‘心霊相談(事例)’ カテゴリーのアーカイブ

己が慢心を恐れる。

2010/07/31

 もう一ヶ月以上も前のメールが話題である。もっとも、一ヶ月ならまだ早いほうか。

「慢心をして人の道にはずれたことをしないように、また、道を踏み誤らないように」と思い、オフ会に参加した、という人のメールを読みながら、真面目な参加者にありがたくもあり、また、なにやら引っかかるものを感じてはいたが、急ぎ連絡事項のみ返事して、そのままになっていた。

 まあ、「慢心」というキーワードでは色々書く事もあるのだが、本件は、この方の事例に限る。(限れ、と言われた。・・・それもネチネチと。)

 まず、なぜ私が「慢心をしない」というキーワードに引っかかったのか、といえば、

  1. 慢心に自ら気づくことができるか?
  2. 他者から「慢心」と指摘されて納得することが出来るか?
  3. 順番を間違っていないか?

 そもそも、(自らの)心の異常を、(自らの)心が察知するのは難しいのです。・・・物の長さを測るなら、ものさしを使いますが、そのものさしが伸びていないかどうか、他にものさしがなければどう測るか・・・

 また、他者から指摘される「慢心」が、果たして考慮に価するか。人は往々、有能な他者、論理的に勝てない相手に対して、「相手の慢心」を攻撃します。こういう感情論はそもそも相手にする価値もありませんが、それは同時に、他者から指摘される「慢心」という注意に耳を貸さなくなる、貸す意味があまり無い、貸せばますます混乱する。という、不都合な助言でありましょう。

 その一方で、その時々に行いの結果を反省してみれば、そこに「自分の慢心があった」、と思われることも多々あるわけで、では、慢心をどう扱うか、と考えると、答えが出ない。そもそも設問が間違っていないか、と思うわけです。

 心の異常を心が察知することが出来ない。・・・でも、人が恐れるべきは慢心だけか?

 慢心は、人が注意すべき、不適切な心のあり方の一面でしかない。なのに、慢心を恐れるのは・・・

  1. 実際に自分が慢心で失敗しやすい。
  2. 誰かに言われて真に受けた。
  3. 占いとか・・・

 もちろん、一般論として言うなら、人の数だけ原因はあるはずで、これが答え、と、私は論じることはしません。ただ、追いかけるものがあるなら、なにゆえ追いかけるか、その理由を心の隅に置いておくべきだ、とは思います。さもないと、やっているうちに目的が摩り替わったりするからです。

 もしくは・・・慢心を恐れる心もまた、何かから摩り替わったものかもしれません。

 たとえば、子供時分に親から「生意気!」と叱られ続けて、あげく、学校で受けた指導中に「慢心は厳禁です」と言われた二つが結びついてしまい・・・

 そう、いかなる理由から、何を追いかけるのか?

 慢心は心の一部であり、人道を外れるのは行いの一部でしかない。・・・

(まあ、そこまでメールに書かれていた訳でも、霊査として読み取ったわけでもないが)

 恐れれば、行うことを止める事になる。慢心を恐れれば考えることを止めるのか・・・もしくは、慢心なくしてどうして危地を乗り切るか・・・さて、心にあるのは果たして欠点か、それとも、使いどころを待っている強力な道具か、どうか?

 果たして恐れているのか、それとも、自分の可能性を殺しているのか。

 

 結構、人は己を殺している。・・・そうやって人は己のブレーキかけながら、一方では思いっきりアクセルを踏み込んで、無理やり高速で走っているかのようだ。軋むブレーキに苦しみながら。 スピードに恐れるより壊れそうなブレーキに怯えている。

 まあ私は、アクセルよりもブレーキの方が強力な性格らしく・・・あまり良い助言は出来なかったかもしれない。

 

では、一戦交えるか? (補足&こっそり修正)

2010/07/17

(2010年6月26日)

 動かなかったPCが直って、あれやこれやと片付けをしていたとき、友人からメールが届いた。

『最近会社で厄介な問題に巻き込まれて、明日の朝に吊るし上げられるみたいです。そこで、明日の打ち合わせで、冷静に今回の問題で他の人が知らない都合の悪い事をいくつか暴露して、論破すべきではないかと考えています。』

 この友人、冷静に見える風貌の半面、結構、好戦的な言動もまま見られる。メールのタイトル(ブログのタイトルとは若干異なる)もまた、少々、攻撃的な表現であった。が、霊感の強い人にとって、敵意を向けられるのはそれだけで暴力を受けたに等しい。必然的に、勘が強いは、大抵、癇癪も強いもので、勘が強くて、しかも、おっとりしている人もいないではないが、それは奇跡に属すると私は思う。

