‘心霊相談(事例)’ カテゴリーのアーカイブ

禁断の恋愛相談。

2011/07/14

私は現在、メールによる相談をお断りしています。

—————————————

 「ひとつだけ、願いが叶います。」・・・と言われた。

 ならば、安易に妥協しなくても良いのでは?

 むしろ、高望みするべきではなかろうか? 

 もしも、その願いが、恋愛・結婚に関することならば、「結婚」は願い事のゴールであると同時に、新生活・新人生のスタートである。が、そこに「願い」の担保は残っていない。で・・・どうする?

 どんなに才能溢れる人でも・・・諦めたら何も実現できない。

 才能は大切であるが、才能よりも大切なモノがある・・・と、私は思う。

 で・・・才能も大切であるが、信念、または、信仰も、人生に有益ではなかろうか?

—————————————

「・・・で、私の恋愛運は?」と問われた。

 眼前に、期待満々の人がいて、まともな霊査が取れるはずもない。

 遥か遠く、縁薄い神々の意思を感じ取るより先に・・・目の前の欲望を読み取ってしまうだろう。啓示と信じて。

 まったく。人ならぬ相手のメッセージを受け取れるなら、安易に妥協せず、高望みするべきではなかろうか?

 ダメというなら是非もないが、可能なかぎり、有益な果実をもぎ取るべきであろう。・・・疲れるが。

 ・・・というわけで、静な環境で、真剣にこの問題を、質問者に代わって問うてみた。

 

『で、どうして見たいの?』・・・と、反対に問われた。

—————————————

 特に、若い人が恋愛に望むのは、

 相手に何(非物質・もしくは肉体)を与えられるか、ではなく、何を得られるか・・・で、あることが多いようだ。

 見返りも考えずに、相手に与えることを考えられるのは、年齢の問題ではなく、その人なりの霊性にあるのだろうが。

 そして恋愛に限らず、人間関係全般は、ギブ・アンド・テイクに支配されている。・・・だれも、長く奪うことは出来ないし、だれも、無駄に与え続けることは出来ないのである。

 あのね。

 突き詰めれば、真の恋は、無償の愛、見返りを求めぬ愛に帰着するのでしょうが、その恋が実るためには、互いが、無私に目覚めなければならず、それは結局、与えられる者しか得られないという、富者の原理に支配されている、ということなのです。

 強く求める者には、得られない。・・・ゆとりが大切というべきか。はたまた・・・

 多くの人は、互いに奪い合う関係を、その結果ではなく、その過程に着目して、「楽しい」というのですが。

 

 恋愛問題というのは、その質問者の人格・霊格の問題をさておいても、やはり難しいのです。

 なにをもって、幸せ、というか。

 恋の成就は、誰もが望むけれど、何をもって幸せと評価するかは、人により、その性(さが)・その人格・霊格によって異なるのです。

 または、何をもって、退屈というかは・・・

というか、「霊界通信」を、中継する私の価値観、というか。

・・・・・・・

 人は、幸せを求めているつもりで、往々、満足を求めているもの。でも、「満足」は、僅かな時を経て飢えに変わるのが、不幸の元だ。

 

 

 

 うーん。

諍《いさかい》

2011/05/12

 好きになれ、とはいいません。でも、嫌いにならないことです。

 なにしろ、嫌いなものとは、一緒にいるだけで苦しいもの。 嫌いなものと離れられぬだけで、自分が苦しむのです。
 
 あなたが嫌えば、あなたの負けです。

・・・・・・・

 目的は、問題から離れることですよね?

 たとえ相手に嫌われ、憎まれたとしても、自分は嫌わず、憎まぬことです。

 朝夕、明るく挨拶して、普段は礼儀正しく、たとえ抗議し、叱らねばならぬ時は、さらに礼を尽くす。

・・・不仲の相手が、あなたの誠意に打たれて居住まいを正すようであれば、不仲の原因は、今までのあなたの傲りでしょう。 礼儀正しくするあなたを、侮るような相手なら、相手は傲りから破滅していくでしょう。

 相手が道理に反しても、なお、自分は道理を通す。・・・その諍いを、周囲の人々も見ているのです。一人で戦っているわけではない・・・その事を忘れないように。

 諍いや、争いごとは、引き際が大切です。

 破滅していく人の道連れとならないように。・・・取っ組み合って相手の破滅に付き合うよりも、頭をさげる方がよほどうまい手です。・・・不幸を軽く見ないように。傲りが招く不幸は、一度では終わらぬものだから。

(続きを読む…)

代償を軽視しない。

2011/04/27

 あれは、いつのことだったか。つまり、事の発端は、あまり記憶に残っていない。

 おそらくは20年程前のこと、隣国の核実験の事と思うが、ニュースで、放射能濃度が上がる、というのを聞き、不安になって、わが心霊の師に電話をかけた時のこと。

 そう、私もかつて、放射能を恐れて、霊能者に相談したのである。

 他にも同様の電話があったのかもしれない。わが師は、いかにもめんどくさそうに、

「あら、私は被爆者だけど、未だにピンピンしているけど?」

・・・私は、時間を割いてもらたことに対してわびをいい、電話を切った。

 日時も忘れてしまったことだが、たしかあの時、私は二つの事を、理解したと思う。

  1.  不安を相談されても、答えようがない。
  2.  人の命を奪うのは、リスクではない。

 いうまでもなく、放射能が降らなくても人は死ぬのである。・・・避けられるならば、リスクは減らすほうがいい。でも、逃げれば助かるのか? 

「禍福は糾える縄の如し」・・・逃げた先が安全だと、または、逃げることが安全だと誰が知れよう?・・・心がふさがっている時に、神助を期待するのは難しい。

 繰り返すが、放射線・放射能の害を軽視するわけではない。

 しかし、これ以後原発の事故が二度と起こらなかったとしても、日本国内には五十もの原子炉があり、地球全体では四百以上の原発がある。(その他軍事用)それらが引き起こすかも知れない、原子力事故を不安に思いながら生きねばならぬのである。・・・逃げるのは結構。だが、それでほんとうに安全なのか? ただ、不安から逃れるために自分を忙しくしていないか?

 わが師は、今は加齢でそれなりに故障はあるようだが、私は未だに頭があがらない・・・

・・・・・・

 私は、放射線・放射能の害を軽視したいわけではない。私だって、出来ることなら避けたい。・・・とはいえ、自分だけ安全な場所にいることを潔しともしない。それを、「格好付けて」 と思う人もいるかも知れないが、私としては、どちらかと言えば、「恨みを買わぬように」・・・という部分が強いと思っている。

  逆恨みなら、力づくで解決することもできるが、己の卑怯な行いを、力づくで解決しようとすると、かえって拗れる・・・

 人間の行いには、ソロバン勘定や、論理的帰結だけでは解決しきれない代償を求められることがあるからだ。

・・・・・・・

 無論・・・道を歩いていたところに、車が突っ込んできたなら、私だって避けようとするだろう。避けられる難を避けないのも罪深い。・・・事故を甘受すれば、相手を加害者にしてしまうのだから。

 同様に、原発事故の影響を恐れて、避難する人や、風評に流されて食品を買い控える人がいるとして、それが悪いことだというのではない。

 でも、誰かがやらなければいけないことから、逃げたらどうか? ・・・誰かが替りに犠牲になる。

 私はそれを罪とは数えないが、何ら負債とならないとも思わない。

 まあ、あえて下品(かつ単純)な表現をするなら、自己犠牲を厭う人は運が悪くなる。

 一得一失。・・・まあ、人生というのは結局のところ沢山の選択肢があるようでいて、自ら進んで行うか、無理強いされて行うか、の二者択一でしか無いと私は考えている。避けることが出来たなら、まあ、避けても良かったのだろう。

 ただ、避けるに当たって、支払うべき代償は、思うよりも多いのではないか、というのが私の見解である。

 ぶっちゃけ逃げても、、眼に見えるリスクが減るだけで、眼に見えないリスクは増えるだろう。


  やってしまった事を批判しよう、というのではない。言葉は取り返すことが出来ないのに、あとから兎や角いっても仕方が無い。・・・不毛なことに時間を費やすのは、趣味の人か、愚か者だ。

