情緒的な問題
2006/04/14
不安について
不安の原因
まずあなたが今、抱えている不安の原因について良く考えて見てください。目の前の困苦や痛みに対して、自分は何を為すべきなのか分からないことが、大きな不安の原因になっているはずです。
不安を生み出すのは知識の無さなのです。明らかなことであるなら、努力を要し、難しさはあっても不安を感じる必要はありません。むしろ、克服のための努力に忙しく、不安を感じている暇はないことでしょう。
不安を感じた時、問題を捉え違いしている事を、察しなければなりません。
痛み
痛みから逃れる……これは言葉の綾というべきで、痛みを発しているのは、あなたに危害を加える何かではなく、危害を受けたあなたの反応なのです。実に当たり前なこの事を、軽視して痛みに苦しみ続ける人が大勢いらっしゃいます。
痛みが、あなたを苦しめているのではなく、苦しめているものがあるから、あなたに痛みが生じるのです。
嫌なこと、嫌いなことから目を背ける。それでは一時の痛みから逃れても、あなたの弱さから逃れられるわけではありません。痛みから逃れても、問題は何にも解決しないのです。目先の苦しみに心囚われて、大きな問題を見逃してどうして幸せになれましょうか。
不幸の意味・または霊能者の言葉の価値
たとえば、自称霊能者、または、占師から「あなたは近々不運に見舞われる」と指摘されたとします。しかし日々様々な体験を重ねる人生において、すべてがうまく行くことはまず有り得ないでしょう。
細かな点を拾えば、人生にはたくさんの幸運と不運が詰まっているのです。まして、小さな不運が大きな幸運を導き出すこともあります。その意味で本当に良運・不運を判断するのは最後になってみなければ分からないことなのです。
人生には波があります。幸運を維持し続けるよりも、不運をばねに成功を掴む方がどれほど楽か、一時的な不幸は、大きな成功を掴むための助走に必要なのです。それを知らない人が、占いに凝り、霊能者と親しくしても、気安めにしかなりません。そしてくつろいでいる間に大きな幸運を見逃すとしたら、何と滑稽でしょう。
不幸について
災難
災難に巻込まれる事が多ければ、その原因を、外部に求めるよりは自分の中に求めるのが自然な成り行きでしょう。ですが、わざわざ不幸を望む人はいませんから、「憑き物でもあるか、前世か祖先の悪行が世に出たか……」と悩む人がいます。
災難は、悪意よりも未熟さ、不運よりも要領の悪さが生み出すものです。ところが人々は自分の未熟さ、要領の悪さを棚にあげて、災難を歎きがちです。しかし、自らの中に、原因があるなら、解決策はあっても、逃れる手段はないことを知るべきです。
不幸の意味
たとえば、自称霊能者、または、占師から「あなたは近々不運に見舞われる」と指摘されたとします。しかし日々様々な体験を重ねる人生において、すべてがうまく行くことはまず有り得ないでしょう。
つまり、人は日々、少なからぬ不運と向き合いながら生きているのです。同様に「あなたは近々、幸運に見舞われる」というのも、当たって当たり前の話しなのです。問題は、「だからなんだ……」という事なのです。
細かな点を拾えば、人生にはたくさんの幸運と不運が詰まっているのです。まして、小さな不運が大きな幸運を導き出すこともあります。その意味で本当に良運・不運を判断するのは最後になってみなければ分からないことなのです。
幸福の意味
人生に意味・意義を見出せなければ、不幸を感じる暇はなくても、または、充足感に包まれていても……幸せとはいえません。少なくとも、そんな幸福感は、追いかけ続けていなければ三日と持ちはしないでしょう。
ですから、私は心がけます。小さな災難も、小さな幸運も、より良い人生を育むために用いるように。そして、相談者に対しても、災難から逃れることよりも、災難を生かして幸せになる事を助言しています。
ですから、私につまらない回答、つまらない保証を求めないで下さい。人生には小さな幸運、不運がたくさん詰まっています。しかし重要なのは結果であり、小さな不運に惑わされて大きな幸運を逃さぬ様にして下さい。
