‘心霊相談(事例)’ カテゴリーのアーカイブ

己が慢心を恐れる。

2010/07/31

 もう一ヶ月以上も前のメールが話題である。もっとも、一ヶ月ならまだ早いほうか。

「慢心をして人の道にはずれたことをしないように、また、道を踏み誤らないように」と思い、オフ会に参加した、という人のメールを読みながら、真面目な参加者にありがたくもあり、また、なにやら引っかかるものを感じてはいたが、急ぎ連絡事項のみ返事して、そのままになっていた。

 まあ、「慢心」というキーワードでは色々書く事もあるのだが、本件は、この方の事例に限る。(限れ、と言われた。・・・それもネチネチと。)

 まず、なぜ私が「慢心をしない」というキーワードに引っかかったのか、といえば、

  1. 慢心に自ら気づくことができるか?
  2. 他者から「慢心」と指摘されて納得することが出来るか?
  3. 順番を間違っていないか?

 そもそも、(自らの)心の異常を、(自らの)心が察知するのは難しいのです。・・・物の長さを測るなら、ものさしを使いますが、そのものさしが伸びていないかどうか、他にものさしがなければどう測るか・・・

 また、他者から指摘される「慢心」が、果たして考慮に価するか。人は往々、有能な他者、論理的に勝てない相手に対して、「相手の慢心」を攻撃します。こういう感情論はそもそも相手にする価値もありませんが、それは同時に、他者から指摘される「慢心」という注意に耳を貸さなくなる、貸す意味があまり無い、貸せばますます混乱する。という、不都合な助言でありましょう。

 その一方で、その時々に行いの結果を反省してみれば、そこに「自分の慢心があった」、と思われることも多々あるわけで、では、慢心をどう扱うか、と考えると、答えが出ない。そもそも設問が間違っていないか、と思うわけです。

 心の異常を心が察知することが出来ない。・・・でも、人が恐れるべきは慢心だけか?

 慢心は、人が注意すべき、不適切な心のあり方の一面でしかない。なのに、慢心を恐れるのは・・・

  1. 実際に自分が慢心で失敗しやすい。
  2. 誰かに言われて真に受けた。
  3. 占いとか・・・

 もちろん、一般論として言うなら、人の数だけ原因はあるはずで、これが答え、と、私は論じることはしません。ただ、追いかけるものがあるなら、なにゆえ追いかけるか、その理由を心の隅に置いておくべきだ、とは思います。さもないと、やっているうちに目的が摩り替わったりするからです。

 もしくは・・・慢心を恐れる心もまた、何かから摩り替わったものかもしれません。

 たとえば、子供時分に親から「生意気!」と叱られ続けて、あげく、学校で受けた指導中に「慢心は厳禁です」と言われた二つが結びついてしまい・・・

 そう、いかなる理由から、何を追いかけるのか?

 慢心は心の一部であり、人道を外れるのは行いの一部でしかない。・・・

(まあ、そこまでメールに書かれていた訳でも、霊査として読み取ったわけでもないが)

 恐れれば、行うことを止める事になる。慢心を恐れれば考えることを止めるのか・・・もしくは、慢心なくしてどうして危地を乗り切るか・・・さて、心にあるのは果たして欠点か、それとも、使いどころを待っている強力な道具か、どうか?

 果たして恐れているのか、それとも、自分の可能性を殺しているのか。

 

 結構、人は己を殺している。・・・そうやって人は己のブレーキかけながら、一方では思いっきりアクセルを踏み込んで、無理やり高速で走っているかのようだ。軋むブレーキに苦しみながら。 スピードに恐れるより壊れそうなブレーキに怯えている。

 まあ私は、アクセルよりもブレーキの方が強力な性格らしく・・・あまり良い助言は出来なかったかもしれない。

 

では、一戦交えるか? (補足&こっそり修正)

2010/07/17

(2010年6月26日)

 動かなかったPCが直って、あれやこれやと片付けをしていたとき、友人からメールが届いた。

『最近会社で厄介な問題に巻き込まれて、明日の朝に吊るし上げられるみたいです。そこで、明日の打ち合わせで、冷静に今回の問題で他の人が知らない都合の悪い事をいくつか暴露して、論破すべきではないかと考えています。』

 この友人、冷静に見える風貌の半面、結構、好戦的な言動もまま見られる。メールのタイトル(ブログのタイトルとは若干異なる)もまた、少々、攻撃的な表現であった。が、霊感の強い人にとって、敵意を向けられるのはそれだけで暴力を受けたに等しい。必然的に、勘が強いは、大抵、癇癪も強いもので、勘が強くて、しかも、おっとりしている人もいないではないが、それは奇跡に属すると私は思う。

(一見温厚、言動も穏便、しかも丁寧で、その実、強烈な個性の持ち主、を知ってはいるが、 それは旧家の躾が生み出したものらしい。いやはや、人の有り様というのは・・・)

 つまるところ、友人は私に助言を求めていても、その実、答えは知っているのであって、ただ、それが難しい選択であるが故に、同じ意見を聞いて安心したかったのであろうと思う。

 さもなくば、私の助言を聞いて、無視するか、反発するであろうから。素直な(つまり当人が気付いている場合)にはスムーズに霊査を得ることが出来る。反対に、当人が気付かない、というより、気付きたくなくて真実から目をそらそうとしている場合は、往々、霊たちも言葉に詰まる。・・・(ここ、結構重要)


 さて、私の返答は・・・(多少編集)

 いいんじゃないですか? 

「はあ、そうですか。スイマセン。」て、言っておけば。

 その結果がたとえ悪く見えても、あなたにとって本当に不都合とは限りませんし、あなたにとって良い結果に思えても、長い目で見て本当によかったかどうかは分かりません。(神のみぞ知ること)

 ところであなたは、この人が嫌、とか、得られた喧嘩は買う!、という趣旨で相手を見て・・・相手を色眼鏡で見ていませんか。

 こういう責任転嫁型の人に真実を突きつけても拗らせるだけですよ。結局、感情論から「窮鼠猫を噛む」とも、なりかねませんし。

『相手はおそらく不安なのだ、ならば、殴るよりも、相手が転ぶように仕向ける』とか、「私じゃ出来ませんから・・・」とおだてて、相手に危ない橋を渡らせるとか。やりようには色々あるはず。

 ともかく、このメールを見る限り、相手も悪いでしょうが、あなたにも『試練・暴力的正義感をなんとかせい』と、(守護霊もその必要性を同意した)試練を感じますよ。

 相手を論破するよりも、相手に勝手を言わせて・・・蛇足という言葉があります。蛇の絵を書いている人が、調子にのって足まで画いてしまった。だが足があったら蛇じゃない。つまり自らダメにしてしまうということ。・・・それによって、相手は蛇に足を画くかもしれません。または、あなたは売り言葉に買い言葉で、蛇足を画こうとしていませんか。

『外なる敵は勝ち易く、内なる敵は勝ち難し。』 と、言いますが、あなたは戦うべき敵を間違っていませんか?

 というか。バカの相手をすると、霊界も含めた周囲から、延々とバカの相手を任せられますし、そもそも(いわゆる)霊的波動の異なる人は論破できませんよ。なにしろ、感情論と論理じゃ、拳を握り締め(グーを作って)殴りかかろうとしている人にチョキを出して勝ったつもりでいるようなものです。人間関係において、勝ちを得ようとする人が往々、かえって不利に陥るのは勝利条件に設定ミスがあるからです。

(勝利条件の違い: 周囲や相手が、それを負けと見ていない。むしろ勝ちと思っている。)

 論破するのをやめろ、とは言いません。でも、勝利条件(成功条件)をよく見極めることです。自分にとっての勝利(往々、それは自己満足)ではなく、相手にとっての敗北となるように行動を選択することです。それにはまず、相手を知ることが必要となります。

 敵を知り、己を知れば百戦危うからず・・・これは勝利の方程式(これを「知れない(理解したくない)」人は多い。)ではなく、不敗の方程式であります。不敗の戦略の良さは、つまり、相手の自滅を促すことで勝利を得るところにあります。

 まあ、ぶっちゃけ、周囲が相手にしない人を、あなたひとりが相手にしても色々と面白く無いでしょう? 往々、正義感は、気をつけなければ自滅(蛇足)の道です。 まあ、悪の道もまた、自滅に繋がっているわけですが。

 正義よりも善であるように致しましょう。


補足1 (7月17日)

 その後、友人から後日談が届いた。かの相手は左遷が決まったとのこと。それを伝える友人の態度にいささか想うところがあって伝えたけれど、キチンと伝えられたかどうか。

 そしてまた、友人からさらなる後日談が届いた。

 要約すれば、相手の不正が露呈して左遷が取り止めになり、今は処分待ちだとのこと。

・・・・・・・

 別に終わったことにクドクドと説教臭いことを言いたいわけではないし、この友人を下に見て意見するつもりもない。まあ専門家、とまではいかなくても、それなりに事情通を自認しての意見ではあるが・・・

 我が友人を『直球勝負の剛腕』に喩えるなら、相手は『多彩な変化球を使い分けるマジシャン』です。性格は正反対ですが、性格が反対でも仲の良い人はいます。私が問題視しているのは、我が友人が、直球自慢というより、変化球を投げるのが苦手、な人であるのと、私の見る限り、問題の相手は変化球自慢というよりも、自分の直球に自信がない、むしろコンプレックスを抱いている、点なのです。

 内心、お互いにライバルであると認識していて、たとえ負けてもなおのこと相手に難癖をつけようとする関係と私には見えます。

 例えば水と油ならば、放っておけば分離するのに対して、この二人は同じ縄張りを争う関係です。それゆえに、相手の不幸を知らせる友人の言葉尻に、私は危険な匂いを嗅ぎ取るのです。

 つまり、友人の守護霊や、その上の産土神等が、この欠点を正す、または少なくとも減らすために、互いに切磋琢磨させられはしないか、と思うのです。

 故に、私が最初に、そう、これらの後日譚を知らされる前に送ったメールのサブジェクトは、「争うことの是非より、守られていることの自覚が大切。」としたのです。それは別段、明らかに悪い!、というニュアンスの結果ではありません。どちらかと言えば、キナ臭い、に近いのですが。

