水子霊
2006/05/172006年05月17日
どう見えるのか。
私が、霊感が始った直後に、背後の霊達から教わったのが、水子霊の鑑定法であった。
人を霊視すると、首のあたりに白いヒモ状のものが何本か見える。この数が水子の数(水子の霊ではなく、水子の数の算定基準)だというのである。
ところで、男性や男性経験のない女性にもこのヒモが見える場合があって不思議に思っていた。後に、この白いヒモ状のものがへその緒と胎盤の幽体であることを知った。……幽体、すなわち魂と肉体とを結びつける、物質と霊との中間媒体のことである。……つまり自分の臍の緒を首に巻付けていたのである。ただ、霊感発現初期の、心霊知識の貧しい時代に『幽体は……』と教えられても理解が出来なかったのだ。
もう一つ疑問がある。『なぜ、ヒモが残る人と残らぬ人とがいるのか』ということだ。つまりこれが「水子霊の祟り」の問題なのである。
一時的な器官にも幽体がある
(質問を元にした補足分)
一時的な器官であろうが、細胞が生命活動を営む以上は、幽体の浸透はむしろ必然です。幽体が宿らなければ生命活動が成り立たないとさえいえるし、幽体こそが死んだ組織と、生きた組織の違いともいえる。……脱線だが、臓器移植によって移植元の記憶も移るというのは、心霊的に考えたとき、移植元の魂と感応しやすくなる……憑依されやすくなるということかと思われる。残念ながら、私には移植患者の知人がいなくては観察した経験はないが。
とはいえ、へその緒と胎盤については、「妊婦」という一個の自我と、半覚醒の自我の両方を持つ、一種独特・複合的な肉体の器官ですから、母子が別れた後は必然が無くなり、消えゆくべきものである。つまり、出産した段階で妊婦という複合的な肉体は死に、あとに親と子の二個の肉体が生じるのですね。そこに、どちらにも属さない肉体・幽体が生じてしまうのです。
なお、これまた蛇足だが、事故等で手足を失っても、幽体の手足は失われない。物理的な手段では幽体を切断できないからだ。
水子の霊を霊視できるか?
前述の、「へその緒と胎盤の幽体」は水子霊そのものではなく、水子霊の鑑定方法であることは前述した。
基本的に、水子、というより早世(早死にした)した子供の霊魂は、罪もなく、地上との因縁も薄いために、直ちに霊界、それも比較的高級な霊界に素早く引き取られてしまう。モタモタしていると、地縛の霊達に攫われてしまうからだ。
従って、いわゆる水子霊なるものを直接霊視するのは、とても困難だ。……地上で苦労すべき霊魂ならばいざ知らず、なんの苦労もしなかった清らかな霊魂をわざわざ地上と関連づけるような真似をする産土神はいないからである。それでも敢えて呼び寄せようとすると、集まってくるのは、誰でもよいから供養して貰いたいと願っている低級霊で、赤ん坊になりすまして供物をせしめようとする。といって実際に供物を受け取れるわけではなく、ただ単に手を掛けて貰うことを喜ぶだけだ。……人を振り回して喜ぶといわれることもあるが、当の低級霊にしてみたら、おそらく悪意はない。ただ、自分に向けられる親切を楽しんでいるだけなのである。
(重要:手を掛けて貰うのを喜ぶ……それは人間の本能ともいえるが、いわゆる低級霊の行動も本能的だ。すると、本能的な行動が強く出ている人は、低級霊に感化されている、もしくは、低級霊的である、と見ることもできる)
本来、水子の霊が祟りを為すというのは、猫嫌いが子猫を恐れ、犬嫌いが子犬を恐れるのに似ているかもしれない。猛獣である、ライオンやトラですら、子供の頃は放し飼いに出来るというのに……
害と解決法
霊媒または心霊研究家の中には、水子霊には、ずいぶんと大きな害があるという者がある。一方、私の師などは、『純真無垢の赤子がどうして母や兄弟を害するというのか』と、水子の祟りを一蹴りする。もっとも、我が師は、避妊もせずに男遊びを繰返して、妊娠しては堕胎するような女性の存在を信じていない所がある。それはともかく、私が得た回答は、
『世間の言う、水子の祟りとは、衛生観念のない者が腐ったものを食べて腹をこわすようなものだ。胎盤の幽体をぶら下げ続けるというのは、自分の魂の清らかさを大切にしないからであろう。つまりそれは、魂の不潔さの証なのである』である。この説明で納得できぬ人もいるだろうが、とりあえず私は納得した。
