‘交霊能力’ カテゴリーのアーカイブ

私に触るな!

2012/04/05

注: この原稿は、数日に分けて編集されます。編集終了後に、この注意書きは削除します。


  問題としては具体的だが、説明が抽象的になるので、言葉で説明するのが難しく思えて、放置してきた問題を取り上げる。まあ、相談されたも事もないし・・・とはいえ、悩みとしては案外多いと思われる事例である。

多分、霊障(ここでは「霊的な障害」を指す。「心霊的な障害」と表現すると心理的な問題まで含まれてしまうので下記とはそぐわない。また、霊的=病気の場合を例外とする。)というと

1, 思考を読まれる、または、干渉される。

2, 行動を抑制される、または、強いられる。

3, 災難 (偶然かも?)

4, 何らかの事象を体験する (気のせいかも?)

等がある。本来なら、行動を強いられることが事故の原因にもなって大問題のはずだが、自身の思考に影響がない限り、当人としては「戦える」と判断できるらしく、一番嫌われるのは、思考に対する干渉のようである。

とはいえ、人間は希望があると無駄にあがき、苦しみを長引かせることがある。病気でもケガでも、自分ではどうにもならない、と思えばこそ、急いで医者・専門家に相談するものを、「寝ていれば治る」等と軽視することで、往々、手遅れになったりする。

つまり、手口の悪辣さからいうと、自力で何とかできそうな問題のほうが、巧妙で逃げ出しにくかったりする。

また、これまた悪辣な話だが、たとえささやかな嫌がらせでも、どうしても抜け出せなければ、やはり自力での解決を諦めてしまうだろう。

例えば、寝ようとすると話しかける。これは迷惑だ。会議中やテスト中に話しかけられるのも気が散る。無意識に返事をしようものなら、立場が危うくなるだろう。

また、入浴中やトイレなど、他の視線が不快なときに声、とくに異性の声が聞こえたら落ち着かないどころではすまない。

または、手で触れられる感触がある、首や脇、さらには陰部に感触があるのは、人間の尊厳に触れる冒涜である。

・・・こういう嫌がらせが続くのは、やはり大問題ではあるが、その嫌がらせが、たとえば、念を送ったり、手で振り払うことで退けることが出来るとしよう。すると、やられたらやり返す、やられたらやり返す、という繰り返しに陥りかねない。

反撃しているつもりでいると、往々、自分の苦しみが紛れてしまって気付き難いが、一方的にやられている時よりも気が散っているし、意識せずに異様な行動を撮り始めたと、周囲に疑われかねない。

しかも、振り払うどころか、真剣に反撃している時ほど、相手の抵抗が強かったりすると・・・要するに反撃可能というのは、いいように遊ばれていることがある。

 

獅子身中の虫

・・・いいように遊ばれる? では、敵はどこに潜むか?

もしもあなたが、いたずらを仕掛けるなら、その結果をどこで見たいか?

または、身を隠し、身を守る上で一番都合のよいのはどこだろう?

相手の後ろ?

相手の上? ・・・または???

隠れるなら、また、仕掛けるのに一番便利なのは、敵の中であろう?

そして、偽の情報を与え、混乱させ、あわよくば、同士討ちをさせる。

さらには・・・延々と争い続けさせ、相手の心が荒むように仕向ける。

 

人を呪わば?

敵と戦う。・・・もしかしたら、いや、多分、それは正義の戦いかもしれない。だが、戦い続けるあなたは、正義を忘れずにいるだろうか?

「とにかく敵を倒す!」・・・手段と目的の混同。それがないといえるか?

ましてや・・・相手の手口も気づかずに、相手に弄ばれていたとしたら、あなたに正義はあるのか?

暴力の言い訳に「正義」という言葉を用いていないか?

多くの、多くの霊能者が「除霊」が必要という。・・・暴力で解決するのか?

多くの、多くの霊能者が「浄霊」が必要という。・・・洗脳が正義か?

戦い続ける「修羅」を生むのが正義なのか?・・・そんな選択は、きっと誰かが悲しむだろう。

あなたは戦い続けて、いつか勝つかもしれない。だが、それは神の勝利となるだろうか?

あなたが勝って(自称)、神が負けたなら、この世は滅びに向かうだろう。

あなたは、この世の滅びに手を貸していないか

 

基本に帰る。

では、どう解決するか、するべきか?

 

まずは、正論が、往々、不快であることに注意すべきだ。

正しいと分かっていても、不快で選びがたい。・・・つまりは、そこに自身の修行の余地があるということだ。

正しい行い、他者のための行いなのに、それを行う自分自身が不快という壁に阻まれる。まして、その苦痛の先にある結果は、相手が向上した果てに与えられるとしたら・・・葛藤。

だが、葛藤が生じるのは、道に迷うがゆえ。・・・ヒヨコのオスメス選別のようなものだ。分かる人には解り、分らぬ人には解らないのである。

だから私は、二者択一の正解は三番目、三者択一の正解は四番目という。

今の答えより明日の正解。今日のベストより明日のベスト(それは往々今日のベター、比較的良い答え)という意味でもある。いや、そうあるべきだ。

 

繰り返すが、為すべき解決法は不愉快なものである。

なぜなら、人間は、その時々で終わらせたいものだからだ。創作者にとって「・・・続く」という結末は、次回への布石、露骨にいえば利益への誘導である。だが、読者にとってはストレスでしかない。

続くの次は続く。そして最後は、「なんちゃって?」・・・誰もがそれを恐れている。・・・人生の多くはそのように振舞うがゆえに。

・・・でも、あえて言う。私が思うに、あの世のことはあの世に任せるべきだ。つまり、不快であるなら尚の事、自ら速やかに追い払おうと思うより、霊たちに解決を任せて自身は我慢すべきだ。

勝つか負けるかではなく、自ら、「戦わぬ」「争わぬ」ということが大切と悟るべきである。

これは例えば、「世界平和に反する奴はとんでもない!!!」と怒るような、戦闘的平和主義者(世の中には案外多い)を見たなら、我が身を振り返って、為すべきを為すべきだ。

