‘心霊研究’ カテゴリーのアーカイブ

中身を知らない(信仰心)

2006/04/16

2006年 04月 15日


 時々、聞かされるたわごとであるが、神様が助けてくれないなら、悪魔信仰をする……当人はそれなりに真剣なのであろう。だが、真摯な信仰者は、こういう発想を、「御利益信仰」と呼んでいる。当人は神を信仰しているつもりでも、傍目からは見えるのは、御利益を得ることが第一義であって、神も悪魔も、無論仏も、御利益の中継ぎ役でしかないのである。

 端的に言えば、最初から御利益を拝んでいるのであって、神も、悪魔も拝んでいない。徹頭徹尾、御利益宗の信者であって、神も悪魔も御利益大神の眷属扱なのだ。ならば、神様の代りに鰮の頭を拝んでもたぶん状況は変らないだろう。

 これがたとえば、霊障に苦しんでいる人が一時囚われる妄想としての悪魔(悪霊)信仰は更に屈折している。ようするに神様が助けてくれないなら、悪霊に降伏してしまおう、という発想だ。……だが、悪霊は降伏を強いているのではなく、肉体の支配をもくろんでいるのである。つまり降伏などというのは一方的に抵抗を止めるというだけであって、先方がそれに従う必然性を持ってはいない。

 いや実際問題として、悪霊に降伏しようか等という発想は、高級霊等からの試練……覚悟を試されているのが本当だろう。道義よりも利益に色目を使いがちな人に与えられる試練である。

 ところで、この話題に(内々)興味を持つ人にとって、一番の関心事は、「何を信仰すべきか」というテーマかも知れない。これは浅野和三郎氏の著作などを見れば、「邇々藝命《ににぎのみこと》であるべき」と繰返し書かれているが、試してみて欲しい。邇々藝命信仰をして何らかの手応えを受ける人もいれば、受けない人もいるだろう。……同じ信仰対象を持っても、その効果に差があることが、一部の人達を無神論に傾けさせる原因ではないか。おそるべきは人の妬みなのである。

 だが、同じ信仰対象を持っていても、人それぞれに異なるものがある。その人々の境涯、そして、信仰心の在り方だ。この問題に気が付いた人は古今数多いが更に困ったことに信仰心は、目で見て比較が出来ないことである。

 ならばいっそ、どういう心境で信仰したときに手応えが強いのかを研究してみれば良さそうなものだが……無論、私はやっている。精神統一だ。心を静めて祈る。その祈りに手応えが感じられるのは自分の心がどういうときであるのかを常々内観している。

 その上で思う。信仰対象が大切なのではない。自身の信仰心、もっと砕けた言い方をするなら、敬いの心が大切なのだ。

・・・・・・・

 ところで、私は、朝、目が覚めて起きあがるまでの数分間、寝ぼけた状態から意識が目覚める間に本を読む習慣がある。今朝読んだのは、下村湖人著 「論語物語」だったが、ふっと感じるものがあった。

「現今では、親を養ってさえいれば、それを孝行だといっているようだが、おたがい犬や馬まで養っているではないか。孝行には敬いの心が大切だ。それがなかったら、犬や馬を養うのとなんの択ぶところもない」

・・・・・・・

 この問題は、同時に恋愛問題にも当てはめられるだろう。浮気を繰返す伴侶は、真の愛を抱いているのか……多くの人は「浮気な愛」を否定するだろうが、問題は敬いの心の有無であろう。

 いわゆる信仰の中には、依存心の強いものと、尊敬の念の強いものがある。
 いわゆる愛情の中には、依存心の強いものと、尊敬の念の強いものがある。

 信仰も、愛情も、孝行も、ただそれだけに価値があるのではなく、その成分が大切であり、その特に重要な成分は、一般に「敬い」といわれているものだ。……呼び名が同じでも成分が異なれば性質も異なるのである。

 成分を知らずに本質を知っていると錯覚し、呼び名にこだわり、呼び名に騙され、意味が分らぬと途方に暮れる。

……なぜ分らないのか? 理解せずに理解を求め、不器用さを「自分らしさ」と言い訳し、周囲への愚鈍さを「我侭だから」と開き直ってみる。… …他人の同情なくして生きらぬ、依存の強い生き方をしているのだから、分るはずもない。


日本的信仰生活

2006/04/16

2004年07月10日・心霊研究掲示板
2004年08月15日・加筆修正

 

 日本人は、クリスマスを祝い、新年には神社に行き、葬式は仏式……と、節操のない宗教観の持ち主であると、日本人自身が思いこんでいますが、これは日本人の宗教観が逆に健全であるからだと私は思っています。

 そもそも、宗教宗派に拘るというのは、まず最初に、信仰対象があり、その信仰対象をどう称えるか(卑屈にいえば、どうおもねるか)を考える結果だと想うのです。それに対して、日本人の本来の宗教観は、先に信仰心……すなわち、超越者・先駆者に対する敬意の念があり、その敬意の念の表現方法として宗教宗派、又は宗教儀式が有るのでしょう。

 幸せにして欲しいから信仰するのではなく、すごいと感じたから信仰する。それが日本人の精神性だと感じるのです。だからこそ、外国の優れたものをどんどん取入れもするし、怨霊さえも神様として祀ってしまうことをするのが日本人です。

 先に信仰対象があると、他の優れたものを賞賛することが難しくなる……そういう器量の小さい所が熱烈なる宗教家には多々見られますよね。一方、宗教宗派を問わずに、私を幸せにして……というのもなにやら強欲な話です。所詮、神とか悪魔とかの分類が、自分にとって利益になるか否かの違いだとしたら、結局、信仰対象が先にある信仰心というのは欲の働きとしか私には思えません。だからこそ、欧米の宗教では「霊性の向上」が重視されるのでしょう。最初は欲の働きから信仰に入っても、最終的に神に繋がればそれでよし……そういう思惑が見え隠れします。

