‘心霊研究’ カテゴリーのアーカイブ

自動書記とは

2006/04/15

 自動書記と霊感の違いは、他の霊の意思を心の中に認識するか、しないかという違いになります。これが潜在意識や無意識の働きといえるか、いえないかは非常に難しいのです。

 というのは、普段、霊たちが用いているのは言語ではなく、交感能力により、それを言葉に変換する作業を霊たちの視点で見ると、霊媒の頭の中に浮かんでいるたくさんの単語(言語用のシナブス?)を繋ぎ合わせて文章に組み立てていくという過程を経ているのです。つまり自動書記において、構文の基本線以外はすべて霊媒の生理現象を用いているのです。

 そして、霊媒の頭の中にある単語を利用する事から、通信を送ってくる霊が、生前どこ国の言語を話そうと、通信文は主に霊媒の母国語になります。

 また、時として、文章のアウトライン……基本的な用語だけを指示して、穴埋めを霊媒に命じる事もあります。これは、一種のルーチンワークに近い回答に良く見られるものです。これはまるで手数料を惜しんだ電信を書き直すような作業といえます。

 また、霊媒と背後霊の協調作業は、コンピュータの分野でいう、クライアント・サーバーのシステムに似ています。霊界と霊媒を繋ぐ通信線(ライン)は、霊媒によって差がありますが、通信容量は決して大きなものではありません。

 つまり通信回線がボトルネックになっていますから、霊媒に対する通信を最小限にすると、全体に対する負担(コスト)が少なくて済みます。そこに様々な技巧を凝らしているわけです。もちろん重要度が高かったり、功徳を積むなどした重要人物が行う通信などは、相応なコストをかけた通信を行い、霊界での作業の比率が増えるものです。

 もちろん、交霊の通信コストは一律ではなく、主に霊媒の才能によって左右されますし、個性の違いもありますから、同じ事柄を記述するのに、霊媒が異なれば、表現が異なる事があるものです。

 淺野和三郎氏が複数の米国人霊媒相手に、「漢数字で表記された日めくりカレンダーの任意の一ページをポケットに入れ、その内容を当てて貰う」という実験がありました。

 ある霊媒は、四角い記号と答え、またある人は、「Number Four」と答えたそうです。そう、ポケットの中のカレンダーは、4日のものだったのです。つまり、「四」という文字を、記号として受け止める霊媒もいれば、意味を受け止める霊媒もいたということですね。これがアラビア数字で「4」と記載されていたら、どういう展開になったか興味深いところですが、霊視の内容がどちらも正しくても霊媒・背後霊によっては、その表現方法が異なる事がわかります。

 また、肉体という物質的な器官を操らねばならない霊媒は、霊界から見ると、凍り付いているに等しい愚鈍な存在なのです。

 ですから、サーバーに相当する霊界側は、通信容量も小さければ、動きものろい霊媒の作業に付き合うことは、苦痛を感じるほど退屈なものなのです。つまり通信を助ける霊は多大の主観時間を費やさなければならず、実はこれもまた高級霊が霊媒にかかりにくい原因でもあります。


2006-04-14

霊感のメカニズム

2006/04/15

 霊感のメカニズム

 本来、霊が地上に及ぼせる力は非常に微弱な物です。実際に、職業霊能者は神経質な人が多く、小さな物音や、一条の光線に目の色を変えるというのは、五感と比べて遥かに微弱な霊信を受け止めるのに感覚の敏感さが重要な役割を持つ事を暗示しています。しかし、単に感覚の過敏ばかりが、霊感を意味するのではありません。人間にはその微弱な力を受け止めるためののですが、二種類の増幅のメカニズムが備わっているのです。

1、精神統一の度合いが高く、雑音が押さえられて小さな信号も受信できる。

  高級霊と感応するには必須の条件です。

2、神経が過敏になっていて、小さな信号にも反応してしまう……

  この状態下でかかる霊は大抵、どうしようもない低級霊です。

 精神集中

 もう一つの方法は、精神の集中度を上げ、雑音を退け、微弱な信号を聞き漏らさないようにするというもので、本来、霊媒の行う交霊は、この方法によるべきです。

ただしこの方法は、霊媒の信念・信条が壁になり、特定の(類似の思想・信念を持った霊)以外とは繋がりにくいものがあります。これは霊媒の防御力であり、同時に、交霊力の狭さといえます。またこの方法で霊能力を扱える者は、霊障害をほとんど受けません。霊感の敏感な者がオカルトスポットなどで、きゃあきゃあ騒いでいても、何も感じない事でしょう。

 更に言えば、精神修養も共に進めて守護霊との絆を深めれば、直前に危険を察知して身を守る事が容易になります。この場合、直前にというのがポイントなのです。霊能力に関する論争に時折、自然災害を事前に警告出来たかどうかなどと、論じられる事もありますが、地球上の各地で、毎年何度も大きな地震や、水害が起きているのに、日時や規模まで警告が出来なければ、下手な鉄砲も……といわれて当然です。また実際問題として、大地震にあったからといって、皆、死んでしまうわけでもなし、下手な警告は無用な二次被害(支出や時間的なロス、信用の失墜)を起こす可能性もあります。つまり必要なのは、身を守る事であり、予言ではないのです。ですから、身を守るのに充分かつ直前の警告こそが、最善の危険予知なのです。

 さて、言うまでもなく、この増幅形式を得たものは、無用な事まで霊に頼ろうとする依存心以外に、恐れる必要はありません。苦労して得た財産は、容易に失われる事も無く、また、「精神統一」という財産は、死後の世界にも持ち帰れる素晴らしい財産なのですから。

 神経過敏

 バランスの悪い状態におかれた物、例えば、高く積み上げた品物や、座りの悪い物体は、ちょっとの力で大きく揺れだしますよね。精神が不安定な時にも、些細な事柄がとても大袈裟に感じられる事があります。実際、不安に駆られている時など、ちょっとした出来事でいらいらが生じるのを誰もが体験している事でしょう。

 この精神が不安定になると、霊感が働きやすいというのは、例えば、怖がるから幽霊を見る……という論理と合い通じるところがあります。私が、霊障害を受けた人に対して、まず冷静さを促すのは、恐怖感が霊感を増幅して、ますます霊障害を呼び込みやすくなるからなのです。これは逆に言うと、冷静になるだけで霊障害から解放される場合もあるという事です。

 また、このように精神不安定による霊感では、高級霊がかかる事はまず期待できません。実を言えば、本人が霊と考えるだけで、実際には霊でもなんでも無い、自分の意識の影を感じ取っている事も多いのです。霊で無い場合には、自分の精神の安定を求めるメッセージが多い事である程度判断が付きます。

 まず第一に、この様な場合、他人に認められたい衝動に突き動かされます。自分の心の中に、他人の意志が感じられるというのは、言うまでもなく異常な状況であり、それがいわゆる「霊」でなければ、自身の「狂気」という、二者択一を迫られるのが普通だからです。しかし、残念な事に、低級霊の憑依であろうが、自身の狂気に陥ろうが、対外的には全く区別が付きません。そして、低級霊の憑依によって苦しんでいる場合は、狂気よりも辛いのが普通です。自身の狂気を見つめる冷静な自分がいて、生きている限りそのストレスと争い続けなくてはならないからです。

 この、アンバランスによる霊感の場合は、従来、精神統一によって克服するしかないと考えられてきました。しかし、それは霊的、精神論的な発想にすぎず、人体の仕組みをきちんと考えるなら、別な回答がある事に最近気が付きました。魂が人間の主体とはいえ、現実には、心は身体の奴隷になっているのが普通です。そのような状態を魂が|辟易《へきえき》としているのが人間と言えます。

 だから人は精神的または霊的な事に憧れを抱くのですが、それは同時に心身のバランスが取れて、心が肉体の支配下におかれなければ、魂は平穏であるという事でもあります。人は悩むから宗教の門を叩くのであって、悩まなければ宗教と縁を持つことなく生活を続けるのです。

