‘心霊研究’ カテゴリーのアーカイブ

境涯の差。(死後の世界)

2010/02/21

 死後の世界は、階層を成している、という。その階層というのはつまり、性質の異なるものが混じり合うことなく別々に存在する……特に注意すべきはそれら異なる性質の者が主として上下に別れて、上から降りることは容易でも、下から上がるのが難しい、すなわち、混じり合いにくい環境なのである。

 上下関係があり、混じり合いにくいといっても、それは封建制度中の身分の違いや、インドのカースト制度のようなものを想像するとかえって混乱するとおもう。現代日本で喩えるなら、週末に秋葉原のホビーショップ(?)に行きたがる人や渋谷・原宿のファッションショップ(?)に行きたがる人などがいて、それを尻目に、家庭菜園に勤しむ人がいる……それぞれが、人生の余暇を何に費やすか、という関心が違って、それゆえに混じり合わない。

 では、どうして上下の差が出来るか、といえば、それを心霊では「霊格の差」、とか、「境涯の違い」と呼ぶわけだが、わかりやすく、というか、数値化しやすい表現でいえば「共存共栄の配慮の多少」の差で決まる。つまり自分の事のみに関心を持っている人は、環境を利用しきれず、対して広く他を配慮する人はより大きく環境(賛同者を得て)を利用して大事を成すのだ。……しかしながら、いくら上辺だけ「皆のため!」と言ったところで裏や下心があれば、協力者が集まらず(一方、同病が集まって身動きできなくなるかもしれない。)、身動きがとれない、というのに似ている。

 それは、善し悪しの差、というより……(いわゆる高級霊にしてみれば、いわゆる低級霊と十把一絡げに評価されることを喜びはしないが。)……それぞれの目的に対する気持ちの純粋さの差、そう、実は案外その資格の差は小さく、その結果の差は大きい。……ようだ。

 それこそ、大悪党ですら誰かのために真剣に祈ることもあり、世から崇敬を受ける善人ですら、我慢できずに誰かを恨むこともある……というのと同様に。

 結局、救いようのない人がいる、というより、救いようのない考えがあるのであって、その差は時々、大きな違いがあるけれど、大抵の場合はほとんど差がない……故に、時々は考えを省みて、一時の考えに己を貶めないように気配るようだ、とおもう。が、善を貫くには信念が必要で、信念は往々、頑固さに似るように、良く生きながら柔軟であるのは難しく、それゆえ、正しく生きようとする人でさえ、苦悩が避けがたい。

声(霊?)が聞こえて辛い

2006/12/12

声が聞こえて辛い (1)

2006年12月12日

「(霊から?)声が聞こえてつらい」という悩みは、心霊に関心のある人の良く聞く悩みである。今まで、この件に関して、私は深く掘り下げることを敢えてしてこなかった。敢えてこの話題を避けた理由も含めて、そろそろ解説することにしたい。

矛盾

いの一番に指摘したいことは、私は、多方面からこの問題について解説してきたことである。だから、多くの人が得心がいかずに突っ込んだ質問をしたくてうずうずしていた(はずである)。それどころか、『どうせ判ってくれないのだから!』と、立ち去った人も多い。

第一の問題点がそこにある。……なぜ、ちゃんと質問できないのか? はっきり言われたくないが、でもしっかりと聞きたい話、そういう矛盾をはらんでいるからこそ、私ははっきりと書くことをしなかったのだ。

羞恥心

次の問題点は、私は解決策を提示しているが、実行する人があまりいないという点だ。……道路や公園などの掃除、つまりは社会奉仕だが、一方では、人目に触れやすく、慣れぬ人だと羞恥心からなかなか実行できないことだ。

矛盾羞恥心、と、整理されてピンと来た人は幸せである。

さらに気が利く人であれば、これがどれほど危険な話題かも予測が可能だろう。……秘密を守るために人は何をするだろうか?’


声が聞こえて辛い(2)

2006年12月13日

声の源

いわゆる霊感・霊信として感じられる声は、三大別して考えるべきである。

  1. あなたを必須の相手とする通信。
  2. 聞いてくれるなら誰でも良い通信。
  3. 聞こえた気がするもの。

1項が、本当の意味での霊界通信であるが、これは心霊相談として持ち込まれることは滅多にない。互いに充分に理解し合えるため、誰かの助けを必要とする程、拗れないからである。従ってここでは論じない。

3項となると、通信ではなくただの勘違いであるが、そもそも、勘違いであろうともそれを自身の霊感と信じられるなら、それなりに経験があり、つまりは感覚が発達している人であろう。……だが、霊感があろうと無かろうと、人に誤解や勘違いはつきものであるし、なによりも問題なのは、なぜ勘違いで苦しまねばならぬのか、という点だ。

2項の問題点とは、たとえるなら、「他人の愚痴」と似ている。相手が真剣で「聞いてくれ」というので耳を貸してみれば、話の内容がまるで要領を得ない。『一体、私に何をさせたいのか?』……長時間、話を聞かされた挙げ句にようやく気がつく。用事があるのではなく愚痴を言いたいのだ。……そして、愚痴は聞き苦しいものと相場が決まっている。

愚痴の判別法

具体的なアクションはむしろ邪魔、ただ「あなたが悪いんじゃないよ、」といって欲しいのだ。それが非現実的であったとしても。いや、言っている者が、愚痴を愚痴として自覚していることは稀である。むしろ、当然の意見、正規な意見と信じているだろう。……では、それが愚痴であるのか、そうでないのか。

その判別は、案外簡単だ。……正しき結果に至るのは正しい過程だけなのである。たとえ間違って選んでも、その結果が正しければ、選んだ過程は正しいということだ。

正しい意見・正しい考えの持ち主であれば、努力の果てが良い結果に結びつくであろう。だが、巧く行かぬから他者に意見を求めるのではないのか?……これが「自覚無き愚痴」である。

自覚ある愚痴、というのもある。たとえ正しい見識を持っていても、時期や状況が忍耐を強いることもあるのだ。すると、時機(チャンス)を得るまでは、耐えなければ仕方がない。が、耐えることに辛いときに誰かの共感に触れたいと思うこともあるだろう。そういう時の愚痴には薬効がある。……用法・用量さえ間違えなければ。

少なくとも、愚痴を、愚痴と指摘されて、ハッと反省できるならば、まだ大丈夫だ。だが、愚痴を愚痴と認められないと、あとは話にならない。

羞恥心が邪魔する愚痴

「声が聞こえてつらい」という問題の、解決を邪魔している最大要素は、羞恥心、もしくは自負心の強さである。そして、羞恥心・自負心が強い人は愚痴をこぼすことを潔く思わない。愚痴をいったという事実さえも、認めることに苦痛を感じるものだ。

ここにもう一つの障害が存在する。愚痴を愚痴として認めないから、どんどん嘘、言い訳が厚くなってしまう。


声が聞こえて辛い(3)

2006年12月15日

狂気に見える

「声が聞こえてつらい」のであれば、声を無視するように努めればよい。……実際、そう指導する霊媒もいる。だが、それが出来ずに苦しむ多くの人がいる。……まずそこからしておかしい。

さすがの霊媒も思う。たとえば私だって第一印象は……ゆとりがなければ……相手を信じようとする気持ちがなければ……適切な、合理的な思考が出来なければ、それは狂気と呼ぶしかないのではないか?

嫌ならばなぜ、その声を無視することが出来ぬのか? 私はそこに、別な問題を感じ取る。相談者は自覚しつつ、または、無自覚で、真の問題を隠す。自覚があるならまだ上手に隠す。だが、無自覚に隠すと、どうもボロが出る。それも不自然に。

たとえば会話に置換えてみると、隠すから話がよく見えず、時々現われる秘密は突拍子もない。脈絡もなく、馬鹿にした印象すら受ける。

それらを一言で表わすと……狂気だ。

当人は、精一杯に、誠実に対応しようとしているのだろう。だが、当人にはどうしようもない理由から、言動に矛盾が生じ、それが周囲に狂気を感じさせる。そして周囲から狂気を疑われて……孤立していく。だが、脳、もしくは身体の故障から来る狂気ならば、医者で治るかも知れない。しかしもしも、何かを隠そうとして無意識に振る舞っているなら?

真の狂気は治るかも知れない。だが無意識の演技を誰が直せるのか? 当人以外に。

刺さると抜けない

解決の難しさばかり列挙されると、解決に焦る人々は、逃げ口上を並べているように思うかも知れない。だが、この問題は、釣り針などのように、刺さり易く、抜きにくい返しが附いているのだ。

そう、私が列記する「解決の障害」は、何一つ、治療者を苦しめない。苦しみの対象はあくまでも当事者なのである……つまり……つまり……つまり。

刺さるよりも抜く方が痛い……であれば、矢を抜く患者がいるだろうか?

刺さったままでは痛いが、抜くのはなお、痛い。

抜くのが痛い、それゆえに、当事者にしてみれば、治療者が下手だからと結論をしやすい。だが、痛みもなく解決するという人を信じて歓び、そしていずれ気がつくのであろう……治っていないことに。

私の相談者の中には、治すよりも恋人をつくって慰めて貰う方が楽だと気がついた者がいる。だが、慰められるのは楽しくても、慰め続けるのは楽しいのだろうか? その通りに、何度も破綻したようだが、痛みを嫌うだけで、治す気の不足する人では、この問題を解決できるはずがない。

もっともこれは、痛みの強さと、恋人の忍耐力や人柄、さらには当事者の魅力も絡んでいるから、必ずしもこの選択が破綻するとは限らないが……世の中の公平さとは、チャンスの公平さであって、結果の公平さではない。


声が聞こえて辛い (4)

2006年12月16日

なぜ拒まぬのか?