 現実問題として、現代日本でも、信心深い人というのは、欧米的に先に信仰対象のある人が大半を占めているようですから、欧米的に霊性向上が必要でもありましょう。しかし、日本古来の精神スタイル……先に信仰心があり、拝む対象はそれこそ蚕《カイコ》でも鰯《いわし》の頭でも良いというなら、そこで重要なのは、対象のその先にある何か、をより理解するための霊性深化かも知れません。すなわち、「表面的な理解」といういわば、偏見に陥らぬように、自分をより深く知る事を大切にする事が大事といえましょう。

 私がこのように感じるのは、現代の書店で入手可能な神道に対する入門書を見ての事です。どうにも一般的な神道の書物というと、神話紹介、御利益案内、神社観光、呪術紹介といった事柄ばかり、それが日本人の精神性の根元だというのなら、エコノミックアニマル、日の丸観光団、そして、「フジヤマ・ゲイシャのエキゾチックジャパン」……現代日本人への偏見そのままではありませんか。

 ああ、辿っていくなら……はじめに「信仰心ありき」という日本人が滅びたからこそ、日本人は上海事変から太平洋戦争へと乗り出していったのかも知れませんね。


真理と現実(次元の混同)

2006/04/15

 いわゆる心霊現象と呼ばれる事例の多くは、超常現象でもなんでもなく、科学的に説明できる事も多いし、それどころか、科学的な説明のほうが合理的な場合が多いものです。

 死者の霊の言葉を代弁する霊媒現象もまた、二重人格の霊媒の別人格かもしれないし、ただの虚言かもしれません。いえ、虚言以上に、思い込みを霊言と思い込んでいる場合がとても多いと思います。

 心霊現象(と一般に思われているもの)に関する解釈があまりに滑稽であるために、単に心霊肯定論者であると自称するだけで、心霊否定論者の失笑を浴びる事があります。

心霊とは、非科学的な迷信なのでしょうか?

 確かに、非科学的で迷信としかいえない解釈や研究も数多くあります。そういう研究家がいることで真面目な研究者も一緒に誹謗されるのは迷惑でもあります。

 しかし、考えてみてください。

 例えば、絵の具をこぼした一枚の紙と、画家が意図して描いた絵画と、科学的にどう違うというのでしょうか。

 絵の具のついた一枚の紙にある、作者の意図の有無を、科学はどう解明できるというのでしょう?

 一見不可思議だというだけの理由で、しっかりと科学的に説明がつく現象の多くを、『心霊現象と信じる』というのは、確かに近眼的で愚かしくも思えるでしょう。しかし、どれほど科学が否定しようと、「心がどこから生じ、肉体の死によって心の価値がどう代わるのか」という疑問から人々は逃れる事が出来ません。

 そのような疑問は、本来、宗教や哲学の対象であり、科学の対象ではないはずです。そして、心が単なる生理的な反応に過ぎず、そして、死によって全てが無に変えるなら、人生にいかなる価値があるのでしょうか。

 そう、人は自分を偶然の産物とは考えたくないのです。しかも、人は、心を想像できるような超越的な存在の意図を理解できるものでしょうか。 我思う、ゆえに我あり……ですが、「我がある」というだけで満足できる人なら、宗教や心霊思想など不要なのです。

 CD(コンパクトディスク)を例えに考えて見ましょう。その素材が何であるのかは、化学的に解析が可能ですが、そのCDにいかなる情報が記載されているのかは、化学の対象ではありませんよね。記録媒体の組成と、記録された情報とは異なる次元の問題だからです。

 ですが、心霊肯定論者の多くは、心・霊と物理・生理現象とを同一に扱おうとします。「心と身体とは異なる次元の問題だ」という、霊界通信を受けて、霊界を「四次元の世界だ、いや、高級霊界は五次元だ……」などという議論が始めてしまうのです。しかし、数学的な「次元」と国語的な「次元」を混同するというような低次元の過ちを、真剣に論じて何になりましょうか?

 確かに、心霊に関する様々な理論等には滑稽な物も多いでしょう。死後の個性存続・肯定論者である、私の目から見てもひどい状態だと感じます。でもそれは、基礎的な研究がおざなりであるということなのです。


霊能者

2006/04/15

 霊能者

 文字どおり、霊を能《あた》う者ということで、霊を扱える者という意味になります。具体的にいえば、単に霊を自分に憑依させてその言葉を伝えるだけの霊媒に対して、除霊等の祈祷も出来る人を意味します。つまり交霊能力と霊能力は似て非なるものなのです。

 しかし、「霊媒」のページでご紹介したとおり、いかに霊能者であろうと肉体の維持に対する努力が免除されるわけではなく、睡眠や食事に大きな労力と時間を費やさねばなりません。となると、肉体も無く自由に時間が使え、移動にたいして何の制約も無い霊と、対決するにはあまりにハンディーキャップがありすぎます。

 結局、霊と対決するのは、霊能者の背後霊なのです。ですから自覚の有無を問わず、強力な背後霊団を持たない限り、霊能力は生じない事になります。

 ですから私は、霊能者=霊媒+背後霊と表現します。

 霊界というのは、象徴の世界です。その有様は、低級霊界といえども人間がその頭脳で理解しきれるものではありません。ですから、霊的な事件の解決は霊界に委ねるのが正しいやり方なのです。そう、霊界のことは霊界に任せるのが、基本原則といえます。決して霊界は無秩序で暴力あふれる世界ではないのです。