 アンバランスの原因

 このアンバランスの原因には、家庭環境や、性格的な要因が大きいと言うのが、私自身の従来の考え方でした。実際、制御出来ない霊能力に関する相談者は、圧倒的に家庭・家族に問題を抱えている場合が多いのです。しかし、家庭環境に問題がある人すべてが霊感を得るとは限りません。これは、ある程度、説明が付きます。

 実際、霊感を発揮する人には、家庭の不和の原因などを自分の責任と思い込んでしまう、内攻的な人が多いのです。ただし、年齢と共に、外攻的になる場合が多く、そうならなければ、発狂しかねないでしょう。そして、霊感を発揮しない人には、他人へ責任を転嫁してしまう、外攻的なひとが多いのです。

 しかし、安定した家庭に霊感の強い人が生じる場合もあります。これは霊的な背景として、前世で霊能者であったとか、霊能者となるべきカルマを持っているというのなら分かりますが、単なる霊感過敏の人もいるのです。

 この原因を、思春期に霊感を得て、結婚後に霊感を失う人に着目して、性エネルギーと考える人もいますが、実を言えば、気功などの世界では確立された思想が成立していたのです。

 過剰エネルギー

 人間の行動力の源、エネルギーは、食品のカロリーで表わされます。そして摂取カロリーの基準が定められていますが、もちろん生活習慣や労働時間、外的な要因などによって必要なカロリーは異なるわけで、現代人は往々にしてカロリー過多に陥ります。

 人間は飢餓状態に置かれると、行動を押さえて、消費するカロリーを押さえようとし、飽満状態になると、運動や娯楽で消費するエネルギーを増やそうとします。仮に消費カロリーを増やそうとする衝動を「生命衝動」と呼びます。さて、飽食の時代と呼ばれる現代社会は、この生命衝動が増大しているのにも関わらず、その発散の場所が少なくなっているのが普通です。意識的にスポーツなどで発散するのが一番よいのでしょうが、ストレスを受けていたり、仕事や家事労働などによって時間の制約を受けたり、行動の抑圧を受けていたりすると、生命衝動が内にこもって発散出来なくなります。

 過剰な生命衝動があっても、心身のバランスを保たれているのなら、それは身体に力がみなぎると表現出来るのでしょうが、心身のバランスが崩れて肉体に集中してしまうと、肉体的な活動の欲求と、それを押さえようとする意識のバランスが崩れて、無意識に暴力的な行動や、性衝動に流れてしまうのです。近年多い、暴力事件や、風俗の乱れなどは、このバランス崩壊といえましょう。このバランス崩壊のメカニズムは、従来の社会常識と大差はありません。つまり暴力に対する衝動をスポーツで発散させろ……又は、食事を制限しろ……という、回答がある訳です。

 ちなみに、発散する以上にカロリーを摂取すれば、運動量が多いスポーツマンにも生命衝動が生じます。食事の適量は、本来、身体が知っているはずですが、人は身体に“聞いて”食事の量を決めるよりも、むしろ頭で、これぐらい食べないと……と考えますので、飢餓状態にでもない限り、生命衝動が生じるのはむしろ当たり前の事なのです。また、思春期には、身体が自発的に生命衝動を増すように、出来る限りカロリーを摂取しようという仕組みが出来ているのですね。それが性衝動であったり暴力的な行動に向けられるのです。

 また、この生命衝動が、暴力的な行動や性衝動で発散出来ているうちは良いのですが、発散しきれない場合は、逆流、内攻(自身に害を及ぼす)を始めてしまいます。具体的に言えば、体調不良の原因になるのです。例えば躾が厳しい子女などは、暴力的な行動も、性衝動も抑圧されるために、やはり過剰エネルギーが内攻します。そして、問題は、このバランス崩壊の時に、衝動が精神に集中してしまった場合なのです。

 バランスの崩壊

 精神は霊性が支配するとしても、それが肉体を通じて表現する手段は、脳や神経系統といった肉体の諸器官に頼っているわけです。そこに過剰なエネルギーが流れ込めば、精神に異状を来します。本来なら美しい清流であるべき、霊と脳の間の情報の流れが、乱流、濁流となってしまうのです。これでは正常な思考が出来なくなります。そして程度の差があれ、精神活動の異常に繋がります。躁鬱病から、分裂症、そして霊感の発現(精神科医に言いわせると分裂症に含められてしまうでしょうが)まで、様々な形で障害が現れるのです。

 また、これは必ずしも精神に過剰エネルギーが流れ込む場合だけではなく、例えば性器に過剰エネルギーが流れ込んでも、振り回される形で障害を受ける場合もあります。

 対処法

 原因が明らかになれば、対処法も出てきます。生命衝動のアンバランスが、コントロール不能な霊感の原因であるなら、食事制限や、スポーツの励行などで、霊感が減感するはずです。実際に、仕事をしている時やスポーツの最中には霊を感じないといった報告事例も多いのです。おそらく、厳重なコントロールを必要とするでしょうが、断食なども調整に有効だと思います。ただ、物が豊かな時代に、断食をすると、逆に欲望を増大させて悪影響が出るかもしれません。

 注意

 霊感が自然に発現するのは、アンバランスの結果が多いのですが、その一方でやはり前世の因縁としか呼べないようなケースもあります。霊能者になるべく道を用意されている者もいるのです。


2006-04-14

 

交霊術の背景

2006/04/15

 感じる

 人は「感じ」てから、思考を開始します。機械は感じることがないから、命令されなければ、行動を開始しません。その違いこそが、機械が道具である証です。その「感じ」をもたらす存在を魂と呼びます。(この「魂の定義」こそが普遍的なもので、心霊的な「魂の定義」は偏っています。)

 誰もが自分の中に心を感じているからこそ、心の実在に疑問を持ちませんが、心は科学的に証明されたものではありません。例えば、死亡の診断を受けた後に蘇生する人がいるという事は、奇跡ではなく科学的に心が把握出来るのであれば避けられるはずの誤診です。

 魂も心も、死後の実在も、証拠は何も無いのです。ただ人間が「感じ」ている、またはあると願っているだけの話です。

 しかし、人が、科学的に証明不可能な……すなわち五感では感じられない、「心」を感じられるのなら、その先には自己の深くに潜む魂を感じ、また他人の心を感じる事が出来るはずです。ただ、それを五感の延長で感じようとするから迷路と矛盾に入り込むのです。

 人は皆、必死に自分の魂の実在証拠を求めています。それは五感ではなく、「感じ」る事のその奥にあるのです。

 腹で考える

頭で考えるな、腹で考えよ

 一見、論理的におかしな言葉ですが、心霊を学ぶに当たって重要な意味が含まれています。五感に囚われた思考法では、物理的な実体のない霊、そして霊界の在り様を理解する事は困難なのです。勢い、霊界は四次元の世界だ、5次元の世界だ……などという比喩が登場しますが、多くの人にとって、死ねば行ける霊界よりも4次元や5次元と言った概念のほうがよほど理解が難しいはずです。難解なものを身近なもので喩えるのが比喩であるはずなのに、難解なものをさらに難解なもので例える事の不思議さ。これは、頭で理解する事に拘る事から来る過ちなのです。

 「腹で考えよ」とは感じる事の大切さを伝えているのです。

 なぜ心霊か

 心霊を学ぶ上で一番大切な事は「感じる」事です。そして霊的な視点を得る事です。人間は「感じ」て、そして思考を始めます。感じるという事が思考機械と人間との差なのです。物欲や、名誉欲、性欲等に反応を示すだけの獣性ではなく、、霊性、そして、大霊につらなる神性を育てる為に必要なのは、「感じる」事を重視し、育てる事なのです。

 そして、心霊主義を標榜する上で大切なのは、すべての行いの動機……志なのです。あなたがどれほど素晴らしい志を持とうと、その実現に必要な手段やチャンスに恵まれなければ、誰もあなたの志に気が付く事はないでしょう。しかし、人に認めてもらう為の志など、あなたの霊性には何の意味もありません。その志が社会を良くしてもあなたの霊性を引き上げはしないのです。自分が自分を認められる志を持つ事。心身の統一のために志を持つ事が必要なのです。