「(霊)声が聞こえてつらい」という問題は、インターネットの利用者にとって、「BBS(電子掲示板)の荒し問題」に例えると、冷静に考えやすいかも知れない。

「相手にしないのが一番だ」……声の源を三大別(実は五大別)した理由がここにある。

1項、あなたと話をする必然を持っている霊であれば、あなたがどんなに無視を決め込んでも、何とか話に持っていこうとする。……友好的に。あなたと会話する必然があるのに、敵対的ということは考えられない。真に敵対的ならば恐喝するより、油断させて攻撃する方が利口だからだ。

2項、誰でも良い霊であれば、一時的にはあなたの態度に腹を立て、仕返しを続けたとしても、いずれは興味深い相手を見つければそちらに移っていくだろう。……従って相手をしないことは有益な対策である。

だが、そもそも、会話とは一方の気持ちだけで成立するわけではない。少なくとも最初の一言に、あなたが答えてしまったからこそ、相手も話しかけてくる。そう考えるなら……後述する。(#1)

3項、その声があなたの錯覚であれば、無視を決め込むその態度が、結局、あなたを冷静に戻し、錯覚を消し去るだろう。

だが、なぜあなたは声が聞こえると思うのだろう。そして、その声はなぜあなたをいらだたせるのであろう?……後述する(#1)

(#1)

真の問題は、聞こえる声ではなく、何かを聞き出そうする、あなたの潜在的な欲求にあるのだ。しかもそれは、単に答を聞きたいのではない。状況変化への予言である。……本当に欲しいのは状況の好転であって、単なるお追従やおべっかではない。開運を待ち続けている者にしてみれば、単なる知らせですらありがたく感じる。だが、お知らせが実現しなければ、なまじ喜んでいただけ現実の冷酷さがなおさら辛く感じられる。

これは、霊感の使い方としては最悪である。……有る物を分けて貰うこと(融通)は出来る。だが無い物をねだって何になろうか?……しつこくねだれば高級霊は嫌がり、低級霊は隙を嗅ぎつける。いや端的な表現がある。波動の低い者に低級霊は群がるのだ。

かくして事態は拗れに拗れる。

本来であれば、努力で乗り切るべき事を、霊の力をあてにして援助が得られず、援助の代りに亡者を呼び寄せて健康を害し、集中力を失い、精力も奪われて根気もなく、努力で出来ることも、努力が出来ずに諦めねばならなくなる。……解決策のつもりが全てを失いかねない大失策なのだ。

……いや、念のために明言する。「声が聞こえてつらい」……というのは、心得違いの結果であると思うのではない。多くの場合には、無理からぬ必然がある。強いていうなら、楽そうな道を選んで破滅するのではなく、一番安全そうな道を選んで破滅しかけているのである。

……努力を嫌うのではなく、安全を求めているだけ。だが、往々、安全を求める心は依存心と相性がよい。しかも、失敗が続けば自信を失い、自信を失えばなお依存心が強まる。

もう一つの問題がそこにある。……痛みと共に育ってしまった依存心が問題解決の障害になるのだ。

くどいようだが、整理する。「声が聞こえてつらい」という問題の、苦痛要素はただ一つであっても、問題そのものは悪意有る誰かを原因とする単純な結果ではなく、多くの条件が重なった結果、いや、過程である。それらの諸条件の全部、少なくとも充分を取り除かなければ快方には向かわない。

あなたが一人で解決できないのは、弱いからではなく、問題が複雑だからなのである。


声が聞こえて辛い (5)

2006年12月21日

雨漏り

雨が漏るのは雨が悪いのか、屋根が悪いのか?

声が聞こえて辛いと考える人は、どうも雨(霊)が悪いと考えているようだ。だが、環境は誰もが同じである。

……因縁に差があるにしても……屋根を治さずに天気を呪っても、あまりスマートな態度には見えない。いや、そういう態度が事態を拗らせている。

傾向と対策

欠点の無い者はいないだろうが、他者の言葉になぜ振り回されるのであろう? たとえば失敗した、失恋した、等といった触れられたくない話題が有るからこそ、声に対して神経質になる。触れられたくない話題に触れられるから無視するよりも復讐に走るのではないか?

これには二つの対処法がある。……ただし、魔法ではない。

1,『それが何だ?』という態度を貫き通す。……あなたは秘密を守れるつもりでいるかも知れないが、どうせあの世では皆、明らかになるのである。霊媒が気がつかぬとしても、それであの世を騙し通せるわけではない。なんとなれば、知れば責任が生じるから、見て見ぬフリをしていることも多いのだから。まして、他人に意地悪をしているようなヒマな輩なら、きっともっと酷い失敗をたくさん抱えているに違いないのだ。だからこそ成仏せずにいるのだから。

2,『笑い飛ばすことだ』……秘密を探るにの「カマを掛ける」わけだが、人間よりも霊の方がよほど探りを入れるのが巧い。隠そうというのはナンセンスである。ならば、隠すよりもバレることを前提に生きる方がよい。

私の感想

私が取り扱った事例では、当人は一様に認めていないものの、誰かに何かを言いたくて言えない、何かを持っている様に感じられた。他者に言えないことが心の弱みとして存在するようだ。

たとえば両親の生き方に意見がある。具体的にいえば侮蔑しているわけだが、両親の方が自分よりも社会的地位や経済的な優位に立っている。……正しいと思うが現実に合わないことと、間違っていると思うが現実に合っていること……そのギャップに沈黙を守っている人も多い。

第三者的意見をいえば、論理に問題があるのではなく、行動力に差があるのだ。

ここにも解決策の一端が見える。……思考に行動がついていかない人が妄想に走る。いや、見えざる者の声に悩むのだ。

いや、こうもいえる。

他者から秘密を守ることは可能かも知れない。だが、自分の内面にも秘密を守ることが可能であろうか? ……葛藤、または、自己嫌悪。屋根に穴が開いていれば雨漏りは直らない。

低級霊に悩まされるとする。……一体なぜ、あなたの守護霊や祖先の霊は、低級霊何ぞに手を焼くのか? あなたを守る者はいないのか? 低級霊の害よりも、あなたが霊的な保護を失っていることのほうが問題ではないか?

何となれば、あなたは死後にどのような境遇に行くのか、考えてみると良い。 低級霊になぶり者にされて、しかも助けのない境遇。声に悩む以前に、地獄に堕ちることを恐れるべきではないか?


声が聞こえて辛い (6)

2006年12月22日

大多数にとっては無駄な助言

この話題に関しては、書き出しを除いて筆が重かった。また、私の覚悟に反して纏りも悪い。……背後の霊達が無駄と判断したのであろう。インスピレーションは天(霊界)の支持が合ってこそ豊富に得ることが出来る。

何が問題なのだろう?

姿無き声を問題にするのは、声が聞こえることではなく、霊を利用できないことではないか? 例えるなら、ドブに落ちても良い匂いをさせて上がってくるとか、転んだら宝石や大金を拾って起きあがるとか……そういうことを目論んでいる。

よほど福徳があるならそういう局面もあり得るが、もしもあなたがドブに落ち、または、転んでも、損ばかりで得ることがないと悩んでいるなら、利益を忘れてまずは復することを心掛けるべきだ。損を最小に押さえることが回復の第一歩なのだから。

自分の強欲さに押しつぶされてはいないか? または、両親や自尊心の強欲さに?

体質・気質

この問題に悩むのは、いわゆる、石橋を叩いても渡らない、慎重なタイプの人だ。たとえば、考えるよりも先に行動する人であれば、いかなる声が聞こえようともそれが問題になることはない。……つまり、声が行動を左右することもない。すると、行動よりも考えることを重視する人ほど、この問題で悩むのだ。

私も、考えることを重視する人間であるが、同時に奇をてらうところがある。考えても答が出なければたちどころに行動に移すし、考え方を改めもする。その変化に富んだ気質が、自分を救ったのだろうと振り返れば思う。

体質・気質、もしくは体癖によって、この問題の影響力が違う……であるから、こう考えることも出来る。

もしもあなたが行動を尊べる人であれば、利を得ることを諦めて、損を減らすように直ちに行動すべきだ。それは単にあなたを救うどころか、最後にあなたに利……勝利をもたらす。

もしもあなたが、充分に考えることを欲するなら、根本に帰って考えるべきだ。少なくともマンガ・アニメを参考に心霊問題を考えるべきではない。何となれば、大衆娯楽はしょせん、大衆に理解しやすく問題を簡素化しているのだから。

もしもあなたが、利を最優先にするなら、私などをあてにすべきではない。一得一失、無料相談の与える物などあなたに満足できるはずもないのだから。むろん、どこにあなたの納得する物が有るのかは私は知らない。だからこそ、私は無料で相談に乗ってくれる師を持ち、そして私も無料で相談に乗っていたのだから。


声が聞こえて辛い(7)

2007年02月05日

霊聴がうるさくて、というかつての相談者がどうしているのか気になって、精神統一を試みた。すると、私の心に飛込んできたものは、霊達からの激しい非難であった。

『間違った方向に心を向けて、それでうるさいだの、しつこいだのとイライラしている。本当ならば投出したいが、世の中、悪霊ばかりだと思われるのもしゃくに障る。でも本当の問題は、その人の心が悪霊と同調しているのだからどうにもならない』

社会に不満を持つ……チャンスさえ与えられれば、決して愚かではないのだからそれなりに成果を出せるとしても……そのチャンスも又、代償無くして得られぬものであると知っているだろうか?

それでなくても社会は、利己心で廻っている。他者の才能を活用しようなどという御仁(ひと)は、なかなかお目にかかれない。大方の雇用主・使用者は、いわ れ たことを充分にこなせばそれで善しとし、それ以上も、それ以下の働きも嫌うのが普通である。……機構的にそれで巧く廻っていくはずもないのだが。

世に不満を持つ者等の主張に、間違いがないとしても……大抵は大きな欠落をもって居る。……努力不足、経験不足、認識不足に、人脈なくて、人徳・人望もな い。――だれもが『こいつに大事な仕事を任せて大丈夫か?』と不信を抱かれているのに、望みの大きさと実際の能力とのギャップが、更に周囲の不信を助長し ている。

正しいことを主張するばかりで労せずばうだつが上がらなくてむしろ当然。いや、たいていの場合、出る杭は打て、とばかりに阻害されるのが落ちではないか?……役立たずの小うるさい小僧という世間のイメージを壊すことが出来るだろうか?

