‘心霊研究’ カテゴリーのアーカイブ

境涯の差。(死後の世界)

2010/02/21

 死後の世界は、階層を成している、という。その階層というのはつまり、性質の異なるものが混じり合うことなく別々に存在する……特に注意すべきはそれら異なる性質の者が主として上下に別れて、上から降りることは容易でも、下から上がるのが難しい、すなわち、混じり合いにくい環境なのである。

 上下関係があり、混じり合いにくいといっても、それは封建制度中の身分の違いや、インドのカースト制度のようなものを想像するとかえって混乱するとおもう。現代日本で喩えるなら、週末に秋葉原のホビーショップ(?)に行きたがる人や渋谷・原宿のファッションショップ(?)に行きたがる人などがいて、それを尻目に、家庭菜園に勤しむ人がいる……それぞれが、人生の余暇を何に費やすか、という関心が違って、それゆえに混じり合わない。

 では、どうして上下の差が出来るか、といえば、それを心霊では「霊格の差」、とか、「境涯の違い」と呼ぶわけだが、わかりやすく、というか、数値化しやすい表現でいえば「共存共栄の配慮の多少」の差で決まる。つまり自分の事のみに関心を持っている人は、環境を利用しきれず、対して広く他を配慮する人はより大きく環境(賛同者を得て)を利用して大事を成すのだ。……しかしながら、いくら上辺だけ「皆のため!」と言ったところで裏や下心があれば、協力者が集まらず(一方、同病が集まって身動きできなくなるかもしれない。)、身動きがとれない、というのに似ている。

 それは、善し悪しの差、というより……(いわゆる高級霊にしてみれば、いわゆる低級霊と十把一絡げに評価されることを喜びはしないが。)……それぞれの目的に対する気持ちの純粋さの差、そう、実は案外その資格の差は小さく、その結果の差は大きい。……ようだ。

 それこそ、大悪党ですら誰かのために真剣に祈ることもあり、世から崇敬を受ける善人ですら、我慢できずに誰かを恨むこともある……というのと同様に。

 結局、救いようのない人がいる、というより、救いようのない考えがあるのであって、その差は時々、大きな違いがあるけれど、大抵の場合はほとんど差がない……故に、時々は考えを省みて、一時の考えに己を貶めないように気配るようだ、とおもう。が、善を貫くには信念が必要で、信念は往々、頑固さに似るように、良く生きながら柔軟であるのは難しく、それゆえ、正しく生きようとする人でさえ、苦悩が避けがたい。

悪霊信仰の否定

2006/12/07

 心霊というと、悪霊の祟り、低級霊の障り、先祖供養、水子供養などという言葉を連想なさるかもしれません。ですが、考えてみてください。地上には親切で優しい人もいるのに、悪逆非道、無慈悲で依存心が強い死者ばかりのはずがありません。

 善良な人も死を免れる事が出来ません。ですから霊界には悪辣な魂だけでなく、善良な魂もいるのです。そして、悪霊や低級霊は、死者の一部に過ぎません。その一部の魂をだけを相手にしていて、あなたは死後に、いかなる世界に行くというのでしょう。わざわざ治安の悪いスラム街に漂っていきたいのでしょうか?

 一般にみられる心霊知識は、どうも品性に欠けています。祟る、障るも霊から人への一種の暴力ですし、除霊は直接的な暴力で、浄霊は洗脳といった間接的な暴力ともいえるのです。暴力に対して力でねじ伏せるような解決は、果たして真の解決といえるでしょうか。

 どちらが争いの発端であるのかはともかく、力による解決は恨みを残さずにいられません。短期的には解決しても、長い目でみれば問題の先送りである事も多いのです。

 これを踏まえてもう一度良く考えてください。力による解決が必要な相手とばかり関わっていて、あなたは死後にいかなる世界へ流れ着くというのでしょう。

どうせなら友愛と奉仕の溢れる世界を選びたいとは思いませんか?

 それとも、友愛や奉仕と関わるのは面倒でしょうか?

パワーバランス

 霊界では善悪よりも摂理を重視しますが、霊界の治安の良し悪しは、死を免れることが出来ない私たちにとって重大な関心事である事ですね。一体、霊界とは善悪どちらの魂が大きな勢力を持っているのでしょうか。

 霊界では衣食住といった生活のための雑事がそう多くはありません。とはいえ、それぞれに目的を持地、そちらに忙しいですから、いくら親切な魂が多いとしても、いくら悪事を成しても、かならず助けてもらえるほどには親切を受けられない世界です。

 人は助け合う事でより多くのことが成し遂げられるものですね。ですが、わがままであったり、独善的で人とは相容れない価値観の持ち主は、なかなか人と協調することが出来ません。いえ、利益さえあれば、多少の目的の違いなど乗り越えて人々は助け合うものですが、目先の利益を追いかければどうしても周囲と衝突しがちとなります。