 任せる事の難しさ

 任せるというのは難しいものです。私たち人間の目には目前の問題しか見えませんが、霊界はその背後の背後まで見通した上で、援助の手を差し伸べてくれるものです。しかし、往々にして人は、朝知恵を霊界に当てはめ、事態を混乱に導くものなのです。


霊媒

2006/04/15

 霊界への掛け橋

 霊媒という言葉が生じたのは、そう昔の事ではありません。キリスト教の呪縛を抜けだし、霊界への関心を抱いた人たちが、界と人間の間を介する職業に与えた職名…… “Mideume” の訳語が霊媒なのです。

 しかし、単に霊を感じ取る力の持ち主を霊媒とは呼びません。自分の交霊能力をきちんと自己管理できる人でなければ、狂人と変りがありませんし、霊界の一方的な働きかけの支点にしかなれないのなら、それは掛け橋ではなく、悪霊や低級霊の配下・手下に過ぎません。

 そして、「掛け橋」になるということは、交霊能力だけではなく、その志も大切な要因なのです。

 交霊能力によって、問題の解決力を得たり、人の知りえない事を知るというのは、霊界の協力があって初めて起こりえることなのです。そして霊界が力を貸すのは、人間社会が豊かな精神性を獲得する事が、結局は霊界の利益になるからなのです。

 霊界も自分たちの利益の為に働いているのですが、それは個人的な利益の為ではなく、全体への利益の為なのです。したがって、自分の都合の為にのみ、霊能力を使おうとするのは、霊界への冒涜であり、裏切り行為に等しいものです。

 人間の欲望の一方的な働きかけの支点になる人もまた、霊媒とは呼べないのです。

 象徴と実体と

 他の霊媒と話していて、非常に困る事があります。話が通じない事が多いのです。

 霊には肉体がありません。だから肉眼では見えないのです。この実にあたりまえな事を前提にして心霊は語られるべきなのですが、人間はどうしても姿かたちで相手を判断しようとし、名前で相手を特定しようとしがちなのです。それは、地上生活を送る上でとても大切な技能ですが、霊界生活の長い、魂たちには当てはまらないものなのです。

 霊媒が、霊たちに肉体同様な姿かたちを目撃するのは、あくまでも象徴に過ぎません。想念の世界において、姿かたちは、人の言葉と同様に自由に変化させられるものなのです。そして、実体の無い象徴を、霊媒たちはさも実体があるかのように説明しているものなのです。

 それは比喩ともいえるし、誤解ともいえます。そして嘘ともいえるのです。

 低級霊は避け得ない

 霊感のある人にとって、交霊相手は自分の精神性……霊格または波動など……が同格の相手に限られるのが普通です。ただし、例外として、因縁があったり、必要性のある霊は、様々な障害を乗り越えてメッセージを送ってくれるものです。

 ですから、いかなる霊格を持っていようと、守護霊や指導霊のメッセージを受け取る可能性はありますが、霊媒が自分の霊格を上げない限り、意思疎通には困難が伴い、始終、または、必要な時にすぐメッセージを受けるというわけにはいきません。

 喩えるなら、社長や部長と話をするには、それなりの準備や手順が必要で、会社で気楽にできるのは、同僚だけ……と考えると分かりやすいでしょう。

 もちろん直属の上司(守護霊など)とはこまめに情報のやり取りが必要ですが、守護霊は、いくら親しくしてくれても決してお友達ではありません。あまり甘えると、守護霊の意図しないところで(つまり状況的に)立場を思い知らされる事になります。

 そして、普段、耳に入ってくるのは同僚や友人たちの声なのです。対等な立場な相手ですから、決して騙されてはいけません。

 また、命令されても聞く必要はないし、自分の心の中に欲心……誉められたいとか、うぬぼれがあると、おだて方が上手な霊が集まってきます。高圧的で、脅しが上手な霊が来る事もあるし、泣き落としが上手な霊が来る事もあります。暇つぶしには役立っても、自分の為になるような情報は、普通の状態では入ってこない物なのです。

 そう、低級霊と接触したくないと望んでも、安易な解決策はまったくありません。大切なのは、低級霊がかかってあたりまえと、覚悟を決める事なのです。そして、自分でそれをふるいにかけていくのです。

 そして、交霊相手をふるいにかける過程こそが、自分の精神性・霊性の最高の修練になります。そして多くの交霊相手の中から、自分の信頼できる霊を見出し、その絆を深めていく事によって、確実に交霊ができるようになります。

 魔境

 反対に、ふるいわけをおざなりにしていると、魔境に囚われます。

 魔境というのは仏教・禅宗用語で、乱暴に説明すると「現実逃避」から狂気に陥る事を意味します。周囲から見れば地獄に棲んでいるように見える状態なのに、当人は天国にあると信じきっている状態で、悟りの境地の反対を意味します。

 そして問題なのは、魔境に陥った人は、自分が魔境にいる事を否定する為に、周囲の者は助ける事は出来ない事なのです。魔境に陥った人は自ら脱する覚悟を持たない限り、誰にも救う事は出来ません。


2006-04-14

審神者(さにわ)

2006/04/15

霊格を見る

 『自分を審神者《さにわ》なさい』

 私の師匠の言葉です。

 審神者《さにわ》とは交霊会などで、霊媒に降りてきた霊との折衝を務める役の事です。しかしこの場合は、霊格の判断を見抜くものという意味で審神者《さにわ》という言葉を用いています。つまり、常に自分の霊格を意識して、低級霊的な行動を慎むようにという教えなのです。私は常にこれを心がけています。

 霊格というのは、単に魂の境涯を示すだけではありません。霊格は行いに現れる物であり、霊格を知るということは、相手が何かを行う前に、何が行えるのかを見抜くということにもなります。当然、人間観察力が要求されるわけですが、人生を霊性向上の場と考えるならば、人間観察の能力は必須といえます。言うまでもなく、向上するためには自己の欠点を見出し、その修整を心がけなくてはいけません。また、人を見て自分に無い美点を見出し、それを取り込むことも大切な向上の手段なわけです。