いや、そんなことは当人も充分に理解しているのだろう。だが目を背けたい。なんとなれば、依るべきものがすでに正義しかないから。だから、他者の間違い ばかりに目がいって、他者の善い部分が目にとまらない。……たとえ多くの欠点があるにせよ、長所もあるから仕事をこなしている。(いや、中には仕事を混乱 させているだけの人もいるだろうが、長所もあるからクビに成らない)、それを、自らの長所を伸すことを忘れて、ただ、相手の欠点と自分の誇りとを比較して 他者を見下すのは、なんのことはない。自信を失っているからだ。

自分より優れているものを認めたくない気持が、世の中を暗く悪いものにイ メージさせる。暗いものしか見たくない気持が、悪霊・低級霊と感応する……本来 なら目を背けるべきもの(悪)に目を向け、本来目を向けるべきもの(善)から目を背けている。……高級心霊に眼を向けようとしても、気持が利に囚われて、 お守りとかおみくじとかばかりが気になる。"印刷された紙様"を見るばかりで、人のイメージを超越する"神様"を信じられない。

巧く行かぬなら、巧く行くように方向を定めるべきなのに、巧く行かないままに悪循環にはまり込む……この様子では日陰から、まだまだ出てきそうにない。


うるさくて仕方がない!

2008年02月05日

このページは騒音問題や耳鳴り治療の解決法ではありません。――当サイトは心霊サイトです。

目的は霊障問題、とくに霊感が制御されない場合の対策を暗示(解決ではなく)するものですが、霊感なくして人は死後、他とコミュニケーションが成立しないことにご留意下さい。……

以下は、霊感発現以前に、精神統一の実習をしたことのある人ならば判りやすい。または、瞑想や座禅のたしなみのある人なら、ば、である。

ひっきりなしに霊の言葉が聞こえて、うるさくて仕方がない、という人がいる。ハッキリ霊の声とはいわず、または自覚せずに、物音や耳鳴りや、動物の鳴き声に平常心を揺らがされている場合もあるが、上述のようにこのページで扱うのは騒音問題ではない。

その音が他者の耳には聞こえず、また、健康上の問題もなく、さらにはお札やお守りが効果なく、お祓いもまた効果なく、霊能者に相談しても効果なく(この場合、事情を知って相手にしないのかも知れない)……

このような問題は、精神統一の実習や座禅の指導を受けた経験(自己流は勘定に入れない)があれば、本質的な取り組み方が間違っていることを理解しやすい。

無念無想を心かければ雑念が沸いてくる。

雑念を懸想とすればするほど雑念が強くなる。

……湧き上がる雑念は、心では抑えきれない。例えるなら、網戸で風が防ぐようなものだ。 つまり、本質的に手段と目的が適合していないのである。

さて、霊感というのはつまり感応であり、共感であり……話題が合わなければコミュニケーションが成立しないのと同様……合い応ずるところがなければ本来成立しないわけだが、自分ではコントロールできない雑念に感応している場合は、どうなるだろう? ――そう、止めたくても止められなくなるのだ。

……では、「どうすれば解決するか?」という、問いが寄せられそうなものだが、それに答えるのは難しい、比喩は必ずしも答にならないが、「戸締まりもせずに泥棒に入られない方法はないか」と問われるようなものだからだ。そんな都合の良い方法を私は知らない。


悪霊信仰の否定

2006/12/07

 心霊というと、悪霊の祟り、低級霊の障り、先祖供養、水子供養などという言葉を連想なさるかもしれません。ですが、考えてみてください。地上には親切で優しい人もいるのに、悪逆非道、無慈悲で依存心が強い死者ばかりのはずがありません。

 善良な人も死を免れる事が出来ません。ですから霊界には悪辣な魂だけでなく、善良な魂もいるのです。そして、悪霊や低級霊は、死者の一部に過ぎません。その一部の魂をだけを相手にしていて、あなたは死後に、いかなる世界に行くというのでしょう。わざわざ治安の悪いスラム街に漂っていきたいのでしょうか?

 一般にみられる心霊知識は、どうも品性に欠けています。祟る、障るも霊から人への一種の暴力ですし、除霊は直接的な暴力で、浄霊は洗脳といった間接的な暴力ともいえるのです。暴力に対して力でねじ伏せるような解決は、果たして真の解決といえるでしょうか。

 どちらが争いの発端であるのかはともかく、力による解決は恨みを残さずにいられません。短期的には解決しても、長い目でみれば問題の先送りである事も多いのです。

 これを踏まえてもう一度良く考えてください。力による解決が必要な相手とばかり関わっていて、あなたは死後にいかなる世界へ流れ着くというのでしょう。

どうせなら友愛と奉仕の溢れる世界を選びたいとは思いませんか?

 それとも、友愛や奉仕と関わるのは面倒でしょうか?

パワーバランス

 霊界では善悪よりも摂理を重視しますが、霊界の治安の良し悪しは、死を免れることが出来ない私たちにとって重大な関心事である事ですね。一体、霊界とは善悪どちらの魂が大きな勢力を持っているのでしょうか。

 霊界では衣食住といった生活のための雑事がそう多くはありません。とはいえ、それぞれに目的を持地、そちらに忙しいですから、いくら親切な魂が多いとしても、いくら悪事を成しても、かならず助けてもらえるほどには親切を受けられない世界です。

 人は助け合う事でより多くのことが成し遂げられるものですね。ですが、わがままであったり、独善的で人とは相容れない価値観の持ち主は、なかなか人と協調することが出来ません。いえ、利益さえあれば、多少の目的の違いなど乗り越えて人々は助け合うものですが、目先の利益を追いかければどうしても周囲と衝突しがちとなります。

 そう、個人的な利益や目的で行動しても、協力者の数は限られていますが、霊界全般、地上世界全般の利益のための行動には、非常に多くの協力者が得られるのです。結局のところ、いわゆる悪霊や低級霊と呼ばれるような存在は、大きな集団を作る事が出来ず、調和を望む霊たちの敵ではないのです。

 つまり、あなたに助け合いの気持ちさえあるなら、不安を感じる必要は無いほどに、霊界の治安は保たれています。

善良さは義務

 結局、霊界を支配しているのは、善意ある霊たちです。ですが、決して勘違いしないでください。すべての魂は善良であるべきで、善に従うというだけで称えられる事はありません。

 つまり善良である事に何らかの代償を求めても、誰もあなたの善行に義務を負うことはありません。ただ、どうせ大切にするなら、善良な人を大切にしようとするだけの事なのです。

それでも苦しい

 霊界を善意が支配しているのに、なぜあなたが苦しみから救われないのでしょうか。

 災難をもたらすのは、他の悪意よりも己の未熟さですし、不運よりもあなた自身の要領の悪さなのです。また、間違った努力も困苦を終わらせる事はありませんし、途中で諦めても困苦を逃れる事が出来ません。

 世界がどれほど善意に満ちていようと、あなたの心にそれを受け入れる余地が無いなら、あなたに善意は届かないのです。

 何よりも、自分自身に出来る努力もせず、救われる事ばかり願っている人を一体誰が助けたいと思うのでしょう。

 世の中には、苦しくとも助け合える人もいれば、苦しければ人を犠牲にしてでも楽になろうとする人がいます。さて、善意が世界を包み込もうとするのを妨げるのは一体どちらのタイプの人でしょうか?

悪霊になるな!

 結局、世界を支配しているのは未熟さですが、善意がそれを補っています。

 世に災難は耐える事なく、未熟さゆえの嘆き、妬み、恨み、そして苦しみの声が地上に満ちてはいますが、人々の魂の所在は、この地上の限られた可能性に留まる事はありません。

 あなたが苦しみ、悲しみから逃れる事が出来ないとしても、チャンスはすべての人に用意されているのです。ただ、あなたが霊界の用意した「幸福」を得て、喜びに思うかどうか……豊かな浪費生活から見たら、それはごく平凡で、つまらなく思えるかもしれません。

 それがつまらないと思ったところで、一体誰を責められましょう。あなたは、あなた自身の責任において、幸せになるべきであり、用意されたチャンスが嫌なら、あなたが自力で望む未来を得ればよいのです。

 ですが、あなたが幸せになるために必要以上の豊かさを求めるなら、それは誰かの豊かさを奪う事に繋がります。気が付けば、あなたが幸せになろう・豊かになろうとするのは、人を苦しめてまで自分を幸せにしようという行為になりかねません。

 そう、心霊主義の立場から見て、あなたが幸せになるための最大の障害は。悪霊・怨霊・低級霊の類いではなく、あなた自身が悪霊になってしまう事なのです。


2004-12-06

霊魂説・心霊主義

2006/10/28

2006年10月28日


霊媒体質者への雑感

 

霊媒体質者

暇を持てあました母にせっつかれて、多忙の中、宮ヶ瀬ダムに連れて行った。帰路、お土産を買って母の知人宅に立ち寄った。

話題が宮ヶ瀬ダムに及ぶと、知人は、自分は霊感が強いため、寒気がしてとても宮ヶ瀬ダムには行けない、だからいったことがない、という。……まあ、私の知人ではないので、黙って脇でPDAを操作していた。

霊感が強い……というのは、案外くせもので、その体験談がきわめて主観的であることを自覚せず、霊的問題について一家言を持っていたりするので、無闇に口を挟めない。……つまりだ、どんなに簡単なことでも、『出来ない!』と諦めて行動に移らなければ、やはり出来ないのと同じ事だ。……理屈がどうであれば、私はこう思う、となればそこで話は終わるのだ。

私は平気でどこにでも行く。古戦場であろうが、霊園であろうが、ミステリースポットであろうが(今では)平気である。まあ、霊障などというのは霊感が強ければ避けられるというものではなく、逆に霊感の強い人が受けるものであるから、油断をしないように注意はする。さらにいえば、不快な場所よりも清々しい場所を好むのはいうまでもない。

また、霊感発現当初より三年ぐらいはとても苦労したので、霊障を恐れる霊媒体質者の苦労を笑いはしないが、正しい努力をしているのかと、案じ、または、疑いもする。

……が、まあ、話を先に進める。

物事は、相対的に見てこそ客観性が生じる。たとえば強い被害者意識の持ち主は、周囲から実際に冷遇されているにせよ、必ずしも善良、または、優弱とは限らない。逆に傲慢・強引・独善で周囲から嫌われているのかも知れない。

では、霊障者はどうか?……憑る霊が悪いのか、はたまた、余計なちょっかいを掛けてはいないか。先住者がいるところにドタバタと移住してあげく、供養だ、除霊だ、などと力業での解決を目論見、霊障を拗らせたりはしていないか。……まあ、心霊趣味などというのは、恐いもの見たさの野次馬根性旺盛が多いから、この方が拍手喝采、大受けすることもまた、事態を困難にするのだが。

また、敢えてちょっかいをかけないにせよ、防犯意識に勘違いがあると、かえって泥棒に狙われやすくなるの例えもある。つまり、防犯のために家の廻りをすっぽりと覆い隠した結果、かえって泥棒がじっくりと窓を破りやすくなった、等という話に類似することだ。むしろ、周囲からの目が届きやすい家の方が泥棒は働きにくいのである。

結界を張るとか、御札や御守をたくさん持つとか……そんなことは「ガードの弱い霊媒体質者です」と言いふらしているようなものである。頑丈な鍵や防犯グッズなどは、侵入の手間にこそなれ、侵入を防ぎはしない。それでも防犯効果があるというのは、侵入に手間取れば発見されるリスクが上がるからなのだ。だが、誰も見回りに来ないなら防犯グッズは障害になるどころか、高価な資産の存在を誇示するに等しい。

そう、なぜ霊障を恐れなければならないのか……それは、守護霊や祖霊の加護が弱いからではないのか、私はそう思い、それを克服するために努力してきた。悪霊低級霊に狙われることよりも、守ってくれる、味方が少ないことを恐れるべきだ。

で……霊障を恐れて旅行先が制限されるという母の知人宅であるが、なんだか変な病気や災難に遭いやすいのである。

・・・・・・・

くどいようだが整理する。ラベルはいささか強引であるが、目安として見て欲しい。

○悪霊原因説……加害者の存在が諸障害の原因

霊障に合いやすいから旅行先を選ぶ……ならば、霊障に合わない、つまり霊障の自覚がなければ無事であるのか?