 霊的共感

 時折、霊感を欲しがる人が私の元に相談に訪れますが、その数は霊感を止めたがる人の数ほどではありませんそして、大抵が霊感がもたらすリスクについては何も考えていらっしゃらないのです。しかし、霊感は手段に過ぎず、それを使いこなすにはやはり努力が必要なのです。霊感を得手、それを使いこなす努力を思うなら、むしろ霊感なしに真理と、霊的共感を会得するほうがよほど安全で容易なのですが……

 波動を合わせる

 類は友を呼ぶといいます。気が合えば会話も弾み、気が合わなければ会話は途絶えがちですね。この気が合う、気が合わないということを霊能者は交霊において、波動が合う、合わないと表現します。また、見知らぬ人と仲良くなろうとすればまず共通の話題を探し始めるのが普通ですよね。このように気持ちを合わせる事を、交霊時においては、波動を合わせると表現します。交霊も以上のような人間関係を考えると理解しやすいことでしょう。

 また、一般的に交霊相手を、高級霊・低級霊と評価することが在ります。この具体的な選別は別項で扱いますが、人間関係を波動に比喩すると、体感的に相手の波動の高い低いが理解できます。例えば自分のことを話すばかりで、しかも壊れたテープレコーダーのようにおなじことをくりかえす人と話をすると、気持ちが沈み、辛くなるでしょう。反対に溌剌として感性の豊かな人と話をすると、気分が明るくなり、元気が出ますね。

 これは話し相手の霊性の高い低いと関連があります。霊格の高い人はその精神の自由度も高く、問題解決能力が高いものですが、反対に霊格が低い人は精神の自由度が低く、それゆえに問題をこじらせる人なのです。

 また、病気や借金などの精神的な重圧を背負うと、物事を何でも悲観的に捕らえるようになってしまいますね。こういう時には霊的な波動が下がっていると表現できますが、これもまた体感的におわかりになることでしょう。


2006-04-14

死者との断絶

2006/04/15

なぜ死者と交信出来ないのか……?

相手も忙しい―― 一番大きな理由は、実に当たり前のことです。相手にも都合があるから……はっきりいって、死者と話したがる人の大部分は、実にわがままで強引です。

 考えても見てください。たとえばあなたが外国に旅行したとします。あなたの家族が、その行く先々に何らかの手段を使って電話をしてきたら一体どうなるでしょう。

 出国審査で並んでいれば、電話に出るために列を離れ、飛行機に乗れば荷物を棚に納める間もなく、電話で呼ばれ、食事の際に電話で呼ばれ、トイレの中で電話で呼ばれ、到着の際に忘れ物がないかを確認していれば電話で呼ばれ、入国の審査の列に並んでいれば、電話で呼ばれる。

 挙句のはて、「そちらはどんな様子だ?」と訊ねられても、始終呼ばれて景色を眺めるどころか、必要な手続きに障害が出てくるし、新しい環境に馴染むまで不安なのに、気が散るし、いらいらがつのります。

 それでなくても、今まで肉体に納まっていた時には、相手の思念などには気が付きもしなかった人なら、今まで寂しいくらいに静かな部屋に篭っていたのに、突然何十本もの電話が引かれたかのように、騒音の直中に抛りだされます。(実際には祖先の霊たちが静かな場所に隔離する)

 別れはなるほど哀しいものですが、相手にも新しい世界に適応するための都合があるのです。哀しさでそれを妨げることは決して褒められたことではありません。

 ……え? 死者の直後に交信出来る霊媒がいるだろうって?

 交信の可否は程度ものなのです。煩瑣な交信は迷惑になるということ……それに応じる霊がいるとしたら、特別な事情があるか、または、大抵の場合、なりすましている霊がいるのですよ。

 いずれにせよ、相手の事情を勘案しないで死者と交信したがる人がワガママであるという私の主張は無視出来ないものと思います。


2006-04-14

思念拒絶の仕組み

2006/04/15

「霊体硬化」

 魂同士のコミュニケーションは、知識と体験の共有であり、実に多くの魂同士が同時に分かり合えるとしても、常に分かり合えることが便利とは限りません。それぞれの魂が個性を持っている限り、立場の違いが存在します。そして特殊な立場に立たされた時、誰もが自らの意志で真剣に考えねばならなくなるのです。

 一人で考えたい時、他人の意志が伝わるというのは、迷惑以外の何物でもありません。実は魂には、知識と体験の共有能力だけではなく、他人の思念を遮断する仕組みも持っているのです。

 魂の肉体に相当するもの……霊体、または、幽体というのは、思念によって形が変わる特殊な素材です。この素材は、思念に非常に敏感であり、あまり強すぎると硬化しきってしまいます。ですからこのような素材の身体を持っている魂にとって、強い思念を加えられると殻に閉じ込められたようになってしまうのです。

 これは反対に、魂自体が、周囲に対して強い拒絶反応を示した時も同様に作用します。自分の殻の中に閉じ込められてしまうのですね。この殻は、力を加えれば加えるほど硬くなってしまいますから、一度硬化した魂と、再びコミュニケーションを取るためには、軟化するまでひたすら待ち続けなければなりません。

 こわばりをほぐすような、繊細な振動を加え続けることで早める事も出来ますが、あくまでも程度の問題で、殻に閉じこもった魂を無理に引き出すことは出来ません。人は死後、しばらくの間眠り続けるというのは、ショックで身体が硬化した状態をいうのです。

憑依の場合

 憑依の体験のある人、特にひっきりなしに声が聞こえたり、何かが見えたりという体験をお持ちの方は、「霊体硬化」の硬化について疑念を抱くかもしれません。しかし、憑依の問題というのは、魂対魂の直接の争いではなく、一つの肉体を巡った主導権争いなのです。この場合、自身の魂を硬化してしまったら、自分も手を出せなくなって、相手に負けてしまいます。

 ですから、憑依の問題は、肉体と魂の主従関係の確立なくして、解決は不可能ともいえます。それは浮気性の配偶者を得た者の不幸と似ています。信念、または信仰心(特定の宗教を意味しない)を持たない人は、霊的な問題を解決することは不可能に近いのです。

 不要な喩えかもしれませんが、空き巣に入られる家は、留守宅に限られているのです。そして強盗に対する備えと、空き巣に対する備えは、別な物なのですね。


2006-04-14

 

霊感とは

2006/04/15

「私には霊感がない?」

 「私には霊感がない」と自認する人は、ほとんどの場合、人生に非常に悪い影響を及ぼす、重大な誤解を抱いていらっしゃいます。

 人間は、死んで突然、魂に変わるのではなく、肉体を持った魂なのです。生きていても魂なのですから、死なねば他の魂とコミニケーションが取れないというのはまったくナンセンスです。それとも肉体的な障害者と同様に、死者の魂にも障害があるのだろうか……実はありますが……基本的に問題は別な所にあります。

 確かに霊的なコミュニケーションの取り方には、うまい下手があります。この事を指して霊界通信などは、「肉体の牢獄の鉄格子の隙間から外を覗くだけ」等と表現しますが、これは他に手段がないという事ではありません。皆は、他に手段がないと信じきって疑問を抱いていないだけなのです。

 霊感は発想力の源なのです。ですから本当に霊感がない人……周囲から霊感がないと思われるのは、頑固で融通の聞かない人や、それこそ生きる屍となっているような人に限られます。

 そして、魂の障害とは、他の霊とのコミュニケーションの方法・手段の有無というより、他の魂を侮蔑し、認めず、大勢の中にあっても孤独となる魂のあり様のことを指します。

 会話は交わせても、心を交わせない……こういう人にとっては死後の世界の研究よりも、真の意味での心霊を学ぶ必要があるのです。

 

霊感とは?

