‘心霊相談(事例)’ カテゴリーのアーカイブ

情緒的な問題

2006/04/14

不安について

 不安の原因

 まずあなたが今、抱えている不安の原因について良く考えて見てください。目の前の困苦や痛みに対して、自分は何を為すべきなのか分からないことが、大きな不安の原因になっているはずです。

 不安を生み出すのは知識の無さなのです。明らかなことであるなら、努力を要し、難しさはあっても不安を感じる必要はありません。むしろ、克服のための努力に忙しく、不安を感じている暇はないことでしょう。

 不安を感じた時、問題を捉え違いしている事を、察しなければなりません。

痛み

 痛みから逃れる……これは言葉の綾というべきで、痛みを発しているのは、あなたに危害を加える何かではなく、危害を受けたあなたの反応なのです。実に当たり前なこの事を、軽視して痛みに苦しみ続ける人が大勢いらっしゃいます。

 痛みが、あなたを苦しめているのではなく、苦しめているものがあるから、あなたに痛みが生じるのです。

 嫌なこと、嫌いなことから目を背ける。それでは一時の痛みから逃れても、あなたの弱さから逃れられるわけではありません。痛みから逃れても、問題は何にも解決しないのです。目先の苦しみに心囚われて、大きな問題を見逃してどうして幸せになれましょうか。

不幸の意味・または霊能者の言葉の価値

 たとえば、自称霊能者、または、占師から「あなたは近々不運に見舞われる」と指摘されたとします。しかし日々様々な体験を重ねる人生において、すべてがうまく行くことはまず有り得ないでしょう。

  細かな点を拾えば、人生にはたくさんの幸運と不運が詰まっているのです。まして、小さな不運が大きな幸運を導き出すこともあります。その意味で本当に良運・不運を判断するのは最後になってみなければ分からないことなのです。

 人生には波があります。幸運を維持し続けるよりも、不運をばねに成功を掴む方がどれほど楽か、一時的な不幸は、大きな成功を掴むための助走に必要なのです。それを知らない人が、占いに凝り、霊能者と親しくしても、気安めにしかなりません。そしてくつろいでいる間に大きな幸運を見逃すとしたら、何と滑稽でしょう。


不幸について

災難

 災難に巻込まれる事が多ければ、その原因を、外部に求めるよりは自分の中に求めるのが自然な成り行きでしょう。ですが、わざわざ不幸を望む人はいませんから、「憑き物でもあるか、前世か祖先の悪行が世に出たか……」と悩む人がいます。

 災難は、悪意よりも未熟さ、不運よりも要領の悪さが生み出すものです。ところが人々は自分の未熟さ、要領の悪さを棚にあげて、災難を歎きがちです。しかし、自らの中に、原因があるなら、解決策はあっても、逃れる手段はないことを知るべきです。

不幸の意味

 たとえば、自称霊能者、または、占師から「あなたは近々不運に見舞われる」と指摘されたとします。しかし日々様々な体験を重ねる人生において、すべてがうまく行くことはまず有り得ないでしょう。

 つまり、人は日々、少なからぬ不運と向き合いながら生きているのです。同様に「あなたは近々、幸運に見舞われる」というのも、当たって当たり前の話しなのです。問題は、「だからなんだ……」という事なのです。

 細かな点を拾えば、人生にはたくさんの幸運と不運が詰まっているのです。まして、小さな不運が大きな幸運を導き出すこともあります。その意味で本当に良運・不運を判断するのは最後になってみなければ分からないことなのです。

幸福の意味

 人生に意味・意義を見出せなければ、不幸を感じる暇はなくても、または、充足感に包まれていても……幸せとはいえません。少なくとも、そんな幸福感は、追いかけ続けていなければ三日と持ちはしないでしょう。

 ですから、私は心がけます。小さな災難も、小さな幸運も、より良い人生を育むために用いるように。そして、相談者に対しても、災難から逃れることよりも、災難を生かして幸せになる事を助言しています。

 ですから、私につまらない回答、つまらない保証を求めないで下さい。人生には小さな幸運、不運がたくさん詰まっています。しかし重要なのは結果であり、小さな不運に惑わされて大きな幸運を逃さぬ様にして下さい。

満足

 人が豊かであると自覚するためには、どれほどの物質的なゆとりを必要とするのでしょうか。どれほど与えられたら人は満足するのでしょうか。ある人は、自分のお腹が満たされるだけで満足します。ですが世の中には、使い切れないほどの財産を得てもまだ、不足を感じる人がいます。

 地上に生きる人はみな、不足と争い続けねばなりません。肉体を維持するためには様々な物資が必要なのです。ですが、物資でお腹を満たす事が出来ても、心を満たすことは出来ません。出来るのはせいぜい忙しさに不足を忘れさせることだけなのです。

 不足を感じている人に与える事は出来ても、満足を知らない人を満たすことは出来ません。あなたが満ち足らぬ想いに、心悩ませているとして、必要なのは、満たされることなのか、それとも満足を知ることなのか、一体どちらでしょうか。

 真の問題を知らずに、解決は有り得ないのです。満足を知らぬ人が不満を抱いていても、底の抜けた桶に水を溜めるような努力が必要とされます。水を注ぐ前に穴を塞がなければ、どれほど努力しても実りはありません。

 同様に、気の利いた人が、満足を知らぬ人に援助の手を差し伸べることはありません。この事はとても大切です。援助を受けるには、受ける人物の器が大切なのです。人物の器が小さければ、周囲が努力しても、援助の大半は溢れて地面にこぼれてしまうでしょう。それでもまだ、器に何がしかが残るなら幸いです。 全く何も残らない人も世の中にいるのです。

 しかし、同じ不足が問題であっても、足りずに困っている人を助けるのと、満たされずに困っている人では、手段が大きく違います。しかも満たされない人は、餓鬼にまで落ちぶれて、自分の心の痛みを紛らわせるためには、人を苦しめることも平気になる事があります。

 考えて見てください。底の抜けた桶をいっぱいに満たさないと、あなたを苦しめる人が目の前にいるとします。あなたに、何が出来るでしょうか? そして何をすべきでしょうか?