○守護者不在説……加護者の不在が諸障害の原因

加護が弱いから、旅行先を選ばなければならない。加護が弱いから、日常にも不自然な災難が生じる。

あなたはどちらが合理的な意見に思えるか?

悪人がいるから、空き巣を狙われる……間違いではない。だが、全ての家に空き巣が入るわけではない。繰り返し被害を受ける家もあれば、まったく被害を受けない家もある。ならば、世の泥棒の全てを捕まえようとするより、防犯対策を良くする方が良くはないか?

なまじ、霊を感じる人であると、悪霊や低級霊さえ感じなければそれで安心してしまいがちだ。だが、加護が弱ければ、油断が生じやすく、魔が差しやすいのである。

霊魂説と心霊主義

単に霊魂、つまり人間が死後も個性を残す、という考えであれば、それは「霊魂説」と呼べよう。そして私のいう「心霊主義」とは、霊魂説から応用面に一歩前に進み、「人生を永遠の生の一部と見なし、永久に向上していく生き方を選ぶ」、ということである。

死んでも終わりではない。ならば永遠に漫然と暮らすのか?……地縛の霊が悪いものなら、天国で漫然と暮らす天国縛の霊は良い霊なのか?

つまり、誰とでも友人になるのではなく、良き友人を選ぶということだ。……同時に、良き友人と見なされるように努めることでもある。

事実よりも考え方

私は、答よりも、答えに至る思考法こそを伝授したいと思っている。たとえば知人から商売上の相談を受けたとする。

「○○を商売にするのはどうでしょう? 安易ですかね?」

悪くなければ良いのか? ……悪霊原因説。

品位を落とし、味方が減れば、どうなるか……守護者不在説。

たとえば農家が、金を必要として田畑を売るとする。一時的には大金は得られても、来年はどう稼ぐのか。……周囲から信用されている人であるからこそ、怪しい商売の代理店に好都合なのである。しかし、失った信用を取り戻すのは、金を稼ぐよりも難しい。……でも、親会社にしてみれば、代理店なんて消耗品である。

・・・目先の事しか考えない人にとって、霊魂・心霊を学ぶのは、不幸の入り口であろう。


霊媒体質者2

2006年10月30日

どんな才能も使い方一つで利益をもたらす。だが、いくら霊感があっても、適切に使いこなせなければ重荷となる。

ところが、低級霊の影響を受けやすくて重荷の筈なのに、「私は霊感が強いから……」という言い訳で済ます人が多く感じる。

なんでその才能を磨き、使いこなすように努力しないのだろう……と思う。

・・・・・・・

ミステリースポットや不浄の地に行くと具合が悪くなる、または、身体が重いという人が、その霊媒能力を活用できないのは、低級霊のみに注目するからである。

低級霊がいなくなれば自分は幸せ……視点が片寄っている。

一体なぜ、低級霊の影響を受けやすいのか?……守られていないからである。そう、加護が足りないのだ。

俗に言う、霊能力とは、霊媒力(コミュニケーション)によって守護霊団(スタッフ)を動かす……ということなのである。いくらコミュニケーション能力を有していても、敵ばかりではつまらぬ口論しかできない。

こいつのために働いてやろう……そういう背後霊を持たなければ、いくら霊媒能力があっても、それは不快なものを呼び寄せ、内に引き込むためのセキュリティーホール(壁の穴)でしかない。


地震予知

2006/10/16

2006年10月16日


日本時間16日午前2時7分、ハワイでM6.6の地震があったという。

話は15日の横浜オフ会に遡る。


参加者の一人に、一点釘を刺した。

『霊査の内容よりも、霊媒がどういう点に目をつけているのか、その視点に注目してください。教わることよりも手口を学び取るほうが、あなたにとっては大切です』

そして、会の中ほどでひとつの質問を受けた。

Q 『ある霊媒が、近々地震が起きると言っていますが、どうなんでしょう? まあ、昨日も震度三ぐらいの地震がありましたけど』

・・・・・・・

『気象庁のHPを見ると、震度三ぐらいの地震なら、ほとんど毎日起こっています。』

さらに、私は、目をつぶり、軽く統一する。

『あなた(質問者)は、(この)地震では死にませんよ。怪我もしません。』

当日、私は、「この地震」とわざわざ限定しなかった。いまさらこんなことをいうのもナンセンスだが、「私は地震では死なないから」と、たかをくくった生き方をされても困るから、本来はそう表現すべきだった。まあ、どうという話でもない。さらに……蛇足ではあるが、

『人体って、結構敏感で、震度ゼロの無感地震を感じ取ることができます。「なんか、今日変だけど、地震でも起こるんじゃないかしら?」と感じるのは霊感云々とは限らず、実は震度ゼロの群発地震を体感していて、その群発地震が大きな地震の予兆現象だったりするのですね。

『テレビなんかで時々実験していますけど、目の錯覚を利用した引っ掛け問題でも、答えと反対の対象を目が追いかけていたりするのです。それは、潜在意識が真実に気がついているからであると言います。ただ、表面的に意識ができないだけで、潜在意識はたくさんのことに気がついているんです。

『だから、霊感を追いかけるよりも自分の感覚を信じたほうが自分を助けることにもなります。』……そのときは、こんな話で終わった。

・・・・・・・

再び皆が精神統一にはいり、巡回しながらそれぞれの霊査をとる。その質問者の背後に立った時に聞こえたのは・・・

『立派な人になるよりも、傍にいて欲しい人になる』……大きな地震を的確に予知することが出来るなら、それは充分に興味深い話です。でも、地震の発生を予知するだけでは、有益な話にはなりません。大切なのは、それがあなたにとって重要な出来事かどうかですね。』


地震予知について、心霊科学的に考察してみると、以下が考えられます。

  1. 震度ゼロのいわゆる無感地震も、単に表面意識が問題視しないだけで、潜在意識は気がつきます。それが群発すれば大きな地震の予兆と身構え、なんとなく表面意識にも伝わることがあります。……以前、私がなんだかぐらぐらする気がしない? と、やはり敏感体質の友人に尋ねたところ、同様の感があるとのことで、その時は原因不明だったのですが、その後テレビニュースで群発地震の発生が報じられていました。このような場合、予感・霊感・預言というより、体感であって、情報が整理されていませんから、どうしても主観的な見方しかできません。つまり、近々何かが起る……という具合にしか予想が出来ないわけです。
  2. 高度な霊感の結果予知したが、霊媒が慌てて、詳細を聞き忘れた。……引き合いに出すのも可哀想ですが、質問者が地震の予知をしたなら、「地震の予知」に舞い上がって、やはり詳細を聞き忘れたかも知れません。
  3. 割の良い博打……その地震の予知が仮に今回のハワイ沖地震を指摘したものならば、素直に敬意を払うべきでしょう。しかし、地震の多い日本では震度三程度の地震を一々記憶する人がいるでしょうか? 震度四だって覚えていられるかどうか。家屋倒壊や家具の破損という実害が伴わない限り、記憶に残りにくいと思われます。しかし、それが予め予告されたものなら、小さな地震でさえ記憶に残りがちです。……これが心霊否定論者のよく指摘することです。あながち間違いとはいえませんが、心霊肯定論者の私には別な意見もあります。

    私自身、常に自分を諫めていることですが、霊媒というのはどうしても世間一般が認知しにくいことを現実として受け止め、暮らしています。多くの人々が信じられないことを、霊媒は現実として生きているのです。だからどうしても認めて貰いたいという欲求が生じます。名誉というのではなく、自分だけが現実として認知しているものを他と共有したいという欲求があるのです。

    でも大抵の人は心霊に無関心です。それも関心がないから無関心なのではなく、恐いから無関心を装うのです。その現状を打破したくて……悪霊を口にして相手の力になろうとしてみたり、予知・預言を口走ったりする……でも、そうそう霊媒の都合良く天変地異が起るはずがありません。焦りが偽預言を口走らせたり、無意味な霊言・霊告の公表になったり……浅野氏の著作、出廬・冬籠には、そういう事例が多々記載されています。


ところで、なぜ人は未来に関心を持つのだろう?