『世の中には、悪い人などいない、必ずどこか一つぐらいは良い点を持っている』という言葉は、うわべは綺麗ですが、建前以上であってはならないのです。確かに人の悪い点をあげつらえば付き合いが嫌になってしまうものですし、自分の欠点と向き合えば、生きるのが嫌になるのが人間の心情でしょう。しかし、嫌なことから逃げていても問題は解決しないのです。むしろ嫌なことをいつまでも放置せずに、さっさと解決すべきでしょう。問題点を明らかにすればこそ向上があるのです。

『人生は霊性向上の場である』その実践には、今の自分の霊格を測り、自分の成長を確実に把握していく必要がありますし、人の霊格を見抜き、悪い所を真似せずに、反面教師とし、良いところを学び取っていくことが大切なのです。

 霊界通信が教えるところでは、死後、霊界においてはそれぞれの魂の境涯に応じて、自然と住み分けが生じてしまうのです。それは、自分より高い境涯の者から良い生き方を学ぶことも、低い境涯の者の欠点を見て、我が欠点に気がつくこともとても困難だということなのです。

 霊格を見る。その技能が霊性向上をどれほど加速することでしょう。審神の智慧は異界からの学びを得る心霊主義者には必須の智慧といえます。

審神者《さにわ》

 審神者さにわ》とは、霊媒にかかる神霊の格を判断する能力者を指します。その漢字は意訳的な当て字であり、もともとは沙庭と表現しました。上古、霊媒は寄り代といわれた時代のことです。寄り代は髪の降りる場所ということで社殿や神宝の意味があり、沙庭掃き清められ、砂(沙)を撒かれた庭を意味しますから、霊媒と審神者の組み合わせは生きた神社とも言えるわけです。また、審神者《さにわ》は日本の心霊界特有の存在です。

 古事記中に「仲哀天皇が熊襲国を討とうとして、天皇が琴を弾き、武内宿禰を沙庭として、(神功)皇后に神懸りさせて託宣を求めた」という記載があります。

 ここで皇后は「霊媒」・「寄り代」、または、「(本来の意味での)巫女」を務め、天皇は寄り代を入神(トランス)状態に導く為に音楽を奏でる「侍座者」を、そして、武内宿禰を「沙庭」のちにいう審神者を務めたわけです。ちなみに霊能者・吉田綾先生の審神者をお勤めになられた吉田正一先生は、同時に「侍座者」を兼ねられて、石笛《いわぶえ》をお吹きになられたそうです。

 さて、古事記という古い書物を引き合いに出したのは、日本における心霊が千年以上の歴史を持つことを誇るだけが目的ではありません。時折、神道の神と、欧米型の一神教の神とを混同して考えていらっしゃる方がいますが、少なくとも審神者《さにわ》が扱う神というのは、日本古来の考え方、すなわち『尋常ではない、力や、勢い、属性を持つ偉大な存在』というもので、宇宙の造物主といった、高度な理論性を持った存在よりも、より人間に近い存在を意味しています。そして、この神を知ることが審神者《さにわ》を理解する上でとても重要なのです。

 上古の史書に神懸りの記載があることを見てもわかるとおり、この時代は神の意を持って国を治める事が行われていたわけです。それは逆にいうと、霊媒に降りる心霊の真偽を見抜くことは、国の進路を誤らない為の非常に重要な職責であるという事になります。もしも降りる霊の真偽の判断まで、霊媒に求められたとしたら、霊媒は責任感がもたらす重圧で何も言えなくなってしまうことでしょう。つまり、審神者《さにわ》の存在があればこそ、霊媒は安心して、異界の声に耳を傾けられるのです。その意味で、この役割分担はより高い精度の交霊を、効率よく行うための智慧であるといえます。

鎮魂法

 審神者《さにわ》というのは、鎮魂法と呼ばれる交霊術……儀式における、一つの役割でもあります。単なる能力でもなければ、覚えれば使える知識でもありません。ですから、鎮魂法を収めていない審神者《さにわ》というのはまがい物といえます。

 とはいえ、交霊に必要なのは儀式ではありません。霊媒が二人いれば一人が寄り代、一人が審神者になるのは合理的です。しかし、安易な交霊が危険な事は、審神者の有無によって軽減されるわけではありません。

欧米に審神者《さにわ》が無い理由

 審神者《さにわ》の存在は、霊媒の労力を軽減します。ただしこれは交霊に対して利害が絡む為に必要な責任分担なのです。一国の運命を決する、その重圧に耐えられるだけの霊媒などそうそう見出せる物ではありません。しかし利害が絡まなければ、霊媒は比較的リラックスして交霊に望むことが出来ます。19世紀に発生した、スピリチュアリズム・心霊主義において審神者《さにわ》が誕生しなかったのは、それほど重要な案件を扱う必要がなかったからといえます。

 しかし、審神者《さにわ》をおくには責任分担以外にもいくつかの利点があります。

 まず、霊感の無い人にはあまり実感が湧かないことかもしれませんが、言葉というのは霊たちにとってとても不自由な通信手段であり、その一方で人間は言葉で思考するという癖があります。言葉と真意のギャプが交霊会のネックになるのです。その際に交霊経験が豊富な審神者《さにわ》が質問を吸い上げ、整理するなら制約をいくらか緩和することが出来ます。

 また、完全に入信し、自己の意識を失うタイプの霊媒にとって、自身が無防備なのはとても不安感がありますから、霊力が上の霊媒がそばに控えていてくれることは、安心して交霊を行うのに良い影響があります。