勝てるかどうかではなく、不戦こそが、神の道であろう。

 

 

 

・・・続く

霊格の判定 2

2010/10/20

関連; 霊格の判定


 低級霊の除霊法についての質問が複数から来た。

 メールにはそれぞれ返事を書いたのだが、読み返してみると、われながら何を書いているのかよく判らない。解答というより、謎掛けであろう。・・・反省してみると、まあ、私もついついご丁寧に返事をしようと心がけた結果、かえって迷路に踏み込んだ感がある。そのあげくに、私も迷い、いささか下品な用語を多用して返事をしたというのは不毛と言うに尽きる。

 要するには、迷いのある者(低級霊)に真剣に関われば、一緒に迷うことになる、ということである。 これは、霊に限らず、人も同じだ。

 ・・・といえば、「その上から目線がイヤ! 嫌い!」といわれるわけだが、では、同じ目線にたって、悩みを理解したらどうなるのか?・・・一緒に迷って苦しめば満足するのか?

 確かに、一緒に苦しむ人がいれば、一時はいい気分を味わえるらしいが、一人で苦しんでいるのを、二人で苦しめば幸せ、などという、トンマな話を、ここで続ける価値を私は見出さない。その後、皆に自分の苦しみが連鎖していくのを見て、さらに重荷に思うことになるのは、自業自得と切り捨てるのは(少なくとも他人にとって)容易いが、むろん、問題解決につながらない。

 迷う人に必要なのは同行者か?・・・ともに迷うための? ナンセンスだ。

 迷う人に必要なのは道案内(ガイド)であろう。・・・が、道を知る道案内(ガイド)に嫉妬してどうなる?

 迷う人は迷うべくして迷っているのである。それを救おうというのは、論理では無理、ならば、いまさら論じてどうなる?

・・・つまらぬことを。どうせ語るならば志を。

 まあ、迷い人も寂しかろうから、迷うためでなく、癒すための同行者・または伴侶を欲して不思議もない。・・・その場合、上から目線で小うるさいガイドは、打ち解ける対象外であろうのも仕方のないことだ。だが、道案内(ガイド)を不要と考える人ではどこに向うというのか?・・・まあ、良き伴侶を得れば、そこらの小路で行ったり来たりするのも楽しかろう。それを、とやかくいう無粋は避けよう。

 ところで、悪縁は断ちがたく、良縁は切れやすい。・・・道案内(ガイド)は優秀なほど、嫌われればたちどころに去られ、同行者や伴侶は飽き・嫌っても容易に・無傷で分かれることはできない。 好きならばこそ大切にしたいのは当たり前だが、嫌でも大切にしなければならない者を、どう扱うかで、人の価値を量ることが出来るのである。

 好きな者だけを身の回りに置きたいのは人情であろうが、往々、自分さえも好きになれない人が、いったい誰を好くことができるというのか・・・幸せなのは知らぬうちだけだ。知らぬから出来る、それもまた迷い。・・・そして、失うことを恐れて、知ることを拒絶する。それこそ迷い。

 結局、迷う者はしつこくなる。低級霊もしつこくなり、「除霊なんて、拗れるだけだから止めろ。」という話になる。

   出来れば相手にしない。

   相手にするならおだてて扱う。

   時々は脅かす。

   そしてやっぱり相手にしない。


 「3」に続く。

霊格の判定

2010/10/16

 悪縁は断ちがたく、良縁は切れやすい。・・・まず、これを前提に考えてもらいたい。

 身内ならば、馬鹿な子であれ、いや、馬鹿な子ほど大切にする。だが、赤の他人が擦り寄ってくるとしたら何故か。いや別に、「人を見たら泥棒と思え」というのではない。

 子供のいたずらを、その親が見ていない時に周りの大人が叱る、というのは判る。だが、親をさて置いて叱るとしたら、それはそれで問題だ。

審神者《さにわ》

 低級霊をどう見分けるか、を、考えてみたい。

 結論からいえば、あまりにかけ離れた霊を見分けるのは困難である。俗に、何とかは紙一重、であり、いろいろなヒントがあるにしても過信は禁物・・・というより、過信は淘汰の手段であると思うべきだ、それは決して最終試験ではないが、昇進試験ではある。すなわち、過信による失敗は、腰を落ち着けて解決に着手すべきことである。

 また、霊を見分ける手段について、それを霊だけに当てはまると思うべきではない。もしも、私達人間が、霊界通信からその相手の霊格を測らねばならないとしたら、それは事実上、相手の人格を測るに均しい。なにしろ、実力行使があったなら、結果を見ればその霊格が明らかだからだ。

 

実力行使

たとえば、霊感の強い人が、頭痛や、不快感(霊から来ると感じられる)に悩まされていたとする。

「一体、私の守護霊様は何をしているのだろう?(もっと働けよ!)」・・・と思うわけだが。

 だが、立場が違えば利害も異なる。何らかの注意を発したかったり、または、誤った事柄の保証人にはなれないと思われたり。・・・具体的には、守護霊以外との霊界通信、または、守護霊が認めた以外の霊界通信をしているとこういう事が起こる。・・・その結果は関知せず、いや、ここで庇えばさらに悪い方向に行く、と思われるわけだ。

 守護霊が認めた以外の霊界通信(以下「不許可霊信」と表現)の害は大きい。・・・守護霊が無視・・・低級霊が入り放題・・・しかも騙しやすいと思われて・・・集まってきて内輪もめまで始めて・・・収拾が困難になる。

 低級霊を呼び寄せるのは、霊媒、もしくは、霊感の強い人だけではないが、霊感の強い人は悪循環に陥りやすい環境にある。

 

 人格

 ものには言いようがあるはずだ。例えば、緊急性があるなら「ダメ!!」と大声を出すことに躊躇してはいけない。だが、もしも時間があるなら、「ダメ」と相手を否定するより、「こういう方法もいいですよ。」と、代わりに誘導をすることも出来るはず。