私は常々思っている。人生には多くの選択肢がある。だが、どの選択肢を選ぼうとも、結局は肥え桶に右足から突っ込むか、左足から突っ込むか、その程度の違いしかない。

未来を知ることは幸いか? ……ああ、不幸を予知したら、未だ起らぬ不幸で苦しむことも出来る。いやいや、幸福を予知したら、未だ訪れぬ幸福を喜ぶことも……出来るのか? 油断して幸せを逃がしては元も子もない。

我が師は、予知を自分の幸せに使おうとはしなかった。だが、一つの行為が何をもたらすかをよく知る人だ。だから私もカンニングはしない。ただ、たくさんの回答事例をサンプルにして勉強するだけだ。

ああ!、私の事なんてどうでも良い。本当に問題なのは、どうして質問者が「地震が起る」という、一点に関心を持ったか、なのだ。

未来にたいして過敏ではないか。それはつまり、現実に過敏であるが故に、未来を先取りしようとしているのではないか。端的にいえば、心配性なのだ。だが、心配性であるなら、未来を適切に知れば、今度は未来が心配になるだろう。つまりそれは、救いのない道だ。


オーラ鑑定について

2006/07/06

2006年07月06日


オフ会上での話題である。友人のその又友人がオーラの鑑定を希望しているという。だが、私は世に言う「オーラ鑑定」の有効性を疑問視している。……そもそもいかなる原因でオーラに色がつくのだろう。

たとえば、天文学の分野などでは恒星の組成を知るのに、その星の発する光をスペクトル分析するという。では、魂の発する光とされる、オーラも同様の性質を示すのだろうか。つまり周波数の低い赤は、霊格の低さを意味し、周波数の高い紫ならば霊格が高いのか? 低い周波数から高い周波数までを同時に含む白を尊ぶ理由は何か?……どうも色と性格との関連づけに納得が出来ない。

そして決定的なのは、色による性格判断とオーラ鑑定との共通である。――オーラとは、霊魂の持つ物理的(もしくは霊的な)性質から必然的に発する光というより、霊魂が好んで着る洋服の色、というニュアンスが強いのではないか、と思える。表面意識では変えられなくても、潜在意識の働きで変えられる……人が化粧をするように、ある程度は意図的に変更が可能ではないかと私は疑っている。

すると、もう一人の同席者が「友人にオーラが見えるという人がいて、自分のオーラはオレンジだといわれたが、ぴんと来なくて……」という。その時の私には彼のオーラが紫に感じられた。つまり……「はしゃいでいたからオレンジに見えたのでは。今日は心霊の勉強の意志があるから紫が強いのかも知れない」……まあ、感情もオーラに表れるとされているから、目の付け所の違いでしかないのかも知れない。それにしても、相手が意識していないときにこっそりと観察していなければ、オーラ鑑定に意味がないのではと思える。

・・・・・・・

ちょっと脱線するが、私は血液型占いには批判的だ。人の数だけ個性があるのに、血液型で人を四つに分類するのは乱暴この上ない。

血液型占いに詳しい人に「人を四つに分けて何か役立つのですか?」といったところ、「あなたはAB型でしょう」と切り替えされて、仕方なく大笑いした。その通りである。まあ、少なくとも話題のネタとして血液型占いは役立つ。

ところで、「あなたはAB型だから理屈っぽい」……という解説には、科学的根拠がなくても話に連続性がある。その場にいる人が、「わたしもAB型なんですけど、確かに理屈っぽいですね」と、話題が広がりもする。だが、オーラ鑑定には連続性がない。つまり「あなたのオーラはオレンジですから、明るい人ですね」という話なら、そのオーラの色はどこから出てくるのか。これでは単に霊媒が一人で話し続ける話題でしかあるまい。

さらにいうなら、どうせ霊感で性格診断などをするのであれば、わざわざオーラを引き合いに出す必要があるのか? 物事を説明するのに、身近な例を挙げるのは親切ではある。だが、縁遠いものを例に上げるのはどうかとおもう。

「私が見た不思議な飛行物体の大きさは、ベッコウ鯨ぐらいの大きさで……」……といわれたら、あなたはその飛行物体の大きさが想像つくだろうか? いやそれ以前にベッコウ鯨などという動物は存在するのだろうか?

この私の問いかけが、野暮であるのは重々承知だ。更にいうなら、金を取って心霊相談を受ける以上はショーマンシップ的な配慮が必要なわけで、その点、現在の心霊ブームの演出者はなかなか有能であると認めざるを得ない。

が、素朴な目で、「オーラ鑑定」の意義を考えるとき、やはり首をひねりたくなる。……それを聞く当人に何の価値があるのだろう? というより、この一見論理的に見えて根拠が希薄な説明で満足する人をみると、どうにも私は心配になってしまう。

一体、オーラの色を知ることにはどんな意義があるのか? 唐突な理由付けを原理として誤解してはいないか? (ああ、自分のハッピーカラーを見つけるためという理由もあるね)

まあ、野暮なことは慎みたいが、最後に少し蛇足を書き入れたい。

霊感というのは霊媒の意図によって現われるのではなく、霊界の意図によって現われ、霊媒はただ受け身に得るだけである。すると、相談者によっては霊感が得られない場合がある。むしろ、得られない場合が多いとも思える。……でも、有料相談では、「何も感じられませんでした」とは、なかなか言い出しにくい。こういう時の対処法を身につけないと職業霊媒として生きるのは難しい。で……、メインディッシュ(霊査)を断って、前菜(オーラ鑑定)だけでお腹を一杯にしたいのだろうか?


随伴霊

2006/06/25

随伴霊

2006年06月20日

ある職場に、新人が配属されたとする。

この新人さんはしばらくの間、見習いとしてその職場のベテランに委ねられるであろう。大抵の場合は。むろん、「事実は小説よりも奇なり」で、様々な例外もあると思う。だが、あなたが新人として配属されたなら、いきなり本業を任せられるよりも先輩の仕事を見習いたいと思うだろうし、どうせ指導を受けるなら、無能な先輩や、残酷・冷酷、短気や独善的な人の指導はイヤだと切望するに違いない。

そう、世間には、様々な新人の扱い方があるだろうし、指導役の悲喜劇もあるだろう。当然、見習いの悲喜劇もだ。

・・・・・・・

さて、ここに修行が必要な低級霊がいるとする。何しろ、ヒマになるとろくな事をしないのは人間の性《サガ》であり、性は死んでも容易に治らないからこそ、霊の祟りなどが生じたりする。

……そういった事情があるから、一種の見習いとして地上の人に憑《》けられる場合がある。これを「随伴霊」と呼ぶ。

さて、あなたが見習いとして働くなら、どのような人の元で働きたいか。そして、あなたが管理職であれば、どのような人に新人の指導を任せるか。……随伴霊は、そういう人につけられる。

たとえば高徳の僧侶、神官、神父などの聖職者が、軒並み低級霊を引き連れて歩いていると聞けば、霊感のない人は容易に信じないに違いない。一方、霊感過敏の人は「やはりそうか!」と頷いてくれるかも知れない。他方、霊感があっても「まさか!!」という人もいるだろう。

まず、霊感があっても見えないのは無理もない。私自身、その様な随伴霊を当たり前のように見ていたのは、自分の霊感をコントロールできない時期であった。……そして、随伴霊は大抵、霊媒の目から隠されているのである。なにしろ、低級霊を見れば除霊したがる乱暴な霊媒が多い世の中である。手柄に焦る霊媒に目をつけられては、低級霊が向上するチャンスが失われてしまう。

一方、低級霊がついているからといって、その人の人格が劣っているとは限らない。その人が低級霊にコントロールされているならば大問題であるが、ただ引き連れているだけなら、それは大抵、随伴霊、つまり、見習いの霊魂なのである。

たとえば霊感初級者は、神社仏閣に低級霊がうじゃうじゃいると騒いだりするが、これと同様の問題だ。果たして、病人の大勢集まる病院は悪い病院なのか……否、病人の寄りつかない病院こそが危ういのである。

つまり、随伴霊のついていない人であれば、その人格は、見習いを預けるに値しない人である可能性が高いということだ。

・・・・・・・

ここで勘違いしないでいただきたいのは、人徳者が低級霊を連れていても不思議ではないが、低級霊を引き連れている者が必ずしも人徳者とは限らぬ事だ。まして憑依されている者を人徳者と呼んでいるわけでもない。

整理する。……

1,人徳者が低級霊を引き連れて歩いているのはむしろ当たり前であって、不思議ではない。

2,低級霊を引き連れていなければ、本当の人格者か疑わしい。(が、見えるとは限らない)

3,憑依されるようでは、見習いを持つ資格がない。

……だから、常に低級霊(随伴霊)に飲み込まれないように注意を怠らない人が、霊界から認められる人格者なのだと私は考える。

・・・・・・・

ところが、この見習いの配属先が霊媒であったりすると事は面倒になる。面倒を承知で配属しているようなのだが……低級霊を察知すれば霊媒はむしろ本能的に除霊を試みる。だが、除霊能力の源泉は守護霊であり、随伴霊は守護霊の認知の上でついているのだ。……つまり除霊できない。これを霊媒がどう感じるかはケースバイケースらしい。ある霊媒は、除霊しても除霊しても霊が寄って来るという。また別な霊媒は、どうしても除霊が出来ないという。

実力の問題もないとはいえない……が、除霊すべきではないという発想はないのだろうか。


随伴霊 2

2006年06月21日

トラックの荷台に、ドラム缶を積み込んだとしよう。そしてドラム缶は固定しない。

車が走り出せばドラム缶は後ろに動き、ブレーキを掛ければ前に動く。そのうち転げてハンドル捌きに合わせて左右に揺れ、ブレーキを掛ければ運転台に当たり、走り出せば後ろから転げ落ちる勢いで動き回る。右にハンドルを切れば左にぶつかり、左にハンドルを切れば右にぶつかる。……兎角、車の動きを邪魔する動きをするだろう。

・・・・・・・・

人には大抵、随伴霊と呼ばれる低級霊が、一種の見習いとしてこっそりと憑けられている場合がある。その存在は、大抵の場合、当事者の守護霊によって隠されているが、敢えて教えられる場合もある。……意識的な問題解決努力を促すためだ。

その随伴霊が憑いているとどういう作用が生じるかというと、上述の「トラックの荷台で暴れるドラム缶」の動きに似ている。努力しようとすると邪魔(誘惑)され、辞めようとすると焦りに煽られ、右といえば左、左といえば右と……つまり逡巡が生じる。不満が生じたり、疑惑・疑念が心にきざしたりする。

この事を読み流さないで貰いたい。……自分の目指す向きとは反対の動きが随伴霊の働きなのだ。 にも関わらず、人はそれに従おうとする。不思議に思わないか?