 そう、個人的な利益や目的で行動しても、協力者の数は限られていますが、霊界全般、地上世界全般の利益のための行動には、非常に多くの協力者が得られるのです。結局のところ、いわゆる悪霊や低級霊と呼ばれるような存在は、大きな集団を作る事が出来ず、調和を望む霊たちの敵ではないのです。

 つまり、あなたに助け合いの気持ちさえあるなら、不安を感じる必要は無いほどに、霊界の治安は保たれています。

善良さは義務

 結局、霊界を支配しているのは、善意ある霊たちです。ですが、決して勘違いしないでください。すべての魂は善良であるべきで、善に従うというだけで称えられる事はありません。

 つまり善良である事に何らかの代償を求めても、誰もあなたの善行に義務を負うことはありません。ただ、どうせ大切にするなら、善良な人を大切にしようとするだけの事なのです。

それでも苦しい

 霊界を善意が支配しているのに、なぜあなたが苦しみから救われないのでしょうか。

 災難をもたらすのは、他の悪意よりも己の未熟さですし、不運よりもあなた自身の要領の悪さなのです。また、間違った努力も困苦を終わらせる事はありませんし、途中で諦めても困苦を逃れる事が出来ません。

 世界がどれほど善意に満ちていようと、あなたの心にそれを受け入れる余地が無いなら、あなたに善意は届かないのです。

 何よりも、自分自身に出来る努力もせず、救われる事ばかり願っている人を一体誰が助けたいと思うのでしょう。

 世の中には、苦しくとも助け合える人もいれば、苦しければ人を犠牲にしてでも楽になろうとする人がいます。さて、善意が世界を包み込もうとするのを妨げるのは一体どちらのタイプの人でしょうか?

悪霊になるな!

 結局、世界を支配しているのは未熟さですが、善意がそれを補っています。

 世に災難は耐える事なく、未熟さゆえの嘆き、妬み、恨み、そして苦しみの声が地上に満ちてはいますが、人々の魂の所在は、この地上の限られた可能性に留まる事はありません。

 あなたが苦しみ、悲しみから逃れる事が出来ないとしても、チャンスはすべての人に用意されているのです。ただ、あなたが霊界の用意した「幸福」を得て、喜びに思うかどうか……豊かな浪費生活から見たら、それはごく平凡で、つまらなく思えるかもしれません。

 それがつまらないと思ったところで、一体誰を責められましょう。あなたは、あなた自身の責任において、幸せになるべきであり、用意されたチャンスが嫌なら、あなたが自力で望む未来を得ればよいのです。

 ですが、あなたが幸せになるために必要以上の豊かさを求めるなら、それは誰かの豊かさを奪う事に繋がります。気が付けば、あなたが幸せになろう・豊かになろうとするのは、人を苦しめてまで自分を幸せにしようという行為になりかねません。

 そう、心霊主義の立場から見て、あなたが幸せになるための最大の障害は。悪霊・怨霊・低級霊の類いではなく、あなた自身が悪霊になってしまう事なのです。


2004-12-06

中身を知らない(信仰心)

2006/04/16

2006年 04月 15日


 時々、聞かされるたわごとであるが、神様が助けてくれないなら、悪魔信仰をする……当人はそれなりに真剣なのであろう。だが、真摯な信仰者は、こういう発想を、「御利益信仰」と呼んでいる。当人は神を信仰しているつもりでも、傍目からは見えるのは、御利益を得ることが第一義であって、神も悪魔も、無論仏も、御利益の中継ぎ役でしかないのである。

 端的に言えば、最初から御利益を拝んでいるのであって、神も、悪魔も拝んでいない。徹頭徹尾、御利益宗の信者であって、神も悪魔も御利益大神の眷属扱なのだ。ならば、神様の代りに鰮の頭を拝んでもたぶん状況は変らないだろう。

 これがたとえば、霊障に苦しんでいる人が一時囚われる妄想としての悪魔(悪霊)信仰は更に屈折している。ようするに神様が助けてくれないなら、悪霊に降伏してしまおう、という発想だ。……だが、悪霊は降伏を強いているのではなく、肉体の支配をもくろんでいるのである。つまり降伏などというのは一方的に抵抗を止めるというだけであって、先方がそれに従う必然性を持ってはいない。

 いや実際問題として、悪霊に降伏しようか等という発想は、高級霊等からの試練……覚悟を試されているのが本当だろう。道義よりも利益に色目を使いがちな人に与えられる試練である。

 ところで、この話題に(内々)興味を持つ人にとって、一番の関心事は、「何を信仰すべきか」というテーマかも知れない。これは浅野和三郎氏の著作などを見れば、「邇々藝命《ににぎのみこと》であるべき」と繰返し書かれているが、試してみて欲しい。邇々藝命信仰をして何らかの手応えを受ける人もいれば、受けない人もいるだろう。……同じ信仰対象を持っても、その効果に差があることが、一部の人達を無神論に傾けさせる原因ではないか。おそるべきは人の妬みなのである。