 あなたの答えは、あなたが餓鬼となった時に、周囲の人から受ける仕打ちなのです。心して下さい。


愚痴はやめよう

愚痴とは

 愚痴とは『言っても仕方の無い事を口にして嘆く事』とされています。

 口にする不平不満について、愚痴といわれると、反論したい人も多いでしょう。自分の心の中の不平不満については、他人が理解を示さなくとも、自分なりに理由があることで、単なる愚痴と片付けられたくないというのは、人間の心情です。

 さて相談を受けるということは、結局、悲観的な考えをする人の相手をするということで、今まで、私は懸命に相談や質問に耳を傾けてきました。しかし、振り返ってみると実に愚かしい事に、言葉に耳を貸す、懸命に頭を働かすということは、同時に霊感をふさぐ事であり、考えれば考えるほど、相談者に対する回答が得られないという悪循環に陥ってしまうのです。

 仕方の無い事にいつまでも囚われずに気持ちを変えて生きましょう。辛い、苦しい、悲しい、そういうメールを送られても、読めば私の霊感がふさがり、読まなければ返事ができないという悪循環に陥ってしまいます。ですから、相談メールには、感情的な説明はなるべく廃して、現状の説明と、解決への希望を書いていただきたいのです。

読まなくても判る

 実を言えば、相談メールの中には読まなくても返事を書ける、というより読まないほうが楽な例も多いのです。

 霊能者なんだから相談内容を書かなくても分かるだろうといった曖昧な内容のメールも届きますが、その返事は傲慢になっている自重せよ、であったりします。

嘆きは不幸を呼ぶ

 また、嘆き、悲しむのは人間の情ですが、情に囚われるのは心の窓を閉ざす事であり、高級霊を遠ざける事に繋がります。辛い時には明るい未来、望ましい解決を思い描くべきであり、目の前の障害に囚われ嘆いていると、低級霊を集めて障壁がますます厚くなるのです。

 感謝の気持ちには高級霊が反応し、恨みや憎しみ、悲しみには低級霊が反応します。これは宗教的な理論ではなく、きちんと精神的な理由があります。

 インターネットで例えるなら、良い映画を見て感動したときには、その感動を分かち合おうと同じ映画を見た同士を探しますよね。または付き合って気持ちの良い友人に対して、その映画を紹介するわけです。反対に自分の不幸を嘆く人は、助けてくれそうな相手を探すか、自分より不幸な相手を探して満足を求めます。

 霊的なものも同様なのです。喜びや感謝の念に反応する霊は、ある程度人を助けるゆとりがある霊であり、大抵、きちんとした守護霊団に属しています。ですからそのような霊と日常接していると、非常時には芋づる式に必要な能力を持った霊を呼び寄せる事が出来ます。つまり守護霊団の上部から有力な高級霊に支援を要請してくれるのです。

 それに対して、不幸に反応する霊は、努力して現状を打破しようとはせず、自分が一番不幸な存在ではない事を確認したいだけですから、非常時に助けを求めても放置するどころか、むしろ不幸に手を貸すことさえします。ですから不平不満を言って、低級霊に取り巻かれると問題の解決がとても困難になります。

 まれに、霊界で修行を始めたばかりの霊のように、勉強した事を実際に試したくて、不幸な人を捜し歩く例もあります。が、そのような霊も苦しんでいる人が不平を言っているうちは事態が好転する事が無いと知り、あきらめて離れていきます。

 ですから、まともな高級霊は、不平不満に反応することは全くありません。例外は守護霊だけです。しかしその守護霊も不平を止めない限り、他の霊の応援を得られずに、途方にくれる場合が多いのです。

感謝の念が最大の武器

 相談を依頼される方は、どうか感謝の念を絶やさずにいてください。

 霊界は想念の世界であり、霊界での遠近は想念によって決まります。

 ですから怯え、憎しみ、恨み、妬みなどの念を持つ事は低級霊にあなたを近づけて、高級霊を退けてしまう事になります。この世においても、恨み言の多い人、愚痴の多い人は、自分より不幸な相手を見つけて安心したい人に好かれ、人生を積極的に生きていく人からは嫌われます。

 あなたの友人が、あなたの不幸と付き合っているのか、あなたの魂と付き合っているのかは、助けを求めた時にはっきりと判ります。あなたの魂と付き合っている人ならばあなたをしっかりと受け止め、あなたの不幸と付き合う人ならば言い訳で逃れようとするでしょう。

 善い魂を友人に持ち、自らの不幸には友人を与えるべきではありません。

 そんな事をすれば「不幸」が「不幸」をつれてきてしまいます。 「不幸に集まる友人」を退けるのは、あなたの感謝の念と理想と希望なのです。

善き想念を持つ事

 私の霊力ではないからこそ、個人を超越した力が期待できるのであり、個人の力ではないために除霊は公平なものとなり、追い出された霊たちの逆恨みの余地がなくなるのです。ですがあなたが怯え、憎んでいれば、あなたが呼び寄せられるのは低級霊ばかりになってしまいます。


愚痴は心の安全弁です。 たまに愚痴をこぼすのは身体にも心にも良いのです。 でも同じ内容の愚痴は三回までにしましょう。 それ以上言うと自分が情けなくなって, かえって辛くなります。


悩み

2006-04-15

悩みの無い人生などありえません。 しかし、悩む必要の無いことに囚われて、人生を無駄にしている人がいます。 その悩みは、本当に悩むべきことでしょうか?

 悩みに苦しむ人に、神経症的な問題は多々あるとして、または、霊的な障害が見受けられるとしても……あなたの悩みというのは、はたして、悩んで解決することでしょうか。単に、現実を受け入れるべき事だとしたら、悩むことによって、一体いかなる解決がありえましょうか。

 あなたは悩んでいるつもりでいて、実は自分を苛めているのではありませんか。

 たとえば、自分の容姿や才能に関して、悩むことでどうして解決するというのでしょうか。むしろ必要なのは、欠点を長所に転じる努力であり、自分の持って生まれた、容姿や能力を充分に生かして、より良き人生を歩むことのはずです。

 悩んでいるつもりで、実は自分苛めに努力していませんか。あなたが自分を苛める……すなわち自分の欠点・短所を思い悩んでいるなら、心安らぐ暇無く、生きることがとても辛いはずです。

 世間には充分に敵がいるのです。せめて自分ぐらいは味方につけましょう。


嫌い!

