‘心霊小論’ カテゴリーのアーカイブ

その問は迷いの表れ

2010/08/16

 東京オフ会のあと、食事をしながらよもやま話をしていて、私はどうも深い森の中に迷い込んだ気がしていた。

「心霊主義では、魂は永遠の修行中なのだから、たとえ間違った行いをしても、魂の向上につながるのですよね。」・・・確かにそういう思想ではある。が、どうもその昔に、同じような話を聞いた記憶がある。

 私は、「何も進んで過ちを犯す必要はないでしょう?」と切り返し、相手はそれにハッとした様子ではあるが、また、同じような論点の話を始める。数カ月前に辛い思いをしたと知っているから気遣ってあまり深く矛盾をつくこともせず、また、他にも参加者がいることでもあって、私はその話にあまり深入りしなかった。

 が、帰宅後、考えて見れば話がおかし過ぎるし、なにより、会話中、深い森をさまよう感覚があったのも暗示的である。 この話を霊たちは相手にしていないのだろう。

 そもそも、『間違いも魂の向上に役立つ』というのは、慰めの時に使う言葉であって、自分の行動を正当化するときに使う言葉ではない。まして、自ら進んで言うなら、巻き込まれた人から見ればいい迷惑、というより、確信犯なら犯罪行為と呼ぶべきだ。

 さらにいうなら、当人にしたところで、過ちでありそうなら、慎重に是非を判断すべきであろう。なにしろ、対人関係のWin-Win関係ならぬ、Lose-Lose関係である。自滅行為どころか、周囲にも被害をもたらす破滅行為である。

 当人にすれば周囲にも眼を配っているつもりが、結局のところ酔っぱらいの千鳥歩きと同様っであろう。・・・なんども同じ話を繰返すのも、深夜の飲み屋の光景に似ていなくもない。

  下手に同情してその時はいえなかったが、帰宅後に確信した。まさにあれこそが「迷い」である。


 迷いといったって、例えば初めてのデートに着ていく服を、赤にするか、青にするか、黄色にするか、という迷いではない。 その迷いの結果、対局を失う・・・当人は、小さなことでも、真面目に悩んでいるのだろうが、小さなことに悩むあまり、大きな問題を見過ごすなら、それは大きな迷いというべきだ。

 洋服選びの結果としてデートに遅れては相手の心象を悪くするだろうし、待たせても構わないというなら、それもまた、人として歩む道が間違っている。または、遅れを取り戻そうと焦って事故のリスクが増えたり、汗をダラダラかいて行ったり、というのが果たして好都合かどうか。

 たとえ小さくても考えるに値はしよう。だが、まずは大局から片付けていくべきであろう。


 本当は何をしたいのか。・・・それとも本当はどう成りたくないのか。

 そりゃなるほど人生の一大事に関する悩みであろう。だけど心霊の問題ではない。

 いやまあ、友人として話を聞かなくもないが、それならばもっと論点を整理すべきだ。それが出来なければ、誰と話しても拗れるだけだろうし、何よりも自分自身で整理が付くまい。・・・それとも整理したくないのか。

 もしもそうなら、その悩み、疲れはてて忘れてしまうまで、解決する機会がなさそうであるし、忘れてしまえば、なおのこと解決しないのではなかろうか。

 迷いというのは、問題が難しいというより、解決が難しい。

残るのは哀しみだけか。

2010/03/14

2010年3月14日


「誤った努力をする人は、あとに哀しみしか残さない。」……という言葉があるとする。

さて、この人(誤った努力をする人)は、誰の心に哀しみを残すのだろう?

・・・・・・・

 つらいことが長く続けば、人は誰かを恨まずにはいられない。それが例えば自業自得と気づいていても、人は苦しみに耐えるために誰かを恨まずにはいられない。……それが人間だといえば、その通り。だが、誰かを恨んで、それで問題が解決するのか。……気休めに浸りながらも事態はどんどん悪化して行くなら、自傷行為であろうに。

 もしもそれが「仕方の無いこと」であるなら、おそらく、あなたが不幸になるのも仕方の無いことで、さらにいえば、努力をしても無駄なことであろう。

 そうであってはならず。――時として災難に遭うことは、人として生きて避けがたいことかもしれない。だが、自分で自分を苦しめるようなことは、努めて避けるべきであろう。……当然のことだ。

 幸せになろうと努め、いやせめて、不幸になるまいと努力していても……独りではない。家族の中に自傷する人がいれば苦労するし、油断する人がいれば一切の警戒が意味を為さない。

 幸せになるために、努力し、工夫をしたところで、意味をなさぬなら……人はただ不幸になるために生まれてきたというのか。

・・・・・・・

 懸命に生きる。せめて大切に生きることが、つまるところ、家族の義務であり、ひいては社会の義務であるけれど、多くの人は、自分の義務を考えずに、自分の不幸を嘆いている。自分の不幸ばかりを大げさに思い、姑息な事をするから結局、皆の(例えば家族の、さらには社会の)負担が増えて行く。

 世の中、上手く行くのを当たり前に思って、上手く行かずにいる自分の境遇を憐れむ人は少なくないが、注意せずに行うなら、上手くいかないのが当たり前であるのに。どうしてこうも、思慮の薄いひとが多いのだろう。

 ……途中で過ちに気づいた人も、年老いて今更改められず、結局のところ、生まれ変わって来世で正しく、もしくは適切な方法で生きると誓うのみ。……だが死後に財産を持っていけぬように、死後に負債も持ち越せない。結局、地上に苦労だけが残される。 


 誰かの生き方を指して、「悪」と非難したいわけではない。いや、私にその気持が全く無いとはいわないが、ただの非難は無意味であろうと思っている。

 その上で考えるのだ。人が、些細なことと思える過ち、失敗の、または手抜きの結果、その損失額は果たしてどれほどのものだろうと。

 人はもっと自分の人生を大切に生きるべきだと思う。その「大切」とは、嫌なことをせず、楽しいことばかりをしていきるというのではなく、無駄にせぬ、無駄を作らぬ、良いことを為す、ことにあろう。


心霊体の食い違い

2010/03/06

還元水

 私事、母が脳梗塞で入院中である。幸い倒れる前に病院に行くことが出来て、症状は軽く、いまでは上げ膳据え膳の病院生活を楽しんでいる節さえある(私は振り回されて大変であるが)。どうも神様は、私になかなか楽な道を歩ませてくれないが、最悪な事態だけはギリギリ避けてくださっているようだ。 ……まあそれも、実は長く苦しめるためにやっていることではないか、と疑心暗鬼になりそうなレベルで、であるが、状況に振り回されて自分の霊格を貶めぬことが大切なのは常に自戒するところである。

・・・・・・・

 さて、もう少し説明する。

 事情により一人暮らししている母が、朝起きたとき腰が立たない、と感じて知人の整体師を呼んだ。が、母のろれつの回っていないのを見た整体師が、気がついて病院に連れていってくれたとのこと。

 ありがたい話である。……人によっては「私が治してやる!!」と意気込んだ挙句に、症状を拗らせたり、手遅れにさせたりという話を聞くだけに、良識的な対応をしてくれたこの整体師に感謝せずにはいられない。……が。

 田舎から出てきた伯母とともに見舞いに行ったとき、たまたま、この整体師も見舞いに来てくれた。そしてペットボトルに詰めた「還元水(水素水?)」を母に勧め、おそらくは伯母たちに聞かせたかったのであろうが……

「血液がサラサラになるからいっぱい飲みなさい、血栓がみるみる溶けて行くんだから。」という。 ヘェーっと感心して、なんだか伯母もその気になっている。

『……でもその水、あなたに勧められて、母は脳梗塞で入院する前から毎日飲んでいたんですが。』とは、我が心の声である。

・・・・・・・

 別にこの整体師が悪意の所有者であるとか、母を騙そうとしているなどとは思わないが、健康機器の販売会社に騙されているのでは……と思いつつ、でもそれを指摘するのは慎重でなくては、と自分を戒めている。

 なにしろ、生活の糧を得る根幹部分であろうから。

癒しの原因は?