 誘導といえば言葉も悪いが、否定よりはましだし、そもそも、人は一般的に否定を拒絶する一方、誘導はやり方次第である。・・・煽てられれば、水火を厭わない人は決して少なくないのだから・・・いや、ただ闇雲におだてろ、というのではない。相手を見て言葉を選ぶことが大切なのだ。

 さらには、受け売り、権威付け、レトリック・・・議論は趣味の一端を担えるかも知れないが、理解できぬからこそ信じるのだ(ゆえにすべての霊を判定できない)、理解できぬのに議論が出来るか? 理解せずに議論するならそれはただの空論である。そして空論を繰り返すのは誰か。古人は、生むより多く費やす者を「穀潰し」と呼ぶ。

 そう、私の手の届かぬ高級霊のことはいざ知らず(実はおもしろいテーマであるけれど)、人(そして霊)の言葉は、創造的な言葉と、消費的な言葉に分けることが出来る。そして、消費的な言葉は語るに値しないのである。

 話題に反して、あえて受け売りを言う。

「噂話は賢者で止まる」・・・見たり聞いたりしたことは、みだりに他者に漏らしてはいけない。それを口にする時には、もう、誰の話でもなく、あなたの話になるのだから。そして人々は、あなたの話を聞いて、あなたの人格を測る。

 霊媒が、霊の話を聞いて、霊格を測るのと同様に。・・・受け売りを言うなら、その結果を甘受する覚悟が必要である。

練習台

 たとえば、霊感の強い人が、自分の得た霊感を第三者に話して鑑定して貰うというのは、むろん自信に繋がるし、大切な練習でもある。・・・さらには、霊感を得ている時というのは往々、一種酩酊状態で、その善し悪しを判断するのが難しいのも事実である。

 難しいからこそ、克服する価値があるし、過ちが多いからこそ、努力の意義もある。

 そもそも、世の人々に霊感のない人はあり得ない・・・もしも霊感が無いなら、その人は死後、何も見えず、何も聞こえず、暗闇に閉ざされて生きるというのか。まあ、そういう境涯の人もあるだろうことは古典的霊界通信に書かれていることでもある。

 誰もが、少なくとも多くが霊感をもっているのに、「霊感が無い」と自称するのはなぜか? ・・・問題は有無ではなく、自分自身が己の霊感を信じるか、どうかにあるのである。それこそ、間違った自信も実力の内であり、それは、自信のなさ故に実力を発揮できずにいる人が多い世の中であればこそ、でたらめが通用するという、心霊の暗部の表れでもある。

 そう。多くの人は、実力があるのに、自信がないからこそ、声援を求めている。それゆえ、声援するだけで何とかなってしまうから、占いが職業として成り立ち、偽霊媒も商売が成り立つのである。それを非科学的と論じる人は間抜けと言うしかない。科学が人々を勇気づけているなら、心霊などと言うあの世のことが、社会の表に出る必要もないのだから。

 そして、声援が必要であればこそ、批判や、体験の裏付けがない受け売りや、単なるレトリックが不毛であると言われ、非生産的であると言われるのである。そして、霊感は有無が問題なのではない。その質が大切なのである。

 

 

 

 

その問は迷いの表れ

2010/08/16

 東京オフ会のあと、食事をしながらよもやま話をしていて、私はどうも深い森の中に迷い込んだ気がしていた。

「心霊主義では、魂は永遠の修行中なのだから、たとえ間違った行いをしても、魂の向上につながるのですよね。」・・・確かにそういう思想ではある。が、どうもその昔に、同じような話を聞いた記憶がある。

 私は、「何も進んで過ちを犯す必要はないでしょう?」と切り返し、相手はそれにハッとした様子ではあるが、また、同じような論点の話を始める。数カ月前に辛い思いをしたと知っているから気遣ってあまり深く矛盾をつくこともせず、また、他にも参加者がいることでもあって、私はその話にあまり深入りしなかった。

 が、帰宅後、考えて見れば話がおかし過ぎるし、なにより、会話中、深い森をさまよう感覚があったのも暗示的である。 この話を霊たちは相手にしていないのだろう。

 そもそも、『間違いも魂の向上に役立つ』というのは、慰めの時に使う言葉であって、自分の行動を正当化するときに使う言葉ではない。まして、自ら進んで言うなら、巻き込まれた人から見ればいい迷惑、というより、確信犯なら犯罪行為と呼ぶべきだ。

 さらにいうなら、当人にしたところで、過ちでありそうなら、慎重に是非を判断すべきであろう。なにしろ、対人関係のWin-Win関係ならぬ、Lose-Lose関係である。自滅行為どころか、周囲にも被害をもたらす破滅行為である。

 当人にすれば周囲にも眼を配っているつもりが、結局のところ酔っぱらいの千鳥歩きと同様っであろう。・・・なんども同じ話を繰返すのも、深夜の飲み屋の光景に似ていなくもない。

  下手に同情してその時はいえなかったが、帰宅後に確信した。まさにあれこそが「迷い」である。


 迷いといったって、例えば初めてのデートに着ていく服を、赤にするか、青にするか、黄色にするか、という迷いではない。 その迷いの結果、対局を失う・・・当人は、小さなことでも、真面目に悩んでいるのだろうが、小さなことに悩むあまり、大きな問題を見過ごすなら、それは大きな迷いというべきだ。

 洋服選びの結果としてデートに遅れては相手の心象を悪くするだろうし、待たせても構わないというなら、それもまた、人として歩む道が間違っている。または、遅れを取り戻そうと焦って事故のリスクが増えたり、汗をダラダラかいて行ったり、というのが果たして好都合かどうか。

 たとえ小さくても考えるに値はしよう。だが、まずは大局から片付けていくべきであろう。


 本当は何をしたいのか。・・・それとも本当はどう成りたくないのか。

 そりゃなるほど人生の一大事に関する悩みであろう。だけど心霊の問題ではない。

 いやまあ、友人として話を聞かなくもないが、それならばもっと論点を整理すべきだ。それが出来なければ、誰と話しても拗れるだけだろうし、何よりも自分自身で整理が付くまい。・・・それとも整理したくないのか。