最終更新日 2002年12月24日

 ○○が嫌い……という、相談への回答を整理してみました。


 

 最初に

 対象は、それぞれ異なりますが、人は意味もなく在る物を嫌悪する事があります。これは大抵、自身の欠点や生涯の課題を暗示しているのです。 克服しない限り、解決は有り得ないのです。

 心霊嫌い

 心霊を嫌うのは、霊感が中途半端に強い人に多いのです。あまりに貧弱な霊感の持ち主は、怪談話に実感が湧かずに素直に楽しめ、反対に、霊感が強すぎると、怪談話に作り物を感じてしまいます。中途半端に霊感が強い人だけが、怪談話に笑えなくなるのです。

 ですから、心ある人は心霊否定論者に対して、説得を試みてはなりません。往々にして、否定論者は否定を目的にしているのではなく、自己の恐怖感と戦っているのですから。怯える者を追い詰めたり苛めたりしては成りません。たとえ相手が、冷静を装っていても。

 同性、または同業者が嫌い

 その世界には、その世界の者でないと理解できない問題があります。同じ立場に身を置く者同士だからこそ、分かり合える問題があるのに、同じ立場の相手を嫌悪するのは自己の内在する問題を直視しないことの証とも言えます。

 実は私は、心霊サイトが嫌いです。ですがそれは……自己の内在する問題というより、立場の内在する問題について、よく理解するからだと私は認識しています。

 指差し示すことが出来ない象徴的な世界を扱うがゆえに、机上の空論や独善、そして見当外れの価値観といった、様々な障害が心霊研究の前に横たわっているのです。そして、私は自分のサイトについては自身で責任を負わざるを得ませんが、他人まで責任は負えないのです。

 因縁というのは解決のチャンスを逃さないもので、自ら克服するまでは、常にトラブルを引き起こし続けるものなのです。つまり現実逃避する人は、常に周囲に争いの種をまき散らし、決して落ち着きがないものなのですね。そして、敗北を悟れるだけの知力がある人はいつまでも無駄な努力はしないものです。結局、自分の問題を自覚しない人は大抵、破滅するまで争いを続けてしまうものです。

 そして、注意すべきは喧嘩は両成敗ということです。互いに歩み寄れない関係を維持するには、非常に多くの犠牲が要求されるのです。ですから争いに至る前に手を引くことが肝要でしょう。自分が現実を受け入れ難くても、相手が現実を受け入れ難くても、その交流は忌避すべきであると私は思います。


ほめられたい!

04年 07月 02日

 

 人は、褒められたり、感謝されるとうれしいものです。ちょっと褒められたりすると、もっと相手を喜ばせたくなってしまうものですよね。特に今時、学校や会社においては減点法で自分の能力を測られて話題に上るのは失点ばかり。雑踏に踏み出せば右を見ても下を見てもすばらしいものばかり、思い当たる「くだらぬもの」はなんだか自分だけに思えてしまう世の中……「世の中は、虚飾と偽善に溢れている。見かけよりも心が大事!」と、いうのは容易いが、虚飾と偽善に流されず言い切るのも難しい世の中。自信が足りぬからこそ、なおさら褒められたり、感謝される事に甘美さが募る……

 だ と す る と ……

あなたは、人を喜ばせるために努力しますか?

それとも、人を褒める事に努力しますか?

 つまり、自分が欲しいものを懸命に求めるのか、自分が欲しいものだから人に与えようとするのか、どちらでしょう?

・・・・・・・・

 もっとも、あまりに賞賛や名誉に飢えている人が、他人を賞賛してみても餓鬼が笑うかのように、不愉快に思われるかもしれませんが……

余計な事をするな

2006/04/13

 悩み多き人は、悩み多きが故に悩むことを止められない。なにしろ、あまりにも片付けるべき問題が多くて途方に暮れる。……だからこそ、他に救いを求めるわけだが、面倒を嫌うのは人の常である。

 だが、問題解決力のある人は、全てを一度に片付けようとはしない。一つずつ順番に片付けていくのである。

「千里の道も一歩から」……一歩ずつ進んでいけばいずれは千里の道程も走破する。だが、足を踏み出す前から「千里」の道程の遠いことを恐れ悩めば、前に進むことは出来ない。

 人が悩むべきは、その一歩を踏み出すか、出さぬかであって、千里行くか、万里行くかは、その後の話なのである。

 というわけで、どんな多くの悩みに苦しんでいる人であっても、コツコツと問題を一つずつ片付けていくなら、いずれは全てを解決して幸せを掴むことが出来る……というのは机上の空論である。

 実際的には、一つ一つの問題に横着(または横柄)に接しているから、片付いたようで片付かず、気がつけば問題の真ん中で身動きが取れなくなってしまうのだ。千里の道を駆け足で……たちまち息切れをするどころか、足を折って歩けなくなるなどという話はざらにある。

 問題を拗らせるのは、問題が難しいから……そういう事例も確かにある。だが多くは、横着者が問題を拗らせているのだ。だから、多くの場合、面倒な相談事は解決しない。問題が面倒だから解決しないのではなく、相談者が横着(または横柄)だから解決しないのである。


 ところで、私の師ならば、こういう問題を実に手際よく解決する。それも一見、実に不条理な方法で解決するのである。

「先祖供養をなさい」……具体的な方法についての指示もあるが、個人宛の処方箋を真似ても意味はない。……で、当事者が先祖供養にいそしんでいる間に状況が好転していくのだから、面白いというか、不条理というか。この結果だけを見聞きすれば、先祖供養をしてみようかという気持ちにもなるだろう。だがそうは問屋が卸さない。御利益目当てで祖先にゴマをすってもダメだというわけだ。(素人解釈では)

 念のために明記するが、私はそれほど大袈裟な先祖供養などはしていないが、墓参はかなりの回数出掛ける。先祖供養万能論者ではないが、先祖供養無用論者ではない。……ただし、師匠が先祖供養を勧めて良い結果が出た事例を見ても、それはご先祖が供養に応えた結果であるとは思わない。何しろ私の見回す限り、先祖供養にいそしんでも必ずしも良い結果が出るとは限らないからだ。師が介在した事例だけが、突出して先祖供養が好結果をもたらしているのである。

 今小耳に挟んだのは、『偽薬効果も大きい』という霊言だが、それもあるだろう。にしても、先祖供養が幸運への直接効果を持っていると考えるのはやはり怪しい。

 そもそも祖霊等は、子孫からの供養の有無に関わらずに、子孫の繁栄のために努力しているのだ。むろん、恩知らずを大切にすれば世間に申し訳ない、といった、道理の上での条件が多々あるが、決定的な要因は、先祖供養そのものではなく、当事者が小細工を止めることだ……と、感じている。ただ、「小細工を止めよ!」といっても、ヒマになればついつい余計なことを仕勝ちなのが人間であるから、先祖供養に努めさせ、余計な考えを持たないようにし向けているのである。

……いや、先祖供養は大切だと思うし、実際、先祖供養に努めている人を見るとそのオーラが明るく、時折祖先の霊とおぼしきものの笑顔が見えたりして好ましいものである。が、先祖供養を過大評価するのも、過小評価するのも、いわば短絡的な発想と思う。手段というのは、目的を達成するためにあるのだから。なにより、人は論理よりも情理や心理に強く影響を受けがちであることを理解すべきだろう。

 先祖供養はささやかな直接効果しかもたらさないが、上手に使えば効果は増大するのである。


2006-04-13

なぜ守護霊が応えない?