 まあ、私は整体などにかからぬから、これまた母を通じて得た体験であるが、ある評判の整体師が、より良い治療を目指して機械をいろいろ導入したところ、客(患者)が減ったとか……これまた当の整体家にはなかなか言えない事ではあるが、果たして、今までの治療器具・治療法に効果があって客の評判が良かったのか、それとも、誰かに心配されること、誰かに思われること、もしくは実際に手でカラダに触れて、いたわられることが嬉しくて、健康(というより元気)を取り戻していったのか……つまり機械が良かったのか、人(整体師)が良かったのか、果たしてどちらであろうか?  

…… うちの母の場合、料金が高くて通い切れなくなったらしいが。

 え? 整体師ばかりが悪いのかって? そりゃそうだ、だいたい心霊相談だって、愚痴の聞き役がいるから悩みが解決した、という面が少なくないのも確か。それじゃちっとも心霊研究の役に立たないわけで……

健康機器

 何人もの整体師と知り合いになるぐらいだから、母も所得相応(おそらくは所得以上)に健康機器や健康食品に関心を示すが、果たしてその効果の程は、還元水の話題だけでも知れようものだ。まあ、その散財のおかげで今もまあ、なんとかほどほどに……つまりは寝たきりにならない程度に元気にいられるのかもしれないが。

 とはいえ、私が忙しくて顔も出せないような時程、IP電話と契約したりと、事件を起こすのだけは本当に困る。まるで、子どもが親の気を引くためにグズるのに似ている。自覚が無いだけに治る見込みも無い。そういえば、良く同じ時期に揉め事を起こす相談者もいたっけ。

 ところで母の入院直後、師匠の出迎えに姉弟子等と集まったのだが、母より年下の参加者は私だけなのに、みな元気なんだよね。さすがにほとんど皆、食が細くなって、せっかくの「うな重」を大半の人が残していたけれど。 ……まあ、時代はエコだし、仮に地球温暖化がデマであっても、異常気象と人口増大で食糧難が起こりそうなのは確かだし。……適応?

 まあ、血統よりも霊統の方が親しみを感じてしまうのは決して家庭環境だけの問題ではないと思うが。……これ、重大な話題だけど関心を持つ人がどれだけいるだろう?

 

 下世話な追記

 読み返して表現に難があったのを直したついでに、少々下世話な追記を行う。

 昨年冬の大阪オフ会でも話題になったが、Twitter の人気でも判るとおり、人々は誰かに繋がっていないのだろうと思う。

 繋がっていたい……露骨にいえば「寂しい」ともいえようが……それは決して子どもっぽい感情でも恥ずかしいものでもないはずで、そもそも、人の目を気にするからこそ、人はなおのこと善良に生きようとするのと同様、他者の視点を気にしないというのは立派というより、むしろその人がいかなる道徳性を身につけているのか、気になるところである。……寂しくないと言いながらも、支配欲が強い人のなんと多いことか。

 実のところ、「寂しい」と素直に言える人の方が、姑息なことをしない分だけ、まだ、救われていると思える。

 それゆえに、老いれば人は尚の事、人との繋がりに大きな価値を見いだすように私には見える。

 若い頃には、世話を焼かれることが迷惑に感じて、反抗したりもするのに。……でも、寂しいと素直に言えない人が……もしくは、寂しいというべき相手のいない人は、 一体その思いをどこに向けるのだろう?

 医師や看護師……いたわってくれる相手に老人が群がるのは、若者(?)が、Twitterや携帯サイトに群がるのとどう違うのだろう?

 繰り返すが、寂しいと思うのは恥ずかしいことではなく、むしろ当たり前のことだ、と私も思う。だが、その表現方法、寂しさを癒す方法の中には、いささか恥ずかしい、いや、それどころか極めて悪しき方法があると私は思う。

 とはいえ、問題は、善し悪しではない。……あなたは良い家族、良い友人を持っているか? それこそが大切だと思う。残念ながら家族は選べないが、友人は選ばねばならぬのである。あなたは良い友人を持っているか?……あなたが良いと思う友人の有無をいうのではない。あなたの運命を好転させる友人を持っているのか、というのである。

 

 

成長の助けに

2006/12/08

自分を知る

2004-12-07

 

基礎を大切に

 地上には千年を経た建物は滅多に見られませんが、数千年前の建物の基礎は、各地で見つかります。立派な建物、豪華な建物も人々の前には見えない、又は、人々が見ようとしない基礎の部分が支えているのです。

 さて、あなたがなにかを学ぶに当たって指導者に師事すれば、たとえ面倒であっても、基礎からキチンと指導されることでしょう。ところが、独学者は往々に、自分の興味の対象を追いかけるばかりで、基礎をなおざりにしてしまいます。

 ただし、「人はすでに霊界で正しい心霊知識を学んでいるから、学習の意味と目的を間違えない限り、独学でも一向にかまわない」と心霊知識は教えています。ですが、傲慢な人であれば、いかなる素地素養があろうとも、何を学ぼうと、誰に師事しようと、結局は身勝手な解釈しか出来ないものです。結局、あなたが学べるものは、あなたの人間性なりのものでしかないのです。

 しかし、学校の勉強ならば、成績は知識の目安に過ぎませんが、心霊の勉強というのは人間性をどう磨くか……であり、正しいか、否かというのは、そのまま人間性の評価に結びつくのです。 つまり、傲慢な人が勝手な解釈で心霊を学べば、その人はますます傲慢に見えるようになるでしょうし、謙虚な人が心霊を学べば、謙虚であることを幸せに思えるようになるのです。

未熟さを楽しむ

 趣味や芸事に命をかけるのも、その人の人生ですし、何事も突き詰めてみると、異なるものが見えてくるものです。ちょうどふもとから見ると雲にさえぎられて山並みの山頂が全く見えなくても、一つの山に上れば、雲の上に飛び出た数々の山の頂きが見えるようなものですね。