 おさらいしよう。

 大切なものなら、大切に扱うべきである。・・・その大切なものをいかに扱うか。人智に任せるか、神智に任せるか。

 別な言い方をするなら、後から訊ねるか、先に訊ねるか、ということだ。

 ・・・・・・・

 取り返せない、というのではない。でも粗末に扱えば赤字は増えていくだろう。私はそれを危うむ。

 

安産祈願の裏面

2011/03/21

 3月13日に、東京オフ会の常連が、無事、出産した。

 この場合、何をもって無事というのか。それを果たして一男性が論じて良いものかは棚上げとする。

 ただし、当人は無事、もしくは救われていたと思っているようなので、とりあえず、無事、と決めておく。

 赤ちゃんの体重が大きく、難産で、出血も多かったとのこと。

 そして、予定日を一週間過ぎたために、地震後の出産となった幸運、土曜日からの出産で、遠方の女系親族の援助を得られた幸運と、無事に親族が帰宅できた幸運、地震後の停電絡みで友人(父親)の時間に余裕が出来た幸運。

・・・おめでとう。守られたようで何よりです。

 ところで、念のため。物事には一長一短がある。ならばこの幸運には、どのような支払義務(代償)がつきまとうのだろう?・・・続く。:lol:

・・・・・・・

(以下、かなり不謹慎な話題ですが、現実というか、人の器量の問題もありますので、広い心で受け止めてください)

 話は遡ること、出産予定日前。私は、この常連の静岡オフ会参加を断り(出先で産まれたら困るし、早まるかもしれないし)、その代案として、静岡オフ会で訪れる、某大寺(の門前甘味処)で、安産祈願をすると、私は断言した。

 そう。大寺で祈願するのではなく、甘味処で祈願すると断言したのである。

 ところが当日、参加者の皆は、何を考えたのか、考えていないのか、甘味処を素通りして、大寺の本堂に向かって行く。仕方なく付いて行ったところ、皆がなにやら祈願しているので、まあ、ついでに私も安産祈願した。

 見えたのは・・・「うふ。:lol:」・・・「出血多量で大変そうだ:lol:」・・・「こりゃ、事前に言わないほうがいいな。:lol:」・・・「えへ:lol:。うん。まあ、安産祈願した、と言っておこう。:lol:」・・・「ま、祈願はウソじゃないし。:lol:」・・・で、あとはすべてを忘れて、美味しいジェラートを食べに繰り出した。

・・・・・・・

 念のため(?)いうが、祈願なんて、どこでやっても同じだ。

 神社仏閣とは、この世の人のためにあるのであって、そこに神霊が鎮座在すわけでは・・・無くはないが意味もない。その場所(という物質、物質した理由に縛られて)、そこで祈らなければ伝わらぬ霊なんて、低級であろう?

  とはいえ、なにぶん、神社仏閣というのはこの世の人のためにあるのであって、そこなら、「返答」が聴きやすい。つまり、普段であれば祈った結果が聞き入れられたかどうかが、イマイチ、腑に落ちない処が、良い聖域・霊場、大抵は神社仏閣を訪ねることで、腑に落ちることがある。

 というわけで、安全祈願はとっくに済ませていて、(わかっちゃいたけど念のため)、その祈願が聞き入れられるかどうかを尋ねたのである。

 で、見えたのは、やはり血の海(大げさか?)で、事実は、現場を見たわけではないが、やはり出血では苦労したらしい。 とはいえ、私に難産を知らせる霊たちに悪意もなく、下品さもなく(あ、それを受け取っていたときの私はそれなりに下品だったが)、『苦しむ必要がある』と思っているのではなさそうだった。ただ、『子供は一番良い時期を選んでこの世に生まれ出る』・・・というのは、言わずもがな。

 大変なのには、大変なりの事情や理由もあるだろうし、今それを明らかにしたとしても、誰が楽になるか?・・・妊婦が身構えては、難産がより苦しくなりはしないか。

 苦しむという一点を、私が野次馬的に、またHPの原稿にするため、いささか、または、大げさに面白おかしく書くにしても、その時、私に「血の海」の図(なお、見えたのは純粋に、床に溢れる大量の血(多分大げさ)で、妊婦や子供の姿は見ていない)を見せた霊は、真面目で、しかも、「(事前に)公言するなよ!?」的な雰囲気をもっていた。 さらに言うと、私が今回、東日本大震災を切っ掛けに献血に行ったには、念頭に、この友人の出産があった。時期の間に合う、間に合わないではなく、量の差し引きが合うことが大切だろうから。それゆえ、友人(父親)にも、2リットルほど献血してこい! と言ったのだが・・・

・・・・・・・

 まあ、いい加減、おめでたい話題を、スプラッター混じりで、おもしろ(?)おかしく(?)書くのにも飽きてきた。そう、物事には一長一短があり、下品なお笑いには飽きが伴うのである。それ故、下品なままで、終わりを急ぐ。私も眠いし。

 友人の出産には幸運がつきまとった。だが、物事には一長一短がある。ならばこの幸運には、どのような支払義務(代償)が求められるのだろう?

 私はよく、下品を承知で、霊たちを「せこい」と表現する。私の知る限り、霊たちは、やりくりするばかりで、何も与えようとしない。あくまでも手持ちの中で問題を解決させようとする。相談者の中でちょっと大きな財布をお持ちの方と、霊の間に入って、価値観の違いに平衡することもある。

「まあ、あんた財布が大きいんだから、お金で何とかすれば?〉とは言わないが。

 そう、友人(母親)の出産時には様々な幸運があった。とはいえ、このようなことは心霊を勉強し始めると、よく体験することで、何か特別な施しを得たというのではなく、時期が合った、歯車が巧くかみ合った・・・いろいろな物が順調に動いたと言うことである。つまり霊たちは一切出費をしていない。 結局のところ、出産時期を遅らせた結果として得た幸運なのである。その代償は、と言えば・・・母胎中で順調に胎児が育ったということか・・・つまり、出産時の幸運は、難産という代償のもとに得たことで・・・ 某大寺で、私に難産を知らせた霊が、慎み深い態度であったのは、無理もないことだ・・・そりゃ、出産前の母親にそんなことは言えない・・・少なくとも、東日本大震災という大天災が訪れると明言できるのでない限り・・・

・・・・・・・

 果たして、この友人(母親)、本当に幸運だったのかどうか・・・ちょっと私には判断がつかない。強いていうなら、これまた私の指導霊(♂)がいうには、『出産という得難い経験をするにはそれなりの代償が伴うさ』というのは、本来、女性が言ってこそ正論と成るのでは・・・と思う。おそらくは、真理だろう(その趣旨で選ばれたタイムスケジュールであろう)が・・・真理は理解者を選ぶのだから。

 一方、友人(父親)は、幸運だったろう。苦労という人生では当たり前に要求される代償だけで、大事が順調に推移したのだから。・・・解説するなら、家事諸々について、頭を悩ませずにすむなら、男は幸せではないか。その幸せを得るためなら、2リットルぐらいの献血は・・・以下、つまらないので略。

 思うに、当事者の中で、一番幸運、言い換えれば、タナボタを得た・・・不労収入を一番多く得たのは、ここで生まれた子であろう。その子が果たして思春期に至りても、親を罵倒しないかどうか。なにやら、私の目にも見えているような、いないような。

 いっそ、出産時の血の海を動画で撮影しておいて、生意気いった時に、トラウマになるまで見せてやれば・・・面白いかも(帳尻も合いそう)・・・などと、意地の悪いことを考えるのは、結局のところ、第三者だからだろうね。 もっとも、物事は一長一短。両親(又は母親ばかり)がいろいろ苦労して、この世に生まれ出て子供である。そりゃ、期待されていることも少なくは無かろう。・・・そこまで考えると、やはり、帳尻があって、誰も幸運には恵まれてなさそうである。

(たぶん) 終わり

でも、ちょっとだけ補足。

世の男性陣へ。

女性から見れば、まだまだ妊娠出産は、命の危険を伴う、難事であることに敬意を抱こうよ。なにしろ、物事は一長一短なんだから。

(続きを読む…)

念をブロックしたい

2011/01/20

Q 送られてくるネガティブな念をブロックするのに、指環(宝石)を持つのはダメか?