 だが、同じ信仰対象を持っていても、人それぞれに異なるものがある。その人々の境涯、そして、信仰心の在り方だ。この問題に気が付いた人は古今数多いが更に困ったことに信仰心は、目で見て比較が出来ないことである。

 ならばいっそ、どういう心境で信仰したときに手応えが強いのかを研究してみれば良さそうなものだが……無論、私はやっている。精神統一だ。心を静めて祈る。その祈りに手応えが感じられるのは自分の心がどういうときであるのかを常々内観している。

 その上で思う。信仰対象が大切なのではない。自身の信仰心、もっと砕けた言い方をするなら、敬いの心が大切なのだ。

・・・・・・・

 ところで、私は、朝、目が覚めて起きあがるまでの数分間、寝ぼけた状態から意識が目覚める間に本を読む習慣がある。今朝読んだのは、下村湖人著 「論語物語」だったが、ふっと感じるものがあった。

「現今では、親を養ってさえいれば、それを孝行だといっているようだが、おたがい犬や馬まで養っているではないか。孝行には敬いの心が大切だ。それがなかったら、犬や馬を養うのとなんの択ぶところもない」

・・・・・・・

 この問題は、同時に恋愛問題にも当てはめられるだろう。浮気を繰返す伴侶は、真の愛を抱いているのか……多くの人は「浮気な愛」を否定するだろうが、問題は敬いの心の有無であろう。

 いわゆる信仰の中には、依存心の強いものと、尊敬の念の強いものがある。
 いわゆる愛情の中には、依存心の強いものと、尊敬の念の強いものがある。

 信仰も、愛情も、孝行も、ただそれだけに価値があるのではなく、その成分が大切であり、その特に重要な成分は、一般に「敬い」といわれているものだ。……呼び名が同じでも成分が異なれば性質も異なるのである。

 成分を知らずに本質を知っていると錯覚し、呼び名にこだわり、呼び名に騙され、意味が分らぬと途方に暮れる。

……なぜ分らないのか? 理解せずに理解を求め、不器用さを「自分らしさ」と言い訳し、周囲への愚鈍さを「我侭だから」と開き直ってみる。… …他人の同情なくして生きらぬ、依存の強い生き方をしているのだから、分るはずもない。


日本的信仰生活

2006/04/16

2004年07月10日・心霊研究掲示板
2004年08月15日・加筆修正

 

 日本人は、クリスマスを祝い、新年には神社に行き、葬式は仏式……と、節操のない宗教観の持ち主であると、日本人自身が思いこんでいますが、これは日本人の宗教観が逆に健全であるからだと私は思っています。

 そもそも、宗教宗派に拘るというのは、まず最初に、信仰対象があり、その信仰対象をどう称えるか(卑屈にいえば、どうおもねるか)を考える結果だと想うのです。それに対して、日本人の本来の宗教観は、先に信仰心……すなわち、超越者・先駆者に対する敬意の念があり、その敬意の念の表現方法として宗教宗派、又は宗教儀式が有るのでしょう。

 幸せにして欲しいから信仰するのではなく、すごいと感じたから信仰する。それが日本人の精神性だと感じるのです。だからこそ、外国の優れたものをどんどん取入れもするし、怨霊さえも神様として祀ってしまうことをするのが日本人です。

 先に信仰対象があると、他の優れたものを賞賛することが難しくなる……そういう器量の小さい所が熱烈なる宗教家には多々見られますよね。一方、宗教宗派を問わずに、私を幸せにして……というのもなにやら強欲な話です。所詮、神とか悪魔とかの分類が、自分にとって利益になるか否かの違いだとしたら、結局、信仰対象が先にある信仰心というのは欲の働きとしか私には思えません。だからこそ、欧米の宗教では「霊性の向上」が重視されるのでしょう。最初は欲の働きから信仰に入っても、最終的に神に繋がればそれでよし……そういう思惑が見え隠れします。

 現実問題として、現代日本でも、信心深い人というのは、欧米的に先に信仰対象のある人が大半を占めているようですから、欧米的に霊性向上が必要でもありましょう。しかし、日本古来の精神スタイル……先に信仰心があり、拝む対象はそれこそ蚕《カイコ》でも鰯《いわし》の頭でも良いというなら、そこで重要なのは、対象のその先にある何か、をより理解するための霊性深化かも知れません。すなわち、「表面的な理解」といういわば、偏見に陥らぬように、自分をより深く知る事を大切にする事が大事といえましょう。

 私がこのように感じるのは、現代の書店で入手可能な神道に対する入門書を見ての事です。どうにも一般的な神道の書物というと、神話紹介、御利益案内、神社観光、呪術紹介といった事柄ばかり、それが日本人の精神性の根元だというのなら、エコノミックアニマル、日の丸観光団、そして、「フジヤマ・ゲイシャのエキゾチックジャパン」……現代日本人への偏見そのままではありませんか。