 ですが、心霊は知識の多さを競うものではなく、自分の人生を賭けた大勝負である事をご自覚ください。心霊を学べば否応無く、自分の欠点や未熟さ、何よりも悪行の数々、それも前世に及ぶ悪行の数々があらわになっていきます。それらをひとつずつ償い、繕いながら学ばなければならないのです。

 自分の過去を振り返った時、羞恥心を感じないとすれば、立派な人生を歩んだのではなく、成長が無いという事なのです。過去の自分の未熟さを喜ばしく思える人でないと、心霊はとてもとても学びつづける事が出来ないのです。

 知識の矛盾

 高度な医学に支えられながらも人々は出産に苦しみ、犬や猫は誰の介助がなくても子を産み育てます。人は大自然に生かされているのであって、知識に生かされているのではありません。むしろ、知識があるために人は不安におののき、妄想に時間を無駄にするのです。

 知識を尊ぶ人こそが尊び、人生を尊ぶ人は実践に裏付けられた知識だけを尊びます。人がただ生きるだけならそう多くの知識を必要とはしません。ですから、どんなに莫大な知識を蓄えても、その知識で人間を屈服させることは出来ないのです。

 一体何が行えるのか。それこそが真の知識の有無を計る目安となるのです。


人生の意義

2004-12-08

 

  一体、私たちの心はどこから生まれ、死んでどこに行くのでしょうか。

 

 無から生じて無に帰っていく……だとしたら、なんと寂しい事でしょう。心霊思想の中には輪廻や再生と呼ばれる「生まれ変わり」に関するテーマもありますが、ほとんどの人々は前世の記憶を持ちません。

 もしも、人々が前世に関する記憶を持ったまま生まれてくるのであれば、誰も死を恐れず、科学的な証拠がないからといって、心霊思想を否定する事もないでしょうに、再生論を信じるかどうかは別として、誕生は前世との断絶であり、死は現世との断絶であるのは、こと、心に重点をおく限り一般的な事実として認めざるを得ません。

 そう、私たちの人生の前には、死が恐怖を伴なって立ちはだかっています。

 生まれてこなければ死を恐れる必要がありません。もしも、世のオカルト話がみな本当で、死後の世界が怨霊の跋扈《ばっこ》する恐ろしいところであるなら死とは単なる恐怖に留まりません。

 反対に、霊界がすばらしいところならなぜ、わざわざ地上に生まれ変わり、労働に従事し、天候を憂い、飢餓や病気、そして老衰と争わなければならないのでしょうか。

地上に生を受ける事、それに一体いかなる意味があるのでしょうか。

 人生の意味、それを知らずに、どうして人生の意義を感じ取ることができるというのでしょう。


調和

2004-12-09

 

「人は死後も個性を保ち、肉体が滅んだ後も人生は継続する」

 この「死後の個性存続」こそが心霊主義の大前提といえます。そして死後により良い環境を得ることは、心霊知識の正しさを測る、一つの試練といえます。

 さて、物質的な助けがなければ人生を維持できない人の世において、助け合うのは義務というより必然性が大きい事は誰でも思うことでしょう。様々な雑事に付き合わされてなかなか、自分のやりたいことに没頭できない。その事に苦悩する人のなんと多いことでしょうか。

 しかし、必然性があればこそ、どんな嫌われ者でも、全くの孤独に陥ることがありません。理解者がいないというだけで、人は十分に孤独ですし、孤独は人を死に追いやることもありますが、必然性に結びついた人間関係がある限り、理解者を得るチャンスは無ではないのです。

 それに対して、霊界では衣食住の心配がありません。義務さえ負わなければ、好き勝手にいくらでも時間を浪費することが可能です。それは同時に、身勝手な人が容易に完全なる孤独、全くの虚無の中に閉じ込められかねない事や、理解者を得るチャンスが地上よりもはるかに少ないことも暗示しています。

 それ以外にも、人は死後にとても孤独に陥りやすい様々な事情があることを、心霊を学ぶ上であなたは知ることになります。しかし、あなたはまだ、地上にあってこの文章を読んでいます。そして死後の苦しみを少しでも減らしたいと考えるなら、調和の大切さを理解しなければなりません。

 霊界では人間同士が助け合う必然性がとても薄いのです。ですから、仲良くする、調和を保つという感覚に薄い人は、人間関係も同様に希薄になります。何より、あなたに調和の気持ちがないなら、どうして霊界からの援助や支持を受けられるというのでしょう。


善悪を論じない

2004-12-10

 

口を持って生まれた以上、誰も罪なく生きることはできません。

正しく善悪を論じるなら、裁きの刃からは誰一人逃れることができません。

人々にできるのはただ、罪よりも多くの善事をなして死の時を迎えることだけなのです。

 

 私どもは、ことさら善悪を論じません。それは善を軽視するのでも、悪に寛容なのでもありません。誰にでも多少の罪があり、そして純粋に善悪を語れる人はごくわずかです。結局、善悪を論じようとすれば、自分を守ろうとして真実をゆがめ、その矛盾が議論を非難合戦に変えてしまいます。

 いくら互いに思い遣りを抱いていても、真実を語れないなら、そこに友好はあっても誠実さがありません。目の前の誰かを庇おうとすると気が付かぬうちに別の誰かを非難しかねません。気配りは小さな誠実さであって万人に対する誠実さとはなりません。

 たとえ真実は、避けがたく痛烈な刃だとしても、真実こそが万人に対して平等に誠実なのです。何よりも、真実を受け入れられぬことほど哀しい人生がありましょうか。配慮すべきは、真実を隠すことではなく、痛み少なく真実を受け入れる助けをすることと言えましょう。

 特に心霊学は、よりより善い心を持つことが楽に生きられること、悪しき心の持ち主が葛藤の泥沼に陥ることを提示します。すべてはあるべき様になるから、ことさら罪を裁く必要を感じません。それが天、又は、神の摂理に従うということです。


何を求めるのか

 2004-12-11

 

 「健康は大切です!」……確かに、しかし、健康に関心を持つのはどういう人でしょうか。 溌剌と日々を過ごしている人なら、わざわざ健康論に関心を抱く必要はありませんね。健康論に関心を持つのは、むしろ不健康な人でしょう。

 たとえば、手の存在を認識するのはいつか考えてみてください。手が不自由なときか、怪我などで痛みを感じているときではありませんか? もしも手足が順調に動いているなら、人はわざわざ、『腕を挙げ、ひじを伸ばし、指を伸ばして、物を包み、指を閉じて掴み挙げる……』などと考える事はありません。順調に動いている限り、人は手の存在を忘れているものです。

 では、人はいつ自我を認識するのでしょうか。多くは迷い、悩み、そして葛藤する時に、ふと、『私とは何者だ?』と思う瞬間があるのでしょう。自分自身が思うように成らぬとき、初めて人は自我に直面するのですね。

 さて、私ども心霊主義者は、死後の個性存続を信じ、そして、感情のうねりに自己を任せず、永遠不滅の魂を自己の中心としようと努力をしているわけですが、その肝心な、魂が果たしてどこにあるのか、いったい何時《いつ》気がつくというのでしょうか。魂に気がつく瞬間が無ければ、どうして自己の中心を魂に置くなどといえるのでしょう。

