‘心霊相談(事例)’ カテゴリーのアーカイブ

水子霊

2006/05/17

2006年05月17日


どう見えるのか。

私が、霊感が始った直後に、背後の霊達から教わったのが、水子霊の鑑定法であった。

人を霊視すると、首のあたりに白いヒモ状のものが何本か見える。この数が水子の数(水子の霊ではなく、水子の数の算定基準)だというのである。

ところで、男性や男性経験のない女性にもこのヒモが見える場合があって不思議に思っていた。後に、この白いヒモ状のものがへその緒と胎盤の幽体であることを知った。……幽体、すなわち魂と肉体とを結びつける、物質と霊との中間媒体のことである。……つまり自分の臍の緒を首に巻付けていたのである。ただ、霊感発現初期の、心霊知識の貧しい時代に『幽体は……』と教えられても理解が出来なかったのだ。

もう一つ疑問がある。『なぜ、ヒモが残る人と残らぬ人とがいるのか』ということだ。つまりこれが「水子霊の祟り」の問題なのである。

一時的な器官にも幽体がある

(質問を元にした補足分)

一時的な器官であろうが、細胞が生命活動を営む以上は、幽体の浸透はむしろ必然です。幽体が宿らなければ生命活動が成り立たないとさえいえるし、幽体こそが死んだ組織と、生きた組織の違いともいえる。……脱線だが、臓器移植によって移植元の記憶も移るというのは、心霊的に考えたとき、移植元の魂と感応しやすくなる……憑依されやすくなるということかと思われる。残念ながら、私には移植患者の知人がいなくては観察した経験はないが。

とはいえ、へその緒と胎盤については、「妊婦」という一個の自我と、半覚醒の自我の両方を持つ、一種独特・複合的な肉体の器官ですから、母子が別れた後は必然が無くなり、消えゆくべきものである。つまり、出産した段階で妊婦という複合的な肉体は死に、あとに親と子の二個の肉体が生じるのですね。そこに、どちらにも属さない肉体・幽体が生じてしまうのです。

なお、これまた蛇足だが、事故等で手足を失っても、幽体の手足は失われない。物理的な手段では幽体を切断できないからだ。

水子の霊を霊視できるか?

前述の、「へその緒と胎盤の幽体」は水子霊そのものではなく、水子霊の鑑定方法であることは前述した。

基本的に、水子、というより早世(早死にした)した子供の霊魂は、罪もなく、地上との因縁も薄いために、直ちに霊界、それも比較的高級な霊界に素早く引き取られてしまう。モタモタしていると、地縛の霊達に攫われてしまうからだ。

従って、いわゆる水子霊なるものを直接霊視するのは、とても困難だ。……地上で苦労すべき霊魂ならばいざ知らず、なんの苦労もしなかった清らかな霊魂をわざわざ地上と関連づけるような真似をする産土神はいないからである。それでも敢えて呼び寄せようとすると、集まってくるのは、誰でもよいから供養して貰いたいと願っている低級霊で、赤ん坊になりすまして供物をせしめようとする。といって実際に供物を受け取れるわけではなく、ただ単に手を掛けて貰うことを喜ぶだけだ。……人を振り回して喜ぶといわれることもあるが、当の低級霊にしてみたら、おそらく悪意はない。ただ、自分に向けられる親切を楽しんでいるだけなのである。

(重要:手を掛けて貰うのを喜ぶ……それは人間の本能ともいえるが、いわゆる低級霊の行動も本能的だ。すると、本能的な行動が強く出ている人は、低級霊に感化されている、もしくは、低級霊的である、と見ることもできる)

本来、水子の霊が祟りを為すというのは、猫嫌いが子猫を恐れ、犬嫌いが子犬を恐れるのに似ているかもしれない。猛獣である、ライオンやトラですら、子供の頃は放し飼いに出来るというのに……

害と解決法

霊媒または心霊研究家の中には、水子霊には、ずいぶんと大きな害があるという者がある。一方、私の師などは、『純真無垢の赤子がどうして母や兄弟を害するというのか』と、水子の祟りを一蹴りする。もっとも、我が師は、避妊もせずに男遊びを繰返して、妊娠しては堕胎するような女性の存在を信じていない所がある。それはともかく、私が得た回答は、

『世間の言う、水子の祟りとは、衛生観念のない者が腐ったものを食べて腹をこわすようなものだ。胎盤の幽体をぶら下げ続けるというのは、自分の魂の清らかさを大切にしないからであろう。つまりそれは、魂の不潔さの証なのである』である。この説明で納得できぬ人もいるだろうが、とりあえず私は納得した。

この理解を共有するにはちょっとコツがある。まず、身体の清潔さとここでいう魂の清潔さを混同しては理解できない。私は、神社にお参りする時や、墓参の時などには、あいつが嫌いだ、あれが欲しい、これが嫌だ……などという、俗っ気を持込まず、不平不満があってもなるべく忘れて参拝するようにしている。……つまり、入浴の様な気分で神社にお参りするのである。……うまく気持が通じれば、心に灯明が上がるかのように暖かみが感じられるものだ。

ところが、参拝者が多いときに観察していると、祭壇の前に陣取り、延々とお祈りしている人に出くわす。たくさんの願事を持ち、叶えてくださいと頼み込んでいるのである。聖域に世俗気分を持ち込む。……霊媒としてみるなら、洋服を着て風呂に入り、濡れたまま歩き回るって服を汚すようなものである。

そもそも、神社仏閣には低級霊がウヨウヨ居る。……それを見た霊視能力者がわざわざ僧侶・神職に告げてひんしゅくを買うという話を良く聞くが、実にナンセンスだ。評判の良い病院ほど、たくさんの病人が集ってくるのと同様だからだ。……だが、病人が集っているところに衛生観念のない人が飛込んだらどうなるか。あちこちにベタベタ触って、でも手も洗わず、うがいもせず、そのまま食事をしたら……病気になるために出掛けるようなものだ。

いつまでも不用な幽体を引きずって歩くわけである。

水子供養の問題

一生懸命に水子供養しているが、ちっとも消えてなくならない、という話も聞く。その判断の根拠は棚上げするとして、一生懸命に供養するから駄目なのだろうと思う。

本来、自我意識の薄い赤ん坊なんて、わざわざ祈らなくても地縛霊と化したり、迷える霊としてさまよい出たりすることはない。地上に残るのはせいぜい魂の抜殻、意志の籠らぬ幽体だけである。

理解できようか? 地上で一度も罪を犯して居ない……犯すチャンスのない赤ん坊が、どうして高みに上れないというのだろう? 罪を犯さなくても供養がなければ浄化しないというのであれば、犬猫鳥牛豚の霊魂の祟りの方こそ、人は恐れるべきではないか。

自我意識の薄い赤ん坊の供養を懸命にする……ヘタをすれば自我意識の強い亡者が焼餅を焼いて集ってくる。

また人によっては、自分を護ってくれている祖先の霊達にろくに感謝も献げず(先祖供養)、祟りを恐れて赤ん坊の霊魂を拝む事もあるだろう。……だが同居の年寄りの生活を犠牲にして子供のおもちゃを買いそろえたら識者にバカにされるであろう。ものには程度があるのに、度を超すから害が生じる。日々心清く、生命の尊重を心掛けていれば、本来、水子霊などに心惑わされる必要は本来ないのである。

やってしまったことは仕方がない。……確かに。だが、罪を認めたからといって赦されるのか。それこそ生命を安易に考えていないか。

・・・・・・・

また、今までの精神生活に無理があって、胎盤の幽体をぶら下げたまま暮しているのを、たまたま霊媒に指摘されたとしても、ただ、水子霊の供養に夢中になるのはナンセンスである。あの世のことはあの世の連中に任せるべき……祖先の霊、守護の霊に、我子の善導を願えばよい。一事が万事のヒントとして、水子の霊だけを問題とせずに、自分が知らずに犯した罪の解決を心掛けるべきであろう。

女性だけが水子霊に苦しむのか

水子霊と見える、胎盤の幽体については、男性、もしくは男性経験を持たない女性にも付いていることがあるが、上述のように、精神生活の衛生観念の問題であって、直接害をもたらすものではない。ただ、その精神生活上の問題が女性の方が見つけやすい、正しやすいと、良い方に解釈するべきかと思う。

思い当る節がないのに

「妊娠に気が付く前に流れる場合もあるというが、私には水子があったとは思えないが」……という話も聞く。

母親が霊的な事に無頓着であるから、その子供である相談者が、同じように無頓着にならぬよう様々な警告を与えられたのではないか。また、私が過去の相談事例を振返ってみたとき、やはりいくつか当人のものではない水子霊の存在を示唆したことがあるが、それは、背後の霊達が、当事者の生命倫理感を試していたとのだと思われる。

堕胎してから霊を感じる

堕胎してから霊を感じる、と話している女性を見かけ、黙って背後に問うたら、

『妊娠させられ、堕胎までしたのに、相手の男性に振られた結果だ。罪の意識よりも怒りの方が強い。男に振回されているうちは、罪の意志さえ希薄なものだ』という、さすがに当人には言えなかった。

水子霊がいるとの警告を受けたら?