 ああ、辿っていくなら……はじめに「信仰心ありき」という日本人が滅びたからこそ、日本人は上海事変から太平洋戦争へと乗り出していったのかも知れませんね。


真理と現実(次元の混同)

2006/04/15

 いわゆる心霊現象と呼ばれる事例の多くは、超常現象でもなんでもなく、科学的に説明できる事も多いし、それどころか、科学的な説明のほうが合理的な場合が多いものです。

 死者の霊の言葉を代弁する霊媒現象もまた、二重人格の霊媒の別人格かもしれないし、ただの虚言かもしれません。いえ、虚言以上に、思い込みを霊言と思い込んでいる場合がとても多いと思います。

 心霊現象(と一般に思われているもの)に関する解釈があまりに滑稽であるために、単に心霊肯定論者であると自称するだけで、心霊否定論者の失笑を浴びる事があります。

心霊とは、非科学的な迷信なのでしょうか?

 確かに、非科学的で迷信としかいえない解釈や研究も数多くあります。そういう研究家がいることで真面目な研究者も一緒に誹謗されるのは迷惑でもあります。

 しかし、考えてみてください。

 例えば、絵の具をこぼした一枚の紙と、画家が意図して描いた絵画と、科学的にどう違うというのでしょうか。

 絵の具のついた一枚の紙にある、作者の意図の有無を、科学はどう解明できるというのでしょう?

 一見不可思議だというだけの理由で、しっかりと科学的に説明がつく現象の多くを、『心霊現象と信じる』というのは、確かに近眼的で愚かしくも思えるでしょう。しかし、どれほど科学が否定しようと、「心がどこから生じ、肉体の死によって心の価値がどう代わるのか」という疑問から人々は逃れる事が出来ません。

 そのような疑問は、本来、宗教や哲学の対象であり、科学の対象ではないはずです。そして、心が単なる生理的な反応に過ぎず、そして、死によって全てが無に変えるなら、人生にいかなる価値があるのでしょうか。

 そう、人は自分を偶然の産物とは考えたくないのです。しかも、人は、心を想像できるような超越的な存在の意図を理解できるものでしょうか。 我思う、ゆえに我あり……ですが、「我がある」というだけで満足できる人なら、宗教や心霊思想など不要なのです。

 CD(コンパクトディスク)を例えに考えて見ましょう。その素材が何であるのかは、化学的に解析が可能ですが、そのCDにいかなる情報が記載されているのかは、化学の対象ではありませんよね。記録媒体の組成と、記録された情報とは異なる次元の問題だからです。

 ですが、心霊肯定論者の多くは、心・霊と物理・生理現象とを同一に扱おうとします。「心と身体とは異なる次元の問題だ」という、霊界通信を受けて、霊界を「四次元の世界だ、いや、高級霊界は五次元だ……」などという議論が始めてしまうのです。しかし、数学的な「次元」と国語的な「次元」を混同するというような低次元の過ちを、真剣に論じて何になりましょうか?

 確かに、心霊に関する様々な理論等には滑稽な物も多いでしょう。死後の個性存続・肯定論者である、私の目から見てもひどい状態だと感じます。でもそれは、基礎的な研究がおざなりであるということなのです。


霊能者

2006/04/15

 霊能者

 文字どおり、霊を能《あた》う者ということで、霊を扱える者という意味になります。具体的にいえば、単に霊を自分に憑依させてその言葉を伝えるだけの霊媒に対して、除霊等の祈祷も出来る人を意味します。つまり交霊能力と霊能力は似て非なるものなのです。

 しかし、「霊媒」のページでご紹介したとおり、いかに霊能者であろうと肉体の維持に対する努力が免除されるわけではなく、睡眠や食事に大きな労力と時間を費やさねばなりません。となると、肉体も無く自由に時間が使え、移動にたいして何の制約も無い霊と、対決するにはあまりにハンディーキャップがありすぎます。

 結局、霊と対決するのは、霊能者の背後霊なのです。ですから自覚の有無を問わず、強力な背後霊団を持たない限り、霊能力は生じない事になります。

 ですから私は、霊能者=霊媒+背後霊と表現します。

 霊界というのは、象徴の世界です。その有様は、低級霊界といえども人間がその頭脳で理解しきれるものではありません。ですから、霊的な事件の解決は霊界に委ねるのが正しいやり方なのです。そう、霊界のことは霊界に任せるのが、基本原則といえます。決して霊界は無秩序で暴力あふれる世界ではないのです。

 任せる事の難しさ

 任せるというのは難しいものです。私たち人間の目には目前の問題しか見えませんが、霊界はその背後の背後まで見通した上で、援助の手を差し伸べてくれるものです。しかし、往々にして人は、朝知恵を霊界に当てはめ、事態を混乱に導くものなのです。


霊媒

2006/04/15

 霊界への掛け橋

 霊媒という言葉が生じたのは、そう昔の事ではありません。キリスト教の呪縛を抜けだし、霊界への関心を抱いた人たちが、界と人間の間を介する職業に与えた職名…… “Mideume” の訳語が霊媒なのです。

