‘心霊小論’ カテゴリーのアーカイブ

まあ、こういう時期もあるさ。

2017/02/05

私事、ただ今絶賛、停滞期の真ん中。出口は見えない。いや、あれとこれと、早く終わらしたいのだけど・・・

これは、暦とか、占いの話ではなく、現実・・・日常生活上のあれこれのこと。日常が忙しければ、どうしたってHPの更新も後回しになる。

 

いや確かに、結果が出ないって辛いし、やるべき事が溜まって気が重い・・・なんてことを、一部の年賀状に書いてしまったような、言葉足らずだったような・・・なんて思い起こす時点でまさに停滞期そのもの。結果が出せない。まあ、昨日今日の付き合いでは無いので大丈夫とも思うが。

 

たとえ好みでなくても仕方がない。寒いのは嫌いでも四季は巡って冬は来る。暑いのが嫌いでも夏は来る。春は心地よくても花粉は飛ぶ。・・・その時々に合わせて工夫をして現実と理想、状況と希望の折り合いを付けるしかない。私だって人間、巧く行かなければ、気の焦りだって生じるけれど、努力でどうにかなるなら事は別として、待つべき時に焦るのは逆効果。巧く行かないものに執着してジタバタするよりも、来たるべき時に備えて、出来ることを進めておく方が、精神衛生上も良いと思う。というか、「常夏」なんて幻想以前に、いろいろな面で飽きるだろう。・・・状況に合わせて行動を変えられるようでなければ、流されているのと変らない。

 

1人で頑張っているつもりだって、大勢の人々が押し合い、へし合いしている社会の中で生きていれば、時代の流れというか、流行り廃りもあるだろう。自分の思いと時代の流れが同じとは限らない。逆風もあれば、無風の時もある。そんな中で努力が稔らない時、果たして運が悪いのか、それとも、己に運を見る目がないのか?

 

吉凶、善悪、正誤・・・日々、よりよき生き方を目指すのは正しい。いや、正しいと思う。でも、選択肢はたったの二つだろうか?

 

今は二月初旬。河津桜は咲き始め、染井吉野や大島桜は花芽を育てている時季であろう。そして春咲く花にとって、冬は不要な季節だろうか?または、秋に実る草木にとって冬は終わりの時季なのか?・・・吉凶はプラス・マイナスじゃない。過ごすべき在り方に違いがあるだけ。

 

凶や不運は、逃げるべき事ではなく、正しく受け止めるべき重大事なのである。凶は吉と、不幸は幸運と等しく大切な時季だ。・・・停滞期であるのは、停滞期であることに気づいている人にとって、決して悪い、嫌うべき、誤った何かではない。要は、外に向かって努力すべき時と、内の充実を図るべき時期があるということ。

 

よろしくないのは、向かうべきでない方向に努力して無駄にリソースを損なうこと。・・・幸せになりたければ、大切なモノを嫌い、無駄に努力をすることなく、大切なモノを大切にし、必要なことに手を抜かないことが大切だろう。

 

たぶん、人々が天気予報を日常生活に活用するように、自分の運気の変動を予測できるのは便利だろうが、便利に流されて、目先の快のみを拾い、必要な苦を避けることのないようにすべきだ。苦難に立ち向かう覚悟無くして、この先の苦難を知るのは乗り越えるべき苦しみよりも辛い道のりかも知れない。

 

というか、この程度の段差で足が引っかかるようなら、きっと、過労か加齢で足がちゃんと上がっていないのだ。・・・あれ、停滞期じゃなくて年か? ならば、この状態が死ぬまで続くのかも? やれやれ。心霊研究のつもりが、究・・・いや、ただ今、老化の実践中。

あなたは悪循環から抜け出せるか?

2014/02/15

未来を作るのは今であり、今を作ったのは過去である。・・・良い明日、良い未来を求めるなら、今の努力が必要なのはいうまでもなく、明日のために集中したかったとしても、雑事が溜まって集中できないのだとしたら、それは過去の負債が未来に影を投げかけている姿といえる。

過去は振り返らない・・・努力を向ける先は未来であるべきだ。明日の後悔を減らすためには。

とはいえ、抱えている負債を確認する為に、過去を振り返るのは大切かもしれない。

私たちは、何を見、どこを目指して進むのか?

そして・・・

善い行いの結果として、良いことがある・・・善因善果。

悪事の報いとして悪いことがある・・・悪因悪果。

善悪の区別は難しい。良かれと思い、親切にした相手が、面倒な相手、拗らす相手であることも。

・・・人の世は、それを支える人々の利害・都合に縛られていて、一人自分だけ幸せになろうとしても、足を引かれる。

他者に親切にすることが、むしろ我が身を害することは少なくない。人と関わらぬことのなんと楽なことか? むろん、それは詭弁。一人では出来ないこと、行けないところに行くために、人は助け合うのだから。

私たちは、ちゃんと前に進んでいるか?・・・強い願いがあるならなおのこと。脇見をしていないか? 余計なことに手を出してはいないか?