2006/03/25

2006-03-25


 時折、変な質問が向けられる。変な、というか、筋違いな質問をしている事を当人も自覚しているのだろう、聞き返すと話題を変えてしまう。

「なぜ私には守護霊が応えてくれないのだろう」……私は、「誰でも祈れば守護霊が応えてくれる」などといった覚えは全くない。いった覚えのない事を、なぜと問われても返答に困る。むろん、中には応えを得られる人もいるだろうし、応えを得るために私は精神統一の指導を行っていてそこそこ実績も上げているのだから、あながち「デタラメでも教わったのでしょう」と答えるわけにも行かない。

 ただ、それぞれの質問の前後を考えると、行き詰まってこういう質問をしていることはよく分る。するとこうもいえる。

「御利益信仰に陥ったな」と。つまりは、「商業主義に丸め込まれたな」 ……と。商業主義が本当に潤すのは商売上手だけである。消費者が真に豊かになったなら、売り手はそれ以上売れなくなるではないか。価値がありそうで価値のない、いわゆるバブルを扱いたがるのが商業主義なのだ。


 

死者の供養について

2006/03/23

2006年 03月 22日


 死者の供養は、どうしたらよいか、という質問が時折寄せられます。大抵の方は霊媒を、供養の専門家の様に思っていらっしゃるようですが、そういう儀式的なことは、僧侶や神官の事業であって、一部(大部分?)の霊媒が、その事業の一翼を担っているとしても、それは本来の霊媒の仕事とはいいかねます。

 例えるなら、結婚式と結婚の違いとでも申しましょうか。いくら盛大に式を行ったところで、新郎新婦の間の絆が充分でなければたちまち離婚の恐れがありますし、一方で、式らしい事は何もせずとも当人の絆が充分であれば、長く添い遂げることになりましょう。死者の供養も同様であって、墓参の回数や、仏事・神事の経費が大切なのではなく、遺族の真心のどこにあるかが大切なのです。

 そして、心霊家としていうなら、人が生まれてくるときに医師や助産婦の助けを得るように、人の死ぬときも死後の世界で高級神霊の援助を得ているので、概ね地上側の手助けは必要とはいたしません。理想をいうなら他界への再生を祝福するぐらいが良いのですが、これを広言すると、「まったく心霊家というのはけしからん。人が死んだらお祝いをせよという。遺族の気持ちを逆撫でしおって、お祝いは、お前が死ぬときにすればよい」…… などという面倒な話になるでしょうから、私は口を噤んでおります。

 ただ、少なくとも肉体の死というのは、戻ることの出来ない一方通行の道行きなのですから、行く者の後ろ髪を引くような態度だけはなるべく慎むべきだと思います。……悲しくとも、「行った先に早く馴染むように」 という励ましこそが死者には必要ですし、生き残った人に取ってみれば、 いなくなった生活に早く馴染むことが必要なのです。その辺の理解が足りない哀悼の言葉が世間にとても多いとおもいます。

 そもそも人が生まれてきた以上、人が死ぬことは避けようがありません。死は自然であって、不死こそが不自然、いや、生きていることすら実は奇蹟と呼ぶべきかも知れないのです。それをわざわざ自殺する者もおりますが、価値や意義が分らぬ者をとやかく言っても始まりますまい。

 その本来、自然である死ですが、準備もなく死を迎え、そして、逆戻りが出来ないとなると、往々、ごねる人が出て参ります。地上に再生するにあたっては事前に心の準備が出来ているものらしいのですが、死ばかりはなかなか、人格が出来上がらなければ教えて貰えないもののようです。かくして、霊媒の出番が参ります。

 死者の供養に関して、霊媒が為すべきは、墓相や供養法の心配ではありません。準備不足で戸惑い、地上に未練を残してごねている霊魂の心配を取り除くことなのです。……と、私は信じています。むろん、霊媒の数だけ意見はありましょうし、物事には需要と供給の関係もあります。

 が、神は騙せない……因果は眩ませず……と申します。ようするに、当人が努力した以上の高い境遇には、いくら霊媒に金を積み上げても、押し上げることが出来ぬのです。この点は、しっかりと吟味していただきたく思います。

・・・・・・・

 では、霊媒である私が、どういう供養をするか……私が心掛けていることをご紹介するなら……

 まず、心にゆとりのある時には、たびたび線香を手向け、静かに祈ります。……線香は良いものを一本だけ、大切なのは価格ではなく、心安らぐ香がして煙が少ないものを選ぶことです。それはつまり、祈りが穏やかになるための香の演出ですから、マメな人ならばアロマオイルを使っても良いし、コロンなどを使うのも良いかも知れません。

 花もあればよいのでしょうが、私は世話が下手なので、枯らすことを惜しんで、花には手を伸ばさぬようにしています。といって、造花等というまがい物はかえって心を汚す気がして手を伸ばしてはいません。

 墓参りは、なるべく家族のものと都合がついて、無理がない程度に頻繁に行きます。大切なのは、共有する時間だと考えます。

 まあ、この程度でとやかくはいわれずにおります。

 ただ、このやり方で済むのは、私の事情があるからで、人によっては前世の因縁などで、三界万霊(といえば聞こえが良いが)というか祀るものの無い無縁仏を延々と供養しなければならない人もいるようで……それはそれ。兎も角自分の都合を優先するのは、大過の可能性はあっても無事の保証は無いとお考え下さい。

 この辺は、霊媒に質問しても適切な答は得られないと思います。なぜなら、助けて欲しくても、助けよ!と主張できないのが日本人(当たり前か?)……良いよ、といいつつ、でも無視をすると嫌がらせをする霊も多いからです。日本人て、本当に面倒です。