 ところで私は、変化球を使い分ける・・・というか、直球に自信のない人はよくよく注意すべきと思います。まあ、露骨にいえば、姑息な人、ということですが。

 まっすぐ生きることの意義はともかく(つまり、知ってはいるかも知れないが)、その価値を知らぬ(つまり軽んじ、疎かにする人は)、往々・・・おそらく大抵、カミソリの刃の上で踊るような人生を歩んできた人でしょうから。ギリギリの人生を自認している人だから、乱暴な生き方が出来るのでしょう。もしくは、ほんとうに大切にされたことがないのか・・・。

 欲の薄い子供時分に助けるならいざ知らず、一通り甘い汁を吸った事のある相手だと、無駄がある豊かさに憧れていて、ムダのない豊かさは生理的に拒絶されるところがあります。

 生まれ変わらないと直せない悪癖を身につけた人なら、周囲は見て見ぬふりしか出来ないものなのです。 あえていえば、ただ拗れ、形が変わっても被害が増えたりする・・・

どうしたらよく生きられるか

2010/05/11

 どうしたらよく生きられるか・・・と、日々、考えている人は多い。

 社会のため、もっと身近な者のために、何か役立つことをしたいと願う人は、多いのである。(社会を不安に陥れるのはごく僅かな悪意で事足りるのだが)

 あなただけが善良ではないし、往々、善の解釈の違いを論点に、善人同士が闘うことも決して少なくない。・・・「善を口実に争うなど、善人の為すことでない」と言われようが、未熟や不完全を理由に人を裁けば、天上天下に罪なき人は無くなる。

 人は善良であろうと苦悩し、苦悩するが故に何かを壊す。・・・ある意味、人間社会にとって不幸なのは、その根底に愛なき憎しみが無いことであろう。悪人ですら愛を求める。時折、愛する対象を間違った者があっても、極端には、自分以外のすべてを憎んでいても、他を憎むが故にむしろ己を愛すものだ。 愛憎は表裏一体。それが自我の本質であって、自・他の区別のあれば、そこに愛なくして残るものはないのだ。

 すなわち、世に愛なき人はなく、ただ、その心が素直か、または捻くれているかの差があるだけである。・・・もしくは、より大きな愛を求めていることにおいて、社会の法に反した罪人、社会倫理を犯した者とて決して人後に落ちない、いやそれどころか、なりふり構わぬ真摯さは、世間でいうところの善人以上かもしれない。

 その事を知る者であれば、「汝の敵を許せ!」ということが無理なく判るはずである。すなわち、善悪では人を裁けないのである。が、行いは結果に至る。善因善果・悪因悪果。つまり、許すことと野放図にするのとは異なるのも道理であろう。

 我々は、裁かれぬ罪と自らを救えぬ未熟さの間に生きている。・・・その間に立った人はどう生きるべきか?

 

 どうしたらよく生きられるか・・・と、日々、考えている人は多い。

 が、どちらに進もうが、人は面倒事に巻き込まれはしないか?・・・どちらに進もうとも、臨機応変、時と場合に応じた対処が求められる。もしくは、求められないはずが無い。むしろ往々、人は面倒事に巻き込まれるために生きているように錯覚することもあろう。

 いや、仮に無事な道が判るとして、人はそうそう自由に歩んでいけるものだろうか?

 人は結局、与えられた道の中で、最善をつくすことしか出来ないのである。

 にも関わらず、

 

 どうしたらよく生きられるか・・・と、日々、考えている人は多い。

 さて、あなたに必要なのは新たな進路であるか、それとも、今の道を歩み通せる自信であるか。

 または・・・踏み外した道を、後戻りする勇気か。・・・その全てを見極めるために、立ち止まり、己の未熟さを省みる大いなる勇気か。

 

 どうしたらよく生きられるか・・・と、日々、考えている人は多い。

 よく生きようとして・・・誰かを愛して、誰かに愛されたくて・・・あなたの生きている道は、素直な道か、醜く捻くれた道か。

 

 どうしたらよく生きられるか・・・と、日々、考えている人は多い。

 その想いは果たして善良な心の表れか。それとも、未熟であさましい自分の本性からの逃避か。

 その想いは果たして素直なものか、捻くれたものかどちらだろう?

 つまるところ、あなたが今、歩む道に正否があるのか、歩むあなたに正否があるのか。

迷いの解消・前は後ろの正反対(新編集)

2010/01/17

前は後ろの正反対

2004年 06月 17日

 前を見れば欲が出る。あれもしたい、これもしたい。

 前を見るから脇道に入りたがる……一体前ってどっちだろう?

 一生懸命に生きるから、どうしたいのかが判らなくなる。

 そんな時は真後ろを向いてみる。自分が一番イヤな選択肢は何であるか? それを真剣に見つめてみる。そして、その正反対を見てみると……自分が絶対に目をそらしてはいけない前が見る。

 一刻も早く、一歩でも前に。そう思う気持ちが道をそらす。

 真っ直ぐな道より、近道はないというのに。頭で判っても気がつけば曲がっている。曲がっていることに気がつかずに、道が見えないと絶望する。迷っているのではなく自分を信じていないだけ。自分を信じずにいては、自信がなくなるのは当たり前だ。


迷いは万病の元

2004年 07月 13日

「君は迷いが多いね」と指摘されてもピンと来ない人も、設問を逆さにしてみるとわかりやすいもの。「打ち込んでいる物がないでしょう」違いますか?

 何かに打ち込んでいる人は、自分の力の大部分を目的に注ぎ込めます。ゆえに猛烈な力を発揮できる物ですが、迷っている人はいつまでも足踏みを続けます。迷って足踏みをしていると、前に進まないのだから楽なようにも錯覚するけれど、実は泥沼に落ちた自動車宜しく、エンジンを吹かしても車輪は空回りを続けるようなもので、浪費される活力は相当な物なのです。……迷うことに焦るから……迷った時には様子を見る。様子を見るというのは、一念専心休むことが大事なのです。身動きできなければ精神統一するぐらいの気持ちが大切です。それが出来なければ、全力疾走している人よりも心身をすり減らすのが迷いだとおもうべきです。これは全く、迷いを万病の元と呼んでも差し支えないほどです。


衣食足りて礼節を知る

2004年 07月 13日

 衣食足りて礼節を知る――といいます。豊かさと善良さは比例するというのです。これは反対にも働きます。つまり衣食が足らず礼節を失う――というわけです。特に小心な人ほど……と表現されて、「ああ、自分のことか」と思える人は幸いですが、ともかく、僅かな不足、欠乏、不安、などから、衝動的な行動に打って出て、挙げ句の果てに自分の立場をますます悪くする人がいます。

 まずい!――と感じたならば、自分の立場が良くなるように工夫すべきなのに、ますます悪くなるようにがんばってしまう。これはつまり、迷いが迷いを呼んでいる状態です。


迷いの原因

2004年 07月 13日

 知識の不足が迷いを呼ぶ……というのは、ありがちな解釈です。確かに、知識の不足も迷いの原因の一つには違いないのですが、もっと大きな要因は、理想と現実のギャップに求めることが出来ます。つまり、人は理想の実現に困難さを感じると、ついつい、理想と現実を結びつけるような奇抜なアイデア(というより妄想)を弄んでしまうわけです。

 これを業《カルマ》に振り回される等と呼ぶのですが、自分の欲が人を迷わせるというわけです。

・・・・・・・

 穏便とはいいがたい話です。迷いの主たる原因が欲にあるとします。すると、迷いを断つためには、まず欲を断つ必要が出てきます。欲さえ断てれば後は摂理、すなわち自然の法則に任せるだけで、自ずと真理の大道に合流していくわけです。

 ところが、どうしても欲を断てないとすると、迷いも断つことが出来ません。しかし、人は自分の欲の強いことには往々我慢が出来ますが、自分の迷いの強いことは往々我慢しがたいものです。すると、人は迷っていたことを忘れようとします。つまりは、ボーっとしていればいいのですから、迷いを忘れるのは比較的簡単です。

 それでも問題が残ります。迷いは人の活力を浪費するのです。そして、迷いを忘れ、浪費も忘れたとしても……実際に浪費は続きます。疲れた、気力が萎える、めんどくさい、誰かに頼りたい、大事にされたい。更にあなたが相対的な情念を理解できるならこうもいえます。自分が相手を大事にする以上に、相手から大事にされたい。自分が相手を愛する以上に、相手から愛されたい。

 これらは、迷いを忘れた迷い人の症状です。そして魂はゆっくりと堕落していきます。

 迷いの苦しみに欲を断てる人は、すなわち人生の試練をこなせる人です。反対に、欲を断てぬ人は、試練を自らの躓きに変える人です。ある人にとってのチャンスが、別の人の災難となる。人はこうしてふるいにかけられています。これをして無情というのは簡単ですが、宇宙は広くても、人類が使える資源は限られているのです。限られている以上、ふるいがあるのは避けがたいのですよ。


工夫の無さは迷いの証

2004年 07月 13日

 押してダメなら引いてみな――うまく行かないなら、無理をするよりも工夫すべきです。やり方を変えてみたり、ちょっと間をおいてみたり、無理をしても自他共に傷つくだけなのですから。

 ところが、押してダメならもっと押せ――と努力する人の多いこと。それでも開かなければ、人の助けまで借りて更に押そうとする。引いたりズラしたりすれば簡単に開く仕掛けであっても……このような人は無益な苦悩を生み出します。そして、無益な苦悩を人々に振りまきます。

 身近にこういう人がいて、縁が切れなければ……無益な苦悩以前に、自分の因縁に苦悩してしまうのが霊能者の苦労と言えましょうか。


ヒントを遠慮して答えは欲しがる迷い

2004年 07月 14日

 心の迷いが起因する問題について、いくつか相談を頂いております。しかしながら、霊査がなかなか出てきません。では、回答以前に何を語るべきかと探ってみますと、こういう事なのです。

 相談者の方は、気を遣い、ヘルプを乱用しないつもりで、霊媒(老神いさお)に相談するのを堪えている。そして、行き詰まって相談するが、それは結局、問題集に取り組んで回答を見るのと変わりがないというのです。なぜ、ヒントを見ないのか。

 ヒントを見ることを遠慮しながら、でも、答えを見ようとする。その間の相談者の努力とはただ迷いの生み出す苦しみに耐えるだけで、ちっとも成長がない。大事なのはヒントであって、答えではないのです。