 死後、肉体を失った後も、視覚、聴覚等の肉体的な感覚を用いたがる霊は、よほどの低級霊に過ぎません。

 肉体を捨て去り、魂の真の自由を得た魂ならば、霊視、霊聴などといった手段を非常に面倒に感じます。言葉によるコミュニケーションでは、心を十分に表現することは出来ませんし、出来ると信じているのは、傲慢というより、薄っぺらな感情しか持ち合わせていないといえるでしょう。

 この様な霊格の霊たちが用いるコミュニケーションの手段は、もっぱら、知識や経験の共有なのです。この様なコミュニケーションがなった場合……霊的交感とよぶ……話し掛けられたというより、「分かった!」という感覚に包まれます。聞くというより理解するという感覚なのです。

 たとえば、職業的な直観、洞察、芸術的な直観や発想などのインスピレーションのすべては、それが自己の魂から生み出されたものであれ、守護霊や背後霊たちの外部の魂から生み出されたものであれ、まさにインスピレーション……霊感なのです。

 多くの人が、霊感と思い込んでいるもの…… 霊視、霊聴などの感覚は、霊媒・霊能者の職業的な技能であり、これらは交霊力、または霊媒力などと呼ぶべきものです。そして、交霊能力は特殊な才能であるだけではなく、特殊な環境を要求されるものですが、霊感自体は誰でもあるのです。


2006-04-14

夫婦の絆は死後どうなるか?

2006/04/14

 かつて、「夫婦は死後、別々に住まなければいけないというのは本当か?」という質問を受けました。私が言い出した事であるなら説明も出来ますが、この質問の動機が分からず大分面食らったものです。

地上の結婚は死でご破算

 霊界(ここでは中級以上)とは、誠意だけが民法としての機能を持った世界です。あえて民法と称したのは、互いの誠意だけでは解決出来ない現実も無視する事は出来ないからです。なお、ついでに申し上げますと、下級霊界とは力だけが法であり、上級霊界は摂理のみが法として働き、どちらも議論の余地、約束・契約の余地がありません。

 さて、中級霊界に話を戻すと、地上の約束・契約はさして重要視されることはありません。そもそも、地上というのは精神に対する制約が非常に強い場所であり、様々な束縛から、心に反した約束を強いられがちな世界だからです。

 たとえば暴力で脅かしたり、経済上の理由から無理強いされたような契約は、地上では相応に意味があっても、死後の世界では逆に精神的暴力行為の証拠ともなり得ます。要する日常での約束や契約の履行を死後に要求すると、かえって自分の立場を危うくする事もあるのです。

 で、本題に戻りますが、地上での「永遠の愛」の誓いなども死後の世界では一応、ご破算と考えるべきです。その履行はあてになりません。不誠実な相手ならば力ずくで契約を破棄するでしょうし、生前の因縁から解放されて百年の恋が冷める事もあります。なにより、地上では有限の時間しか生きられないのに、永遠について約束するなど笑止な話です。実行能力の伴わない契約に実態はあり得ません。

 しかし、契約は無効であるとしても、お互いにその契約を守る事まで否定するものではありません。つまり、一方が守る気のない約束は、死後は無効となりますが、双方が守る気のある約束は死後も有効である事は地上以上に確実です。なにしろ、地上的な偏見や、なにより経済的・物質的な制約などが全くない世界なのですから。つまり、恋愛小説に出てくるような、親を助けるために嫁に行くとか、生活苦から別れなければいけないといった事情は起こりえないのです。

 また、配偶者と死別後、生活上の理由から再婚した人を事例に考えて見てください。もしもご破算にしなければ、死後の世界は夫婦関係の訴訟だらけになってしまいます。まして、恋愛問題は感情的な要因がとても強いのですから、もう大変な騒ぎとなるでしょう。

 さらにいえば、すべての人に当て嵌まるとはいえませんが、地上の結婚生活は互いの魂を磨き合うために組まれた相手という通信もあります。つまり、互いに傷つけ合うが、でも恋愛感情があるから別れられない……「互いに好きあっているが、同時に互いを苦しめ合う」という、痛々しい関係もあるのです。

 こういう関係が永遠に続くなら、死とは永遠の苦しみに他ありません。

 というわけで、死とは夫婦の絆の精算を意味します。死によって絆は断たれ、その後は当事者の誠実さで再編される事となるのです。

……まあ、これだけ文章を連ねて、あえてまとめを用意するのは説明不足の言い訳ですが、要するに、地上の約束・契約などは摂理に反する事が往々にあり、それ故に有意義と認められないのだという事を踏まえてください。

死後、別々に住まねばならない?

 端的にいえば、私は霊界で夫婦仲睦まじく暮らすカップルを幾人も知っています。また、あるレベル以上の霊魂は、必ず男女一対で姿を現します。その他、霊界通信を事例としても、ワアド著、浅野和三郎・粕川章子共訳の「幽界行脚」などにも、死後の夫婦生活の記述があります。

 自身で受けた通信でも、死後、生前の結婚は精算されるとしても、だからといってすべての夫婦がそのまま離別するわけではなく、改めて結婚する事も聞いています。

……従いまして、死後、夫婦が必ず別居しなければならないという事実を私は知りません。

 さて、上述、「夫婦は死後、別々に住まなければいけない」という話ですが、「霊界通信 小桜姫物語に出ているではないか、霊媒は勉強していないな」と、捨て台詞され、私は肩をすくめて当時の議論は終焉を迎えました。

 しかし……死後、他の世話を受けずに暮らせるようになる前に夫婦生活を再開したがるというのは、地上的感覚でいうなら生活能力のない二人が結婚するような滑稽さがあります。生活力が身に付くまで待てないとしたら、その恋は、何とも衝動的な危うさがあるのでしょうか?

 僅か百年程度の地上の生ならば、一年の忍耐は人生の1パーセントにあたります。それが待てぬほど大きいのか、どうかはともかく、限られた時間を有意義に使いたいという想いは私も同情を寄せる所です……というより、私自身も同情を寄せて頂きたく思わなくありません。

 が、永遠の仲の数年間は……待てぬほどの時間でしょうか? 生活力を身につける以前に配偶者の人生に責任を持てるのか? 待てぬというのはあまりに無責任に思えます。……つまり、死後の世界の義務教育期間中ぐらいは、別居させられても文句をいうべきでないと私は思います。まして、私信のやりとりが許されているのですから。

 いえ、義務教育が過ぎても同居しない例も知っています。たとえば彼の小桜姫などもそうでしょうが、別にこれは三浦荒二郎と小桜姫夫妻の霊格の問題ではありません。そもそも、男女が惹かれ合うには、互いの精神性が似ているがゆえに求め合い、または、互いの精神性が違うゆえに尊敬し合うと、二通りに分類出来るでしょう。前者の似ているが故ならば、同じ境涯という事で同居に苦はなくとも、違うが故に尊敬し合えるならば、同居することは相互、またはどちらかの忍耐を必要とします。

 つまり、同業夫婦ならばいつも一緒だが、大抵の場合、夫婦は分業しているもので、分業しているならば、互いの都合の合う時にだけ一緒に過ごすのが互いに幸せなのです。

 というわけで、小桜姫物語に記載された、夫婦は別居が当然というのは、小桜姫の両親についていえば、「おそらく修行中のために別居」であり、小桜姫についていえば「境涯が別なので別居」というわけで、どちらも普遍的事実とはいえません。普遍的でない以上、「(一般則として)夫婦は別居が当たり前」という話には、私は頷けないわけです。

 #2009-12-27補足

 小桜姫物語には、当時の霊媒を努められた、浅野多慶子夫人による後日譚があり、小桜姫にいろいろな都合が有ったことが明かされていますし、後日譚を読まなくても、太平洋戦争以前の日本において、子供を産めなかった夫人がどのように扱われるかは、容易に想像がつくはずです。実は、小桜姫の夫、三浦荒次郎義意には子孫があり・・・となれば、小桜姫が夫とは別々に住まねばならない、というのは、心霊的必然性が語られてはいても、実際には、家庭の事情によるようです。

 

この知識が役に立つのか?

