‘心霊相談(事例)’ カテゴリーのアーカイブ

迷いの解消・前は後ろの正反対(新編集)

2010/01/17

前は後ろの正反対

2004年 06月 17日

 前を見れば欲が出る。あれもしたい、これもしたい。

 前を見るから脇道に入りたがる……一体前ってどっちだろう?

 一生懸命に生きるから、どうしたいのかが判らなくなる。

 そんな時は真後ろを向いてみる。自分が一番イヤな選択肢は何であるか? それを真剣に見つめてみる。そして、その正反対を見てみると……自分が絶対に目をそらしてはいけない前が見る。

 一刻も早く、一歩でも前に。そう思う気持ちが道をそらす。

 真っ直ぐな道より、近道はないというのに。頭で判っても気がつけば曲がっている。曲がっていることに気がつかずに、道が見えないと絶望する。迷っているのではなく自分を信じていないだけ。自分を信じずにいては、自信がなくなるのは当たり前だ。


迷いは万病の元

2004年 07月 13日

「君は迷いが多いね」と指摘されてもピンと来ない人も、設問を逆さにしてみるとわかりやすいもの。「打ち込んでいる物がないでしょう」違いますか?

 何かに打ち込んでいる人は、自分の力の大部分を目的に注ぎ込めます。ゆえに猛烈な力を発揮できる物ですが、迷っている人はいつまでも足踏みを続けます。迷って足踏みをしていると、前に進まないのだから楽なようにも錯覚するけれど、実は泥沼に落ちた自動車宜しく、エンジンを吹かしても車輪は空回りを続けるようなもので、浪費される活力は相当な物なのです。……迷うことに焦るから……迷った時には様子を見る。様子を見るというのは、一念専心休むことが大事なのです。身動きできなければ精神統一するぐらいの気持ちが大切です。それが出来なければ、全力疾走している人よりも心身をすり減らすのが迷いだとおもうべきです。これは全く、迷いを万病の元と呼んでも差し支えないほどです。


衣食足りて礼節を知る

2004年 07月 13日

 衣食足りて礼節を知る――といいます。豊かさと善良さは比例するというのです。これは反対にも働きます。つまり衣食が足らず礼節を失う――というわけです。特に小心な人ほど……と表現されて、「ああ、自分のことか」と思える人は幸いですが、ともかく、僅かな不足、欠乏、不安、などから、衝動的な行動に打って出て、挙げ句の果てに自分の立場をますます悪くする人がいます。

 まずい!――と感じたならば、自分の立場が良くなるように工夫すべきなのに、ますます悪くなるようにがんばってしまう。これはつまり、迷いが迷いを呼んでいる状態です。


迷いの原因

2004年 07月 13日

 知識の不足が迷いを呼ぶ……というのは、ありがちな解釈です。確かに、知識の不足も迷いの原因の一つには違いないのですが、もっと大きな要因は、理想と現実のギャップに求めることが出来ます。つまり、人は理想の実現に困難さを感じると、ついつい、理想と現実を結びつけるような奇抜なアイデア(というより妄想)を弄んでしまうわけです。

 これを業《カルマ》に振り回される等と呼ぶのですが、自分の欲が人を迷わせるというわけです。

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 穏便とはいいがたい話です。迷いの主たる原因が欲にあるとします。すると、迷いを断つためには、まず欲を断つ必要が出てきます。欲さえ断てれば後は摂理、すなわち自然の法則に任せるだけで、自ずと真理の大道に合流していくわけです。

 ところが、どうしても欲を断てないとすると、迷いも断つことが出来ません。しかし、人は自分の欲の強いことには往々我慢が出来ますが、自分の迷いの強いことは往々我慢しがたいものです。すると、人は迷っていたことを忘れようとします。つまりは、ボーっとしていればいいのですから、迷いを忘れるのは比較的簡単です。

 それでも問題が残ります。迷いは人の活力を浪費するのです。そして、迷いを忘れ、浪費も忘れたとしても……実際に浪費は続きます。疲れた、気力が萎える、めんどくさい、誰かに頼りたい、大事にされたい。更にあなたが相対的な情念を理解できるならこうもいえます。自分が相手を大事にする以上に、相手から大事にされたい。自分が相手を愛する以上に、相手から愛されたい。

 これらは、迷いを忘れた迷い人の症状です。そして魂はゆっくりと堕落していきます。

 迷いの苦しみに欲を断てる人は、すなわち人生の試練をこなせる人です。反対に、欲を断てぬ人は、試練を自らの躓きに変える人です。ある人にとってのチャンスが、別の人の災難となる。人はこうしてふるいにかけられています。これをして無情というのは簡単ですが、宇宙は広くても、人類が使える資源は限られているのです。限られている以上、ふるいがあるのは避けがたいのですよ。


工夫の無さは迷いの証

2004年 07月 13日

 押してダメなら引いてみな――うまく行かないなら、無理をするよりも工夫すべきです。やり方を変えてみたり、ちょっと間をおいてみたり、無理をしても自他共に傷つくだけなのですから。

 ところが、押してダメならもっと押せ――と努力する人の多いこと。それでも開かなければ、人の助けまで借りて更に押そうとする。引いたりズラしたりすれば簡単に開く仕掛けであっても……このような人は無益な苦悩を生み出します。そして、無益な苦悩を人々に振りまきます。

 身近にこういう人がいて、縁が切れなければ……無益な苦悩以前に、自分の因縁に苦悩してしまうのが霊能者の苦労と言えましょうか。


ヒントを遠慮して答えは欲しがる迷い

2004年 07月 14日

 心の迷いが起因する問題について、いくつか相談を頂いております。しかしながら、霊査がなかなか出てきません。では、回答以前に何を語るべきかと探ってみますと、こういう事なのです。

 相談者の方は、気を遣い、ヘルプを乱用しないつもりで、霊媒(老神いさお)に相談するのを堪えている。そして、行き詰まって相談するが、それは結局、問題集に取り組んで回答を見るのと変わりがないというのです。なぜ、ヒントを見ないのか。

 ヒントを見ることを遠慮しながら、でも、答えを見ようとする。その間の相談者の努力とはただ迷いの生み出す苦しみに耐えるだけで、ちっとも成長がない。大事なのはヒントであって、答えではないのです。

 にもかかわらず、皆様は、ヒントは遠慮して答えを求める。……というのも、欲を棄てられず、また迷うことを棄てられないから、ということです。


人の迷いを背負い込む

2004年 07月 14日

 前述、「迷いを忘れた迷い人」――なる者がいたとします。自分自身は迷いを忘れても、迷いを棄てたわけではありませんから、そこにどうしても矛盾が生じます。その矛盾のしわ寄せを一人で背負うのは自滅行為ですが、ありがたいことに、又は、とても迷惑なことに、人は一人で生きられず、家族や社会の中で暮らしています。するとつまり、自分の生み出す矛盾や葛藤を、第三者に押しつけられる場面が往々存在し、それが悲劇の源となっていることを散見いたします。

 迷いの生み出す問題を解決するためには、迷いを棄てるほか有りません。しかし、誰かに押しつけられるなら、迷いが生み出す苦しみからは逃れることが出来ます。そして……苦しくないなら待つことも辛くはありませんね。

 迷いは苦しいからこそ、迷いを棄てようとする……冷酷なようで破滅を避ける仕組みがそこにはあるのに、迷いの苦しみだけを誰かに押しつけてしまえるから、迷いを棄てられずに魂の破滅を招くことが生じるわけです。

 自分の愛しい人の矛盾や葛藤を受け止める……一見、利他的な行為ではありますが、でも、因果応報、自らの迷いは自らが解決せねばならぬのに、迷いの苦痛を逃れたら、迷いを棄てることがますます出来なくなるもの。恋人や親兄弟の業《カルマ》を消すならいざ知らず、ただ苦悩ばかりを預って、利子を付けて返すのでは残酷な話です。

 表面的にいうならば、人は業《カルマ》よりも苦悩を嫌いますから、ただ、苦悩を取り去ることを善として、苦痛を伴い業《カルマ》の消滅は嫌がるのが普通です。そうして人々は愛する人々と一緒に「危地」を進むわけです。――感情的な不安よりも、真実の危険を軽視するなんて、私には耐え難いことですが、それが世間の良識であり、覚者だろうと抗いがたい強制力を持った誤解がそこにあるわけです。


人の迷いをなぞる

2004年 07月 14日

 まったく、まったく。迷いから醒めるには何が必要なのでしょうか? 人類の歴史はおそらくは迷いの歴史。ならば、迷いから抜け出る手だては、いくらでもヒントが見つかりそうな物……ええ、有るのです。ただ、迷える人が考えたことなら、それは迷いをますます深めるような表現を多用しているのが当たり前。

 いや、解脱者もいるけれどね。彼曰く「色即是空、空即是色」

 結局、迷いを棄てた人だけが理解できそうで、迷える人はますます訳の分からぬ言葉に出会ってしまう。

 要するに、迷える人が解脱しようとすれば、人の迷いをなぞることになります。すると、自分の迷いの他に人の迷いまで背負うことになるのです。……勉強で迷いを断つのは難しいものです。


心で、心の迷いは解きがたい

2004年 07月 14日

 前述のように、迷いに関しての相談をいくつか受けました。そして、その霊査はなかなか得られません。それは心の問題を、ただ心だけで解決しようとするから生じるのだと私は思います。

 簡単なことから、行動に移せば、それだけで糸口が見つかり、突破口が広がっていく。案外そういう物なのです。

 ある人の霊査も、なかなか降りずに心配していたら、先方からオフ会参加の打診がありました。すると途端に霊査が降り始めたりして、結局、行動しようとしたことが呼び水になったのでしょうね。もっとも、オフ会の準備に忙しくて、まだ筆記していませんが。

 迷える時は、出来ることから行動を始めるべきです。行動しながら考えることが良い。つまり、人は、考えすぎを防ぐ仕組みを持っているのです。自分を守る仕組みを寝かせておいて、苦しい、助けてというのは、ナンセンスというより、危険なことかも知れませんね。


痛い相談

2004年 07月 15日

 ここ数日、『迷い』をテーマにした更新を続けています。私としてはこんな辛気くさい……でも重要なテーマよりも、取りかかりたいテーマがいくつか出かかっているので心掛かりなのですが、必要な手順を省く事は後々面倒の種となる事を知らないわけではありません。

 迷いの生み出す苦痛について、霊感の鈍い方々は、「苦痛』として自覚していない場合も散見します。ところが、これを霊媒などが共感すると、胃の周囲が痛くなるのでやっかいです。つまり、霊媒能力の強い人が、『あの人、どうしているかな?』……などと思うと、とたんに自分の胃が痛くなるわけです。

 まあ、痛みを感じる事に恐怖するようでは霊媒はつとまりません。本当の交信は、感覚や体験の共有という形で行われるのですから、痛みを表現しようとする霊が居たら、その痛みをそのまま感じるのが霊界での交信なのです。胃が痛くなる相手が何人か居います。

 つまり、交霊で痛みを感じるのは、地上で、痛みに関する話をするのと同じ事です。別段自分の身体に悪いところがあるわけで成し、交信をやめればたちどころに痛みが消えるので、じたばたするほどの事もありません。

 ところが、特に人間相手で困るのは、交霊と比べて話がしつこくなりがちで、しかも、相手の切り替えが下手だから、いつまでも痛みが伝わってくる事です。さらに悪い事に、精神的な痛みの感じ方というのは非常に個人差があり、当人はせいぜいが不平不満の解消程度しか認識していなくても、その話を聞く霊媒には激痛が感じられる場合がある事です。幼少時の体験が原因だったりすると、もう痛みになれて悪夢を見たり、無意識に自傷行為に走ったりする程度で、自分の抱えている問題を適切に認識できない場合があるのです。

 こういう場合、当人にしてみれば、ただ愚痴を聞いてもらいたいだけなのですが、それに付き合わされる霊媒にしたらたまりません。愚痴を聞いているだけなら何年も、何十年もその苦しみを共有させられるのですから、うんざりです。特に、当事者が問題解決に乗り気でなければ、痛みに耐える事が不毛な努力に過ぎないのですから。

 もう一言付け加えるなら、人間の持ち時間には限りがあります。どうせ不毛な事をするなら楽しい事をしたいし、どうせ耐えるなら有益な事をしたいものだ――そうは思いませんか? 私は強く、強くそう思います。

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 さて、強く痛みを生じる相談が三件ほど寄せられています(中には相談の自覚がないが)。例によって詳細は書けませんし、そもそも痛みを生じるという事は、当人が解決するのに迷いがある事を暗示しています。というわけで、直接のお返事の他に、相談者を想定しつつ、普遍的な回答をする事は、冷静に問題を受け止める良いチャンスかもしれません。

Q「願望成就しない。自分には縁がないと諦めた。」

 適切な譬喩とは申せませんが、良く引き合いに出す話を流用致します。

 「お金持ちになりたい」という願望が成就しない人がいます。障害を明らかにしようと、「なぜお金持ちになりたいのか?」と問うと、「もっとお金を使いたいからだ」と答える。……使っていたら貯まるはずがありません。まして、安物買いの銭失いというわけで、お金の使い方次第では効率の悪い事、おびだたしくもあります。

 この「願望が成就しない」という件も、守護霊様の意見とは別に、私が霊査致しましても、どうも無駄な事に力を注ぎすぎて、肝心な部分に力不足を感じます。

 それは結局のところ、正しい努力をしているというより、自分のカルマに振り回されている状況といえましょう。

 すなわち、自分が幸せになるための願望成就ではなく、自分の欲に引きずり回されている状況での願望成就……すなわち、不幸になるための努力の過程にあるのだと私は判断致します。

 もっとも、あなたの守護霊の判断と私の判断の違いは、視点の違いに過ぎず、問題は縁の有無というより、時機を失して、次の時機がまだ先にあるという事です。待つのもつらいが、待つ間にもすべき事があります。そして、待ち時間を有効に使ったものだけがチャンスに遭遇してそれを無駄にしないのです。

Q「伴侶との行き違いについて。」

 心霊相談を休業する以前から、恋愛相談などはお断りしてきましたが、家族・特に夫婦間の問題や、恋人との間の問題についても、相談したくても相談できずにいらっしゃる方、また、断りの対象になっている事を失念していらっしゃる方などがあります。

 大事な事は、相手の心をどうにかしようとするのは邪である、そして、邪な事を手伝わせようとするのはもっと邪である。という事なのです。

 人生の伴侶に相対するのに、他人の手助けを必要とするなら、それはもう伴侶とは呼べません。つまり大切なのは、どうしたら自分は伴侶たりえるか、という事であり、相手が悪いと思えても、それを補えてこその伴侶、至らぬ同士が助け合うのが伴侶であるとしっかり認識する事といえます。

 もっとも、人生の伴侶に関する悩みの大部分は、「相手が責任を果たそうとしない」という事でして、これがとても難しい。一方的な依存、つまり、夫が、稼がず、かといって家事もせず、あげくに女を作った、なんて話なら、「別れろ……」としか言いようがありません。

 しかし、相談の大部分は、相手の長所を無視して、欠点ばかりが目につくという場合が大部分です。こういう問題は、実は心霊相談よりも整体などの方がよほど効果的な回答を提示できるでしょう。この手の不平不満は、大抵の場合、不健康が理由だからです。

 不健康というのは、病気を意味しません、ただハツラツと生活が出来ず、だるいとか、面倒だとか言って、人の手を煩わせてしまうから、そこに不満が生じ、不満が積もり積もってイライラしてしまい、イライラが高じて感情的になっていく、という悪循環に陥っていると見なすわけです。