・・・・・・・

 ダメとはいいませんが・・・アクセサリーの類で念をブロック出来るというなら霊能者はもとより失業です。また例えばドアに鍵をつけても、出入りの際に鍵を掛け忘れては意味がありません。持っていれば安心だ、という、いわば偽薬効果を狙うのなら、他者に相談した段階で効果は薄いと思うべきです。・・・さらにいえば、自己暗示は諸刃の剣です。

 そもそも、ご自身の霊感が強い(からこそ、念を感じることを問題視する)なら、問題点は別にあると考えるべきです。

 多くの方が、ご自身の霊感をあてにしないというのは、そもそも設問に問題があることが多いと私は思います。

・・・・・・・

 そもそも、人が悩みながらも答を得られないのは何故か。

 むろん、難しすぎて解答に至れないこともあるでしょうが、多くの場合、とくに、心霊相談を頼る人に見られるのは、予め、自分の心中に結論が決まっていて、それが事実とそぐわない事に悩んでいることが多いのです。ですから、霊能者を引き摺り出さなくても、第三者がみて、答えは明らかであるのに、「私にはわからない」といいます。人に分からないから神仏にまで答(同意)を求めるわけですが、まあ、その結果幸せになったか、はたまた、幸せのふりを続けなければならなくなったかは・・・

 脱線しました。

 ともかく、私が往々感じるのは、質問者には、もう、答が決まっていて、それ以外の選択は嫌で嫌でたまらないから、無意識に、問題を二者択一に絞ったり、三択に絞ったりします。でも、問題を絞ったところで答に至らないなら、そもそも、その選択肢を絞る段階に間違いがあると悟るべきでしょう。

 ですから、二択の答えは三番目にある、と、半場冗談めかして私が言うのですが。


追加: 2011年1月23日 

未知への心構え。

 少なくとも、自身で考える「選択肢」というのは、自分の想像力の限界を超えることが出来ません。そして、問題解決が困難なのは、解決策が、自分自身の想像力を超えているからです。それゆえに、二択の答えは三番目にあり、といい、想像力を超えた部分に霊感があるわけです。

 ところが、自身の想像力を超えたところに答がある、とすると、それぞれの人間性に起因する大きな障害が目に付く事になります。・・・ある人は、未知なることに眼を開かれ、またある人は、未知なることから眼を背けます。・・・つまり、三番目の答を受け入れられる人と、聴くことすら拒絶する人とがいるのです。

 したがって、たとえすべての人に霊感が備わっているにせよ、その霊感を活かせる人と、活かすことの出来ない人がいるし、自身の霊感を活かせない人が、必ずしも他者の霊感を活かせるとは限らないということです。・・・心霊相談が役に立たぬ人も居るのですね。

 ところで、これもまた、ある意味主題からの脱線ですが、私は、この未知への心構えが、実は信仰心と密接につながり、その人に備わる霊性の表れである、と考えます。

・・・・・・・

  言えないこともある。

 さて、質問者は自身の霊感で、「気にするな」と、言われたとのこと。・・・実はここに、大きな落とし穴が潜んでいる。

 私は、声や画像で送られてくる(つまり、送信者を意識する)霊感・霊査をあまり重視しない。重視するのは、交感や共感、すなわち通信相手を意識しない霊感の表れ方である。なぜなら、送信者を意識する、ということは、「立場の違い」や「利害の違い」が、存在するということだからだ。・・・真に受けてはいけない。

 もしかしたら相手は、気遣い、または、真実を告げることがめんどうだからそう言っているのかもしれないからだ。

 たとえば、この事例。「ネガティブな念を受ける」という質問なら、ひょっとして・・・可能性としてだが、

「(なに低級霊と波動を合わせているんだよ! でも、そう叱って、ストレスを与えたら、もっと低級霊と波動を合わせてしまうかもしれないから・・・) そんなに気にしなくていいよ。」と、思ってのことかもしれない。

 立場が違えば、いいたくてもいえない。・・・本当に霊的な支援を求めたいなら、この立場の違いを克服する必要があると、私は思う。

 

・・・・・・・

 その質問は適切なのだろうか?

「失せ物を見つけてくれないか?」という相談があったが、お断りした。そもそも、「どうしたら失せ物が減るか?」・・・ということのほうが、人生においては大切と思うのだが、眼前の問題である、物にこだわっているなら、質問者のそのコダワリの心が邪魔をして、適切な答えができないと思うからである。

 さて。当ページの本題である、「ネガティブな念を受ける」ということにも、同様の不適切な設問を私は感じる。

 例えるなら、いたずら電話を受けない方法より、いたずら電話が掛からなくなる方法の方が大切ではないか?

 または、「なぜ、いたずら電話が掛かってくるのか・・・」のほうが・・・

 『そんなことを気にすることはない、(その問よりも、もっと大切な質問があるのではないか?) 』・・・と、いってはいなかったか?

二者択一の答えは三番目。

 せっかく霊感に恵まれて、ネガティブな念に苦しむだけなら勿体無い。もう少しリラックスしてもう一度、問いかけてみてはいかがか?

 (もしかしたら、続く。)

 

墓地を選ぶには?

2010/09/20

 その昔、知人の親族の葬式からしばらくして、故人が影に追われている姿を霊視させられたことがある。
「早くお墓を立ててくれないと、逃げこむところがない!!」と叫んでいる。
『こりゃ大変だ! 助けてあげなきゃ!』と思ったとたん、いわゆる龍神(白っぽい格好の老人姿)が、視界を遮った。
『あれは生前、人付き合いが剣呑だった反動である。やたらに人に怒りを投げつけてきたから、今その「怒り」が我が身を追いかけているのだ。墓などあっても助かるわけでなし。いずれは落ち着くだろうから、放っておいて良い。』という。
 まあ、いくら便利な世の中とはいえ、コンビニ等では未だお墓は買えないし、安い買い物ではないし、買ったところですぐに役立つものでもない。
 知人を急かしてどうなる物でもないだろうし、霊感商法と誤解されても面倒である。
 というわけで放っておいたが、その後どうしたか、私は見ていない。


 その事があって、私は、我が親をそそのかして生前に自分の墓を買わせた。自分で買った墓だから、場所が悪いとか、方向が悪いとかいう苦情は一切受けない。死んでから文句を言っても知ったことじゃない。
 墓に立つのは公園墓地のちんまりした墓石であるが、私は結構気に入っていて、自分が入るにしても好都合に思っている。霊能者・心霊家が豪盛な墓に眠るなんて、人は知らず、私には恥ずかしくて出来ないと思うからだ。
 要は、縁者が訪ねて、額づくだけの場所があれば良い。・・・思い出すことで波長が合い、通信が成立するならなお良い。とはいえ、場所や道具に大きく依存するのもナンセンスだ。・・・これで充分である。


 東京オフ会にて、「義母(から)の供養」に関する霊査が出た。
 ちょっと脱線すると、わが師も精神統一の指導を受けていた頃に、お姑さんの小言を頂いたことがあるという。なぜ我が子に言わず、嫁に言うのかは心霊的問題というより、女性心理の問題であろう。はたまた家庭内権力の問題か、夫婦間の実行力の差か。・・・は、当事者に考えてもらうことにする。
 私が、「心霊勉強しているのに、よく、墓を後回しにするねぇ。」と、いささか皮肉をいえば、当然、どうすべきか、という質問がある。だが私は間に入るだけのことだから、どんな質問にも動じることはない。まあ、答えられるとは限らないけれど。
 で、得た霊査は、『大阪』『都内』『東の方角』『◯◯(そりゃ西だろう!?)』『どうせ三年もすれば向上して墓なんていらなくなる』『デカイ墓』『小さい墓』・・・「いい加減にしてくれ。結論だけでいいってば!
 というわけで、解答は棚上げ。というか、故人の遺志なんてどうでもいいから、夫婦で勝手に決めてくれ。というのが私の結論。

 それではだいぶ乱暴なので、もうちょっと分析すると、(たいていの)故人はおそらく、墓を建てることに過大な期待がある。自分の死後の境涯の低さ、また、その境涯の環境の悪さを、墓や先祖供養の有無・多少のせいと穿っているのだろう。
 また、一部の故人は、墓や先祖供養による利益を感じていないがために、意義を過小評価している。でも、墓が無いと家族の座りが悪いものだが・・・一方、墓があっても座りの悪い家はあるし。

 墓に期待しない故人(霊)であれば口出しせず、墓に期待する故人(霊)は、それぞれ言いたいことを言う。であれば、話がまとまらないのはむしろ自然である。ならばいっそ、建ててしまえば文句も言われまい、と思う。
 思いつきや好き嫌い以外の、いわゆる「道理ある霊査」が降りればそれなりに伝えもするけれど、現状は無意味に近い。というか、今回、一番高位な霊からの霊査が、そもそも、「勝手に買え」というものであるけれど。