 にもかかわらず、皆様は、ヒントは遠慮して答えを求める。……というのも、欲を棄てられず、また迷うことを棄てられないから、ということです。


人の迷いを背負い込む

2004年 07月 14日

 前述、「迷いを忘れた迷い人」――なる者がいたとします。自分自身は迷いを忘れても、迷いを棄てたわけではありませんから、そこにどうしても矛盾が生じます。その矛盾のしわ寄せを一人で背負うのは自滅行為ですが、ありがたいことに、又は、とても迷惑なことに、人は一人で生きられず、家族や社会の中で暮らしています。するとつまり、自分の生み出す矛盾や葛藤を、第三者に押しつけられる場面が往々存在し、それが悲劇の源となっていることを散見いたします。

 迷いの生み出す問題を解決するためには、迷いを棄てるほか有りません。しかし、誰かに押しつけられるなら、迷いが生み出す苦しみからは逃れることが出来ます。そして……苦しくないなら待つことも辛くはありませんね。

 迷いは苦しいからこそ、迷いを棄てようとする……冷酷なようで破滅を避ける仕組みがそこにはあるのに、迷いの苦しみだけを誰かに押しつけてしまえるから、迷いを棄てられずに魂の破滅を招くことが生じるわけです。

 自分の愛しい人の矛盾や葛藤を受け止める……一見、利他的な行為ではありますが、でも、因果応報、自らの迷いは自らが解決せねばならぬのに、迷いの苦痛を逃れたら、迷いを棄てることがますます出来なくなるもの。恋人や親兄弟の業《カルマ》を消すならいざ知らず、ただ苦悩ばかりを預って、利子を付けて返すのでは残酷な話です。

 表面的にいうならば、人は業《カルマ》よりも苦悩を嫌いますから、ただ、苦悩を取り去ることを善として、苦痛を伴い業《カルマ》の消滅は嫌がるのが普通です。そうして人々は愛する人々と一緒に「危地」を進むわけです。――感情的な不安よりも、真実の危険を軽視するなんて、私には耐え難いことですが、それが世間の良識であり、覚者だろうと抗いがたい強制力を持った誤解がそこにあるわけです。


人の迷いをなぞる

2004年 07月 14日

 まったく、まったく。迷いから醒めるには何が必要なのでしょうか? 人類の歴史はおそらくは迷いの歴史。ならば、迷いから抜け出る手だては、いくらでもヒントが見つかりそうな物……ええ、有るのです。ただ、迷える人が考えたことなら、それは迷いをますます深めるような表現を多用しているのが当たり前。

 いや、解脱者もいるけれどね。彼曰く「色即是空、空即是色」

 結局、迷いを棄てた人だけが理解できそうで、迷える人はますます訳の分からぬ言葉に出会ってしまう。

 要するに、迷える人が解脱しようとすれば、人の迷いをなぞることになります。すると、自分の迷いの他に人の迷いまで背負うことになるのです。……勉強で迷いを断つのは難しいものです。


心で、心の迷いは解きがたい

2004年 07月 14日

 前述のように、迷いに関しての相談をいくつか受けました。そして、その霊査はなかなか得られません。それは心の問題を、ただ心だけで解決しようとするから生じるのだと私は思います。

 簡単なことから、行動に移せば、それだけで糸口が見つかり、突破口が広がっていく。案外そういう物なのです。

 ある人の霊査も、なかなか降りずに心配していたら、先方からオフ会参加の打診がありました。すると途端に霊査が降り始めたりして、結局、行動しようとしたことが呼び水になったのでしょうね。もっとも、オフ会の準備に忙しくて、まだ筆記していませんが。

 迷える時は、出来ることから行動を始めるべきです。行動しながら考えることが良い。つまり、人は、考えすぎを防ぐ仕組みを持っているのです。自分を守る仕組みを寝かせておいて、苦しい、助けてというのは、ナンセンスというより、危険なことかも知れませんね。


痛い相談

2004年 07月 15日

 ここ数日、『迷い』をテーマにした更新を続けています。私としてはこんな辛気くさい……でも重要なテーマよりも、取りかかりたいテーマがいくつか出かかっているので心掛かりなのですが、必要な手順を省く事は後々面倒の種となる事を知らないわけではありません。

 迷いの生み出す苦痛について、霊感の鈍い方々は、「苦痛』として自覚していない場合も散見します。ところが、これを霊媒などが共感すると、胃の周囲が痛くなるのでやっかいです。つまり、霊媒能力の強い人が、『あの人、どうしているかな?』……などと思うと、とたんに自分の胃が痛くなるわけです。

 まあ、痛みを感じる事に恐怖するようでは霊媒はつとまりません。本当の交信は、感覚や体験の共有という形で行われるのですから、痛みを表現しようとする霊が居たら、その痛みをそのまま感じるのが霊界での交信なのです。胃が痛くなる相手が何人か居います。

 つまり、交霊で痛みを感じるのは、地上で、痛みに関する話をするのと同じ事です。別段自分の身体に悪いところがあるわけで成し、交信をやめればたちどころに痛みが消えるので、じたばたするほどの事もありません。

 ところが、特に人間相手で困るのは、交霊と比べて話がしつこくなりがちで、しかも、相手の切り替えが下手だから、いつまでも痛みが伝わってくる事です。さらに悪い事に、精神的な痛みの感じ方というのは非常に個人差があり、当人はせいぜいが不平不満の解消程度しか認識していなくても、その話を聞く霊媒には激痛が感じられる場合がある事です。幼少時の体験が原因だったりすると、もう痛みになれて悪夢を見たり、無意識に自傷行為に走ったりする程度で、自分の抱えている問題を適切に認識できない場合があるのです。

 こういう場合、当人にしてみれば、ただ愚痴を聞いてもらいたいだけなのですが、それに付き合わされる霊媒にしたらたまりません。愚痴を聞いているだけなら何年も、何十年もその苦しみを共有させられるのですから、うんざりです。特に、当事者が問題解決に乗り気でなければ、痛みに耐える事が不毛な努力に過ぎないのですから。

 もう一言付け加えるなら、人間の持ち時間には限りがあります。どうせ不毛な事をするなら楽しい事をしたいし、どうせ耐えるなら有益な事をしたいものだ――そうは思いませんか? 私は強く、強くそう思います。

・・・・・・・

 さて、強く痛みを生じる相談が三件ほど寄せられています(中には相談の自覚がないが)。例によって詳細は書けませんし、そもそも痛みを生じるという事は、当人が解決するのに迷いがある事を暗示しています。というわけで、直接のお返事の他に、相談者を想定しつつ、普遍的な回答をする事は、冷静に問題を受け止める良いチャンスかもしれません。

Q「願望成就しない。自分には縁がないと諦めた。」

 適切な譬喩とは申せませんが、良く引き合いに出す話を流用致します。

 「お金持ちになりたい」という願望が成就しない人がいます。障害を明らかにしようと、「なぜお金持ちになりたいのか?」と問うと、「もっとお金を使いたいからだ」と答える。……使っていたら貯まるはずがありません。まして、安物買いの銭失いというわけで、お金の使い方次第では効率の悪い事、おびだたしくもあります。

 この「願望が成就しない」という件も、守護霊様の意見とは別に、私が霊査致しましても、どうも無駄な事に力を注ぎすぎて、肝心な部分に力不足を感じます。

 それは結局のところ、正しい努力をしているというより、自分のカルマに振り回されている状況といえましょう。

 すなわち、自分が幸せになるための願望成就ではなく、自分の欲に引きずり回されている状況での願望成就……すなわち、不幸になるための努力の過程にあるのだと私は判断致します。

 もっとも、あなたの守護霊の判断と私の判断の違いは、視点の違いに過ぎず、問題は縁の有無というより、時機を失して、次の時機がまだ先にあるという事です。待つのもつらいが、待つ間にもすべき事があります。そして、待ち時間を有効に使ったものだけがチャンスに遭遇してそれを無駄にしないのです。

Q「伴侶との行き違いについて。」

 心霊相談を休業する以前から、恋愛相談などはお断りしてきましたが、家族・特に夫婦間の問題や、恋人との間の問題についても、相談したくても相談できずにいらっしゃる方、また、断りの対象になっている事を失念していらっしゃる方などがあります。

 大事な事は、相手の心をどうにかしようとするのは邪である、そして、邪な事を手伝わせようとするのはもっと邪である。という事なのです。

 人生の伴侶に相対するのに、他人の手助けを必要とするなら、それはもう伴侶とは呼べません。つまり大切なのは、どうしたら自分は伴侶たりえるか、という事であり、相手が悪いと思えても、それを補えてこその伴侶、至らぬ同士が助け合うのが伴侶であるとしっかり認識する事といえます。

 もっとも、人生の伴侶に関する悩みの大部分は、「相手が責任を果たそうとしない」という事でして、これがとても難しい。一方的な依存、つまり、夫が、稼がず、かといって家事もせず、あげくに女を作った、なんて話なら、「別れろ……」としか言いようがありません。

 しかし、相談の大部分は、相手の長所を無視して、欠点ばかりが目につくという場合が大部分です。こういう問題は、実は心霊相談よりも整体などの方がよほど効果的な回答を提示できるでしょう。この手の不平不満は、大抵の場合、不健康が理由だからです。

 不健康というのは、病気を意味しません、ただハツラツと生活が出来ず、だるいとか、面倒だとか言って、人の手を煩わせてしまうから、そこに不満が生じ、不満が積もり積もってイライラしてしまい、イライラが高じて感情的になっていく、という悪循環に陥っていると見なすわけです。

Q「親・子との行き違いについて。」

 ここでは、親・子との問題に集約しましたが、縁を切りがたい相手と広く捉えてかまいません。

 特に相手との関係が重荷になるのは、要するに縁を切りがたいからです。で、そこまで問題がこじれてしまうのは、当事者の一方、または双方が、姑息な人間関係の手法を使うからといって良いでしょう。つまり、相手の好意を確認するのに相手を困らせてみる……という事をやるわけです。

 たとえば仕事に行こうとすると病気になるとか、無理難題を吹きかけ、応じなければ泣きわめくとか……こういう無茶な行動に出るのは信頼関係が破綻している……痛みでしか相手の存在感を確認できなくなっているという状況です。

 これは正直辛いし、はっきり言って痛い。そして、解決策もまた無数に見いだせるでしょうが、この手の問題も、やはり、心霊的な解決よりも整体的な解決策の方が効果的でしょう。