 その多くは、霊障などの障害時であることは、以上のたとえから容易に想像がつく事です。でも、それが全てだとは思いません。


すべてを大切に生きる

 2004-12-12

 

 よい人生を歩みたい……人として生まれてきて、そう思わずにいられるものでしょうか。

幸せに生き、そして心安らかに死んでゆく。

 今はまだ若さにあふれ、老いや死などカスミの向こうにあると思っている人も多いでしょうが、死の直前にあわてても手遅れであることは、賢明な方々にはいうまでもありません。仮に死の直前に、救いや意義を見いだしたところで、急場しのぎの安易な結末を免れません。

 あなたが人生の中で体験してきた様々な経験、その中には決して思い出したくない辛い想い出もあるでしょう。そして恥ずかしい想い出、愉快な想い出、暖かな想い出、ハッピーエンドには終わらなかったけれど、時折は回想に浸りたい甘酸っぱい想い出……これらの想い出のすべてはあなたそのものです。

 人生の意義を考えるに当たって、過去の記憶を振り返えるなら、楽しく、美しい想い出は、決して外したくない大切なもののはず。では、辛い記憶や恥ずかしい記憶はどうでしょうか。たとえどれほど消し去りたくても、忘れたくても、あなたの人生の一部であり、捨てたいという願いが叶ったとしても、一部なりとも捨て去れるような、あなたの人生とはそんなに軽薄なものなのでしょうか。

 辛いからこそ、恥ずかしいからこそ、そして記憶から消し去ることが難しいからこそ、それを成功や大成にむすびつけたいものですね。

 『あの時は、辛かったけど、それを乗り越えて今の自分がある。私の人生はいい人生だった』……今は忘れ去りたい失敗も、振り返って良い思い出になる、いえ、それどころか、『私以外の誰が、これらの苦難を乗り越えてこれだけの成果をあげうるのか!』……そう誇れるのならなんと素敵な人生となるのでしょうか。

 人生は無駄に出来ない。無駄にすべきではないのです。人生を無駄にするのは、生きた自分を無駄にする事なのです。死の直前、いえ、可能であるなら死後においても、人生を、生前を振り返ってみて、『ああ、いい人生だった』と思える。そういう人生を歩むために私たちは生まれて来たのです。それが出来ないなら、生まれて来たのは愚か者でしかありません。

 苦しむために生まれてきた愚か者なのか、人生の真義に気がつかぬ愚か者なのか、いずれにせよ、いい人生を歩めた人から見たら、不幸とは愚かと同義であるといえましょう。

 幸せになりたい。幸福に暮らしたい。あなたが自らを幸せにしないで、誰が幸せにしてくれると言うのでしょう。そして、あなたが自分をおろそかにするなら……一部とはいえ自分の記憶を消し去らんとして……誰があなた以上に、あなたを大切にしてくれるのでしょう?

 ご自分を大切に生きてください。それが幸せへの第一歩です。人生の全てを、何一つおろそかにせず生きてください。悲しみも、苦しみも、別れも、そして老いや病気さえも、あなたが幸せに生きるためにあるのです。そして、死さえもあなたを生かすためにあります。…… その苦しみの意義がわからぬだけで、自分を不幸と決め付けるのはやめましょう。


死もまた生の為にある

2004-12-13

 

 ここで問題になっているのは、人生の最も基本的な葛藤です。

「己の心の赴くままに生きたい」……独善的な動機に思えても、自由への渇仰が人間の本質である事は否定できない事です。

 しかし、どんなに強く願おうと、人は境遇や環境の全てを覆す事は出来ません。長生きしたくても永遠には生きられず、人の心は変えられず、時が移り行く事は止めようも無いのです。

 人と文化の向上によって、人間の自由度は増したかもしれません。でも、何もかもが自由になるわけでもありません。……やりたい。でも出来ない……私たちは、より自由に生きるべく努力を重ねる一方で、現実と妥協する事も必要になるのです。

 つまり、「老病死苦」といった諸問題を人生の敵としてみなせば、その闘争に多くの時間を費やし、闘争はまた苦痛も生み出しますが、これら諸問題を人生の味方とみなせば、人生のより多くの時間を幸せのために費やす事が出来ますよね。

 たとえば、一生同じ楽しみを追いかけたければ、老いは楽しみを奪う敵となりますが、年齢なりの楽しみを見つければ、人生を通じてさまざまな楽しみを味わう事が出来ます。

 また、死を恐れればこそ、一瞬一瞬を大切にもするでしょう。明日は死別するかもしれないと思えば、大切な人と喧嘩していつまでも仲直りせずにいることは到底出来なくなるでしょう。「続きは明日にしよう」……そうやって、明日の自分に雑用を押し付ける事も減る事でしょう。

敵味方は心得次第。敵が多い人生は、無駄が多い人生でもあります。

 確かに世の中には、「他人との闘争・競争が無ければ人生がつまらぬ」とばかりに、わざわざ敵が多い生き方を選ぶ人もいます。砥石がなければ刃物は研げませんから、わざわざ摩擦を生むような人と同じ世界に暮らすのも、いわば修行の一課題ともいえます。

 しかし、人生が魂の修行の場である事を知ったなら、もっと静かで敵の少ない生き方を選ぶべきです。たとえば、宝石を得るには、ハンマーで余分な部分を落とす作業も必要ですが、未だ光らぬ原石を扱うための初期の一工程に過ぎません。研磨とは、乱暴な課程をすぎた後のデリケートな作業なのです。


虚栄と誇り

2004-12-14

 

 苦しみが耐え難いのは、誇りを失ったときです。周囲を侮蔑してまで己を誇ろうとする……「虚栄」は醜いものですが、逆境や差別にも自分らしさを捨てない……「誇り」は人を強くします。

 「虚栄」と「誇り」の違いは、むろん、自分の価値を正しく評価できるか否かにあります。そして自分が虚栄に陥っているか否かを自己判断するのは難しいものですが、自分に不都合な意見に対して、どれだけ客観的になれるかが一つの目安となるでしょう。他の意見に耳を貸す事は大切とはいえ、感情的になりやすい人の意見は、大抵が独善的で役には立ちがたいものです。

(役立たぬというのは、人生を無駄にする事であればこそ、役立たぬ意見からも学べることがあります。)

 他人の感情的な意見が嫌だと思えばこそ、人には意見をするときは、冷静・平静で、かつ論理的であるように心がけなければなりますまい。そうでなければ相手にとって自分はつまらぬ相手になるということであり、それはつまらぬ自分であるということなのです。まして、不都合に対して感情的になるというだけで、虚栄家である事を世に知らしめているのですから。こんなばかげた事はありません。

 そして、他人の感情をぶつけられてもなお、平静さを失わず、感情論に妥協しない事が誇りであるということであり、感情論にさらされるのは誇りを試されていると言う事なのです。