(一見温厚、言動も穏便、しかも丁寧で、その実、強烈な個性の持ち主、を知ってはいるが、 それは旧家の躾が生み出したものらしい。いやはや、人の有り様というのは・・・)

 つまるところ、友人は私に助言を求めていても、その実、答えは知っているのであって、ただ、それが難しい選択であるが故に、同じ意見を聞いて安心したかったのであろうと思う。

 さもなくば、私の助言を聞いて、無視するか、反発するであろうから。素直な(つまり当人が気付いている場合)にはスムーズに霊査を得ることが出来る。反対に、当人が気付かない、というより、気付きたくなくて真実から目をそらそうとしている場合は、往々、霊たちも言葉に詰まる。・・・(ここ、結構重要)


 さて、私の返答は・・・(多少編集)

 いいんじゃないですか? 

「はあ、そうですか。スイマセン。」て、言っておけば。

 その結果がたとえ悪く見えても、あなたにとって本当に不都合とは限りませんし、あなたにとって良い結果に思えても、長い目で見て本当によかったかどうかは分かりません。(神のみぞ知ること)

 ところであなたは、この人が嫌、とか、得られた喧嘩は買う!、という趣旨で相手を見て・・・相手を色眼鏡で見ていませんか。

 こういう責任転嫁型の人に真実を突きつけても拗らせるだけですよ。結局、感情論から「窮鼠猫を噛む」とも、なりかねませんし。

『相手はおそらく不安なのだ、ならば、殴るよりも、相手が転ぶように仕向ける』とか、「私じゃ出来ませんから・・・」とおだてて、相手に危ない橋を渡らせるとか。やりようには色々あるはず。

 ともかく、このメールを見る限り、相手も悪いでしょうが、あなたにも『試練・暴力的正義感をなんとかせい』と、(守護霊もその必要性を同意した)試練を感じますよ。

 相手を論破するよりも、相手に勝手を言わせて・・・蛇足という言葉があります。蛇の絵を書いている人が、調子にのって足まで画いてしまった。だが足があったら蛇じゃない。つまり自らダメにしてしまうということ。・・・それによって、相手は蛇に足を画くかもしれません。または、あなたは売り言葉に買い言葉で、蛇足を画こうとしていませんか。

『外なる敵は勝ち易く、内なる敵は勝ち難し。』 と、言いますが、あなたは戦うべき敵を間違っていませんか?

 というか。バカの相手をすると、霊界も含めた周囲から、延々とバカの相手を任せられますし、そもそも(いわゆる)霊的波動の異なる人は論破できませんよ。なにしろ、感情論と論理じゃ、拳を握り締め(グーを作って)殴りかかろうとしている人にチョキを出して勝ったつもりでいるようなものです。人間関係において、勝ちを得ようとする人が往々、かえって不利に陥るのは勝利条件に設定ミスがあるからです。

(勝利条件の違い: 周囲や相手が、それを負けと見ていない。むしろ勝ちと思っている。)

 論破するのをやめろ、とは言いません。でも、勝利条件(成功条件)をよく見極めることです。自分にとっての勝利(往々、それは自己満足)ではなく、相手にとっての敗北となるように行動を選択することです。それにはまず、相手を知ることが必要となります。

 敵を知り、己を知れば百戦危うからず・・・これは勝利の方程式(これを「知れない(理解したくない)」人は多い。)ではなく、不敗の方程式であります。不敗の戦略の良さは、つまり、相手の自滅を促すことで勝利を得るところにあります。

 まあ、ぶっちゃけ、周囲が相手にしない人を、あなたひとりが相手にしても色々と面白く無いでしょう? 往々、正義感は、気をつけなければ自滅(蛇足)の道です。 まあ、悪の道もまた、自滅に繋がっているわけですが。

 正義よりも善であるように致しましょう。


補足1 (7月17日)

 その後、友人から後日談が届いた。かの相手は左遷が決まったとのこと。それを伝える友人の態度にいささか想うところがあって伝えたけれど、キチンと伝えられたかどうか。

 そしてまた、友人からさらなる後日談が届いた。

 要約すれば、相手の不正が露呈して左遷が取り止めになり、今は処分待ちだとのこと。

・・・・・・・

 別に終わったことにクドクドと説教臭いことを言いたいわけではないし、この友人を下に見て意見するつもりもない。まあ専門家、とまではいかなくても、それなりに事情通を自認しての意見ではあるが・・・