 つまり、お互いが不健康だから、不健全な見方・視点で相手を見てしまうのだ、また、不健康だから依存心が強くなり、不健康だから相手の依存心が重荷に感じ、お互い辛いからイライラして和解策もとれなくなっていく。

 この問題の解決は忍耐を要します。また、ここでは不健康と表現しましたが、加齢も、問題の一因となりますね。

抑圧された心

 特に女性に多いのですが、親に対する不平不満から迷っている人が多いのです。もう霊媒だけが分かる痛々しさというより、誰でもこのいびつさに気がつくのではと思えます。

 そして、この問題を大げさにしているのは、親の悪口への病的な嫌悪です。親の悪口をいわず、親の欠点を見まいとする……自分の親を無理に尊敬する為に、自分を騙し、自分をだますから何が真実であるかが分からなくなるのです。

 褒めるの価値観もゆがみ、貶す価値観もゆがみ、何を言わんとしているのかがわかりにくい。こうした事例がすべて、親への不平不満が言えないためとは申しませんが、私の知る限り、こういう事情の持ち主がとても多いのです。

 しかし、赤の他人の行為なら許せる事も肉親の言動ならば許せぬ事もあるはず。他人に冷たい仕打ちをされたところで所詮は他人なのですが、身内が冷たい仕打ちをすれば恨む気持ちも生じますよね。つまり、親だからこそ許せない事の一つや二つ、ないとしたら、それは他人に接するような冷淡さで親と接していると言えなくもないのです。

 大事な事は、親への復讐ではなく、欠点は欠点と正しく認識する事で、適切な……つまりいびつではないフォローが出来るようになる事です。

 ところが……これがなかなか出来ないものです。自分は変われても親を変える事は出来ず、親が変わらなければ悩みは増すばかりですよね。こういう場合、親が死ぬまで治らぬのかな……と思います。

総論

 以上、四点の事例を紹介したわけですが、実はこれらの回答事例は、枝葉末節に過ぎません。こういう回答もしなければ、へっぽこ霊能者が相談者を煙に巻いているようだから書いているだけの事で、もっと簡潔に指摘する事がよほど大切だと私は考えます。

 これら、迷える人は、果たして問題に悩んでいるのだろうか? と私は考えます。むしろ思考過程にだまされて悩んでいるのではないかと思うのです。

 まず、各事例は、自分の大事な人をかばおうとするが故に生じる苦しみです。いわば自分の愛情に苦しめられているようなものですが、なぜかばう事で苦しむのでしょうか?

 その迷いの原点は、物事を善悪で計るところにあると思われます。つまり、善ならば良し、悪ならば拒絶するという価値観と、大事な人に悪いところがあればそれを受け止めようとするところに、矛盾と葛藤の種があるのです。

 善悪で考えるというのは、宗教で言うところの二元論に相当します。つまり、善悪は相対・不離の、たとえば電気にプラスとマイナスがあるように、また、光があれば影が生じるといったように、相対不離で一方には必ず他方がつきまとい、相互に争いを続けるといった思想です。

 しかし、近代心霊思想は、一元論で受け止めます。プラスとマイナスは中性の揺らぎ、光と影はただ濃淡が違うだけ。善とはより高度な存在であり、悪とは未熟な存在を指す。いや、老子の思想を考え合わせれば、影があるから光を認識できるのです。

 悪だから異質の存在……なのではなく、未熟だからあなたが補わなければならない。そう受け止められれば、ここに迷いはなくなるはずなのです。

 つまり、愛しい人に悪があれ、それをどう取り除くかに心を痛めなければなりません。それはつまり、相手の欠点が二人の間の障壁であるという事です。

 しかし、愛する人にあるのが悪ではなく欠点ならば……相手はあなたを必要とするという事、すなわち、欠点があるからこそお互いが、強く結ばれざるを得ないという事です。

 愛する人の、または、あなたの親の欠点を正しく認識しなさい。というのは、あなたが大切に思う人の悪を見つけろ、相手との断絶を直視しろと言うのではなく、あなたがより強く結びつけなければならない点を見つけなさいという事なのです。

・・・・・・・

人生の伴侶がなかなか見つからない

 まあ、以上で終わりにすれば話もきれいなのですが、ちょっと強欲な質問にも答えておきましょう。

 むろん、人生の苦楽をともにするのですから、その相手はなるべく頼りがいがあり、また、迷いや不正の少ない方が良いものです。……で、速やかに伴侶を手に入れる人は、ほとんどの場合、「私がいなければこの人はだめだから……」と、欠点を補うつもりで相手と接しています。(そのくせ、不健康になると、相手の欠点を重荷に感じて不平を言うのだから……いえ、そういうカップルを支える事も友人の勤めですよね)

 対して、伴侶を得がたい人は、「この人がいなければ私はだめだから……」と、欠点を許さぬ態度でいます。

 不幸にして……欠点のない人はいませんから、このような態度では死んでも伴侶を見つけられません。往々、「あの世で伴侶を見つけろ」と怒鳴りたくなるような強欲な人もいるぐらいです。間違って見つけた人がいるなら、人を見る目のない人か(当事者さえ幸せならば、ねえ)――控えめな人なのでしょう。

 いや、いや既婚者から恨まれるような発言は慎みましょう。


迷いは霊感の大敵

2010年1月17日

「霊能者は自分の未来は見えない」・・・等という。なんのことはない、そもそも迷いが生じたとしたら、それは背後霊の庇護を外れたということなのだ。――庇護下に無いのに霊感を使えば、回答者がいないのに良い返事が得られるはずも無い。イヤそれどころか、野次馬な霊にミスリードされる危険もある。

 私もまあ、誰かの助言を欲することもあるが、なんとか自分の霊感内で収まるか、追認程度で済むことが多いのは、ちょっとしたコツがある。

 まず、迷いが生じた事自体を楽観視しない。行き詰まったら元きた道を戻るぐらいの覚悟を決める。

 また、答えが無いのも答えのうち、とも覚悟する。つまり、何も答えがなければ、まあ、何とかなる、ということだ。

 そして要領の得ないメッセージを受け取ったら、それこそ、とことん行かなければならない、ということだ。途中下車は許されまい。

 人生で横着する様々な事態は、所詮、途中経過であって、良いことも、悪いことも、最終結論ではない。つまり、どう転がるか、わからないのである。だから、今は悪くてもジタバタしない。それよりも何よりも、霊媒にとって恐れるべきは、状況・事態の悪さではなく、背後霊らとの絆の有無なのである。それゆえ、たとえ不幸を味わっているさなかでも、自分が愛されていることを信じなければならない。

「人生は、背後霊(守護霊・祖霊)との二人三脚」と思うなら、迷いとは、チーム全体の危機なのです。眼前の事態だけの問題ではありません。それに気がつかなければ・・・視野が狭いということです。ならば・・・運が悪いならそのうち改善するかもしれませんが、自分が悪いなら、決して改善しないことを暗示します。

 それはもう、ただの迷いではなく大問題、いや大問題というより、救いようの無い問題、ではありますが。

船頭多くして船山に上る

2004年 11月 15日

 兎角、気弱な方は、いろいろな方面の意見を求めます。確かに多方面からの情報は物事を立体的に浮き上がらせるものですが、情報が増えれば増えるほど、物事の理解には高度な分析能力が求められるものです。

 特に分析中に難しいのは、取捨選択で、人の意見には主観もあれば偏見もまじり、切り捨てることがなければ、立体的に浮き上がらせるどころか、矛盾だらけで組み立てようがなくなることもよくある話です。

「船頭多くして船山に上る」といいますが、あちこちの意見を聞いて廻り、かえって迷いを増やすのであれば、気弱さから迷うという悪循環に呑み込まれてしまいます。

……さて、気弱さ故に迷ってしまった人が、そこで己を反省したとします。

「なぜ、私は迷ったのだろうか?……そうだ! きっと船頭が悪いからに違いない。今度は別な船頭を頼もう!!」

 しかし、気弱さからまた、たくさんの船頭を雇い入れればやはり船はやはり山に登っていくのでしょう。

……この意見は、迷える者をあまりに見下していないか! そう思われますか?

 智慧あれば助言に頼らず、分別あれば助言に迷わず――智慧も分別も無いから助言を受けて迷うのです。すべての迷える者が救いがたいとは申しません。しかし、間違った助言の受け方をしている人は救いがたいと思います。


向上したいけれど。

2007/05/31

2007年05月31日


友人から相談、というより打ち明け話を聞かされた。私に解決を求めているのではなく、今抱える悩みについて切々と語る。

「どうやったらもっと成長できますか?」……と問われて、私は考え込む。

人生は霊性向上の修行の場である。であるから、向上や成長というテーマは至上命題である。が、私にはどうにも煮え切らない思いがある。

誰もが学んで学びきれるものではなく、誰もが知って理解できるわけではない。

人は本当に学んで、成長できるものなのだろうか? ――出来なくはないと思うが、その言葉通りではないと思うのだ。

人は結局、知っていることしか、理解できないのでは無かろうか?