Q「親・子との行き違いについて。」

 ここでは、親・子との問題に集約しましたが、縁を切りがたい相手と広く捉えてかまいません。

 特に相手との関係が重荷になるのは、要するに縁を切りがたいからです。で、そこまで問題がこじれてしまうのは、当事者の一方、または双方が、姑息な人間関係の手法を使うからといって良いでしょう。つまり、相手の好意を確認するのに相手を困らせてみる……という事をやるわけです。

 たとえば仕事に行こうとすると病気になるとか、無理難題を吹きかけ、応じなければ泣きわめくとか……こういう無茶な行動に出るのは信頼関係が破綻している……痛みでしか相手の存在感を確認できなくなっているという状況です。

 これは正直辛いし、はっきり言って痛い。そして、解決策もまた無数に見いだせるでしょうが、この手の問題も、やはり、心霊的な解決よりも整体的な解決策の方が効果的でしょう。

 つまり、お互いが不健康だから、不健全な見方・視点で相手を見てしまうのだ、また、不健康だから依存心が強くなり、不健康だから相手の依存心が重荷に感じ、お互い辛いからイライラして和解策もとれなくなっていく。

 この問題の解決は忍耐を要します。また、ここでは不健康と表現しましたが、加齢も、問題の一因となりますね。

抑圧された心

 特に女性に多いのですが、親に対する不平不満から迷っている人が多いのです。もう霊媒だけが分かる痛々しさというより、誰でもこのいびつさに気がつくのではと思えます。

 そして、この問題を大げさにしているのは、親の悪口への病的な嫌悪です。親の悪口をいわず、親の欠点を見まいとする……自分の親を無理に尊敬する為に、自分を騙し、自分をだますから何が真実であるかが分からなくなるのです。

 褒めるの価値観もゆがみ、貶す価値観もゆがみ、何を言わんとしているのかがわかりにくい。こうした事例がすべて、親への不平不満が言えないためとは申しませんが、私の知る限り、こういう事情の持ち主がとても多いのです。

 しかし、赤の他人の行為なら許せる事も肉親の言動ならば許せぬ事もあるはず。他人に冷たい仕打ちをされたところで所詮は他人なのですが、身内が冷たい仕打ちをすれば恨む気持ちも生じますよね。つまり、親だからこそ許せない事の一つや二つ、ないとしたら、それは他人に接するような冷淡さで親と接していると言えなくもないのです。

 大事な事は、親への復讐ではなく、欠点は欠点と正しく認識する事で、適切な……つまりいびつではないフォローが出来るようになる事です。

 ところが……これがなかなか出来ないものです。自分は変われても親を変える事は出来ず、親が変わらなければ悩みは増すばかりですよね。こういう場合、親が死ぬまで治らぬのかな……と思います。

総論

 以上、四点の事例を紹介したわけですが、実はこれらの回答事例は、枝葉末節に過ぎません。こういう回答もしなければ、へっぽこ霊能者が相談者を煙に巻いているようだから書いているだけの事で、もっと簡潔に指摘する事がよほど大切だと私は考えます。

 これら、迷える人は、果たして問題に悩んでいるのだろうか? と私は考えます。むしろ思考過程にだまされて悩んでいるのではないかと思うのです。

 まず、各事例は、自分の大事な人をかばおうとするが故に生じる苦しみです。いわば自分の愛情に苦しめられているようなものですが、なぜかばう事で苦しむのでしょうか?

 その迷いの原点は、物事を善悪で計るところにあると思われます。つまり、善ならば良し、悪ならば拒絶するという価値観と、大事な人に悪いところがあればそれを受け止めようとするところに、矛盾と葛藤の種があるのです。

 善悪で考えるというのは、宗教で言うところの二元論に相当します。つまり、善悪は相対・不離の、たとえば電気にプラスとマイナスがあるように、また、光があれば影が生じるといったように、相対不離で一方には必ず他方がつきまとい、相互に争いを続けるといった思想です。

 しかし、近代心霊思想は、一元論で受け止めます。プラスとマイナスは中性の揺らぎ、光と影はただ濃淡が違うだけ。善とはより高度な存在であり、悪とは未熟な存在を指す。いや、老子の思想を考え合わせれば、影があるから光を認識できるのです。

 悪だから異質の存在……なのではなく、未熟だからあなたが補わなければならない。そう受け止められれば、ここに迷いはなくなるはずなのです。

 つまり、愛しい人に悪があれ、それをどう取り除くかに心を痛めなければなりません。それはつまり、相手の欠点が二人の間の障壁であるという事です。

 しかし、愛する人にあるのが悪ではなく欠点ならば……相手はあなたを必要とするという事、すなわち、欠点があるからこそお互いが、強く結ばれざるを得ないという事です。

 愛する人の、または、あなたの親の欠点を正しく認識しなさい。というのは、あなたが大切に思う人の悪を見つけろ、相手との断絶を直視しろと言うのではなく、あなたがより強く結びつけなければならない点を見つけなさいという事なのです。

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人生の伴侶がなかなか見つからない

 まあ、以上で終わりにすれば話もきれいなのですが、ちょっと強欲な質問にも答えておきましょう。

 むろん、人生の苦楽をともにするのですから、その相手はなるべく頼りがいがあり、また、迷いや不正の少ない方が良いものです。……で、速やかに伴侶を手に入れる人は、ほとんどの場合、「私がいなければこの人はだめだから……」と、欠点を補うつもりで相手と接しています。(そのくせ、不健康になると、相手の欠点を重荷に感じて不平を言うのだから……いえ、そういうカップルを支える事も友人の勤めですよね)

 対して、伴侶を得がたい人は、「この人がいなければ私はだめだから……」と、欠点を許さぬ態度でいます。

 不幸にして……欠点のない人はいませんから、このような態度では死んでも伴侶を見つけられません。往々、「あの世で伴侶を見つけろ」と怒鳴りたくなるような強欲な人もいるぐらいです。間違って見つけた人がいるなら、人を見る目のない人か(当事者さえ幸せならば、ねえ)――控えめな人なのでしょう。

 いや、いや既婚者から恨まれるような発言は慎みましょう。


迷いは霊感の大敵

2010年1月17日

「霊能者は自分の未来は見えない」・・・等という。なんのことはない、そもそも迷いが生じたとしたら、それは背後霊の庇護を外れたということなのだ。――庇護下に無いのに霊感を使えば、回答者がいないのに良い返事が得られるはずも無い。イヤそれどころか、野次馬な霊にミスリードされる危険もある。

 私もまあ、誰かの助言を欲することもあるが、なんとか自分の霊感内で収まるか、追認程度で済むことが多いのは、ちょっとしたコツがある。

 まず、迷いが生じた事自体を楽観視しない。行き詰まったら元きた道を戻るぐらいの覚悟を決める。

 また、答えが無いのも答えのうち、とも覚悟する。つまり、何も答えがなければ、まあ、何とかなる、ということだ。

 そして要領の得ないメッセージを受け取ったら、それこそ、とことん行かなければならない、ということだ。途中下車は許されまい。

 人生で横着する様々な事態は、所詮、途中経過であって、良いことも、悪いことも、最終結論ではない。つまり、どう転がるか、わからないのである。だから、今は悪くてもジタバタしない。それよりも何よりも、霊媒にとって恐れるべきは、状況・事態の悪さではなく、背後霊らとの絆の有無なのである。それゆえ、たとえ不幸を味わっているさなかでも、自分が愛されていることを信じなければならない。

「人生は、背後霊(守護霊・祖霊)との二人三脚」と思うなら、迷いとは、チーム全体の危機なのです。眼前の事態だけの問題ではありません。それに気がつかなければ・・・視野が狭いということです。ならば・・・運が悪いならそのうち改善するかもしれませんが、自分が悪いなら、決して改善しないことを暗示します。

 それはもう、ただの迷いではなく大問題、いや大問題というより、救いようの無い問題、ではありますが。

船頭多くして船山に上る

2004年 11月 15日

 兎角、気弱な方は、いろいろな方面の意見を求めます。確かに多方面からの情報は物事を立体的に浮き上がらせるものですが、情報が増えれば増えるほど、物事の理解には高度な分析能力が求められるものです。

 特に分析中に難しいのは、取捨選択で、人の意見には主観もあれば偏見もまじり、切り捨てることがなければ、立体的に浮き上がらせるどころか、矛盾だらけで組み立てようがなくなることもよくある話です。

「船頭多くして船山に上る」といいますが、あちこちの意見を聞いて廻り、かえって迷いを増やすのであれば、気弱さから迷うという悪循環に呑み込まれてしまいます。

……さて、気弱さ故に迷ってしまった人が、そこで己を反省したとします。

「なぜ、私は迷ったのだろうか?……そうだ! きっと船頭が悪いからに違いない。今度は別な船頭を頼もう!!」

 しかし、気弱さからまた、たくさんの船頭を雇い入れればやはり船はやはり山に登っていくのでしょう。

……この意見は、迷える者をあまりに見下していないか! そう思われますか?

 智慧あれば助言に頼らず、分別あれば助言に迷わず――智慧も分別も無いから助言を受けて迷うのです。すべての迷える者が救いがたいとは申しません。しかし、間違った助言の受け方をしている人は救いがたいと思います。


自己評価の手段

2006/06/03

Q 「自分に優しすぎるという罪悪感がある。」


 自分に優しいかどうかは、どうでも良いのです。

 たとえば、明日早起きしなければならない晩に、好きなだけ酒を飲んだとします。……それが自分に甘い優しい事になりますか?

 今日の楽しみは明日の苦しみで相殺、いやむしろ赤字でしょう。一時的な苦楽だけで物事を考えるから罪悪感が生じるけれど、長い目で考えれば必ず帳尻……つまり因果応報、努力は報われる……は合うのです。すなわち、苦楽ではなく最善を考えなければならないのです。

 無理をすると、周囲の人々や、背後霊を遊ばせて、自分一人の労働となるから苦労が大きいのです。いわばそれは第三者の責任まで自分が背負い込むという愚かな行為です。

 反対に周囲の人々や背後霊と共に片づけるようにタイミングやリズムを合わさせるなら相応に楽になります。これはつまり、おのおのが責任を分担するという事で、収支決算にインチキはありません。要するに問題は、自分の苦楽ではなく全体の苦楽なのです。

 しかし、自他だけで物事を考え、また、表面的な苦楽で考えるから、自堕落という罪悪感をもったり、余計な苦労を背負い込んだり、下手をすると無意味な行動に走ったりもします。いわば、自分の進むべき道を正しく評価する手段を知らないという事です。


水子霊

2006/04/16

水子霊

最終更新日 2002年04月16日

 堕胎の害

 堕胎による一番恐ろしい害は、水子霊の祟りというよりも、むしろ、命を断つ事に罪悪感が失われていく事です。……祈れば許される。そういうものではありません。

 いずれ子供を持ったときに、自分が抱いている子供と、水に流してしまった子供の価値の違いを見出せるでしょうか。自分の抱き上げた子供を可愛いと感じた時、自分の都合で命を絶ってしまった水子の事を思わずにいられるでしょうか。

 子供の折檻死や、放置して死に至らしめる親が増えていますが、社会の影では、堕胎という名で、さらに多くの子供たちが死という運命を与えられているのです。生まれてくる命を大切にしない社会が、どうして子供を大切にできるというのでしょう。

 それはまた、その子にとっての運命ともいえます。

 しかし、自分の手に運命を委ねている、一つの命を救えない人が、どうして自らの魂の救いを求める事が出来るのでしょう。そして、小さな命を大切に出来ないような、恋愛で幸せになれるでしょうか。そんな独り善がりな気持ちは、いずれ裏切られます。そして、その独り善がりな心には、自らが直視できない無数の罪悪感が宿ります。この罪悪感が、格好の悪霊の巣になるのです。

 堕胎も殺人です。確かに、母体を守る事も大切ですし、強姦された結果の妊娠なども、出産後の事などを考えれば、堕胎も仕方がないと言えるでしょう。しかし、堕胎を繰り返せば、精神を病んでいきます。しかも、避妊せずにいれば、妊娠するのは当り前です。ちょっとした配慮で防げる悲劇を繰り返す事ほど、自分の魂を傷つけるものはありません。


水子供養

最終更新日 2002年04月16日

 水子供養

 さて、水子の供養ですが、一番大切なのは残された者の気持ちです。基本的に三歳未満の子供に、大げさな葬儀はむしろ、周囲の人から白い目で見られます。ご夫婦そろって、近所のお寺でお経を上げていただく程度で充分だと思います。(クリスチャン等を除いてですが)

 その場合、お付き合いのあるお寺がない場合、むしろ大きなお寺を頼った方が、謝礼がきちんと決まっていて、安心かもしれません。

 一方、まるで何もしないと、ささやかな不幸に見舞われたときに過剰に不安に陥りがちですし、いずれは誰も死に直面するわけで、その際に水子とは言え、自分の子供を粗末に扱ったという思いは何よりも心に引っかかります。

(仏事をおろそかにする人ほど心霊詐欺に掛かりやすい)

 また何よりも問題なのは、母親にとって自覚はなくても水子の存在は案外大きな心の傷になっるということです。

 ですから、私がお勧めするのは、やはり、日本の普通の葬式方法の略式で良いから読経を上げてもらうべきと思います。心配なのは料金ですね。あまり水子供養を前面に出しているところは、特別な料金設定などがありそうで嫌ですよね。金で人の幸福は買えませんが、かといって人はいずれ死なねばならず、いずれはお寺にもお世話になるのでしょうから、そのような仏事を任せられるお寺を探して置く気持ちで、暇を見てはあちこちのお寺に行って相談なされると良いかと思います。 (参照:先祖供養)

 もう一つの方法

 日本の心霊の独特な考えですが、人間には守護霊と呼ばれる霊が一人一人についていて、その守護霊が担当する相手の霊的な加護や、精神性を導く働きを持っています。そして、守護霊の上部には総括する役割の存在がいて、そのような霊を日本では神仏と呼称します。

 これは神道、特に国家神道的な神でも、仏教的な仏とも違います。死者の事を『仏さん』などと呼ぶのと同じ考えです。そして、霊能者や、行者、拝み屋など、心霊を扱う人の場合、そのような霊を見、話しをする事が出来ますが、普通の人の場合は、不可能ですよね。ですから人知に余るような悩みがあった場合、人は社寺で祈り社寺の神体仏像などを、神仏と見なして語りかけるわけです。

 ですから、神道仏教的な思想とは関わらず、社寺は常に高級霊が見張り、あたかも高級霊界の受付所のようになっています。もっとも様々な制約やコツが有るのですが……

 さて、本題の死者の供養に戻ると、現代日本ではちょっと難しい話なのですが、かつての日本の生活には産土(うぶすな)神や、氏神様と呼ばれる神社が集落に必ずあり、そして、人が生まれてはお宮参りに行き、七五三に神社に行く、そして亡くなればまた、報告に行き、今までの加護に感謝するという習慣があります。

 まあ、死を穢れと考える神道は、喪中の者は鳥居をくぐるな、などと言いますが、儀式の都合等の場合はさておき、「死が穢れなら、お払いさえ受けていれば人は死なないか!」という話になってしまいます。その辺は、陰陽師の活躍した頃の、鬼や怨霊伝説の名残りの気がします。……脱線ですが。

 ですから、もしお子さんが、生まれ育った場合に、お宮参りに連れて行くであろう神社…それが子供の産土神に当たります……にお参りし、霊界でのお子様を霊界でも見守ってくださるようにお願いするのが良いでしょう。

 この場合、正式な祈祷や、昇殿参拝などはする必要がありません。社殿の前、拍手を打った後、ゆっくり心の中で、願い事を三回繰り返し、頭を下げて、『お願いします』と結べばよいのです。願い事を三回繰り返すのがコツです。一回だけだと、祈っている人間も気が高ぶって相手に念がうまく通じない事もあるからです。