良い結果を出せるような行いを見出すのは難しい。往々、人は良かれと願いつつ、試行錯誤を繰り返すものである。

そしてそれ以上に・・・人はおとなしく待つことが難しい。・・・結果、夢を台無しにするために日々を過ごしていないか?・・・私たちは。

それとも、夢が叶うのがそんなに恐ろしいというのか?

決して突飛なことではない。何しろ、今を作ったのは過去の行い。そして、善因善果、悪因悪果。今が辛くあるならそれはきっと・・・

あなたは悪循環から抜け出せるか?

2014年あけましておめでとうございます。

2014/01/01

あけましておめでとうございます。

本年もどうぞよろしくお願いします。

「謹賀新年」 白鳥の若鳥が飛翔する図

 

私達は、社会の中にいます。つまりそれは、愛する人とも、また、嫌いな人とも時と場、そして、様々な資源を共有しつつある、ということです。そして、憎む相手とも、そしてあなたを憎む誰かとも、社会を共有しているということです。

「あんな奴と、一緒に飯を食えるか!!」 と思ったとしても、では別々な食卓に上がった、肉や、魚が、同じ個体の一部でないと言えるでしょうか?

仮にあなたの心の中の、怨みや、憎しみが、地獄の果てまでも相手を追いかけるものであったとせよ、憎む者と憎まれる者、または、憎しみ合う者同士、果たしてどれだけ離れて暮らしているのでしょうか?

いえ、私は思います。憎しみや、妬みといった、多くの者が「負の感情」と分類するものでも、長い生物史の中で失われずに残ったのは、必要であったからに違いない。と。無論、多くの者が溺れ、滅びていったとしても。喜びのあまり過ちを犯す人もいるのです。憎しみや恨みだけが悪いことだといえましょうか?

ただ私は、その大きさを考えるべきだ、と思うのです。・・・溺れないために。・・・飲み込まれないために。・・・自分が自分であるために。

どんなに憎んでも相手は変わりません。祟で苦しむのは、相手に罪悪感がある時だけです。たとえ相手に一方的な非があるとせよ、私達は社会を共有し、義務を共有しているかぎり、為さねばならぬことがあります。そしてあなたに人としての矜持があるなら、私達は憎む相手の罪を肩代わりし、自らの主張を折り、妥協してでも、変化せずにはいられません。

正義の為に社会があるのではなく、社会のために正義があるから。この順番は大切です。

許せ、とはいいません。私はむしろ、裁くことにどれだけの価値があるか、と思うのです。人は何度でも過ち、多くの場合、何度も同じ過ちを繰り返します。または・・・私は過去も、未来も、何度も過ち、往々、何度も同じ過ちを繰り返すでしょう。全く愚かなことです。その愚か者同士が集まり、社会を作り、互いに不平不満をいい、不平不満では済まずに憎しみ合う。

愛することはもちろん、憎んでもいいのです。あなたがそれに溺れなければ、流されなければ、必要な時に自制できるなら。

自らの憎しみや妬みを自制できるなら、そっと過去を顧みてください。

私達を制約しているのは、他の人間だけではありません。個々人の思惑を超えた一種の社会意識や集団心理もあれば、自然災害も控えています。寒暖や晴雨のバランスだって、地震や台風と比べれば被害が小さく見えても影響はとても大きいのです。

ただでさえも私達は、抗いざる大きな流れに、影響され、流され、生きています。であるなら、人を憎むことはあなたにとって重大な問題ですか? 妬むことがそんなに重要なことですか?

他になすべきことがある。または、もっと優先すべきことがある。・・・そして、余裕があるときにそっと思い返してみてください。なぜ憎むこと、妬むことが必要だったのか、と。

もしも自分が、自らの夢・理想にむかって順調に歩み進めているなら、いや、自分の日常を大切にしているのであれば、憎んだり妬んだりといった、回り道を好むものでしょうか?

責任転嫁、してませんか?