 しかし、単に霊を感じ取る力の持ち主を霊媒とは呼びません。自分の交霊能力をきちんと自己管理できる人でなければ、狂人と変りがありませんし、霊界の一方的な働きかけの支点にしかなれないのなら、それは掛け橋ではなく、悪霊や低級霊の配下・手下に過ぎません。

 そして、「掛け橋」になるということは、交霊能力だけではなく、その志も大切な要因なのです。

 交霊能力によって、問題の解決力を得たり、人の知りえない事を知るというのは、霊界の協力があって初めて起こりえることなのです。そして霊界が力を貸すのは、人間社会が豊かな精神性を獲得する事が、結局は霊界の利益になるからなのです。

 霊界も自分たちの利益の為に働いているのですが、それは個人的な利益の為ではなく、全体への利益の為なのです。したがって、自分の都合の為にのみ、霊能力を使おうとするのは、霊界への冒涜であり、裏切り行為に等しいものです。

 人間の欲望の一方的な働きかけの支点になる人もまた、霊媒とは呼べないのです。

 象徴と実体と

 他の霊媒と話していて、非常に困る事があります。話が通じない事が多いのです。

 霊には肉体がありません。だから肉眼では見えないのです。この実にあたりまえな事を前提にして心霊は語られるべきなのですが、人間はどうしても姿かたちで相手を判断しようとし、名前で相手を特定しようとしがちなのです。それは、地上生活を送る上でとても大切な技能ですが、霊界生活の長い、魂たちには当てはまらないものなのです。

 霊媒が、霊たちに肉体同様な姿かたちを目撃するのは、あくまでも象徴に過ぎません。想念の世界において、姿かたちは、人の言葉と同様に自由に変化させられるものなのです。そして、実体の無い象徴を、霊媒たちはさも実体があるかのように説明しているものなのです。

 それは比喩ともいえるし、誤解ともいえます。そして嘘ともいえるのです。

 低級霊は避け得ない

 霊感のある人にとって、交霊相手は自分の精神性……霊格または波動など……が同格の相手に限られるのが普通です。ただし、例外として、因縁があったり、必要性のある霊は、様々な障害を乗り越えてメッセージを送ってくれるものです。

 ですから、いかなる霊格を持っていようと、守護霊や指導霊のメッセージを受け取る可能性はありますが、霊媒が自分の霊格を上げない限り、意思疎通には困難が伴い、始終、または、必要な時にすぐメッセージを受けるというわけにはいきません。

 喩えるなら、社長や部長と話をするには、それなりの準備や手順が必要で、会社で気楽にできるのは、同僚だけ……と考えると分かりやすいでしょう。

 もちろん直属の上司(守護霊など)とはこまめに情報のやり取りが必要ですが、守護霊は、いくら親しくしてくれても決してお友達ではありません。あまり甘えると、守護霊の意図しないところで(つまり状況的に)立場を思い知らされる事になります。

 そして、普段、耳に入ってくるのは同僚や友人たちの声なのです。対等な立場な相手ですから、決して騙されてはいけません。

 また、命令されても聞く必要はないし、自分の心の中に欲心……誉められたいとか、うぬぼれがあると、おだて方が上手な霊が集まってきます。高圧的で、脅しが上手な霊が来る事もあるし、泣き落としが上手な霊が来る事もあります。暇つぶしには役立っても、自分の為になるような情報は、普通の状態では入ってこない物なのです。

 そう、低級霊と接触したくないと望んでも、安易な解決策はまったくありません。大切なのは、低級霊がかかってあたりまえと、覚悟を決める事なのです。そして、自分でそれをふるいにかけていくのです。

 そして、交霊相手をふるいにかける過程こそが、自分の精神性・霊性の最高の修練になります。そして多くの交霊相手の中から、自分の信頼できる霊を見出し、その絆を深めていく事によって、確実に交霊ができるようになります。

 魔境

 反対に、ふるいわけをおざなりにしていると、魔境に囚われます。

 魔境というのは仏教・禅宗用語で、乱暴に説明すると「現実逃避」から狂気に陥る事を意味します。周囲から見れば地獄に棲んでいるように見える状態なのに、当人は天国にあると信じきっている状態で、悟りの境地の反対を意味します。

 そして問題なのは、魔境に陥った人は、自分が魔境にいる事を否定する為に、周囲の者は助ける事は出来ない事なのです。魔境に陥った人は自ら脱する覚悟を持たない限り、誰にも救う事は出来ません。


2006-04-14

審神者(さにわ)

2006/04/15

霊格を見る

 『自分を審神者《さにわ》なさい』

 私の師匠の言葉です。

 審神者《さにわ》とは交霊会などで、霊媒に降りてきた霊との折衝を務める役の事です。しかしこの場合は、霊格の判断を見抜くものという意味で審神者《さにわ》という言葉を用いています。つまり、常に自分の霊格を意識して、低級霊的な行動を慎むようにという教えなのです。私は常にこれを心がけています。