 もしもそうなら、その悩み、疲れはてて忘れてしまうまで、解決する機会がなさそうであるし、忘れてしまえば、なおのこと解決しないのではなかろうか。

 迷いというのは、問題が難しいというより、解決が難しい。

霊感と霊障

2007/04/12

2007年04月12日


霊障に苦しむ人がいるとする。――おそらく、一般の人々が考える対処法は、悪霊・低級霊を取り除くことだろう。ナンセンスだが。

なぜ入り込んだのか? ――心を家にたとえるなら、ドアなり、窓なりが壊れているのである。それを直さなければ、追い出しても一時的な対処、泥棒が入らなくても雨風が素通りする。そして心霊知識の不足している人には思いもよらぬかも知れない……神経質になった人は、風音や雨音も声に聞こえるのである。

もう一点、非常に困ったことがある。ドアや窓が壊れていないのに、風音や雨音に神経質になっている人はどうなるか?――つまり、霊障が無くても霊障を受けていると思い込んでいる人は、除霊では救えないのである。

この事では更に困ったことがある。――何らかの事情で、自分に霊感が備わっていると良いのだけど、と思っている人が、霊障もないのに自分が霊障であると信じた場合である。霊障があるといわれたくて霊媒通いをしたりする。

清潔好きな人でも、その体内には大腸菌などを抱えているのと同様、霊媒が見れば、未浄化霊の若干を引き連れない人は居ない。その様な未浄化霊は大抵の場合、いわば人としての見習いであって、見習いすら持てぬ人は人として飛んでもなく未熟と考える方が良いぐらいだ。……当たり前すぎて、神経質な霊媒からはわざわざ隠されるぐらいである。

・・・・・・・

一度、霊障に苦しむと、霊感が開いたのと同様、それを再び閉じることは非常に困難だ。それは、泳げない人が溺れて泳ぎを覚えているのに似ている。本来誰にでも備わっている霊感が、ただ、発揮するチャンスがなかったために使い方が判らず、結局、交霊できなかったものが、たとえば霊障であろうとも、交霊経験を持つことで、自身の霊障を切っ掛けに霊感の使い方を覚えてしまうのである。

実際の所、霊障に苦しむのと、霊感が開くのとでは、違いはただ憑依・通信相手の霊の格の違いでしかない。つまり、迷惑な霊と有益な霊との違いだ。

だからこそ、職業霊媒は訓練で後継者を育てることも出来るし、霊媒の友人。知人に霊感が開くのも同様である。だが、一度泳ぎを覚えた人に、忘れろというのが無理なのと同様、霊感が開けば否応もなく、霊との交通が始まる。その新米霊媒の霊格が充分に高ければともかく、悪霊・低級霊しか懸ってこなければどうなるか、ということである。

そう、大きな問題が、その開けた霊感の通信相手の霊格である。優良な相手で無ければ霊感が開くのは地獄のフタが開くのと同じである。霊感を開くつもりで、霊障を受けては意味がない。――いや、そんな状況があり得ることを知らない人が多すぎる。

心霊知識を真面目に学ぶ人ほど、霊感を得ることの危険と難しさを考える。そして、自身の霊感を知るものはどうすればよいかを考えるが、おそらくまともな選択肢は、ちゃんとした霊媒になることだけであろう。だが、安易に霊感を欲しがる人はいつまでも夢を見続けるか、さもなくば、現実の厳しさを知ることになる。

結局……何を求めるかではなく、誰が、いかなる存在が、あなたに応じるか、なのである。多くを期待すべきでない。何となれば、あなたがそれに相応しい人なら、そうなるであろうし、相応しくないなら、努力しても拗らせるだけだからだ。


迷子

2005/05/18

 勝手気ままに、右に曲がり、左に曲がり……そんな走り方をして、一体どこに着くというのか? 行き先どころか自分の所在地すら見失いかねない。

誰がそんな事をするのかって?

 あなたは人生をどう生きているのか? その場その場で好きなことに手を出し、嫌なことから逃げ出して。

・・・・・・・

 負けず嫌いは、失ったものを貶す。……「あんなくだらないものを私はいらない。」

 本当に不要ならば、黙って去るだろうに。

 援助が必要だとしても、当人がいらないと言えば、誰が無理強いしてくれるのか?

 努力しても手に入らぬものが多いのに、いらないと決めつければ手にはいるはずもない。

 負けず嫌いをいう。――それも人の好きずきだ。だが、自分を騙し、騙された自分は幸せになるのか?

 手を伸ばして手に入らず、もうあれもいらない、これもいらないと決めつけて、最後に何が残るだろう?

 必要だけど、不要なもの。――そんな葛藤ばかりを増やしていく。

 当人は幸せだ。欲しいものに振り回されるもの無く、誇りを持って生きられるから。

 ……だが、態度に不平不満がにじみ出ている人を、周囲の人々は不幸と呼ぶだろう。 


2005-05-17

霊媒とは何か?

2004/12/17

霊媒とは何か?

2005年 01月 20日

 突然開いた霊感に戸惑い、苦しむ人は多い。私もその経験者であるし、横の繋がりからそういう話も多々聞く。自分も一人で苦しんだからなおのこと、同じ苦しみの持ち主を見捨てておけないという思いもある。

考えても見て欲しい――トラブルに巻き込まれたとする。それは不可抗力か、それとも扱いを間違えたが故であるのか? いずれにせよ、こうはいえまいか。正しい知識を持たなかったから拗れたのだ、と。確かに心霊的なトラブルは、無知が事情を拗らせている場合が多い。

例えば、遺伝的に霊媒能力を受け継いだ人であれば、親なり祖父母なりから適切なる心霊知識を学び取れるかも知れない。しかし、世間に流布する心霊知識のうち、興味本位・実用本位のいずれかが多いであろうか? 需要と供給の関係で考えてみればよく分かる。親戚知人に霊媒がいないのに、突然霊感が開いてしまった人々は、迷信や妄想、または、興味本位で創造されたフィクションの海の中から真実を掴まなければならない。さらに、困難さをもたらすのは、マンガやテレビによって刷り込まれた、興味本位活実用無視の心霊常識である。警戒心を持って学び始める前に知っていたデマは、容易に頭から追い出すことが出来ない。かくして、霊媒初心者は迷信の中で彷徨《さまよ》うのだ。

そもそも、「霊媒とは何か?」その事すら正しく理解せずにいては、霊媒(能力を持つ者)であることが苦しくて当たり前だ。……だが、人々は霊媒をなんだと思っているのだろうか?