自分の幸せのために、自分の持つ全てのリソース(資源)・・・少なくとも、出来る限り多くのリソース(資源)を費やす。・・・なぜ他のことに、せっかくのリソースを流用しようというのか、そのムダさ加減があなたに理解できるなら・・・

すべての人に当てはまるとはいいません。私の把握しうる狭い人間関係にのみ当てはまるかもしれませんが・・・

苦難の年には夢を諦めじっと堪えるべきです。順調な年には大胆な行動が必要でしょう。 なので2014年は、大切に生きましょう。不順な年であればこそ、少しでも蓄えておくべきです。

皆様が、少なく見えるチャンスを無駄にせず、多く感じるリスクを上手に避けて、実り多い年、または、冬の備えが出来ますように、祈念しております。

頑張っている人を見たら、助けたいと思うのが人情であろう。

2013/11/23

人生は往々ままならない。

生きていれば、つらいことは多々あろうし、悲しみも尽きることがない。

少しでも幸せにつなげていこうと、人は努力するわけだが・・・

境遇が努力に余り、喘げど、ひたすら悪い方向に流されてしまうことは、よく目にするところである。

または・・・伴侶や縁者の不始末を背負わされることもままある。(時としてそれは、「あなたのためだから」と持ち込まれる。)・・・逃げたくても逃げられない。己の責任から逃げられる人が羨ましい・・・わけがない。・・・愚かでも、貧しくても、でも人として、胸を張って生きるためには、捨てられないものも多い。

 

頑張って生きていればこそ、心の余裕を失い、チャンスを見落とすこともあるだろうし、過ちに気付かぬこともあるだろう。・・・頑張っていればこそ、人の助けが必要である。

一方、頑張っている人を見たら、助けたいと思うのが人情であろう。・・・かけた情けがわが身を救うことも多々あること。まったく、「情けは人の為ならず」である。

助けが必要な者がいて、助けを与える者がいる。助け合い、つながりあって、人々の輪が広がっていく・・・

 

・・・容易に素直になれず、じたばたともがきながら・・・

 

ところで、いわゆる愚痴は、努力のうちに入るのか?

人の愚痴を聞いて、助けたいとだれが思うのか?

辛さのあまり、思わず口をつく愚痴もあるかもしれない。また、心のバランスをとるために、愚痴が必要なこともある。

だが・・・幸せを求めて、かえって災難を呼び込むことは少なくないが、そんなことばかりを繰り返しては、なるほど辛かろう。

だからこそ、心をリセットすることが大切なわけだが・・・自らを苦しめている人は、心のリセットだけでは好転しない。対して打つ手がないとはいわないが、残念、私の手はふさがっている。

 

 

幸せに生きるために。

2013/10/22

天から与えられた「義務」

かつて、わが師は、兄の病気平癒を祈願するのに、

「天の定めたその時まで、苦少なく,楽多いようにお守りください。」

と(たぶん私に聞こえるように)口に出して祈っていた。

生きるために生きる

天が定めた時とは、寿命のこと。人の寿命は変更できない、というのを前提に祈るのである。

言い換えると、『定めと争っている暇があるなら、残された時間を有意義に使うべきではないか?』 と考える。仮に、祈りで延命できるとしても、延命できた時間より多くの時間を、死への恐怖に震えていたり、延命のために祈ったり、といった時間に費やしていてはもったいない。

死を恐れてあれこれと犠牲を払うのでは、死ぬために生きているようなものである。・・・でもそれはおかしくないか? 努力しなくても死は訪れるのに、努力してどうなるだろう?

私たちはただ生きる。―― 死という制約を受け入れて、その制約の範囲内で最大限に自分らしく生きる。そこに努力の価値があり、死を避けることに努力の価値はない。・・・とは思わないか?

苦少なく。楽多く生きる!

老親の病気に不安を感じている友人に、上記、わが師の祈りの言葉をまず伝えた。その上で私が観ずるに、大切なのは、「義務を果たす」、という視点だと感じた。

人は老いるし、老いれば心身のあちこちに障害が現れる。医学の進歩であれこれ緩和ができたとしても、やはり、人は老いるし、老いれば心身のあちこちに障害が現れる。 ひとつ壊れて、ひとつ治せば、二つ壊れて、一つしか治らなくなり・・・老化は肉体に着目する限り、勝利の可能性のない闘争のようで、見守るのが辛い。

見かねて、子は、「少しでも楽に」と考え、「何もしなくていいから!」と、いってしまう。 確かに、苦痛の最中や、身動きの取れないときには、その子等の気配りがうれしくもあるが、老いて悲観的になった人は、時々、「自分は不要なのではないか? 邪魔なのではないか?」という考えに憑かれてしまうことがある。まして、退屈というのは人間の最大の敵ではなかろうか? 何もしなくてよいというのは往々残酷である。

老いた親こそ、上手に使え・・・と思う。また、老い先短い親とは楽しく付き合え、とも思う。

生きる、とは、心配をするでも、惰眠をむさぼることでもなかろう。限りある時間は、有意義に使うべきだ。天が定めた時まで、持って生まれた義務を果たすまで、苦しくても、貧しくても、楽しく生きるべきだ。

貧しさを楽しめ、ということが腑に落ちないかもしれない。だが、貧しさから逃げて豊かになっても、富の損失を恐れ続けなければなるまい。同様に、苦を楽しめないものが楽になって、不安を抱かずに要られるだろうか?