この理解を共有するにはちょっとコツがある。まず、身体の清潔さとここでいう魂の清潔さを混同しては理解できない。私は、神社にお参りする時や、墓参の時などには、あいつが嫌いだ、あれが欲しい、これが嫌だ……などという、俗っ気を持込まず、不平不満があってもなるべく忘れて参拝するようにしている。……つまり、入浴の様な気分で神社にお参りするのである。……うまく気持が通じれば、心に灯明が上がるかのように暖かみが感じられるものだ。
ところが、参拝者が多いときに観察していると、祭壇の前に陣取り、延々とお祈りしている人に出くわす。たくさんの願事を持ち、叶えてくださいと頼み込んでいるのである。聖域に世俗気分を持ち込む。……霊媒としてみるなら、洋服を着て風呂に入り、濡れたまま歩き回るって服を汚すようなものである。
そもそも、神社仏閣には低級霊がウヨウヨ居る。……それを見た霊視能力者がわざわざ僧侶・神職に告げてひんしゅくを買うという話を良く聞くが、実にナンセンスだ。評判の良い病院ほど、たくさんの病人が集ってくるのと同様だからだ。……だが、病人が集っているところに衛生観念のない人が飛込んだらどうなるか。あちこちにベタベタ触って、でも手も洗わず、うがいもせず、そのまま食事をしたら……病気になるために出掛けるようなものだ。
いつまでも不用な幽体を引きずって歩くわけである。
水子供養の問題
一生懸命に水子供養しているが、ちっとも消えてなくならない、という話も聞く。その判断の根拠は棚上げするとして、一生懸命に供養するから駄目なのだろうと思う。
本来、自我意識の薄い赤ん坊なんて、わざわざ祈らなくても地縛霊と化したり、迷える霊としてさまよい出たりすることはない。地上に残るのはせいぜい魂の抜殻、意志の籠らぬ幽体だけである。
理解できようか? 地上で一度も罪を犯して居ない……犯すチャンスのない赤ん坊が、どうして高みに上れないというのだろう? 罪を犯さなくても供養がなければ浄化しないというのであれば、犬猫鳥牛豚の霊魂の祟りの方こそ、人は恐れるべきではないか。
自我意識の薄い赤ん坊の供養を懸命にする……ヘタをすれば自我意識の強い亡者が焼餅を焼いて集ってくる。
また人によっては、自分を護ってくれている祖先の霊達にろくに感謝も献げず(先祖供養)、祟りを恐れて赤ん坊の霊魂を拝む事もあるだろう。……だが同居の年寄りの生活を犠牲にして子供のおもちゃを買いそろえたら識者にバカにされるであろう。ものには程度があるのに、度を超すから害が生じる。日々心清く、生命の尊重を心掛けていれば、本来、水子霊などに心惑わされる必要は本来ないのである。
やってしまったことは仕方がない。……確かに。だが、罪を認めたからといって赦されるのか。それこそ生命を安易に考えていないか。
・・・・・・・
また、今までの精神生活に無理があって、胎盤の幽体をぶら下げたまま暮しているのを、たまたま霊媒に指摘されたとしても、ただ、水子霊の供養に夢中になるのはナンセンスである。あの世のことはあの世の連中に任せるべき……祖先の霊、守護の霊に、我子の善導を願えばよい。一事が万事のヒントとして、水子の霊だけを問題とせずに、自分が知らずに犯した罪の解決を心掛けるべきであろう。
女性だけが水子霊に苦しむのか
水子霊と見える、胎盤の幽体については、男性、もしくは男性経験を持たない女性にも付いていることがあるが、上述のように、精神生活の衛生観念の問題であって、直接害をもたらすものではない。ただ、その精神生活上の問題が女性の方が見つけやすい、正しやすいと、良い方に解釈するべきかと思う。
思い当る節がないのに
「妊娠に気が付く前に流れる場合もあるというが、私には水子があったとは思えないが」……という話も聞く。
母親が霊的な事に無頓着であるから、その子供である相談者が、同じように無頓着にならぬよう様々な警告を与えられたのではないか。また、私が過去の相談事例を振返ってみたとき、やはりいくつか当人のものではない水子霊の存在を示唆したことがあるが、それは、背後の霊達が、当事者の生命倫理感を試していたとのだと思われる。
堕胎してから霊を感じる
堕胎してから霊を感じる、と話している女性を見かけ、黙って背後に問うたら、
『妊娠させられ、堕胎までしたのに、相手の男性に振られた結果だ。罪の意識よりも怒りの方が強い。男に振回されているうちは、罪の意志さえ希薄なものだ』という、さすがに当人には言えなかった。
水子霊がいるとの警告を受けたら?