 特に優秀な交霊能力者は、五感が過敏な者も多く、交霊会参加者の心無い行動が、入神状態下の霊媒に深刻な影響を及ぼすことがあります。そういった事柄を防ぐ為にも、審神者《さにわ》が参加者を見張ることも重要な役割となります。

 そのせいでしょうか、数年前来日した、英国の物理霊媒・リンカーン氏も、霊媒・クランレー氏の介助の元で交霊会を進めて行きました。


心霊研究の主導権は霊界にあり

2006/04/15

 誰にでも交霊能力があるはず

 心霊的なことに興味を持ち、勉強を進めると交霊能力の獲得を望むようになります。しかし、そのような人は大切な事を見落としています。

 死して突然、魂が生じるわけではなく、生と死の違いはその魂が肉体を纏っているかどうかの違いと言えます。そして人間の本質が魂であるなら、誰でも霊との交信能力持っているはずです。

 一体なぜ、交信能力を失ったのでしょう。

 雑音が障害

 人間の精神活動において、肉体的な様々な反応や欲求、思考機械としての脳の働き、そして魂が感じた物事は、多くの場合優先順位をつけられることも無く、また、分類される事も無く同列に扱われています。そして、脳を含む肉体を持っている限り、肉体的な信号は絶える事はありませんから、それらを無視する技術を獲得しない限り、人の精神活動は雑音にまみれる事になります。

 精神活動が雑音にまみれていれば、魂が自己主張する時、大きな努力が必要となります。そして魂の主張さえ困難な精神が、一体どうして霊との交信ができるというのでしょうか。

 相手が大切

 もう一つ、滑稽なほど大切な事柄があります。会話するのに相手が必要なように、交霊するのにも相手となる霊が必要なのです。そして、高級霊と呼ばれるような霊ほど、行いを大切にして、言葉少なくなっていくものなのです。

 おしゃべりな高級霊は存在しない……とすると、霊界にあふれる言葉に耳を貸しても、低級霊の言葉しか聞こえない事になります。さらに困った事に、霊界では誰からも相手にされないような浅ましい魂の持ち主は、孤独から逃れようと必死に話し相手を求めているのです。

 そんな孤独な霊たちにとって、言葉による表現に囚われて霊格を見抜く知識をもたない霊媒は格好の的となります。それでなくても、人は誰も心の奥底に孤独を抱いていますから、同じ孤独な魂同士が引き寄せあい、結びついてしまうのは一種の摂理なのです。

 突然、霊感が開いた人たちが、死よりも苦しい思いをするのは、そうやって、交霊相手を選ぶことの大切さを身をもって学ばされているということなのです。また、霊感が働かないというのは、守護の霊や祖先の霊たちから守られているということなのです。

 目的に応じて答えがある

 しかし、交霊にとって一番大切なのは、その目的や動機なのです。意思を伝える必然性があるなら、いかなる手段を用いても意思を伝えてくるのです。

 そう、私が扱っている心霊とは、特殊な霊能者と呼ばれる職業の持ち主だけが感じえる何かではなく、誰もが感じている、何かが対象なのです。

 信じることから始まる

 以前の事です。友人から、『死後の世界を証明してみよ、永遠の実在を証明してみよ、おまえの霊能力を証明してみよ』と詰め寄られたことがあります。

 霊界から得た回答は、

「何ゆえあなたは証拠を欲しがるのだろう。すべてはこの世界の話である。あなたには見ることも出来ず、触ることも出来ない、あなたがまるで感知することが出来ない世界の実在をあなたに証明してなんになろう。それはあなたには無縁な世界なのである。」

 心霊研究を唱える、私のページは科学に擦り寄るものかもしれません。しかし、いくつか譲れないこともあります。

 心霊研究の対象は、人間の主観以外には感知でき得ないものが大部分を占めています。本当に科学的な解明を求めるのであれば、人間の可能性について、もっと繊細でかつ広範囲な研究が進み、そして霊現象について客観的な観測手段が開発される必要があることでしょう。

 それは、言うまでもなく、そして冗談でもなく、“幽霊”を捕まえるのに等しい、実現性の薄いものといえましょう。結局、観測手段が主観に左右されている以上、真偽もまた、主観に左右されるのが偽らざる心霊研究の現状なのです。

 簡単に言えば……あるか無いか、ではなく、信じるか信じないか、が支配しているのが心霊研究なのです。ですから、最初から疑ってかかり、相手に証明を求める人にいくら説明しても、理解は得られない……というのが表の本音です。

 実は、裏の本音があります。「おまえなどに利用される、我らではない」という、霊たちの想いです。

 すべては霊界の手の中にある

 心霊研究の具体的な主導権は霊界にあります。

「私たちは、真剣に求めるものに応えなかった事は無い」というのもまた、霊たちの熱い想いです。


2006-04-14

自動書記とは

2006/04/15

 自動書記と霊感の違いは、他の霊の意思を心の中に認識するか、しないかという違いになります。これが潜在意識や無意識の働きといえるか、いえないかは非常に難しいのです。

 というのは、普段、霊たちが用いているのは言語ではなく、交感能力により、それを言葉に変換する作業を霊たちの視点で見ると、霊媒の頭の中に浮かんでいるたくさんの単語(言語用のシナブス?)を繋ぎ合わせて文章に組み立てていくという過程を経ているのです。つまり自動書記において、構文の基本線以外はすべて霊媒の生理現象を用いているのです。

 そして、霊媒の頭の中にある単語を利用する事から、通信を送ってくる霊が、生前どこ国の言語を話そうと、通信文は主に霊媒の母国語になります。

 また、時として、文章のアウトライン……基本的な用語だけを指示して、穴埋めを霊媒に命じる事もあります。これは、一種のルーチンワークに近い回答に良く見られるものです。これはまるで手数料を惜しんだ電信を書き直すような作業といえます。