満足
人が豊かであると自覚するためには、どれほどの物質的なゆとりを必要とするのでしょうか。どれほど与えられたら人は満足するのでしょうか。ある人は、自分のお腹が満たされるだけで満足します。ですが世の中には、使い切れないほどの財産を得てもまだ、不足を感じる人がいます。
地上に生きる人はみな、不足と争い続けねばなりません。肉体を維持するためには様々な物資が必要なのです。ですが、物資でお腹を満たす事が出来ても、心を満たすことは出来ません。出来るのはせいぜい忙しさに不足を忘れさせることだけなのです。
不足を感じている人に与える事は出来ても、満足を知らない人を満たすことは出来ません。あなたが満ち足らぬ想いに、心悩ませているとして、必要なのは、満たされることなのか、それとも満足を知ることなのか、一体どちらでしょうか。
真の問題を知らずに、解決は有り得ないのです。満足を知らぬ人が不満を抱いていても、底の抜けた桶に水を溜めるような努力が必要とされます。水を注ぐ前に穴を塞がなければ、どれほど努力しても実りはありません。
同様に、気の利いた人が、満足を知らぬ人に援助の手を差し伸べることはありません。この事はとても大切です。援助を受けるには、受ける人物の器が大切なのです。人物の器が小さければ、周囲が努力しても、援助の大半は溢れて地面にこぼれてしまうでしょう。それでもまだ、器に何がしかが残るなら幸いです。 全く何も残らない人も世の中にいるのです。
しかし、同じ不足が問題であっても、足りずに困っている人を助けるのと、満たされずに困っている人では、手段が大きく違います。しかも満たされない人は、餓鬼にまで落ちぶれて、自分の心の痛みを紛らわせるためには、人を苦しめることも平気になる事があります。
考えて見てください。底の抜けた桶をいっぱいに満たさないと、あなたを苦しめる人が目の前にいるとします。あなたに、何が出来るでしょうか? そして何をすべきでしょうか?
あなたの答えは、あなたが餓鬼となった時に、周囲の人から受ける仕打ちなのです。心して下さい。
愚痴はやめよう
愚痴とは
愚痴とは『言っても仕方の無い事を口にして嘆く事』とされています。
口にする不平不満について、愚痴といわれると、反論したい人も多いでしょう。自分の心の中の不平不満については、他人が理解を示さなくとも、自分なりに理由があることで、単なる愚痴と片付けられたくないというのは、人間の心情です。
さて相談を受けるということは、結局、悲観的な考えをする人の相手をするということで、今まで、私は懸命に相談や質問に耳を傾けてきました。しかし、振り返ってみると実に愚かしい事に、言葉に耳を貸す、懸命に頭を働かすということは、同時に霊感をふさぐ事であり、考えれば考えるほど、相談者に対する回答が得られないという悪循環に陥ってしまうのです。
仕方の無い事にいつまでも囚われずに気持ちを変えて生きましょう。辛い、苦しい、悲しい、そういうメールを送られても、読めば私の霊感がふさがり、読まなければ返事ができないという悪循環に陥ってしまいます。ですから、相談メールには、感情的な説明はなるべく廃して、現状の説明と、解決への希望を書いていただきたいのです。
読まなくても判る
実を言えば、相談メールの中には読まなくても返事を書ける、というより読まないほうが楽な例も多いのです。
霊能者なんだから相談内容を書かなくても分かるだろうといった曖昧な内容のメールも届きますが、その返事は傲慢になっている自重せよ、であったりします。
嘆きは不幸を呼ぶ
また、嘆き、悲しむのは人間の情ですが、情に囚われるのは心の窓を閉ざす事であり、高級霊を遠ざける事に繋がります。辛い時には明るい未来、望ましい解決を思い描くべきであり、目の前の障害に囚われ嘆いていると、低級霊を集めて障壁がますます厚くなるのです。
感謝の気持ちには高級霊が反応し、恨みや憎しみ、悲しみには低級霊が反応します。これは宗教的な理論ではなく、きちんと精神的な理由があります。