霊感を鈍くしたい

2006/03/09

06年 03月 09日


 霊感を鈍くしたいという願いは、経験した者でないとまるで理解できないことと思う。霊感の自覚のない人は霊感を強くしたがり、霊感の自覚のある人は、霊感を鈍くしたがる。この一見、滑稽な事態は霊感のいかなるものかを認識する者がいかに少ないかを意味する。

私の経験から

 私は本来、心霊相談を開設することなどに全く興味がなかったし、今でも全く未練がない。ただ、霊感発現当時、高校生で親に相談すれば親はおびえて役に立たず、心霊相談をさがすにも高校生のこと、金がなくてどうにもならなかった経緯がある。結局、紆余屈折、いろいろあって現在の師に巡り会ったが、それも恐怖で約半年間引きこもっていた状態を自力で脱出した後のことである。

 さすがに当時のことを思い出すと、未だに鳥肌が立つようである。今は充分に知識も技能もあり、同時に過敏状態を克服しているので、同じ目にあってもどうということはないが、恐ろしいと思うのは、自室で布団を被ってガタガタ震えていただけの日々が、いかに危うい状態であったかを理解しているからである。……良く自殺しなかったな、と思う。もっとも、あの状況下で自殺しても肉体がない分だけ低級霊の支配を強く受けることを理解していたからこそ…… 死ねばかえって救われない状態だとかえってそれが恐ろしくもあった。

 当時の経験のあまりに重苦しいことの清算が、実は私に心霊相談所の開設を決意させた。確かに霊障も辛かった。でも相談する先もなく、金もない当時の自分が、途方に暮れて日々を送ることが遙かに辛かったからだ。過去の自分を救うためには(つまり自分の苦労を無にしないためには)、同じ苦しみを持つ人を救わねばならぬと信じたのである。

 親切な人は多い。だが、有益な知識技能の持主があまりに少なかったから、心霊知識の普及が大切だとも思った。ところが、知識を生かすべき人間の素養を強化せねばならぬ事にも気が付き、精神統一の指導も始めた……ナンセンスというか、泥沼といおうか、自分の霊障は、まあ境界を引くことは困難ではあるが一年ほどで解決した。そのアフターケアが、余程困難な大事業というのは、何ともはや振返ると自分の愚かさが悲劇にも見えてくる。なんと悪霊よりも神様のほうが手間が掛るらしい。

 

そして心霊相談を始めた

 そうして心霊相談を始めたことを……隠しきれず(あたりまえだが)私の師は一笑に付した。

『人に頼って楽しようとする人なんて、救いようがないのだから』……これについては、霊障解決よりも遙かに多くの経験を積むことになった。数の問題ではなく、私の心に強く印象が残ったという意味でだ。

 ただ、見通しに楽観を与える知識もあった。基本的に、霊障の大部分は人間側の誤解がその原因にある。糸口が見つかればトントンと解決していくことが多いのだ。問題はその糸口が見つけにくいことである。…… 糸口が見つけにくい理由の最大の原因は、霊障を腕ずくで解決する類の迷信があまりに世に多いことにある。または、独りよがりな考えというか― ―助けを求めて来ている霊は、助けが得られなければそのうち去っていくのに、ヘタに素人除霊などをするから逆ギレされ、拗れて居座られてしまうのである。こういう事例が相当に多い。

 つまり、霊障の大部分は霊力がなくても解決するのである。むしろ、霊力が徒《あだ》になることがとても多い…… 悩めるときほど人の本性は現れるというが、必要なのは力ではなく、誠意なのである。少なくとも、相手が自分よりも強く、そして、数が多いときには。

 

誤解要因のあれこれ

 背後から注意を受けたが、なるほど誤解要因について記しておくべきだ。 特に霊媒初心者が、霊障を拗らせる理由の一つに「痛みの共有」がある。たとえば、あなたが自分の痛みを誰かに説明するなら、顔をしかめて、お腹をさすりつつ、「お腹が刺すように痛いんです」等と説明するだろう。だが、霊媒相手にはもっと効率の良い方法がある。痛みを共有・共感して貰うのである。… …これはてきめんに相手の痛む場所とその強さを理解することが出来る。と、同時に、こんな面倒事はなるべくせずに済ませたいものだ。

 便利だが、厭なこと……痛みを感じるのは、基本的にコミュニケーションであって攻撃ではない。だが人は本能的に痛みを恐れる。当然、共有・共感というコミュニケーションの存在を知らない霊媒初心者は、これを霊障、攻撃であると受止めて反撃してしまうのである。

 もう一つ……人には、救いが必要な時ほど横柄になる、一種、救いがたい人が居る。救いがたい人とは同時に救いを必要とする人でもある。こういう人は横柄さに目をつぶり、メンツを立てつつ影で助けてやるか、面罵して頭を下げさせるかしないと、やっかいな態度をとり続けるものだ。

 霊障を起すような悪霊というのは、上記のような人のなれの果てなのだ。……その解決法は推して知るべしである。

 

相対問題

 また、他の霊媒が言うことの中に、私が疑問に感じることもついで心の隅に留めて欲しい。

 敵が強大であっても、味方も強ければ害を受けない。 敵が非力でも、味方がいなければ侮れない。 味方が強くても意思疎通が悪ければ力を発揮できないし、敵を侮れば自分のミスが大きな害を生む。小さな障害でも、長い間少しずつ嫌がらせを受ければその害は計り知れない。

 物事というのは相対的な見方、全体を見通してこそ、始めて正しく認識が出来るものだ。それをしないで、「強い悪霊だから大変である」とか、「加護が強いので大丈夫」というの意見は、あまり助けにならない。まして、本当に障害を及そうとする霊なら、当人に憑依するよりも当人に死活的影響力を持つ人を標的に憑依する法が効率がよいのである。つまり、家庭で障害が起っているとしても、それを個人を標的とした攻撃と考えるのは適切とはいえない。もしも個人攻撃を目的とするなら、勤め先やら、取引先に工作すると考えるべきなのである。

 障害が、個人攻撃を目的としていないなら……除霊や封印やらという、スリラーめいた対処が拗らせると恐れるべきである。

 

でも効験あり

 かくいう私の言説がまともに見えて、迷信じみた用語の多い霊媒(特に御高齢者)を侮るべきではない。いっていることがまるで無茶苦茶なのに、問題解決力のすごい霊媒というのはあまた存在する。……なんのことはない。霊媒というのは氷山の一角、その霊力の源は、霊界にいる擁護団、背後霊団なのである。つまり、霊媒抜きでも問題解決は可能なのである。