 また、霊媒と背後霊の協調作業は、コンピュータの分野でいう、クライアント・サーバーのシステムに似ています。霊界と霊媒を繋ぐ通信線(ライン)は、霊媒によって差がありますが、通信容量は決して大きなものではありません。

 つまり通信回線がボトルネックになっていますから、霊媒に対する通信を最小限にすると、全体に対する負担(コスト)が少なくて済みます。そこに様々な技巧を凝らしているわけです。もちろん重要度が高かったり、功徳を積むなどした重要人物が行う通信などは、相応なコストをかけた通信を行い、霊界での作業の比率が増えるものです。

 もちろん、交霊の通信コストは一律ではなく、主に霊媒の才能によって左右されますし、個性の違いもありますから、同じ事柄を記述するのに、霊媒が異なれば、表現が異なる事があるものです。

 淺野和三郎氏が複数の米国人霊媒相手に、「漢数字で表記された日めくりカレンダーの任意の一ページをポケットに入れ、その内容を当てて貰う」という実験がありました。

 ある霊媒は、四角い記号と答え、またある人は、「Number Four」と答えたそうです。そう、ポケットの中のカレンダーは、4日のものだったのです。つまり、「四」という文字を、記号として受け止める霊媒もいれば、意味を受け止める霊媒もいたということですね。これがアラビア数字で「4」と記載されていたら、どういう展開になったか興味深いところですが、霊視の内容がどちらも正しくても霊媒・背後霊によっては、その表現方法が異なる事がわかります。

 また、肉体という物質的な器官を操らねばならない霊媒は、霊界から見ると、凍り付いているに等しい愚鈍な存在なのです。

 ですから、サーバーに相当する霊界側は、通信容量も小さければ、動きものろい霊媒の作業に付き合うことは、苦痛を感じるほど退屈なものなのです。つまり通信を助ける霊は多大の主観時間を費やさなければならず、実はこれもまた高級霊が霊媒にかかりにくい原因でもあります。


2006-04-14

霊感のメカニズム

2006/04/15

 霊感のメカニズム

 本来、霊が地上に及ぼせる力は非常に微弱な物です。実際に、職業霊能者は神経質な人が多く、小さな物音や、一条の光線に目の色を変えるというのは、五感と比べて遥かに微弱な霊信を受け止めるのに感覚の敏感さが重要な役割を持つ事を暗示しています。しかし、単に感覚の過敏ばかりが、霊感を意味するのではありません。人間にはその微弱な力を受け止めるためののですが、二種類の増幅のメカニズムが備わっているのです。

1、精神統一の度合いが高く、雑音が押さえられて小さな信号も受信できる。

  高級霊と感応するには必須の条件です。

2、神経が過敏になっていて、小さな信号にも反応してしまう……

  この状態下でかかる霊は大抵、どうしようもない低級霊です。

 精神集中

 もう一つの方法は、精神の集中度を上げ、雑音を退け、微弱な信号を聞き漏らさないようにするというもので、本来、霊媒の行う交霊は、この方法によるべきです。

ただしこの方法は、霊媒の信念・信条が壁になり、特定の(類似の思想・信念を持った霊)以外とは繋がりにくいものがあります。これは霊媒の防御力であり、同時に、交霊力の狭さといえます。またこの方法で霊能力を扱える者は、霊障害をほとんど受けません。霊感の敏感な者がオカルトスポットなどで、きゃあきゃあ騒いでいても、何も感じない事でしょう。

 更に言えば、精神修養も共に進めて守護霊との絆を深めれば、直前に危険を察知して身を守る事が容易になります。この場合、直前にというのがポイントなのです。霊能力に関する論争に時折、自然災害を事前に警告出来たかどうかなどと、論じられる事もありますが、地球上の各地で、毎年何度も大きな地震や、水害が起きているのに、日時や規模まで警告が出来なければ、下手な鉄砲も……といわれて当然です。また実際問題として、大地震にあったからといって、皆、死んでしまうわけでもなし、下手な警告は無用な二次被害(支出や時間的なロス、信用の失墜)を起こす可能性もあります。つまり必要なのは、身を守る事であり、予言ではないのです。ですから、身を守るのに充分かつ直前の警告こそが、最善の危険予知なのです。

 さて、言うまでもなく、この増幅形式を得たものは、無用な事まで霊に頼ろうとする依存心以外に、恐れる必要はありません。苦労して得た財産は、容易に失われる事も無く、また、「精神統一」という財産は、死後の世界にも持ち帰れる素晴らしい財産なのですから。

 神経過敏

 バランスの悪い状態におかれた物、例えば、高く積み上げた品物や、座りの悪い物体は、ちょっとの力で大きく揺れだしますよね。精神が不安定な時にも、些細な事柄がとても大袈裟に感じられる事があります。実際、不安に駆られている時など、ちょっとした出来事でいらいらが生じるのを誰もが体験している事でしょう。

 この精神が不安定になると、霊感が働きやすいというのは、例えば、怖がるから幽霊を見る……という論理と合い通じるところがあります。私が、霊障害を受けた人に対して、まず冷静さを促すのは、恐怖感が霊感を増幅して、ますます霊障害を呼び込みやすくなるからなのです。これは逆に言うと、冷静になるだけで霊障害から解放される場合もあるという事です。

 また、このように精神不安定による霊感では、高級霊がかかる事はまず期待できません。実を言えば、本人が霊と考えるだけで、実際には霊でもなんでも無い、自分の意識の影を感じ取っている事も多いのです。霊で無い場合には、自分の精神の安定を求めるメッセージが多い事である程度判断が付きます。