早世・夭折

最終更新日 2002年04月16日

 早世

 親より先に子が死ぬ……親にとってこれほど不幸なことはありません。この、親の不幸につけ込んで布教をする人などがいますので、子供の早世(早死)を親の因縁と思い悩む方がいらっしゃいます。その誤解を解くためのページです。

・・・・・・・

 ある意味、胎児というのは、地上でもっとも幸福な存在といえましょう。母親の胎内に守られ、ただひたすら成長の努力を続ければよいのですから。人間はこの母親の胎内での得た幸福感、そして、乳幼児の頃に受けた愛情で、人格の器を作ると思えます。

 成長するにつれて、社会に揉まれ、それなりに分別もついてきますが、やはり幼児期に親に死に別れた人などは、最後の精神的な踏ん張りが足りない気がするのは幼児期に愛情が不足したからと言えましょう。その一方で、両親がそろっていながら情緒不安定な人もいます。親は愛情と思いながら実は我欲を注いでいるのかも知れません。

 さて、子供の早世には様々な原因があります。人それぞれに事情があることでしょうから、それらすべてを一様に説明することは不可能ですが、転生という点に限ると、以下のように考えられます。

 前世において、衝撃的な死を味わい、その現実を受け止められなかったような霊は、胎児となる事で、ある意味感情的な物をリセットする事が出来ます。私たちもあまりに不運な目にあうと、『夢なら覚めて欲しい』そう考えますよね。それと同様なのです。

 衝撃が生み出す心の傷は、母親の胎内にいて四六時中注がれる愛情が打ち消してくれます。このような手順を踏まなければ自分の死を認める事の出来ない傷ついた霊も、霊界にはたくさん存在します。

 魂に傷があるがために、長生きをしても人生の苦難に耐えにくい、それがために、早世する肉体的な環境の持ち主の所に転生すると考えられます。

 人生は霊性向上の場なのです。子供を産み育てる親にとっても、生まれてくる子供にとっても人生は霊性向上の修行なのです。わずかな時間でも関わりあった事が、互いの心に残すものを大切に扱っていただきたいと思います。

 死別の悲しみ

 身内を失うのはとても辛い事です。それが我が子ならば、苦しみがさらに増す事でしょう。しかし、死をあまりに悲しむ事は、死での旅路につく魂にとって、大きな負担となります。

 身内の者たちにしてみれば、「もう少し生かしたい、いや何とか出来たのではないか」などという考えが、頭の中に巡りましょう。しかし、残された者たちがどれほど嘆き、引き止めようが、死の淵から帰ってくるのは容易ではありませんし、肉体が損なわれていれば不可能なのです。

 そして残された者の悲しみは、死者の苦しみでも有ります。憎悪による自殺など、特別な場合を除いて、誰も自ら死によって、愛する者たちと別れたいとは思わないのです。嘆きは、悲しみを呼んでしまいます。彼らには次の生活が待っています。行かねばならぬものなら、快く送り出す。それが死によって分けられた互いにとって幸せなのです。

 また、早世した子供に対しては、親の責務を果たせなかった、自責の念もありましょう。しかし……幼子ならば、親を慕い、寂しがる気持ちはあれど、親を恨む事はありません。ある程度、成長した子であるのなら、親を恨むのは筋違いでしょう。

 死者との通信を望むな

 死者との通信を望むべきではありません。特に子を亡くした親ほど死者(我が子)との通信を強く望みがちですが、彼らには次の生活が待っています。残された者たちが未練を持って生きることは、死者にとって負担となります。

 この世での生活を終えた霊たちは、まず現界での生活の、悪い点を反省し、良い点を伸ばすように指導を受けます。生前も死後も時間を無為に過ごす事は出来ますが、余分に使える時間が有るわけではありません。無為に使った時間は、やはり無為に使った時間なのです。

 鉄は熱いうちに打ての例えのとおり、霊界入りして直後は、学ぶべき事が多いのです。

 心霊研究団体では盛んに交霊を行ないます。人々の記憶にあるような霊からの霊界通信は、関係者に対して否定しがたい証拠となりますから、なるべく死んだ直後の霊を呼びたがります。

 しかしながら、普通の交霊会に現われる霊というと、大抵、親族もすでに亡くなっているような古い霊に限られます。その理由は、やはり霊界入りした直後の霊は、現界の影響が強すぎて、霊界通信に絶えるだけの霊界に関する知識が無く、また、霊界で学ばなくてはならないことが多すぎて忙しく、現界に関わる事を嫌う事がありあます。

 本来、死の直後の霊は、呼び出されることを嫌います。感情を満たすだけの無為な死者との通信は望むべきではありません。


水子霊・相談例

最終更新日 2002年04月15日

 水子霊の祟りとは、大抵、女性の罪悪感の事を指します。水子供養とは、罪悪感の消去を目的にするわけです。その根拠は、子供は母親だけでは作れず、中絶は男性側にも問題があるのに、男性に水子の祟りが少ない事や、水子の害と呼ばれるものは、まじめな人に多く、遊び人に少ない事が挙げられます。

 水子の霊を調べるのは、霊能者にとってはとても簡単です。水子の霊が胎児から離れる時に、媒体となる幽体を脱ぎ捨てていきます。ですから母親の周囲には、へその緒状の幽体が霊視できるのです。これを勘定すれば、女性が気がつかないうちに、流れていた子供の数まで当たります。

 実際、水子の数を指摘すると、よくよく考えて思い当たる事も多々あるものなのです。その一方で、霊視されるのは、幽体の抜け殻ですから、親を恨む、または害を及ぼす、といった悪意は見られないのです。

 つまり、水子の害というのは、子供の霊の怨念ではなく、むしろ、親の罪悪感なのです。罪悪感というのは贖罪を求める気持ちを内在していますから、自覚の無いままに不幸が起る事を期待しているのです。これでは守護霊の張る霊的防御のスイッチを切ってしまったかのように、低級霊に漬け込まれる隙が出来てしまいます。つまり罪悪感を打ち消す為に不幸を望むことが、水子の祟りの正体なのです。

 とは言うものの、水子霊の祟りと呼びえる現象がまったくないかというと、決してそんな事はありません。その多くの例は、霊現象というよりも心理的な要因ではありますが、ご参考までに実例を挙げておきます。

 相談例1:離婚歴のある女性の場合。

 前夫に子供を残して再婚した彼女は、常々残してきた子供に罪悪感を感じていて、現在の夫との間の子供のわがままに拒否的な感情を抱いていました。このような心のしこりが家庭生活に影を落としていたのです。

 相談例2:経済的な事情から、堕胎をせざるを得なかった女性の場合。

 水子にしてしまった子供に対して罪悪感を抱いているために、その後生まれた子供と罪悪感が二重写しになって、子供の相手をまともにできないのです。

 相談例3:私生児

 私生児として生まれたある女性は、母親に対して複雑な感情を抱いています。母親は大好きなのだが、境遇に不満があり本当は泣き言を言いたい。でも母親は傷つけたくない。その葛藤が体に影響を及ぼし、様々な不具合を抱いています。

 その他:

 自分も親になれば親の苦労がわかる、などといいますが、結婚に失敗し、また、堕胎をし、その罪悪感を親に向けてしまい、ますます親子関係が拗れる人もいます。


相談から指導へ

2006/04/16

 人間には長所があり、適性があって、個性を形成している。……当然、欠点もあり、苦手なこともあって、それもまた個性の一部である。

 たとえば、ある人が悩みを抱くとして、それは単なるその人の事情が生み出したものであるとは限らない。その悩みの元のある程度、場合によっては大部分は、その人の個性の中に原因がある。つまり、被害者の適性や、欠点なども苦しみの原因の一部なのだ。

 それ故に、真に悩みを解決したければ、自己の向上も不可欠となる。……私が、悩めることがチャンスであると考える所以である。

 ところで、個性が一人一人違うのであれば、助言も一人一人によって変るべきなのは間違いない。……だからこそ、大量複製された言葉による指導ではなく、個人指導が必要ということになる。相談に応じる側が、それに気がつかないとしたら滑稽ではあるが、相談を求める側もそれに気がつかないのは悲惨としかいいようがない。適性が合わないのにもかかわらず、他人のやり方を真似て、失敗の傷を拡げる人の何とも多いのだ。自分の個性を蔑ろにされて愉快な人も居ないだろうに、自分はせっせと自分の個性を蔑ろにしている。

 ここでいう、個人指導と、個人相談とは若干意味が違う。相談主は往々、今現在の苦境から抜けることだけを考えて、安易な救済ばかりを希望し、なおかつ不快な指摘にはすぐに眼をつぶってしまいがちだ。

 敢えてしつこく、非難めいたことを書くが、実力を超えた問題であるからこそ悩み、人を頼っているのに解決すべき時期や、解決手段までも指定する人がいる。私は別段それを非難したいわけではないが、そういう行為が正に自分を苦況に追いやっている事に気がつかなければ解決しないのではないか。

 これでは、泥棒を自宅にかくまいながら窃盗を防げというのに等しい。こういう無茶な要求に疑問を抱かなければ葛藤の多い人生にならないはずもない。

……身体の健康維持には、医療の他に整体なる選択肢がある。つまり病気の生じやすい体質を改善していく手法だ。同様に、心の悩みを解決するほかに、悩みを生じやすい気質を改善していく、整心、いやむしろ「整魂」なる手段が必要なのではないか。今、そう考えている。

 悩み事に対する、心霊相談は中断というよりもう止めるべきであろう。為すべきは、心霊指導、または、「整魂」なのだと、考えている。


 2006/04/16

死にたい……自殺願望

2006/04/16

死にたい……

2006-04-15

 世の中には、ろうそくの炎が立ち消えるように、誰にも心中を明かさずに消えていく人もいます。そういう人は、あまりの心労に他人に相談する事を忘れているもので、だから、自殺の名所に「相談してください」という看板が立ち、多くの人が自殺を思い止まる要因になっています。

 そして大切な事は、わざわざ自殺の名所にたどり着きながら、後戻りして自殺防止の相談を受けるのは、そもそも死にたくて自殺しているのではなく、苦しみから逃れたくて自殺を思い立っただけで、生きて苦しみを除けるならば死にたくないのは生物として当たり前の反応だと思います。

 なるほど中には生きる事に希望を見出せず、その一方で生活の雑事が面倒になって死にたいと思う人もいますし、その他の漠然とした理由や、精神病的な強迫観念に囚われて自殺願望を持っている人も居ますが、私に助言ができるのは生きる方法であり、生きる気が無い人には、言葉は何の助けにもならないということです。

 あなたが「生きたいから相談に乗ってくれ!」というなら、私は誠意を尽くし、努力をします。 しかし、「死にたい」という相談に対する回答は私にはありません。 出来るのはせいぜい、知らない人から自殺の予告が入ったと、警察に連絡するぐらいなものです。

心霊家として、そして霊媒として一言いうなら、「死んで楽になった」という人を私は一人も知りません。

 中には、強迫観念に憑かれている人もいれば、目標を見失って生きるのが面倒になった人も、「死にたい」とつぶやくものです。そういう人への回答は別に用意します。

 実を言えば、私の元へはかなりの頻度で、「死にたい……」というメールが舞い込みます。「死にたい」という台詞は、生活苦に対する無意識のストレス発散であるから、死にたいと言っているうちはなかなか本気で自殺しないものですし、その真意・根底には、「死にたいほど真剣に苦しんでいるのだから、早く助けて!!」という、意思があることは、霊感が無くてもわかるというものです。

 ところで、まったく人間というのは、苦しい時にも他人に気を配れる人もいる一方で、大抵の人は苦しい時には人の都合などお構いなしに騒ぎ立てるもので、まあそれが人間の性、と同時にお互い様と受け入れるしかないとは思いますが、中には、自分が苦しいと、苦しみを逃れる努力を忘れて人まで苦しめようとする人がいるから困ったものです。

 なるほど、あなたにして見れば命がけの相談かもしれません。でも、冷静な第三者としての私からは、自分の命を人質にして回答を強要する人でなしにしか思えないのです。そういう人の甘えた欲求に対して真剣に答えようとしたら限りがありません。私にも生活がありますから、どこかで相談を拒絶しなければならなくなりますが、そうなったら、相手は売り言葉に買い言葉で追い詰められるかもしれません。

 結局、真剣に自殺を考えている人に対しては、まずは引き止める必要がありますが、でも、他人に甘えたいがために自殺をほのめかす人は絶対に甘やかせられないわけで、メールや掲示板などで相談に応じる事はとても出来ないといえます。


自殺衝動・でも生きたい!!

2006-04-15

以下は、自殺衝動に襲われながらも生きる事に努力しようとなさっている方への解説です。

 病的な自殺観念

 私の基本的なスタンスは、病気は医師に任せるというものです。まず、医師の助言を優先してください。心霊にすがるのは医師が見放してからにする事が大切だと思います。

 とはいうものの、霊能者として感じる注意点があります。

 1.葛藤と戦う

 皆さんは本当に葛藤と戦う事が下手だと思います。 心の中にわきあがる衝動は、自分自身の分身と同じです。争えば自分と同じだけの力を持っているのですから、決して決着がつきません。そしてどちらが優勢になっても引き分けでもあなた自身が苦しむ事になります。

 争いになったら、葛藤のどちらが勝っても、あなたの負けです。争わぬ方法を見出すか、妥協点を見出す事が大切ですし、妥協できなくても真剣に争わないことです。

 2.決して慌てない

 人は苦しければ直ちに逃れようとします。ですが、助けが届くには時間が掛かるものです。具体的には医師の処方に満足できないからと、心霊相談に頼るのはあまり褒められた事ではありません。その努力が事態を混乱させる事になると思います。

 3.他に頼らない

 自らが苦しみを生み出しているのに、薬や他人に頼って助かろうとしても自分からは逃げ切れません。


自殺願望・絶望または諦め

2006-04-15

自殺願望をお持ちの方へ

 災難は、悪意より未熟さ、不運より要領の悪さがもたらします。

 あなたを不幸にしているのは一体誰か……

 その原因があなた自身にあったとき、あなたは振り上げた手を一体どのようにして下ろすのでしょうか。

 困り果て、悩みぬいた末に、私の元に至った挙句、「あなたが悪い!」といわれたら、きっと、腹も立つことでしょう。それがわかるがゆえに、以下の問題は、私が最も回答したくない問題の数々と言えます。

 自分に内在する問題点を明らかにする覚悟のない人は、どうか、他の霊能者をお当たりください。そのほうが、あなたにとっても、私にとっても幸せなことでしょうから。


自殺願望の考察

2006-04-16

 普段、人間は言葉で思考し、それをそのまま口から発するものですから、一般的な事柄については、真意を深く感じる必要も無く、会話が成立します。

 一方、霊が、人間を通じて言葉を発する時には、頭の中に浮かんでいるたくさんの言葉の中から、目的に一番近い物を選び出し、繋げて文章を作るといいます。(永遠の大道や、シルバーバーチの霊訓などを参照のこと)

 この事はごく当たり前ですが、言葉は、意思の表現方法としてはとても拙い物であり、真意を読み取る努力が、特に心霊的な言葉には重要であるという事の一つの理由でもあります。

 さて、自身の魂が何かを言葉で表現しようとするなら、やはり霊と同様に、頭に格納されている言葉を選び出して、繋げていると考えるべきでしょう。そして、前述の「死にたい」ですが、その言葉が、その人の魂の発する言葉だと考えると、その真意は一体なんでしょうか。

 私は、「自由になりたい」と受け取りました。

 魂は、五感というわずかな感覚で世界で感じる事に嫌気を感じている。それ以上に五感というわずかな感覚だけで、友情や愛情を感じる事をとても寂しく思っている。「自分の魂を解き放ち、もっと多くの感覚で、世界や友人や愛する人の事を感じたい!」私の霊耳にはそう聞こえたのです。

 人々の言葉にならない寂しさ、それは孤独だからというより、自身の魂が五感に閉じ込められている事を寂しく感じているのではないでしょうか。


自在でありたい

2006-04-16

 さて、魂は単に肉体から逃げたがっているのでしょうか。確かに努力の甲斐なく、苦しみにあえいでいればそこから逃げたくなる気持ちは分からないでもありません。でもそれは、希望なく苦しんでいるからであり、できる事なら逃げる事よりも、自身が主導権を握りたいというのが本音でしょう。

 先ほどは「自由」という表現を使いましたが、真実は「自在」という言葉が適切なのではと思います。辞書で引くと、自由には様々な意味が含まれていますが、一般的に、自由は、「どうにでも動く」、自在は「意のままに動く」となるでしょう。そして、そう、魂は「せめて自由を……」と望んでいるのであり、できることならば「自在」を求めているのではないでしょうか。
 求めているのが自由ならば、確かに死も回答のひとつかもしれません。しかし自在なら……

 そう、私は、漠然とした「死にたい」という言葉の中に、その人の熱烈な、霊性解放に対する衝動を感じたのです。自身に内在する理解不能な衝動……理解不能だから、「死にたい」という否定的な、消極的な表現になってしまう。でも、それが「霊性解放」に対する欲望だと自覚した時にどうなるでしょうか。

 時々、死にたくなるともらしたこの人は、素晴らしい霊性を持ちながら、自分の霊性の生かし方に気がついていないだけではないか。そう感じるのです。


佳人薄命

2006-04-16

 

 「美人薄命」等ともいわれますが、本来は「佳人」です。美人が見た目の美しさを指すのに対して、心根の美しさを併せ持つ人を「佳人」というのです。さて、この佳人薄命も、霊性解放の観点から見ると、面白い事に気がつきます。

 シルバーバーチの霊訓などでも、不健康の理由を、心身のバランスが取れていないから等と表現されていますが、魂が肉体に閉じ込められている事を良しとしない事が、不健康な理由と考えたらいかがでしょうか?