自称霊感のある人が水子霊のことばかり警告する霊媒、または、先祖供養ばかりいう霊媒や、○○ばかりの霊媒の意見は、丸呑みされない方がよいと思う。

ローシャッハテストという、心理テストがある。一見、曖昧な絵を見せて、それが何に見えるかを問う……霊媒の見たり、感じたりするものは本来とても主観的で、解釈の巾があり、おなじものを見ても霊媒によっては異なる見解を出す。それは解釈の違いであると同時に、霊媒である以前に人であるから、その霊媒が心に秘めた問題などが、こういう時に現われるのだと私は解釈している。つまり、特定の警告ばかりだす霊媒というのは、その分野に強い関心のある人だと考えるべきだと私は思う。

とはいえ、特定の個人に同じ事ばかり言う……他の人には別なことを言うのであれば、それはそれでべつな意味があると考えるべきだ。

たとえば、これはよく誤解されることだが、(自称)霊媒の霊視するものとは、必ずしも事象や風景ではない。私は霊感を、「異界の窓」などと表現するが、実際にはコンピューターのモニター/ディスプレー(表示器)を覗いているのに近いのだ。つまり、誰か(心霊学では「支配霊」と呼ぶ)が作成した、「解説のイラスト」を見せられているのであって、それゆえに要点を強調してあったり、細かいところが省いてあったりするのが普通だ。むろん、テレビのようにそのままの画像・風景などを見せられることもあるが、それではメッセージ性が薄れて、要点を掴み損ねやすい。

この表示の手法は、支配霊それぞれに異なる。私の師の支配霊はなかなか精密な表示をするが、私の支配霊は、私が大雑把なものだから、どうせ細部など見ないだろうと、とても大雑把だ。だから、師と出歩くときには(私もそれなりに真剣で)しっかりと細部まで見えるのに対して、私一人だと、要所だけでをあっさり感じる。

とにかく、霊視というのは作図されたものであるといえる。その上でいうなら、たとえば幼少期に非常に印象的な体験をし、それがトラウマとして残っている人を霊査した霊媒は、およそ、「子供のイメージ」を得ることになる。……その作図から、「相談者幼少時のトラウマ」というキーワードが理解できなければ、俗信的な「水子霊の祟り」と、解説してしまうことはありがちな話である。

ボギャブラリーが貧困というか、心霊知識の薄さがそうさせるのだが、これでは問題解決を邪魔しても助けにはならない。

「心霊知識の貧困さが、霊障の主な原因」といわれる所以だ。

水子供養

端的にいえば、ことさら水子供養をするのは泥棒を捕まえてから縄をなうようなものだ。産れてきた家族を生きている限り祝福し、亡くなった家族も時折、思い返して絆を確認していれば、他に大袈裟な祭事等は不用なのだ。……その手間を惜しんで、心に後ろめたいものを感じているから、自称霊媒などに「あなたには供養を必要としている霊が憑いている」といわれて、騙されたりもする。

真心だけで充分なのだが、その真心を理解するのに切っ掛けを必要としているのが現代人であり、その過程が、正しい供養……または、心霊詐欺に騙された経験なのかも知れない。どうせならば、正しい道を歩みたいものである。.


隠れ悪魔信仰者

2006/05/16

2006年05月16日

関連事項: 不安からどう逃れるか


世間で悪魔崇拝といえば、富貴などの利益を求めて悪魔を信心することを指すだろう。だが、利益を求めて神を信心するのと、どう違うというのだろう? 信仰対象(ラベル)が違っても中身(御利益追求)は同じではないか。むろん、宗教儀式にも差があるだろうが、手段が違っても中身はやはり同じだ。

神の対語は悪魔であろうが、信仰の対語は無信仰であって、悪魔信仰ではない。……その上で思う。

・・・・・・

「不安から救って欲しい」という相談を受ける。その不安とは何か。大雑把に言えば、自分の将来が不幸であると信じることであろう。その直覚的な解消策は、自分の将来が幸福であると信じることであり、端的に表現すれば自信を持つことである。

そもそも、不安というのはいまだ起こらぬ不幸が原因なのである。具体的な事柄ならば解決策も予防策もあろうが、起こらぬことや予防手段の無い事柄では、手の打ちようが無い。もっと自分を信じ、また、自分を信じるだけでは足りないのであれば、後は、神仏の救いを信じるぐらいしか手はあるまい。 それゆえに神仏に心を委ねる「信仰は心の安らぎ」といわれるが、ならば不安を棄てられぬのは、悪魔に心囚われている状況とも表現できよう。

自分を幸せにしようとする不可視、不可触な存在や可能性を信じず、でも、自分を不幸にしようとする不可視、不可触な存在や可能性を信じているというのだから、当事者にとっては真剣なことでも、第三者から見ればなにやらおかしな雰囲気である。神の存在を否定しながら、悪魔の存在を肯定しているようなものだ。

そう、私は、「不安を棄てられぬ」人を、神を信じず、悪魔を信じている者と見なしている。

おそらく、不安に陥るのには、それなりに必然があるのだろうと思う。……だが何が当事者に災難をもたらせているのだろうか? それは果たして神仏や悪魔が為らしめるものであるのか。

そして何を信じたいのだろうか? 自身で不安と決別する内的努力をせずに、外に助けを求めるとしたら、その依存心の強さが問題である。

信じるから騙される……そのとおり。だが、自分で為すべきことをしっかりと把握している人なら、騙されたとしても大きな害を受け難い。ただ自分の為すべきことを他に委ねる人が騙されて大きな損失を蒙るのである。

「不安こそが、真の悪魔信仰、悪魔の手の内にあって抜け出せなくなっている」と、私が見なす所以である。

・・・・・・

ただし、以上は直接的、というより、短絡的な不安に対する対処策であって、相談者自身がある程度の柔軟性を持っていれば、間接的な対処策を提案することもできよう。

たとえば、酒を飲んで陽気になる事例を誰もが知っているだろう。不安というのは心に現れる現象ではあるが、同時に身体的な現象でもある。……ようするに、病的要因からくる不安もある。いや、病的要因と精神的要因の相乗効果の結果、ということもあるだろう。このような場合は霊媒に相談するよりも医者に相談すべきである。霊的問題を霊媒に頼るのは他に選択肢も無かろうが、霊媒をよろずなんでも相談の便利屋扱いすることは、現代人の処世術としてはいささか貧しくは無いか。

・・・・・・

霊障の結果としての不安もある。だがそれを私は、悪魔を信じて神を信じない、と表現した。進んで神(仏)を信じ、悪魔を斥ける覚悟なくして、ガタガタ震えるだけで助けてもらおうというのは、少なくとも私は、虫の良い考えだと思う。

・・・・・・

なお、不安に関する相談事例中には、扱い難い微妙な問題がある。それが「寂しさゆえの不安」で、伴侶がいない、もしくは、伴侶がいても精神的な支えにならない、という場合だ。これは救い難い。少なくともメールによる相談では一歩も解決に近づかず、下手に相談者に会えば感情がこじれて面倒きわまる。……相談を断っても必ず後を引く。

そもそも寂しさがつらく感じるのはヒマだからである。そしてヒマ人を怒らせるとどうなるか……とにかく、しつこい。

また、愚者は不安に陥らぬ……不安とはいまだ起こらぬことをいろいろと考えることであって、頭の良い人ほどより強く不安を感じ得るものだ。しかも寂しさを悩みとする人には、自分への理解を強く求める一方で、他者を理解しようとする努力が見られない。……頭が良くてわがままな人が敵意を持ったらどうなるか。とんでもない意地悪に変わるのである。

いや、明記しなければなるまい。相談者の誰もが意地悪に変わったわけではない。ただ意地悪になるか、ならぬかの差が、相談者の人間性にあるのか、それとも断り方、もしくは、断るタイミングにあるのかは、いささか結論を出せずにいる。

「そんな厄介事をどうして事前に見抜けないのだ」という意見もあろう。実はそこがポイントである。最初から、「不安」、もしくは、「寂しさ」が相談内容であるなら、解決する場合もあり……相談者との信頼関係が確立せずに、相談を打ち切る場合もあり、いずれにしても、あとくされが生じた事が無い。厄介が起こるのは、いくつか相談が解決した後、次の相談事として持ち込まれた場合なのだ。

先の先を読んで対処することも可能かもしれない。だが、当事者も第三者にもわかるような明白な理由も無く、悩める人を突き放すのは社会的にもなかなか難しいものだ。ならば被害者の立場に甘んじる方が被害が少なかろう。

・・・・・・

さて、しつこいようだが……不安とは、神を信じずに悪魔を信じるようなものだ。形式として、悪魔を崇拝せず、神を崇拝していたとしても、信じているのが悪魔(災難)で、神(幸運)ではない。そして不安が極まると、悪魔の如き意地悪さを発揮しかねない。当人は正当防衛のつもりで。……すると、仕方なく悪魔を信じているのか、必然的に悪魔を信じているのか、私には後者に思えてしまう。少なくとも、愛より力に重きを置いているのだろう。


先祖供養の再考

2006/05/14

2006年05月14日

方法論

どうも先祖供養について話題にすると、法事の形式といった方法論の違いに話題に傾きやすい。年に何回墓参に行くとか、仏壇に何を捧げているか、といったのは末節の話で、当事者がそれで満足し、特に怪異に襲われたり、不幸が続いたりしなければ、それで良いではないかと思う。

墓石や仏壇の向きに色々な意見もあるだろうが、霊媒の立場から見れば形式に拘るのは……いや、余計なことはいうまい。但し、一つ明確にしておきたいことがあるが、人が死ぬのは大安だけであろうか? 仏滅に死ぬ人は地獄に堕ちると思うのか? 友引に死んだ人は祟りを起して知人を道連れにするのか?……では人が生まれてくるときはどうか?