 まず第一に、この様な場合、他人に認められたい衝動に突き動かされます。自分の心の中に、他人の意志が感じられるというのは、言うまでもなく異常な状況であり、それがいわゆる「霊」でなければ、自身の「狂気」という、二者択一を迫られるのが普通だからです。しかし、残念な事に、低級霊の憑依であろうが、自身の狂気に陥ろうが、対外的には全く区別が付きません。そして、低級霊の憑依によって苦しんでいる場合は、狂気よりも辛いのが普通です。自身の狂気を見つめる冷静な自分がいて、生きている限りそのストレスと争い続けなくてはならないからです。

 この、アンバランスによる霊感の場合は、従来、精神統一によって克服するしかないと考えられてきました。しかし、それは霊的、精神論的な発想にすぎず、人体の仕組みをきちんと考えるなら、別な回答がある事に最近気が付きました。魂が人間の主体とはいえ、現実には、心は身体の奴隷になっているのが普通です。そのような状態を魂が|辟易《へきえき》としているのが人間と言えます。

 だから人は精神的または霊的な事に憧れを抱くのですが、それは同時に心身のバランスが取れて、心が肉体の支配下におかれなければ、魂は平穏であるという事でもあります。人は悩むから宗教の門を叩くのであって、悩まなければ宗教と縁を持つことなく生活を続けるのです。

 アンバランスの原因

 このアンバランスの原因には、家庭環境や、性格的な要因が大きいと言うのが、私自身の従来の考え方でした。実際、制御出来ない霊能力に関する相談者は、圧倒的に家庭・家族に問題を抱えている場合が多いのです。しかし、家庭環境に問題がある人すべてが霊感を得るとは限りません。これは、ある程度、説明が付きます。

 実際、霊感を発揮する人には、家庭の不和の原因などを自分の責任と思い込んでしまう、内攻的な人が多いのです。ただし、年齢と共に、外攻的になる場合が多く、そうならなければ、発狂しかねないでしょう。そして、霊感を発揮しない人には、他人へ責任を転嫁してしまう、外攻的なひとが多いのです。

 しかし、安定した家庭に霊感の強い人が生じる場合もあります。これは霊的な背景として、前世で霊能者であったとか、霊能者となるべきカルマを持っているというのなら分かりますが、単なる霊感過敏の人もいるのです。

 この原因を、思春期に霊感を得て、結婚後に霊感を失う人に着目して、性エネルギーと考える人もいますが、実を言えば、気功などの世界では確立された思想が成立していたのです。

 過剰エネルギー

 人間の行動力の源、エネルギーは、食品のカロリーで表わされます。そして摂取カロリーの基準が定められていますが、もちろん生活習慣や労働時間、外的な要因などによって必要なカロリーは異なるわけで、現代人は往々にしてカロリー過多に陥ります。

 人間は飢餓状態に置かれると、行動を押さえて、消費するカロリーを押さえようとし、飽満状態になると、運動や娯楽で消費するエネルギーを増やそうとします。仮に消費カロリーを増やそうとする衝動を「生命衝動」と呼びます。さて、飽食の時代と呼ばれる現代社会は、この生命衝動が増大しているのにも関わらず、その発散の場所が少なくなっているのが普通です。意識的にスポーツなどで発散するのが一番よいのでしょうが、ストレスを受けていたり、仕事や家事労働などによって時間の制約を受けたり、行動の抑圧を受けていたりすると、生命衝動が内にこもって発散出来なくなります。

 過剰な生命衝動があっても、心身のバランスを保たれているのなら、それは身体に力がみなぎると表現出来るのでしょうが、心身のバランスが崩れて肉体に集中してしまうと、肉体的な活動の欲求と、それを押さえようとする意識のバランスが崩れて、無意識に暴力的な行動や、性衝動に流れてしまうのです。近年多い、暴力事件や、風俗の乱れなどは、このバランス崩壊といえましょう。このバランス崩壊のメカニズムは、従来の社会常識と大差はありません。つまり暴力に対する衝動をスポーツで発散させろ……又は、食事を制限しろ……という、回答がある訳です。

 ちなみに、発散する以上にカロリーを摂取すれば、運動量が多いスポーツマンにも生命衝動が生じます。食事の適量は、本来、身体が知っているはずですが、人は身体に“聞いて”食事の量を決めるよりも、むしろ頭で、これぐらい食べないと……と考えますので、飢餓状態にでもない限り、生命衝動が生じるのはむしろ当たり前の事なのです。また、思春期には、身体が自発的に生命衝動を増すように、出来る限りカロリーを摂取しようという仕組みが出来ているのですね。それが性衝動であったり暴力的な行動に向けられるのです。

 また、この生命衝動が、暴力的な行動や性衝動で発散出来ているうちは良いのですが、発散しきれない場合は、逆流、内攻(自身に害を及ぼす)を始めてしまいます。具体的に言えば、体調不良の原因になるのです。例えば躾が厳しい子女などは、暴力的な行動も、性衝動も抑圧されるために、やはり過剰エネルギーが内攻します。そして、問題は、このバランス崩壊の時に、衝動が精神に集中してしまった場合なのです。

 バランスの崩壊

 精神は霊性が支配するとしても、それが肉体を通じて表現する手段は、脳や神経系統といった肉体の諸器官に頼っているわけです。そこに過剰なエネルギーが流れ込めば、精神に異状を来します。本来なら美しい清流であるべき、霊と脳の間の情報の流れが、乱流、濁流となってしまうのです。これでは正常な思考が出来なくなります。そして程度の差があれ、精神活動の異常に繋がります。躁鬱病から、分裂症、そして霊感の発現(精神科医に言いわせると分裂症に含められてしまうでしょうが)まで、様々な形で障害が現れるのです。