 素晴らしい智性の持ち主が薄命なのも、霊性が閉じ込められている事を苦痛に感じながら生きているせいと考えたら……自殺をしたくは無いけれど、魂が肉体に閉じ込められているのは嫌だ……そういう動機があるとしたら。

 もちろん、不健康で、自殺願望がある人が素晴らしい霊性を持っているとは限りませんが、不健康さと自殺願望の背後に、霊性解放への秘めた衝動がある場合がある事は、特に心霊主義《スピリチュアリズム》に関心のある人には重要な事に思います。


自殺願望 2

2006-04-16

 もう一押し、考察を進めます。

 シルバーバーチの霊訓の第一巻の冒頭に、地上に派遣されたシルバーバーチのぼやきが出ていますが、シルバーバーチたち、高級霊界の住人たちにしてみれば、地上が色褪せ鈍重な世界に感じられるのと同様に、霊性進化が進み、転生の必然性が薄れてきた魂にとっては、やはり地上生活というのは、どんよりと濁って活気の無い世界に感じられるのは無理も無い事だと思います。

 こうなると、いち早く地上を脱したいという気持ちは、案外、魂の本音かもしれません。もちろん、理由があって転生してきている以上、勝手に地上を去る事が出来ませんが、魂が意識にごくわずかしか顕在しない普通の人の場合、魂の本音が、肉体に思わぬ反応を引き起こす事例があるのでは……そう思います。

 人は感じる事で思考を始めますが、言葉を処理する形で思考するものです。そして、霊性解放への衝動が、「死にたい」という言葉に置き換わったとすると、その人の思考はいかに死ぬか……に向かってしまうのではないでしょうか。

 そして、霊性解放を強く想う時というのは、やはり物事がうまく進んでいない時だと思うのです。きっと、物事が進行中であるなら、「感じる」暇もない事でしょう。つまり、苦しい時に、その状態からの脱却願望を「死にたい」と錯覚してしまったとしたら、一体どうなるかという事です。

 いうまでもなく自殺に対する強い衝動となる事でしょう。そのような人に対して、心霊的な常識……すなわち自殺が大罪である事を告げることが果たして解決になるでしょうか。私はならないと感じます。本音は自身の霊性解放にあるのです。その人の魂は、様々な地上的な制約に息が詰まる思いをし、その苦しみから逃れようと必死になっているのです。その人に対して、罰で脅かすような真似は、ますますその魂を追い詰めてしまいます。

 自殺は悪い事です。しかし、本音がもしも、自分の在り方・「自在」を求めているのであれば……

「君に必要なのは、死ではなく自在なんだよ。妄念に奪われた、自分の主導権を魂に取り戻す事なんだ。」

 そう言って上げられるのではないでしょうか。

 「死にたい」……魂の発した言葉は、自分の意識に暗示をかけてしまうのです。それは決して本音ではないとしても、人は言葉で考えようとする為に「魂の自由」を「肉体からの解放」……すなわち「死」とイメージしてしまえば、答えは自殺でしかなくなるのです。

 今の自分の範囲に、自分の魂の可能性を閉じ込めないでください。あなたが求めるべきは、自由ではなく、自在なのです。


夢・希望・願望

2006/04/15

夢や、希望、願望が実らないという相談についてです。

この問題についてのご相談は、なるべくご遠慮ください。私としては見ず知らずの人の夢を壊す、嫌われ役を自ら買って出たいとは思っていないのです。


 漠然とした相談

 時折、「自分の希望のままに、物事が運ばない……」という、不可思議な相談を受けます。

 私には、この質問の論理がどうにも理解できません。物事が成るには、正しい方法と、適切な努力が必要なのであって、本来なら物事が上手く運ぶ方が不思議なのです。まして、力が及ばなければ、物事が上手く運べなくて、むしろ当たり前ではありませんか。

 ですから、この問題への回答は実に単純明解なものしか、思いつきません。

 「あなたの努力が適切ではないか、努力が足りないか、いずれかでしょう」

 いえ、もっと重大な問題があるようです。

 

 実力

 悩み事というのは、自分の実力を超えているからこそ生じます。では、夢が実現できないということは、一体何を意味するでしょうか?

 質問の筋道をきちんと説明できない人は、努力家ではなく、夢想家であるということです。努力もせず、筋道も間違っていたら、あなたの理想が実現するのは、とても難しいことでしょう。

 苦しんでいる人は、大抵は自ら問題を生み出しているものです。そしてじたばたと、苦しみにもがき苦しむ人は注意しなければなりません。苦しいのならばなおのこと、じたばたとすることに無駄な労力を使ってどうなることでしょう。

 

 時期・チャンス

 懸命に努力しても、何の結果も得られないこともあります。努力だけでは足りないのか……その問題に取り組んだのが、心霊である……そういう解釈もあります。つまり、心霊というのは努力を型に成すための研究でもあるのです。

 努力を型に成すには、タイミングも大切ですし、待つことも大切です。たとえば春に播くべき種を、冬に播いたら……小春日和に発芽した若芽は、真冬日に凍りつき、枯れてしまうことでしょう。

 死者の言葉に耳を貸した、心霊は「摂理」にいたります。出来るものは出来るし、出来ないものはやはり出来ないのです。しかし、摂理に敬意を払わない者は、出来ないものをやろうと努力し、挫折します。

 努力は大切ですが、目的を見失っては成らないのです。努力のための努力は、自己満足に過ぎません。目的のための努力こそが、あなたを成功と幸せに導くのです。

 

 夢の代価

 慎み深く暮らしていても、事故に巻きこまれることもあるのに、ただ無事でいられるというだけでも、一体どれだけの幸運が必要なのでしょうか。なのに不運を嘆く人のなんと多いことでしょう。

 夢は、一体誰のためのものなのでしょうか?

 不運を嘆くあなたは、自分の夢が実現できないのではなく、夢の代価を払えずにいるのです。この差は似て非なるものです。

 

 摂理

 蒔かぬ種は刈り入れられないのが摂理です。つまり夢が成らないことも、自らが原因を作っているのです。

 

 努力

 質問: 人生に努力は、必要でしょうか……

 私の立場は非常に明快で、ただ摂理があるだけのことです。

 物事には代価が必要であり、安易に得られる物は、それなりの価値しかありません。 つまり

……欲しければ働け、嫌なら諦めろ

……それだけの話です。

 努力が美徳であるというのは、努力するだけ利益が上がる農耕文化の思想に過ぎません。運の比重の大きな狩猟文花では、地道な努力よりもむしろ、より多くの分け前を得るための自己主張などを重視します。 そして、現代日本も、努力よりもむしろ自己表現が重要に成りつつあります。

 そして、私も努力をすることが大切だとは思いませんが、自己表現も下手なら、努力もしないのでは一体どこに取柄があるのでしょうか。そして、「自分の希望のままに、物事が運ばない……」という質問は、摂理の面から一体どのような解釈ができるのでしょうか。

 このような質問をする人には、想像もつかないことでしょうが、私の回答は、『今のところはまだその程度で済んでいますが、いずれもっと大きな悲劇と逃れることが出来ない困苦に見舞われることでしょう』というものです。

 無理に働く必要はないと思いますが、自分が欲しいだけのものを稼ぐ努力がなく、そして夢や願望を捨て去れなければ、自分自身の怠惰と欲望の板ばさみで苦しむことになります。そして、年老いてから努力するのは何よりも切ないことですよ。

 そして、若いうちに運や縁を育てておかなければ、年老いて、苦しみに直面しもあなたの苦しみに親身になってくれる人は現れないからです。

 

 楽しみ

 人生は、ぜひ、楽しまれるべきです。ですが、その前に、人には自らを削って楽しむ人と、自らを太らして楽しむ人に大別できることを覚えていてください。苦労を後回しにすれば、いずれ帳尻が合います。怠惰の生み出す苦しみは他人には解消出来ないものなのです。

 そして、何より幸せなのは、生み出す喜びを極めることです。人が苦労と思うことを喜び楽しみながら出来るという事……これはどんなに羨んでも、努力しても会得できるものではありません。

 また、浪費というのは、なんと心地よいことでしょう。しかし物や金がなくなれば、とたんに人は心寂しさを覚えます。働くのは面倒だ……ですが、形あるものを作り、残していくことはなんと安心感が生まれるものでしょうか。

 浪費と言う、目先の甘さに囚われて、知らずに不安の種を播き、面倒という、目先の苦さに囚われて、安心の種を播き忘れたら、楽しみの果てにただ不安が残ります。

 結局のところ、人には、自分の未来を取り崩して今の楽しみを追いかける人と、楽しみながら未来を生み出していく人がいるのです。

 

 怠惰の理由

 なぜ、人は怠惰に陥るのでしょうか。私が見る限り、夢を実現できない人は、夢よりも、努力よりも、言い訳を大切にしている人のようです。

 本当の夢を抱いているなら、何をさておいても、努力するはずなのです。それも、自分では努力とは思わず、傍目に見えるような苦しみも知らずに、ただ一心に夢に向かって進んでいます。

 夢が実現しないと嘆いている人に触れるのは、私にとって苦痛以外の何者でもありません。その心の中に言い訳と不満と妬みしか、見えないからです。

 延々と理屈を並べで、でも実現のための行動に移らない……当人は否定しますが、傍目から見たら、そういうのを「言い訳」と呼ぶのです。そして、言い訳であることを自認しないから、永遠と無駄な思考を続けるのです。

 しかし、先が見える努力というのは、動き出すまでは辛くても、いつしか没頭して苦しみを忘れますが、先が見えないというのは、黙って座っているだけでも辛いものです。


2006-04-15

幸せになれるか?

2006/04/15

幸せになれるか?

2006-04-15

 時折、「○○さんは、幸せになれるでしょうか?」という、ご質問をいただきます。本当は、自分が幸せになれるか……という問題のほうが、重大なはずなのですが、自分のことは、いろいろな面で聞きづらいのでしょう。

 このような場合、間接相談はお断りしている旨を書いて、お返事に代えさせていただいているのですが、実は答えは常に一つしかありません。

「幸せにはなれないでしょう」

 これは不幸になるという意味ではありません。そしてなぜ、答えが一つしかありえないのでしょうか……

 漠然とした、質問には漠然とした回答しか生まれません。問題の絞込みが不十分であれば、選択肢は無数に生まれてしまいます。しかし、「幸せになれるだろうか?」という質問には、答えは一つしかありえないのです。

 もしも、質問者が、幸せの正しい意味を知っているなら、その実現に向かって努力するはずです。幸せの実現に障害があるなら、「幸せになれるか?」と質問せずに、「どうしたら障害を乗り越えられるか?」と質問することでしょう。

 つまり、幸せになれるかどうかを悩んでいるというのは、幸せになる方法を知らず、その努力もしていない事を、公言しているようなものなのです。

 「あなたは幸せになる方法を知らない」と、いうと、大半の人が、「いや、そんなことは無い」と否定されますが、では一体どんなことが「幸せ」かというと、大抵は、満足感や充足感を、幸福感と錯覚し、満足・充足することを幸せであると、思い込んでいらっしゃいます。

 これはまた、なんとも不幸なお話と言えましょう。食べ物も、金品も、装飾品も、貴重品も、すべては他の被造物なのです。自分の物ではないものを欲しがり、追いかけ続けるのは永遠の苦悩を抱いているようなものです。

 美食に満足しても、半日もすればお腹が空くのですから。

 たとえば美食を幸せと思うなら、半日ごとに幸・不幸を繰り返し、油断して食べ過ぎて不幸になり、食べ過ぎて胃を壊してまた不幸になるのでしょうか。それでは一体、幸せになる努力をしているのか、不幸になる努力をしているのか、どちらだかわからなくなりますね。

 もちろん、人生、努力をすれば結果を味わいたいものですし、満足・充足を味わうことを私は否定しません。ですが、他にある幸福を追いかけていては、追いかけて、追いかけて、追いかけ続けることに苦しみを抱くようになりかねません。

 人が何を持って、幸福と表現するか……人の数だけ、幸福があるといっても過言ではありませし、「満足感は幸福感ではない!」と説得したところで、空腹に苦しみながら、幸せを噛み締めるのはとても困難でしょう。

 もちろん、法や倫理に触れない限りその人なりの幸福感を追いかけること自体は決して悪いことではありません。しかし、外に幸せを求めては、永遠に追いかけ続けなければならなくなります。

 そして、○○さんは、満足のいく人生を歩めるでしょうか?