人は我が心を自分の主と見なし勝ちだが、心というのは身体から多大な影響を受けていて、疲れていれば悲観的になり、元気があれば楽観的になる。そして……霊的影響も受けることがある。そんな、本来とても感化を受けやすい我が心の求めるところに、絶対的に従おうとすることは、随伴霊の影響を受けやすくなることでもある。

すぐに諦め、一心に努力すべき時に雑念・妄想と遊んでみたり、その一方で、何ら勝算のないことにのめり込んでみたり、人をバカにし、侮ってみたり……本来自分が至っているはずの心境・境涯をそっちのけで、俗信であるところの心の絶対性を信じて、随伴霊の意図に従うのだからナンセンスである。

「心の中に霊の声がする」……といえば、大抵の人から見たらオカルトである……その割には犯罪者の言い訳によく使われているようだが… …なぜ断らないのだろう? なぜ、後でそう言い出すのだろう? 仮に悪霊・低級霊(そして随伴霊)から悪事の誘惑を受けたとしても、だ。その誘惑に従ったら共犯なのだ。しかも主たる実行犯なのである。

「神様(仏様)が見ていらっしゃる」……等という。誰も見ていないからと言って、悪事やだらしないことをしてはいけないというのだが、体感的にいえば、善い行いをしても認められることは稀で、その割には悪事が露見しやすいと感じないだろうか。

心霊家としての観察を含めていうなら、この言葉は一面の理でしかないと思う。同時に「随伴霊が見ている」ということも大切だと思う。人が見ていないからと生き方に手を抜くと、随伴霊から舐められてしまう。『その程度の霊格で何を威張っているのだか』……というわけだ。

すると、叱りつけても相手はいうことを聞かなくなる……すると、チャンスを見失いやすく、大事なときに失敗し易くなり、努力すべき時にだらしなり、ついつい、愚痴や不満が多くなって、口は動いても身体が動かなくなる。

人は高級霊の感化よりも遙かに、低級霊の感化を受けやすいものなのだ。


補助霊

2006年06月21日

あまりオフ会では話せない、オフ会での話。

幼稚園や小学校での入園・入学時に親が付き添うように、オフ会の参加者も初参加の際には付き添いの霊がいる。……「いわゆる守護霊」ではなく、もっと霊格の高い存在らしい。そして大抵は女性の霊だ。精神統一の指導に経験があるらしく、そのおかげか、初回の参加者は大抵、綺麗に座る。……ある意味、ビギナーズラックと似ている……次回以後も同様に座れるとは限らない。というか、座れない。その為、二度目以降が本当の指導になる。

むろん、私も初参加者には態度が甘い。それでなくても緊張しているだろう初参加者に一度に全部を要求しても無理が生じるだろう。

だからといって、二度目以降に急に厳しくするつもりはない。基本的に私は霊媒としての態度をとる。つまり、霊と人との媒介者……ニュートラルな存在である。だから、自分に厳しい人には厳しく当るが、自分に甘い人にはさほど強く接することはない。

戸を叩くのはあくまでも参加者の努め、そうして出てきた主と客との仲介役が霊媒なのである。……まあ、それだけで済ませるのは主催者として不親切であろうが、いささか不都合な事情がある。

何しろ人間は、思い込みやすく、ガッカリしやすい……五感という五つの穴から外を窺う囚人の様なもので、その心象は実感よりもむしろ、当人の思いこみによって形作られているのである。であるから、着実に歩を進められる人はなかなかいない。走っては息切れし、息切れしては諦めてしまう人が大部分なのである。歩いて行けばたどり着けない道ではないのだが……だから、手を引いてくれる者(霊)が必要となる。

が、心霊知識の不足が生む悲劇……手を引かれる代りに、人が霊の手を引いて歩みたがる。不安と焦りに身を焦がしながら。

……オフ会初参加の時に、知らずに引かれた手を、思い出せる人は幸いだ。

心霊を学ぶというのは、幽《かす》かなものを感じ取ることだから。

……チャンスを生かしてこそ、真に学んだといえる。


妄想に駆られる・随伴霊

2006年06月25日

Q「車を運転中、ふっと妄想にかられ、その理由に悩んでいたが、随伴霊のせいではと気がついた。妄想のあと、どう対処すればよいのか?」

随伴霊に限らず、低級霊が身の回りに多いと、雑念・妄想が湧きやすくなります。また、基本的に感応というのは同波長……すなわち、似たような境涯の者同士に起るものでして、低級霊と感応しやすいのは境涯が低いのが普通です。ですから、感応しやすい…… 低級霊に懸りやすい人は、自身の霊格を上げることが必要と教えます。

ただし、随伴霊の説明に見るとおり、霊格が大きく違っても必然があれば感応することがあります。

・・・・・・・

ところで、「心境」は環境の影響を受けやすいもので、たとえば仕事に打ち込んでいるときには低級霊の感化は受けないが、帰宅して酒を飲めば低級霊の影響を受けやすい……等という事例はざらにあります。

この事例は含蓄に富んでおります。人の視点というのは、何かしらの基準を必要とします。この場合、平常時を基準にして、低級霊の影響時を異常と見なし勝ちですが、仕事に打ち込むというのも、その指導霊の影響下にあるのが普通で、このような人格の変化の幅が大きい人は霊媒的要素が多分にあると考えることが出来ます。…… 進んで高級霊との交渉を望まなければ苦労が絶えぬ事でしょう。

・・・・・・・

さて、質問の「運転中の妄想」ですが、これはつまり、「一人っきりで、リラックスすると同時に適度の緊張がある」ということでありましょう。……単なるリラックスだけでは、妄想していても自覚することが出来ない筈です。

こういう時に生じる妄想については、私にも覚えがあります。こういう状態でブログの更新ネタを仕入れるときもありますので、霊感の働きが活溌になっているのは事実でしょう。

ただし、妄想……その内容が無意味に思えても、否定なさらぬ方が良いかと思います。

人間の視点は基準を求めます。……相対的に物事を受け止めるからです。普段の自分の精神性を基準にして、「妄想」を判断すると、なるほど心配にもなるでしょう。その際、実際に低級霊の感化も受けている筈です。

どんなに高い精神性を備えた人であっても、物質世界に生きている限り、物質的欲求という低レベルの環境に迎合しなければなりません。否応もなく低級霊的な欲求に支配されているのですから、そこにストレスも生じます。…… ストレスが生じればそこに調整が働くのが普通であって、調整作用が何ら存在しなければ、爆発を待っていると考えるべきでしょう。

つまり、質問者は本来、高い精神性に憧れるあまり、低レベルな日常生活に不満を感じているのではありますまいか。そのギャップの調整作用として、普段無視できない相手を、無視できない状況が生じているのだと思います。

Q「徳を積み、随伴霊とともに生活の中で修行をしていくしかないのかなとは思っています」

随伴霊・低級霊と論理的に対決するのは、ありがちな発想ですが無意味です。……誰が望んで低い境涯に留まるのでしょう? 大抵は、「分っているが直せない」と思っているわけで、少なくともそこに論理的な解決策はありません。

すると発想の転換が必要になります。

端的にいえば、質問者の生き方が、先を急ぎすぎているから、見習いであるところの随伴霊から愚痴が出ている……同時に、質問者が本来無視してはいけない問題が潜んでいるから、適度な緊張を伴う時……問題点を自覚しやすい状況下で、妄想が生じているのでしょう。

つまり、徳を積む、修行をする、という本人の意志が、急ぐあまり、危うくなっている暗示であると、私は考えます。

妄想が生じたら……精神的な疲労が溜まっているのです。パッと、気が晴れるような休養の取り方が必要でしょう。


守護霊(ガイド)とのコミュニケーション

2006/06/08

2006年06月08日


Q 「苦境に立った時、自分の守護霊(ガイド)とどのように相談するのがよいのか?」

技巧を凝らさなくても伝わっている

守護霊とその被護者(つまり自分)との位置関係は、船上の監視人と潜水夫との関係に似ています。船上では色々なことを把握しているのですが、潜水夫は自己管理すら難しい有様……様々な注意を受けてもそれを生かすどころか、息をするのもままならぬ状況は決して少なくありません。

つまり、被護者の希望はしっかりと守護霊等に伝わっているもので、むしろ隠し事をする方が難しい(というより不可能)のです。

話が噛み合わない

意図が守護霊に伝わっているのに返事が受け取れない――これを心霊家などは、「波長が合わない」と表現します。……この波長が合わないという表現を、物理学的に解釈しては意味を取り違えます。この場合の表現は、人間同士で用いられるのと同様、つまり、志が違うとか、趣味が違う、受け止め方の次元(レベル)が違うの意味であり、たとえば被護者が「金が欲しい、金がなければ生きていけない」……などと祈ったとしても、守護霊等は『喰うに足りるだけの金はあるはず。贅沢・ワガママのための金は額に汗して稼げ!』といった返事があったり、「意地悪な人がいてとても辛い」と祈っても、『お前が高慢な態度だから敵が多いのだ、反省しろ!』などと叱られたりもいたします。

ようするに守護霊と通信が困難な理由は、交霊の難しさや、祈り方の難しさといった「手段の不備」ではなく、現実認識の差から話が噛み合わないという、「目的意識の違い」が主な理由なのです。

手段を選ぶ効果

手段を選ぶことは副次的な効果をもたらす場合もあります。……守護霊に語りかけるようにして心の中で色々と問題を整理することで解決の糸口が見つかることもあるでしょう。守護霊に手紙を書くようにして文章を纏めることは、問題整理にはなお良い効果が期待できます。

このような時は、霊視・霊聴といった具体的な作用がなくても、守護霊の薫陶というべき染みこむような感化力が働き、出口の見えない迷宮状態から、良い答に導かれることも多いものです。

つまり、守護霊に自分の考えをしっかり伝えようと努力することは、むしろ自分の考えを整理することで、結局は問題解決の近道となり、無駄にはなりません。

苦境時のインスピレーションは役に立たない

ただ、大きな勘違いが見られます。どうも多くの人は、苦境に立ったときには、神仏や守護霊・祖霊が懸命に助けてくれるものだと思い込んでおられますが、穏やかな時でさえ通信できない人が、焦っている時にきちんと通信できるという考えは無理があります。

実際、占い師や霊媒が自分の運命を見抜けなかった……などと揶揄されるのは、自分の危機に際して適切にその予知能力を働かせられないことの証です。そして、プロですら難しいことを不慣れな素人ならばもっと困難でしょう。

確かに火事場の馬鹿力といい、泳げない人が水に落ちて溺れている内に泳げるようになった、等という話も聞きますが、多くの人が火や水で命を落としているのです。焦っている時に潜在能力を発現しても、冷静な対処を望むことは出来ません。

追いつめられないと仕事が出来ないとか、アイデアが出ない、という人も多いものですが、人間がそんなに便利に出来ていれば、うつ病やノイローゼになる人はいないはずです。……このようなことは、精神統一行をしている人には容易に理解できます。ようするに疲れて無駄な考えが出なくなった状態が、ちょうど良い精神統一状態になって霊感が働きやすくなっているだけなのです。しかし、いくら良い精神統一状態に入ってもくたびれていては丹念な仕事が出来ません。

いや、端的にいうなら、苦境に陥ってから相談しようという考え方に大きな間違いがあります。……なぜ、苦境に陥らぬように相談しないのでしょうか?