・・・・・・・

 「誇り」の宿敵を「侮蔑」であると勘違いしてはなりますまい。誇りとは自分らしく生きるということであり、人の数だけ生き方がある以上、誇りのありようも人それぞれで、他人の評価、特に侮蔑が入りこむ余地はありません。

 むろん誹謗中傷は不快なものですし、なにより、誹謗中傷を行う人が不快なものですが、他人に見せびらかそうとする虚栄心だからこそ他人の侮蔑が苦痛に思えるのです。もしも、人の侮蔑で傷つく事があるなら、自分が誇りと信じてきたものは、虚栄心であったと知るべきでしょう。

 己の誇りを真に汚すのは己の増長であり、増長を許すのは、誇りと虚栄の区別をしない自分自身なのです。

・・・・・・・’, ‘

「虚栄と誇り」を最後までお読みの方へ

 あなたの未来には希望があることをどうぞ確信なさってください。己の虚栄心を恥じ入り、暴かれた事に苦痛を感じたからといって絶望する必要はありません。

人間社会、特に競争を重視する社会には、虚栄を必要とする仕組みがあります。

 虚栄心を持たずに生きられる人は稀というより奇跡と呼ぶべきでしょう。いえ、虚栄心を持たずに生きたいというのは生に対する甘えと呼ぶべきかもしれません。

 そうであればこそ、虚栄と誇りの違い対する知識は、魂の修行において大きな分岐点を成すのです。つまり地上で生き抜く上での技術(虚栄)と善く生きるための技術(誇り)とを混同してはなりません。生活の糧を得るのに虚栄しても、善良であるかのように虚栄してはいけないのです。

善悪で物事を捉えずに、適うか、適わぬかで判断してください。

 虚栄と誇りの違いを知り、そして誇りの大切さを知った人は、少なくとも虚栄のもたらす袋小路に囚われる恐れは無いのです。そうであるなら、あなたが学びの途中で羞恥や悔悟に苦しんだとしても、それはより向上するための一経過を歩んでいると言うことなのです。


復讐の形

2006/04/25

2006年 04月 25日

 

 あまりに苦しい体験を持つ人が、いつまでもその記憶を振払えないとする。……過去に囚われるのは良くある話である。むしろ、その状況からの脱却を求めて、当サイトを訪れる人も多い。だが、設問を誤れば正しい答えに行きつけない。

 過去に囚われているのである。……囚われているのは問題だけであるのか。実はその方法論にも囚われている。

 なぜ、その時ちゃんとした行動が取れなかったのであろう? 若さゆえ? 未熟さ? 勇気の不足? 決断力の不足? 

…… 確かにそういう場合もあるだろう。だが他にも要因はあり得る。

 たとえば、その時には、こんなにも自分が苦しむことになるとは想わなかったという場合だ。それの類似要因として、「硬直して反応できなかった」、というのもよく見るが、硬直する理由を正しく理解していないことも過去に囚われる強力な原因である。

譬喩

 車を運転する人でないと、イメージするのが難しいかも知れない。たとえば他の車と接触事故を起したとする。その事故原因が、どちらかの信号無視や、ハンドル操作ミスなどであれば、たとえ感情の整理が必要であっても、これからは気をつけよう、で、ほぼ納得がいく。

 が、普通に走っていたのに、急にハンドルが回らなくなった、とか、ブレーキが効かなくなってぶつかった、としたらどうだろうか? たとえ修理が終っても、怖くてその車に乗れなくなるだろう。ましてや、修理が出来ていなければどうか。…… 事故の記憶にいつまでも囚われるのは、事故の衝撃だけでなく、車へのぬぐえぬ不信が在るからなのだ。こういう場合、たいていの人は車を買換えて、事故の衝撃と訣別するのである。

……が、車は乗り換える事が出来るが、人生はそう簡単に変えられない。

解決は霊性の欲求

 行動すべき時に行動できなかった――その体験がもたらす混乱は非常に強烈である。それも当人が理解できないほどに……人は往々、理解できないことを無理に忘れようとするからこういう逆説的なことが生じる。わざと手がかりを消しているのだから、後でやはり問題を解決しようと思い立ったときに苦労する。

 むろん、しっかりと忘れて気持をきちんと切替える事が出来るのであれば、面倒はなかっただろう。繰返し同じ過ちを犯すにしても、その都度忘れられるのであれば、ある意味人は幸せだ。それが出来ないからこそ解決を図らなければならない。いや、解決策を身につけなければならない。

 だから過去に囚われるのは、霊性から生じる欲求と見做すのがよい。つまり、人生の命題なのである。なにしろ、自身を上手に使いこなすことなくて、どうして良い人生が歩めるというか。何のための人生か、というわけだ。

 宗教的意義まで引張り出すのを大げさに思う人も多いだろうが、「嫌な事は忘れろ」的な合理的(鼻元思案的)解決が多いからこそ、問題対処能力の貧弱な、他人に頼る事多い自分を形作っているのである。当人は、その時々は必死で気がつかないだろうが、他人を頼る人は老いても頼り、頼られる人は若い頃から頼れる人物であるが、その差は、困難に対する姿勢の違いである。

 その姿勢の差が、結局は人生の善し悪しを左右する。立ち向う人よりも、逃げる人の方が背負込む苦労は少なく見えるかも知れない。だが解決した問題も少ないのである。残された課題がいつ請求されるかは来世の課題であろう。

体癖・体質

 解決策はさておいて、原因は案外容易に手の届くところにある。

 同じく、車の運転に例えると……

 交差点中で急に信号が変ったとき、急いで走り抜いてしまう人と、とっさにブレーキを踏んでしまう人がいる。交差点の真ん中で、である。

 または、荷物を持っている時に、突然驚かされたとき、荷物を投げ捨ててしまう人と、しっかり握りしめてしまう人がいる。

 これらの対処は、論理ではなく、また、性格的な問題と見なすのには無理がある。むしろ身体の特性であり、整体で「体癖」と呼ばれるものである。体癖の概念の説明を省くためには、「体質」と呼んだ方が話が早いかも知れない。

 さて、この体質を踏まえて考えてみよう。あなたは苦しい思いをしたときに、攻撃的に乗り越えるタイプの人間か、それともアルマジロのように身を守ろうとするタイプであろうか?