 この質問こそ、最も避けたいものなのです。使い切れないほど財産を持ちながらも、物足りなさに悩む人もいれば、貧しくて不満を抱かずに工夫で楽しみ補い生活する人もいるのです。つまり充足感というのは、物質的な豊かさと精神的な豊かさのバランスによって決まります。

 そして、目に見える物質的な豊かさを差し引けば、この質問はそのまま、○○さんの人格・霊格は、どの程度の高さでしょうか……という質問の隠れた回答となってしまいます。質問者の意図するところではないでしょうが、「○○さんは幸せになれますか?」という質問は、実はそのまま、「○○さんの悪口を言ってください」というのに等しい質問なのですね。

 「幸せになれますか?」という疑問は、単純で純粋な疑問なのだから、理屈や裏読みした回答こそ、浅ましい……と思われる方もいらっしゃるでしょう。 一足飛びに回答してよいのならば、まさにその通りです。

 ですから、「幸せになれますか?」というご質問に対して、一番の回答は、

 「幸せとはなんであるのか、よく考えて目標を見出し、その目標に向かって努力なさい。(悪因縁さえなければ……これは一般論では回答できない)努力はいずれ実りますし、努力するほど、その達成感は大きなものですよ」

 となるのですね。

 しかし、せっかくここまでお読みになった人なら、ぜひもう少しお付き合いください。

1、 質問は単純であっても、回答まで単純とは限りません。そして、安易なものはそれなりの価値しかないものです。つまり、幸せを求めるのならば、求めるものに相応の努力を惜しまないでください。

2、この回答が難解に感じられたら、それは、目標までの道のりが困難であるということです。少なくとも幸せな人が、この文章を真剣に読むことは無いはず……覚悟を決めてください。しかし、決して絶望しないでください。あなたはヒントを得たからこそ、ここまで読み進んだのですから。

3、少なくとも、安易な解決法を求めずに、ここまで読み進んだあなたは、幸せになる準備ができているということです。ご自分に自信を持って下さい。安易な答えには相応の価値しかないのです。それはそのまま……価値に見合うだけの努力が要求されているということでもあります。

それでは、皆様、お幸せに……


自己改革……最初の一歩

05年 06月 18日

 どんな見え見えで、簡単な答であっても、自分自身の口でいうことに意義があります。何よりそれは、自分の問題・自分の人生を、人任せにせず、自分ノド力で解決しようという態度表明の第一歩なのです。

不幸の原理を知る

 世の不幸な人を見ていると、往々、わざわざ進んで悪い方へと選択を重ねていくのを目にいたします。「なんだか、危なっかしい運転をしているバス(又は電車)だなぁ~」などと、危険を予知しているのに他人事のように乗り続けて大事故にあったり、「でも辞められないんだよな~~」等とのんきにしていたら悲鳴をあげる羽目になったり、「何か忘れ物をしているような~~」等と油断していたら後で大騒ぎ。

 業《カルマ》というのは、自ずと解消を求めます。

「解っているけど、辞められないんだよな~~」等と口にし、自己改革を自ら否定するかのような態度表明をするから、同じ災難を繰り返してしまうのです。もしも、「これは災難ではなく、私の過ちだ」と気がつくなら運気の流れは変わっていきます。

努力の意義と価値

 結果は努力についてくる――

「そんなことは知っているけれど、努力に見合う結果は得られないじゃないか!」

 多くの人は、自分の努力を過大に評価し、得られる結果を過小に評価します。

 出来るだけ楽をしたい……合理性の追求は知性動物のいわば本能です。ですが、安易な選択は進歩の可能性の否定であり、本能に流されることは進歩の否定……退化への罠なのです。

 だからこそ、「あなたは努力をしなければいけない」……などと思うのも工夫が足りません。

 あなたの努力があなたにもたらすものは、果たして結果だけでしょうか?

 同情や信頼、ひいては連帯感や友情など……目先の欲に囚われて、努力がもたらす様々な副次的な成果を見落としてはいませんか。

 そうなのです。努力に見合う結果は得られぬのです。だが、副次的効果全部を計算に入れると、努力は実に見合うのです。

どうしたら欠点が治るか。

 この話題は迂遠な比喩から始めます。

 たとえば、私は誰かに迷惑を掛けられても謝罪を求めたりはしません。謝罪よりもむしろ絶縁を好むのです。なぜなら、失敗は悪意よりも未熟さがもたらすもの……つまり、未熟故に犯す過ちは一度で終わると思う方が変でしょう。何度も同じような迷惑を掛けられるから……ならば謝罪を受けるよりも、むしろ絶縁した方が後々は楽なのです。

 むろん、野にある善いものを採取するだけでは必要を満たせないことは人類の歴史を遡らなくても解ります……つまり、人を育てる覚悟無くして、豊かな人間関係は望めませんから、みだりに絶縁も選べません。だとしても、被害者の側に立って謝罪の意義を考えると、これはいささか微妙です。加護によるものであれば、謝罪など無くても治るだろうし、未熟さの結果であれば、謝罪を受けても過ちは繰り返されるでしょう……では、誰のために謝罪はあるのか。

 気晴らしのため……その気晴らしを求める被害者もいますが、多くは加害者の気晴らしのために謝罪は存在するのです。

 つまり、謝罪を不要という私は、寛大なのではなく、冷酷なのです。

 さて、怠け癖は人間の本能。そういう見方も出来るでしょうが、霊媒はそれ以外の原因に気がつき……それを口にして嫌われる霊媒在り、口にせずに信用を失う霊媒在り……

 自分の欠点を自覚し、自分を嫌いそうなその時、自分自身と葛藤するだけでは帰って傷が広がります。そういうときには、たとえば、入浴前に自分を省みて、失敗の数だけ、洗面器で冷水を浴びるぐらいの覚悟をなさるべきです。

 自分自身に試練を与え、その報酬に許しを与え、いつまでも失敗を引きずらぬようにする。それを習慣づけることです。

 多くの場合、欠点を直し損ねるのは、自己改革よりも、周囲に頭を下げた方が楽だという心理が働いているからです。…… 謝罪不要といわれて、「嗚呼偽善しゃぶっている相手で良かった」等と思うのは簡単ですが、でも相手の信頼を取り戻せなければ結局多くを失ったままなのですから。

 謝る方が余程楽。その事実に気がつかないから、謝れるときに謝らず、そのくせ、謝っただけでは済まないところで謝って済ませてしまっているのです。

気持ちの切り替え方が難しい

 確かに!! でも、気持ちを切り替えなければ苦しい状態にある時、あなたにはまだチャンスがあるということです。つまり、大切なことを学ばせていただいている最中なのですから。あなたはまだ点から見捨てられてはいないのです。

 帆船時代。船乗りたちは逆風ですら……風上に向かってジグザグに進み、トータルで前進する……推進力に変えてきました。その船乗りたちが一番に恐れたのは無風だったのです。例え、あなたがどんなに努力しても、周囲が全く相手にしてくれなければ、あなたは苦悩を抱えたままじりじりと待ち続けなければいけません。

 操船術の下手なあなたは逆風を災難と嘆き、己を進ませることを諦めてしまいます。錨を降ろし、必死に風向きが変わることを祈る…… でも、逆風は無風よりも有利な状況なのです。何しろそこでは堂々と自己の思うところを表明してもなお、自慢とは受け取られないのですから。自己顕示欲の強い人にしてみれば、順風の時よりもむしろ自己宣伝の好機なのです。


霊障問題

2006/04/14

 苦しみに囚われて、ただ解決だけを急ぐと、大切なことを忘れがちです。

 理想論ではありますが、前書きに変えて、問題に対する取り組みの方法を解説します。


霊障問題

 人は死を免れることができません。現世の生に、どれほど努力と工夫をつぎ込もうと、あなたが死んだ瞬間に、その成果とは縁を切られてしまいます。「人は死ねばどうなるのか」その問いを心に抱くことはとても大切です。

 人生にはヒントが満ちているのに、疑問をもたなければ、そのヒントに気が付くこともなく、さらには、答えに気が付くはずもないのですから。ですから思います。心霊的な問題に心痛めるあなたは、人生の真の意味を知る上で、なんと幸せな境遇にあるのだろうと。

 多くの人は死の直前まで、死後の世界がどのよな物であるか、真剣に考えることもありません。「トンネルを抜けたら、大きな川が流れて、川を渡った先の、お花畑の上を飛んでいけば、霊界にたどり着く」その程度の知識がせいぜいなのです。狭い日本にだって、雪国もあれば南国もあるというのに。一つの光景だけで、一つの世界を表しきるものでしょうか。

 そして、霊障に苦しんだ人はぜひ考えてみてください。霊界に入るのがそんなに簡単であるなら、一体あなたを苦しめるその霊は、どうして霊界に行かずにあなたのそばにいるのでしょうか。

 一つの事実ですべてを説明することは出来ないのです。人生には、知識の限界を知り、柔軟な対応力を維持することが何より大切です。そして、一つの事件に巻き込まれた時、自身の知識や心得が、現実に即しているかを試されます。

 だからこそ、私は思うのです。今、霊障に苦しむ人は、大変かもしれないけれど幸せだと。死の直前に慌てる必要がないのですから。

来世を癒す

 病気に 掛かったとき、単に病気の治療に治す事に熱中するばかりではなく、日常的な健康の留意点を学べたなら、今現在の病気を治すだけでなく、未来に掛かるであろう病気も治すことが出来ます。

 同様に、霊障の経験を人生に生かすならば、死後の生活から、来世までを治すことが出来ます。

 心霊相談において、そこまでの指導は時間的な制約もありますので、メールで個人的に指導することは出来ませんが、そのノウハウは逐次、文書化したいと思っています。

霊障の矛盾

 霊障の解消法は別項で扱いますが、ぜひ考えていただきたいことがあります。

 今あなたが悪霊、低級霊に苦しめられているとして、暴力がまかり通り、助けてくれる先を苦労して探さなければならないとしたら、霊界とは、なんと治安が悪い世界だとは思いませんか?

 運良く、霊能者と出会い、悪い霊を追っ払ってもらったとしても、あなたはいずれ、肉体を失い、霊界に生活の場を移さなければならなくなります。その時、悪霊に襲われたとしたら、あなたはどうやって身を守ればよいのでしょうか?

 霊界にも治安を守る霊がいるなら、どうして今のあなたを助けてはくれないのでしょうか?

 死後に備えて、除霊法を学ぼうにも、霊感がなければ、目が見えない人が格闘技を習うようなものです。塩もお札も(効果があるとして)どうやって、霊界に持っていけるというのでしょう。

 そもそも、塩やお札に除霊の力があるなら、それがあなたを苦しめない保証があるのでしょうか?

 もしも、この世に霊障が存在するなら、あなたは死んだ後に、あの世で平和な暮らしが出来るのでしょうか?


霊障問題――半面の理

05年 01月 29日

 

 「霊障」について悩む人は多い。……この不運は、悪霊、低級霊の祟り・障りではないか? 不信が不信を呼んで、実際に祟りや障りがなくとも、不信が不運を招いたりするから始末が悪い。特に、自分の霊感に自覚・自信を持たぬ/持てぬ人々にとって、「霊障」というキーワードに対する関心度は高い。

 また、自称霊媒の主催する心霊サイトなどには、大抵、「霊障識別法」とか、「霊障の解決法」といったアイテムが並ぶ。だが私の知る限り、その手の情報のほとんどすべてが 半面の理でしかない。つまり見方を変えれば反対の見解も出るのに、事実の一面だけに注目したもので、ようするに偏見である。……むろん、人の数だけ、価値判断基準はあるだろうが、半面、いや一面の理でしかないから……見えない部分、見てない部分に重大な落とし穴があったりもする。

 低級霊の感化はなるほど害が大きい。狂気に取憑かれるとか、妄想に支配されるとか、端的には不運に陥るなどというのは、つまり人の精神性が悪霊・低級霊の感化を受けた結果といえる。だが、創造的なインスピレーションを得たとか、悟ったとか、幸運に恵まれる、というのはどうだろうか? 実に、高級霊の感化を受けた結果といって良いのだ。

 つまり、人々は善悪高低、様々な霊から感化を受けている。それを単純に、霊……死者の個性から受ける影響のすべてを悪いと決めつけてしまえば、良い影響も受けることができない。そして、霊障の有無に不安を抱く人々は、つい、簡便な除霊法を求めたりするものだが、これは果たして善霊・高級霊に影響を与えずに済むものだろうか? つまり、低級霊を追い出すが、自分だけは高級霊の助けを得たいという発想で見捨てられはしないだろうか? ――それこそが、簡便な除霊法、霊障の解決法を危険視する所以である。

 つまり、善悪双方の影響を受けていながら善霊に気がつかず、悪霊の悪霊たる所以も知らずに、結果からようやく悪影響を受けたと気がつくような無分別さこそが、人々の思い悩む霊障の実体なのだ。

 そもそも、低級霊・悪霊から感化を受けるとは何事か。物事の価値も分からずにくだらぬ事に流され、また、善悪の分別もないということではないか。つまり、霊障というのは、低級霊の感化が、高級霊の感化を上回っている状態なのだ。それを低級霊を追い出すことで解決したと考えるのは、ナンセンスである。いずれ別の低級霊が入り込んで感化を受けるだけだ。まして、力押しをすれば恨みを買う。生きている今は霊媒の助けを借りてその低級霊を追い出し続けても、死後に復讐されないと確信できようか? そもそもみだりに除霊する霊媒は、あの世に多くの敵を持つもので、そこに霊媒の死に際の善し悪しがあるが、相談者もその影響を受けぬとは限らない。

 自然で、かつ無理のない霊障解決法は、自分自身への高級霊の感化力を強めることだ。そうすることで、自分自身に感化を及ぼそうとする低級霊も一緒に向上し、いずれ強力な盟友となることもある……というより、そういう努力こそが霊能力の向上法なのである。つまり、霊能力の実際は、味方=背後霊団の強さ(これだけならば一面の理)であり、同時に敵の少なさ(これもまた一面の理)なのである。更にいえば、自身の背後霊団だけでなく、いざという時に助け合える友好的な霊団の多さも大切だ(これもまた一面の理)。一人の強さで得る勝利は狭い局面に限られる。大局的な勝利を得るには強さよりも誠実さが大切なのである。

・・・・・・・

 とある武術家が、女性アナウンサーから、簡便な護身法を問われてこう答えた。

「敵を倒す事よりも、危ない所に近づかないことです。なまじ、護身術などを学ぶと危険を侮ります」

 簡便な護身術など、簡便な方法で封じ込めるものだ。まして、霊視・霊聴能力もなしに除霊・浄霊を行おうとするのは、武術の試合に目隠しをして参加するようなものである。そんなハンディーを持っていては対等な力量を持っていても勝てはしまい。……いや、それ以前に、相手に有利な条件で対決しようと思うその心はすでに慢心にあふれかえっている。つまり、負けは眼に見えているのだ。

 これなどは、愚かといえば愚かであるが、やはり半面の理しか気がついていないのだ、と思える。

 自分に感化を与えているのは、善悪/高低双方の霊である。そして、低級霊の感化力が強いからといって、低級霊を追い出そうとする事が果たして有益であろうか? 闘争の隙をついて別な霊に取憑かれはしないか(除霊は、害を減らすだけで利を増やしていない事を心に留めて欲しい)……むしろ、高級霊の感化力を向上させることのほうが有益ではあるまいか? (もしもそれが出来るのであれば、害を減らして利を増やすことにも通じる)

 我が師はこういう……霊障は、自分の霊格を上げようと努力しないと絶対に解決しない。

 逃げることを考えて立ち向かうことを忘れる。または、戦うことに気を取られて味方を失う。――損を減らしても利が増えないのでは結局、負けを先延ばしするだけのことだ。だから私は思う、霊障解決よりも、高級霊との絆を強めることが大切であると。下ばかりを見ていてはその事の大切さに気がつかない。

 敵をやっつけて、自己の評価を下げるのでは、踏んだり蹴ったりだ。だが、勝利に酔ってその欠陥に気がつかない人の何と多いことか。それもまた半面の理――内の敵に負けて真の勝利はない。


ご自身で霊感の自覚がある方の障害は、次項『感応障害』で扱っています。


霊障・霊障害の矛盾

最終更新日 2002年02月17日

 心霊知識の無い人は、霊というと、即座に悪いものをイメージし、慌てて事態を拗らせるのが普通です。しかし、肉体の無い人を霊と呼ぶのです。人に良い人もいれば悪い人もいるように、霊にも良い霊もいれば悪い霊もいます。

 さて、あなたが、多くの霊に囲まれているとします。そこで、「迷惑だから出ていって!」と怒鳴ったらどうなるかを考えてみましょう。あなたの権利を尊重して出て行くのは、良識と思い遣りのある魂だけで、あなたを利用しようとしていたり、非常識な相手や、独り善がりな相手は出ていく事がありません。また、短気な相手なら怒って開き直るかもしれません。