「神に与えられた才能をもっているのだから霊媒は善良で当たり前」等という馬鹿げた妄想に騙されてはいないか? 善良でなくても良い人間なんて独りもいない。だから「霊媒だけ特に善良であるべき」と、主張する者がいたらその下心に関心を向けるべきか、距離を置いて関わらぬようにすべきである。

その他にも、「霊媒の真偽を見抜くには当て物をさせろ」、「百発百中で当たり前」、「いつでも霊査が取れて当たり前」、「困っている者を無料で助けて当たり前」……等という意見に惑わされてはいけない。

そもそも、霊媒とは、霊との媒介をする者を意味する。省略されてはいるが、正式には「霊と人との媒介」である。くどいようだが、霊と人との間に立つのが霊媒なのだ。それはつまり、 人間の都合と霊界側の都合をすりあわせ、その妥協点を見いだすのが霊媒の真の義務である。それなのに、迷信に迷わされて、霊を見たら有無をいわさず、また事情を斟酌せず、ただちに除霊したり、毛嫌いしたり、はたまた、人間の都合ばかりを重視して、背後霊の好意に甘えて、次々と当て物させたり、くだらぬ仕事を背負い込ませ、休ませもせず、他人の苦労まで背負い込んでしまえば…… 人間・地上側の御用霊媒にいそしんで、霊界側から見捨てられなければ感謝し、罰(自業自得の報い)が当らなければ幸運と思うべきだ。ここで夢想的な妄想に取憑かれてはいけない。超常的な力を持っている霊達なら、そういう条件の悪さをはねのけられる……かも知れないが、地上の人間の心に巣くい、人を不幸にしているのは社会の矛盾などではなく、その人本人の心に内在する葛藤なのだ。強い力があればなるほど困難を打ち破る事も出来るだろう。だが、葛藤を力押しで解決しようとすればますます苦しみがますのである。

金儲けが霊媒の使命ではないし、迷信の流布は慎むべきだが、人間、特に身勝手な人間に奉仕する義務は霊媒にないし、勝手な義務感に守護霊・背後霊を巻き込むことがあったら、それはタコが自分の足を喰うようなものである。すなわち自滅への道だ。

霊界の従僕になるのも社会的な破滅に繋がるが、そもそも霊媒の悩み事、特に霊的な悩み事に対して、解決力を持っているのは霊界なのだ。地上のご都合主義的な心霊思想に惑って、縁も縁もない他人に使い潰されぬように注意すべきである。

少々の揺らぎはさしたる問題ではないが、地上にも、霊界にも、双方に押しが強くなるまで霊媒の苦悩は続く。


霊感の質を考える

2004/03/17

2004年 03月 16日


すべての人に魂が宿っているというのが心霊の立場です。そして魂は他の魂とコミュニケーションする力がある……だから、交霊が可能なのです。だからすべての人が交霊できるはず。

実際には、生きている人々は心忙しく生きている為に、地上の事々は見えても他の魂を感じる心のゆとりを持っていません。また、肉体が魂の感覚を鈍くする事も知られています。ですがやはり、誰もが多少の霊感を持っている事を心霊研究は肯定します。

この事を、絵画の才能にあてはめて考えてみましょう。

売り物にしたり、贈答品に使える絵を描くには才能が必要でしょう。素人の絵などは貰っても迷惑ですし、売り物にされたら腹が立つかも知れません。しかしながら、才能が無くても技能を積めば、建築図面等の作成も出来、その需要は絵画よりも多いものです。まして、絵が下手であっても、人の為に自宅の案内地図を描くぐらいは誰でもしますし、自分で用いる為のメモを書くのに、才能云々をいわれる筋合いはありません。

霊媒だって同様。博物館や図書館にその実績が永久展示されるような霊媒ばかりに需要があるわけではありません。需要で考えるなら芸術的絵画よりも技術図面などの実務的な画により多くの需要があります。そして、個人的な用途に限るなら、わざわざプロや他人を頼るよりも、自分でささっと書く方が実用的です。

世の中には、人にはそれぞれ様々な役割があることを理解せずに、『永久展示クラスの霊媒以外は霊媒ではない』という素人判断もまかり通っていますが、実用的な図説が必要なだけなのに、芸術家をさがして……いや、一流の芸術家に図説を頼めるのならばそれは結構なことですが、見つからないのは滑稽でしかありません。

また未熟な霊媒が危険だというのも、後任の指導に責任を持つ人がいうならば意味がありますが、無関係な者がいうのは来世に渡る罪を成すことです。そもそも霊感も含めて人の能力には、先天的なものと後天的なものがあります。未熟ならばなおのこと練習のチャンスが必要ですし、心霊学を学べばこそ、先天的な才能が前世や背後霊との縁が浅からぬ事を知っているはず。つまり、今生では才能の目が出なくても、来世の為の修行を怠っては永遠に目が出ないことになるのです。

未熟だからとやたらに練習せよというのではありません。しかし、むやみに練習のチャンスを奪うことは相手の来世を汚すだけでなく、自分の来世も罪で汚すことと思うべきでしょう……思ってもなお止めないのはその悪心の強さであります。