いやいや、そうやって、必要以上に苦しんでいるのが人間ではないか?

苦と楽貧しさと豊かさ、が、相反することに思える人は、手に胸を当てて考えたほうがいい。 「私は前に向かって生きているか?」 と。「不幸から逃げようとして、不安を育てていないか?」 と。

幼きものの天命はいかに?

老いたる親なら、「天命」といわれて、納得出来るかもしれない。だが、幼子を亡くした時、「天命だから」といわれて納得できる親は滅多にいないだろう。むしろ、怒るのではないか? いった人を恨むだけにとどまらず、「定めた」神を恨み、憎む親もいるだろう。

そういえば、かつて、私が無料相談に応じていた頃に、「神様に文句を言いたいので仲立ちしてくれ」という依頼があった。たしかに、霊能者>霊媒≒仲立ち ではあるが、だが、依頼があるたびになんでも取り次いだなら、きっと私は霊達に相手にされなくなるだろう。

ましてや、その依頼者に神を批判する権利を有するほど、有徳であるなら、私ごときのパートタイム霊能者よりも、よほど、高級霊界・(わゆる)神界に発言力があるはず。・・・・発言権が無いのであれば、取り次ぐだけ時間の無駄、自身の権利を顧みない人なら・・・・

人は一体、いかなる権利を持って神(や仏、または天)を詰るのだろう? 人は、幸運を得て当然なのか、はたまた、悪運を退けてもらえたことに感謝すべきなのか?

つまるところ、人は生きるために生きるのか、死ぬために生きるのか、という問題に戻ることになる。

たとえ短い時間とはいえ、生きられて良かったと思うのか、これだけしか生きられなかったと恨むのか。

工夫を楽しむ

人生に制約がついてまわるのは当たり前。ないと思うのは、制約に気づく知恵がないのだ。いや、目を背けている、というべきか。だが人として生まれ出て、「工夫と努力で制約を克服する」 という、楽しみを知らずにいられようか?

そして、工夫と努力を楽しむ者なら、工夫と努力の価値を知る者であろうし、空ふと努力の価値を知る者であれば、幸運の価値を知る者でもあろう。

苦労しながら生きた者なら、時として己の努力だけに価値を見出すかもしれないが、人生の中で折々出会った幸運に感謝することもあるだろう。

得難いことだから、有難いという。・・・有難いことだから、感謝する。私は「必ず」では、無いことを知っているが、それでも、多くの苦労者が、感謝できる人だと知っている。

幸運を当たり前だと驕れる人は、おそらく恩恵に近く、そして、だんだん遠ざかる人なのだろう。 そして、幸運を得難い、有難い、と思える人は、恩恵から遠く、そして、だんだん近づいていく人なのだろうと思う。

天命は、受け入れがたいかもしれない。だが、その価値は、考えるべきだろうと思う。

または・・・自分を不幸と思うのは容易い。だが、容易いものにどれだけの価値があろう? 得難いから有難く、有難いから感謝する。で? それでは、得難くないものにはどういう気持ちを持てばよかろうか?

共生・または・・・

誰も彼も、親孝行を出来るわけではない。したくても、事情が許さない場合もあるし、親に断られる場合もあるだろう。

例えば、幼くして捨てられた子が、親に焦がれて、世話を焼きたがる事も多々ある。だがその親にしてみれば、捨てた子を頼らざるを得ない、精神(むしろ霊)的な苦痛を受ける事も多い。

孝行したくても、親に断られるもの、親がすでに無いもの。または、孝行してもらいたいのに、子に拒絶されているもの、子が無いもの・・・

時として、その事情は呆れるほど下らないことかもしれない。または、第三者にはうかがい知れない重いものかもしれない。

これまた、生きるために生きるのか、死ぬために生きるのか、の差に帰結する。 すなわち、子のため、親のために生きるのか? それとも、親子で共生して生きるのか? という差だ。・・・親は敬うべきだと思う。親に限らず、年長者はすべからく、敬われるべきだ。だが同時に、子も、年少者も大事にされるべきである。

親と子、年長と年少。 それぞれは、互いがあってこそである。つまり、親なき子はなく、子ない親はない。その意味において、親と子、年長と年少は同格なのである。または、祖先と自分、神仏と自分も同格なのである。 同格であるなら、自分の不幸は、神仏・祖先の不幸でもあるだろう。と同時に、自分を幸せにするのは、自分自身だけでも、神仏・祖先でもなく、その協調、共生である、ということだ。

そう、親孝行できない子は不幸だ。神仏を信仰できない人も不幸である。・・・だからといって、親孝行すれば親子共に幸せになれるとは限らず、また、神仏を信仰しているからといって、幸せになれるとは限らないのである。

善行、親孝行も神(仏)がさせる。

何教の神だか、仏だかは、論じる気がしない。神でも仏でも、おそらく人間が勝手に名前をつけただけのことだろうから。 それはともかく、親孝行という名目で親をこき使うにも、親が必要だ。生物学的に親のいない人はいなかろうが、諸事情から親のいない人もいるだろう。それもまた、神仏の差配。悪いのは私たちじゃない。

いない親を心配するより、自分にできる社会奉仕を考えたほうが、よほど生きがいがあろう。 すべては他者のためというより、自分の生きがいのため。 無理せず、出来る範囲で、または、出来るように工夫しながら、善行を行ってこそ、人として幸せに生きられると思う。

人はどこに帰る?