 無駄な知識とは思いませんが、同時に有益とも思いがたいものです。地上的な理由から熱烈なカップルも、死して事情が変われば水と油が別れるが如く、静かに互いと別れる事もあるし、永遠の共生を実現するカップルもあるでしょう。大事なのは、文章を手掛かりとして、しかし、文章に惑わされず、地上の視点を手掛かりとしても、地上の視点に惑わされず、霊的視点を大切に、そして、自分の霊性を信じて、更に前に進む事が大切だと思います。

 夫婦、または恋人同士の絆とは、約束の仲にあるのではなく、互いの誠意の仲にあるのは地上でも同様です。互いがお互いの慰めとして言葉では表わしきるはずのない誠実さを言葉にするのも良いでしょう。でも、自身の霊性を超越した言動……偽善的な言動に意義があると思うのは幻想に過ぎません。恨まず、ただ、自分の誠意をつらぬく。それが出来てこそ、真に恋が出来るのでしょう。


2006-04-14

 

同一化障害

2006/04/14

 同一化

 肉体の制約を離れた霊たちは、容易に知識や体験を共有できます。これを霊的交感と呼びます。この霊的交感を用いて、類霊団や守護霊団は、知識や体験の共有を行い、共に高めあっていくのです。

 確かに、霊との会話……言葉の交換というのも成立します。しかし、それは、意識のすりあわせに必要な、いわば挨拶のようなものですし、本当の交霊が知識・体験の共有であるからこそ、霊格の違いによって交霊の制限が生じたりもするのです。

 真の交霊が知識・体験の共有であるという事は、きちんと交霊が行われている限り、勘違いや不十分な理解などは存在しない事を意味します。しかし、同時に“魂の器”が合致していないと、互いの知識・体験の共有は非常に危険なものとなります。強い相手に引きずられて自己を見失う事があるのです。実はこれが憑依霊現象の心霊的な原理となっています。

 互いに異なる価値基準や、善悪観をもっている者同士が、知識を共有するならば、それは互いの生きてきた過去を否定する事にもなるでしょう。協調ではなく足の引き合いになってしまうのですね。

 しかし、自己の過ちや、問題点に気がつき、それを直そう、正そうという、謙虚さを持ち合わせている霊同士であるならば、互いの価値基準や善悪観の違いは、過去を否定するのためにではなく、互いの生き様を高めあう力となるのです。

 交霊は知識と体験の共有ですが、その結果は、必ずしも足し算には成らないのです。時には引き算として働き、時には上書きとなって働いてしまいます。

 そして、これは人間同士の付き合いにも当てはまる事なのです。

  足し算

 人との違いを尊重し、他の人の持つ知識や体験に敬意を払える人とならば、互いを高め会う事が出来るでしょう。そのような人と意見を交換するのならば、それは互いの知識と体験を足し算で増やす事が出来ます。この様な友人を見出し、ゆっくりと誠実に友好を深めて、自分の財産としていきたいものです。

 と同時に、自分自身が相手にとってこの様な人物になる事を心がけたいものです。

  上書き

 自分の生き方に自信が無く、救いを求めている人が、積極的に生きている人と出会うならば、自らの霊性を上書きされ、自己を消去しかねません。

 実は私のHPには自己の消去を防ぐ為の配慮が為されている事にお気づきでしょうか?

  引き算

 では、自己の知識を過信し、人の間違いを探す事に躍起になり、真偽を問う事ばかり考える人と関わるとどうなるでしょうか?

 いうまでもなく引き算にしかなりません。

 付き合いたくない!

 さて、私が断固、交流を拒絶するタイプの人がいます。この事は私の周囲に困惑を引き起こすようですが、私も上手に説明が出来ずにいます。“勘”という答えは何の説明にもならないでしょうから、あえて説明を努力してみましょう。

  真理よりも名誉

 いうまでもなく、人間関係に引き算をもたらす相手と関わる気はありません。真偽はいずれ明らかになるでしょうし、答えはいずれ目の前に姿を見せるかもしれません。が、真偽に拘れば、物事を考える筋道や、人間の誠意が見えにくくなるものです。

 まして失敗という最良の教師を軽んずる者は、人生の最後に必ず大きな失敗を仕出かすでしょう。いや、大きな失敗で人生を閉じるという方が適切かもしれません。

 また、真偽に拘る者が議論を望むのは、真理を求めてではなく、名誉を求めていると私は考えます。 彼らは事実よりも自己の名誉に拘り、解明よりも相手の否定に務めます。彼らにとって友人とは対等な関係ではなく、自己の賛助者なのです。ですから、真理を説いた所で分かり合うことなく、ただ関係が途絶するだけの事でしょう。

  心ではなく言葉を話す者

 人は文字や声に心を乗せて相手に伝えようとします。言葉は心の乗り物であり、意志を伝えるのは言葉ではなく、言葉に乗せられた心なのです。しかし心の乗り物は言葉だけではありません。歌や踊り、感情等で伝える事もあります。料理や飾り付けに心を乗せる場合もあるでしょう。

 いずれにしても、人間同士の付き合いにおいて大切なのは、心の表現手段ではなく、表現手段に乗せられた心なのです。その事が分からない相手では、互いに理解しあったつもりになっても、本当に理解しあう事は不可能でしょう。

  他を否定する者

 人間には多様性があります。その多様性こそが人間全体の可能性となっているのです。社会に危機が生じた時、それを救う能力を持った人が人々の前に姿を現します。それを可能にするのは、人間の多様性なのです。教育や社会風土として、人の均質化を進めるならば、その息苦しさを打破するかのように乱暴な行動をする人が現れるのもまた、人間の多様性がもたらすものといえます。

 (ええ、危機の際に十分な能力を持った人が現れない事もあるでしょう。そうなれば危機に歯止めがかからないというだけの事です)

 私は、誰かの自己を消去する事など望みはしません。時には、風雨に吹き飛ばされそうな自我の芽を無言で庇う事もあるのです。しかし、共存と歩み寄りを考えず、一方的に何かを押し付けようとする人の為に、私は自分の何か、例えば時間や掲示板スペースを捧げる気持ちも持ち合わせていません。

 人を責めると我が身が傷つく

 多くの人にとって「生きる」事は、一つの目的である事でしょう。しかし、私にとって生きる事は、一つの手段にすぎません。そして手段は目的の為にあるのですから、そこに自ずと制約が生まれます。

 時として人は、望んで人を傷付ける事をします。否応も無くぶつかるのではなく、自分の劣等感や、孤独感、または満たされない名誉欲や退屈さなどから、生け贄を求めて他人を傷付けるのです。その時に後ろめたさのしっぽを出して、“正義”の名を借りる事もままある事です。

 それが自らの魂にとって、どれほど大きな傷になるのかも考えずに。

 自己の保身の為に、人を傷付けるのは最低の行為です。それは一時の現実逃避がうみだす、幻想的な勝利に他ならず、傷付ける以上に自身を傷付ける事に気が付かない愚かな行為です。

 本当に強いのならば誰にも依存せず、自身の力だけで生きればよいのです。

本当に正しいのなら、わざわざ誰かを否定しなくても、正義を信じて生きていけばいい。

 誰かを傷付けるという事は、どれほど相手を見下していても、黙っていたら相手に負けてしまう事を認めている行為なのです。信念や自己の業績を暴力や罵倒で補わなければならない弱さを認める事なのですから。

 現世は、霊界と比べて、あらゆる面で周囲に依存して生きていかねばなりません。周囲のすべてを否定して、ただ自己の魂の中にこもっていられる霊界とは違い、現界において周囲を否定する事は困難なのです。たとえ心が現世を否定しても、肉体は周囲の援助を受け入れてしまうでしょうから、狂気や痴呆、そして、意識の損失なども、逃避にはなっても周囲の拒絶にはならないのです。

 少なくとも地上に生を受けたものは、生きる努力と共に、共生という事を学ばなくてはいけません。共生の必然性が霊界に無いからこそ、生を受けるのだともいえるのです。とすれば、共生を拒否したり、誰かに、何かに一方的に寄生するような人生を送れば、環境を変えて何度も「輪廻」を繰り返さなくてはならないでしょう。

 ここでいう「輪廻」とは祝福された再生ではなく、学業でいう所の落第に他なりません。

 一体、周囲がどんどん幸福をつかんでいく中で、自分だけが延々と輪廻の中で同じ苦しみにあえぎ続ける事が、果たして地獄の責め苦にさらされるのとどちらが楽でありましょうか。