 あえていえば、墓を買うなら、霊の加護を求めるよりも、家が収まるように買え、ということだとおもう。収まる家だから霊の加護があるのであって、霊の加護があるから家が収まるというのは、往々、やむを得ないが、本来は本末転倒なんだよね。

 どうも、皆、器を用意せずに、中身を得ることばかりを願っているように感じる。真空パック入の幸福では、さすがに味気なくはなかろうか。


 もとより、このご時世、墓地を選り好みするのは、かなり恵まれた人だけではないか? ならば答えなんて初めから決まっている。

 良いところが得られるように祈って、あとは努力するだけであろう。

己が慢心を恐れる。

2010/07/31

 もう一ヶ月以上も前のメールが話題である。もっとも、一ヶ月ならまだ早いほうか。

「慢心をして人の道にはずれたことをしないように、また、道を踏み誤らないように」と思い、オフ会に参加した、という人のメールを読みながら、真面目な参加者にありがたくもあり、また、なにやら引っかかるものを感じてはいたが、急ぎ連絡事項のみ返事して、そのままになっていた。

 まあ、「慢心」というキーワードでは色々書く事もあるのだが、本件は、この方の事例に限る。(限れ、と言われた。・・・それもネチネチと。)

 まず、なぜ私が「慢心をしない」というキーワードに引っかかったのか、といえば、

  1. 慢心に自ら気づくことができるか?
  2. 他者から「慢心」と指摘されて納得することが出来るか?
  3. 順番を間違っていないか?

 そもそも、(自らの)心の異常を、(自らの)心が察知するのは難しいのです。・・・物の長さを測るなら、ものさしを使いますが、そのものさしが伸びていないかどうか、他にものさしがなければどう測るか・・・

 また、他者から指摘される「慢心」が、果たして考慮に価するか。人は往々、有能な他者、論理的に勝てない相手に対して、「相手の慢心」を攻撃します。こういう感情論はそもそも相手にする価値もありませんが、それは同時に、他者から指摘される「慢心」という注意に耳を貸さなくなる、貸す意味があまり無い、貸せばますます混乱する。という、不都合な助言でありましょう。

 その一方で、その時々に行いの結果を反省してみれば、そこに「自分の慢心があった」、と思われることも多々あるわけで、では、慢心をどう扱うか、と考えると、答えが出ない。そもそも設問が間違っていないか、と思うわけです。

 心の異常を心が察知することが出来ない。・・・でも、人が恐れるべきは慢心だけか?

 慢心は、人が注意すべき、不適切な心のあり方の一面でしかない。なのに、慢心を恐れるのは・・・

  1. 実際に自分が慢心で失敗しやすい。
  2. 誰かに言われて真に受けた。
  3. 占いとか・・・

 もちろん、一般論として言うなら、人の数だけ原因はあるはずで、これが答え、と、私は論じることはしません。ただ、追いかけるものがあるなら、なにゆえ追いかけるか、その理由を心の隅に置いておくべきだ、とは思います。さもないと、やっているうちに目的が摩り替わったりするからです。

 もしくは・・・慢心を恐れる心もまた、何かから摩り替わったものかもしれません。

 たとえば、子供時分に親から「生意気!」と叱られ続けて、あげく、学校で受けた指導中に「慢心は厳禁です」と言われた二つが結びついてしまい・・・

 そう、いかなる理由から、何を追いかけるのか?

 慢心は心の一部であり、人道を外れるのは行いの一部でしかない。・・・

(まあ、そこまでメールに書かれていた訳でも、霊査として読み取ったわけでもないが)

 恐れれば、行うことを止める事になる。慢心を恐れれば考えることを止めるのか・・・もしくは、慢心なくしてどうして危地を乗り切るか・・・さて、心にあるのは果たして欠点か、それとも、使いどころを待っている強力な道具か、どうか?

 果たして恐れているのか、それとも、自分の可能性を殺しているのか。

 

 結構、人は己を殺している。・・・そうやって人は己のブレーキかけながら、一方では思いっきりアクセルを踏み込んで、無理やり高速で走っているかのようだ。軋むブレーキに苦しみながら。 スピードに恐れるより壊れそうなブレーキに怯えている。

 まあ私は、アクセルよりもブレーキの方が強力な性格らしく・・・あまり良い助言は出来なかったかもしれない。

 

では、一戦交えるか? (補足&こっそり修正)

2010/07/17

(2010年6月26日)

 動かなかったPCが直って、あれやこれやと片付けをしていたとき、友人からメールが届いた。

『最近会社で厄介な問題に巻き込まれて、明日の朝に吊るし上げられるみたいです。そこで、明日の打ち合わせで、冷静に今回の問題で他の人が知らない都合の悪い事をいくつか暴露して、論破すべきではないかと考えています。』

 この友人、冷静に見える風貌の半面、結構、好戦的な言動もまま見られる。メールのタイトル(ブログのタイトルとは若干異なる)もまた、少々、攻撃的な表現であった。が、霊感の強い人にとって、敵意を向けられるのはそれだけで暴力を受けたに等しい。必然的に、勘が強いは、大抵、癇癪も強いもので、勘が強くて、しかも、おっとりしている人もいないではないが、それは奇跡に属すると私は思う。

(一見温厚、言動も穏便、しかも丁寧で、その実、強烈な個性の持ち主、を知ってはいるが、 それは旧家の躾が生み出したものらしい。いやはや、人の有り様というのは・・・)

 つまるところ、友人は私に助言を求めていても、その実、答えは知っているのであって、ただ、それが難しい選択であるが故に、同じ意見を聞いて安心したかったのであろうと思う。

 さもなくば、私の助言を聞いて、無視するか、反発するであろうから。素直な(つまり当人が気付いている場合)にはスムーズに霊査を得ることが出来る。反対に、当人が気付かない、というより、気付きたくなくて真実から目をそらそうとしている場合は、往々、霊たちも言葉に詰まる。・・・(ここ、結構重要)


 さて、私の返答は・・・(多少編集)

 いいんじゃないですか? 

「はあ、そうですか。スイマセン。」て、言っておけば。

 その結果がたとえ悪く見えても、あなたにとって本当に不都合とは限りませんし、あなたにとって良い結果に思えても、長い目で見て本当によかったかどうかは分かりません。(神のみぞ知ること)

 ところであなたは、この人が嫌、とか、得られた喧嘩は買う!、という趣旨で相手を見て・・・相手を色眼鏡で見ていませんか。

 こういう責任転嫁型の人に真実を突きつけても拗らせるだけですよ。結局、感情論から「窮鼠猫を噛む」とも、なりかねませんし。

『相手はおそらく不安なのだ、ならば、殴るよりも、相手が転ぶように仕向ける』とか、「私じゃ出来ませんから・・・」とおだてて、相手に危ない橋を渡らせるとか。やりようには色々あるはず。

 ともかく、このメールを見る限り、相手も悪いでしょうが、あなたにも『試練・暴力的正義感をなんとかせい』と、(守護霊もその必要性を同意した)試練を感じますよ。

 相手を論破するよりも、相手に勝手を言わせて・・・蛇足という言葉があります。蛇の絵を書いている人が、調子にのって足まで画いてしまった。だが足があったら蛇じゃない。つまり自らダメにしてしまうということ。・・・それによって、相手は蛇に足を画くかもしれません。または、あなたは売り言葉に買い言葉で、蛇足を画こうとしていませんか。

『外なる敵は勝ち易く、内なる敵は勝ち難し。』 と、言いますが、あなたは戦うべき敵を間違っていませんか?