天が定めた人の死に、大安仏滅の別がないのに、人がそれを為す。……私は、暦よりも天の意志に耳を傾けたいと思う。

 

事例

Q「父の先妻の位牌を処分してから具合が悪くなった。数十万円を払って霊媒師に除霊をして貰ったが良くならなかった。どうしたら良いだろう?」

A「後妻の子であるあなたにとって、父の先妻とは縁が薄く、また、場合によってはあなたのお母様を苦しめたかも知れない人ですが、あなたが生まれた『家』を支えた一人が先妻なのです。あなたが気がついていないだけで、沢山の恩を受けているのです。その恩を仇で返すようなことをしてはバチが当ります。これは祟りではなくバチなのですから除霊などの効き目があるはずもないのです。縁あるお寺さんに頼んで位牌を作り直してご覧なさい。必ず良くなります。それでも良くならなければ改めてご相談下さい。」

相談者への返答の後、直ちにこの先妻に向けて祈りを捧げる。

『どうかお怒りをお鎮め下さい。彼も良いことを学んだと思います。これからも彼を御守下さい』……祟ったのではなく、叱ったのだ。叱られたのだから、悟った暁には礼をいわねばならない。でなければいくら位牌を作り直し、お祀りをしたところで許しては貰えまい。

その後、幾ばくもなく礼状を受取った。位牌を作り直した直後からだいぶ良くなったとのことだった。

・・・・・

この相談事例は私にとって印象深いものだった。除霊一辺倒の無茶な霊媒とは一線を画したことで誇りも感じたし、無料心霊相談で、謝礼数十万円の霊媒が解決しない問題を解決したことにもやり甲斐を感じもした。

もっとも無料といったところで私が謝礼を受取っていないだけで、位牌の作り直しにはお寺さんへの謝礼が掛っているはずで、相談者にしてみれば完全無料とはいかない。まあ、相談者にしてみればこれで解決すれば安いものだろう。

また、私は、心霊相談が全て無料であるべきだ、とは思っていないことも、ここに明記する。下品な例えであるが、安酒屋に集まる酔っぱらいは安上がりに酔うことばかりを考えて、人の懐をあてにする者も多い。…… 働けなくて礼金が払えない人ならいざ知らず、他人の手間暇を必要とすることには、きちんと謝礼を用意する気持ちを持たねば、その無思慮さ、または強欲さから別な苦労をすると思う。

まあ、心霊相談はかくあるべきだという話題は別な機会として、先祖供養について考えてみよう。

考察

まず、上記の例であるが、先祖供養は血族中の尊属へのお祀りを意味せず、血族を支えた恩人への感謝が大切であることの傍証である。… …実証といわないのは霊媒の主観に依存した証明だからだ。ところがどうも、先祖供養という言葉が惑わせるのか、先祖を拝むことを先祖供養と勘違いしている。

本来の仏教行事としてみても、先祖供養というのは、死んで地獄に堕ちた故人を救うため、故人の代りに善事を行うのが目的の筈。(目連尊者が、地獄で苦しんでいる母親を救いたいと仏陀に申し出たところ、目連一人の力では救えぬから、十方の僧に供養せよ、といわれて始まった)

ところがなぜか、僧に供養(この場合は謝礼)をする代りに、死者に供物を上げることを指して先祖供養と化している。挙げ句に、「先祖供養なんてばからしい、いっそ子孫供養して貰いたいモンだ」という暴言まで聞かれる始末。

誤解を元に物事を判断すれば、間違った結果が出るのは当たり前だが、前提、もしくは、結論のおかしさに気がついたならば、どこかに間違いがあると疑ってみるべきであろう。疑問を持つことをしなければ騙されやすくなるのは仕方がない。

確かに、日本(東アジア全般か)では、祖先は一番身近な「神(仏)」でもある。神であるから供物を捧げることは当たり前に感じる。… …だが、心霊学的にいえば、高級霊界に登った霊魂に物質的な供物は本来不用である。むしろ物質的な供物をすれば、物欲を断ち切れない低級霊が集まりやすい。

高級霊からの引き上げを狙って、ワイロ(供物)を用意し、かえってその心根を嫌われる一方で、低級霊に好かれ、集めた挙げ句、苦労が続くと嘆くのはナンセンスだ。

霊界が先祖供養を顕幽両界の交流・親睦会と見なして、物欲に集まる低級霊を、高級霊界に引き上げるチャンスとして利用する場合もあるが、そこまでの指導力を発揮できる高級祖霊を背後に持つ人がどれだけいるかは不明だ。

ましてや、祖先の霊達が、死後の修行の結果(死んでからだって勉強や修行は出来る)、高級霊界に上がっていったとしても、生前に罪を犯し、また他に迷惑を掛けていれば、償いたいという気持ちもあるはず。別ないい方をすれば「神(仏)」として祀られることが後ろめたいともいえる。

祖先の霊の代りに子孫が償うこと、少なくとも償いの意志を持つことは、祖霊の負担を減らす事にも繋がる。それが間接的に自分への報いとなることを考えてみるべきだ。

そう、供物を捧げるべきは低級霊、そういう表現が悪ければ、彷徨う霊魂が救われるチャンスを作ることが大切なのである。
「子孫供養をしてくれ!」……というのは、足手まとい(低級霊)を省みることもなく、ただ上ばかりを見て「引き上げてくれ!」と叫ぶのに似ている。と同時に、「どうして助けてくれないのか!」と、恨み言も叫んでいるのだ。

だが、引き上げを望むなら、同時に身軽になる努力も必要であろう。一方だけを見ていると、そういう勘違いをする。見捨てられているのでも、祖先に力がないのでもない。ただ、自分自身が難しくしているのである。

まず、自分の重荷になっている、低級霊を引き上げさせ、または、追い立てさせ、身軽になって始めて自分の番が来る。…… 問題解決には手順があるのだ。

そして、先祖供養に供物を整えるのは、低級霊を引き上げさせる手段ともなる。そこに自分自身が不平不満を持ち込み、祖霊の邪魔をするから自身が救われない。

一体、人が求めるべきは、良き結果か、好む手段か? 楽だからといって下り坂ばかりを選んで歩けば、どうあっても山頂には立てない。 ――楽な手段を望んで良くない結果を得るなんてナンセンスだ。

結論――多くの人の先祖供養は、手段と目的をはき違えて、かえって害を受けている。先祖にゴマをするよりも、先祖の残した悪業・悪因縁の解消に努める方が良い。


自助努力としての先祖供養

2006年05月15日

遠回しであるが、以下も先祖供養に関連する話である。

・・・・・・

ここ数日、メールのログを読み返していた。中の一通に目がとまる。

「思いこみを廃して冷静になれ」との私の回答に対して、相談者の「どうせ見えていないんだろう」と返事だった。

その返事こそが、私がちゃんと見えていた証拠なのだと今でも思う。

私が無料で心霊相談をやっていることは、該当相談者の関知するところではあるまいが、たとえ気に入らぬ回答であろうとも、相手の時間を費やしたことに礼の一つもいうのが常識の筈。……そこまで精神的に追いつめられているとしても、だ。いや、追いつめられていると看取ったからこそ、冷静さを求めたのだ。

むろん、冷静になれといわれて、冷静になれるなら人生はどんなに楽であろうか。私も彼の相談者が冷静になれるなどと信じてはいない。だが、当人が心を静めようとしているか、していないかは心霊相談を受ける上で重大な違いである。

(可能であるとして……と言葉を濁す)当人の意に沿わぬ事を強いることが果たして人道に適うであろうか? それが守護霊とか、高級神霊であったとしてもだ。……当人の意志が大切なのである。

具体的は方法については、比喩で説明したい。たとえば、騒音が酷くてノイローゼになりかけた人がいるとする。「気にするな!」と周囲からいわれ、また、当人も懸命(?)に気にしないように努力しても……努力するからかえって音が耳についてしまうだろう。