・・・・・・・

 ……にしても百年前の先達らの活躍を書籍で読んで思うのは、あれだけの努力と実績があってもなお、世の迷信が払拭できない冷酷な現実です。心霊研究は一〇〇年近く昔に、たとえば空中浮遊するテーブルを支える支柱をしっかりと見つけ、その成分を調べる所まで進んだというのに、『支えもなくテーブルが空中を飛ぶか、トリックだろう』等という滑稽な否定論を繰り返します。『迷信の心霊』を否定するといいながら、『心霊の迷信』を否定していることに気がつかないのが心霊否定論の現実です。

ではどうすれば世に正しい心霊知識が普及するのか……事実に基づいて考察すべきです。そもそも心霊研究は、地上に人間の都合のみでは進みません。『顕幽一如』……地上と霊界の双方が息を合わせ、互いに協力し合ってはじめて研究が進みます。そして現代は日々急激な変化が見られ、価値観も大きく揺り動いて安定が望めぬ時代であります。こういう時代において、心の更に奥深いものを研究対象とするのは、必要ではあっても困難といわざるを得ません。すると、私などの役割は、次の世代、または、そのまた次の世代にと、先人達の偉業を伝えていくことなのだと思います。偏見や過ちを拭って知らぬ顔をするのでなく、付け加えるものがあってもなるべくオリジナルをそのままに……そして、トップを狙うのではなく、脱落せぬようにマイペースを心がける。いずれ心霊研究を飛躍的に進歩させる突破口が現れるまで、忍耐は続く……というよりも別なことで楽しまれた方がよいでしょう。それが長続きの智慧ですから。


正しい霊媒の見分け方?

2004/03/17

 心霊サイトの定番的題材の一つに、『正しい霊媒の見分け方』なるものがあります。霊媒を自称する私が、良い霊媒の見分け方を書くのも手前味噌で滑稽ですが、「『霊媒の見分け方』の見分け方」をなるべく論理的に考察してみたいと思います。

 

1,人を騙すのに霊感は要らない。

 まず、第一に設問が適切であるかどうかを考えなければなりません。実をいえば、そもそもこの設問からして矛盾を孕んでいます。

『人を騙すのに霊感は要らない。』 そう、設問は、「偽霊媒の見分け方」も目的に含まれているわけですが、人を騙すのは霊媒だけとは限りません。つまり、非霊媒の自称・心霊研究家、または心霊フリークがあなたを騙さないとは限らないのです。

 むろん私も、世の中に心霊詐欺が多数あることは知っています。ですが、プロとアマチュアと一体どちらの言葉がより信じられるでしょうか?

 心霊のプロフェッショナルを自称する人が信じられない事は判ります。でもそれは心霊のアマチュアを信じる理由にはならないと思います。

 

2,批判だけなら誰でも出来る。

 あなたが道に迷い、誰かに尋ねたとします。

 『いったことはないけれど、たぶん○○にある……』という意見を信じますか?

 まるで手がかりがないのならば、取り敢えずいってみるのも良いでしょう。

 しかし、

 『いったことはないけれど、たぶん○○には無い……』といわれたら、その意見が参照に出来ますか? どこにあるか判らぬ捜し物を消去法で探して歩く。気が遠くなる話です。

 心霊詐欺が横行するのは、一般の人々が心霊を得体の知らない、確証の掴みがたいものと誤解しているからであります。答えを求めて、『知らないけれど、○○には無い』といった明快で空虚の答弁は心霊詐欺の手口でもあります。こういうナンセンスな解答に納得していたらそれこそ騙される為に霊媒を捜すようなものです。そういうあなたの錯誤を正せる人の意見こそ耳を傾ける価値があるはずです。

 

3,価値を知らぬ者

 『昔はいい霊媒がいたけれど、今は紹介できるような霊媒はいない』まあ、事実ではありますが……結果と実績だけでしか才能を計れぬ、実務経験の無さが見て取れる空虚さがあります。つまり必要なのは完全無欠の霊媒ではなく、相談者の悩みを解決するのに充分な霊媒なのです。『今は紹介云々……』は、門前払いの常套句ではありますが、果たして適切に使いこなせる人がどれだけいるのでしょう。

 

 そもそも、霊媒の善し悪しを語るのに、霊媒のなんたるかを知っている人がどれだけいるのでしょうか。たとえば絵描きもに、美術館などに永久展示されるような一流の絵描きもいれば、大量に浪費される広告用の挿絵画家もあります。また個人的な用途ならば、絵の才能が無くても下手なりに自分でささっと書くのがむしろ当たり前。

 霊媒だって同様です。博物館や図書館に保存されるような仕事をする霊媒もいれば、個人相談にふさわしい霊媒もいる。また、自分の世話なら助けを借りる必要のない霊感保持者も世の中には決して少なくはありません。

 それを適材適所に生かす知恵も持たずに、良い霊媒がいないというのは、『牛刀をもって鶏を割く』のに等しい愚かさがあります。……こう未熟な知識に振り回される人と、自称霊媒に騙される人と、果たしてどちらが多いのかと思うと世間の不幸の厚みを嘆かずにはいられません。

 

本当の問題

しかし、本当の問題は別な所にあります。結局、何が正しいのか自分で判断できないことを、杜撰な論理を参考に信じようとする。その危うさです。その危うさはあなたを危険に晒しても幸せには導きません。

 困ってから探す――泥縄という言葉の滑稽さをご存じならば、今成すべき事は一つです。


霊媒の善し悪し2

2005年 07月 10日

今朝、師と電話で話した。特に相談したわけでもないのにこの話題になった。

「礼儀正しくせずに、霊査に不満ばかり言っている。そんな心掛けで誰(霊)が助けるものですか。」

・・・・・・・

『まずは礼儀を正しなさい。精神統一を行うのにも、まずは場を清めて、背後の霊達に礼拝し、その上で行うことです。礼儀を正せば、自ずと心の居住まいも改まります。そうすれば霊達も答えてくれます。自分の心の居住まいを正さずに、霊査の内容や、加護の弱さに不平を抱いているようでは、その心の過ちを正すまで霊達に抛っておかれます。』

 良い助言が来ないからと言って、その原因を霊媒の能力・才能の不備に求める人は多い。だが、誰もが同じ境遇を得られるはずもないのは、人間が様々な環境・境遇下に生まれてくることを見れば分かるはず…… そもそも霊媒に頼らなければ霊達の加護助言を受けられぬ事すら一つの境遇の違いであるのに。

 自分を変えようともせず、不平不満をひたすらに口にする。その不平不満が自分に呼び寄せる物をなぜ想像しようとしないのだろう? 