 反対に、いくら理論整然とした霊媒であれ、背後霊が貧弱であれば出来ることに限界が生じる。そもそも理論構築は霊媒の仕事というよりも、研究家、もしくは審神者(さにわ)の仕事なのである。ただ私の場合、他に信頼できる者が見いだせないから自分でやっているだけのことだ。

 言うことが無茶苦茶でも霊力がある霊媒を相手にするときには、言動で見下したりせず、また礼金で頬を叩くような考えを持つことなく、失礼の無いようにすべきである――少なくとも私ならへりくだる。仁徳篤い祖先を持っていたり、想像もつかぬ荒行経験や、豊富な人助けの実績を持っているからだ。何しろ、背後霊達が大切に守っているのであるから、大切にして損はなく、敵に回して良いことはない。その会話にではなく、その体験に価値があるのだ。たとえば私だって寒中の瀧行ぐらい進んで行うが、早朝に腰まである雪をかき分けて瀧行場に行くなどという修行は出来そうにない。…… こういう迫力のある霊媒等の世代交代が進んでいるのはとても残念に思う。

 それはともかく……

 霊障問題の大多数は、あの世だけで解決可能なもの……ただ、霊達が問題を認知していないだけである。残る一部は、人と霊との相互関係に問題があるもの……この場合は仲裁者(霊媒)が必要となる。そして中には、一方的に人が悪い場合もある……この場合は、霊媒が取り直しても解決しないこともある。この三分類が、「霊障の大部分は正しい心霊知識が無いために起る」という所以でもある。

 もしもあの世だけで解決可能な問題であれば、素人祈祷でも十分に効果が生じる。要は問題提起があればよいのだ。ただし、仲裁が必要な場合は、やはり経験ある霊媒に頼らざるを得ない。……もっとも仲裁が無くても先方が諦めてしまうこともあるようだ。

 とにかく基本は、あの世のことはあの世で、この世のことはこの世で、仕事を分担してそれぞれに分を尽すことが大切である。逆に言うと、背後霊団を持たない霊媒は苦労を免れないとも言える。

 

あの世のことはあの世で、この世のことはこの世で

 むしろ難しいのは霊ではなく、人である。霊障を受ける要因が人にあるなら、その人が変らなければ問題は解決しない。だが人が変化するのはとても難しいのだ。霊と比べて感性が非常に鈍重。しかも物質と関わりが深い日常を送っているので、気持だけが少々変っても、肉体やら生活習慣やらの影響で又元の気持に戻ってしまったりもする。

 無理に気持だけが変れば、日常生活や肉体の生理面に無理が生じて病気をしたり、怪我をしやすくなりもする。

 あの世のことはあの世の連中にケアを任せておけば良いのだが、霊媒が担当すべき、この世の連中のケアはとても面倒である。何しろ、知識が足りない。知識があってもそれを生かす素養がない。目先の安心を求めて、安易な選択をしがちであるし、すぐにおたおたし、不安に流され、疑心暗鬼に陥り、ねたみ、ひがみ、腹を立てて墓穴は掘る。感謝すると泣いて見せてものど元過ぎれば熱さを忘れてまた同じ事の繰返し。

 時折、霊障に苦しむ人を見て、無性に除霊したくなることがある。霊ではなく、その人をだ。……それは私の担当ではないのだが。責任転嫁の多い人を相手にするのは難しい、私が逃げるその前に、背後達が嫌がってしまうのだから。


疑り深いと騙される

2006/03/09

2006年 03月 08日


 家庭に不運や病人が多いことから、風水、お祓い、東洋医学などへの関心を持ち始めた人が、いろいろと話しているのが、聞くともなく聞えてくる。

 経験値を増やしたがっていた頃の私ならば、または、自分を試したかった頃の私ならば喜んでくちばしを挟んだかも知れない。まして、まんざら知らぬ中でもなし、また、その人のお父様の霊から、何かにつけて、「助けてやってくれ!!」と懇願されたこともあるが、今回もまた断るべきであろう。

因果不昧

「因果不昧」――因果はくらませず。つまり因果の法則からは逃げられないことをいう。

 内在する因の解消に努めることなく、縁だけで結果を変えようとするのは無駄で不毛な努力だ。なにしろ、努力に応じて一時的には解決して見えるのである。ここでまんまと味を占めた人は、次々と因果をくらませようとするが、問題は先送りされただけで何も解決しておらず、自分が弱っているときに突然、すべてが降出しに戻ったりするのだから。高利貸からの借金で借金を返すようなものだ。無駄な努力が即座に無駄な結果が出るなら人に何ともわかりやすいが、悪い結果が出るのに時間が掛るから、無駄な時間を費やした上に利子まで付いてその返済に途方に暮れることにも成る。ところが、目先の利益である、「因果をくらます」事に気取られている人にこういう原則論を告げても理解しようとしないものだ。だからこそ沈黙を守ることに意味がある。

……といえば、なにやら厳かに思われるかも知れないが、横着者のおっちょこちょいが不運を招くのは、どんな神様の御札やお祓いだって解決しないと思うだけだ。さらにいえば、横着者が体を冷しがちで、冷えから来る病気にかかりやすいのも…… こういうことを言いだしたらきりがない。

そう、人の努力の余地あることを神頼みするのはナンセンスでしかない。

 ましてや、お節介じみた小言を聞かされるよりも、迷信を信じる方が気楽なのが人情で、それ故に、名ある霊媒が「狸の霊をとっておきましたが、あなたも○○に流されぬように注意しないと、又取憑かれてしまいます」等というとか。私にはこれが出来ない。なにしろ、無料相談なのである。よそで相談して念のために私の所に来る相談者も多いので、こういう詭弁を使うと事態を混乱させ、また善意で自分の立場を悪くしてしまうだろう。つまり、ばからしいのである。因果をくらませずに問題解決するのだって難しいのに、因果をくらませようとする根性を正すのはもっと難しいし、何より当人に直す気がないものを治そうとするのは不毛でしかない。

「私は疑い深いから」

 因果不昧に関することは常々思っていることを整理しただけであるが、耳を塞ぎたくとも話は更に続いて、ハッとひらめきをもたらし言葉がある。

「私は疑い深いから全部を信じているわけではないのだけど……」という、一種のいい訳じみた枕詞を聞いたとき、私の霊耳に、
『疑い深いから騙される』と聞えたのだ。やれやれ、ようやく人の話の立聞きから解放される…… この霊のいうことに耳を傾けてみる。