 また、これは必ずしも精神に過剰エネルギーが流れ込む場合だけではなく、例えば性器に過剰エネルギーが流れ込んでも、振り回される形で障害を受ける場合もあります。

 対処法

 原因が明らかになれば、対処法も出てきます。生命衝動のアンバランスが、コントロール不能な霊感の原因であるなら、食事制限や、スポーツの励行などで、霊感が減感するはずです。実際に、仕事をしている時やスポーツの最中には霊を感じないといった報告事例も多いのです。おそらく、厳重なコントロールを必要とするでしょうが、断食なども調整に有効だと思います。ただ、物が豊かな時代に、断食をすると、逆に欲望を増大させて悪影響が出るかもしれません。

 注意

 霊感が自然に発現するのは、アンバランスの結果が多いのですが、その一方でやはり前世の因縁としか呼べないようなケースもあります。霊能者になるべく道を用意されている者もいるのです。


2006-04-14

 

交霊術の背景

2006/04/15

 感じる

 人は「感じ」てから、思考を開始します。機械は感じることがないから、命令されなければ、行動を開始しません。その違いこそが、機械が道具である証です。その「感じ」をもたらす存在を魂と呼びます。(この「魂の定義」こそが普遍的なもので、心霊的な「魂の定義」は偏っています。)

 誰もが自分の中に心を感じているからこそ、心の実在に疑問を持ちませんが、心は科学的に証明されたものではありません。例えば、死亡の診断を受けた後に蘇生する人がいるという事は、奇跡ではなく科学的に心が把握出来るのであれば避けられるはずの誤診です。

 魂も心も、死後の実在も、証拠は何も無いのです。ただ人間が「感じ」ている、またはあると願っているだけの話です。

 しかし、人が、科学的に証明不可能な……すなわち五感では感じられない、「心」を感じられるのなら、その先には自己の深くに潜む魂を感じ、また他人の心を感じる事が出来るはずです。ただ、それを五感の延長で感じようとするから迷路と矛盾に入り込むのです。

 人は皆、必死に自分の魂の実在証拠を求めています。それは五感ではなく、「感じ」る事のその奥にあるのです。

 腹で考える

頭で考えるな、腹で考えよ

 一見、論理的におかしな言葉ですが、心霊を学ぶに当たって重要な意味が含まれています。五感に囚われた思考法では、物理的な実体のない霊、そして霊界の在り様を理解する事は困難なのです。勢い、霊界は四次元の世界だ、5次元の世界だ……などという比喩が登場しますが、多くの人にとって、死ねば行ける霊界よりも4次元や5次元と言った概念のほうがよほど理解が難しいはずです。難解なものを身近なもので喩えるのが比喩であるはずなのに、難解なものをさらに難解なもので例える事の不思議さ。これは、頭で理解する事に拘る事から来る過ちなのです。

 「腹で考えよ」とは感じる事の大切さを伝えているのです。

 なぜ心霊か

 心霊を学ぶ上で一番大切な事は「感じる」事です。そして霊的な視点を得る事です。人間は「感じ」て、そして思考を始めます。感じるという事が思考機械と人間との差なのです。物欲や、名誉欲、性欲等に反応を示すだけの獣性ではなく、、霊性、そして、大霊につらなる神性を育てる為に必要なのは、「感じる」事を重視し、育てる事なのです。

 そして、心霊主義を標榜する上で大切なのは、すべての行いの動機……志なのです。あなたがどれほど素晴らしい志を持とうと、その実現に必要な手段やチャンスに恵まれなければ、誰もあなたの志に気が付く事はないでしょう。しかし、人に認めてもらう為の志など、あなたの霊性には何の意味もありません。その志が社会を良くしてもあなたの霊性を引き上げはしないのです。自分が自分を認められる志を持つ事。心身の統一のために志を持つ事が必要なのです。

 霊的共感

 時折、霊感を欲しがる人が私の元に相談に訪れますが、その数は霊感を止めたがる人の数ほどではありませんそして、大抵が霊感がもたらすリスクについては何も考えていらっしゃらないのです。しかし、霊感は手段に過ぎず、それを使いこなすにはやはり努力が必要なのです。霊感を得手、それを使いこなす努力を思うなら、むしろ霊感なしに真理と、霊的共感を会得するほうがよほど安全で容易なのですが……

 波動を合わせる

 類は友を呼ぶといいます。気が合えば会話も弾み、気が合わなければ会話は途絶えがちですね。この気が合う、気が合わないということを霊能者は交霊において、波動が合う、合わないと表現します。また、見知らぬ人と仲良くなろうとすればまず共通の話題を探し始めるのが普通ですよね。このように気持ちを合わせる事を、交霊時においては、波動を合わせると表現します。交霊も以上のような人間関係を考えると理解しやすいことでしょう。

 また、一般的に交霊相手を、高級霊・低級霊と評価することが在ります。この具体的な選別は別項で扱いますが、人間関係を波動に比喩すると、体感的に相手の波動の高い低いが理解できます。例えば自分のことを話すばかりで、しかも壊れたテープレコーダーのようにおなじことをくりかえす人と話をすると、気持ちが沈み、辛くなるでしょう。反対に溌剌として感性の豊かな人と話をすると、気分が明るくなり、元気が出ますね。

 これは話し相手の霊性の高い低いと関連があります。霊格の高い人はその精神の自由度も高く、問題解決能力が高いものですが、反対に霊格が低い人は精神の自由度が低く、それゆえに問題をこじらせる人なのです。

 また、病気や借金などの精神的な重圧を背負うと、物事を何でも悲観的に捕らえるようになってしまいますね。こういう時には霊的な波動が下がっていると表現できますが、これもまた体感的におわかりになることでしょう。


2006-04-14

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