 霊を恐れて、ただ追い出す事ばかりを考えていたら、悪い霊ばかりが残る事になりかねないのです。

 善悪のバランス

 災難は、悪意よりも未熟さ、不運よりも要領の悪さによってもたらされます。悪意ある者がいなくなっても、未熟な者がいるだけで災難に巻き込まれます。しかし、未熟なだけで人を責める事は出来ません。

 『神社やお寺で御祓い・祈祷を受けたが霊障が解消しない……』

 災難をもたらすのは必ずしも悪霊とは限りません。悪霊がいなくなっただけでは、事態は好転しないのです。

 誤解

 霊障は、前述のように対人関係のトラブルの延長線上にあります。そして対人関係のトラブル解消に一番大切なのは、誤解を解くことと言えましょう。だからこそ、霊能者が必要なのです。

 お札《ふだ》に、塩、しめ縄……

 相手に有無を言わさぬ力押しでは、恨みが増すのも無理はありません。

 『うらめしやぁ~~』・誤解二

 一般的にいって人が深い関係を結ぶのは他人よりも身内が多いはずです。同様に、祖先の霊や守護の霊達よりも、たまたま、あなたに関心を抱く悪霊の方が多いというのは非常に例外的と言えましょう。

 つまり、世にある霊現象の多くは、危険を知らせる祖先の霊が起こすものが大半なのです。ただし、そういう知識が欠落している人々にとって、悪霊も祖先の霊も皆同じに見えるでしょう。

 祖先の霊を霊障害と誤解している場合、事故が避けられれば良し、避けられなくても黙って去っていくだけで、このような場合に除霊などまったく無意味なのは、言うまでもありません。

 憑霊

 憑霊は、悪霊や低級霊がいるから起るのではありません。皆様を守っている霊よりも低級霊が強くなる事で憑霊が起るのです。この低級霊と守護霊とのパワーバランスが狂うのには、様々な状況が想定できます。

1,皆様の心が、守護霊を遠ざけ、低級霊を呼ぶ場合。(悪心を持つこと)

2,皆様の行為が守護霊を遠ざけ、結果として低級霊が働きかけ易くした場合。(悪事を働く事)

3,因縁により守護霊の加護以上に、強い悪霊を呼んでしまった場合。(悪因縁)

 そして、原因を掴んでこそ、解決するのです。

 誰の問題かを忘れない

 その苦しみは誰のものでもなく、あなた自身の試練なのですから、当人が投げ出したり、不運を歎くばかりなら、真剣に手助けする者がいなくなります。もちろん、泣いて災難が増える事があっても、減る事はありません。

 そして、実際のところ……霊障の解消、特に除霊というのは、拗れた人間関係の仲裁の様なものです。関係者双方に喜ばれるような解決が理想ですが、非常に困難で難しいのは確かです。しかし、ご相談者の方の言い分を丸のみし、他方を攻撃するような真似を私はしたくありませんし、そんな要求をされる方のご相談はお断りいたします。


 あなたの後ろに霊が見える

最終更新日 2002年04月27日

 ここでは、「突然、第三者から、『あなたには霊がついている』と言われて不安になった」というような、自分では認識出来ない問題にお悩みの方が対象です。

(一時、心霊詐欺グループがらみの事件で多数の相談が寄せられました。)

 不安の原因

 まず今抱えている不安の原因について、良く考えて見てください。霊がついていることが事実であるかどうかよりも、自分は何を為すべきなのか分からないことが、大きな不安の原因になっているはずです。 不安を生み出すのは心霊知識の無さなのです。

 仮に私から、そんな霊がついていないことを請け負えば、あなたは心の平安を取り戻す事が出来ます。ですが、そんな平安は一時のことにすぎません。少なくとも、霊を恐れる=死後の個性存続を信じる人にとって心霊の問題は人生において無視出来ません。なぜなら人は死を免れることは出来ないからです。

 知識として・心霊詐欺

 町角で、「私には見えるのだが、あなたには霊がついている、お払いをしないと命が危ないが、私には除霊の力がない……」と話し掛けて脅えさせ、「霊能者を紹介しよう」と案内し、道中聞き出した身の上などを、様々な手口でこっそりと霊能者役に伝えて、当て物をし、礼金をせしめるという手口の詐欺が、一時期、小田急線沿線を舞台に起こりました。

 一ヶ月に三件以上も同じような相談が来たのですが、インターネットの普及率と、私のホームページの一日のアクセス量を考えると、相当に多くの被害者が出たことと思います。被害者の多くは、警察に被害届けを出したのですが、犯罪の立件は難しいといわれ、その後どうなったかは知りません。

 もう一つの問題

 屋根にはしごがかけてあるとして、片付け忘れたのか、それとも誰かが屋根に登っているのか……その判断もせずに、はしごを片付けたら、大きな問題が生じてしまいます。無縁な人の為すことに、関りたくもありませんが、「除霊能力も無い未熟な霊媒が、何を余計なことを言うのだ……」というのが私の正直な意見です。

 善悪は、有無ではなくバランスが問題なのです。すべての人には、一人や二人、事故や病でなくなった人の祖先がいるものですし、一時的な感情で、低級霊や悪霊を呼び寄せることもあるのです。

 問題は、守護の霊や高級祖霊たち、または、その人の心のあり様が、災難を防ぎ、またはそれを切っ掛けに幸せを掴んで行けるかどうかであって、悪い霊ではないのです。実際、不安になったというメールは何通も受け取っていますが、「言われた通りになったのだけど、今後どうしたら良いのか……」というメールは一通も受け取っていません。

 まして、悪い霊しか見えない霊媒というのは、その霊格・才能に問題があるもので、「(見てくれが)悪い霊は取り除く」と考える、粗暴さが大きな間違いです。それは「頬に傷を持っていれば犯罪者と見なす」というぐらいに乱暴な話しではありませんか。

 加害者? 被害者?

 山道で、血だらけの人と出会ったとします。独りではなるほど心細いでしょうが、良く考えて見てください。この人は返り血を浴びた加害者なのか、それとも誰かに傷付けられた被害者なのか、どちらでしょうか。

 加害者ならばただちに逃げるべきです。それは卑怯でもなんでもありません。しかし、被害者を放置して逃げるのは、卑怯、非情としか言えません。

 霊感のある人から、「血だらけの霊があなたについている」と言われたとして、それが一体、加害者なのか、被害者なのかが大切です。形相が恐ろしげだからといって、あなたに危害を加えるとは限らないのです。

 まして、冷静に考えてください。あなたが誰かに追い掛けられるとして、 血だらけの怪我人や、身体に障害のある人と、屈強そうな人、または、非情に知的で狡猾な人と、一体どちらが恐ろしいでしょうか。

 血を流し、または、体の一部が欠損して見える霊が見えるという事は、何かを為さねばならないとしても、恐れることには当たらないはずです。少なくとも祓い、追い出すというのはなんと非情なことでしょうか。

 怪談話でも、幽霊は決まって恐ろしげな形相ですが、苦しみの形相と、憎しみの形相は似ていて異なるものです。苦しみの形相まで、怨霊であるかのように扱うのは、過ちです。

 結果は善悪のバランス次第。

 現代日本において、周囲に警官の姿が見えないとしても、それだけで、治安に不安を感じる事はありませんね。むしろ、大勢警察官が立っていたら、なにか事件が起ったのかと、逆に不安になることでしょう。そして、町角で、人相の悪い人を見かけても、社会の治安に対して信頼を抱いてれば、大きな不安を感じはしません。

 同様に考えてみてください。たとえばあなたの背後に、悪い霊がついていたとしても、それを上回る善い霊がついていれば何を不安に思う事がありましょうか。恐れるべきは、悪い霊がついていることよりも、良い霊から見放されることなのです。

 また、地上生活で考えても見てください。人相が悪いからといって殴り掛かれば、裁かれるのはどちらでしょうか?

 助けを求めて来た怪我人を手当てもせずに追い出したら、非難されるのは怪我人でしょうか、あなたでしょうか?

 手に負えないことは仕方がありませんが、あなたに助けを求めた人に対して、親切にすることがなければ、そんな姿を見た人(善霊)たちは、あなたの苦境を助けると思いますか?

 まして怪我人を冷淡に扱ったら、あなたの周囲の人は、あなたの苦境を助けるどころか、自業自得とばかりに、煽り立てないとも限りません。

 霊相手の問題は、どうすれば良いか分からない……分からないからこそ、不安でしょうし、不安からは逃れたいのが人情です。ですが、少なくとも逃げることで得られるものは何もありません。そして人はいずれ死に至る……死後、あなたが血だらけの霊に取り囲まれたら、一体、誰に助けを求めればよいのでしょうか?

 神様? 仏様? 天使にご先祖様? それとも神職、僧侶、霊能者ですか?

 そんな相手が頼れるものなら、その血だらけの霊たちは、なぜあなたの元に現れたのでしょうか?

 答えは簡単です。日本の首相や米国の大統領の名前を知っていても、彼らと会話出来る人はごく限られているのと同様なのです。専門家に縁が無ければ、手近な相手で妥協せざるをえないのです。

 不幸中の幸い

 「あなたの背後に悪い霊がいる」そう言われて、不安に駈られ悩まれたことは、なるほど災難といえましょうが、死んでから、悪い霊に分類されずに済んだと考えるならば、何という幸運でしょうか。災いは、幸運を掴むための助走にも使えるのです。その意味で不幸になるかどうかは、霊の存在よりも、あなたの心がけによるのです。

 何が出来るか

 では一体何が出来るか、それが真の問題ですね。ですが、事情は人それぞれですから、一般論で解説することは危険ですらあります。第一、救いを求めるにしても、専門家を頼れば良さそうなものなのに、一体なぜ、あなたを選ぶのでしょうか。

 短期的には、手近な相手……つまり、事故で死んだなら現場の側にいて、一番霊感が強そうな人を選びます。しかし、この様な理由なら、駄目ならすぐに別の相手を探すものです。

 長い目で見れば、頼るべき相手、頼れる相手にすがります。生前、世話をした相手とか、反対に生前親切にしてくれた相手、または血縁者も頼れるでしょう。

 また、霊能者の卵は、一番に狙われます。ある程度、修行した人ならば、迷いの心情を抱いた霊を決してそばに近づけないからです。一旦、同情したが最後、人生のすべてをおろそかにしても足りないほど、迷いの霊の後始末に追われてしまうのです。

 この様な条件に問題を当てはめなければなりません。

 手近……というのが理由なら、単に、守護霊に祈り、霊界でよろしくお手配してくれるように祈るだけで事足ります。すべての人に必ずついている守護霊は、本来かなりの高級霊で、必要な時には素晴らしい力を発揮してくれます。その力を人生に生かさないのはなんとももったいない話しです。

 (守護霊の力の生かし方について、メールで質問、ご相談されても回答はいたしません)

 血縁者の場合、単に霊界に送るだけでは、問題が解決しないものです。いわゆる因縁というのは、非情に複雑であると同時に、様々な要因が織り成しているからです。たとえば、血圧の高い家系の人なら、脳の障害を持つ因縁の霊がついているでしょうが、同時に、その家系は強い塩味を好む……といった現実的な問題も抱えていることでしょう。

 強い味付けを好むのも、味覚音痴なのか、霊的因縁なのか、またはその双方なのか……いずれにせよ、お祓いでは上辺の解決でしかありません。(本当に力のある職業霊能者(拝み屋)なら、この様な場合味覚の好みまで変わるものですが……代償無しにそんな事を期待するのは怠惰です。)

 霊感が強いという理由なら、同情するよりも自分の身を守れるようになることが先決です。自分の頭のハエも追えない状態で、霊的な問題を扱えば共倒れになりかねません。


身内の霊感

最終更新日 2002年04月27日

 身内の者に突然霊感が開いた……霊感を持った知人にしっかりとした霊能者がいればともかく、とても不安なことと思います。周囲の者たちにしてみれば、本当に霊を感じているのか、それとも気が狂ったのではないか……疑心暗鬼がさらに不安をかき立てます。

 しかし、何よりも自身に降りかかった異常時に、困惑しているのは当の本人なのです。 そして、周囲の理解を強く求めていることでしょう。よく考えてみてください、人にとって一番辛いのは何か……周囲の理解が得られないことほど辛い物はないはずです。

 現象はともかく、また、当人が耳にしている、または目撃している霊なる者が、錯覚であるにせよ、本物で在るにせよ、そしてまた、霊現象が低級霊のイタズラであるにせよ、高級霊の導きであるにせよ(その場合、突然ということはまず在りませんが)、現象に懐疑的であっても、当人を信じる姿勢を示して欲しいと思います。

 困苦にぶつかったとき、人の真価が問われます。霊感が正しいかどうかに囚われて、あなた自身が人間として、情けない行動をとらぬことです。


 金縛り現象

最終更新日 2002年04月27日

 霊障を恐れる方は、不運の一切合財、全部を霊の影響と考えがちですが、よくよくの悪霊であってもそこまで手間隙を掛けて人を不運に陥れる事はまずありません。大抵のばあいは、ちょっとした切っ掛けが元で、被害者が勝手にこじらせ、雪ダルマ式に問題を膨らませていくものなのです。

 この場合の切っ掛けとは必ずしも、悪霊・怨念、低級霊の類とは限りません。あなたに危機を知らせに来たご先祖が、誤解されて霊障と騒がれる場合も多いのです。

 少なくとも霊障には、霊的な原因のほかに、被害者がこじらせたという直接的な問題が存在します。

 金縛り

 金縛り現象を純粋な霊現象と誤解している人が多いのですが、身体が休眠状態でありながら、意識がはっきりしているときに起こると、その生理的メカニズムは医学によって解明されています。霊が金縛り現象の引き金になっている場合もあるでしょうが、わざわざ、人を押さえつけて金縛り状態にしている事はまずありません。

 ストレスを感じていると悪夢を見やすく、そして眠りが浅くなりがちで、そのような時には金縛り体験をしがちです。そして、一度金縛りを体験すると、睡眠に恐怖を感じて更に眠りが浅く、疲れ易くなり、ますます金縛りに合いやすい状態に陥ります。このような悪循環から、金縛りを心霊現象と思いがちです。

 また昔から、お経や真言を唱えると身体が自由になると言い伝えられていて、実際に試してみると、本当に自由になるために金縛りを悪霊のせいと思いがちです。しかし、これはお経や真言を唱える事で、気持ちを静めている内に身体が目覚めるからなのです。

 つまり呪文でなくても、数を勘定しているだけで、身体の自由は取り戻せる事になります。金縛りを霊現象と誤解して、自分にはまるで対策が無いかのように思いこむからますます金縛りに苦しむのであって、気持ちを静めれば問題は自然と解決に向かいます。

 しかし、心霊的立場、特に心霊主義的立場から、金縛り現象には注意すべき点があります。いったいこのストレスが何処から生じるのか、そしてどうして解消できないのかということです。それは霊障というよりも心、魂の弱さと説明できます。

 人生のいかなる問題も心のあり方一つで乗り越える事が出来ます。逆にいえば心を鍛えねばどんなに簡単な問題もあなたを苦しめる事になるということです。

・・・・・・・

 実を言えば、金縛りに苦しんでいる人の背後を霊視すると、間違いなく低級霊、少なくとも黒いモヤ状の物が見えます。そして除霊を行なうと、快癒が早い事も事実です。

 その理由はばかばかしい話ですが、金縛りに悩み、苦しむ心が、低級霊を呼び込み、低級霊の影響を受ける事で、恐怖感が増し、それが安眠を妨害して金縛りにあいやすくなり、また低級霊を呼んでしまうという悪循環をもたらすからなのです。

 人間には霊的な免疫機能があります。このような低級霊は気持ちを変えるだけで消えてなくなります。

・・・・・・・

 2001年5月2日 補足

 除霊を受けて長年の金縛りが治ったという方から、金縛り現象は医学で解明されたわけではないと、反論をいただきましたので、もう少し詳しく説明を試みます。

 例えば、家族なり、同僚なりが、コンピュータを使用しているとして、どうやって邪魔をするかを考えてみましょう。この時、あなたが相手の両腕を押さえ込んだら、相手も力任せに反抗するでしょうから、腕づくで使えないようにするためには、非常な努力が必要となるでしょう。

 しかし、電源プラグを抜くなり、キーボードやマウスのコネクターを引き抜いてしまえば、難なく使用不可能にできます。この時、相手がプラグを抜いたことに気がついていたなら、黙ってプラグを差し込み直すでしょうが、抜かれたことに気がつかなければ故障か、と大騒ぎすることでしょう。

 私が金縛りは生理的に説明がつくというのは、この例でいうなら、あなたを誰かが押さえ込んでいるからコンピュータが使えないのではないよ……と言うことなのです。そういう事例は、まず全くないと言ってよいでしょう。使えないとしたら、プラグが抜けているか、コンピュータの故障を疑うべきで、このプラグ抜けが故意のいたずらであるとしたら、それは霊障に相当しますが、霊障であることよりも、使用方法や使用環境が悪いことが多いですよ……と言うことなのです。

 まして、直接押さえ込んで身体を動かないようにさせることが出来る霊が憑依しているなら、除霊するまで、動けないと考える方が自然でしょう。どうして、わざわざ自由時間を与えるのでしょう?