自称霊感のある人が水子霊のことばかり警告する霊媒、または、先祖供養ばかりいう霊媒や、○○ばかりの霊媒の意見は、丸呑みされない方がよいと思う。
ローシャッハテストという、心理テストがある。一見、曖昧な絵を見せて、それが何に見えるかを問う……霊媒の見たり、感じたりするものは本来とても主観的で、解釈の巾があり、おなじものを見ても霊媒によっては異なる見解を出す。それは解釈の違いであると同時に、霊媒である以前に人であるから、その霊媒が心に秘めた問題などが、こういう時に現われるのだと私は解釈している。つまり、特定の警告ばかりだす霊媒というのは、その分野に強い関心のある人だと考えるべきだと私は思う。
とはいえ、特定の個人に同じ事ばかり言う……他の人には別なことを言うのであれば、それはそれでべつな意味があると考えるべきだ。
たとえば、これはよく誤解されることだが、(自称)霊媒の霊視するものとは、必ずしも事象や風景ではない。私は霊感を、「異界の窓」などと表現するが、実際にはコンピューターのモニター/ディスプレー(表示器)を覗いているのに近いのだ。つまり、誰か(心霊学では「支配霊」と呼ぶ)が作成した、「解説のイラスト」を見せられているのであって、それゆえに要点を強調してあったり、細かいところが省いてあったりするのが普通だ。むろん、テレビのようにそのままの画像・風景などを見せられることもあるが、それではメッセージ性が薄れて、要点を掴み損ねやすい。
この表示の手法は、支配霊それぞれに異なる。私の師の支配霊はなかなか精密な表示をするが、私の支配霊は、私が大雑把なものだから、どうせ細部など見ないだろうと、とても大雑把だ。だから、師と出歩くときには(私もそれなりに真剣で)しっかりと細部まで見えるのに対して、私一人だと、要所だけでをあっさり感じる。
とにかく、霊視というのは作図されたものであるといえる。その上でいうなら、たとえば幼少期に非常に印象的な体験をし、それがトラウマとして残っている人を霊査した霊媒は、およそ、「子供のイメージ」を得ることになる。……その作図から、「相談者幼少時のトラウマ」というキーワードが理解できなければ、俗信的な「水子霊の祟り」と、解説してしまうことはありがちな話である。
ボギャブラリーが貧困というか、心霊知識の薄さがそうさせるのだが、これでは問題解決を邪魔しても助けにはならない。
「心霊知識の貧困さが、霊障の主な原因」といわれる所以だ。
水子供養
端的にいえば、ことさら水子供養をするのは泥棒を捕まえてから縄をなうようなものだ。産れてきた家族を生きている限り祝福し、亡くなった家族も時折、思い返して絆を確認していれば、他に大袈裟な祭事等は不用なのだ。……その手間を惜しんで、心に後ろめたいものを感じているから、自称霊媒などに「あなたには供養を必要としている霊が憑いている」といわれて、騙されたりもする。
真心だけで充分なのだが、その真心を理解するのに切っ掛けを必要としているのが現代人であり、その過程が、正しい供養……または、心霊詐欺に騙された経験なのかも知れない。どうせならば、正しい道を歩みたいものである。.