 というか。バカの相手をすると、霊界も含めた周囲から、延々とバカの相手を任せられますし、そもそも(いわゆる)霊的波動の異なる人は論破できませんよ。なにしろ、感情論と論理じゃ、拳を握り締め(グーを作って)殴りかかろうとしている人にチョキを出して勝ったつもりでいるようなものです。人間関係において、勝ちを得ようとする人が往々、かえって不利に陥るのは勝利条件に設定ミスがあるからです。

(勝利条件の違い: 周囲や相手が、それを負けと見ていない。むしろ勝ちと思っている。)

 論破するのをやめろ、とは言いません。でも、勝利条件(成功条件)をよく見極めることです。自分にとっての勝利(往々、それは自己満足)ではなく、相手にとっての敗北となるように行動を選択することです。それにはまず、相手を知ることが必要となります。

 敵を知り、己を知れば百戦危うからず・・・これは勝利の方程式(これを「知れない(理解したくない)」人は多い。)ではなく、不敗の方程式であります。不敗の戦略の良さは、つまり、相手の自滅を促すことで勝利を得るところにあります。

 まあ、ぶっちゃけ、周囲が相手にしない人を、あなたひとりが相手にしても色々と面白く無いでしょう? 往々、正義感は、気をつけなければ自滅(蛇足)の道です。 まあ、悪の道もまた、自滅に繋がっているわけですが。

 正義よりも善であるように致しましょう。


補足1 (7月17日)

 その後、友人から後日談が届いた。かの相手は左遷が決まったとのこと。それを伝える友人の態度にいささか想うところがあって伝えたけれど、キチンと伝えられたかどうか。

 そしてまた、友人からさらなる後日談が届いた。

 要約すれば、相手の不正が露呈して左遷が取り止めになり、今は処分待ちだとのこと。

・・・・・・・

 別に終わったことにクドクドと説教臭いことを言いたいわけではないし、この友人を下に見て意見するつもりもない。まあ専門家、とまではいかなくても、それなりに事情通を自認しての意見ではあるが・・・

 我が友人を『直球勝負の剛腕』に喩えるなら、相手は『多彩な変化球を使い分けるマジシャン』です。性格は正反対ですが、性格が反対でも仲の良い人はいます。私が問題視しているのは、我が友人が、直球自慢というより、変化球を投げるのが苦手、な人であるのと、私の見る限り、問題の相手は変化球自慢というよりも、自分の直球に自信がない、むしろコンプレックスを抱いている、点なのです。

 内心、お互いにライバルであると認識していて、たとえ負けてもなおのこと相手に難癖をつけようとする関係と私には見えます。

 例えば水と油ならば、放っておけば分離するのに対して、この二人は同じ縄張りを争う関係です。それゆえに、相手の不幸を知らせる友人の言葉尻に、私は危険な匂いを嗅ぎ取るのです。

 つまり、友人の守護霊や、その上の産土神等が、この欠点を正す、または少なくとも減らすために、互いに切磋琢磨させられはしないか、と思うのです。

 故に、私が最初に、そう、これらの後日譚を知らされる前に送ったメールのサブジェクトは、「争うことの是非より、守られていることの自覚が大切。」としたのです。それは別段、明らかに悪い!、というニュアンスの結果ではありません。どちらかと言えば、キナ臭い、に近いのですが。

 ところで私は、変化球を使い分ける・・・というか、直球に自信のない人はよくよく注意すべきと思います。まあ、露骨にいえば、姑息な人、ということですが。

 まっすぐ生きることの意義はともかく(つまり、知ってはいるかも知れないが)、その価値を知らぬ(つまり軽んじ、疎かにする人は)、往々・・・おそらく大抵、カミソリの刃の上で踊るような人生を歩んできた人でしょうから。ギリギリの人生を自認している人だから、乱暴な生き方が出来るのでしょう。もしくは、ほんとうに大切にされたことがないのか・・・。

 欲の薄い子供時分に助けるならいざ知らず、一通り甘い汁を吸った事のある相手だと、無駄がある豊かさに憧れていて、ムダのない豊かさは生理的に拒絶されるところがあります。

 生まれ変わらないと直せない悪癖を身につけた人なら、周囲は見て見ぬふりしか出来ないものなのです。 あえていえば、ただ拗れ、形が変わっても被害が増えたりする・・・

どうしたらよく生きられるか

2010/05/11

 どうしたらよく生きられるか・・・と、日々、考えている人は多い。

 社会のため、もっと身近な者のために、何か役立つことをしたいと願う人は、多いのである。(社会を不安に陥れるのはごく僅かな悪意で事足りるのだが)

 あなただけが善良ではないし、往々、善の解釈の違いを論点に、善人同士が闘うことも決して少なくない。・・・「善を口実に争うなど、善人の為すことでない」と言われようが、未熟や不完全を理由に人を裁けば、天上天下に罪なき人は無くなる。

 人は善良であろうと苦悩し、苦悩するが故に何かを壊す。・・・ある意味、人間社会にとって不幸なのは、その根底に愛なき憎しみが無いことであろう。悪人ですら愛を求める。時折、愛する対象を間違った者があっても、極端には、自分以外のすべてを憎んでいても、他を憎むが故にむしろ己を愛すものだ。 愛憎は表裏一体。それが自我の本質であって、自・他の区別のあれば、そこに愛なくして残るものはないのだ。

 すなわち、世に愛なき人はなく、ただ、その心が素直か、または捻くれているかの差があるだけである。・・・もしくは、より大きな愛を求めていることにおいて、社会の法に反した罪人、社会倫理を犯した者とて決して人後に落ちない、いやそれどころか、なりふり構わぬ真摯さは、世間でいうところの善人以上かもしれない。

 その事を知る者であれば、「汝の敵を許せ!」ということが無理なく判るはずである。すなわち、善悪では人を裁けないのである。が、行いは結果に至る。善因善果・悪因悪果。つまり、許すことと野放図にするのとは異なるのも道理であろう。

 我々は、裁かれぬ罪と自らを救えぬ未熟さの間に生きている。・・・その間に立った人はどう生きるべきか?

 

 どうしたらよく生きられるか・・・と、日々、考えている人は多い。

 が、どちらに進もうが、人は面倒事に巻き込まれはしないか?・・・どちらに進もうとも、臨機応変、時と場合に応じた対処が求められる。もしくは、求められないはずが無い。むしろ往々、人は面倒事に巻き込まれるために生きているように錯覚することもあろう。

 いや、仮に無事な道が判るとして、人はそうそう自由に歩んでいけるものだろうか?

 人は結局、与えられた道の中で、最善をつくすことしか出来ないのである。

 にも関わらず、

 

 どうしたらよく生きられるか・・・と、日々、考えている人は多い。

 さて、あなたに必要なのは新たな進路であるか、それとも、今の道を歩み通せる自信であるか。

 または・・・踏み外した道を、後戻りする勇気か。・・・その全てを見極めるために、立ち止まり、己の未熟さを省みる大いなる勇気か。

 

 どうしたらよく生きられるか・・・と、日々、考えている人は多い。

 よく生きようとして・・・誰かを愛して、誰かに愛されたくて・・・あなたの生きている道は、素直な道か、醜く捻くれた道か。

 

 どうしたらよく生きられるか・・・と、日々、考えている人は多い。

 その想いは果たして善良な心の表れか。それとも、未熟であさましい自分の本性からの逃避か。

 その想いは果たして素直なものか、捻くれたものかどちらだろう?

 つまるところ、あなたが今、歩む道に正否があるのか、歩むあなたに正否があるのか。

迷いの解消・前は後ろの正反対(新編集)

2010/01/17

前は後ろの正反対

2004年 06月 17日

 前を見れば欲が出る。あれもしたい、これもしたい。

 前を見るから脇道に入りたがる……一体前ってどっちだろう?

 一生懸命に生きるから、どうしたいのかが判らなくなる。

 そんな時は真後ろを向いてみる。自分が一番イヤな選択肢は何であるか? それを真剣に見つめてみる。そして、その正反対を見てみると……自分が絶対に目をそらしてはいけない前が見る。

 一刻も早く、一歩でも前に。そう思う気持ちが道をそらす。

 真っ直ぐな道より、近道はないというのに。頭で判っても気がつけば曲がっている。曲がっていることに気がつかずに、道が見えないと絶望する。迷っているのではなく自分を信じていないだけ。自分を信じずにいては、自信がなくなるのは当たり前だ。


迷いは万病の元

2004年 07月 13日

「君は迷いが多いね」と指摘されてもピンと来ない人も、設問を逆さにしてみるとわかりやすいもの。「打ち込んでいる物がないでしょう」違いますか?