 霊格というのは、単に魂の境涯を示すだけではありません。霊格は行いに現れる物であり、霊格を知るということは、相手が何かを行う前に、何が行えるのかを見抜くということにもなります。当然、人間観察力が要求されるわけですが、人生を霊性向上の場と考えるならば、人間観察の能力は必須といえます。言うまでもなく、向上するためには自己の欠点を見出し、その修整を心がけなくてはいけません。また、人を見て自分に無い美点を見出し、それを取り込むことも大切な向上の手段なわけです。

『世の中には、悪い人などいない、必ずどこか一つぐらいは良い点を持っている』という言葉は、うわべは綺麗ですが、建前以上であってはならないのです。確かに人の悪い点をあげつらえば付き合いが嫌になってしまうものですし、自分の欠点と向き合えば、生きるのが嫌になるのが人間の心情でしょう。しかし、嫌なことから逃げていても問題は解決しないのです。むしろ嫌なことをいつまでも放置せずに、さっさと解決すべきでしょう。問題点を明らかにすればこそ向上があるのです。

『人生は霊性向上の場である』その実践には、今の自分の霊格を測り、自分の成長を確実に把握していく必要がありますし、人の霊格を見抜き、悪い所を真似せずに、反面教師とし、良いところを学び取っていくことが大切なのです。

 霊界通信が教えるところでは、死後、霊界においてはそれぞれの魂の境涯に応じて、自然と住み分けが生じてしまうのです。それは、自分より高い境涯の者から良い生き方を学ぶことも、低い境涯の者の欠点を見て、我が欠点に気がつくこともとても困難だということなのです。

 霊格を見る。その技能が霊性向上をどれほど加速することでしょう。審神の智慧は異界からの学びを得る心霊主義者には必須の智慧といえます。

審神者《さにわ》

 審神者さにわ》とは、霊媒にかかる神霊の格を判断する能力者を指します。その漢字は意訳的な当て字であり、もともとは沙庭と表現しました。上古、霊媒は寄り代といわれた時代のことです。寄り代は髪の降りる場所ということで社殿や神宝の意味があり、沙庭掃き清められ、砂(沙)を撒かれた庭を意味しますから、霊媒と審神者の組み合わせは生きた神社とも言えるわけです。また、審神者《さにわ》は日本の心霊界特有の存在です。

 古事記中に「仲哀天皇が熊襲国を討とうとして、天皇が琴を弾き、武内宿禰を沙庭として、(神功)皇后に神懸りさせて託宣を求めた」という記載があります。

 ここで皇后は「霊媒」・「寄り代」、または、「(本来の意味での)巫女」を務め、天皇は寄り代を入神(トランス)状態に導く為に音楽を奏でる「侍座者」を、そして、武内宿禰を「沙庭」のちにいう審神者を務めたわけです。ちなみに霊能者・吉田綾先生の審神者をお勤めになられた吉田正一先生は、同時に「侍座者」を兼ねられて、石笛《いわぶえ》をお吹きになられたそうです。

 さて、古事記という古い書物を引き合いに出したのは、日本における心霊が千年以上の歴史を持つことを誇るだけが目的ではありません。時折、神道の神と、欧米型の一神教の神とを混同して考えていらっしゃる方がいますが、少なくとも審神者《さにわ》が扱う神というのは、日本古来の考え方、すなわち『尋常ではない、力や、勢い、属性を持つ偉大な存在』というもので、宇宙の造物主といった、高度な理論性を持った存在よりも、より人間に近い存在を意味しています。そして、この神を知ることが審神者《さにわ》を理解する上でとても重要なのです。

 上古の史書に神懸りの記載があることを見てもわかるとおり、この時代は神の意を持って国を治める事が行われていたわけです。それは逆にいうと、霊媒に降りる心霊の真偽を見抜くことは、国の進路を誤らない為の非常に重要な職責であるという事になります。もしも降りる霊の真偽の判断まで、霊媒に求められたとしたら、霊媒は責任感がもたらす重圧で何も言えなくなってしまうことでしょう。つまり、審神者《さにわ》の存在があればこそ、霊媒は安心して、異界の声に耳を傾けられるのです。その意味で、この役割分担はより高い精度の交霊を、効率よく行うための智慧であるといえます。

鎮魂法

 審神者《さにわ》というのは、鎮魂法と呼ばれる交霊術……儀式における、一つの役割でもあります。単なる能力でもなければ、覚えれば使える知識でもありません。ですから、鎮魂法を収めていない審神者《さにわ》というのはまがい物といえます。

 とはいえ、交霊に必要なのは儀式ではありません。霊媒が二人いれば一人が寄り代、一人が審神者になるのは合理的です。しかし、安易な交霊が危険な事は、審神者の有無によって軽減されるわけではありません。