 実際、私が受けた相談事例のうち、除霊が必要だった事例はそう多くありません。例えば、地方から就職して、新しい仕事にも新しい町にも慣れずに金縛りに会うようになった方もいらっしゃいます。この時は、「霊障ではない、ストレスだ」と私が助言した、その日からぴたりと金縛りが止まったそうです。

 また、この金縛り状態下で、恐怖感からジタバタすると金縛りに合っている時間が非常に長く感じるものですが、ゆっくりと呼吸の数を勘定したり、真言でも、お経でも、または、自分の覚えている詩の一節でも心の中で唱えていれば、案外早く、身体が自由になることに気がつくものです。これは、生理的なメカニズムの解明から導き出される解決法と合致します。

 つまり、金縛りに合いやすい。または、起こしやすい体質の原因には、それこそ霊的な理由があるかもしれませんが、とりあえず金縛りに合っているときは、生理現象と割り切るほうが良いのです。反対に霊障と思い込んで、ノイローゼになったり、交際が破談した……などという事例も有ります。こういうことから、心理学者や精神科医たちが職業霊能者を敵視するのです。心霊は害の方が多いというわけです。

 しかし、ではその医学的な異常はどこから来るか……という所に、病気だけではなく、霊障が潜んでいる場合も有りますし、その病気や霊障の原因がどこにあるか……という所に因縁が潜んでいる事もあります。また似たような例で、、一般に霊現象とされているラップ音や、物理霊媒による、様々な交霊実験にも、観測可能な何らかの働きが介在している事が多い物です。すべてを超常現象で片付けてしまったら、信仰と何ら代わり無くなってしまうのです。

 また、心霊相談を受ける立場としても、障害を治しても因縁がそのままなら、別な障害が出るもので、金縛りというのは私にとって単なる表面的な結果や自覚症状にすぎません。そして自覚症状だけを取り除けば真の障害は魂の奥底で火種をくすぶり続け、思わぬ結果をもたらす事もあります。

 ですから、私は除霊をなるべく行わず、除霊をしなくても障害が起きないような、魂の鍛練を指導します。霊障害の原因を取り除かないというのは、それこそ、指先に刺が刺さっても抜くだけで消毒しないようなものですから、別な悪影響が起きなければ幸いと思います。

・・・・・・・

霊障には、霊が直接関与する障害はほとんどありません。大抵は間接関与ですから、つけ込まれぬように注意するだけで大抵は防げます。まずは冷静になることが大切なのです。


不幸は祟りか?

最近、不幸であるが、何かの祟りではあるまいか……という相談事例をご紹介します。

 仕事がうまく行かない、祟りではないか。

 この不景気な時にあっても、業績を伸ばす人もいますが、普通に考えれば仕事がうまく行かないのはむしろ当たり前のことです。そして、不景気なのは霊障害のせいではなく、 霊的な加護の強い人がこの様な時期ですら業績を伸ばすといえるのです。

 世間一般では、霊障害ばかりを問題にしますが、私などは反対に、加護なく生きている人の方が不幸に思えます。そして、加護を受けるというのは一口に言うのは優しく、簡単安易に得られるものではありません。

 不幸が続く、祟りではないか。(まとめて)

 たとえば、身内がばたばたと死んでいくとしたら、大変な事が起こっているようですが、年齢を聞いたらみな、平均寿命以上に生きていた……なんていうこともあります。そもそも不幸の定義が明らかにする必要があります。

 また、子供(兄弟)全員が、「皆、結婚してもすぐ離婚する」とか、「皆、学校を中退している」などというのは。一見大変な不幸に思えますが、実は「皆、幸せな結婚をしている」、「皆、高学歴だ」というのと原因が同じであるといったら驚かれるでしょうか。

 判りやすい学歴の問題を例にとって解説いたしましょう。ようはその家庭が、どれだけ子弟の教育に高い希望を持っているかということなのです。反対に学歴の有無に寛容な家なら、子供が中退を望んでも強く引き止めはしないでしょう。わがままにしか子供を育てられなければ、果たしてその子は良好な家庭を築けるだろうか……親が子供に与える資産は必ずしも物質的なものだけでなく、ノウハウや忍耐力という、精神的な資産も大切なのです。

 不幸の定義

 人は、安易に不幸という表現を用いますが、それは、事実を受け止めた人が不幸に思うという事であって、つまり事実の良悪ではなく、好き嫌いをいうだけの事です。

 極端な話、有名になる事を喜ぶ人もいればそれを嫌う人もいるだろうし、酒を勧められたら、喜ぶ人もいれば、下戸だからと災難に思う人もいるでしょう。当人が不幸だと思っていても、別な人なら喜ぶような事であるかもしれません。

 まして、ある時点ではそれが不幸に思えても、結局それが幸運であった事も世の中には多々見られる事です。たとえば、せっかくの海外旅行に飛行機に乗り遅れてしまった。ところがその飛行機が墜落したから、乗っていたら私も死んでいたであろう……などというのがそれに当たります。

 また、どんなに努力しても、手段や方法、目的などが間違っていたら、良い結果は得られません。また、手段や目的が正しくても、途中であきらめたらやはり結果は得られません。

 たとえ相手に悪意が無くても、未熟なだけであなたを災難に巻き込むし、チャンスに恵まれても不運よりも要領が悪ければやはり良い結果が得られません。

 災難というのは、悪意よりも未熟さ、不運よりも要領の悪さによって生じるものです。

 結局のところ、一口に不幸といっても、その原因はまちまちです。そして当人が思うほど、不幸であるのかどうか……、つまり、「私は不幸である」というのは説明になっているようで、事実の説明にこれほど不適切な言葉はありません。……ただ、当人がワガママなだけかも知れないのですから。


 事例: 不幸が続いた

最終更新日 2002年04月28日

「不幸が続き心配していたら、身内が亡くなる夢と食べ物のお供えを求める霊の夢を見た。 」

 この様な場合、実は、不幸が続く事と、夢に現れた霊と、2つに考えてみるべきです。

 1、不幸が続く

 たとえば「平凡な人生」なとどいいますが、その平凡な人生に一体どれだけの雑事が付きまとうのでしょうか。まして、その平凡な人生ですら、一瞬の不注意で全てを失いかねないのです。

 果たして、あなたは幸せに生きるべき努力をきちんとなさっているのでしょうか。

 どんなに努力しても、手段や方法、目的などが間違っていたら、良い結果は得られません。また、手段や目的が正しくても、途中であきらめたらやはり結果は得られないのです。

 因果応報、善因善果、悪因悪果。要するに善き事の種を蒔かずに、良い結果が得られるはずも無いのです。そして、進んで善き種子を蒔いている人なら、不幸に出逢って種の蒔き方の不足を思い知っても、祟りを心配する人はいません。

 2、霊の夢を見た

 「幽霊の正体見たり、枯尾花」と言いますが、不安な時には、ススキを見ても幽霊に思えるものです。

 さらに言えば、今時は、聞けば答えてもらえると思い、無礼で無頓着な質問を平気でしたり、「言ってくれなければ分からない」等と、いう言い訳がまかり通っていますが、質問によっては無言である事が最善の答えである事も多々あることです。

 たとえば会社や学校で何かが無くなったとき、証拠も無く、「あなたが盗んだのでしょう!!」と問い詰められたら、一体あなたはどう答えれば良いでしょうか。気が弱ければ即座に「やっていない!」と答えるかもしれませんが、非は証拠もなしに人を疑う相手にあります。それに、その人が自分で盗んであなたのせいにしているのかもしれないのです。

 こういう時にじたばたすれば、ますます疑われかねませんし、努力すべきは失せ物を探し、または手がかりや証拠を探す事のはずです。

 さて、あなたが自分の不幸の原因を、霊の祟りと疑いを抱けば、その事であなたの守護霊や祖先の霊は、大変に貶められる事になります。犯人と疑われないまでも、守るべき者が一体何をしていたのだ……と(霊界内での)世間体が悪くもありましょう。だからといって、言い訳をするのも変なものです。

 いくらあなたに好意を持っている相手でも、あなたが疑い、非難すれば、相手にも悪意が生じるものです。それは他の誰かが悪いのではなく、あなたが悪いわけです。

 結局、「霊の祟りでは……」という無礼な疑いには、守護霊も祖霊も返答を拒絶するしかありません。そして、無言である事を返事であると察する事が出来るなら良いのですが、それでも答えを求めたり、答えのない事に不安を抱いたらどうなるでしょうか……実は、それが、いわゆる「隙がある」状態なのです。

 もう一つ別な方向から解説します。

 世の中にはなるほど乱暴な人がいるものですが、大抵の場合、暴力沙汰にはそれなりの理由があるものです。もしもあなたがこうむった被害が、夢の中で求められた供物に見合う程度であるなら真実かもしれませんが、お線香やまんじゅう程度の供物が欲しい程度で、いちいち人が不幸になるというなら、そんな馬鹿げた事がまかり通る、その理不尽さこそを嘆くべきだと思います。

 結局、罪なき守護霊や祖先の霊を疑い、辱めるような事をするから、つまらぬ者に騙されたり、他愛の無い子供のおねだりに振り回されたりするのです。

 ただし、戸をこじ開けて無理に押し入る者なら、不法侵入で訴えることが出来ますが、自ら招き入れてしまった者を追い出せば、非は家主にあります。同様に、夢に出たのが不幸とは無関係な霊であろうと、それは守護霊の働きを疑った結果に招き込んだことですから、きちんとお供えしてお帰り願うべきでしょう。

 まとめ

 災難は、悪意よりも未熟さ、不運よりも要領の悪さが招きます。

 あなたが不幸の原因を反省する気持ちがあるにもかかわらず、ささやかな供物を求める霊を夢見たのだとしたら、その不幸の原因が祟りとは考えられません。


情緒的な問題

2006/04/14

不安について

 不安の原因

 まずあなたが今、抱えている不安の原因について良く考えて見てください。目の前の困苦や痛みに対して、自分は何を為すべきなのか分からないことが、大きな不安の原因になっているはずです。

 不安を生み出すのは知識の無さなのです。明らかなことであるなら、努力を要し、難しさはあっても不安を感じる必要はありません。むしろ、克服のための努力に忙しく、不安を感じている暇はないことでしょう。

 不安を感じた時、問題を捉え違いしている事を、察しなければなりません。

痛み

 痛みから逃れる……これは言葉の綾というべきで、痛みを発しているのは、あなたに危害を加える何かではなく、危害を受けたあなたの反応なのです。実に当たり前なこの事を、軽視して痛みに苦しみ続ける人が大勢いらっしゃいます。

 痛みが、あなたを苦しめているのではなく、苦しめているものがあるから、あなたに痛みが生じるのです。

 嫌なこと、嫌いなことから目を背ける。それでは一時の痛みから逃れても、あなたの弱さから逃れられるわけではありません。痛みから逃れても、問題は何にも解決しないのです。目先の苦しみに心囚われて、大きな問題を見逃してどうして幸せになれましょうか。

不幸の意味・または霊能者の言葉の価値

 たとえば、自称霊能者、または、占師から「あなたは近々不運に見舞われる」と指摘されたとします。しかし日々様々な体験を重ねる人生において、すべてがうまく行くことはまず有り得ないでしょう。

  細かな点を拾えば、人生にはたくさんの幸運と不運が詰まっているのです。まして、小さな不運が大きな幸運を導き出すこともあります。その意味で本当に良運・不運を判断するのは最後になってみなければ分からないことなのです。

 人生には波があります。幸運を維持し続けるよりも、不運をばねに成功を掴む方がどれほど楽か、一時的な不幸は、大きな成功を掴むための助走に必要なのです。それを知らない人が、占いに凝り、霊能者と親しくしても、気安めにしかなりません。そしてくつろいでいる間に大きな幸運を見逃すとしたら、何と滑稽でしょう。


不幸について

災難

 災難に巻込まれる事が多ければ、その原因を、外部に求めるよりは自分の中に求めるのが自然な成り行きでしょう。ですが、わざわざ不幸を望む人はいませんから、「憑き物でもあるか、前世か祖先の悪行が世に出たか……」と悩む人がいます。

 災難は、悪意よりも未熟さ、不運よりも要領の悪さが生み出すものです。ところが人々は自分の未熟さ、要領の悪さを棚にあげて、災難を歎きがちです。しかし、自らの中に、原因があるなら、解決策はあっても、逃れる手段はないことを知るべきです。

不幸の意味

 たとえば、自称霊能者、または、占師から「あなたは近々不運に見舞われる」と指摘されたとします。しかし日々様々な体験を重ねる人生において、すべてがうまく行くことはまず有り得ないでしょう。

 つまり、人は日々、少なからぬ不運と向き合いながら生きているのです。同様に「あなたは近々、幸運に見舞われる」というのも、当たって当たり前の話しなのです。問題は、「だからなんだ……」という事なのです。

 細かな点を拾えば、人生にはたくさんの幸運と不運が詰まっているのです。まして、小さな不運が大きな幸運を導き出すこともあります。その意味で本当に良運・不運を判断するのは最後になってみなければ分からないことなのです。

幸福の意味

 人生に意味・意義を見出せなければ、不幸を感じる暇はなくても、または、充足感に包まれていても……幸せとはいえません。少なくとも、そんな幸福感は、追いかけ続けていなければ三日と持ちはしないでしょう。

 ですから、私は心がけます。小さな災難も、小さな幸運も、より良い人生を育むために用いるように。そして、相談者に対しても、災難から逃れることよりも、災難を生かして幸せになる事を助言しています。

 ですから、私につまらない回答、つまらない保証を求めないで下さい。人生には小さな幸運、不運がたくさん詰まっています。しかし重要なのは結果であり、小さな不運に惑わされて大きな幸運を逃さぬ様にして下さい。

満足

 人が豊かであると自覚するためには、どれほどの物質的なゆとりを必要とするのでしょうか。どれほど与えられたら人は満足するのでしょうか。ある人は、自分のお腹が満たされるだけで満足します。ですが世の中には、使い切れないほどの財産を得てもまだ、不足を感じる人がいます。

 地上に生きる人はみな、不足と争い続けねばなりません。肉体を維持するためには様々な物資が必要なのです。ですが、物資でお腹を満たす事が出来ても、心を満たすことは出来ません。出来るのはせいぜい忙しさに不足を忘れさせることだけなのです。

 不足を感じている人に与える事は出来ても、満足を知らない人を満たすことは出来ません。あなたが満ち足らぬ想いに、心悩ませているとして、必要なのは、満たされることなのか、それとも満足を知ることなのか、一体どちらでしょうか。

 真の問題を知らずに、解決は有り得ないのです。満足を知らぬ人が不満を抱いていても、底の抜けた桶に水を溜めるような努力が必要とされます。水を注ぐ前に穴を塞がなければ、どれほど努力しても実りはありません。

 同様に、気の利いた人が、満足を知らぬ人に援助の手を差し伸べることはありません。この事はとても大切です。援助を受けるには、受ける人物の器が大切なのです。人物の器が小さければ、周囲が努力しても、援助の大半は溢れて地面にこぼれてしまうでしょう。それでもまだ、器に何がしかが残るなら幸いです。 全く何も残らない人も世の中にいるのです。

 しかし、同じ不足が問題であっても、足りずに困っている人を助けるのと、満たされずに困っている人では、手段が大きく違います。しかも満たされない人は、餓鬼にまで落ちぶれて、自分の心の痛みを紛らわせるためには、人を苦しめることも平気になる事があります。

 考えて見てください。底の抜けた桶をいっぱいに満たさないと、あなたを苦しめる人が目の前にいるとします。あなたに、何が出来るでしょうか? そして何をすべきでしょうか?