 逆境を乗り越える気概の持ち主は、人の不平不満や愚痴を聞くことを嫌うし、意気地のない人は、不平不満の無い場所では居心地悪く感じるものだ……だから地上でも住む世界が別れていく。愚痴を嫌う者と愚痴を好む者とは水と油のように共には暮らせない。

・・・・・・・

 満ち足りた境遇に移り住みたいのであれば、その為には他の助けを必要とするのであれば、まずは自分の愚痴を減らし、人の愚痴にも迎合しないように勉めるべきだ。つまり、救いを求めるのであれば、救える人々や霊がいる境遇に近づくことが必要なのである。

 飢えているならばこそ、満ち足りた人々の中に飛び込んでいかなければならないのに……わざわざ、飢えた人々と共に群れようとする……そこには惨めさがなくても、実現の手段の乏しい選択である。

 居住まいを正す。――自分が、そうありたい境遇と思う境遇に、まず自分を近づけることが大切だ。

 思えば叶う。――心霊力を人生に導入するために必要なのは、心の居住まいである。その心の居住まいを正すのには、まずは礼儀正しくあろうと努力することだ。

・・・・・・・

不平不満に責任転嫁……それが誰を遠ざけ、誰を呼び寄せるのか。蒔いた種は我が身に戻るのである。


霊の本質(加筆予定)

2004/03/13

2004年03月12 日


・・・霊魂の組成に関する質問を時折受けます。そこには非常に根の深い誤解がありまして、間違った前提の上に考察を重ねては、出るはずの答えも出なくなります。・・・

 霊魂には重さがある……か?。

近日公開予定(掲載当時)の映画「21グラム」の広告に、「命が消えるそのときに、人は21グラムだけ軽くなるという。 」とあります。確かにそういう研究結果が過去、それも百年ほど昔にありまして、心霊著作集の、 参考文献: 淺野和三郎著「精神統一と第六感」 (三) 心霊から観たる人間  ……中にも、「死に際して体量が約2オンス軽くなる」という記載があります。しかし、2オンスはグラムに換算すると約60グラムとなります。また、近年日本で追試験が行ったが体量変化は見られなかったといいます。……映画のタイトルの「21グラム」はおそらくは語呂・語感から選ばれたもので、心霊研究の裏付けはないと思われます。(実は他の研究があった)

さて、霊魂には重さがあるのか否か、この問題を考える前に、まず霊魂の意味を整理する必要があります。その為にはまず、誰もが感じ取れる「心」を叩き台に考えてみましょう。

果たして心に物理的な重量があるでしょうか? または重量を量る手段があるでしょうか?

少なくとも心を科学的に検知する手段はありません。たとえば脳死患者や、いわゆる植物人間と呼ばれる人に心があるのか、否か……映画「21グラム」はどうやら臓器移植に関するテーマのようですが……心は肉体という表現器官を通じてのみその存在を認識できます。従って、肉体の無い心は科学的に認知できず、また、心のない肉体も検証手段がありません。つまり、肉体の無い心は無いと考えれば、人間の体重はそのまま心の重さと見なせます。と同時に、心だけの重さを量る手段はありません。

ここで私が申し上げたいのは、意識・心・精神等と呼ばれる情報的な存在は、肉体などの物質的な存在と同列(同次元)で考えることが出来ない点です。
たとえば、フォーマット済みのフロッピー(記憶媒体)または書き込み前のCD-R(記憶媒体)の重さと、データを一杯に書き込んだ後徒で重量の変化が起こるでしょうか? 摩耗などによって使用後の重量が微妙に減るかも知れませんがその重量の変化は情報量を意味しません。

これを前提に考えてみて下さい。霊魂(死者の個性…意識)に重量があるか否か?……意識の媒体、意識の表現手段に重量はあるかも知れないが、意識そのものには重量が無いと考えるべきでありましょう。

つまり、霊魂に重さがあると考えるのは、心霊研究的、論理的に考えられぬ事で、重量があるとすれば、それは「意識の媒体」であります。

 意識の媒体

さて、問題の「意識の媒体」ですが、霊媒を通じたリサーチによると、「肉体」(当然ですね)、幽体霊体の三重になっていると言われていますが、霊体よりも深層に別な媒体が無いとは言い切れません。また、淺野和三郎氏は復古神道の影響から、肉体、幽体、霊体、真体の四重構造であり、真体は霊媒の感知能力を超えているから観念としてだけ知られていると主張しました。しかしながら、浅野氏のいう真体なるものは情報媒体ではなく、情報体そのものを指すと考えると霊媒の観察としっくり合います。

ただし、ここにもう一つやっかいな問題があります。私の師などは、「神様は光そのもの」といってはばかりません。これを要するに「高級霊はその雰囲気から光として感じ取れる」(「光そのもの」ではなく「光の様な」)という言い換えに合意してくれると話は楽なのですが、科学思想のバックボーンの違いか、「『光の様』という曖昧な答えではなく、『光だ!』」と主張して譲りません。実際、毎日、朝日を拝んでいますが……電球は拝みません。人間が努力しなくても朝日は登りますが、努力と手入れを忘れたら電球は消えてしまうのですが……

整理しますと、実体(媒体)は不明ながら、実相は「光」として感じられるのが高級霊だと考えるべきでしょう。ちなみに、人間の見掛けも光を媒介して知覚できるわけで、光がまるでなければ視覚的に知覚することは出来ません。ですが、人間は光そのものではあり得ません。また、当然の事ながら、実相・表現にも重量や組成はありえません。……というわけで、異論もありますが、基本的には、意識の媒体として、肉体、幽体、霊体の三つがあると考えて良さそうです。