インターネットで例えるなら、良い映画を見て感動したときには、その感動を分かち合おうと同じ映画を見た同士を探しますよね。または付き合って気持ちの良い友人に対して、その映画を紹介するわけです。反対に自分の不幸を嘆く人は、助けてくれそうな相手を探すか、自分より不幸な相手を探して満足を求めます。
霊的なものも同様なのです。喜びや感謝の念に反応する霊は、ある程度人を助けるゆとりがある霊であり、大抵、きちんとした守護霊団に属しています。ですからそのような霊と日常接していると、非常時には芋づる式に必要な能力を持った霊を呼び寄せる事が出来ます。つまり守護霊団の上部から有力な高級霊に支援を要請してくれるのです。
それに対して、不幸に反応する霊は、努力して現状を打破しようとはせず、自分が一番不幸な存在ではない事を確認したいだけですから、非常時に助けを求めても放置するどころか、むしろ不幸に手を貸すことさえします。ですから不平不満を言って、低級霊に取り巻かれると問題の解決がとても困難になります。
まれに、霊界で修行を始めたばかりの霊のように、勉強した事を実際に試したくて、不幸な人を捜し歩く例もあります。が、そのような霊も苦しんでいる人が不平を言っているうちは事態が好転する事が無いと知り、あきらめて離れていきます。
ですから、まともな高級霊は、不平不満に反応することは全くありません。例外は守護霊だけです。しかしその守護霊も不平を止めない限り、他の霊の応援を得られずに、途方にくれる場合が多いのです。
感謝の念が最大の武器
相談を依頼される方は、どうか感謝の念を絶やさずにいてください。
霊界は想念の世界であり、霊界での遠近は想念によって決まります。
ですから怯え、憎しみ、恨み、妬みなどの念を持つ事は低級霊にあなたを近づけて、高級霊を退けてしまう事になります。この世においても、恨み言の多い人、愚痴の多い人は、自分より不幸な相手を見つけて安心したい人に好かれ、人生を積極的に生きていく人からは嫌われます。
あなたの友人が、あなたの不幸と付き合っているのか、あなたの魂と付き合っているのかは、助けを求めた時にはっきりと判ります。あなたの魂と付き合っている人ならばあなたをしっかりと受け止め、あなたの不幸と付き合う人ならば言い訳で逃れようとするでしょう。
善い魂を友人に持ち、自らの不幸には友人を与えるべきではありません。
そんな事をすれば「不幸」が「不幸」をつれてきてしまいます。 「不幸に集まる友人」を退けるのは、あなたの感謝の念と理想と希望なのです。
善き想念を持つ事
私の霊力ではないからこそ、個人を超越した力が期待できるのであり、個人の力ではないために除霊は公平なものとなり、追い出された霊たちの逆恨みの余地がなくなるのです。ですがあなたが怯え、憎んでいれば、あなたが呼び寄せられるのは低級霊ばかりになってしまいます。
愚痴は心の安全弁です。 たまに愚痴をこぼすのは身体にも心にも良いのです。 でも同じ内容の愚痴は三回までにしましょう。 それ以上言うと自分が情けなくなって, かえって辛くなります。
悩み
2006-04-15
悩みの無い人生などありえません。 しかし、悩む必要の無いことに囚われて、人生を無駄にしている人がいます。 その悩みは、本当に悩むべきことでしょうか?
悩みに苦しむ人に、神経症的な問題は多々あるとして、または、霊的な障害が見受けられるとしても……あなたの悩みというのは、はたして、悩んで解決することでしょうか。単に、現実を受け入れるべき事だとしたら、悩むことによって、一体いかなる解決がありえましょうか。
あなたは悩んでいるつもりでいて、実は自分を苛めているのではありませんか。
たとえば、自分の容姿や才能に関して、悩むことでどうして解決するというのでしょうか。むしろ必要なのは、欠点を長所に転じる努力であり、自分の持って生まれた、容姿や能力を充分に生かして、より良き人生を歩むことのはずです。
悩んでいるつもりで、実は自分苛めに努力していませんか。あなたが自分を苛める……すなわち自分の欠点・短所を思い悩んでいるなら、心安らぐ暇無く、生きることがとても辛いはずです。
世間には充分に敵がいるのです。せめて自分ぐらいは味方につけましょう。
嫌い!