欧米に審神者《さにわ》が無い理由

 審神者《さにわ》の存在は、霊媒の労力を軽減します。ただしこれは交霊に対して利害が絡む為に必要な責任分担なのです。一国の運命を決する、その重圧に耐えられるだけの霊媒などそうそう見出せる物ではありません。しかし利害が絡まなければ、霊媒は比較的リラックスして交霊に望むことが出来ます。19世紀に発生した、スピリチュアリズム・心霊主義において審神者《さにわ》が誕生しなかったのは、それほど重要な案件を扱う必要がなかったからといえます。

 しかし、審神者《さにわ》をおくには責任分担以外にもいくつかの利点があります。

 まず、霊感の無い人にはあまり実感が湧かないことかもしれませんが、言葉というのは霊たちにとってとても不自由な通信手段であり、その一方で人間は言葉で思考するという癖があります。言葉と真意のギャプが交霊会のネックになるのです。その際に交霊経験が豊富な審神者《さにわ》が質問を吸い上げ、整理するなら制約をいくらか緩和することが出来ます。

 また、完全に入信し、自己の意識を失うタイプの霊媒にとって、自身が無防備なのはとても不安感がありますから、霊力が上の霊媒がそばに控えていてくれることは、安心して交霊を行うのに良い影響があります。

 特に優秀な交霊能力者は、五感が過敏な者も多く、交霊会参加者の心無い行動が、入神状態下の霊媒に深刻な影響を及ぼすことがあります。そういった事柄を防ぐ為にも、審神者《さにわ》が参加者を見張ることも重要な役割となります。

 そのせいでしょうか、数年前来日した、英国の物理霊媒・リンカーン氏も、霊媒・クランレー氏の介助の元で交霊会を進めて行きました。


心霊研究の主導権は霊界にあり

2006/04/15

 誰にでも交霊能力があるはず

 心霊的なことに興味を持ち、勉強を進めると交霊能力の獲得を望むようになります。しかし、そのような人は大切な事を見落としています。

 死して突然、魂が生じるわけではなく、生と死の違いはその魂が肉体を纏っているかどうかの違いと言えます。そして人間の本質が魂であるなら、誰でも霊との交信能力持っているはずです。

 一体なぜ、交信能力を失ったのでしょう。

 雑音が障害

 人間の精神活動において、肉体的な様々な反応や欲求、思考機械としての脳の働き、そして魂が感じた物事は、多くの場合優先順位をつけられることも無く、また、分類される事も無く同列に扱われています。そして、脳を含む肉体を持っている限り、肉体的な信号は絶える事はありませんから、それらを無視する技術を獲得しない限り、人の精神活動は雑音にまみれる事になります。

 精神活動が雑音にまみれていれば、魂が自己主張する時、大きな努力が必要となります。そして魂の主張さえ困難な精神が、一体どうして霊との交信ができるというのでしょうか。

 相手が大切

 もう一つ、滑稽なほど大切な事柄があります。会話するのに相手が必要なように、交霊するのにも相手となる霊が必要なのです。そして、高級霊と呼ばれるような霊ほど、行いを大切にして、言葉少なくなっていくものなのです。

 おしゃべりな高級霊は存在しない……とすると、霊界にあふれる言葉に耳を貸しても、低級霊の言葉しか聞こえない事になります。さらに困った事に、霊界では誰からも相手にされないような浅ましい魂の持ち主は、孤独から逃れようと必死に話し相手を求めているのです。

 そんな孤独な霊たちにとって、言葉による表現に囚われて霊格を見抜く知識をもたない霊媒は格好の的となります。それでなくても、人は誰も心の奥底に孤独を抱いていますから、同じ孤独な魂同士が引き寄せあい、結びついてしまうのは一種の摂理なのです。

 突然、霊感が開いた人たちが、死よりも苦しい思いをするのは、そうやって、交霊相手を選ぶことの大切さを身をもって学ばされているということなのです。また、霊感が働かないというのは、守護の霊や祖先の霊たちから守られているということなのです。

 目的に応じて答えがある

 しかし、交霊にとって一番大切なのは、その目的や動機なのです。意思を伝える必然性があるなら、いかなる手段を用いても意思を伝えてくるのです。

 そう、私が扱っている心霊とは、特殊な霊能者と呼ばれる職業の持ち主だけが感じえる何かではなく、誰もが感じている、何かが対象なのです。

 信じることから始まる

 以前の事です。友人から、『死後の世界を証明してみよ、永遠の実在を証明してみよ、おまえの霊能力を証明してみよ』と詰め寄られたことがあります。

 霊界から得た回答は、

「何ゆえあなたは証拠を欲しがるのだろう。すべてはこの世界の話である。あなたには見ることも出来ず、触ることも出来ない、あなたがまるで感知することが出来ない世界の実在をあなたに証明してなんになろう。それはあなたには無縁な世界なのである。」