 私は知っています。

 他人を否定し、自己の優位を確認したい人にとっては、憎むべき対象がいる責め苦よりも、人々に置いていかれる事の辛さこそが耐え難いと。

 人生は容易に、地獄よりも住みにくい場所になるのです。

 水と油

 霊界は決して平等不偏な世界ではありません。(そもそも平等不偏というのは権利のことであって立場のことではありませんが) 霊格毎に互いに交わらぬ階層世界となっています。その原因は、霊同士のコミュニケーションが同一化を基本にしていることにあります。あまり魂の志向が異なると同一化に障害が出るのです。

 そして、霊界の底辺には他の霊達と同一化する事に障害のある魂が集まります。他の意志を上書きしようとするもの、相手を否定しようとするもの、独善、奇矯、愚劣などといった特質の魂は他と同一が困難であるために、拒絶され、またお互いに拒絶しあい、でも、寂しさからお互いを求め合って、出会っては争い、争っては分裂しを繰り返すことになります。そうしてお互いの気質が丸くなっていくならばまだ良いのですが、負けず嫌いは争うほどに憎しみを増し、最後には悪霊と呼ばれるようになります。


2006-04-14

類魂説

2006/04/14

 進化の道筋

 魂とは、人間に付属する物ではなく、人間の主人なのです。物質的生命が誕生する以前より魂はこの世界にあり、自我の大海を漂っていたのです。時を経て、自我の大海は自らの表現手段として、生物の発達を促した、その過程で得られた最良の手段がいわば人類なのです。そして、自我の大海が表現手段を求めたのは、多様化と複雑化こそが、自身の進化の道筋と理解していたからです。

 しかし、自我の大海にとって、進化とは単に多様化と複雑化を無秩序に押し進めることではありません。もしも、争い、敵を打ち砕くことに、自らの力(時間や努力)を費やせば、その固体の集団の中での地位は向上しますが、集団全体の力はむしろ落ちてしまいます。

 ですが、相手を滅ぼさず、ただ相手を凌駕することに熱心であれば、自身に宿るすべての力を自らの向上に当てる事が出来ます。それこそが自我の大海にとって一番利益となることです。そして、他の魂の知識や体験を吸収すればより早く自らを向上させる事が出来ます。

 われわれは争いを遠ざけ、神の被造物と共存・共栄の道を歩むのであり、その共存・共栄の精神的境地に至る事こそが私たちの霊的向上、そして霊的進化の第一歩なのです。

 知識と体験の共有

 個々の魂は、自我の大海より至ったように、魂の持つ記憶もまた、記憶の大海の一部なのです。それは自我の大海と同じく、宇宙が持つ霊的構造物の一部を成しています。

 人間が人生の中で体験したことは、魂に個性を形成すると共に、脳に記憶されます。肉体が滅んだ後、魂は、脳に収められた記憶を失いますが、人々が知的活動によって生み出した記憶は、すべて記憶の大海に収められていきます。その収納方法には、個性・個体の別がありませんから、特に生前の記憶を引き出すことは容易ではありませんが、同時に不可能に思えるほど困難ではありません。しかし、元来個体の別が無いために、記憶の大海に収められている記憶は、個人の記憶として取り出すよりも、知識として取り出すほうが絞り込む必要がない分、よほど容易なのです。

 このように、すべての魂には生来、共存・共栄、そして知識と体験の共有の手段が整っているのです。それを阻害しているのは個体として生きているときに誤って育てすぎてしまった自我の存在なのです。

 協調と調和

 死後の世界において進歩を遂げるほど、一層この類魂の必要性を感じる事になります。そしてより深く類魂同士の絆を深めて、より多く仲間同士の知識と経験を共有するようになります。霊性の向上が進むにつれて、仲間との協調生活がいかに美しく、またいかに楽しいかがしみじみと判ってくることでしょう。

 人には得手不得手があります。互いに助け合い補い合える仲間のいる幸せ。これを感じる事によって生命の深みと強さとは一段と加わり、共に生きる喜びを感じる事で、地上生活では免れることのできない利己的精神……他の犠牲になしには人は生きていけない……からの解脱が初めて実現するのです。

 類魂

 類魂(グループソウル)というのは、複数の霊の集合体であると同時に、一つの意思を持った存在です。核となる「支配霊」の意思に応じて、類似の精神を持つ「魂」達が作り出す共生体の事を意味します。一つの類魂に含まれる魂の数は二十の場合も、百の場合も、また千の場合もあり、その数は決して一定してはいません。

 人間の意識が複数の精神活動の集合体であるのと同様に、心霊的生活においてもまた、核となる霊によって結びつけられたいくつかの魂があり、そしてそれらの魂は支配霊によって育まれ、成長を続けるのです。そしてある程度の成長を遂げた魂になると、再び現世生活を営もうとは思わなくなりますが、彼らの支配霊は、必要に応じて転生を命じます。 そして支配霊が、霊界から所属する類魂達を指導し、霊的進化の各段階に置かれている、これらの魂達は、知識、体験を共有し互いに影響を与え合い霊性を向上させていくのです。

 地上生活をしている人々も、もちろんある一つの類魂に属しているのですが、人間の本質、意識の中心、支配者としての魂以外の類魂メンバーは非物質世界・霊界で活動しています。そして、もしも皆様が人間の霊的活動を理解しようとするのなら、自らが類魂に属し、その中で活動する事を理解する事が必要になります。例えば、単純な因果律の考え方では説明できない、現世生活の不公平、不平等についても類魂という考えなくしては説明がつきません。

 天才を産み出すもの

 この類魂説は、科学的な法則とは異なり、必然性ではなく合理性によって支配されているので、転生のすべてにあてはまる法則ではありません。しかし、この類魂のあり方を、天才を産み出すための一種の投機と考えると、興味深い事が明らかになります。

 ある特殊な才能に秀でた類魂の内部で、ある特殊の能力が連続的に開拓されたとしたら、最後にはきっとその特殊の能力が、地上の代表者の上に顕著に現れる事でしょう。すなわち数代に渡り蓄積された一切の傾向が、驚嘆すべき無意識的知識となって、地上の代表者の上に発現するのです。非凡な芸術家や音楽家、その他の天才児の出現を最も合理的に説明するものは、この類魂説といえましょう。

 知恵の牢獄

 自らの霊性に気がつき、類魂の必要性を感じたときに、人は一大変化を遂げます。人はそのとき、自ら歩んできた人生の意味と、精神のもつ力を会得したいと考えます。このときに人が陥りやすい過ちがあります。その人が類魂の目指す向上の道に正しく従っているのならば良いのですが、時として、努力や向上の反動として生まれる高慢さや、利便性の反動に生まれる安易さに、囚われてしまう事があります。

 うっかりすると、類魂が内在するこれら暗黒面にはまり込んでしまい、幾千万年にもわたって、一歩もその中から踏み出せない事もありうるのです。この暗黒面とは、卓上の空論的な宗教的信条やオカルトに関する知識であり、すべては迷信的、または現実逃避的空想が生み出した、単なる夢であり、幻でありますから、そこに囚われても何の進歩も発達もあり得ないのです。

 このような心境が進歩の大敵であることは、いうまでもありません。それは一種の知的牢獄で、そこでは過去の地上の考えによって、本来の可能性ががんじがらめに縛られているのです。向上の途にある魂達が、客観的にその宗教論理や哲学を学ぶのはかまいませんが、そのなかに引き留められたり、拘束されたりしてはいけません。物事を学ぶのに言葉の細かな定義に囚われて行いを忘れることなどもってのほかです。

 物質的な世界に住めばこそ、誤った知識は非現実的として退けることが出来ます。しかし学ぶばかりで何も行わなければ誤った知識を学んでいても過ちに気がつかないことでしょう。