 何かに打ち込んでいる人は、自分の力の大部分を目的に注ぎ込めます。ゆえに猛烈な力を発揮できる物ですが、迷っている人はいつまでも足踏みを続けます。迷って足踏みをしていると、前に進まないのだから楽なようにも錯覚するけれど、実は泥沼に落ちた自動車宜しく、エンジンを吹かしても車輪は空回りを続けるようなもので、浪費される活力は相当な物なのです。……迷うことに焦るから……迷った時には様子を見る。様子を見るというのは、一念専心休むことが大事なのです。身動きできなければ精神統一するぐらいの気持ちが大切です。それが出来なければ、全力疾走している人よりも心身をすり減らすのが迷いだとおもうべきです。これは全く、迷いを万病の元と呼んでも差し支えないほどです。


衣食足りて礼節を知る

2004年 07月 13日

 衣食足りて礼節を知る――といいます。豊かさと善良さは比例するというのです。これは反対にも働きます。つまり衣食が足らず礼節を失う――というわけです。特に小心な人ほど……と表現されて、「ああ、自分のことか」と思える人は幸いですが、ともかく、僅かな不足、欠乏、不安、などから、衝動的な行動に打って出て、挙げ句の果てに自分の立場をますます悪くする人がいます。

 まずい!――と感じたならば、自分の立場が良くなるように工夫すべきなのに、ますます悪くなるようにがんばってしまう。これはつまり、迷いが迷いを呼んでいる状態です。


迷いの原因

2004年 07月 13日

 知識の不足が迷いを呼ぶ……というのは、ありがちな解釈です。確かに、知識の不足も迷いの原因の一つには違いないのですが、もっと大きな要因は、理想と現実のギャップに求めることが出来ます。つまり、人は理想の実現に困難さを感じると、ついつい、理想と現実を結びつけるような奇抜なアイデア(というより妄想)を弄んでしまうわけです。

 これを業《カルマ》に振り回される等と呼ぶのですが、自分の欲が人を迷わせるというわけです。

・・・・・・・

 穏便とはいいがたい話です。迷いの主たる原因が欲にあるとします。すると、迷いを断つためには、まず欲を断つ必要が出てきます。欲さえ断てれば後は摂理、すなわち自然の法則に任せるだけで、自ずと真理の大道に合流していくわけです。

 ところが、どうしても欲を断てないとすると、迷いも断つことが出来ません。しかし、人は自分の欲の強いことには往々我慢が出来ますが、自分の迷いの強いことは往々我慢しがたいものです。すると、人は迷っていたことを忘れようとします。つまりは、ボーっとしていればいいのですから、迷いを忘れるのは比較的簡単です。

 それでも問題が残ります。迷いは人の活力を浪費するのです。そして、迷いを忘れ、浪費も忘れたとしても……実際に浪費は続きます。疲れた、気力が萎える、めんどくさい、誰かに頼りたい、大事にされたい。更にあなたが相対的な情念を理解できるならこうもいえます。自分が相手を大事にする以上に、相手から大事にされたい。自分が相手を愛する以上に、相手から愛されたい。

 これらは、迷いを忘れた迷い人の症状です。そして魂はゆっくりと堕落していきます。

 迷いの苦しみに欲を断てる人は、すなわち人生の試練をこなせる人です。反対に、欲を断てぬ人は、試練を自らの躓きに変える人です。ある人にとってのチャンスが、別の人の災難となる。人はこうしてふるいにかけられています。これをして無情というのは簡単ですが、宇宙は広くても、人類が使える資源は限られているのです。限られている以上、ふるいがあるのは避けがたいのですよ。


工夫の無さは迷いの証

2004年 07月 13日

 押してダメなら引いてみな――うまく行かないなら、無理をするよりも工夫すべきです。やり方を変えてみたり、ちょっと間をおいてみたり、無理をしても自他共に傷つくだけなのですから。

 ところが、押してダメならもっと押せ――と努力する人の多いこと。それでも開かなければ、人の助けまで借りて更に押そうとする。引いたりズラしたりすれば簡単に開く仕掛けであっても……このような人は無益な苦悩を生み出します。そして、無益な苦悩を人々に振りまきます。

 身近にこういう人がいて、縁が切れなければ……無益な苦悩以前に、自分の因縁に苦悩してしまうのが霊能者の苦労と言えましょうか。


ヒントを遠慮して答えは欲しがる迷い

2004年 07月 14日

 心の迷いが起因する問題について、いくつか相談を頂いております。しかしながら、霊査がなかなか出てきません。では、回答以前に何を語るべきかと探ってみますと、こういう事なのです。

 相談者の方は、気を遣い、ヘルプを乱用しないつもりで、霊媒(老神いさお)に相談するのを堪えている。そして、行き詰まって相談するが、それは結局、問題集に取り組んで回答を見るのと変わりがないというのです。なぜ、ヒントを見ないのか。

 ヒントを見ることを遠慮しながら、でも、答えを見ようとする。その間の相談者の努力とはただ迷いの生み出す苦しみに耐えるだけで、ちっとも成長がない。大事なのはヒントであって、答えではないのです。

 にもかかわらず、皆様は、ヒントは遠慮して答えを求める。……というのも、欲を棄てられず、また迷うことを棄てられないから、ということです。


人の迷いを背負い込む

2004年 07月 14日

 前述、「迷いを忘れた迷い人」――なる者がいたとします。自分自身は迷いを忘れても、迷いを棄てたわけではありませんから、そこにどうしても矛盾が生じます。その矛盾のしわ寄せを一人で背負うのは自滅行為ですが、ありがたいことに、又は、とても迷惑なことに、人は一人で生きられず、家族や社会の中で暮らしています。するとつまり、自分の生み出す矛盾や葛藤を、第三者に押しつけられる場面が往々存在し、それが悲劇の源となっていることを散見いたします。

 迷いの生み出す問題を解決するためには、迷いを棄てるほか有りません。しかし、誰かに押しつけられるなら、迷いが生み出す苦しみからは逃れることが出来ます。そして……苦しくないなら待つことも辛くはありませんね。

 迷いは苦しいからこそ、迷いを棄てようとする……冷酷なようで破滅を避ける仕組みがそこにはあるのに、迷いの苦しみだけを誰かに押しつけてしまえるから、迷いを棄てられずに魂の破滅を招くことが生じるわけです。

 自分の愛しい人の矛盾や葛藤を受け止める……一見、利他的な行為ではありますが、でも、因果応報、自らの迷いは自らが解決せねばならぬのに、迷いの苦痛を逃れたら、迷いを棄てることがますます出来なくなるもの。恋人や親兄弟の業《カルマ》を消すならいざ知らず、ただ苦悩ばかりを預って、利子を付けて返すのでは残酷な話です。

 表面的にいうならば、人は業《カルマ》よりも苦悩を嫌いますから、ただ、苦悩を取り去ることを善として、苦痛を伴い業《カルマ》の消滅は嫌がるのが普通です。そうして人々は愛する人々と一緒に「危地」を進むわけです。――感情的な不安よりも、真実の危険を軽視するなんて、私には耐え難いことですが、それが世間の良識であり、覚者だろうと抗いがたい強制力を持った誤解がそこにあるわけです。


人の迷いをなぞる

2004年 07月 14日

 まったく、まったく。迷いから醒めるには何が必要なのでしょうか? 人類の歴史はおそらくは迷いの歴史。ならば、迷いから抜け出る手だては、いくらでもヒントが見つかりそうな物……ええ、有るのです。ただ、迷える人が考えたことなら、それは迷いをますます深めるような表現を多用しているのが当たり前。

 いや、解脱者もいるけれどね。彼曰く「色即是空、空即是色」

 結局、迷いを棄てた人だけが理解できそうで、迷える人はますます訳の分からぬ言葉に出会ってしまう。

 要するに、迷える人が解脱しようとすれば、人の迷いをなぞることになります。すると、自分の迷いの他に人の迷いまで背負うことになるのです。……勉強で迷いを断つのは難しいものです。


心で、心の迷いは解きがたい

2004年 07月 14日

 前述のように、迷いに関しての相談をいくつか受けました。そして、その霊査はなかなか得られません。それは心の問題を、ただ心だけで解決しようとするから生じるのだと私は思います。

 簡単なことから、行動に移せば、それだけで糸口が見つかり、突破口が広がっていく。案外そういう物なのです。

 ある人の霊査も、なかなか降りずに心配していたら、先方からオフ会参加の打診がありました。すると途端に霊査が降り始めたりして、結局、行動しようとしたことが呼び水になったのでしょうね。もっとも、オフ会の準備に忙しくて、まだ筆記していませんが。