地上だけが修行の場、すなわち独立した修行のコースなのではなく、霊界で座学、地上で実習を行い、その二つがで一セットなのでは無かろうか。可能性としたら、地上の座学も無駄ではなかろうし、実習の際に教科書を参照していけないはずもない。だが、霊界で学んでいないことを新規に地上で学ぶのはほとんど不可能であるというのが、私の実感だ。

だからたとえば、「二度としませんから許してください」という人がいても、ほとんどの場合、私は相手にしない。許せないからではなく、今さら相手にする意義が見いだせないからだ。一方で、上述の友人の様に、自称「挫折ばかり」だとしても、私はそれを責める気にならない。

私が彼女に伝えたいのは、ただ、「反省するよりも自分らしく生きなさいよ」ということだ。成長することよりも、年齢相応の言動、いや、霊格相応の言動や価値観に立ち戻るべきなのだ。

あなたに必要なのは成長ではない――あなたが求めているのは成長ではなく、出来るはずもない矛盾の実現である――あるべき姿に戻ることなのだ。他者の価値観に振り回されて苦しんでいる。それは結局、あなたが、あなたを傷つけているその人を大切に思っているからなのか(そういう一面もあると思う)、それとも、あなたに自信が不足しているのか、ではないか。

『その悩みは頑張っても解決しないよ』と思う――当人も気付いているとおりに。……「では、どうすればいいの?」というのは正当な疑問であろうけれど、矛盾であり、葛藤であって、論理的な袋小路、すなわち、考えれば考えるほど答が見えなくなる状態なのだ。考えるのを止めるべき時なのである。

今、本当に必要なのは、成長ではなく、自分を信じ(自信)、他者の価値観に振り回されないことであろう。それが出来ればどれほど人生が楽になるか、悩めるあなたは容易に想像がつくはず。――ならば、理想は理想と切り捨てるその前に、どうしたらその理想が実現できるかが大切ではないか。

他者を批判するのも、反省を過剰に行うのも、もう止めよう! ――それよりもお互いの幸福を考えようではないか。往々、あなたを悩ませたその人は、お互いの苦しみに無頓着かも知れないが、それでもお互いの幸福は、あなたの幸福のためには大切ではないか! あなたは自分の幸福のために、お互いの幸福を論じていいのだ。それは恥じるべき事ではない。――何となれば、人は己の幸福に責任を持っているのだから。あなたは、互いの幸せのために提案した。それで充分ではないか。

出来ないことや、どうにもならないことに頭を悩ますよりも、あなたは、あなたが出来ることに集中すべきだ。


そんなに求めなくても

2007年06月03日

何度も書いている話題ではあるが、向上・修行についての話題の補足として改めて書く。


人は生き詰まると、向上や修行の大切さを再認識する。――そして、私は時折、その修行方法についての相談を受けるが、その都度、霊査を取りつつ、やはりと返事につまることがある。

皆、今の実力に不足を感じているのである。つまり、120パーセント、そしてそれ以上を得るための方法を模索している。ところが、私が受ける霊査はせいぜいが、70パーセントか、80パーセントの実力を出す方法に関する示唆なのである。

往々、その事に傷つく人もいるようだが、私が得る啓示を総括するなら、人は実力が無くて苦境に陥るのではなく、実力を充分に発揮できなくて苦境に陥るのである。

道がないのではなく、道はあるのに見つからない。……見つからぬ道を造ろうとしているのである。それは無理の上にさらに無理を重ねようとする努力だ。

努力よりも素直になることが必要なのに。不足を小細工で補おうとするから、かえって拗れる。

向上・修行は永遠の課題ではあるが、人生の一部だけを切り取って、向上の度合いは計れるものではない。いや、私は思うのだ。生と死とが一組になって向上の手はずが組まれているのではないかと。ならば今生が苦悩と悲劇の連続であろうともそれは来世と合わせて正しき道かも知れないし、今生が楽に思えても、それは来世と合わせて間違った道かも知れないのである。


高望みの背景

2007/03/07

2007年03月07日


「あなたは高望みをしている」といわれて、気持ちよく聞ける人はいないだろう。自尊心の強い人ほど「高望み」という批判に対して反感を抱く。……周囲から見れば高望みに見えても、当人にとっては、自我が要求する正当な待遇なのである。

だが、その当たり前に思える境遇を得るために当人はいかなる努力しているだろう? ……つまり、要求に見合うだけの対価を支払っているのか?

周囲の人が見るに、望みに見合うだけの努力が見られないから、「高望み」といわれるのだが……これが、「高望み」を批判する人々の視線である。

別な視線を向けると……なぜ、高く望みながら、それに見合う実力なり、努力なりをしないのか?……ということに関して、私なりに見てきた事をまとめる。

*******

現実感が希薄だから。……人生経験の不足が招く食い違い(齟齬)が、行為ともたらす結果との間に差を生み出す――ということは良く感じる事だ。

身体が不調で、腰が重い(行動に消極的になる)……本当にめんどくさがりであれば、黙ってだれている。身体を動かさずに妄想をするのは、心身の連携が取れていないのだ。

親の干渉がうるさい……面倒見が良いのではなく、リズムが合わない場合。よく見るのは、親がせっかちで、子供の行動を見守れない場合だ。すぐに親がチャチを入れるので子供が上達するヒマがない。結局、行動力が乏しくなってしまう。

自意識過剰……すごい事なら取り組めるが、当たり前な事にはその気になれない。(自分を当たり前な人間と認めたくないから)……当たり前な事をやるのにもいちいち大騒ぎする人がいるが、これも自信過剰の一つの表れだろう。

・・・・・・・

霊障? そう、霊障の場合もある。だが基本的に、霊障の現れ方は、上述のような地上的要因の裏にいる。つまり、原因の原因である場合が多い。ようは、霊媒抜きで克服できる場合がほとんどだ。

なんとなれば……口先だけで、行動力のない人に憑依しているような霊に、どんな行動力があるというのか?

いたずらに霊を恐れるべきではないし、霊障を特別視する必要もない。

とはいえ、私が携わった事例を一つ紹介する。

引きこもりの某氏に対して霊査を取ると、土を盛り上げた塚が見え、その下に人が寝ている。別に怒っているわけでも、呪っているわけでもなく、ただ寝ている姿が見えるのだ。が、意味が分からず我が師に相談したところ、「土饅頭」つまり、土葬の墓だという。(すいません。土葬なんて見た事がないもので……)

『土葬された人は苦しがって空気穴を欲しがるもの、竹の節を抜いた棒を突き刺してあげるといい』……と助言を受けたが、その家ではもはや土葬はしておらず、墓地も石をまとめてある。

実際、その家のお墓を訪ねてみたら、お墓に念的な汚れが感じられたので、せっせと除霊(念掃除)をしたところ……数ヵ月後、引きこもりがちの某氏は、実家を出て行った……よほど身内の霊が、というより、身内の心を重苦しく感じていたのだと思う。


逃げてはいけないのか?

2007/01/09

2007年01月09日


「神は、乗り越えられない試練を人には与えない」……という言葉を前提にして。

Q「困難に遭遇した場合、自殺以外の道を選ぶなら、たとえば逃げ出すことでも、困難を乗り越えたとはいえませんか? たとえば虐めから逃げ出すというのも困難を乗り越えたとはいえないでしょうか? 乗り越える=逃げないで解決する、という意味なのだろうとは思いますが、逃げるという対処もよいのでは?」

問わんとすることの概要は間違ってはいないと思います。ただ、問題の組立て方が非常に乱暴です。

人生には、避ける、迂回する、という選択肢もあるのです。――たとえば歩行者用信号が青であろうと、車が飛び込んできたら、誰もが立ち止まります。進んで車にぶつかっていく者は普通では考えられませんよね? これをして逃げると非難する者がいるでしょうか? 逃げるのではなく、避けるのだ、この二つは違います。

もしもあなたが、それを「逃げるのだ」と感じているなら、あなたの人生には後悔が残るでしょう。反対に、進んで交通事故に遭っても、きっと後悔するでしょう。そう。人は後悔するのです。その時点では判らなくても後になれば、行いの善し悪しが見えてきます。逃げるのか、避けるのか、それが良いのか、悪いのかは後にならなければ判りません。

その意味で、「ケースバイケースで判断すべきだ」、というのも答でしょうし、すでにあなたが「逃げる」と表現した時点で、もう内心では後悔することを受け入れていると見なすことも出来ます。慰めに、「逃げるのも一つの手です」と表現してみても、真実は、「すでにあなたは精神的に負けていて、逃げるしかないのだから、後は敗北者として生き続けなさい」という答えになるでしょう。

いじめ問題

これがたとえば「いじめ」に限定するなら、答は大きく転じます。

説明の都合上、まず、虐められる側にも問題有り、という前提で話を進めます。仕事の足手まといになっているとか、良識が欠如していて周囲の神経を逆撫でしている、等という場合もあるでしょう。……虐められている者にとって見れば、身に覚えが無くても、無思慮な行動が周囲を苦しめているなら、その反動で虐められることもあるわけです。

うそつき

具体的な事例をあげると、私の知人に、考える前に返事をする落着きのない男がいます。ところがどんな平役でも会社組織の中で発言すればそれなりに時間と経費が費やされるわけで、いい加減なことをいえばそれが無駄になります。無駄が生じれば責任者が責められるわけで……理由を問いただされると、彼は焦ってまた考えもなく口を開く。これを繰り返した結果、もうすっかりと「嘘つき」と見なされてしまったのです。

私は、彼が悪意のある者ではない……というより、悪巧みが出来るほど利口ではないと気がついていますから、それとなく助言をしたのですが、私の言葉を聞く態度にまるで真剣味がありません。『理解できなかったのかな? でも自分の問題なのだから、真剣なら質問に来るだろう』と思っていたのですが、後に気がつきました。そして案の定……

縁故を頼って自分の上司に意見をいって貰おうとして、さらに卑怯者のレッテルを貼られてしまったのです。

まあ、どのような人であれ、虐めて良いという理由にはなりません。が、当事者の無思慮な言動が、結果として四六時中上司から叱られることになり、しかもその理由を当人が理解していないという、傍目には滑稽な出来事が生じるわけです。さらにこの場合、解決の方法が事実上ないわけです。何しろ彼には悪意はなく、ただ、思慮が足りないだけなのですから。嘘をつくといわれても、それは意図してのことではなく、むしろ癖、習慣ですから意識しても簡単には変わりません。

ただ、おそらく当人と、事情を知らない人々から見ると、彼は職場で虐めに会っているように見えるでしょう。実際、彼の日常会話には嘘が混じらないのですから。まあ、彼の採用は人事のミスであるとは職場の誰もが認めることですが。

彼の場合、虐めに立ち向かうという態度は、まったくの筋違いであって、害ばかりで誰の利にもなりません。職の確保という点でも、人事処置を受けるまでの時間稼ぎでしか無いわけです。とはいえ、逃げ出せば失業するわけで、しかも原因を克服できなければ再就職にも困難が生じるでしょう。

逃げるとか、逃げないとかの問題とは限らないのです。

被害者意識は逆効果

一口に、いじめの問題といっても、当事者が虐められていると思っているだけであって、実際には指導や警告、という場合もありえるわけです。このような場合、第三者に助けを求めるのはかえって逆効果となるでしょう。

一方で、単なる指導や警告の筈が、当事者が鈍感なために周囲も意固地になってついには目的を忘れて本当の虐めに転じている場合もあるでしょう。または、気晴らしが目的の単なる虐めも世には多いものです。

ただ、総じていえることは、虐めであれ、指導や警告であれ、それを受けた者が被害者意識を持つと、利己的な態度が現われてきます。自分ばかりが苦労して、と思うあまりに、皆が率先して手伝っていることを手伝わなかったり、第三者を詰るような態度(八つ当たり)をします。

すると、今まで中立的、または、好意的な者からも反感を持たれてしまってますます辛く感じるようになります。

たとえば上述の彼なども、私から「考える前に口を開くな!」という言葉を聞いて、重く、辛く、虐められていると感じているでしょうし、「どうせ意見をいうなら叱られているときに庇って見せろよ」と思っているのでしょう。いえ、私は庇ったことがあるのですが……とうとう、忘年会をドタキャンして幹事である私に迷惑らしき物を掛けたわけです。かえって好都合だったのですが……。

逃げるにせよ、避けるにせよ、または立ち向かうにせよ、敵意をむき出しにすることは、問題を低レベル化する事につながります。つまり、誤解を乗り越えてのハッピーエンドを拒絶してしまえば、どっちが勝っても得るもののない……ただ敗北感を避けられるだけという、つまらぬ結果になります。大の大人が時間を掛けて得るものとしては非常につまらぬ、と私は思います。

どちらの問題か?