心霊では、死んでも人の個性は残る、という。一方、日本では一般的に、死んだらまとめてご先祖様扱い・・・まあ、祖父母ぐらいまでなら、まだ、一人の人間として扱うかもしれないが・・・

帰幽(死亡)したばかりの霊は、たいていの場合、無力で、地上に影響を及ぼすことができないので、祖父母の霊が子孫と感応した結果、何とか助けたい! と思ったとき、実際にことに当たるのは、祖父母よりもさらに先に帰幽したご先祖様たち。

人は死んで、家族よりも大きな集団、いわば血統や霊統・法統といった組織の中に帰属する。ならば出来る範囲で親孝行はしたほうがいいし、結婚して子供を残すのも、血統などへの大切な奉仕であろうけど・・・

たとえば自治会・町内会・・・「メリットがない」といって入らぬ人が増えているとのこと。だが、個人レベルでメリットがなくても、帰属するもっと大きな集団でメリットがあるなら、参加し、協力することも大事であろう。

同様に、先祖供養の第一は、その血統に参加すること、その程度が正しいと私は思う。一方が他方に依存するのは正しいはずがない。親孝行も、それをする子供が幸せに思えなくてはなるまい。

あなたは帰るところを持っているか? ・・・帰る場所こそが力である。それに気づいているか?

得難くあれ・・・

幸せって、ありがとうと言われた数、と、ありがとうと言った数のバランスかもしれない。

ありがとうといわれるだけでも、ありがとうというだけでも寂しくはなかろうか?

そして、ありがとうといわれるためには、有難く、つまりは、得難き人であろうとする必要がないか?

必要とされることと、必要であることは一体である。・・・必要でない者から、「必要だ!」といわれて誰が嬉しかろう? 必要とされる者に、必要とされる事こそ、有難いのだから。

必要とされたい。そのためには、必要としたい。そうやって、相互に影響を与え合っているこの人間社会において、あなたは、必要とし、必要とされたい、という心のバランスをとっているか?

 

(取りきれない思いがあり、続く。)

悲しい時にわかること。

2013/03/04

まあ、所詮は他人事。人それぞれに事情があり、事情にはそこに至る歴史もあろうが、岡目八目・・・他者は往々、無責任に先が見えてしまう。『そりゃ駄目だ!』と、切り捨てるのは、見知らぬ他人には容易でも、当事者にはなかなか、いや、できる出来ないではなく、果たして、やっていいことやら、悪いやら。

もう、自明という他ない、悩みごとの持ち主がいたとして・・・自明であるのに解決しないのは、いうまでもなく、人情が絡むから、つまりは、その人情をどう、ほどくか、という問題に帰結しそうに思える。
少なくとも、どう解決するか、という点に着目するなら、快刀乱麻を断つ・・・人情を切り捨てさえすれば、簡単に解決しそうなものだ。
簡単であるから、インスピレーションの余地もなさそうに思っていたある日、いささか、残念なことがあって、気が沈んでいた時に、ふと、感じることがあった。共に嘆けばこそ、気づくこともある。

自明、すなわち、他に答えがないような簡単な問題が、なぜ解けないのか? つまりは、論理ではなく人情、いや、情にこそ、真の問題があり、論理はいわば、「言葉(表現)の綾」、抱える問題を論理的に説明しようとして、その説明の矛盾点こそが、解決の糸口であるかのように、他者が理解するが故。

結局のところ、当事者全員、三者・四者が、共に、矛盾を切り捨てられずに引きずっている。大切なモノを守ろうとして、・・・うーん、次善、というか、任せておいても大丈夫そうなものを後回しにし、後回しにされた者が、捨てられたと嘆いている感じ・・・

私の眼には、「強欲の報い」にも思える。または、方法を誤ったがために、目的まで疑われたというべきか?