 個々は調和を目指す

 単体の霊の力は、非常に微弱である事は、間違いのない事なのです。しかし、その一方で霊の強大な力を感じる事が数多くあります。例えば、心霊を共通の話題とする友人たちとのオフ会などでは、守られている事、霊界の配慮のある事をたびたび感じる物なのです。これはもちろん、信じない人にとっては偶然で片付けられる物でしょうが。

 そして、この強大な力の源は明らかなのです。霊界と地上との接点は、霊妙で、小さく、一つ一つは弱い物です。しかし布の縦糸と横糸が密接に接しているように、非常に綿密で木目細かく接点を有しています。ですから単体の霊、単体の意識に出来る事は小さくても、協力者の霊たちと相互に意志をあわせると驚くほどの作用を及ぼす事が出来る物なのです。

 この事は霊界の望む物を暗示もしています。地上に及ぼす力は、より多くの意志を撚り合わせる事によって強まります。となれば、力の大きさは、より大勢の幸せのために役立つ事によって決まるといっても過言ではありません。そして、この意志をあわせるという事は、類魂という思想に集約されます。

 地上で類魂を得る

 霊界の良い作用を効率的に受ける上で大切な、受け皿作り、つまり人間として周囲の人とどう付き合うかといった事について考えてみたいと思います。大切なのは、霊界に行っても付き合えるような友好関係であり、それは類魂が成立するのと同じ原理によって造り上げるべきです。そして、類魂の目的とは、知識、体験を共有する事によって、独りで学ぶより多くの知識、体験を効率よく吸収し、それをもってより早く霊性向上を目指そうという物です。

 そして類魂を組めるようになるには、ある程度の霊的な成熟さが必要になります。財物を共有するには誠実さが何よりも大切ですし、仲間の失敗に拘らない寛容さも大切になります。共に学ぶという観点からは、非難、中傷、イヤミをいうようでは仲間の資格がないといえます。失敗は最大の教師である以上、失敗を笑い、また、真偽の議論に拘れば、仲間の得た教訓・失敗を自分に生かす事が出来なくなるからです。

 このように、仲良く、そして互いに向上を目指す仲間こそが類魂と呼べるのです。類魂の場合には、内部に派閥が出来る事はありません。もちろん、興味の対象は一様ではありませんから、時々に分裂、結合を繰り返す物ですが、それでも自然と溶け合い、互いに違和感がないのが類魂なのです。なぜなら、真理は一つですし、目指す物は自身の向上ですから争う事も、志を分かつ必然性も無いからです。そこに過ちがあったとしても、志さえ正しければ、自然と道は正されます。

 群魂

 反対に、自己の主張ばかりで、相手に認められないとなると数を頼み、また、相手の誹謗中傷に走るような者が参加するグループは、類魂ではなく群魂と呼ばれます。

 群魂にとっての求心力は、真理の探究でも、自身の向上でもなく、群れる事であり、群れる事の快感の前には、真理の探究も向上心もありません。新しい境地を開く事よりも、重箱の隅を突つく事に終始し、意見の異なる者は攻撃し、賛同者にはおもねり、知識を実際に役立てるよりも人の攻撃に使うのです。

 また群魂に参加すると、霊性の向上は停滞します。仲間に寛容さが無いために、失敗を恐れ、自らの失敗を認める勇気を失い、その結果、向上に対する積極性を失うのです。

 つまり最大(最良ではない)の教師である失敗から学べなくなるのです。


地上生活に生かす類魂説

 

 類魂

……人の経験や知識を自分の経験や知識にする仲間。

 共に苦労を背負える相手がいるのなら、苦しくても不幸ではありません。まして力を合わせて解決すれば、喜びは倍以上ですよね。

 群魂

……たとえ苦しめあっても、寂しさから離れられない仲間。

 ささいな痛みでも、第三者に嘲笑われれば、とても不快で苦しい物になります。ささやかな心遣いの有無で、人は幸せにも不幸にもなります。人は一人では生きられません。たとえ苦しめあいながらでも、仲間を求めようとします。その苦しみの中で共に生きることの大切さと、そのために必要な心遣いを学んでいくのです。


審神術

2006/04/14

 交霊相手の霊格を見抜くのに必要な技術。それが審神術です。机上の空論で審神術は行うのは非常に危険ですが、人間関係においても生かせる有益な技術です。しかし、 「審神者」の章でも説明したとおり、霊格を見抜く方法に、安易な手段はありません。

 また、霊格を計る基本は、相手の知性(教養……知識ではありません)すなわち、相手の反応がどのような境涯かによって測ります。

 審神術

 霊能者と言うのは結局、情報の仲介業なのですから、その情報の確度を高める為に、交霊相手の霊格を見抜く審神術を会得する事が必須となります。しかし、基本的に100パーセント確実な方法はありえないと思います。

 日常会話においては、主観的な会話の比率が高いものです。そして主観的な会話は真偽が問題になることはありません。客が「コーヒーより、お茶が好きだ」といえば、お茶を出せば済む事ですよね。

 しかし、交霊で重視される情報は、真偽が大切な事実と予測に関する事柄です。そして真偽は実際に試してみないと確認出来ないものでから、最初から拒絶するか、騙されるのを覚悟して試してみる必要があります。騙される事を覚悟で信じ、経験を蓄積して、信頼関係を確立していく事が大切なのですね。ですから付き合いの浅い相手の場合、重大な影響を及ぼしそうな事柄は信じないで、信頼出来る相手に検証してもらうこともあります。

 信頼関係の醸造も重要です。通常の人間関係でも、単なる茶飲み友達として信頼出来るというのと、自分の人生や財産を預けられるほどの信頼とは別なものなのです。相手にとっても大切な……必要な人間になるように努めなければ、自分が望むだけの加護を与えてはくれません。

 相手を過信すると、本当に必要な大事件が起こった時に「そこまで面倒見る事は出来ない」と断られる事もあります。それは相手が非常だからではなく、付き合いの深さがその程度だという事なのです。

 次に重要な要素は、個人識別です。たとえ特定の霊と信頼関係を結んでも、偽者に騙されては信頼関係が意味を成しません。そして個人識別はとても難しいものです。

 当掲示板には、突然にハンドルネームを代える人がいますね。ハンドルネームを変えてもわざとメールアドレスなどを残している事も多いのですが、投稿文を読めば、誰の投稿だか、分かる事も多いものです。ただしこの場合、投稿文が短すぎて、例えば挨拶だけであると、どんなに親しい間柄でも投稿主を判断する事は出来ないでしょう。判断材料は豊富な方が間違いが少なくなるものです。

 しかし、多くの人は、ハンドルネームで相手を区別し、どんな物の考え方をし、文章にどんな癖がある人か……といった、内容で相手を区別する事が苦手です。そして、霊媒初心者が低級霊に騙される一番の要因がここにあります。名前は容易に偽れますし、名文・美文も引用する事が出来ます。偽れないのは自在な返答だけなのです。どんなに探しても得られなかった回答を与えてくれた相手は、たぬきを名乗ろうが、狐を名乗ろうが、質問者よりも上位にある霊と判断出来るのです。

 しかし、いくら自分の知識と相手の知識を比べた所で、自分以下の知識の持ち主を見極める事が出来ても、相手がどれほど上位の霊であるかを判断する事は出来ません。まして、実地に試す機会もない、霊的知識を基準に相手を偽者と決め付ける事は、結局、自分の間違いを正すチャンスを失う事になります。

問題を整理すると、

  1. 騙される事は避けられない。 騙される事を前提に交際を広げていく。
  2. 信頼関係を大切にする。信頼関係を片務にしない。
  3. 個人識別をおろそかにしない。
  4. 自分の知識で相手を判断しない。

 となります。そう、技能系の仕事をする人は、最初から難易度の高い仕事に取り組みはしないものなのです。

 無知の智

 人間の理解力には、限界があります。自身の知性を超えたものを理解する事は出来ません。理解出来ないものの正否を断定するのは、僭越を越えて愚かと言えます。しかし理解を超えたものがあるからこそ、勉強に目標が出て励みになるのです。地上において、すべての答えが出たのなら、もう学ぶ必要など無いではありませんか。それは成長の限界に至った事を意味します。