 迷える時は、出来ることから行動を始めるべきです。行動しながら考えることが良い。つまり、人は、考えすぎを防ぐ仕組みを持っているのです。自分を守る仕組みを寝かせておいて、苦しい、助けてというのは、ナンセンスというより、危険なことかも知れませんね。


痛い相談

2004年 07月 15日

 ここ数日、『迷い』をテーマにした更新を続けています。私としてはこんな辛気くさい……でも重要なテーマよりも、取りかかりたいテーマがいくつか出かかっているので心掛かりなのですが、必要な手順を省く事は後々面倒の種となる事を知らないわけではありません。

 迷いの生み出す苦痛について、霊感の鈍い方々は、「苦痛』として自覚していない場合も散見します。ところが、これを霊媒などが共感すると、胃の周囲が痛くなるのでやっかいです。つまり、霊媒能力の強い人が、『あの人、どうしているかな?』……などと思うと、とたんに自分の胃が痛くなるわけです。

 まあ、痛みを感じる事に恐怖するようでは霊媒はつとまりません。本当の交信は、感覚や体験の共有という形で行われるのですから、痛みを表現しようとする霊が居たら、その痛みをそのまま感じるのが霊界での交信なのです。胃が痛くなる相手が何人か居います。

 つまり、交霊で痛みを感じるのは、地上で、痛みに関する話をするのと同じ事です。別段自分の身体に悪いところがあるわけで成し、交信をやめればたちどころに痛みが消えるので、じたばたするほどの事もありません。

 ところが、特に人間相手で困るのは、交霊と比べて話がしつこくなりがちで、しかも、相手の切り替えが下手だから、いつまでも痛みが伝わってくる事です。さらに悪い事に、精神的な痛みの感じ方というのは非常に個人差があり、当人はせいぜいが不平不満の解消程度しか認識していなくても、その話を聞く霊媒には激痛が感じられる場合がある事です。幼少時の体験が原因だったりすると、もう痛みになれて悪夢を見たり、無意識に自傷行為に走ったりする程度で、自分の抱えている問題を適切に認識できない場合があるのです。

 こういう場合、当人にしてみれば、ただ愚痴を聞いてもらいたいだけなのですが、それに付き合わされる霊媒にしたらたまりません。愚痴を聞いているだけなら何年も、何十年もその苦しみを共有させられるのですから、うんざりです。特に、当事者が問題解決に乗り気でなければ、痛みに耐える事が不毛な努力に過ぎないのですから。

 もう一言付け加えるなら、人間の持ち時間には限りがあります。どうせ不毛な事をするなら楽しい事をしたいし、どうせ耐えるなら有益な事をしたいものだ――そうは思いませんか? 私は強く、強くそう思います。

・・・・・・・

 さて、強く痛みを生じる相談が三件ほど寄せられています(中には相談の自覚がないが)。例によって詳細は書けませんし、そもそも痛みを生じるという事は、当人が解決するのに迷いがある事を暗示しています。というわけで、直接のお返事の他に、相談者を想定しつつ、普遍的な回答をする事は、冷静に問題を受け止める良いチャンスかもしれません。

Q「願望成就しない。自分には縁がないと諦めた。」

 適切な譬喩とは申せませんが、良く引き合いに出す話を流用致します。

 「お金持ちになりたい」という願望が成就しない人がいます。障害を明らかにしようと、「なぜお金持ちになりたいのか?」と問うと、「もっとお金を使いたいからだ」と答える。……使っていたら貯まるはずがありません。まして、安物買いの銭失いというわけで、お金の使い方次第では効率の悪い事、おびだたしくもあります。

 この「願望が成就しない」という件も、守護霊様の意見とは別に、私が霊査致しましても、どうも無駄な事に力を注ぎすぎて、肝心な部分に力不足を感じます。

 それは結局のところ、正しい努力をしているというより、自分のカルマに振り回されている状況といえましょう。

 すなわち、自分が幸せになるための願望成就ではなく、自分の欲に引きずり回されている状況での願望成就……すなわち、不幸になるための努力の過程にあるのだと私は判断致します。

 もっとも、あなたの守護霊の判断と私の判断の違いは、視点の違いに過ぎず、問題は縁の有無というより、時機を失して、次の時機がまだ先にあるという事です。待つのもつらいが、待つ間にもすべき事があります。そして、待ち時間を有効に使ったものだけがチャンスに遭遇してそれを無駄にしないのです。

Q「伴侶との行き違いについて。」

 心霊相談を休業する以前から、恋愛相談などはお断りしてきましたが、家族・特に夫婦間の問題や、恋人との間の問題についても、相談したくても相談できずにいらっしゃる方、また、断りの対象になっている事を失念していらっしゃる方などがあります。

 大事な事は、相手の心をどうにかしようとするのは邪である、そして、邪な事を手伝わせようとするのはもっと邪である。という事なのです。

 人生の伴侶に相対するのに、他人の手助けを必要とするなら、それはもう伴侶とは呼べません。つまり大切なのは、どうしたら自分は伴侶たりえるか、という事であり、相手が悪いと思えても、それを補えてこその伴侶、至らぬ同士が助け合うのが伴侶であるとしっかり認識する事といえます。

 もっとも、人生の伴侶に関する悩みの大部分は、「相手が責任を果たそうとしない」という事でして、これがとても難しい。一方的な依存、つまり、夫が、稼がず、かといって家事もせず、あげくに女を作った、なんて話なら、「別れろ……」としか言いようがありません。

 しかし、相談の大部分は、相手の長所を無視して、欠点ばかりが目につくという場合が大部分です。こういう問題は、実は心霊相談よりも整体などの方がよほど効果的な回答を提示できるでしょう。この手の不平不満は、大抵の場合、不健康が理由だからです。

 不健康というのは、病気を意味しません、ただハツラツと生活が出来ず、だるいとか、面倒だとか言って、人の手を煩わせてしまうから、そこに不満が生じ、不満が積もり積もってイライラしてしまい、イライラが高じて感情的になっていく、という悪循環に陥っていると見なすわけです。

Q「親・子との行き違いについて。」

 ここでは、親・子との問題に集約しましたが、縁を切りがたい相手と広く捉えてかまいません。

 特に相手との関係が重荷になるのは、要するに縁を切りがたいからです。で、そこまで問題がこじれてしまうのは、当事者の一方、または双方が、姑息な人間関係の手法を使うからといって良いでしょう。つまり、相手の好意を確認するのに相手を困らせてみる……という事をやるわけです。

 たとえば仕事に行こうとすると病気になるとか、無理難題を吹きかけ、応じなければ泣きわめくとか……こういう無茶な行動に出るのは信頼関係が破綻している……痛みでしか相手の存在感を確認できなくなっているという状況です。

 これは正直辛いし、はっきり言って痛い。そして、解決策もまた無数に見いだせるでしょうが、この手の問題も、やはり、心霊的な解決よりも整体的な解決策の方が効果的でしょう。

 つまり、お互いが不健康だから、不健全な見方・視点で相手を見てしまうのだ、また、不健康だから依存心が強くなり、不健康だから相手の依存心が重荷に感じ、お互い辛いからイライラして和解策もとれなくなっていく。

 この問題の解決は忍耐を要します。また、ここでは不健康と表現しましたが、加齢も、問題の一因となりますね。

抑圧された心

 特に女性に多いのですが、親に対する不平不満から迷っている人が多いのです。もう霊媒だけが分かる痛々しさというより、誰でもこのいびつさに気がつくのではと思えます。

 そして、この問題を大げさにしているのは、親の悪口への病的な嫌悪です。親の悪口をいわず、親の欠点を見まいとする……自分の親を無理に尊敬する為に、自分を騙し、自分をだますから何が真実であるかが分からなくなるのです。

 褒めるの価値観もゆがみ、貶す価値観もゆがみ、何を言わんとしているのかがわかりにくい。こうした事例がすべて、親への不平不満が言えないためとは申しませんが、私の知る限り、こういう事情の持ち主がとても多いのです。

 しかし、赤の他人の行為なら許せる事も肉親の言動ならば許せぬ事もあるはず。他人に冷たい仕打ちをされたところで所詮は他人なのですが、身内が冷たい仕打ちをすれば恨む気持ちも生じますよね。つまり、親だからこそ許せない事の一つや二つ、ないとしたら、それは他人に接するような冷淡さで親と接していると言えなくもないのです。

 大事な事は、親への復讐ではなく、欠点は欠点と正しく認識する事で、適切な……つまりいびつではないフォローが出来るようになる事です。

 ところが……これがなかなか出来ないものです。自分は変われても親を変える事は出来ず、親が変わらなければ悩みは増すばかりですよね。こういう場合、親が死ぬまで治らぬのかな……と思います。

総論

 以上、四点の事例を紹介したわけですが、実はこれらの回答事例は、枝葉末節に過ぎません。こういう回答もしなければ、へっぽこ霊能者が相談者を煙に巻いているようだから書いているだけの事で、もっと簡潔に指摘する事がよほど大切だと私は考えます。

 これら、迷える人は、果たして問題に悩んでいるのだろうか? と私は考えます。むしろ思考過程にだまされて悩んでいるのではないかと思うのです。

 まず、各事例は、自分の大事な人をかばおうとするが故に生じる苦しみです。いわば自分の愛情に苦しめられているようなものですが、なぜかばう事で苦しむのでしょうか?