そういう時には、むしろ別な音に注意を向けさせた方が良い。好きな音楽を流すのも良し、気の合う人と会話をするのでも良いだろう。他の音、それも気障りでない音に集中すれば、騒音は気にならなくなるものだ。

だからたとえば霊障で頭の中がうるさくなっている人なら、心静かな善霊にしばらく語りかけて貰ったりすることで頭が静かになるのである。……この手法で成功した事例もあるが、事例にならない場合もある。

・・・・・・

そもそも、苦しいから助けを求めているのに、その回答が「落ち着け」というものなら、かえって腹が立つ……そう感じる人もいるだろう。いや、実際その通り、それが人間の生理的な反応であろうと思う。

だが霊媒である私は、霊障を抱えている人に四六時中ついて静かに話しかけることなど出来ないことだ。そんな手間が掛ることを無料でやったら、私は生活に困窮してしまうだろう。当然、霊界の助けを求めるわけだが……霊にも自由意志があり、助ける相手を選ぶのである。それを私が強いることは出来ないし、したいとも思わない。何しろ私だって不快なメールを受けたのだ。それでも見捨てずに助けたいと思うのも私の自由ではあるが、それを他者に強いる権利はない。

つまり、助ける手段があっても、その手段が適用できるとは限らないし、適用できるか出来ないかの差は、霊媒よりも相談者自身の選択するところなのだ。そして……特にこれを明記したい。見ず知らずの霊が助けようとしないのは当然としても、身内の霊、相談者自身の祖先の霊は何をやっているのだろうか、ということだ。

私はいつも不思議に思うのだが、祟りとかを恐れる人は、自分を愛してくれている尊属を持たないのであろうか。自分には霊に対抗する力が無くても、自分の祖父母ならば……祖父母が無理でも、祖父母が神様・仏様の助けを連れてくるとは期待しないのであろうか? まあ、それは個人の都合であろうが……我が師は、霊感商法の被害者を指して「仏事をケチるから霊感詐欺に騙される」と看破していた。祖先の助けを期待できないのは、自分が祖先を大切にしていないからだというのだ。

・・・・・・

私は心霊相談に謝礼を強いたことはない。しつこく出張鑑定を求めてきた人に交通費と会社の休業補償分を提示したことはあるが……だが別に義人ぶっているつもりもない。人に善事を施せば、功徳か福徳で報われるものだからだ。功徳とは、つまり経験が自らを救うことを意味し、福徳とは、天と人の善意を得られることを意味する。霊媒としてみたら人間が差し出す報酬は喰っていける程度でよい。贅沢をしたければ悩める人の謝礼をあてにするよりは、汗して稼いだ方が気が楽であるし(その選択は充分に贅沢ではあるが)、どうせあの世や来世に持ち越せないのだ。地上の年金額程度は、天に預金を作っておきたいものである。

たとえば問題が解決しても相談者が礼状の一つも寄こさなかったとしても、経験を積むことは私の利でもあるし、大抵の場合は相手の祖霊等が私のために相応に働いてくれる。私は充分に元を取っているのだ。が、祖先の霊ですら助けようとしていない人に手を出すのは、私も躊躇するし、その打算を私は恥じない。

第一、他人に手間をとらせて罵る人では、一つの霊障を解決しても、終わりとはならないのではないか。まず礼儀を正さなければ、なかなか人の善意を動かして、自らの味方にすることは出来まいと思う。

ここまでいうのは酷であろうが、泣いて助けが得られるのは、赤子が親に期待するべき事で、そんなささやかな期待さえも暴力で……赤ん坊の泣声がうるさいからと死に至らしめる親が散見されるのである。他人ならばなお危ういと気がつかぬ人の何と多いことか。

相談の意義

2006/05/09

2006年05月09日


過去の選択の結果が現在につながっている。もしも「今」が意にそぐわぬものだとしたら、きっと以前の選択が間違っていたのだろう。……その選択は誰がしたのか?

思うままの結果を出すために必要なのは、必要な選択をすることだ……思うままの選択をすることではない。 ……上り坂が億劫だからといって下ってばかりなら、決して山頂にたどり着くことは出来ないのだから。

すべての選択肢が明らかとは限らない――八方塞がり、進退窮まって他に相談するのはよい。だが、相談結果の良し悪し、実施の有無を判断するのは誰か。良い結果を得るにはなるほどよき相談者との縁が大切だ。だが、最後は当事者の判断ですべてが決まる。

いったい人生に不満を持つ人は、不満なく生きる人と何が違うのだろう?……智慧の有無か? 霊感の有無か?…… 私には判断力にあるように思える。

優柔不断――決断できずに問題を先送りして残り物に甘んじる。 その優柔不断の害を嫌って悩む者が、あちらこちらに相談したところで、迷うべき対象が増えるばかりではないか。……では、どんな答であれば優柔不断な者にも即断が出来るのかを考えてみるべきだ。「明らかに容易で儲るうまい話」……だというのであれば、その人は騙されるために生きているようなものだ。

本当に必要な手当をせずに、その場当たりの応急処置ばかり。過ちがあっても忘れて前に進み、また同じ過ちを繰り返す。仕上げにはほど遠い生き方。それは本番に向けての練習なのか、だとしたら、いつ本番に取り組むのだろう……来世か? 来々世か?

前に進むには、一つ一つ確実にこなしていく方がよい。前に進むのが遅いようでいても、戻ってこなければならない生き方ならば、進んだことは利点にならないから。


水子霊

2006/04/16

水子霊

最終更新日 2002年04月16日

 堕胎の害

 堕胎による一番恐ろしい害は、水子霊の祟りというよりも、むしろ、命を断つ事に罪悪感が失われていく事です。……祈れば許される。そういうものではありません。

 いずれ子供を持ったときに、自分が抱いている子供と、水に流してしまった子供の価値の違いを見出せるでしょうか。自分の抱き上げた子供を可愛いと感じた時、自分の都合で命を絶ってしまった水子の事を思わずにいられるでしょうか。

 子供の折檻死や、放置して死に至らしめる親が増えていますが、社会の影では、堕胎という名で、さらに多くの子供たちが死という運命を与えられているのです。生まれてくる命を大切にしない社会が、どうして子供を大切にできるというのでしょう。

 それはまた、その子にとっての運命ともいえます。

 しかし、自分の手に運命を委ねている、一つの命を救えない人が、どうして自らの魂の救いを求める事が出来るのでしょう。そして、小さな命を大切に出来ないような、恋愛で幸せになれるでしょうか。そんな独り善がりな気持ちは、いずれ裏切られます。そして、その独り善がりな心には、自らが直視できない無数の罪悪感が宿ります。この罪悪感が、格好の悪霊の巣になるのです。

 堕胎も殺人です。確かに、母体を守る事も大切ですし、強姦された結果の妊娠なども、出産後の事などを考えれば、堕胎も仕方がないと言えるでしょう。しかし、堕胎を繰り返せば、精神を病んでいきます。しかも、避妊せずにいれば、妊娠するのは当り前です。ちょっとした配慮で防げる悲劇を繰り返す事ほど、自分の魂を傷つけるものはありません。


水子供養

最終更新日 2002年04月16日

 水子供養

 さて、水子の供養ですが、一番大切なのは残された者の気持ちです。基本的に三歳未満の子供に、大げさな葬儀はむしろ、周囲の人から白い目で見られます。ご夫婦そろって、近所のお寺でお経を上げていただく程度で充分だと思います。(クリスチャン等を除いてですが)

 その場合、お付き合いのあるお寺がない場合、むしろ大きなお寺を頼った方が、謝礼がきちんと決まっていて、安心かもしれません。

 一方、まるで何もしないと、ささやかな不幸に見舞われたときに過剰に不安に陥りがちですし、いずれは誰も死に直面するわけで、その際に水子とは言え、自分の子供を粗末に扱ったという思いは何よりも心に引っかかります。

(仏事をおろそかにする人ほど心霊詐欺に掛かりやすい)

 また何よりも問題なのは、母親にとって自覚はなくても水子の存在は案外大きな心の傷になっるということです。

 ですから、私がお勧めするのは、やはり、日本の普通の葬式方法の略式で良いから読経を上げてもらうべきと思います。心配なのは料金ですね。あまり水子供養を前面に出しているところは、特別な料金設定などがありそうで嫌ですよね。金で人の幸福は買えませんが、かといって人はいずれ死なねばならず、いずれはお寺にもお世話になるのでしょうから、そのような仏事を任せられるお寺を探して置く気持ちで、暇を見てはあちこちのお寺に行って相談なされると良いかと思います。 (参照:先祖供養)

 もう一つの方法

 日本の心霊の独特な考えですが、人間には守護霊と呼ばれる霊が一人一人についていて、その守護霊が担当する相手の霊的な加護や、精神性を導く働きを持っています。そして、守護霊の上部には総括する役割の存在がいて、そのような霊を日本では神仏と呼称します。