もう一点。この虐めが単純なる気晴らし目的であるとすれば……試練・問題は加害者の側にあって、被害者には無いと言えます。つまり、逃げ出せば、別な被害者が生じるだけでしょう。

加害者の側に問題があるなら、そこから立ち去ることは逃げるのではなく避けることと割り切るべきでしょう。

敵意を持った第三者を教え導くなんて、聖人君子にとっても難しいことですから。

真理を灯火とせよ

古今東西の聖人達は中道・中庸を尊び、極端を避けました。逃げるとか、立ち向かうというのはどちらも極端であり、そういう観点では妥当な回答は得がたいといえます。

人間に大切な観点は、最終的な行き先であって、本来、一時的な避難や、迂回などというのは、枝葉末節の話なのです。

その意味で言えば、 乗り越える=逃げないで解決する、ではなく、乗り越えるとは、「どういう手段を使おうが、いずれは解決する」なのです。

その手段の中には、逃げるや避ける、迂回するがあってもおかしくはありません。むしろ、小さな問題に囚われて、前に進めずにいるなら、逃げなくても戦略的敗北です。


幸運を手放す。

2007年01月10日

逃げてはいけないのか? 」の補足

むしろ、小さな問題に囚われて、前に進めずにいるなら、逃げなくても戦略的敗北です。何しろ人の使える時間には限りがあるのですから。その限りある時間を無駄にする……動かぬ事も、逃げることも、時間を無駄にするには変りありません。

一時の選択としては、逃げることも、動かぬ事も選択肢の一つでありましょう。でもそれは全体の中の一分としての選択肢なのです。……でも人は、逃げるときには逃げることばかり、動かぬ時には死守することばかりを考えます。そして目的を見失うのです。


魂は永遠の生の中に存在するとしても、肉体を得て活動するのは限られた時間の中です。私たちは、その限られた時間を有意義に使わなければなりません。

たとえばあなたが頼りに出来る人……向上心を持つが故に有力なる人は、向上心を持つが故にその心が留まることをいたしません。もしもあなたが停滞したまま頼っているなら、置き去りにされてしまうでしょう。

動くのはあなただけではありません。誰もが動いているのです。あなたが望む時、望む場所に、待っていてくれると思うことから行き違いが始まります。

つまり……ようやく一つの問題を解決した、と思っていると、果たすべきノルマとして複数の問題が山積みされているのが、不幸というよりも当たり前な姿なのです。逃げ、または避け、様子見に停止していることがあれば、その無駄な時間を取り戻すための努力が必要となります。

失った時間を取り戻すことをしなければ、人生は否応もなく進路変更をせざるを得ないわけです。それは、成果の縮小を意味します。つまり、生まれる前に約束された報酬よりも、受取るものが少なくなるということです。

人々は、己の不幸を嘆いている間に、どんどん幸運を手放しているのです。……たとえば自分に仇なす誰かを罵っている間にも。

不幸になるための努力をしている。何と人は業が深いのか、と私が思う所以です。


2007/01/04

2007年01月04日


ここ数年来、一月三日は川崎の某所にお参りするのが年中行事となっている。そのお堂の近所には私の霊感を知る、母の知人が住んでいて、その家に立ち寄るのも私の年中行事の一つとなっている。

このご婦人はかなりの世話焼きでお嬢さんは過干渉に飽きていささか反抗的な態度であったらしい。

ご婦人曰く、「外面はよいのだけど……」そして、反抗的な娘に一言注意してくれ、といわれて私は瞑目、精神統一して助言を求めた。と、どうも問題があるのは前述の、母親の過干渉の方であってお嬢さんの側には二次的な非しかない。端的にいえば、人生の分岐点で、わざわざ、しかも無意識に母親に心配を掛けるような選択を重ねているのだ。

だから私はお嬢さんに指摘した。「お母様の態度は癖であるから仕方がない。真に受ける必要もない。それよりもあなたにとって大切なのは人生に取り組むことだ。お母様への反抗心で人生を決めたら、それはお母様にとって不本意であってもお母様が選んだ人生ではないか。あなたらしく生きなければ」

昨年の夏に、このお嬢さんと会ったときには、結婚を考えている男性がいるとかで、母娘二人から質問攻めにあって辟易としたが、その後の交際も順調で、結婚後の仕事も決まったとか。

今日のご婦人(お母様)の話では、以前は、「一生結婚しない」と言い張り、料理を覚えるわけでもなかったのに、今は積極的に料理の勉強をしているとか。母娘のいさかいは無くなったわけではないが(世話好きで、世話をしないと寂しくなる二人のこと、いさかいが無くなるはずもない)、時には共感することも増えて新たなる母娘関係に発展したらしい。

でもやはり心配したいのが母心、というか、このご婦人の趣味らしい。

年下の男性では頼りなくて……包容力のない男性はいくら歳をとっても役に立ちません。邪魔なだけです。

もうちょっと稼ぎの良い人が良いのだけど……大丈夫、お嬢さんの方が稼げます。しかも、この男性は妻が稼いでも腐らない希有な人です。

身体も弱そうだし……お二人とも大病の気がありますが、死の気はなく、いずれ二人があなたを看取ってくれます。大病は身体の労り方を天から教えられる良い機会ですから、入院するようなことがあっても心配せずにただ励ましてあげてください。

姑は病気がちだし……若いうちに看取ることが出来れば老後が楽です。お嬢さんは幸運な老後を迎えられますよ。

やっぱり良く見つけてきたと娘を褒めるべきなのかしら……そう、それに亡くなったご主人が彼の世から導いてくれたのでしょう。(ここは霊査ではなく単なる合いの手、イヤ別に嘘というわけでもない)

といわれてご婦人はニンマリ……

そして、背後から本題が告げられる。

『以前のお嬢さんは、他者への対抗心で物事を決めていたから、労多くて益の少ない生き方をしていましたね。でも、今ではすっかり、その対抗心を人生に向けています。他人と競い、争うよりも、自分の人生を創造していくことに歓びを見出しているのですから、幸せです。苦労が全部、実になりますから心配はいりません。お嬢さんの生き方に口を挟むのではなく、家事・料理や、子育ての方法に口出しをされて、一緒に生きることを楽しまれたらいかがですか?』

さて、私がイヤに親切に助言をすることに不可思議な感を抱かれた方もいるだろう。が、タネを明かせば、相応す、なのである。つまり、お嬢さんが霊査に素直であるし、ヒントに過ぎぬ霊査をしっかりと人生に活かして活学しているから、お嬢さんの祖先の霊等が助言を楽しんでいるのだ。むろん、霊媒である私だって、一々突っかかられるよりもしっかり聞いてくれる人を相手にする方が楽しくないはずがない。

それ等を振り返るとしみじみと感じ入るのが「貯金の善し悪し」であろう。つまり、この家のお嬢さんは本来、信仰に対する依存心が無かったために、祖先の霊等の力が無駄にならなかった……一方、心霊に関心の強い人が良くやる間違いは、みだりに霊をあてにして霊等の力を無駄にしやすいのだ。つまり、銀行口座に頻繁に金を出し入れして取扱手数料で赤字となるが如しである。

「良いご先祖様をお持ちですねぇ」といったところで、ご婦人に否定された。

「いえ、私や姉は苦労続きでしたから、前世で悪いことをしたか、祖先が悪いことをしたかとばかり思っています。」

……違うんです。頭で考えすぎるから、せっかくのチャンスが生かせなかっただけなのです。そして子孫が頭で考えすぎるということは、ご先祖も頭の良い方が多かった、ということでチャンスさえ巧く噛み合えば実に頼りになるご先祖様なのですよ、……と私は熱く語ったのだが、信じたかどうか。

世の単純な心霊理論の影響か、どうも人々は加護の強さと、守護霊・祖霊の強さが単純に比例していると考えがちだが、本当に重要なのは効率である。そもそも助言なんて、当事者の理解力を越える事は出来ないのだから。で、自分の理解力を棚に上げて、祖先の守りが薄いとなじる人の何と多いことか、と思う。

力を生かし切れないのに、力を欲しがる。……それでも力が欲しいと思うのは、つまり……判らない人には死んでも分らない話だ。


病気の夢が正夢に

2006/12/31

2006年12月31日


質問メールより。

最初に、「心霊相談ではありません」と釘を刺されたら……果たして心霊相談を断っているからの一言であるのか、はたまた、因縁話は聞きたくないというのであるのか、質問者の意図は色々と考え得るわけだが、回答者としては何を基準に返答をすればよいのか、回答に困る部分がある。

いずれにせよ、下記は一般論として表す。

Q, 病気の夢が正夢になったが、これはどういう事か?