すでに苦境にはまり込んで仕方なく……としても現にある苦境と、そこから抜け出すための苦労の両方から逃れることは出来ませんし、その苦しみの中にあっても正しい生き方を貫くのはなかなか出来ることではありません。

溺れる者は騙しやすい

まして、溺れる者は藁をも掴むといいますが、騙されやすい状況なのです。そんな時にインスピレーションを期待しても、自分の妄想を霊感と思い込んだり、低級霊や悪霊の誘惑を信じて騙される事が多いもの。……こういう症例は沢山あります。精神統一や霊感が開いて頭がおかしくなった等といわれる人はほとんど皆、自分が困っている時に己の霊感に活路を求め、結局、物事を拗らせると同時に、自信を失って理性を崩壊させているのです。

困っている時に、自分のインスピレーションを信じるのはほぼ間違いなく裏目に出ると考えるべきです。むしろそれを逆手にとって、楽観する時ほど慎重に行動する覚悟の持ち主でないと、守護霊等は助けてくれません。何しろ、ジタバタしている相手を救うのはとても難しいのです。

苦境の脱出法

これは質問にはありませんが、質問の真意を苦境脱出法と解釈して、手掛かり程度に纏めてみます。

そもそも、苦境とは自身の手に余ることを指します。従って、自分一人の力で脱出するという考えは限りなく無理があります。助けを求めるにしても、インスピレーションは苦境の中では信頼に足りません。

また、苦境に陥ってから救いを求めるという考え方が、そもそも強引な生き方を暗示します。つまり、わざわざ平穏な道を外れるから苦境に陥るのでは、ということです。……端的にいえば、「楽をしようとして苦労する」という、本末転倒な行動をとっているのではありませんか。

いずれにせよ、人は因果律から逃れることは出来ません。すると幸せを得るには、苦境の生む苦痛の他に、苦境からはい出る苦労が必要……より辛い道を選ばざるを得ないわけです。

結局、その迷宮の抜け道は、進んで苦労を引き受ける生き方の中にあるでしょう。

再回答

以上を踏まえた上で改めて質問に付き、回答するなら……

守護霊は、被護者が無駄なく幸せになる努力を助けはするが、労無く幸せになる努力は絶対にしてくれません。むしろ、苦労から逃れようとする被護者に苦労を科す義務すらあります。

ですから、守護霊と苦境の脱出法について相談したいのであれば、なによりまず、苦労から逃れず、苦労を積極的に受け入れる努力が必要ということになります。

また、当相談者がそうしているというのではありませんが、言い訳、愚痴やワガママは、相談の邪魔になっても助けになることはありません。


先祖供養の再考

2006/05/14

2006年05月14日

方法論

どうも先祖供養について話題にすると、法事の形式といった方法論の違いに話題に傾きやすい。年に何回墓参に行くとか、仏壇に何を捧げているか、といったのは末節の話で、当事者がそれで満足し、特に怪異に襲われたり、不幸が続いたりしなければ、それで良いではないかと思う。

墓石や仏壇の向きに色々な意見もあるだろうが、霊媒の立場から見れば形式に拘るのは……いや、余計なことはいうまい。但し、一つ明確にしておきたいことがあるが、人が死ぬのは大安だけであろうか? 仏滅に死ぬ人は地獄に堕ちると思うのか? 友引に死んだ人は祟りを起して知人を道連れにするのか?……では人が生まれてくるときはどうか?

天が定めた人の死に、大安仏滅の別がないのに、人がそれを為す。……私は、暦よりも天の意志に耳を傾けたいと思う。

 

事例

Q「父の先妻の位牌を処分してから具合が悪くなった。数十万円を払って霊媒師に除霊をして貰ったが良くならなかった。どうしたら良いだろう?」

A「後妻の子であるあなたにとって、父の先妻とは縁が薄く、また、場合によってはあなたのお母様を苦しめたかも知れない人ですが、あなたが生まれた『家』を支えた一人が先妻なのです。あなたが気がついていないだけで、沢山の恩を受けているのです。その恩を仇で返すようなことをしてはバチが当ります。これは祟りではなくバチなのですから除霊などの効き目があるはずもないのです。縁あるお寺さんに頼んで位牌を作り直してご覧なさい。必ず良くなります。それでも良くならなければ改めてご相談下さい。」

相談者への返答の後、直ちにこの先妻に向けて祈りを捧げる。

『どうかお怒りをお鎮め下さい。彼も良いことを学んだと思います。これからも彼を御守下さい』……祟ったのではなく、叱ったのだ。叱られたのだから、悟った暁には礼をいわねばならない。でなければいくら位牌を作り直し、お祀りをしたところで許しては貰えまい。

その後、幾ばくもなく礼状を受取った。位牌を作り直した直後からだいぶ良くなったとのことだった。

・・・・・

この相談事例は私にとって印象深いものだった。除霊一辺倒の無茶な霊媒とは一線を画したことで誇りも感じたし、無料心霊相談で、謝礼数十万円の霊媒が解決しない問題を解決したことにもやり甲斐を感じもした。

もっとも無料といったところで私が謝礼を受取っていないだけで、位牌の作り直しにはお寺さんへの謝礼が掛っているはずで、相談者にしてみれば完全無料とはいかない。まあ、相談者にしてみればこれで解決すれば安いものだろう。

また、私は、心霊相談が全て無料であるべきだ、とは思っていないことも、ここに明記する。下品な例えであるが、安酒屋に集まる酔っぱらいは安上がりに酔うことばかりを考えて、人の懐をあてにする者も多い。…… 働けなくて礼金が払えない人ならいざ知らず、他人の手間暇を必要とすることには、きちんと謝礼を用意する気持ちを持たねば、その無思慮さ、または強欲さから別な苦労をすると思う。

まあ、心霊相談はかくあるべきだという話題は別な機会として、先祖供養について考えてみよう。

考察

まず、上記の例であるが、先祖供養は血族中の尊属へのお祀りを意味せず、血族を支えた恩人への感謝が大切であることの傍証である。… …実証といわないのは霊媒の主観に依存した証明だからだ。ところがどうも、先祖供養という言葉が惑わせるのか、先祖を拝むことを先祖供養と勘違いしている。

本来の仏教行事としてみても、先祖供養というのは、死んで地獄に堕ちた故人を救うため、故人の代りに善事を行うのが目的の筈。(目連尊者が、地獄で苦しんでいる母親を救いたいと仏陀に申し出たところ、目連一人の力では救えぬから、十方の僧に供養せよ、といわれて始まった)

ところがなぜか、僧に供養(この場合は謝礼)をする代りに、死者に供物を上げることを指して先祖供養と化している。挙げ句に、「先祖供養なんてばからしい、いっそ子孫供養して貰いたいモンだ」という暴言まで聞かれる始末。

誤解を元に物事を判断すれば、間違った結果が出るのは当たり前だが、前提、もしくは、結論のおかしさに気がついたならば、どこかに間違いがあると疑ってみるべきであろう。疑問を持つことをしなければ騙されやすくなるのは仕方がない。

確かに、日本(東アジア全般か)では、祖先は一番身近な「神(仏)」でもある。神であるから供物を捧げることは当たり前に感じる。… …だが、心霊学的にいえば、高級霊界に登った霊魂に物質的な供物は本来不用である。むしろ物質的な供物をすれば、物欲を断ち切れない低級霊が集まりやすい。

高級霊からの引き上げを狙って、ワイロ(供物)を用意し、かえってその心根を嫌われる一方で、低級霊に好かれ、集めた挙げ句、苦労が続くと嘆くのはナンセンスだ。

霊界が先祖供養を顕幽両界の交流・親睦会と見なして、物欲に集まる低級霊を、高級霊界に引き上げるチャンスとして利用する場合もあるが、そこまでの指導力を発揮できる高級祖霊を背後に持つ人がどれだけいるかは不明だ。

ましてや、祖先の霊達が、死後の修行の結果(死んでからだって勉強や修行は出来る)、高級霊界に上がっていったとしても、生前に罪を犯し、また他に迷惑を掛けていれば、償いたいという気持ちもあるはず。別ないい方をすれば「神(仏)」として祀られることが後ろめたいともいえる。

祖先の霊の代りに子孫が償うこと、少なくとも償いの意志を持つことは、祖霊の負担を減らす事にも繋がる。それが間接的に自分への報いとなることを考えてみるべきだ。

そう、供物を捧げるべきは低級霊、そういう表現が悪ければ、彷徨う霊魂が救われるチャンスを作ることが大切なのである。
「子孫供養をしてくれ!」……というのは、足手まとい(低級霊)を省みることもなく、ただ上ばかりを見て「引き上げてくれ!」と叫ぶのに似ている。と同時に、「どうして助けてくれないのか!」と、恨み言も叫んでいるのだ。

だが、引き上げを望むなら、同時に身軽になる努力も必要であろう。一方だけを見ていると、そういう勘違いをする。見捨てられているのでも、祖先に力がないのでもない。ただ、自分自身が難しくしているのである。

まず、自分の重荷になっている、低級霊を引き上げさせ、または、追い立てさせ、身軽になって始めて自分の番が来る。…… 問題解決には手順があるのだ。

そして、先祖供養に供物を整えるのは、低級霊を引き上げさせる手段ともなる。そこに自分自身が不平不満を持ち込み、祖霊の邪魔をするから自身が救われない。

一体、人が求めるべきは、良き結果か、好む手段か? 楽だからといって下り坂ばかりを選んで歩けば、どうあっても山頂には立てない。 ――楽な手段を望んで良くない結果を得るなんてナンセンスだ。