 これは神道、特に国家神道的な神でも、仏教的な仏とも違います。死者の事を『仏さん』などと呼ぶのと同じ考えです。そして、霊能者や、行者、拝み屋など、心霊を扱う人の場合、そのような霊を見、話しをする事が出来ますが、普通の人の場合は、不可能ですよね。ですから人知に余るような悩みがあった場合、人は社寺で祈り社寺の神体仏像などを、神仏と見なして語りかけるわけです。

 ですから、神道仏教的な思想とは関わらず、社寺は常に高級霊が見張り、あたかも高級霊界の受付所のようになっています。もっとも様々な制約やコツが有るのですが……

 さて、本題の死者の供養に戻ると、現代日本ではちょっと難しい話なのですが、かつての日本の生活には産土(うぶすな)神や、氏神様と呼ばれる神社が集落に必ずあり、そして、人が生まれてはお宮参りに行き、七五三に神社に行く、そして亡くなればまた、報告に行き、今までの加護に感謝するという習慣があります。

 まあ、死を穢れと考える神道は、喪中の者は鳥居をくぐるな、などと言いますが、儀式の都合等の場合はさておき、「死が穢れなら、お払いさえ受けていれば人は死なないか!」という話になってしまいます。その辺は、陰陽師の活躍した頃の、鬼や怨霊伝説の名残りの気がします。……脱線ですが。

 ですから、もしお子さんが、生まれ育った場合に、お宮参りに連れて行くであろう神社…それが子供の産土神に当たります……にお参りし、霊界でのお子様を霊界でも見守ってくださるようにお願いするのが良いでしょう。

 この場合、正式な祈祷や、昇殿参拝などはする必要がありません。社殿の前、拍手を打った後、ゆっくり心の中で、願い事を三回繰り返し、頭を下げて、『お願いします』と結べばよいのです。願い事を三回繰り返すのがコツです。一回だけだと、祈っている人間も気が高ぶって相手に念がうまく通じない事もあるからです。


早世・夭折

最終更新日 2002年04月16日

 早世

 親より先に子が死ぬ……親にとってこれほど不幸なことはありません。この、親の不幸につけ込んで布教をする人などがいますので、子供の早世(早死)を親の因縁と思い悩む方がいらっしゃいます。その誤解を解くためのページです。

・・・・・・・

 ある意味、胎児というのは、地上でもっとも幸福な存在といえましょう。母親の胎内に守られ、ただひたすら成長の努力を続ければよいのですから。人間はこの母親の胎内での得た幸福感、そして、乳幼児の頃に受けた愛情で、人格の器を作ると思えます。

 成長するにつれて、社会に揉まれ、それなりに分別もついてきますが、やはり幼児期に親に死に別れた人などは、最後の精神的な踏ん張りが足りない気がするのは幼児期に愛情が不足したからと言えましょう。その一方で、両親がそろっていながら情緒不安定な人もいます。親は愛情と思いながら実は我欲を注いでいるのかも知れません。

 さて、子供の早世には様々な原因があります。人それぞれに事情があることでしょうから、それらすべてを一様に説明することは不可能ですが、転生という点に限ると、以下のように考えられます。

 前世において、衝撃的な死を味わい、その現実を受け止められなかったような霊は、胎児となる事で、ある意味感情的な物をリセットする事が出来ます。私たちもあまりに不運な目にあうと、『夢なら覚めて欲しい』そう考えますよね。それと同様なのです。

 衝撃が生み出す心の傷は、母親の胎内にいて四六時中注がれる愛情が打ち消してくれます。このような手順を踏まなければ自分の死を認める事の出来ない傷ついた霊も、霊界にはたくさん存在します。

 魂に傷があるがために、長生きをしても人生の苦難に耐えにくい、それがために、早世する肉体的な環境の持ち主の所に転生すると考えられます。

 人生は霊性向上の場なのです。子供を産み育てる親にとっても、生まれてくる子供にとっても人生は霊性向上の修行なのです。わずかな時間でも関わりあった事が、互いの心に残すものを大切に扱っていただきたいと思います。

 死別の悲しみ

 身内を失うのはとても辛い事です。それが我が子ならば、苦しみがさらに増す事でしょう。しかし、死をあまりに悲しむ事は、死での旅路につく魂にとって、大きな負担となります。

 身内の者たちにしてみれば、「もう少し生かしたい、いや何とか出来たのではないか」などという考えが、頭の中に巡りましょう。しかし、残された者たちがどれほど嘆き、引き止めようが、死の淵から帰ってくるのは容易ではありませんし、肉体が損なわれていれば不可能なのです。

 そして残された者の悲しみは、死者の苦しみでも有ります。憎悪による自殺など、特別な場合を除いて、誰も自ら死によって、愛する者たちと別れたいとは思わないのです。嘆きは、悲しみを呼んでしまいます。彼らには次の生活が待っています。行かねばならぬものなら、快く送り出す。それが死によって分けられた互いにとって幸せなのです。

 また、早世した子供に対しては、親の責務を果たせなかった、自責の念もありましょう。しかし……幼子ならば、親を慕い、寂しがる気持ちはあれど、親を恨む事はありません。ある程度、成長した子であるのなら、親を恨むのは筋違いでしょう。

 死者との通信を望むな

 死者との通信を望むべきではありません。特に子を亡くした親ほど死者(我が子)との通信を強く望みがちですが、彼らには次の生活が待っています。残された者たちが未練を持って生きることは、死者にとって負担となります。

 この世での生活を終えた霊たちは、まず現界での生活の、悪い点を反省し、良い点を伸ばすように指導を受けます。生前も死後も時間を無為に過ごす事は出来ますが、余分に使える時間が有るわけではありません。無為に使った時間は、やはり無為に使った時間なのです。

 鉄は熱いうちに打ての例えのとおり、霊界入りして直後は、学ぶべき事が多いのです。

 心霊研究団体では盛んに交霊を行ないます。人々の記憶にあるような霊からの霊界通信は、関係者に対して否定しがたい証拠となりますから、なるべく死んだ直後の霊を呼びたがります。

 しかしながら、普通の交霊会に現われる霊というと、大抵、親族もすでに亡くなっているような古い霊に限られます。その理由は、やはり霊界入りした直後の霊は、現界の影響が強すぎて、霊界通信に絶えるだけの霊界に関する知識が無く、また、霊界で学ばなくてはならないことが多すぎて忙しく、現界に関わる事を嫌う事がありあます。

 本来、死の直後の霊は、呼び出されることを嫌います。感情を満たすだけの無為な死者との通信は望むべきではありません。


水子霊・相談例

最終更新日 2002年04月15日

 水子霊の祟りとは、大抵、女性の罪悪感の事を指します。水子供養とは、罪悪感の消去を目的にするわけです。その根拠は、子供は母親だけでは作れず、中絶は男性側にも問題があるのに、男性に水子の祟りが少ない事や、水子の害と呼ばれるものは、まじめな人に多く、遊び人に少ない事が挙げられます。

 水子の霊を調べるのは、霊能者にとってはとても簡単です。水子の霊が胎児から離れる時に、媒体となる幽体を脱ぎ捨てていきます。ですから母親の周囲には、へその緒状の幽体が霊視できるのです。これを勘定すれば、女性が気がつかないうちに、流れていた子供の数まで当たります。

 実際、水子の数を指摘すると、よくよく考えて思い当たる事も多々あるものなのです。その一方で、霊視されるのは、幽体の抜け殻ですから、親を恨む、または害を及ぼす、といった悪意は見られないのです。

 つまり、水子の害というのは、子供の霊の怨念ではなく、むしろ、親の罪悪感なのです。罪悪感というのは贖罪を求める気持ちを内在していますから、自覚の無いままに不幸が起る事を期待しているのです。これでは守護霊の張る霊的防御のスイッチを切ってしまったかのように、低級霊に漬け込まれる隙が出来てしまいます。つまり罪悪感を打ち消す為に不幸を望むことが、水子の祟りの正体なのです。

 とは言うものの、水子霊の祟りと呼びえる現象がまったくないかというと、決してそんな事はありません。その多くの例は、霊現象というよりも心理的な要因ではありますが、ご参考までに実例を挙げておきます。

 相談例1:離婚歴のある女性の場合。

 前夫に子供を残して再婚した彼女は、常々残してきた子供に罪悪感を感じていて、現在の夫との間の子供のわがままに拒否的な感情を抱いていました。このような心のしこりが家庭生活に影を落としていたのです。

 相談例2:経済的な事情から、堕胎をせざるを得なかった女性の場合。

 水子にしてしまった子供に対して罪悪感を抱いているために、その後生まれた子供と罪悪感が二重写しになって、子供の相手をまともにできないのです。

 相談例3:私生児

 私生児として生まれたある女性は、母親に対して複雑な感情を抱いています。母親は大好きなのだが、境遇に不満があり本当は泣き言を言いたい。でも母親は傷つけたくない。その葛藤が体に影響を及ぼし、様々な不具合を抱いています。

 その他:

 自分も親になれば親の苦労がわかる、などといいますが、結婚に失敗し、また、堕胎をし、その罪悪感を親に向けてしまい、ますます親子関係が拗れる人もいます。


相談から指導へ

2006/04/16

 人間には長所があり、適性があって、個性を形成している。……当然、欠点もあり、苦手なこともあって、それもまた個性の一部である。

 たとえば、ある人が悩みを抱くとして、それは単なるその人の事情が生み出したものであるとは限らない。その悩みの元のある程度、場合によっては大部分は、その人の個性の中に原因がある。つまり、被害者の適性や、欠点なども苦しみの原因の一部なのだ。

 それ故に、真に悩みを解決したければ、自己の向上も不可欠となる。……私が、悩めることがチャンスであると考える所以である。

 ところで、個性が一人一人違うのであれば、助言も一人一人によって変るべきなのは間違いない。……だからこそ、大量複製された言葉による指導ではなく、個人指導が必要ということになる。相談に応じる側が、それに気がつかないとしたら滑稽ではあるが、相談を求める側もそれに気がつかないのは悲惨としかいいようがない。適性が合わないのにもかかわらず、他人のやり方を真似て、失敗の傷を拡げる人の何とも多いのだ。自分の個性を蔑ろにされて愉快な人も居ないだろうに、自分はせっせと自分の個性を蔑ろにしている。

 ここでいう、個人指導と、個人相談とは若干意味が違う。相談主は往々、今現在の苦境から抜けることだけを考えて、安易な救済ばかりを希望し、なおかつ不快な指摘にはすぐに眼をつぶってしまいがちだ。

 敢えてしつこく、非難めいたことを書くが、実力を超えた問題であるからこそ悩み、人を頼っているのに解決すべき時期や、解決手段までも指定する人がいる。私は別段それを非難したいわけではないが、そういう行為が正に自分を苦況に追いやっている事に気がつかなければ解決しないのではないか。

 これでは、泥棒を自宅にかくまいながら窃盗を防げというのに等しい。こういう無茶な要求に疑問を抱かなければ葛藤の多い人生にならないはずもない。

……身体の健康維持には、医療の他に整体なる選択肢がある。つまり病気の生じやすい体質を改善していく手法だ。同様に、心の悩みを解決するほかに、悩みを生じやすい気質を改善していく、整心、いやむしろ「整魂」なる手段が必要なのではないか。今、そう考えている。

 悩み事に対する、心霊相談は中断というよりもう止めるべきであろう。為すべきは、心霊指導、または、「整魂」なのだと、考えている。


 2006/04/16

相談から指導へ

2006/04/16

2006年 04月 16日


人間には長所があり、適性があって、個性を形成している。……当然、欠点もあり、苦手なこともあって、それもまた個性の一部である。

たとえば、ある人が悩みを抱くとして、それは単なるその人の事情が生み出したものであるとは限らない。その悩みの元のある程度、場合によっては大部分は、その人の個性の中に原因がある。つまり、被害者の適性や、欠点なども苦しみの原因の一部なのだ。

それ故に、真に悩みを解決したければ、自己の向上も不可欠となる。……私が、悩めることがチャンスであると考える所以である。

ところで、個性が一人一人違うのであれば、助言も一人一人によって変るべきなのは間違いない。……だからこそ、大量複製された言葉による指導ではなく、個人指導が必要ということになる。相談に応じる側が、それに気がつかないとしたら滑稽ではあるが、相談を求める側もそれに気がつかないのは悲惨としかいいようがない。適性が合わないのにもかかわらず、他人のやり方を真似て、失敗の傷を拡げる人の何とも多いのだ。自分の個性を蔑ろにされて愉快な人も居ないだろうに、自分はせっせと自分の個性を蔑ろにしている。

ここでいう、個人指導と、個人相談とは若干意味が違う。相談主は往々、今現在の苦境から抜けることだけを考えて、安易な救済ばかりを希望し、なおかつ不快な指摘にはすぐに眼をつぶってしまいがちだ。

敢えてしつこく、非難めいたことを書くが、実力を超えた問題であるからこそ悩み、人を頼っているのに解決すべき時期や、解決手段までも指定する人がいる。私は別段それを非難したいわけではないが、そういう行為が正に自分を苦況に追いやっている事に気がつかなければ解決しないのではないか。

これでは、泥棒を自宅にかくまいながら窃盗を防げというのに等しい。こういう無茶な要求に疑問を抱かなければ葛藤の多い人生にならないはずもない。

……身体の健康維持には、医療の他に整体なる選択肢がある。つまり病気の生じやすい体質を改善していく手法だ。同様に、心の悩みを解決するほかに、悩みを生じやすい気質を改善していく、整心、いやむしろ「整魂」なる手段が必要なのではないか。今、そう考えている。

悩み事に対する、心霊相談は中断というよりもう止めるべきであろう。為すべきは、心霊指導、または、「整魂」なのだと、考えている。


死にたい……自殺願望

2006/04/16

死にたい……

2006-04-15

 世の中には、ろうそくの炎が立ち消えるように、誰にも心中を明かさずに消えていく人もいます。そういう人は、あまりの心労に他人に相談する事を忘れているもので、だから、自殺の名所に「相談してください」という看板が立ち、多くの人が自殺を思い止まる要因になっています。

 そして大切な事は、わざわざ自殺の名所にたどり着きながら、後戻りして自殺防止の相談を受けるのは、そもそも死にたくて自殺しているのではなく、苦しみから逃れたくて自殺を思い立っただけで、生きて苦しみを除けるならば死にたくないのは生物として当たり前の反応だと思います。

 なるほど中には生きる事に希望を見出せず、その一方で生活の雑事が面倒になって死にたいと思う人もいますし、その他の漠然とした理由や、精神病的な強迫観念に囚われて自殺願望を持っている人も居ますが、私に助言ができるのは生きる方法であり、生きる気が無い人には、言葉は何の助けにもならないということです。

 あなたが「生きたいから相談に乗ってくれ!」というなら、私は誠意を尽くし、努力をします。 しかし、「死にたい」という相談に対する回答は私にはありません。 出来るのはせいぜい、知らない人から自殺の予告が入ったと、警察に連絡するぐらいなものです。

心霊家として、そして霊媒として一言いうなら、「死んで楽になった」という人を私は一人も知りません。

 中には、強迫観念に憑かれている人もいれば、目標を見失って生きるのが面倒になった人も、「死にたい」とつぶやくものです。そういう人への回答は別に用意します。

 実を言えば、私の元へはかなりの頻度で、「死にたい……」というメールが舞い込みます。「死にたい」という台詞は、生活苦に対する無意識のストレス発散であるから、死にたいと言っているうちはなかなか本気で自殺しないものですし、その真意・根底には、「死にたいほど真剣に苦しんでいるのだから、早く助けて!!」という、意思があることは、霊感が無くてもわかるというものです。

 ところで、まったく人間というのは、苦しい時にも他人に気を配れる人もいる一方で、大抵の人は苦しい時には人の都合などお構いなしに騒ぎ立てるもので、まあそれが人間の性、と同時にお互い様と受け入れるしかないとは思いますが、中には、自分が苦しいと、苦しみを逃れる努力を忘れて人まで苦しめようとする人がいるから困ったものです。

 なるほど、あなたにして見れば命がけの相談かもしれません。でも、冷静な第三者としての私からは、自分の命を人質にして回答を強要する人でなしにしか思えないのです。そういう人の甘えた欲求に対して真剣に答えようとしたら限りがありません。私にも生活がありますから、どこかで相談を拒絶しなければならなくなりますが、そうなったら、相手は売り言葉に買い言葉で追い詰められるかもしれません。

 結局、真剣に自殺を考えている人に対しては、まずは引き止める必要がありますが、でも、他人に甘えたいがために自殺をほのめかす人は絶対に甘やかせられないわけで、メールや掲示板などで相談に応じる事はとても出来ないといえます。


自殺衝動・でも生きたい!!