最終更新日 2002年12月24日
○○が嫌い……という、相談への回答を整理してみました。
最初に
対象は、それぞれ異なりますが、人は意味もなく在る物を嫌悪する事があります。これは大抵、自身の欠点や生涯の課題を暗示しているのです。 克服しない限り、解決は有り得ないのです。
心霊嫌い
心霊を嫌うのは、霊感が中途半端に強い人に多いのです。あまりに貧弱な霊感の持ち主は、怪談話に実感が湧かずに素直に楽しめ、反対に、霊感が強すぎると、怪談話に作り物を感じてしまいます。中途半端に霊感が強い人だけが、怪談話に笑えなくなるのです。
ですから、心ある人は心霊否定論者に対して、説得を試みてはなりません。往々にして、否定論者は否定を目的にしているのではなく、自己の恐怖感と戦っているのですから。怯える者を追い詰めたり苛めたりしては成りません。たとえ相手が、冷静を装っていても。
同性、または同業者が嫌い
その世界には、その世界の者でないと理解できない問題があります。同じ立場に身を置く者同士だからこそ、分かり合える問題があるのに、同じ立場の相手を嫌悪するのは自己の内在する問題を直視しないことの証とも言えます。
実は私は、心霊サイトが嫌いです。ですがそれは……自己の内在する問題というより、立場の内在する問題について、よく理解するからだと私は認識しています。
指差し示すことが出来ない象徴的な世界を扱うがゆえに、机上の空論や独善、そして見当外れの価値観といった、様々な障害が心霊研究の前に横たわっているのです。そして、私は自分のサイトについては自身で責任を負わざるを得ませんが、他人まで責任は負えないのです。
因縁というのは解決のチャンスを逃さないもので、自ら克服するまでは、常にトラブルを引き起こし続けるものなのです。つまり現実逃避する人は、常に周囲に争いの種をまき散らし、決して落ち着きがないものなのですね。そして、敗北を悟れるだけの知力がある人はいつまでも無駄な努力はしないものです。結局、自分の問題を自覚しない人は大抵、破滅するまで争いを続けてしまうものです。
そして、注意すべきは喧嘩は両成敗ということです。互いに歩み寄れない関係を維持するには、非常に多くの犠牲が要求されるのです。ですから争いに至る前に手を引くことが肝要でしょう。自分が現実を受け入れ難くても、相手が現実を受け入れ難くても、その交流は忌避すべきであると私は思います。
ほめられたい!
04年 07月 02日
人は、褒められたり、感謝されるとうれしいものです。ちょっと褒められたりすると、もっと相手を喜ばせたくなってしまうものですよね。特に今時、学校や会社においては減点法で自分の能力を測られて話題に上るのは失点ばかり。雑踏に踏み出せば右を見ても下を見てもすばらしいものばかり、思い当たる「くだらぬもの」はなんだか自分だけに思えてしまう世の中……「世の中は、虚飾と偽善に溢れている。見かけよりも心が大事!」と、いうのは容易いが、虚飾と偽善に流されず言い切るのも難しい世の中。自信が足りぬからこそ、なおさら褒められたり、感謝される事に甘美さが募る……
だ と す る と ……
あなたは、人を喜ばせるために努力しますか?
それとも、人を褒める事に努力しますか?
つまり、自分が欲しいものを懸命に求めるのか、自分が欲しいものだから人に与えようとするのか、どちらでしょう?
・・・・・・・・
もっとも、あまりに賞賛や名誉に飢えている人が、他人を賞賛してみても餓鬼が笑うかのように、不愉快に思われるかもしれませんが……