 媒体に重量はあるか。

意識の三つの媒体の内、肉体に重量があるのはいうまでもありません。残りの二つですが、霊体については物質的な性質が皆無であり、幽体は物質・非物質(霊的)二つの中間の属性があるとされています。

この幽体の、物質・非物質の二つの中間というのが判然としにくいのですが、常時中間という曖昧的な存在ではなく、ある時は物質、ある時は非物質的と二種類の相を行き来するものとされています。

この幽体に重量があるとすれば、たとえば「東京…大阪二カ所の霊媒がほぼ同時刻に同一の霊と交霊することが出来た」という交霊実験が説明できなくなります。電話やインターネットで見るように、光や電磁波を媒体とする情報と見なせば決して不可思議ではありませんが、仮に霊魂の重さを60グラムと見なして、それが東京大阪間を数秒ないし数分で移動するならその運動エネルギーはいかほどになるのか、もし途中で何かにぶつかったら大事故が起こることでしょう。そもそもそれだけのエネルギーがどこから来て、何が受け止められるのか……霊魂そのものも科学的に認知することは難しいでしょうが、東京大阪間を一瞬に行き来する物体という観念の方がもっと理解しがたいものです。

しかし、同時に幽体は重量を持つことも知られています。具体的には、幽体そのものに重量があるのではなく物質を吸い付けることで力学的な仕事をするのです。

たとえば、物理霊媒による様々な実験時にエクトプラズムと呼ばれる一種不可思議な素材がテーブルを持ち上げたりすることが報告されていますが、(いわゆるテーブルの空中浮遊現象等というのは、なんの支えも無くテーブルが浮き上がるのではなく、不可思議な支柱に支えられて浮かぶのです。)エクトプラズムは、ある時はガス状で、必要に応じて一瞬に硬化し、変幻自在、堅くも柔らかくもなると伝えられます。

このエクトプラズムは、人間の体から抽出した様々な物質が使われていて、分析するとほとんどが水分で唾液に似た成分構成、顕微鏡で見ると白血球なども見えたそうで、霊媒によっては、物理実験中何十キロもの体重減量が見られ、実験後にはまた戻るということを繰り返したそうです。

参考文献:淺野和三郎著「心霊研究とその帰趨」 九、卓子浮揚並に物品引寄現象

さて、この幽体の性質を考えると、死の前後で体量の変化があることが、すなわち霊魂(またはその媒体)に重量がある事と繋がらないことが見えてきます。むしろ私はこういう仮説を立てております。

霊魂実証実験に応じた、患者とその家族は、おそらくスピリチュアリストであったろう。すると、患者は死の直後に一般人よりも強く、何らかの挨拶・合図を周囲に残そうとしたのではないか。その動機が微力ながらも物質的霊媒能力を発揮して、有力な霊媒の数十キログラムという量にはとうてい及ばないまでも60グラム前後のエクトプラズムを成立させ、それが体量の変化に繋がったのではないか……

現状では確認の方法もありませんし、実験方法に無理があった、というのが一番ありそうにも思えますが、一応、こう考えると、追試験が成功しない点も納得が行きます。

 補足…応用

一般の人々が心霊を論じる時、往々にして情報媒体と情報とを混同しています。これはまるで生のCD-Rとデータ記録済みのCD,CD-ROMを同列に扱うようなもの……必要なのはディスクなのか、書き込まれた情報なのか、どちらなのでしょうか。

または、生きている人と死体とを同列に扱うようなものです。

音という信号(本質)は、空気(ガス)も水(液体)も固体も媒体にして伝わります。しかし、空気を指して音とはいいません。また、音は、光や電磁波に変調して遙か彼方に伝送することも出来ますが、光や電磁波が音であるとはいいません。同様に、質量を伴おうが、光を伴おうが、ガス状の姿を伴おうが、それが霊魂であるとは言えません。

そして、世間では、白いもや状のものが写っている写真を「心霊写真」などと表現しますが、上述のように、意識と媒体とは明確に区別されるべきで、なんの意識、または意図、表現などを読み取れないものは、いかに不可思議であろうとも心霊写真とはいえません。実際、吐く息が当たり前に白くなる場所で撮影した写真が多いのもそれを裏付けています。

霊魂とは、ガスなのか、光なのか、その他の電磁波、素粒子なのか……そのどれもがただの媒体であり、表現手段であり、霊魂そのものとは言えないのです。

……媒体抜きの意識はどうせ読み取れないのだから、媒体を霊と見なしても良いではないか?
いえ、意識無き媒体もあるのですから、やはり媒体と霊とを混同できません。


,

お知らせBy老神いさお。

・スマートホン
iPhone/Androidで閲覧時に、最適化したページが表示出来るようになりました。よろしければ、ご感想をお寄せ下さい。

・サイト再構築中
移行途中のデータが時折、トップページに掲載されますが、編集作業の都合ですので、今しばらくご容赦ください。旧作については、本文右上に日付が記載されます。

・ページ更新
 現在:1056㌻
 復旧予定: 残り480㌻位・・・

老研カレンダー
5月 2017
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293031EC
6月 2017
 1234
567891011
12131415161718
19202122232425
2627282930EC
老研イベントリスト
  • No events.
みにみにぶろぐ
  • ・原発全廃
  • ・その後悔の帳尻が合う生き方をしているか?
  • ・我が国だけが原子力を全廃しても、隣国が原子力発電を推進すれば、危険性は無くならない。
  • ・生きるとは生むことである。
  • ・いろいろなる不平不満はあるだろう。だが人は歩んでいる。
  • ・与えられる事を当たり前に思っている者が飢える。
  • ・なぜ、争うのだろう? 事態はただ現実への妥協を求めているだけなのに。
  • ・ 見せられると信じたくなる
  • ・豊かな者は足りぬものに気が付かず、知りたる者は、知らざることに気が付かぬ。……
  • ・ 心に不満が生じるのは、あなたが焦っている証。もう少しゆっくりと生きなさい。

More »

サイト内検索
アーカイブ
サブ・サイト