以下は、あまりよくない例えだとは思うが・・・

「母がわが子を慈しむ」といえば、無私の愛の典型とも思える。が、おそらくそれは、子供が幼い場合のみではなかろうか。わが子が成人に近づき、さらに年齢を重ね、わが子が親になる時が来て、さらに齢を重ねたなら・・・
親に無私の愛情を求めるのを卒業し、逆に親の面倒を見ようとする気概を示してもらわねば、親としても心配になろう。親自身の老後ではなく、わが子の人となりに、不安を感じるであろう。
でも、なかなか、両方に気配りって、出来ないものです。親に気配るか、伴侶とわが子に気配るか。

大家族の時代なら、目も手も多くて、何とか回ったものが、核家族の時代には、老親も子供も期待ばかりが多くて、働き盛りは手が回らない・・・いや、それ以前に自分自身のことで手一杯だったりする。

努力して何とかなるなら、努力するかもしれない。でも、何かをあきらめなければならないなら?

以上の事は、あまりに大袈裟、乱暴な例えとは思う。事実はもっと複雑で、冷酷な情念が絡んでいるかのようにも見えるだろう。とはいえ、相手に裏切られたのか、それとも、自身の期待に裏切られたのか?

 

行動力があれば、あるほど、人は大きく手を伸ばす。だが、力みなぎる頃には、「ほどほど」と妥協することはなかなかできないし、なおかつ、己の最低限の義務に気づくことも難しいだろう。・・・もっと大きなことに責任を感じているから。

往々、手遅れになった後かもしれないが、人は己の弱さ、限界に気づく、いや、見極める。
その時が来るまで、もがき苦しむのが人間・・・だが気づいているだろうか?

もがく力があるなら、もがくのも楽しいが、もがく力がなくなった時、残るのはただ苦しみだけ・・・

自分の居場所をおろそかにしてまでもがくと、力尽きた時に流されてしまう・・・でも、それも生き方なんだろう。

悲しいが、それが生まれ持った性であるなら、それをゆがめて生きるより、自分らしさに納得するほうが、魂にとって幸せかも、とも思う。・・・悲しいかな。

持って生まれたあふれんばかりの行動力。それを殺して幸せにはなれない。縛り上げられたら、それが安全であっても人は不幸に感ずるもの。・・・たくさんの条件に縛られつつも、その中で最善の選択の結果が今であると、信じることが大切であろう。

・・・たとえ恵まれた環境であろうとも己を哀れんだら、人は不幸だ。

・・・だが、悲しくとも自分を誇りに思えるなら、果たしてそれは不幸であるのか?

他者には伺われぬ幸・不幸がある。

2013年 クリスマス

2012/12/25

私はクリスチャンじゃないし、クリスマスに何かを期待するような人間でもない。どちらかといえば仏教思想に感銘し、神道思想に共感を覚える、いわば、日本(風?)教徒だ。・・・まあ、その意味でクリスマスをそれなりに楽しみもする。

ところが、例年(ほぼ例年?)、クリスマスには何がしかのメッセージを、この拙く、小さなコミュニティー(HP)のなかで発する。・・・拙いなりに。

実はここ数日、またもや拙いメッセージを温めてきたのだが、幸か不幸か、忙しさに紛れて間に合わなかった。

間に合わないなりに思うに、やはり、一年のうちでクリスマスという日は特別な日なのだと、思い至る。

私の感じる範囲すべてに・・・祈りが充満しているのだ。

無論、地上のあちこちで、日々、様々な祈りはあげられていよう。だが、この日ほど、多くの人が、心を一つに集めて祈る日はないのだろうと思う。

・・・振り返れば、日本人は、折々、それこそ、意義を知らぬ外国の祭日まで祝い、楽しむが、祈りを捧げることをしない。おのれの事柄を様々に祈願・祈念しつつ、だが、なかなか無私の祈りを捧げることをしない。

いや、日本人を侮蔑するつもりはない。たとえば外国に天災あれば、寄付・援助が集まるのは、他国をしのぐのではなかろうか・・・と、期待もする。でも、それはそれ。

私はただ、日本に対して、現実的で、情緒的で、ただ、霊的なものに物足りないものを感じているだけである。

または、負けるな、といいたいだけか。


話題を変える。

知る人ぞ知る、私はサンタクロース肯定論者である。・・・というか、非否定論者というか・・・なんで、霊的存在に、物質的なプレゼントを求めるのか、この亡者どもと、思えるのである。

ねえ・・・なんでクリスマスは、子供がおもちゃをもらえる日なんだ?

そりゃ、おもちゃは欲しかろうし、ケーキも食べたかろう。ましてや、抽象観念の未発達の子供等に心の在り方を論じるのはナンセンスだと自ら思う。

ただ、日本に限ってみる限り、クリスマスのこの日は、祈りの日ではなく、未熟な物欲念と、いわゆる絡み合う情念の踊る日に見える。

低空を這うかのような妄念と、その上を漂う、オーロラのごとき平和への願い。

あり方の違いもある。が、霊界でのお祭りを感じるがゆえに、クリスマスというのは日本人であることがいささか、寒く感じられる日である。・・・日本人の振る舞いが恥ずかしいからではなく、それに代わるような、それに、匹敵するような祭日がないために。

同床異夢

2012/08/30

関連事項:


霊的な意味で・・・悪寒がする。

悪い予感・・・に近いけれど、誤解?