 人は知性や霊性の向上と共に、理解力が進んでいきます。今慌てて、正否を断定しなくても、いずれ正否が自ずと分かる時が来るのです。今まで当たり前に思えてきた事が、当たり前に思えなくなる。それもまた知性の向上の結果なのです。「バラの木にバラの花が咲く」これがどうして、当たり前の事なのでしょうか。人間であるという事は、人間の肉体を持って生まれてきたから……ただそれだけの理由でしょうか。

 世の中にわからない事があるのは、決して恥ずかしい事ではありません。それはあなたの生に意味があるという事なのです。

 世の中にわからない事が無いのは、とても恥ずかしい事です。それは疑問を持てるほどには世の中を知らないという事なのですから。もしも疑問が持てないままなら、あなたの生はすでに、後退期に入った事を意味します。 このような霊性の境涯は夢幻界なのです。

 一を聞いて十を知る

 一を聞いて十を知るのは、知性のなす所です。しかし勘違いしてはいけません。世の中には、一を説明するだけで、十を証明したと言い切る人の何と多い事か。小手先の手品や、口先だけの美言で偽真理を売り込むの者を見抜く事こそ、智性を持った者に望まれる事です。まして、一を聞いて十を知ったつもりになるのは、机上の空論しか扱わない証といえます。真理は戸棚の飾り物ではなく、人生に有益な実用品なのです。そして真理を生かさずして霊性の向上はありえないのです。

 もとより高級霊界の事柄は、言葉では表現できない美しさと精妙さを持っている物なのです。それを物質的世界の言葉での表現に拘れば、地上界の智慧と差が無くなってしまうのです。まったく高級霊界の叡智をわざわざ色褪せさせてから、智慧として取り込もうというのは、なんというおろかな事でしょう。

 このような過ちをするのも、変化と向上を嫌う夢幻界の住人でしょう。

 真理は智性に宿る

 真理は智性に宿るのであって、知識に宿るのではありません。辞書や聖書に出てくる言葉は、容易に引用出来ます。霊訓からの言葉も同様でしょう。しかし、意味を理解して使っている者は希だという事を認識して下さい。

 例えば、あなたが何かの商品を買い求めたとします。その商品が偽者でないかどうかは、ラベルや容器ではなく、中身である事に留意して下さい。ラベルは付け替える事が出来ます。容器は詰め替える事が出来ます。しかし、容器やラベルが違ってもあなたが必要とするのは中身のはずです。

 霊的な叡智を確かめるのに、誰でも引用出来る言葉や、知識さえあれば智慧なくても答えられるような質問で相手を確かめるような真似をせずに、自分には気が付かないような、ハッとする気付き……「感じる」事を大切にして下さい。

 少なくとも物質的な豊かさよりも精神的な豊かさを貴ぶ者であるのなら、ラベルや容器を集めて喜ぶような真似はしないはずです。

 知識や記憶を引き出すのに必要なのは、霊性ではありません。物知りが必ずしも人徳者ではないのです。人が学ぶのは必ずしも楽しいからではなく、人を見下す事に喜びを感じている場合もあるのです。相手の霊性を測るのはあくまでも相手が、大智を備えているかによります。そして真に知識を理解しているかによるのです。

 木を判断するのに実を見る事はとても良い事です。どんなに立派な名前が付いた大樹であっても、その実が苦く、食べられない物であるのならそれはあなたが必要とする木ではありません。どんなに見てくれが悪くて名前が汚くても、あなたの喉を潤す実を付ける木ならばそれはあなたが必要とする木なのです。まして、名前など何とでも付けられます。名前や言葉や目先の知恵に騙されてはいけません。

 記憶

 人間の生前の体験は、魂に刻まれてその霊性を方向つけます。例えば苦労をした魂なら、人の苦労を見捨てられなくなるか、人の苦労であっても見るのも嫌になるか……というように魂に刻み込まれるわけです。

 同時に記憶として、脳に蓄えられるのですが、当然、死後に魂は脳を放棄せざるを得ないのです。もちろん魂は、必要に応じて記憶の大海(永遠の大道・記憶の章を参照のこと)より、記憶を引き出す事が可能ですが、それは安易な行為……少なくとも交霊中においては簡単な行為ではありません。つまり交霊中の霊にとって経験的な回答は容易でも、記憶的な回答は苦手なのが普通なのです。

 また、交霊中において、その中継の霊は、霊媒の脳にある言葉を利用して、返答を構成します。つまり脳内に収めらている、短文をつなぎ合わせて、長文を作成しているのです。これは単に効率的なだけで選択されているのではありません。霊媒の言語機能を完全にのっとる事が困難で、しかも危険であるためにとられる手段なのです。

 このことは、審神者(さにわ)を行うのに当たって、霊媒の安全確保上決して忘れてはならない事です。

 むやみに本に書かれているような調べればわかるような事を、交霊において頻繁に求めてはいけないのです。知識は霊格に比例しませんから知識を求める事は審神にとって無価値ですし、まして、知識比べなら、自分以下の知識の持ち主か、どうかの判定は出来ても、自分の知らない知識を持っている相手の、レベルを測る事など出来ない事に留意しましょう。結局、高級霊たちから見れば、このような質問は見下した態度と受け取られる事でしょう。そして、このような非建設的な交霊に応じるのは審神者(さにわ)の霊格相応の霊ですから、意地悪で知識だけある低級霊しか降りてこない事でしょう。これは、結局、霊媒に対して危険な行為を強いて、しかも、低級霊しかおろせないといった、やってはならない行為なのです。

 審神

 相手の霊格を見抜くのに重要なのは、まず欲心を捨てる事です。相手を利用しようとするから、付け込まれるのです。

 第二に重要なのは、おのれの慢心を捨て去る事……無知の智を悟る事です。人の心を見透かせる霊たち相手に既存の知識で勝負をしても意味がありません。まして本に書かれているような知識をわざわざ霊界から取り寄せる事に何の意味がありましょうか。むしろ、現在抱えている問題の解答を求めて御覧なさい。あなたに思いつかないような、そして実現性あふれる回答を得られたとしたら、少なくとも相手の霊は、あなたよりも高い知性と霊性を持っていることが伺われます。仮にあまりに高度で理解が及ばない答えが返ってくるのならそれはだまそうという意図をもつ霊と考えて差し支えありません。

 この手段でも基本的に、自分よりはるかに高い霊性の持ち主を測る事は出来ません。ただ自分より上である事を測れるだけです。そして注意すべきは、本当に高い霊性の持ち主は、その霊性をひけらす事がなく、懸る霊媒、対する審神者(さにわ)の霊格にあわせ、それよりもやや高めの回答を心がけるという点です。すなわち慈悲深く、知性あふれる霊は、相手に合わせて発言する能力の持ち主だという事なのです。

 反対にいくら立派な発言をしても無意味であったり、杓子定規であったりするのは背伸びをしている低級霊に間違いがありません。このような霊に騙される霊媒は多々いるのですが、それは分不相応な霊と一足とびに交霊をしようという意図に付け込まれるからです。結局、交霊術も、審神術も人間の他の才能と同様に分相応で、努力を要求するものなのです。


2006-04-14

お知らせBy老神いさお。

・PC再起動成功。
 動かなかったのは湿気のせいか、RAMを抜き差ししたら無事に再起動しました。

・サイト再構築中
移行途中のデータが時折、トップページに掲載されますが、編集作業の都合ですので、今しばらくご容赦ください。旧作については、本文右上に日付が記載されます。
 (最近は復旧する暇がなくて新作が多いですが。)

・東京オフ会: 
 7月度の東京オフ会は7月10日(土)
 に、開催いたします。

・東京オフ会: 
 8月度の東京オフ会は8月14日(土)
 に、開催いたします。

・静岡オフ会: 
 7月度の静岡オフ会は7月17日(土)・18日(日)を予定しています。(申し訳ありませんが、会場は未確保で代替日がなく、中止するかもしれません。)

・大阪オフ会:
 次回の大阪オフ会は10月の予定です。

・ページ更新
 私事多忙で復旧が滞っております。

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