潜在意識が体調を把握していた、と考えるべきでしょう。夢を見るのに当って、守護霊や祖霊の援助が無かったと考えるのも寂しいものですが、人間の(つまり自分の)治癒能力を過小評価するのも依存心を助長して面白くありません。

Q, 病院が休みになる年末年始に、発病しやすい。

それはあなたの加護(祖霊や守護霊の働き)が大変に弱いことを暗示しています。ここでいう、「弱い」とは祖霊や守護霊が弱いのではなく、働きかけが弱い……つまり、あなたが働きにくい相手であるか、低級霊や悪霊の邪魔が多いのか、と判断すべきです。


声(霊?)が聞こえて辛い

2006/12/12

声が聞こえて辛い (1)

2006年12月12日

「(霊から?)声が聞こえてつらい」という悩みは、心霊に関心のある人の良く聞く悩みである。今まで、この件に関して、私は深く掘り下げることを敢えてしてこなかった。敢えてこの話題を避けた理由も含めて、そろそろ解説することにしたい。

矛盾

いの一番に指摘したいことは、私は、多方面からこの問題について解説してきたことである。だから、多くの人が得心がいかずに突っ込んだ質問をしたくてうずうずしていた(はずである)。それどころか、『どうせ判ってくれないのだから!』と、立ち去った人も多い。

第一の問題点がそこにある。……なぜ、ちゃんと質問できないのか? はっきり言われたくないが、でもしっかりと聞きたい話、そういう矛盾をはらんでいるからこそ、私ははっきりと書くことをしなかったのだ。

羞恥心

次の問題点は、私は解決策を提示しているが、実行する人があまりいないという点だ。……道路や公園などの掃除、つまりは社会奉仕だが、一方では、人目に触れやすく、慣れぬ人だと羞恥心からなかなか実行できないことだ。

矛盾羞恥心、と、整理されてピンと来た人は幸せである。

さらに気が利く人であれば、これがどれほど危険な話題かも予測が可能だろう。……秘密を守るために人は何をするだろうか?’


声が聞こえて辛い(2)

2006年12月13日

声の源

いわゆる霊感・霊信として感じられる声は、三大別して考えるべきである。

  1. あなたを必須の相手とする通信。
  2. 聞いてくれるなら誰でも良い通信。
  3. 聞こえた気がするもの。

1項が、本当の意味での霊界通信であるが、これは心霊相談として持ち込まれることは滅多にない。互いに充分に理解し合えるため、誰かの助けを必要とする程、拗れないからである。従ってここでは論じない。

3項となると、通信ではなくただの勘違いであるが、そもそも、勘違いであろうともそれを自身の霊感と信じられるなら、それなりに経験があり、つまりは感覚が発達している人であろう。……だが、霊感があろうと無かろうと、人に誤解や勘違いはつきものであるし、なによりも問題なのは、なぜ勘違いで苦しまねばならぬのか、という点だ。

2項の問題点とは、たとえるなら、「他人の愚痴」と似ている。相手が真剣で「聞いてくれ」というので耳を貸してみれば、話の内容がまるで要領を得ない。『一体、私に何をさせたいのか?』……長時間、話を聞かされた挙げ句にようやく気がつく。用事があるのではなく愚痴を言いたいのだ。……そして、愚痴は聞き苦しいものと相場が決まっている。

愚痴の判別法

具体的なアクションはむしろ邪魔、ただ「あなたが悪いんじゃないよ、」といって欲しいのだ。それが非現実的であったとしても。いや、言っている者が、愚痴を愚痴として自覚していることは稀である。むしろ、当然の意見、正規な意見と信じているだろう。……では、それが愚痴であるのか、そうでないのか。

その判別は、案外簡単だ。……正しき結果に至るのは正しい過程だけなのである。たとえ間違って選んでも、その結果が正しければ、選んだ過程は正しいということだ。

正しい意見・正しい考えの持ち主であれば、努力の果てが良い結果に結びつくであろう。だが、巧く行かぬから他者に意見を求めるのではないのか?……これが「自覚無き愚痴」である。

自覚ある愚痴、というのもある。たとえ正しい見識を持っていても、時期や状況が忍耐を強いることもあるのだ。すると、時機(チャンス)を得るまでは、耐えなければ仕方がない。が、耐えることに辛いときに誰かの共感に触れたいと思うこともあるだろう。そういう時の愚痴には薬効がある。……用法・用量さえ間違えなければ。

少なくとも、愚痴を、愚痴と指摘されて、ハッと反省できるならば、まだ大丈夫だ。だが、愚痴を愚痴と認められないと、あとは話にならない。

羞恥心が邪魔する愚痴

「声が聞こえてつらい」という問題の、解決を邪魔している最大要素は、羞恥心、もしくは自負心の強さである。そして、羞恥心・自負心が強い人は愚痴をこぼすことを潔く思わない。愚痴をいったという事実さえも、認めることに苦痛を感じるものだ。

ここにもう一つの障害が存在する。愚痴を愚痴として認めないから、どんどん嘘、言い訳が厚くなってしまう。


声が聞こえて辛い(3)

2006年12月15日

狂気に見える

「声が聞こえてつらい」のであれば、声を無視するように努めればよい。……実際、そう指導する霊媒もいる。だが、それが出来ずに苦しむ多くの人がいる。……まずそこからしておかしい。

さすがの霊媒も思う。たとえば私だって第一印象は……ゆとりがなければ……相手を信じようとする気持ちがなければ……適切な、合理的な思考が出来なければ、それは狂気と呼ぶしかないのではないか?

嫌ならばなぜ、その声を無視することが出来ぬのか? 私はそこに、別な問題を感じ取る。相談者は自覚しつつ、または、無自覚で、真の問題を隠す。自覚があるならまだ上手に隠す。だが、無自覚に隠すと、どうもボロが出る。それも不自然に。

たとえば会話に置換えてみると、隠すから話がよく見えず、時々現われる秘密は突拍子もない。脈絡もなく、馬鹿にした印象すら受ける。

それらを一言で表わすと……狂気だ。

当人は、精一杯に、誠実に対応しようとしているのだろう。だが、当人にはどうしようもない理由から、言動に矛盾が生じ、それが周囲に狂気を感じさせる。そして周囲から狂気を疑われて……孤立していく。だが、脳、もしくは身体の故障から来る狂気ならば、医者で治るかも知れない。しかしもしも、何かを隠そうとして無意識に振る舞っているなら?

真の狂気は治るかも知れない。だが無意識の演技を誰が直せるのか? 当人以外に。

刺さると抜けない

解決の難しさばかり列挙されると、解決に焦る人々は、逃げ口上を並べているように思うかも知れない。だが、この問題は、釣り針などのように、刺さり易く、抜きにくい返しが附いているのだ。

そう、私が列記する「解決の障害」は、何一つ、治療者を苦しめない。苦しみの対象はあくまでも当事者なのである……つまり……つまり……つまり。

刺さるよりも抜く方が痛い……であれば、矢を抜く患者がいるだろうか?

刺さったままでは痛いが、抜くのはなお、痛い。

抜くのが痛い、それゆえに、当事者にしてみれば、治療者が下手だからと結論をしやすい。だが、痛みもなく解決するという人を信じて歓び、そしていずれ気がつくのであろう……治っていないことに。

私の相談者の中には、治すよりも恋人をつくって慰めて貰う方が楽だと気がついた者がいる。だが、慰められるのは楽しくても、慰め続けるのは楽しいのだろうか? その通りに、何度も破綻したようだが、痛みを嫌うだけで、治す気の不足する人では、この問題を解決できるはずがない。

もっともこれは、痛みの強さと、恋人の忍耐力や人柄、さらには当事者の魅力も絡んでいるから、必ずしもこの選択が破綻するとは限らないが……世の中の公平さとは、チャンスの公平さであって、結果の公平さではない。


声が聞こえて辛い (4)

2006年12月16日

なぜ拒まぬのか?

「(霊)声が聞こえてつらい」という問題は、インターネットの利用者にとって、「BBS(電子掲示板)の荒し問題」に例えると、冷静に考えやすいかも知れない。

「相手にしないのが一番だ」……声の源を三大別(実は五大別)した理由がここにある。

1項、あなたと話をする必然を持っている霊であれば、あなたがどんなに無視を決め込んでも、何とか話に持っていこうとする。……友好的に。あなたと会話する必然があるのに、敵対的ということは考えられない。真に敵対的ならば恐喝するより、油断させて攻撃する方が利口だからだ。

2項、誰でも良い霊であれば、一時的にはあなたの態度に腹を立て、仕返しを続けたとしても、いずれは興味深い相手を見つければそちらに移っていくだろう。……従って相手をしないことは有益な対策である。

だが、そもそも、会話とは一方の気持ちだけで成立するわけではない。少なくとも最初の一言に、あなたが答えてしまったからこそ、相手も話しかけてくる。そう考えるなら……後述する。(#1)

3項、その声があなたの錯覚であれば、無視を決め込むその態度が、結局、あなたを冷静に戻し、錯覚を消し去るだろう。

だが、なぜあなたは声が聞こえると思うのだろう。そして、その声はなぜあなたをいらだたせるのであろう?……後述する(#1)

(#1)

真の問題は、聞こえる声ではなく、何かを聞き出そうする、あなたの潜在的な欲求にあるのだ。しかもそれは、単に答を聞きたいのではない。状況変化への予言である。……本当に欲しいのは状況の好転であって、単なるお追従やおべっかではない。開運を待ち続けている者にしてみれば、単なる知らせですらありがたく感じる。だが、お知らせが実現しなければ、なまじ喜んでいただけ現実の冷酷さがなおさら辛く感じられる。

これは、霊感の使い方としては最悪である。……有る物を分けて貰うこと(融通)は出来る。だが無い物をねだって何になろうか?……しつこくねだれば高級霊は嫌がり、低級霊は隙を嗅ぎつける。いや端的な表現がある。波動の低い者に低級霊は群がるのだ。

かくして事態は拗れに拗れる。

本来であれば、努力で乗り切るべき事を、霊の力をあてにして援助が得られず、援助の代りに亡者を呼び寄せて健康を害し、集中力を失い、精力も奪われて根気もなく、努力で出来ることも、努力が出来ずに諦めねばならなくなる。……解決策のつもりが全てを失いかねない大失策なのだ。

……いや、念のために明言する。「声が聞こえてつらい」……というのは、心得違いの結果であると思うのではない。多くの場合には、無理からぬ必然がある。強いていうなら、楽そうな道を選んで破滅するのではなく、一番安全そうな道を選んで破滅しかけているのである。

……努力を嫌うのではなく、安全を求めているだけ。だが、往々、安全を求める心は依存心と相性がよい。しかも、失敗が続けば自信を失い、自信を失えばなお依存心が強まる。

もう一つの問題がそこにある。……痛みと共に育ってしまった依存心が問題解決の障害になるのだ。

くどいようだが、整理する。「声が聞こえてつらい」という問題の、苦痛要素はただ一つであっても、問題そのものは悪意有る誰かを原因とする単純な結果ではなく、多くの条件が重なった結果、いや、過程である。それらの諸条件の全部、少なくとも充分を取り除かなければ快方には向かわない。

あなたが一人で解決できないのは、弱いからではなく、問題が複雑だからなのである。


声が聞こえて辛い (5)

2006年12月21日

雨漏り

雨が漏るのは雨が悪いのか、屋根が悪いのか?