 その迷いの原点は、物事を善悪で計るところにあると思われます。つまり、善ならば良し、悪ならば拒絶するという価値観と、大事な人に悪いところがあればそれを受け止めようとするところに、矛盾と葛藤の種があるのです。

 善悪で考えるというのは、宗教で言うところの二元論に相当します。つまり、善悪は相対・不離の、たとえば電気にプラスとマイナスがあるように、また、光があれば影が生じるといったように、相対不離で一方には必ず他方がつきまとい、相互に争いを続けるといった思想です。

 しかし、近代心霊思想は、一元論で受け止めます。プラスとマイナスは中性の揺らぎ、光と影はただ濃淡が違うだけ。善とはより高度な存在であり、悪とは未熟な存在を指す。いや、老子の思想を考え合わせれば、影があるから光を認識できるのです。

 悪だから異質の存在……なのではなく、未熟だからあなたが補わなければならない。そう受け止められれば、ここに迷いはなくなるはずなのです。

 つまり、愛しい人に悪があれ、それをどう取り除くかに心を痛めなければなりません。それはつまり、相手の欠点が二人の間の障壁であるという事です。

 しかし、愛する人にあるのが悪ではなく欠点ならば……相手はあなたを必要とするという事、すなわち、欠点があるからこそお互いが、強く結ばれざるを得ないという事です。

 愛する人の、または、あなたの親の欠点を正しく認識しなさい。というのは、あなたが大切に思う人の悪を見つけろ、相手との断絶を直視しろと言うのではなく、あなたがより強く結びつけなければならない点を見つけなさいという事なのです。

・・・・・・・

人生の伴侶がなかなか見つからない

 まあ、以上で終わりにすれば話もきれいなのですが、ちょっと強欲な質問にも答えておきましょう。

 むろん、人生の苦楽をともにするのですから、その相手はなるべく頼りがいがあり、また、迷いや不正の少ない方が良いものです。……で、速やかに伴侶を手に入れる人は、ほとんどの場合、「私がいなければこの人はだめだから……」と、欠点を補うつもりで相手と接しています。(そのくせ、不健康になると、相手の欠点を重荷に感じて不平を言うのだから……いえ、そういうカップルを支える事も友人の勤めですよね)

 対して、伴侶を得がたい人は、「この人がいなければ私はだめだから……」と、欠点を許さぬ態度でいます。

 不幸にして……欠点のない人はいませんから、このような態度では死んでも伴侶を見つけられません。往々、「あの世で伴侶を見つけろ」と怒鳴りたくなるような強欲な人もいるぐらいです。間違って見つけた人がいるなら、人を見る目のない人か(当事者さえ幸せならば、ねえ)――控えめな人なのでしょう。

 いや、いや既婚者から恨まれるような発言は慎みましょう。


迷いは霊感の大敵

2010年1月17日

「霊能者は自分の未来は見えない」・・・等という。なんのことはない、そもそも迷いが生じたとしたら、それは背後霊の庇護を外れたということなのだ。――庇護下に無いのに霊感を使えば、回答者がいないのに良い返事が得られるはずも無い。イヤそれどころか、野次馬な霊にミスリードされる危険もある。

 私もまあ、誰かの助言を欲することもあるが、なんとか自分の霊感内で収まるか、追認程度で済むことが多いのは、ちょっとしたコツがある。

 まず、迷いが生じた事自体を楽観視しない。行き詰まったら元きた道を戻るぐらいの覚悟を決める。

 また、答えが無いのも答えのうち、とも覚悟する。つまり、何も答えがなければ、まあ、何とかなる、ということだ。

 そして要領の得ないメッセージを受け取ったら、それこそ、とことん行かなければならない、ということだ。途中下車は許されまい。

 人生で横着する様々な事態は、所詮、途中経過であって、良いことも、悪いことも、最終結論ではない。つまり、どう転がるか、わからないのである。だから、今は悪くてもジタバタしない。それよりも何よりも、霊媒にとって恐れるべきは、状況・事態の悪さではなく、背後霊らとの絆の有無なのである。それゆえ、たとえ不幸を味わっているさなかでも、自分が愛されていることを信じなければならない。

「人生は、背後霊(守護霊・祖霊)との二人三脚」と思うなら、迷いとは、チーム全体の危機なのです。眼前の事態だけの問題ではありません。それに気がつかなければ・・・視野が狭いということです。ならば・・・運が悪いならそのうち改善するかもしれませんが、自分が悪いなら、決して改善しないことを暗示します。

 それはもう、ただの迷いではなく大問題、いや大問題というより、救いようの無い問題、ではありますが。

船頭多くして船山に上る

2004年 11月 15日

 兎角、気弱な方は、いろいろな方面の意見を求めます。確かに多方面からの情報は物事を立体的に浮き上がらせるものですが、情報が増えれば増えるほど、物事の理解には高度な分析能力が求められるものです。

 特に分析中に難しいのは、取捨選択で、人の意見には主観もあれば偏見もまじり、切り捨てることがなければ、立体的に浮き上がらせるどころか、矛盾だらけで組み立てようがなくなることもよくある話です。

「船頭多くして船山に上る」といいますが、あちこちの意見を聞いて廻り、かえって迷いを増やすのであれば、気弱さから迷うという悪循環に呑み込まれてしまいます。

……さて、気弱さ故に迷ってしまった人が、そこで己を反省したとします。

「なぜ、私は迷ったのだろうか?……そうだ! きっと船頭が悪いからに違いない。今度は別な船頭を頼もう!!」

 しかし、気弱さからまた、たくさんの船頭を雇い入れればやはり船はやはり山に登っていくのでしょう。

……この意見は、迷える者をあまりに見下していないか! そう思われますか?

 智慧あれば助言に頼らず、分別あれば助言に迷わず――智慧も分別も無いから助言を受けて迷うのです。すべての迷える者が救いがたいとは申しません。しかし、間違った助言の受け方をしている人は救いがたいと思います。


お知らせBy老神いさお。

・スマートホン
iPhone/Androidで閲覧時に、最適化したページが表示出来るようになりました。よろしければ、ご感想をお寄せ下さい。

・サイト再構築中
移行途中のデータが時折、トップページに掲載されますが、編集作業の都合ですので、今しばらくご容赦ください。旧作については、本文右上に日付が記載されます。

・ページ更新
 現在:1056㌻
 復旧予定: 残り480㌻位・・・

老研カレンダー
5月 2012
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
28293031EC
6月 2012
 123
45678910
11121314151617
18192021222324
252627282930 
老研イベントリスト
みにみにぶろぐ
  • ・その後悔の帳尻が合う生き方をしているか?
  • ・我が国だけが原子力を全廃しても、隣国が原子力発電を推進すれば、危険性は無くならない。
  • ・生きるとは生むことである。
  • ・いろいろなる不平不満はあるだろう。だが人は歩んでいる。
  • ・与えられる事を当たり前に思っている者が飢える。
  • ・なぜ、争うのだろう? 事態はただ現実への妥協を求めているだけなのに。
  • ・ 見せられると信じたくなる
  • ・豊かな者は足りぬものに気が付かず、知りたる者は、知らざることに気が付かぬ。……
  • ・ 心に不満が生じるのは、あなたが焦っている証。もう少しゆっくりと生きなさい。
  • ・不平不満が生じるから醜いというのではない。不満を溜めたままでいるから醜いというのだ

More »

サイト内検索
サブ・サイト