 攻撃的になれる人なら、苦難にあっても発散してストレスが残らない。だが、アルマジロのように身を守るタイプの人間であるなら、苦難が去っても容易にストレスが抜けていかない。過去の出来事をいつまでも引きずり、いつまでも根に持ち続けるだろう。そう、よほど特殊な事情がなければ、過去に囚われるのは、この体癖・体質の持ち主である。

処方間違い

 困難にあって身を守ろうとする体癖・体質の持ち主であるなら、復讐をあれこれと実践したところで、すんでの所…… 盛り上がった所で手が出せずに悔しい思いをし、かえってストレスを昂進させるだろう。

 頭で考えても解決しない問題に頭を悩ませるのは、つまるところ自分を正しく理解していないからだ。

内なる敵には勝ち難し。

 内なる敵としっかり話をつける前に、手のつけやすい外の敵と戦おうとするから、内と外、両方の敵に挟み撃ちに合うのである。

 では一体どうすべきか? 闘争を放棄して泣き寝入るのが一番被害が少ないかも知れない、が、それでは明日を生きるのが不安になるだろう。

 体質改善し、しっかりと戦える人間を目指すか……それも一つの手である。相当に下品な方向性ではあるが、愚者にも分りやすい方針だ。

 ちょっと歴史小説を囓っている人なら、覇道よりも徳治の道を選ぶかも知れない……なるほど、その道は迂遠ではあるが、上品でもある。 ……同時に宗教臭い話題となる。

 いずれにせよ、道は様々にあるとしても、自分に合わない、また、自分に理解できない道なら、考慮することがそもそも時間の無駄であろう。適切な選択肢と巡り会わぬのなら、とりあえず全てを忘れて遊び呆ける方が、次のチャンスを生かすのに良くもある。

それは愚痴じゃない。

2006/04/23

2006年 04月 23日


 愚痴を聞かされて喜ぶ人はいないと思う。以前聞かされた愚痴であるが、

「いつも私に愚痴をこぼしている人に、一度だけ愚痴を聞いて貰ったら、『毒気を吐いているのが見えるようだ』といわれて腹が立った。」 ……という。あなたの愚痴はちゃんと聞いてあげているのに、私の愚痴を遮るのは何たることだ! というわけだ。

 はしなくも、ここに愚痴の持つ性質が端的に表われていると思う。

  1. 愚痴は聞きたくないというのは論理ではない。
  2. 愚痴をいうのも論理ではない。
  3. 遮られるとかえってストレスが昂じる。

 愚痴は心の安全弁である。――精神的必然から愚痴が生じるのだから、愚痴は押さえない方が良いという所以である。もっとも、自分が押さえる気がなくても他人から押さえられては安全弁の存在がかえって危険をもたらしかねない。

・・・・・・・

 ところで、友人から愚痴メールが届いたが、私はまんまとそれを遮った。

 確かに、どうにもならないことは愚痴るしかないけれど、日常生活や日常業務とは直接関係ない事柄に不平不満をいうというのは、私から見て愚痴ではない。それはむしろ、言い訳を発掘しているように思える。

 念のために言うが、「言い訳を発掘している」というのは、その友人に対する非難ではなく、客観的な指摘のつもりである。

 ようするに、嫌になったのは、何か別な原因があり、その原因が認識できないから(おそらくは認めたくないから)、無意識に探し出した言い訳だと思うのだ。

 問題を正しく認識して、でも、今は忍耐するしかない事柄なら、愚痴をこぼすしかない。だが、問題を正しく認識しないまま、愚痴をこぼすのは、内在する危険因子が成長する危険がある。

 だから私は敢えて愚痴(もどき)を遮り、注意を喚起するのである。

 それは愚痴じゃない。その不満の原因をしっかりと、あきらかにすべきだ!

・・・・・・・

 では、その原因がどこにあるのか、と問われるだろうが、これは、人の数だけ答があって然るべきで、一般論で括るわけにはいかない。ただ、物事には手順があることをわきまえれば、ある程度の自己判断は可能であろう。

 一番に疑うべきは、体調である。……特に高血圧とか、糖尿病であるとか、身体に怠さをもたらす病気を疑うべきだと思う。


真実

2006/04/17

 時折、新興宗教や、特定の霊能者を指して、「インチキ」と表現する人がいます。宗教や霊能者に限らず、人々を啓蒙しようという人には、長短、可否が付きまとうものです。その真偽をいちいち論じていては切りがないので取上げはしませんが、世の中にインチキがある事よりも、もっと重要視すべき問題があると私は思います。

真実の追求方法です。

 インチキを駆逐するのが真実であれば、迷いは、正しい答えの求め方を学ぶチャンスとして人生に生かす事が出来ます。しかし、インチキを駆逐するのがただの否定、非難であれば、迷いはますます昏迷を深める事でしょう。

 溺れるものはわらをも掴むといいますが、我が身を引き上げるにはあまりに頼りないわらであっても、そっと引くなら岸に近づく助けになりましょう。なのに、溺れるものを助けもせず、ただわらを取り上げようとする偽善者の何と多い事か。

 まして、永久不滅の真理、真実をわずか百年程度の生しか持たぬ身がどうして明らかに出来ましょうか?

 そして、人生にいかなる価値があるのか、人生を全うもせずに、誰が「これこそは真実」と語れるというのです。出来る事はせいぜい、自分が信じている事だけではありませんか。つまり程度の差こそあれ、だれもが人生の狂信者である事には間違い無いのです。

 貧者の一灯は、仏教でもキリスト教でも貴ばれる奉仕ですが、人に光を与える事もせずに、吹き消してまわるのは何と罪深い事でしょう。


2006-04-16

子供を家畜にするな

2006/04/17

自己表現を育てる

 私がいまだ十代の頃の話です。霊能者として他人から最初に依頼を受けた相談の結果が、母原病でした。母親の過大な期待がストレスとなって、お嬢さんが心身の不調を起していたのです。

 この時は知人の占い師の所で、無理に頼まれて霊視したのですが、未だ若かった私は何も見えませんともいえず、しぶしぶと……相談状況も不本意でした……このお嬢さんとお母様が一緒にいらっしゃる場で……その事を口にしました。

 このお嬢さんは即座に否定しましたが、それは当然でしょう。母親の前で自分の不甲斐なさを認める事ができるぐらいなら、具合が悪くなる必要が無いのですから。しかし、娘を苦しめるような期待の持ち方も、身体を壊すような期待の応え方も愛情とはいえません。実際、潜在意識の中ではお互いに憎しみあっている事に気がついていないのです。それが態度にありありと見えました。親子なのに緊張が漂うのです。

 どうも日本人の多くは、自己表現が下手ですよね。――「嫌だ!」と上手に表現できなくて身体を壊すまで苦しみ、身体を壊すことで自己を表現する人があまりに多いのです。これには赤ちゃんの躾を始める時期に問題があると思います。

親の家畜

 皆さん、どうか良く考えてください。人間は善悪をどの様に判断するのでしょうか?

 例えば、盗みを働くのはいけない事ですよね。その理由はなんでしょうか。

 1.見つかると処罰されるから。
 ……では見つからなければ盗んでもかまわないのでしょうか。

 2.盗まれた人が損をするから。
 ……では見つかったら、金を払うなり、返品すれば良いのでしょうか。

 3.まじめに働く人が馬鹿を見るような世の中にしてはいけないから。
 ……それならば、誰も見ていなくても盗んではいけませんよね。

 でも本当の理由はなんでしょう?