・・・・・・・

 疑い深いから騙されるのだ。

 ここでいう、疑い深いとは、つまり自分の知識と理解から外れたことを信じないということである。だが、理解しなくとも効果を眼にすれば、理解しないまま利用しようとするだろう。そして、力を利用するのに、正しい使い方をしらずにいることほど危険なことはないのである。

 むろん、彼が疑っているのは他人の力、専門家の力である。だが、その専門家なるものも、誠意を尽すために施術するのではなく、金を儲けるために施術をしているのである。理解しないまま専門家を利用しようとすれば、そこに騙される余地は多分にあるし、それ以前にすっかり霊的事実を誤解しているのではないか。これでは何を得られるのやら。

 自らの愚かさと、依存心を隠そうとして、「疑い深い」等といってみても、それは騙されやすさを他人に表明しているようなものである。いうことの一から三まで正しくても、十や百まで正しいとは限らない。疑問を真摯に見つめる者であれば、一つ二つの誤解があっても大筋に過ちなく真実を明らかにする者であるが、己の理解力の貧しさを、「疑い深い」等と言訳しているような者であれば、一つか二つの証拠を観ただけで、十も百も千も信じてしまうだろう。―― 宗教や心霊を扱う者の良くやる失敗である。とくに、疑い深い者が深く傷つく失敗である。

 盲目的に信じることが危険であることはいうまでもない。だが、誠実なる者ならば、「あれは怪しい」という周囲の助言にさえも誠実に応対するであろう。しかし、不誠実な態度の者ほど騙されても助言を得られず、頑迷な者ほど手玉に扱われやすく、愚かさと無理解さを自覚せずに「自分は疑い深い」等と自分自身を騙している者が他人に騙されても気が付かぬものである。

 疑うよりも誠実であれ。誠実であれば小さな裏切りを無数に経験するとしても、大きな裏切りからは守られるものだから。

 まして人間関係には誤解が伴って当り前であるから、小さな裏切りと、小さな誤解を踏越えていくことがどれほど人格陶冶に有益であることか。だが、愚者は小さな修行を嫌い、避けて、大きな修行を乗越えられずに挫折するのである。……しかも、何度、再生を繰返しても同じ過ちを繰り返す。プライドが邪魔をして課題のレベルを下げられないのだ。


悩み癖は体質

2006/02/11

2006年 02月 10日


「悩み癖は体質」――と、私は考える。

 悩む癖のある人は、得てして行動しないために悩んでいるかのようだ。

 無論それは霊視による見解ではなく、客観的な観察により、他の誰かにその事を指摘すると、概ねの同意を得られるものだ。しかし、当人にはその自覚が見られない。――だからこそ、重大な問題と考えるべきだ。

 周囲と当人の見解が異なるということは、周囲の助言が往々、当事者の反発を受けるだけで終わるということなのだから。

 ましてや、その悩みの隠れた動機が、「行動しないため(の言い訳)」にあり、周囲の助言が「行動せよ」であるなら、当事者の反発的な言動のすべてが、「行動しないため」という動機を補強してしまうのである。

……つまり、救いがたいということだ。

 救いがたいという言葉には、「見放す」とか、「愚か者」、といった意味合いが含まれているが、ここで扱っている「救いがたい」という表現にも無論そういう意味が含まれていなくもない。が、端的にいって、論理的に援助が困難、援助がますます混乱をもたらす、という状況を示しているのである。それを、悩み癖のある人は「『救いがたい』なんて、なんて情のないことをいう」……などと思うであろうから本当に困る。悩む人が答を得られないのは、堂々巡りに陥っているからである。

 堂々巡りに陥っているなら、考えることを一時止めることが大切なのだが、悩み癖のある人はそれを止めない。論理的に悩むことに意味がないのにも関わらず……当事者以外の目には、行動しないために悩んで見せていると思われるのである。…… ところが実際は、悩むこと以外のすべてが「行動しない」という動機に従っているのだ。

 いや、その事実を知って、当人は、釈然としないものを感じるかも知れない。「私は充分に行動力がある。ただこの問題については……」

 どこに向かうというのだろう? 急な坂道は頂上への近道、だが、坂道を下れば頂上から遠ざかるばかりだ。安逸な選択は試練を増すばかり、行動とは必要に応じて起すべきであって、意義も必要性もない行動は、楽しくはあっても役に立たぬ事が多いものだ。

 つまり、本質的な行動をしないために、安易な行動をする……すべての言動が、「行動しない」ために、あるのだ。

 どうしてそんなに腰が重い(行動力が無い)のだろう? 車の調子が悪ければ遠出は控える……そんな雰囲気が、悩める人の言動に見て取れるのである。


心霊相談について

2006/01/31

06年 01月 31日


 どうも、いわんとすることのよく分らない相談メールが増え、とうとう、相談メールの大多数を占めるようになりました。悩み多いことはよく分りますし、大抵の場合は、霊感がなくても原因が特定可能と思われる相談もありますが、いかんせん、当事者とのコミュニケーションに障害があるなら、返事を出しても誤解と面倒が増えるばかりとなるでしょう。

 私も敢て悪因縁を増やしたくはありませんので、原則として、新規の心霊相談をお断りしています。

……ここで留意していただきたい。仮に私が本当に親切であったとしても、受手の感性や、事情によっては誤解の種、苦しみの種、憎しみの種に変りかねないという当たり前の事実です。

 窮鳥懐に入らば猟師もこれ撃たずとか――仇であってもかばい立てすることもあるというのです。悪霊だからといって苦しめるとは限りませんし、親切だからと行って下心がないとは限りません。

 受け止め方一つで、善悪への印象がどれほど変るか……今、世の中が乱れているのは、悪人が増えたのか、それとも、悪霊の仕業であるのだろうか……私は、善悪を受け止める人々の心が落ち着きがないからだと思います。

 (魂が永遠の存在であるなら、どうして急に悪霊だけが増えることがあるのか。時代によって悪霊の影響が増えることなどナンセンスだ。問題は受け手の気持ちである。現代は、悪霊に迎合しやすい雰囲気に包まれていて、それこそが問題なのだ)

 それが心霊相談は中断しても、精神統一の指導は続ける所以です。


病心――熟年離婚

2006/01/29

2006年 01月 28日


 実家を訪ねた際、母の友人の愚痴に付合わされてしまった。

 夫の意地悪が酷いという。

 テレビを見ていると、うるさいと怒鳴る。音を止めると光のちらつきが目障りだという。ならば居間にいないで寝ていれば良さそうなものだ。あまり腹が立つので、着替えを鞄に詰め込んで、今すぐにでも家を出て行ける容易をしているという。