 心霊研究を唱える、私のページは科学に擦り寄るものかもしれません。しかし、いくつか譲れないこともあります。

 心霊研究の対象は、人間の主観以外には感知でき得ないものが大部分を占めています。本当に科学的な解明を求めるのであれば、人間の可能性について、もっと繊細でかつ広範囲な研究が進み、そして霊現象について客観的な観測手段が開発される必要があることでしょう。

 それは、言うまでもなく、そして冗談でもなく、“幽霊”を捕まえるのに等しい、実現性の薄いものといえましょう。結局、観測手段が主観に左右されている以上、真偽もまた、主観に左右されるのが偽らざる心霊研究の現状なのです。

 簡単に言えば……あるか無いか、ではなく、信じるか信じないか、が支配しているのが心霊研究なのです。ですから、最初から疑ってかかり、相手に証明を求める人にいくら説明しても、理解は得られない……というのが表の本音です。

 実は、裏の本音があります。「おまえなどに利用される、我らではない」という、霊たちの想いです。

 すべては霊界の手の中にある

 心霊研究の具体的な主導権は霊界にあります。

「私たちは、真剣に求めるものに応えなかった事は無い」というのもまた、霊たちの熱い想いです。


2006-04-14

自動書記とは

2006/04/15

 自動書記と霊感の違いは、他の霊の意思を心の中に認識するか、しないかという違いになります。これが潜在意識や無意識の働きといえるか、いえないかは非常に難しいのです。

 というのは、普段、霊たちが用いているのは言語ではなく、交感能力により、それを言葉に変換する作業を霊たちの視点で見ると、霊媒の頭の中に浮かんでいるたくさんの単語(言語用のシナブス?)を繋ぎ合わせて文章に組み立てていくという過程を経ているのです。つまり自動書記において、構文の基本線以外はすべて霊媒の生理現象を用いているのです。

 そして、霊媒の頭の中にある単語を利用する事から、通信を送ってくる霊が、生前どこ国の言語を話そうと、通信文は主に霊媒の母国語になります。

 また、時として、文章のアウトライン……基本的な用語だけを指示して、穴埋めを霊媒に命じる事もあります。これは、一種のルーチンワークに近い回答に良く見られるものです。これはまるで手数料を惜しんだ電信を書き直すような作業といえます。

 また、霊媒と背後霊の協調作業は、コンピュータの分野でいう、クライアント・サーバーのシステムに似ています。霊界と霊媒を繋ぐ通信線(ライン)は、霊媒によって差がありますが、通信容量は決して大きなものではありません。

 つまり通信回線がボトルネックになっていますから、霊媒に対する通信を最小限にすると、全体に対する負担(コスト)が少なくて済みます。そこに様々な技巧を凝らしているわけです。もちろん重要度が高かったり、功徳を積むなどした重要人物が行う通信などは、相応なコストをかけた通信を行い、霊界での作業の比率が増えるものです。

 もちろん、交霊の通信コストは一律ではなく、主に霊媒の才能によって左右されますし、個性の違いもありますから、同じ事柄を記述するのに、霊媒が異なれば、表現が異なる事があるものです。

 淺野和三郎氏が複数の米国人霊媒相手に、「漢数字で表記された日めくりカレンダーの任意の一ページをポケットに入れ、その内容を当てて貰う」という実験がありました。

 ある霊媒は、四角い記号と答え、またある人は、「Number Four」と答えたそうです。そう、ポケットの中のカレンダーは、4日のものだったのです。つまり、「四」という文字を、記号として受け止める霊媒もいれば、意味を受け止める霊媒もいたということですね。これがアラビア数字で「4」と記載されていたら、どういう展開になったか興味深いところですが、霊視の内容がどちらも正しくても霊媒・背後霊によっては、その表現方法が異なる事がわかります。

 また、肉体という物質的な器官を操らねばならない霊媒は、霊界から見ると、凍り付いているに等しい愚鈍な存在なのです。

 ですから、サーバーに相当する霊界側は、通信容量も小さければ、動きものろい霊媒の作業に付き合うことは、苦痛を感じるほど退屈なものなのです。つまり通信を助ける霊は多大の主観時間を費やさなければならず、実はこれもまた高級霊が霊媒にかかりにくい原因でもあります。


2006-04-14

お知らせBy老神いさお。

ただいま、メールヘのお返事が遅れています。今しばらくお待ち下さい。

移行途中のデータが時折、トップページに掲載されますが、編集作業の都合ですので、今しばらくご容赦ください。旧作については、本文右上に日付が記載されます。

東京オフ会: 3月度の東京オフ会は3月20日(土)午前に開催いたします。参加申し込みは、メール・フォームメールなどでお申込みください。

大阪オフ会: 大阪オフ会は4月11日(日)午後に開催いたします。参加申し込みは、メール・フォームメールなどでお申込みください。
 打ち合わせ用のページを作成しましたが中身はありません。今後参加者の皆様にパスワードをお知らせすると共に内容を追加して行きます。

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