 4.人のものを盗んではいけないと躾《しつけ》られたから。
 ……案外こんなところではないかと思います。

 結局、その理由を全く考えずに、盗んではいけないと思い込んでいませんか。

 さて、もしも盗みがいけないという理由がすぐに思い浮かばなかったとしたら、あなたは親の家畜であった、またはいまだに家畜である事を疑った方が良いでしょう。あなたにとって善悪とは考える物ではなく、躾という名の調教によって与えられた物、獣が芸をするような条件反射的な反応に過ぎないという事です。

 事の善悪を判断するのは心であるべきです。しかし、見つからなければ良い。返せば良い、弁償すれば良い。そのような考えの持ち主があまりに多く、それが人の心を傷つけ、人に傷つけられ苦しむのです。利己的な頭で善悪を判断すべきでもありません。

 また親の躾で善悪を判断すべきでもありません。そのような人は礼儀正しそうに見えて、躾られなかった事にはまったく気が利かず、周囲の迷惑に気がつこうともしないからです。

 相手の立場に立って物事を考えられない人は、真に心を開ける相手とめぐりあう事は出来ません。本当の愛も友情も知らずに、大勢の人に囲まれて孤独に暮らす事になるのです。

事の善悪を判断するのは心であるべきです。

自分の中の家畜部分を認識しよう

 自分の中の家畜部分を認識しよう――とはいってもすべての親が理想的な教育者である事は稀ですし、親がどれほど望もうと、経済的や時間の制約などで、未発達な時期に様々な大人の都合を子供の心に焼き付けてしまう事はままあるものです。ですから、私から「あなたは親の家畜だ!」と断言されたとしても、あなたは親のことを恨むべきではありません。

 あなたがなすべきことは、自《みずか》ら親の呪縛《じゅばく》を断ち切る事なのです。

 呪縛《じゅばく》というのは、物理的な束縛を言うのではありませんよ。まして親が魔法をかけているのでもありません。あなたが無意識のうちに自らに課している制約の事なのです。そして呪縛を断ち切る為に一番必要なのは、「親の呪縛」を認識することなのです。そのためには自分の中にある家畜の部分を認識しなくてはいけません。

 これは街で人を見ているとよく判るはずです。タバコや空き缶の投げ捨て、道を塞ぐ歩行者、人ごみでの携帯電話などなど、個人として付き合うとわりと礼儀正しいのに、その行いにはどこか思慮が抜けている人々。

 形にはまったモラルしか持ち合わせずに、その場にあわせた適切な判断の出来ない人々。

 思いやりや優しさという言葉が一人歩きしてどこか自己中心的な人々。

 私は優しい、私は思いやりがある、と自己申告する人々。

 ……それを変だと思いませんか?

 優しい人というのは、人が必要としている時にそっと手を差し伸べられる人を言うのであり、思いやりのある人とは、思慮深い行動を出来る人の事なのです。少なくとも自ら名乗るべきものではありません。

 そしてこれらを、おかしい、変だ! と気がつかず、そして人から指摘されても腹を立てるだけで反省が出来ないようなら、あなたの心の家畜性を取り除く事は不可能です。なぜおかしいのか、なぜ変なのか、その意味を考えて、事の善悪を自ら判断できるようにならなければ、あなたは親の家畜のまま、親の呪縛に絞められ続けるのです。

 しかし、自分の呪縛に気がついた人は、呪縛とは鎖でも太いロープでもなく、親に対する依存心と甘えという子供じみた心に過ぎないことに気がつくはずです。何の事は無いのです。親の家畜とは親離れが足りないというだけの事なのですから。

躾《しつけ》の時期

「虎は死して皮を残し、人は死して名を残すと言う。私はせめて死ぬ前に良い弟子を残したい」

 上記の相談例と同じ十代の頃です。川端康成と親交があったという、老霊能者に弟子入りしないかと尋ねられたことがあります。

「どうも弟子に恵まれないでね」

 私を認めてくれた事はとてもありがたい話です。しかし、『親を見たくば子を見よ』といいます。弟子が不出来なのは師匠の教え方に問題があるのだろうと私は判断し、丁寧に断りました。

 さて、この老霊能者は、まだ小さい子に、ピシャ!と叩く程度ですが体罰を与えるのです。そして私はこれを見るのがとても嫌だったのです。

 人間の子供は、心の発達にしたがって言葉を覚え、使い分けていくのです。ならば言葉もろくに話せないうちは、善悪を判断する事などできるはずがありません。なのに、なぜ、このような時期に躾を始めようとするのでしょうか。

 叩かないと悪い事が判断できないような子供に育てたいのでしょうか。犬や猫や、サーカスの猛獣たちのように、親の指示一つで芸をする様に仕込みたいのでしょうか。きっとこのような人たちにとって、子供の心など、反抗しか示さない厄介ものと見えるでしょうね。学校の荒廃は、まさにこのような人たちの思うままに進んでいます。さらにこの考えを進めたいのなら、すべての教師に猛獣使い用のムチを支給すべきでしょう。愛で芸を仕込むなど、なにやら変なところがあります。

 そして、心霊主義を学ぶ私にとって、心の未発達な子供に、恐怖を焼き付けるような事はとても悲しい行為なのです。

親の家畜が霊性を取り戻す時

 親の家畜である事を認識しない人でも、霊性がありますから、いつまでも親の家畜でいる事は出来ません。私の狭い付き合いの中で見るかぎり、三〇歳前後が親の呪縛から逃れる時期のようです。もちろんこれには個人差もあります。人はこの頃に人物観ががらりと変わり、百年の恋が一挙に冷水を浴びる様に覚めてしまう人がいます。

 今までの自分の価値観が、親に押し付けられたものである、親に掛けられた魔法で仕事や恋愛をしていた、と気がついてしまうのです。そこからは本当の人生の始まりです。

人間の本質は霊である。そして霊には霊を感じる力がある。

 人間が、自らの霊性が全面に出せば、おのずと交霊能力が出てきます。これを霊性の覚醒と呼びます。これは霊視・霊聴といった霊能者の職業的技能ではなく、遠く離れていても信じあえる、言葉を交わさなくても理解し合える。そういった人間関係を樹立する事が出来るようになると言う事です。

 ここまで心が成長して霊性が初めて人は真の交わりが出来ます。ここまで心が成長しないと、家族の中でも、大勢の友人に囲まれていても、人は孤独に苦しみ続けるのです。そしてここまで心が成長して初めて、真の伴侶、人生のパートナーを迎え入れる準備が出来ます。

 結婚してから霊性の覚醒が起った人は悲劇です。霊性の覚醒以前に選んだ伴侶が、霊性の覚醒後も魅力的であることは稀ですから。ですから、私の師匠をして言わしめることになります。

砥石が無ければ刃物は磨げない、
結婚で苦労して魂が磨かれるのよ

結婚で苦労して魂が磨かれるのよ

 そして霊性の覚醒の後に、伴侶を得た人はとても幸せな結婚生活を送る事が出来るでしょう。あなたの伴侶は、魂の伴侶と呼びえるものです。

 親の家畜は、恋人も、友人も家畜の掛け合わせのように見つけます。特に優秀な家畜ほど、親に認められたい一心から、気がつかないうちに自分にとって幸せな相手よりも、親にとって幸せな恋愛相手を探そうとします。つまり親が喜びそうな家柄、学歴などです。

 そして子供を家畜化するような親は、心のあり方など躾ていませんから、育った子供も、心なんて見えないものは、口では大切と言いながら配慮はしません。いえ配慮できないのです。相手の真意など見抜く程、人間に対する洞察力も育っていませんから、恋人として付き合っている最中は、外面だけ見て理想を感じ、結婚して現実に返ります。せっかく結婚祝を包んだ相手が一年足らずで離婚するようでは、お祝いを返せと怒鳴りたくなります。

 このような場合、何度か離婚・結婚を繰り返して親の呪縛を解く場合が多いようです。


2006-04-16

子供を不幸にするのは誰?