・・・・・・・

過去、何人もの方々に、「あなたは守られていますね。」と、告げてきた。

私の知りえる範囲を、私が理解する範囲で、その通りだと思うことを告げたのである。・・・そう言われた方々は、「守られている」という言葉を、どう受け取ったのだろう?

冒険をしても大丈夫? = 危険なことをやっても大丈夫?

いやいっそ、無理をすれば、(守護霊が)姿を現す?

 

同床異夢

人同士、霊同士、人と霊同士・・・心を一つに合わせて働くことはできる。でも何のために?

その痛みに同情することもできるだろう。同情は往々に一方通行のようだが・・・

心を一つに合わせ、一体感に浸っていても、互いに同じところを見ているとは限らない。・・・その事柄に利害はあっても、そのいきつく先が同じとは限らないことに気づいているか?

人生に痛みは避けられない・・・その痛みを乗り越える意義はどこに見出すか。・・・その差異は主に霊格の差異と見なせる。・・・差があって当たり前。

・・・私が、「守られている」というのは、果たして、何からあなたを守っているというのだろう?

守護の対象はケースバイケース。人の数だけ答えのある問題だ。だが例外・・・つまり、守護の対象外を説明するのは、案外簡単に思える。

そもそも、地上の生(人生)は、霊性向上の修行場なのであるから・・・当人(庇護者)が、楽な道を選んでも、つまらぬ邪魔の入らぬように、守護霊・高級祖霊は苦心してくれるが、当人が苦難の道を選べば、苦難を全うするように助ける(?)。

・・・苦しいから助けろ! といって、『自分の選んだ道を全うせよ!』と、励まされるであろう・・・。

まあ、楽な道ばかりを選べば、『いつになったらゴールにたどり着くか』と、小言をもらうかもしれないが。

要するに・・・守られている、というのは、× 思い通りになる × という意味ではなく、どちらかといえば、○ 黙って従え ○ というのに近い。庇護者の価値観を無視・軽視したところに、守護者たちの観点・目的地があるのだ。・・・「守られている」を、「過保護な状態」といいかえたらわかりやすくないか?

さらに誤解を招くかもしれないが、「お前の目指しているものは、私(守護霊ら)の見るところ、不幸の入り口だな!」という、見解の相違を意味している、(大げさにいえば)と受け止めた方が良さそうである。

差しかけられた傘(守護)から出るのは決して難しくないはず(むしろ、簡単)だが、出た後の苦労は想像以上の筈、というのが、思い返せば私の体験上の事でもある。

 

大丈夫?

同様に、「大丈夫」というのは「楽な道がある」か、「良い道がある」であって、好き勝手してよい、という意味ではないだろう。

そういえば、『一つだけ願いを叶える』という霊査を中継したことがあるが、これ、良さ気な言葉のようでいて、存外ひどい言葉と思えなくもない。(まあ、意図するところがあるのだろうが、私もいまだ深入りしていない。)

たとえば、その願いが、仕事であれ、人生の伴侶であれ、見てくれ、とか、収入とか、長所が一つだけであとは欠点だけだったとしたら、それこそ呪いの言葉になりかねない。あ? 品定めし過ぎ、選びすぎるのが欠点だったりして・・・・・・

 

視点の違いを大切に。

他者の言葉、というのは、それが以下に親密な相手とはいえ、相手の視点で解釈するのを忘れるべきではなかろう。さもないと、誤解をし、そして、親密な相手との意識のずれは裏切りとなって感じやすい。

さらにいえば、期待があればこそ、耳から入る言葉を都合良く解釈しがちである。

 

果たして本当に相手から裏切られたのか?・・・自らの勝手な解釈が裏切りに感じられただけではないか?

本当に(外的影響で)不幸なのか?・・・わがまま(内的影響)ゆえに不幸に感じているだけではないか?

 

一方的な意見の押し付けではない。

叱っているわけではなかろう・・・構うからには、構う価値がある筈だ。

嫌味をいうにも、建設的な話でなければ、いう個性(例でも人でも)が蔑まれよう。

守るとか、叶える、というなら、それなりの行為はある筈である。だが、あてが外れると人は傷つく。期待しない事柄が思い通りにならなくてもどうということはないが、期待が大きいほど、あてが外れると人は傷つく。

折り合いが必要だと思う。

 

霊の言葉を聞くものは、往々、無私の好意を期待しがちである。が、往々人は、期待を裏切られるのだが、それは、霊たちが利己的だというより、期待する私たちの側で作為(つまりは利己)があるからなのだ・・・というのが、私の意見である。