 あなたの答えは、あなたが餓鬼となった時に、周囲の人から受ける仕打ちなのです。心して下さい。


愚痴はやめよう

愚痴とは

 愚痴とは『言っても仕方の無い事を口にして嘆く事』とされています。

 口にする不平不満について、愚痴といわれると、反論したい人も多いでしょう。自分の心の中の不平不満については、他人が理解を示さなくとも、自分なりに理由があることで、単なる愚痴と片付けられたくないというのは、人間の心情です。

 さて相談を受けるということは、結局、悲観的な考えをする人の相手をするということで、今まで、私は懸命に相談や質問に耳を傾けてきました。しかし、振り返ってみると実に愚かしい事に、言葉に耳を貸す、懸命に頭を働かすということは、同時に霊感をふさぐ事であり、考えれば考えるほど、相談者に対する回答が得られないという悪循環に陥ってしまうのです。

 仕方の無い事にいつまでも囚われずに気持ちを変えて生きましょう。辛い、苦しい、悲しい、そういうメールを送られても、読めば私の霊感がふさがり、読まなければ返事ができないという悪循環に陥ってしまいます。ですから、相談メールには、感情的な説明はなるべく廃して、現状の説明と、解決への希望を書いていただきたいのです。

読まなくても判る

 実を言えば、相談メールの中には読まなくても返事を書ける、というより読まないほうが楽な例も多いのです。

 霊能者なんだから相談内容を書かなくても分かるだろうといった曖昧な内容のメールも届きますが、その返事は傲慢になっている自重せよ、であったりします。

嘆きは不幸を呼ぶ

 また、嘆き、悲しむのは人間の情ですが、情に囚われるのは心の窓を閉ざす事であり、高級霊を遠ざける事に繋がります。辛い時には明るい未来、望ましい解決を思い描くべきであり、目の前の障害に囚われ嘆いていると、低級霊を集めて障壁がますます厚くなるのです。

 感謝の気持ちには高級霊が反応し、恨みや憎しみ、悲しみには低級霊が反応します。これは宗教的な理論ではなく、きちんと精神的な理由があります。

 インターネットで例えるなら、良い映画を見て感動したときには、その感動を分かち合おうと同じ映画を見た同士を探しますよね。または付き合って気持ちの良い友人に対して、その映画を紹介するわけです。反対に自分の不幸を嘆く人は、助けてくれそうな相手を探すか、自分より不幸な相手を探して満足を求めます。

 霊的なものも同様なのです。喜びや感謝の念に反応する霊は、ある程度人を助けるゆとりがある霊であり、大抵、きちんとした守護霊団に属しています。ですからそのような霊と日常接していると、非常時には芋づる式に必要な能力を持った霊を呼び寄せる事が出来ます。つまり守護霊団の上部から有力な高級霊に支援を要請してくれるのです。

 それに対して、不幸に反応する霊は、努力して現状を打破しようとはせず、自分が一番不幸な存在ではない事を確認したいだけですから、非常時に助けを求めても放置するどころか、むしろ不幸に手を貸すことさえします。ですから不平不満を言って、低級霊に取り巻かれると問題の解決がとても困難になります。

 まれに、霊界で修行を始めたばかりの霊のように、勉強した事を実際に試したくて、不幸な人を捜し歩く例もあります。が、そのような霊も苦しんでいる人が不平を言っているうちは事態が好転する事が無いと知り、あきらめて離れていきます。

 ですから、まともな高級霊は、不平不満に反応することは全くありません。例外は守護霊だけです。しかしその守護霊も不平を止めない限り、他の霊の応援を得られずに、途方にくれる場合が多いのです。

感謝の念が最大の武器

 相談を依頼される方は、どうか感謝の念を絶やさずにいてください。

 霊界は想念の世界であり、霊界での遠近は想念によって決まります。

 ですから怯え、憎しみ、恨み、妬みなどの念を持つ事は低級霊にあなたを近づけて、高級霊を退けてしまう事になります。この世においても、恨み言の多い人、愚痴の多い人は、自分より不幸な相手を見つけて安心したい人に好かれ、人生を積極的に生きていく人からは嫌われます。

 あなたの友人が、あなたの不幸と付き合っているのか、あなたの魂と付き合っているのかは、助けを求めた時にはっきりと判ります。あなたの魂と付き合っている人ならばあなたをしっかりと受け止め、あなたの不幸と付き合う人ならば言い訳で逃れようとするでしょう。

 善い魂を友人に持ち、自らの不幸には友人を与えるべきではありません。

 そんな事をすれば「不幸」が「不幸」をつれてきてしまいます。 「不幸に集まる友人」を退けるのは、あなたの感謝の念と理想と希望なのです。

善き想念を持つ事

 私の霊力ではないからこそ、個人を超越した力が期待できるのであり、個人の力ではないために除霊は公平なものとなり、追い出された霊たちの逆恨みの余地がなくなるのです。ですがあなたが怯え、憎んでいれば、あなたが呼び寄せられるのは低級霊ばかりになってしまいます。


愚痴は心の安全弁です。 たまに愚痴をこぼすのは身体にも心にも良いのです。 でも同じ内容の愚痴は三回までにしましょう。 それ以上言うと自分が情けなくなって, かえって辛くなります。


悩み

2006-04-15

悩みの無い人生などありえません。 しかし、悩む必要の無いことに囚われて、人生を無駄にしている人がいます。 その悩みは、本当に悩むべきことでしょうか?

 悩みに苦しむ人に、神経症的な問題は多々あるとして、または、霊的な障害が見受けられるとしても……あなたの悩みというのは、はたして、悩んで解決することでしょうか。単に、現実を受け入れるべき事だとしたら、悩むことによって、一体いかなる解決がありえましょうか。

 あなたは悩んでいるつもりでいて、実は自分を苛めているのではありませんか。

 たとえば、自分の容姿や才能に関して、悩むことでどうして解決するというのでしょうか。むしろ必要なのは、欠点を長所に転じる努力であり、自分の持って生まれた、容姿や能力を充分に生かして、より良き人生を歩むことのはずです。

 悩んでいるつもりで、実は自分苛めに努力していませんか。あなたが自分を苛める……すなわち自分の欠点・短所を思い悩んでいるなら、心安らぐ暇無く、生きることがとても辛いはずです。

 世間には充分に敵がいるのです。せめて自分ぐらいは味方につけましょう。


嫌い!

最終更新日 2002年12月24日

 ○○が嫌い……という、相談への回答を整理してみました。


 

 最初に

 対象は、それぞれ異なりますが、人は意味もなく在る物を嫌悪する事があります。これは大抵、自身の欠点や生涯の課題を暗示しているのです。 克服しない限り、解決は有り得ないのです。

 心霊嫌い

 心霊を嫌うのは、霊感が中途半端に強い人に多いのです。あまりに貧弱な霊感の持ち主は、怪談話に実感が湧かずに素直に楽しめ、反対に、霊感が強すぎると、怪談話に作り物を感じてしまいます。中途半端に霊感が強い人だけが、怪談話に笑えなくなるのです。

 ですから、心ある人は心霊否定論者に対して、説得を試みてはなりません。往々にして、否定論者は否定を目的にしているのではなく、自己の恐怖感と戦っているのですから。怯える者を追い詰めたり苛めたりしては成りません。たとえ相手が、冷静を装っていても。

 同性、または同業者が嫌い

 その世界には、その世界の者でないと理解できない問題があります。同じ立場に身を置く者同士だからこそ、分かり合える問題があるのに、同じ立場の相手を嫌悪するのは自己の内在する問題を直視しないことの証とも言えます。

 実は私は、心霊サイトが嫌いです。ですがそれは……自己の内在する問題というより、立場の内在する問題について、よく理解するからだと私は認識しています。

 指差し示すことが出来ない象徴的な世界を扱うがゆえに、机上の空論や独善、そして見当外れの価値観といった、様々な障害が心霊研究の前に横たわっているのです。そして、私は自分のサイトについては自身で責任を負わざるを得ませんが、他人まで責任は負えないのです。

 因縁というのは解決のチャンスを逃さないもので、自ら克服するまでは、常にトラブルを引き起こし続けるものなのです。つまり現実逃避する人は、常に周囲に争いの種をまき散らし、決して落ち着きがないものなのですね。そして、敗北を悟れるだけの知力がある人はいつまでも無駄な努力はしないものです。結局、自分の問題を自覚しない人は大抵、破滅するまで争いを続けてしまうものです。

 そして、注意すべきは喧嘩は両成敗ということです。互いに歩み寄れない関係を維持するには、非常に多くの犠牲が要求されるのです。ですから争いに至る前に手を引くことが肝要でしょう。自分が現実を受け入れ難くても、相手が現実を受け入れ難くても、その交流は忌避すべきであると私は思います。


ほめられたい!

04年 07月 02日

 

 人は、褒められたり、感謝されるとうれしいものです。ちょっと褒められたりすると、もっと相手を喜ばせたくなってしまうものですよね。特に今時、学校や会社においては減点法で自分の能力を測られて話題に上るのは失点ばかり。雑踏に踏み出せば右を見ても下を見てもすばらしいものばかり、思い当たる「くだらぬもの」はなんだか自分だけに思えてしまう世の中……「世の中は、虚飾と偽善に溢れている。見かけよりも心が大事!」と、いうのは容易いが、虚飾と偽善に流されず言い切るのも難しい世の中。自信が足りぬからこそ、なおさら褒められたり、感謝される事に甘美さが募る……

 だ と す る と ……

あなたは、人を喜ばせるために努力しますか?

それとも、人を褒める事に努力しますか?

 つまり、自分が欲しいものを懸命に求めるのか、自分が欲しいものだから人に与えようとするのか、どちらでしょう?

・・・・・・・・

 もっとも、あまりに賞賛や名誉に飢えている人が、他人を賞賛してみても餓鬼が笑うかのように、不愉快に思われるかもしれませんが……

余計な事をするな

2006/04/13

 悩み多き人は、悩み多きが故に悩むことを止められない。なにしろ、あまりにも片付けるべき問題が多くて途方に暮れる。……だからこそ、他に救いを求めるわけだが、面倒を嫌うのは人の常である。

 だが、問題解決力のある人は、全てを一度に片付けようとはしない。一つずつ順番に片付けていくのである。

「千里の道も一歩から」……一歩ずつ進んでいけばいずれは千里の道程も走破する。だが、足を踏み出す前から「千里」の道程の遠いことを恐れ悩めば、前に進むことは出来ない。

 人が悩むべきは、その一歩を踏み出すか、出さぬかであって、千里行くか、万里行くかは、その後の話なのである。

 というわけで、どんな多くの悩みに苦しんでいる人であっても、コツコツと問題を一つずつ片付けていくなら、いずれは全てを解決して幸せを掴むことが出来る……というのは机上の空論である。

 実際的には、一つ一つの問題に横着(または横柄)に接しているから、片付いたようで片付かず、気がつけば問題の真ん中で身動きが取れなくなってしまうのだ。千里の道を駆け足で……たちまち息切れをするどころか、足を折って歩けなくなるなどという話はざらにある。

 問題を拗らせるのは、問題が難しいから……そういう事例も確かにある。だが多くは、横着者が問題を拗らせているのだ。だから、多くの場合、面倒な相談事は解決しない。問題が面倒だから解決しないのではなく、相談者が横着(または横柄)だから解決しないのである。


 ところで、私の師ならば、こういう問題を実に手際よく解決する。それも一見、実に不条理な方法で解決するのである。

「先祖供養をなさい」……具体的な方法についての指示もあるが、個人宛の処方箋を真似ても意味はない。……で、当事者が先祖供養にいそしんでいる間に状況が好転していくのだから、面白いというか、不条理というか。この結果だけを見聞きすれば、先祖供養をしてみようかという気持ちにもなるだろう。だがそうは問屋が卸さない。御利益目当てで祖先にゴマをすってもダメだというわけだ。(素人解釈では)

 念のために明記するが、私はそれほど大袈裟な先祖供養などはしていないが、墓参はかなりの回数出掛ける。先祖供養万能論者ではないが、先祖供養無用論者ではない。……ただし、師匠が先祖供養を勧めて良い結果が出た事例を見ても、それはご先祖が供養に応えた結果であるとは思わない。何しろ私の見回す限り、先祖供養にいそしんでも必ずしも良い結果が出るとは限らないからだ。師が介在した事例だけが、突出して先祖供養が好結果をもたらしているのである。

 今小耳に挟んだのは、『偽薬効果も大きい』という霊言だが、それもあるだろう。にしても、先祖供養が幸運への直接効果を持っていると考えるのはやはり怪しい。

 そもそも祖霊等は、子孫からの供養の有無に関わらずに、子孫の繁栄のために努力しているのだ。むろん、恩知らずを大切にすれば世間に申し訳ない、といった、道理の上での条件が多々あるが、決定的な要因は、先祖供養そのものではなく、当事者が小細工を止めることだ……と、感じている。ただ、「小細工を止めよ!」といっても、ヒマになればついつい余計なことを仕勝ちなのが人間であるから、先祖供養に努めさせ、余計な考えを持たないようにし向けているのである。

……いや、先祖供養は大切だと思うし、実際、先祖供養に努めている人を見るとそのオーラが明るく、時折祖先の霊とおぼしきものの笑顔が見えたりして好ましいものである。が、先祖供養を過大評価するのも、過小評価するのも、いわば短絡的な発想と思う。手段というのは、目的を達成するためにあるのだから。なにより、人は論理よりも情理や心理に強く影響を受けがちであることを理解すべきだろう。

 先祖供養はささやかな直接効果しかもたらさないが、上手に使えば効果は増大するのである。


2006-04-13

お知らせBy老神いさお。

ただいま、メールヘのお返事が遅れています。今しばらくお待ち下さい。

移行途中のデータが時折、トップページに掲載されますが、編集作業の都合ですので、今しばらくご容赦ください。旧作については、本文右上に日付が記載されます。

東京オフ会: 3月度の東京オフ会は3月20日(土)午前に開催いたします。参加申し込みは、メール・フォームメールなどでお申込みください。

大阪オフ会: 大阪オフ会は4月11日(日)午後に開催いたします。参加申し込みは、メール・フォームメールなどでお申込みください。
 打ち合わせ用のページを作成しましたが中身はありません。今後参加者の皆様にパスワードをお知らせすると共に内容を追加して行きます。

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