・・・・・・

「そりゃだめだ!」……思わず口を滑らし、仕方がないので開き直る。ちなみに、愚痴に付合わされた時、合間に口を挟むのには注意が必要だ。まず、十二分に愚痴に迎合し、相手の悪口をいってシンパシー(共感)を高めておく必要がある。そしてここぞとばかりにならず者親爺を凹ます様々なアイデアを私は開陳した。こういう時の私の話題の豊富さはとても一般に公開は出来ない。

 さて、ひとしきり悪巧み話に花を咲かせた後、私の心中でタイマーが働き、突然我に返って本題に入る。

「ただね、昔、整体の先生に聞かされた話だけど……そういう意地悪な行動って、多くは病心、つまり、身体を病んでいる人の心なんだそうです。つまり、健全な人なら、大らかな態度を取るけれど、具合が悪いとせっかちで意地が悪い態度になるものですよね? この場合も、お医者さんが相手にする程の病気にはなっていないかも知れないけれど、大らかな気持ちでいられるほどには健康じゃないんですよ。

 身体が悪いから、目の前にあるものさえも人に取らそうとするでしょう? (そうだとのこと)、身体が思うように動かせないから人を使うんです。でも、使われた方にしてみれば自分だって楽じゃないのに迷惑で腹立たしいですよね。だから整体に掛かると、腰が軽く(行動力がます)なって、夫婦げんかが減るというのです。

 でも、この状態の悪いところは、当人に不健康の自覚がないことです。当人には、治そうという気持ちはないだろうし、「整体に行け」「病院に行け」といっても面倒がるし、それどころか病気扱いすれば怒り出すのがオチでしょう。つまり、治せない、どころか、治そうとすればかえって悪くなるんです。

 せめて、治せるなら愚痴をこぼしながらも生活できるだろうけれど、治せないなら離婚した方が良いかも。だって、病気は治っても、老化は止められないし、老いればますます腰が重くなっていくだろうから、これから先、性格が良くなる見込みはとても薄いですよ。」

・・・・・・

 いや、熟年離婚って、経済力がなければ出来ないだろうけれど――私の周辺では、まとまる話と壊れる話が同数であるような……


虐めから生じた霊障

2006/01/23

06年 01月 22日


「職場で虐めに遭い、精神的に追いつめられた頃に霊を感じるようになって苦しんでいる」…… という相談を受けた。何とも同情に堪えない。私の霊感発現の切っ掛けも似たようなものだから、その苦悩はよく分る。

 ところでこの方の悩みは、職場の虐めなのか、霊障なのか、どちらであろう。「二兎を追う者は一兎をも得ず」というが、二つを別な問題と捕えればその解決はとても難しい。――その事はメールを読んでいて痛感した。相談内容が絞り込まれていないのである。

 テレビや映画のチャンバラ劇なら、周囲に群がる敵をばったばったと切り倒していくだろうが、現実にはそう簡単な筈がない。達人は上手に立ち回って、常に敵が自分の前に重なるようにして一人一人倒していったのだという。いわゆる「各個撃破」という手法である。たとえ敵が10人いても、一度に一人ずつなら、一対一の斬り合いを十回するなら勝機は見えるわけだ。

 であるから私は指摘した。職場の虐め、霊障の双方に共通項がある。それは「自分である」と。まあ、自分が強くならねばならぬのは間違いない。しかもそれは、将来受けるであろう障害にまで役に立つのである。ぜひ強くなるべきだ(もっとも私の感じるところ、天然記念物級の親自慢の良い子と見える。これからすれっからしに育てるのは心がとても痛む)。

 そして、その為の助言でメールを埋め尽くした。……結構長文で疲れたが、長文メールというのは要点を見失いがちだ。何のことはない、質問が練れていないから解答も練れないのである。ずいぶん悩んだようであるが、その悩み方が堂々巡りであったのだろう。それもまた苦悩の日々を物語るが、悩むことが解決に結びついていない。

 が、それはともかく、私の同情の結果は、いずれにしても当座の役には立たぬだろう。だが人は今日を生きなければならない。希望も大切だが、希望だけでは人は生きられない。

・・・・・・・

 ところで、私は同じ状況を、発想の転換で乗り切った。これはサイトのどこかに異なる表現方法で何度か書き記していることだが、「自分に複数の敵がいる」……という発想を止め、「自分には味方が少なすぎる」と考えたのだ。

 心素直に神霊に接し、親切・愛他的に人に接す。……それを心がければ、どんな霊障・悪因縁に苦しもうともそれ以上の助けを得られることであろう。それを実践した。いや、今でもそれを続けている。

 むろん、人の世には……そしてあの世にも、大切にすればつけあがる人が大勢いる。与えるものは喜んで受け入れ、与えなければ泥棒に入る輩だ。まあ、賢くならなければならないのである。善良なだけで生きられるほど世の中は単純ではないのだから。

******** 追記 ********

 ところで、職場の虐めと、霊障との共通項は、ただ自分だけであるのか? 色々と空想をたくましくされる方もいるだろうし、私もそう思わなくはない。だが、私の背後は…… 特に守護霊がそれを絶対に明言しないだろう。理由は実に明白だ。

 他に共通項があるにせよ、悩める当事者にどうこうする実力がないのである。ならば今出来ることに全力を挙げるべきだ。それ以外のことはかえって迷いの元、妄想のネタにしかならないのだから。


お知らせBy老神いさお。

・PC再起動成功。
 動かなかったのは湿気のせいか、RAMを抜き差ししたら無事に再起動しました。

・サイト再構築中
移行途中のデータが時折、トップページに掲載されますが、編集作業の都合ですので、今しばらくご容赦ください。旧作については、本文右上に日付が記載されます。
 (最近は復旧する暇がなくて新作が多いですが。)

・東京オフ会: 
 7月度の東京オフ会は7月10日(土)
 に、開催いたします。

・東京オフ会: 
 8月度の東京オフ会は8月14日(土)
 に、開催いたします。

・静岡オフ会: 
 7月度の静岡オフ会は7月17日(土)・18日(日)を予定しています。(申し訳ありませんが、会場は未確保で代替日がなく、中止するかもしれません。)

・大阪オフ会:
 次回の大阪オフ会は10月の予定です。

・ページ更新
 私事多忙で復旧が滞っております。

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