであろう。目的は人の数だけあってしかるのである。たしかに、一個人の利よりも、複数の、多数の、大多数の利を追求するほうが、失い難くはある。それゆえに、先見の妙ある者が示す幸福観は決して無益ではない。……他者の智慧を尊べる者にとっては。

だが、人々の多くは、自己の成長を目的として地上にいる。他者の智慧を尊ぶよりも、自分らしい意見の何たるかを模索している。……つまりは、他者の意見など反抗の対象でしかない人が多いのである。

人々が従うべき知恵とは、人々が抗う知恵である。

いかなる目標が大切なのか、ではなく、大切な人生の目標には、大切に出来る目標を選べ、と助言するほうがまだ有益であろう。……そんな長ったらしい表現で相手が理解しないというのであれば、間違った助言以外は有益とはなるまい。

Q「ただの表現違いにしか思えないのですが、あなたもまた、『人々は不幸になるために努力する』……それをあなた流に表現するなら、『人々は自分が大切に思えないことに人生を費やしている』……というのであろうか?」

いや、もっと単純である。自らが大切に思えるものを見つけられずにいる……そういう人々が不満を解消できずにいるのだ。

Q「念のためにお聞きします。その状態を脱するために出来ることがあるでしょうか?」

むしろ、何が人をそこに縛り付けているのか、が大切である。 結果を求めて……過程を大切にしないこと、それは同時に、未熟な霊魂が想念の世界にあって耽る過ちと同じ種類である。


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