2006/04/16

 神は人間を幸せにするべく、この世に送り出したのです。そして、赤ちゃんは特に教えられなくても、体の発育に応じて自ら立ち上がり歩き出します。そして心の発育に応じて言葉を話し出すのです。なのに、なぜ、心の発育を待たずに善悪を教え込もうとするのでしょうか。

 皆さん、どうか考えてみてください。

 大人に見捨てられたら生きてはいけない非力な赤ちゃんが、どうして大人の意に背く事が出来ましょう。人間の中で赤ちゃんほど善悪に敏感な存在は無いのです。言葉が理解できない赤ちゃんたちも必死に周りの大人たちの表情を読み取り、大人たちの気を引こうと一生懸命に自己表現をしているのです。

 その結果、危ない事をするようなら、それは大人たちがきちんと赤ちゃんの意思をくみ取れずに、心を通わせる事が出来ずにいるという事ではありませんか。

 赤ちゃんの行動が危なげに感じられるとしたら、躾が必要なのは赤ちゃんではなく周囲の大人の方なのです。

子供たちがおかしい!

 子供の異常行動を霊障害と解釈するのは不毛です。19世紀の心霊ブームのように、霊界で何らかのコンセンサスを得て、統一的な働きかけ・キャンペーンが起る事はありますが、霊的な質が極端に変動する事は不滅とされる霊にはあり得ない事ですから。

何が起きているのか??

 近年、学校内のいじめなどで多くの自殺者を出しましたが、心無い行為は思いもかけない苦しみを他人に与えるものです。いじめに携わった子供たちは、何も人殺しをしたくて、同級生をいじめたわけではないでしょう。ただ一つ一つの心無い小さな行為が、たくさん集まれば人を殺す力になるということなのです。

 学級崩壊という現象もあります。もともと子供というのは社会のルールからかけ離れた所があるものですが、人間は社会性のある動物ですから、本能的に集団に従う部分を持っているものです。彼らはなぜ不可解で衝動的な行動を取るのでしょうか。

いったい子供たちに何が起きているのでしょう?

子供をみくびっていないか?

 子供たちの大きな変化の原因を考える前に、ひとつ思い出さなくてはならないことがあります。子供たちは、親や周囲の大人たちが改めて教える事無く言葉を習得する能力を持っているということです。 親や、教師は増長して、子供に教育を与える……などと考えますが、与えているのは学習の機会だけであり、実際には子供が能動的に知識を吸収しているのです。

 仕事で使うからとコンピュータを購入したら、親よりも先に子供が覚えて、親に教えてくれる……などという話を良く聞きますが、これも子供たちの学習能力の高さを物語っています。その子供たちの学習能力の高さを思えば、教育などというものは親や教師たちが、子供の足枷となっているといえなくはないのです。

 もちろん子供たちの学習能力には、むらっ気があり、子供たちの自主性に任せた教育などは考え難いものかも知れません。しかし現在の指導方法は、子供たちの可能性を狭めている事に早く気がつくべきです。

そして……

 大人の与えるクビキは子供たちを苦しめはしても、その才能を狭めはしないのです。

子供たちは学習している!!

 大人の与えるクビキは子供たちを苦しめはしても、その才能を狭めはしないのです。子供たちの学習能力は苦痛の中でもしっかりと働いています。時には苦痛があるゆえにより大きく学習機能が働く事もあります。彼らは大人たちの言動をしっかりと学んでいるのです。

本音と建前、社会に対する不平、不満、不安。

 親たちは社会の中で感じた、不平、不満、不安を家の中で垂れ流しています。人前ではへつらい、いなくなれば悪口を言う、そんな親の姿を彼らは学習しているのです。

親を見たくば子を見よ、子を見たくば親を見よ」といいます。親にすれば、この位……と思えるような悪癖も、人生経験の浅い子供たちが真似をすると極端な形で現れるものなのです。
 子供たちを侮ってはいけません。と同時に相手が子供である事を忘れてはいけません。子供たちの行動の中に、自分の悪癖を見たら、親自身が変わるように努力しなくては子供は変わらないでしょう。

あなたは自分を理解しているか?

 子供たちの変化は、子供たちに原因があるのではなく、親たちの心の中に原因があるのです。かつての親たちは、忙しさの中にも子供の異常を感じ取れる思慮がありました。そして大事になる前に手を打てたのです。近年、社会問題になるまで子供が放置されるのは、子供以前に親が自分の異常に気がついていないからなのです。

自分の楽しみばかりを追いかけて、子供の相手をおろそかにしてはいませんか?

 子供は、教えられるまでも無く言葉を学習していくように、実に多くを親から学び取っているのです。親が子供の相手をしなければ、子供は何から学習すればよいのでしょうか?

 子供にはだめだと言いながら、自分の行為には寛大ではないですか?
 躾を口実に、必要以上に子供を叱ってはいませんか?

親は子供の鏡であると同時に、子供は親の鏡なのです。時には鏡を覗き込み、自分を理解するように心がけなくてはいけません。悲劇は起ってからでは取り返しがつかないのですから。


社会現象には必ず現実的な原因と答えがあります。

みだりに霊的な解釈を口にする事は不安を増長させるだけです。


2006-04-16

リズム――自分を見失わぬ為に。

2006/04/16

 物事が成るには時機があります。早すぎても遅すぎてもうまく行かないし、うまく行かないどころか逆効果になることもあります。

 そして、相手に伝わるには速度があります。焦って伝えようとしても誤解が生じるし、かといってノンビリしていると相手の関心がよそに向いてしまいます。

 時機の捉え方、速度調節の上手な人はとても効率よく成功を収めていきますが、往々、当人さえも、成功要因が何であるのかに気がついていません。知識や思想、才能が成功要因である自負するのは、単に己がそれを頼みにしているというだけのこと。いくら才能があっても周囲とうまく噛み合わなければ才能の芽が積まれてしまうことでしょう。周囲の人々とのリズムも大切ですが、人生には見えざる運気が在り、そのリズムに合わせることも大切です。

・・・・・・・

 人間関係を眺めていると、他人のリズムを崩す人は、周囲に災難を及ぼします。災難とまでは行かなくとも、周囲の成績を貶めたりいたします。……リズムはとても大切です。早すぎても遅すぎてもいけないし、なにより、他のリズムを崩してはいけません。……むろん、自分のリズムを崩してもいけません。

 焦る人にはにこやかに接し、ノンビリ屋には、こまめに声を掛けることです。すると相手はリズムを整え、持っている才能を活かすことが出来ます。


2006-04-16

 

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