2006-04-15

以下は、自殺衝動に襲われながらも生きる事に努力しようとなさっている方への解説です。

 病的な自殺観念

 私の基本的なスタンスは、病気は医師に任せるというものです。まず、医師の助言を優先してください。心霊にすがるのは医師が見放してからにする事が大切だと思います。

 とはいうものの、霊能者として感じる注意点があります。

 1.葛藤と戦う

 皆さんは本当に葛藤と戦う事が下手だと思います。 心の中にわきあがる衝動は、自分自身の分身と同じです。争えば自分と同じだけの力を持っているのですから、決して決着がつきません。そしてどちらが優勢になっても引き分けでもあなた自身が苦しむ事になります。

 争いになったら、葛藤のどちらが勝っても、あなたの負けです。争わぬ方法を見出すか、妥協点を見出す事が大切ですし、妥協できなくても真剣に争わないことです。

 2.決して慌てない

 人は苦しければ直ちに逃れようとします。ですが、助けが届くには時間が掛かるものです。具体的には医師の処方に満足できないからと、心霊相談に頼るのはあまり褒められた事ではありません。その努力が事態を混乱させる事になると思います。

 3.他に頼らない

 自らが苦しみを生み出しているのに、薬や他人に頼って助かろうとしても自分からは逃げ切れません。


自殺願望・絶望または諦め

2006-04-15

自殺願望をお持ちの方へ

 災難は、悪意より未熟さ、不運より要領の悪さがもたらします。

 あなたを不幸にしているのは一体誰か……

 その原因があなた自身にあったとき、あなたは振り上げた手を一体どのようにして下ろすのでしょうか。

 困り果て、悩みぬいた末に、私の元に至った挙句、「あなたが悪い!」といわれたら、きっと、腹も立つことでしょう。それがわかるがゆえに、以下の問題は、私が最も回答したくない問題の数々と言えます。

 自分に内在する問題点を明らかにする覚悟のない人は、どうか、他の霊能者をお当たりください。そのほうが、あなたにとっても、私にとっても幸せなことでしょうから。


自殺願望の考察

2006-04-16

 普段、人間は言葉で思考し、それをそのまま口から発するものですから、一般的な事柄については、真意を深く感じる必要も無く、会話が成立します。

 一方、霊が、人間を通じて言葉を発する時には、頭の中に浮かんでいるたくさんの言葉の中から、目的に一番近い物を選び出し、繋げて文章を作るといいます。(永遠の大道や、シルバーバーチの霊訓などを参照のこと)

 この事はごく当たり前ですが、言葉は、意思の表現方法としてはとても拙い物であり、真意を読み取る努力が、特に心霊的な言葉には重要であるという事の一つの理由でもあります。

 さて、自身の魂が何かを言葉で表現しようとするなら、やはり霊と同様に、頭に格納されている言葉を選び出して、繋げていると考えるべきでしょう。そして、前述の「死にたい」ですが、その言葉が、その人の魂の発する言葉だと考えると、その真意は一体なんでしょうか。

 私は、「自由になりたい」と受け取りました。

 魂は、五感というわずかな感覚で世界で感じる事に嫌気を感じている。それ以上に五感というわずかな感覚だけで、友情や愛情を感じる事をとても寂しく思っている。「自分の魂を解き放ち、もっと多くの感覚で、世界や友人や愛する人の事を感じたい!」私の霊耳にはそう聞こえたのです。

 人々の言葉にならない寂しさ、それは孤独だからというより、自身の魂が五感に閉じ込められている事を寂しく感じているのではないでしょうか。


自在でありたい

2006-04-16

 さて、魂は単に肉体から逃げたがっているのでしょうか。確かに努力の甲斐なく、苦しみにあえいでいればそこから逃げたくなる気持ちは分からないでもありません。でもそれは、希望なく苦しんでいるからであり、できる事なら逃げる事よりも、自身が主導権を握りたいというのが本音でしょう。

 先ほどは「自由」という表現を使いましたが、真実は「自在」という言葉が適切なのではと思います。辞書で引くと、自由には様々な意味が含まれていますが、一般的に、自由は、「どうにでも動く」、自在は「意のままに動く」となるでしょう。そして、そう、魂は「せめて自由を……」と望んでいるのであり、できることならば「自在」を求めているのではないでしょうか。
 求めているのが自由ならば、確かに死も回答のひとつかもしれません。しかし自在なら……

 そう、私は、漠然とした「死にたい」という言葉の中に、その人の熱烈な、霊性解放に対する衝動を感じたのです。自身に内在する理解不能な衝動……理解不能だから、「死にたい」という否定的な、消極的な表現になってしまう。でも、それが「霊性解放」に対する欲望だと自覚した時にどうなるでしょうか。

 時々、死にたくなるともらしたこの人は、素晴らしい霊性を持ちながら、自分の霊性の生かし方に気がついていないだけではないか。そう感じるのです。


佳人薄命

2006-04-16

 

 「美人薄命」等ともいわれますが、本来は「佳人」です。美人が見た目の美しさを指すのに対して、心根の美しさを併せ持つ人を「佳人」というのです。さて、この佳人薄命も、霊性解放の観点から見ると、面白い事に気がつきます。

 シルバーバーチの霊訓などでも、不健康の理由を、心身のバランスが取れていないから等と表現されていますが、魂が肉体に閉じ込められている事を良しとしない事が、不健康な理由と考えたらいかがでしょうか?

 素晴らしい智性の持ち主が薄命なのも、霊性が閉じ込められている事を苦痛に感じながら生きているせいと考えたら……自殺をしたくは無いけれど、魂が肉体に閉じ込められているのは嫌だ……そういう動機があるとしたら。

 もちろん、不健康で、自殺願望がある人が素晴らしい霊性を持っているとは限りませんが、不健康さと自殺願望の背後に、霊性解放への秘めた衝動がある場合がある事は、特に心霊主義《スピリチュアリズム》に関心のある人には重要な事に思います。


自殺願望 2

2006-04-16

 もう一押し、考察を進めます。

 シルバーバーチの霊訓の第一巻の冒頭に、地上に派遣されたシルバーバーチのぼやきが出ていますが、シルバーバーチたち、高級霊界の住人たちにしてみれば、地上が色褪せ鈍重な世界に感じられるのと同様に、霊性進化が進み、転生の必然性が薄れてきた魂にとっては、やはり地上生活というのは、どんよりと濁って活気の無い世界に感じられるのは無理も無い事だと思います。

 こうなると、いち早く地上を脱したいという気持ちは、案外、魂の本音かもしれません。もちろん、理由があって転生してきている以上、勝手に地上を去る事が出来ませんが、魂が意識にごくわずかしか顕在しない普通の人の場合、魂の本音が、肉体に思わぬ反応を引き起こす事例があるのでは……そう思います。

 人は感じる事で思考を始めますが、言葉を処理する形で思考するものです。そして、霊性解放への衝動が、「死にたい」という言葉に置き換わったとすると、その人の思考はいかに死ぬか……に向かってしまうのではないでしょうか。

 そして、霊性解放を強く想う時というのは、やはり物事がうまく進んでいない時だと思うのです。きっと、物事が進行中であるなら、「感じる」暇もない事でしょう。つまり、苦しい時に、その状態からの脱却願望を「死にたい」と錯覚してしまったとしたら、一体どうなるかという事です。

 いうまでもなく自殺に対する強い衝動となる事でしょう。そのような人に対して、心霊的な常識……すなわち自殺が大罪である事を告げることが果たして解決になるでしょうか。私はならないと感じます。本音は自身の霊性解放にあるのです。その人の魂は、様々な地上的な制約に息が詰まる思いをし、その苦しみから逃れようと必死になっているのです。その人に対して、罰で脅かすような真似は、ますますその魂を追い詰めてしまいます。

 自殺は悪い事です。しかし、本音がもしも、自分の在り方・「自在」を求めているのであれば……

「君に必要なのは、死ではなく自在なんだよ。妄念に奪われた、自分の主導権を魂に取り戻す事なんだ。」

 そう言って上げられるのではないでしょうか。

 「死にたい」……魂の発した言葉は、自分の意識に暗示をかけてしまうのです。それは決して本音ではないとしても、人は言葉で考えようとする為に「魂の自由」を「肉体からの解放」……すなわち「死」とイメージしてしまえば、答えは自殺でしかなくなるのです。

 今の自分の範囲に、自分の魂の可能性を閉じ込めないでください。あなたが求めるべきは、自由ではなく、自在なのです。


対人関係

2006/04/15

対人関係に関する質問を二通受けました。

 

1,転職について

そもそも物事というのは、自他の関係で定まるものです。たとえばいかに、その会社の待遇が良かったとしても、あなたの勤務態度……そこまで行かないまでも、あなたの性格が会社の気風に合わなければやはり勤まらないことでしょう。

腹蔵無くビシバシ発言することが尊重される気風の会社も……無いとはいえないし、気配りと慎みを強要される気風の会社もあるでしょう。問題は単にその会社が良いかどうかではなく、あなたとの相性が大事となります。

むろん、あなたが気に入ったということは、その気風を含めて感じ得たことに基づいているのでしょう。が、あなたが、充分に自分自身を把握していなければ、その判断があてには出来ません。

転職してもうまく行かない。もう一度転職しようか……と思う前に、まず、いくつかの問題の中心にいるのは誰か。について考えるべきです。心機一転も大切ですが、自分が災難の原因であるなら、自分を変えない限り災難から逃れることが出来ません。……思う通りに行かないならば、人生の岐路を選ぶあなたが、現実と認識のギャップを抱えているということです。そのギャップの克服こそが大切な問題解決となります。

…… とはいえ、人は修行ばかりで生きることは出来ないし、世俗的なことには打算も必要です。……というわけで、ここから先こそが、個人相談となります。従って以下は伏せさせて頂きます。

 

2,家族・友人

家族と友人に関しての相談ですが、プライバシーに配慮して、詳しい説明は出来ませんが……というのが、この手の話の常套句な訳ですが、説明したくとも詳細が判らぬ相談も舞い込みます。……まあ、詳細がないということもまたヒントなのですが。