期待してなお大きく、だまされるのは痛いから、お互いに気をつけたい。

平和祈念

2012/08/14

私事、毎年、旧盆の頃は身体が重くて仕方がない。

あちら(隠世・死後)では、いろいろ言いたいことが多いようだが、私の浮世の仕事は今頃がハイシーズン。忙しい。気が散る。能率が悪くて気が焦る・・・という悪循環が例年のこととなる。・・・定年まで待ってもらいたいものだ。

ぼやくのはここまで。

八月は・・・日本では・・・平和を祈念するイベントが多い月でもある。人が神仏、もしくは祖霊に世界平和を祈念するのは無論、悪いことではない。

で・・・も・・・。

あちらから、祖霊・・・祖先の霊たちが、私たち相手に祈念していることに気づいているだろうか?

親族・家族仲良く、喧嘩せず・・・

戦争を嫌う人はとても多いが、諍いを止められない人も多い。

小さな火種をそのままに・・・(いや、息を吹きかける人までいて)・・・火事が起きないとでも?

 

とはいえ、諍いというのは、相手がいて出来るもの。または、相手がいるから出来るもの。

というか。・・・人が向上を目指すなら、競わざるを得ないし、競い合うのも熱が上がれば諍いに発展しなくもない。

ある程度の諍いは仕方がないことなのだろうが・・・

争いのデメリットを知っているか?

2012/07/28

人間関係において、出会い・好かれることより、別れることのほうが難しいことは、往々忘れがちなことである。

出会いに期待を抱くことが、往々、眼を曇らせて人を見誤る。・・・その誤解の結果は、まさに自業自得、自身の弱点が眼前に顕現するようなものである。・・・うろたえ、冷静さを失ってはならない。

しかも悪縁は断ち難い。

私たちの人生において、知り合い、わずかでも共に時を過ごす人は地上70億の中のどれだけであるか? たとえば1万人もの友人を持つ人がいたとしても、その友人の数は地上全人口の70万分の1にすぎない。

つまりは、いかなる出会いも奇跡なのだから大切にしよう・・・ということである。そう納得できる人なら、この先を読む必要はない。

・・・・・・・・

まあ、出会いは良い縁ばかりでないのも事実。いや、むしろ、未熟なのが人の本質である以上、悪縁のほうが多くて当たり前だろう。いや、それは本当の悪縁なのか?

長らく友好を続けた相手と仲たがいをするのは、はたして、相手の非が見えてきたからか、はたまた、成長の差がそうさせているのか?・・・人々は、いつまでも良き関係を維持できるものだろうか?

未熟な人間同士が、影響を与えあう・・・切磋琢磨・・・常に正しく生きようとする人は決して少なくないが、知らずに罪を犯すものも決して少なくない。あなたのその判断は本当に正しいか? 今日は正しくとも、明日も正しいと信じられるか?

または。・・・嫌った相手に世話になる日が来ないと、あなたは信じられるのか?・・・そりゃよかった。

あなたが今、幸せであれば、本当の不幸に出会うまでに、無駄なエネルギーを使わずに済むから。なにしろ、味方を減らしたうえで取り組まねばならぬのである。少しでも力を温存するに越したことはない。

・・・・・・・・

おそらくは、あなたの好むと好まざるとに関わらず、いやおそらくは、あなたが好まぬがゆえに、あなたは大きく揺り動かされる。あなたの思惑を超えたところで。

あなたの思惑を超えたものをどう扱うか?・・・私が思うに、敬意を払い、大切に扱うべきではないか? さもなくば(大げさにいえば)問題を拗らせはしないか?

いやなもの、嫌いなものほど大切に扱ったほうが、結局は災難を最小に留めるのでは?

最小とはいえ、きっと耐え難い量であるとは思うけれど。

「好きになれ」とは言わないが、「嫌い」にならないように、平静を保つべきであろう。・・・自らの怒りに焼かれぬために。

・・・・・・・・

人には守りたいものもあれば、意地もある。・・・あなたが相手を打ちのめそうと思っても、なかなか思う結果が出ないものである。

仕組みを知っている人なら、じっくりと解決に取り組む。だが、感情的になった人は結果を焦って拗らせ・・・墓穴を掘る。

出来事はいずれ、倫理や正義に帰結しようが、不完全な人間社会に完成された答えは期待できない。結論は揺れ動き、あなたの掲げる正義が、あなた自身を責めることもある。

正義を急がず、結論は鷹揚に受け止める。・・・今の勝利よりも明日の勝利を大切に。・・・得なれぬものを追いかけるのは、地獄の責苦の一つであると知るべきである。正義が我が身にあろうとも我が魂が地獄にあって、何の正義だろう?

・・・・・・・・

他者と争うデメリットは、当事者には計り知れないほど大きい。

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