声が聞こえて辛いと考える人は、どうも雨(霊)が悪いと考えているようだ。だが、環境は誰もが同じである。

……因縁に差があるにしても……屋根を治さずに天気を呪っても、あまりスマートな態度には見えない。いや、そういう態度が事態を拗らせている。

傾向と対策

欠点の無い者はいないだろうが、他者の言葉になぜ振り回されるのであろう? たとえば失敗した、失恋した、等といった触れられたくない話題が有るからこそ、声に対して神経質になる。触れられたくない話題に触れられるから無視するよりも復讐に走るのではないか?

これには二つの対処法がある。……ただし、魔法ではない。

1,『それが何だ?』という態度を貫き通す。……あなたは秘密を守れるつもりでいるかも知れないが、どうせあの世では皆、明らかになるのである。霊媒が気がつかぬとしても、それであの世を騙し通せるわけではない。なんとなれば、知れば責任が生じるから、見て見ぬフリをしていることも多いのだから。まして、他人に意地悪をしているようなヒマな輩なら、きっともっと酷い失敗をたくさん抱えているに違いないのだ。だからこそ成仏せずにいるのだから。

2,『笑い飛ばすことだ』……秘密を探るにの「カマを掛ける」わけだが、人間よりも霊の方がよほど探りを入れるのが巧い。隠そうというのはナンセンスである。ならば、隠すよりもバレることを前提に生きる方がよい。

私の感想

私が取り扱った事例では、当人は一様に認めていないものの、誰かに何かを言いたくて言えない、何かを持っている様に感じられた。他者に言えないことが心の弱みとして存在するようだ。

たとえば両親の生き方に意見がある。具体的にいえば侮蔑しているわけだが、両親の方が自分よりも社会的地位や経済的な優位に立っている。……正しいと思うが現実に合わないことと、間違っていると思うが現実に合っていること……そのギャップに沈黙を守っている人も多い。

第三者的意見をいえば、論理に問題があるのではなく、行動力に差があるのだ。

ここにも解決策の一端が見える。……思考に行動がついていかない人が妄想に走る。いや、見えざる者の声に悩むのだ。

いや、こうもいえる。

他者から秘密を守ることは可能かも知れない。だが、自分の内面にも秘密を守ることが可能であろうか? ……葛藤、または、自己嫌悪。屋根に穴が開いていれば雨漏りは直らない。

低級霊に悩まされるとする。……一体なぜ、あなたの守護霊や祖先の霊は、低級霊何ぞに手を焼くのか? あなたを守る者はいないのか? 低級霊の害よりも、あなたが霊的な保護を失っていることのほうが問題ではないか?

何となれば、あなたは死後にどのような境遇に行くのか、考えてみると良い。 低級霊になぶり者にされて、しかも助けのない境遇。声に悩む以前に、地獄に堕ちることを恐れるべきではないか?


声が聞こえて辛い (6)

2006年12月22日

大多数にとっては無駄な助言

この話題に関しては、書き出しを除いて筆が重かった。また、私の覚悟に反して纏りも悪い。……背後の霊達が無駄と判断したのであろう。インスピレーションは天(霊界)の支持が合ってこそ豊富に得ることが出来る。

何が問題なのだろう?

姿無き声を問題にするのは、声が聞こえることではなく、霊を利用できないことではないか? 例えるなら、ドブに落ちても良い匂いをさせて上がってくるとか、転んだら宝石や大金を拾って起きあがるとか……そういうことを目論んでいる。

よほど福徳があるならそういう局面もあり得るが、もしもあなたがドブに落ち、または、転んでも、損ばかりで得ることがないと悩んでいるなら、利益を忘れてまずは復することを心掛けるべきだ。損を最小に押さえることが回復の第一歩なのだから。

自分の強欲さに押しつぶされてはいないか? または、両親や自尊心の強欲さに?

体質・気質

この問題に悩むのは、いわゆる、石橋を叩いても渡らない、慎重なタイプの人だ。たとえば、考えるよりも先に行動する人であれば、いかなる声が聞こえようともそれが問題になることはない。……つまり、声が行動を左右することもない。すると、行動よりも考えることを重視する人ほど、この問題で悩むのだ。

私も、考えることを重視する人間であるが、同時に奇をてらうところがある。考えても答が出なければたちどころに行動に移すし、考え方を改めもする。その変化に富んだ気質が、自分を救ったのだろうと振り返れば思う。

体質・気質、もしくは体癖によって、この問題の影響力が違う……であるから、こう考えることも出来る。

もしもあなたが行動を尊べる人であれば、利を得ることを諦めて、損を減らすように直ちに行動すべきだ。それは単にあなたを救うどころか、最後にあなたに利……勝利をもたらす。

もしもあなたが、充分に考えることを欲するなら、根本に帰って考えるべきだ。少なくともマンガ・アニメを参考に心霊問題を考えるべきではない。何となれば、大衆娯楽はしょせん、大衆に理解しやすく問題を簡素化しているのだから。

もしもあなたが、利を最優先にするなら、私などをあてにすべきではない。一得一失、無料相談の与える物などあなたに満足できるはずもないのだから。むろん、どこにあなたの納得する物が有るのかは私は知らない。だからこそ、私は無料で相談に乗ってくれる師を持ち、そして私も無料で相談に乗っていたのだから。


声が聞こえて辛い(7)

2007年02月05日

霊聴がうるさくて、というかつての相談者がどうしているのか気になって、精神統一を試みた。すると、私の心に飛込んできたものは、霊達からの激しい非難であった。

『間違った方向に心を向けて、それでうるさいだの、しつこいだのとイライラしている。本当ならば投出したいが、世の中、悪霊ばかりだと思われるのもしゃくに障る。でも本当の問題は、その人の心が悪霊と同調しているのだからどうにもならない』

社会に不満を持つ……チャンスさえ与えられれば、決して愚かではないのだからそれなりに成果を出せるとしても……そのチャンスも又、代償無くして得られぬものであると知っているだろうか?

それでなくても社会は、利己心で廻っている。他者の才能を活用しようなどという御仁(ひと)は、なかなかお目にかかれない。大方の雇用主・使用者は、いわ れ たことを充分にこなせばそれで善しとし、それ以上も、それ以下の働きも嫌うのが普通である。……機構的にそれで巧く廻っていくはずもないのだが。

世に不満を持つ者等の主張に、間違いがないとしても……大抵は大きな欠落をもって居る。……努力不足、経験不足、認識不足に、人脈なくて、人徳・人望もな い。――だれもが『こいつに大事な仕事を任せて大丈夫か?』と不信を抱かれているのに、望みの大きさと実際の能力とのギャップが、更に周囲の不信を助長し ている。

正しいことを主張するばかりで労せずばうだつが上がらなくてむしろ当然。いや、たいていの場合、出る杭は打て、とばかりに阻害されるのが落ちではないか?……役立たずの小うるさい小僧という世間のイメージを壊すことが出来るだろうか?

いや、そんなことは当人も充分に理解しているのだろう。だが目を背けたい。なんとなれば、依るべきものがすでに正義しかないから。だから、他者の間違い ばかりに目がいって、他者の善い部分が目にとまらない。……たとえ多くの欠点があるにせよ、長所もあるから仕事をこなしている。(いや、中には仕事を混乱 させているだけの人もいるだろうが、長所もあるからクビに成らない)、それを、自らの長所を伸すことを忘れて、ただ、相手の欠点と自分の誇りとを比較して 他者を見下すのは、なんのことはない。自信を失っているからだ。

自分より優れているものを認めたくない気持が、世の中を暗く悪いものにイ メージさせる。暗いものしか見たくない気持が、悪霊・低級霊と感応する……本来 なら目を背けるべきもの(悪)に目を向け、本来目を向けるべきもの(善)から目を背けている。……高級心霊に眼を向けようとしても、気持が利に囚われて、 お守りとかおみくじとかばかりが気になる。"印刷された紙様"を見るばかりで、人のイメージを超越する"神様"を信じられない。

巧く行かぬなら、巧く行くように方向を定めるべきなのに、巧く行かないままに悪循環にはまり込む……この様子では日陰から、まだまだ出てきそうにない。


うるさくて仕方がない!

2008年02月05日

このページは騒音問題や耳鳴り治療の解決法ではありません。――当サイトは心霊サイトです。

目的は霊障問題、とくに霊感が制御されない場合の対策を暗示(解決ではなく)するものですが、霊感なくして人は死後、他とコミュニケーションが成立しないことにご留意下さい。……

以下は、霊感発現以前に、精神統一の実習をしたことのある人ならば判りやすい。または、瞑想や座禅のたしなみのある人なら、ば、である。

ひっきりなしに霊の言葉が聞こえて、うるさくて仕方がない、という人がいる。ハッキリ霊の声とはいわず、または自覚せずに、物音や耳鳴りや、動物の鳴き声に平常心を揺らがされている場合もあるが、上述のようにこのページで扱うのは騒音問題ではない。

その音が他者の耳には聞こえず、また、健康上の問題もなく、さらにはお札やお守りが効果なく、お祓いもまた効果なく、霊能者に相談しても効果なく(この場合、事情を知って相手にしないのかも知れない)……

このような問題は、精神統一の実習や座禅の指導を受けた経験(自己流は勘定に入れない)があれば、本質的な取り組み方が間違っていることを理解しやすい。

無念無想を心かければ雑念が沸いてくる。

雑念を懸想とすればするほど雑念が強くなる。

……湧き上がる雑念は、心では抑えきれない。例えるなら、網戸で風が防ぐようなものだ。 つまり、本質的に手段と目的が適合していないのである。

さて、霊感というのはつまり感応であり、共感であり……話題が合わなければコミュニケーションが成立しないのと同様……合い応ずるところがなければ本来成立しないわけだが、自分ではコントロールできない雑念に感応している場合は、どうなるだろう? ――そう、止めたくても止められなくなるのだ。

……では、「どうすれば解決するか?」という、問いが寄せられそうなものだが、それに答えるのは難しい、比喩は必ずしも答にならないが、「戸締まりもせずに泥棒に入られない方法はないか」と問われるようなものだからだ。そんな都合の良い方法を私は知らない。


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