身体が悪い……当人の自覚以上に健康が損なわれていると感じます。

とはいえ、病気ならば、話は簡単なのです。でも、明白なる発病がない場合、周囲も家族もその扱いに戸惑います。たとえば、「なんとなく身体がだるい」という症状を考えてみて下さい。ついつい、何事も人を頼ってしまう。頼られる人は、「何で自分でやらないの! 私だって疲れているのに!!」 と腹を立てる。実をいえば日本中そんな争いばかりです。

医者にかかるほどの病気ではないが、身体が思うように動かない。だから、ついつい些末な事まで他に頼ってしまって、人間関係がぎくしゃくしてしまう。

本当は身体が動かない……思うように身体が動かせないことが問題なのに、心は別な問題にばかり気が向いている。時には、心を内側に向けてみるべきです。

 

3,その他

Q 親兄弟、自分の将来について悩むことが多い……考えて答えが出るならば考えればよし。でも、現状では考えても答えが出ぬのです。ならば、今は天に預けて今は目の前のことに取り組むべきでしょう。


2006-04-15

夢・希望・願望

2006/04/15

夢や、希望、願望が実らないという相談についてです。

この問題についてのご相談は、なるべくご遠慮ください。私としては見ず知らずの人の夢を壊す、嫌われ役を自ら買って出たいとは思っていないのです。


 漠然とした相談

 時折、「自分の希望のままに、物事が運ばない……」という、不可思議な相談を受けます。

 私には、この質問の論理がどうにも理解できません。物事が成るには、正しい方法と、適切な努力が必要なのであって、本来なら物事が上手く運ぶ方が不思議なのです。まして、力が及ばなければ、物事が上手く運べなくて、むしろ当たり前ではありませんか。

 ですから、この問題への回答は実に単純明解なものしか、思いつきません。

 「あなたの努力が適切ではないか、努力が足りないか、いずれかでしょう」

 いえ、もっと重大な問題があるようです。

 

 実力

 悩み事というのは、自分の実力を超えているからこそ生じます。では、夢が実現できないということは、一体何を意味するでしょうか?

 質問の筋道をきちんと説明できない人は、努力家ではなく、夢想家であるということです。努力もせず、筋道も間違っていたら、あなたの理想が実現するのは、とても難しいことでしょう。

 苦しんでいる人は、大抵は自ら問題を生み出しているものです。そしてじたばたと、苦しみにもがき苦しむ人は注意しなければなりません。苦しいのならばなおのこと、じたばたとすることに無駄な労力を使ってどうなることでしょう。

 

 時期・チャンス

 懸命に努力しても、何の結果も得られないこともあります。努力だけでは足りないのか……その問題に取り組んだのが、心霊である……そういう解釈もあります。つまり、心霊というのは努力を型に成すための研究でもあるのです。

 努力を型に成すには、タイミングも大切ですし、待つことも大切です。たとえば春に播くべき種を、冬に播いたら……小春日和に発芽した若芽は、真冬日に凍りつき、枯れてしまうことでしょう。

 死者の言葉に耳を貸した、心霊は「摂理」にいたります。出来るものは出来るし、出来ないものはやはり出来ないのです。しかし、摂理に敬意を払わない者は、出来ないものをやろうと努力し、挫折します。

 努力は大切ですが、目的を見失っては成らないのです。努力のための努力は、自己満足に過ぎません。目的のための努力こそが、あなたを成功と幸せに導くのです。

 

 夢の代価

 慎み深く暮らしていても、事故に巻きこまれることもあるのに、ただ無事でいられるというだけでも、一体どれだけの幸運が必要なのでしょうか。なのに不運を嘆く人のなんと多いことでしょう。

 夢は、一体誰のためのものなのでしょうか?

 不運を嘆くあなたは、自分の夢が実現できないのではなく、夢の代価を払えずにいるのです。この差は似て非なるものです。

 

 摂理

 蒔かぬ種は刈り入れられないのが摂理です。つまり夢が成らないことも、自らが原因を作っているのです。

 

 努力

 質問: 人生に努力は、必要でしょうか……

 私の立場は非常に明快で、ただ摂理があるだけのことです。

 物事には代価が必要であり、安易に得られる物は、それなりの価値しかありません。 つまり

……欲しければ働け、嫌なら諦めろ

……それだけの話です。

 努力が美徳であるというのは、努力するだけ利益が上がる農耕文化の思想に過ぎません。運の比重の大きな狩猟文花では、地道な努力よりもむしろ、より多くの分け前を得るための自己主張などを重視します。 そして、現代日本も、努力よりもむしろ自己表現が重要に成りつつあります。

 そして、私も努力をすることが大切だとは思いませんが、自己表現も下手なら、努力もしないのでは一体どこに取柄があるのでしょうか。そして、「自分の希望のままに、物事が運ばない……」という質問は、摂理の面から一体どのような解釈ができるのでしょうか。

 このような質問をする人には、想像もつかないことでしょうが、私の回答は、『今のところはまだその程度で済んでいますが、いずれもっと大きな悲劇と逃れることが出来ない困苦に見舞われることでしょう』というものです。

 無理に働く必要はないと思いますが、自分が欲しいだけのものを稼ぐ努力がなく、そして夢や願望を捨て去れなければ、自分自身の怠惰と欲望の板ばさみで苦しむことになります。そして、年老いてから努力するのは何よりも切ないことですよ。

 そして、若いうちに運や縁を育てておかなければ、年老いて、苦しみに直面しもあなたの苦しみに親身になってくれる人は現れないからです。

 

 楽しみ

 人生は、ぜひ、楽しまれるべきです。ですが、その前に、人には自らを削って楽しむ人と、自らを太らして楽しむ人に大別できることを覚えていてください。苦労を後回しにすれば、いずれ帳尻が合います。怠惰の生み出す苦しみは他人には解消出来ないものなのです。

 そして、何より幸せなのは、生み出す喜びを極めることです。人が苦労と思うことを喜び楽しみながら出来るという事……これはどんなに羨んでも、努力しても会得できるものではありません。

 また、浪費というのは、なんと心地よいことでしょう。しかし物や金がなくなれば、とたんに人は心寂しさを覚えます。働くのは面倒だ……ですが、形あるものを作り、残していくことはなんと安心感が生まれるものでしょうか。

 浪費と言う、目先の甘さに囚われて、知らずに不安の種を播き、面倒という、目先の苦さに囚われて、安心の種を播き忘れたら、楽しみの果てにただ不安が残ります。

 結局のところ、人には、自分の未来を取り崩して今の楽しみを追いかける人と、楽しみながら未来を生み出していく人がいるのです。

 

 怠惰の理由

 なぜ、人は怠惰に陥るのでしょうか。私が見る限り、夢を実現できない人は、夢よりも、努力よりも、言い訳を大切にしている人のようです。

 本当の夢を抱いているなら、何をさておいても、努力するはずなのです。それも、自分では努力とは思わず、傍目に見えるような苦しみも知らずに、ただ一心に夢に向かって進んでいます。

 夢が実現しないと嘆いている人に触れるのは、私にとって苦痛以外の何者でもありません。その心の中に言い訳と不満と妬みしか、見えないからです。

 延々と理屈を並べで、でも実現のための行動に移らない……当人は否定しますが、傍目から見たら、そういうのを「言い訳」と呼ぶのです。そして、言い訳であることを自認しないから、永遠と無駄な思考を続けるのです。

 しかし、先が見える努力というのは、動き出すまでは辛くても、いつしか没頭して苦しみを忘れますが、先が見えないというのは、黙って座っているだけでも辛いものです。


2006-04-15

お知らせBy老神いさお。

・スマートホン
iPhone/Androidで閲覧時に、最適化したページが表示出来るようになりました。よろしければ、ご感想をお寄せ下さい。

・サイト再構築中
移行途中のデータが時折、トップページに掲載されますが、編集作業の都合ですので、今しばらくご容赦ください。旧作については、本文右上に日付が記載されます。

・ページ更新
 現在:1056㌻
 復旧予定: 残り480㌻位・・・

老研カレンダー
5月 2012
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
28293031EC
6月 2012
 123
45678910
11121314151617
18192021222324
252627282930 
老研イベントリスト
みにみにぶろぐ
  • ・その後悔の帳尻が合う生き方をしているか?
  • ・我が国だけが原子力を全廃しても、隣国が原子力発電を推進すれば、危険性は無くならない。
  • ・生きるとは生むことである。
  • ・いろいろなる不平不満はあるだろう。だが人は歩んでいる。
  • ・与えられる事を当たり前に思っている者が飢える。
  • ・なぜ、争うのだろう? 事態はただ現実への妥協を求めているだけなのに。
  • ・ 見せられると信じたくなる
  • ・豊かな者は足りぬものに気が付かず、知りたる者は、知らざることに気が付かぬ。……
  • ・ 心に不満が生じるのは、あなたが焦っている証。もう少しゆっくりと生きなさい。
  • ・不平不満が生じるから醜いというのではない。不満を溜めたままでいるから醜いというのだ

More »

サイト内検索
サブ・サイト