結論――多くの人の先祖供養は、手段と目的をはき違えて、かえって害を受けている。先祖にゴマをするよりも、先祖の残した悪業・悪因縁の解消に努める方が良い。


自助努力としての先祖供養

2006年05月15日

遠回しであるが、以下も先祖供養に関連する話である。

・・・・・・

ここ数日、メールのログを読み返していた。中の一通に目がとまる。

「思いこみを廃して冷静になれ」との私の回答に対して、相談者の「どうせ見えていないんだろう」と返事だった。

その返事こそが、私がちゃんと見えていた証拠なのだと今でも思う。

私が無料で心霊相談をやっていることは、該当相談者の関知するところではあるまいが、たとえ気に入らぬ回答であろうとも、相手の時間を費やしたことに礼の一つもいうのが常識の筈。……そこまで精神的に追いつめられているとしても、だ。いや、追いつめられていると看取ったからこそ、冷静さを求めたのだ。

むろん、冷静になれといわれて、冷静になれるなら人生はどんなに楽であろうか。私も彼の相談者が冷静になれるなどと信じてはいない。だが、当人が心を静めようとしているか、していないかは心霊相談を受ける上で重大な違いである。

(可能であるとして……と言葉を濁す)当人の意に沿わぬ事を強いることが果たして人道に適うであろうか? それが守護霊とか、高級神霊であったとしてもだ。……当人の意志が大切なのである。

具体的は方法については、比喩で説明したい。たとえば、騒音が酷くてノイローゼになりかけた人がいるとする。「気にするな!」と周囲からいわれ、また、当人も懸命(?)に気にしないように努力しても……努力するからかえって音が耳についてしまうだろう。

そういう時には、むしろ別な音に注意を向けさせた方が良い。好きな音楽を流すのも良し、気の合う人と会話をするのでも良いだろう。他の音、それも気障りでない音に集中すれば、騒音は気にならなくなるものだ。

だからたとえば霊障で頭の中がうるさくなっている人なら、心静かな善霊にしばらく語りかけて貰ったりすることで頭が静かになるのである。……この手法で成功した事例もあるが、事例にならない場合もある。

・・・・・・

そもそも、苦しいから助けを求めているのに、その回答が「落ち着け」というものなら、かえって腹が立つ……そう感じる人もいるだろう。いや、実際その通り、それが人間の生理的な反応であろうと思う。

だが霊媒である私は、霊障を抱えている人に四六時中ついて静かに話しかけることなど出来ないことだ。そんな手間が掛ることを無料でやったら、私は生活に困窮してしまうだろう。当然、霊界の助けを求めるわけだが……霊にも自由意志があり、助ける相手を選ぶのである。それを私が強いることは出来ないし、したいとも思わない。何しろ私だって不快なメールを受けたのだ。それでも見捨てずに助けたいと思うのも私の自由ではあるが、それを他者に強いる権利はない。

つまり、助ける手段があっても、その手段が適用できるとは限らないし、適用できるか出来ないかの差は、霊媒よりも相談者自身の選択するところなのだ。そして……特にこれを明記したい。見ず知らずの霊が助けようとしないのは当然としても、身内の霊、相談者自身の祖先の霊は何をやっているのだろうか、ということだ。

私はいつも不思議に思うのだが、祟りとかを恐れる人は、自分を愛してくれている尊属を持たないのであろうか。自分には霊に対抗する力が無くても、自分の祖父母ならば……祖父母が無理でも、祖父母が神様・仏様の助けを連れてくるとは期待しないのであろうか? まあ、それは個人の都合であろうが……我が師は、霊感商法の被害者を指して「仏事をケチるから霊感詐欺に騙される」と看破していた。祖先の助けを期待できないのは、自分が祖先を大切にしていないからだというのだ。

・・・・・・

私は心霊相談に謝礼を強いたことはない。しつこく出張鑑定を求めてきた人に交通費と会社の休業補償分を提示したことはあるが……だが別に義人ぶっているつもりもない。人に善事を施せば、功徳か福徳で報われるものだからだ。功徳とは、つまり経験が自らを救うことを意味し、福徳とは、天と人の善意を得られることを意味する。霊媒としてみたら人間が差し出す報酬は喰っていける程度でよい。贅沢をしたければ悩める人の謝礼をあてにするよりは、汗して稼いだ方が気が楽であるし(その選択は充分に贅沢ではあるが)、どうせあの世や来世に持ち越せないのだ。地上の年金額程度は、天に預金を作っておきたいものである。

たとえば問題が解決しても相談者が礼状の一つも寄こさなかったとしても、経験を積むことは私の利でもあるし、大抵の場合は相手の祖霊等が私のために相応に働いてくれる。私は充分に元を取っているのだ。が、祖先の霊ですら助けようとしていない人に手を出すのは、私も躊躇するし、その打算を私は恥じない。

第一、他人に手間をとらせて罵る人では、一つの霊障を解決しても、終わりとはならないのではないか。まず礼儀を正さなければ、なかなか人の善意を動かして、自らの味方にすることは出来まいと思う。

ここまでいうのは酷であろうが、泣いて助けが得られるのは、赤子が親に期待するべき事で、そんなささやかな期待さえも暴力で……赤ん坊の泣声がうるさいからと死に至らしめる親が散見されるのである。他人ならばなお危ういと気がつかぬ人の何と多いことか。

類魂説

2006/05/14

2006年05月14日

1, 類魂説について

人間は孤独に耐えられません。必然的に何らかの集団に帰属したがるわけで、人が三人寄れば派閥が出来るといわれるぐらいです。すると当然、死後の個性、いわゆる「霊魂」となっても人は何かに帰属せずには居られぬ筈なのは、直覚する霊媒ならずとも容易に想像が付くでしょう。

ところで人間は、帰属する集団に感化されやすいという性質があります。「郷に入っては郷に従え」等という助言が必要なひねくれ者も皆無ではありませんが、「みんながやっているから良いと思った」的な言訳が当り前に使われもいたします。

集団暴行事件や模倣犯、ゴミのポイ捨てが塵も積って山となる……悪い方向ばかりではなく、「孟母三遷」……儒家の孟子が幼少の頃、その母親が子供によい環境を求めて三回引越しをしたという……良い方向性にも環境が影響いたします。

また極端な話ですが、素晴しい霊性の持主が快楽主義的な人々ばかりの集団にいたら、その霊性の高さを(相対的にみて)偽善でうるさいと見なし、周囲との摩擦で苦労はしてもその霊性の高さが誰をも幸せにしないことでしょう。

「個々が集団を作ると同時に、集団が個性を育て、また個性に干渉をしていく」

人間、そして霊魂は帰属する集団に強い影響を受ける。……すると、個々の霊魂だけの研究をすることは単純であっても実用性に薄いことになります。
つまり実用的な心霊研究には、集りとしての霊魂の振舞を研究しなければなりません。その研究テーマの一つに類魂《グループソウル》説があります。

しかし、類魂説に取組む前にはっきりさせるべき事があります。人は一グループのみに属するわけではありません。性質の異なる複数のグループに属し、そのグループも階層をなすのです。たとえば個人は家族に属し、家族は地域社会や親族・血族という異なるグループに同時に属します。また個人は、会社や学校に属し、同時に趣味のサークルなどにも属します。霊魂も同様に、一の霊が、一グループのみに属することはなく、分析の切口に応じて、様々な形態のグループに属することが見て取れます。一体、類魂説が扱っているのはどの切口から見たグループであるのか……主観的要素の強い霊媒による調査では、視点毎に分類することが難しく、それが混乱を生み出しています。(混乱していることを知らずに難しいと考えているのは、理解の糸口がつかめていないということです)

ですから、類魂説を論じるにも、類魂説を読むにも分析の切口が何所にあるかを把握すべきです。

 

2, 視点の整理(類魂説)

類魂説を論じる前に、以下なる視点があるかを整理してみます。以下の分類は私のオリジナルであって、その独創性を計る以前に、個々の用語が他の心霊研究家、他の霊媒と共通であるかどうかに注意を払ってください。心霊用語というのはおのおの勝手に解釈し、勝手に造語してどれが正しいのか判然としないことが多いのです。私が使っている用語も私が正しいと認識している、または、こうあるべきだろうという意図から使っているにすぎません。

集団の形成要素としては、横の繋がり、そして、縦の繋がりが主なる力です。

厳密に言えば、斜めや、捻れといった、あまり素直でない関係も存在します。たとえばライバルなどは、友好的ではないが尊敬し得る相手ということで、斜めの繋がりということが出来るでしょうし、似ているから嫌う……近親憎悪などは、ねじれと表現し得ますが、いずれにせよこのような関係は一作用にはなり得ても、恒久的な集団にはなり得ません。

従って、霊魂が形作る集団としては概ね、横の繋がり縦の繋がりを二大別とし、それぞれの構成員の特質からさらに二分別する、合計四分別を、まずは基本として捉えると事を提案いたします。以下、同種同類の横の繋がりとして、「類霊団」「群魂」、階層の異なる縦の繋がりとして、指導を目的とする集団「守護霊団」と、因縁解消のための小グループ「類魂」の四つについて解説していきます。

 

3, 横方向の絆(類霊団と群魂)

マイヤースからの霊界通信「永遠の大道」等で語られるグループソウルは、同種の霊魂の繋がりということで、私はこれを横方向の絆、と表現します。ただ、グループソウルという表現はおおざっぱに過ぎて視点の違いから生じる混乱を助長するものではないか、と思われるのです。

類似性を持った集団は確かにグループですが、類似性の中にも共通の目的がある場合は、むしろチームといった方が適切でしょう。漢字的には「団」ですね。また、目的意識を持つには理性的な性質が不可欠ですから、衝動的性質を暗示する魂(たとえば魂の叫びとは表現するが、霊の叫びとはいわない)よりも、霊という字を充てるのが適当に思えますので、私はこれを「類霊団」と表現します。対して無目的の集団であれば侮蔑的ですが「群れ」の字をあてて「群魂」と表現しています。

おのおのの思念こそが風景を作り出すのが死後の世界ですから、死後の生活を研究対象にするなら、それは「類霊団の研究・観察」と称して差支えありません。

対して、群魂は、衝動性が支配する世界……俗にいう地獄などの研究と同一でしょうし、悪霊・低級霊の憑依なども群魂の性質の一部です。おおざっぱにいえば、後ろめたいことには仲間が欲しいもの……なのです。

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