 我が友人を『直球勝負の剛腕』に喩えるなら、相手は『多彩な変化球を使い分けるマジシャン』です。性格は正反対ですが、性格が反対でも仲の良い人はいます。私が問題視しているのは、我が友人が、直球自慢というより、変化球を投げるのが苦手、な人であるのと、私の見る限り、問題の相手は変化球自慢というよりも、自分の直球に自信がない、むしろコンプレックスを抱いている、点なのです。

 内心、お互いにライバルであると認識していて、たとえ負けてもなおのこと相手に難癖をつけようとする関係と私には見えます。

 例えば水と油ならば、放っておけば分離するのに対して、この二人は同じ縄張りを争う関係です。それゆえに、相手の不幸を知らせる友人の言葉尻に、私は危険な匂いを嗅ぎ取るのです。

 つまり、友人の守護霊や、その上の産土神等が、この欠点を正す、または少なくとも減らすために、互いに切磋琢磨させられはしないか、と思うのです。

 故に、私が最初に、そう、これらの後日譚を知らされる前に送ったメールのサブジェクトは、「争うことの是非より、守られていることの自覚が大切。」としたのです。それは別段、明らかに悪い!、というニュアンスの結果ではありません。どちらかと言えば、キナ臭い、に近いのですが。

 ところで私は、変化球を使い分ける・・・というか、直球に自信のない人はよくよく注意すべきと思います。まあ、露骨にいえば、姑息な人、ということですが。

 まっすぐ生きることの意義はともかく(つまり、知ってはいるかも知れないが)、その価値を知らぬ(つまり軽んじ、疎かにする人は)、往々・・・おそらく大抵、カミソリの刃の上で踊るような人生を歩んできた人でしょうから。ギリギリの人生を自認している人だから、乱暴な生き方が出来るのでしょう。もしくは、ほんとうに大切にされたことがないのか・・・。

 欲の薄い子供時分に助けるならいざ知らず、一通り甘い汁を吸った事のある相手だと、無駄がある豊かさに憧れていて、ムダのない豊かさは生理的に拒絶されるところがあります。

 生まれ変わらないと直せない悪癖を身につけた人なら、周囲は見て見ぬふりしか出来ないものなのです。 あえていえば、ただ拗れ、形が変わっても被害が増えたりする・・・

どうしたらよく生きられるか

2010/05/11

 どうしたらよく生きられるか・・・と、日々、考えている人は多い。

 社会のため、もっと身近な者のために、何か役立つことをしたいと願う人は、多いのである。(社会を不安に陥れるのはごく僅かな悪意で事足りるのだが)

 あなただけが善良ではないし、往々、善の解釈の違いを論点に、善人同士が闘うことも決して少なくない。・・・「善を口実に争うなど、善人の為すことでない」と言われようが、未熟や不完全を理由に人を裁けば、天上天下に罪なき人は無くなる。

 人は善良であろうと苦悩し、苦悩するが故に何かを壊す。・・・ある意味、人間社会にとって不幸なのは、その根底に愛なき憎しみが無いことであろう。悪人ですら愛を求める。時折、愛する対象を間違った者があっても、極端には、自分以外のすべてを憎んでいても、他を憎むが故にむしろ己を愛すものだ。 愛憎は表裏一体。それが自我の本質であって、自・他の区別のあれば、そこに愛なくして残るものはないのだ。

 すなわち、世に愛なき人はなく、ただ、その心が素直か、または捻くれているかの差があるだけである。・・・もしくは、より大きな愛を求めていることにおいて、社会の法に反した罪人、社会倫理を犯した者とて決して人後に落ちない、いやそれどころか、なりふり構わぬ真摯さは、世間でいうところの善人以上かもしれない。

 その事を知る者であれば、「汝の敵を許せ!」ということが無理なく判るはずである。すなわち、善悪では人を裁けないのである。が、行いは結果に至る。善因善果・悪因悪果。つまり、許すことと野放図にするのとは異なるのも道理であろう。

 我々は、裁かれぬ罪と自らを救えぬ未熟さの間に生きている。・・・その間に立った人はどう生きるべきか?

 

 どうしたらよく生きられるか・・・と、日々、考えている人は多い。

 が、どちらに進もうが、人は面倒事に巻き込まれはしないか?・・・どちらに進もうとも、臨機応変、時と場合に応じた対処が求められる。もしくは、求められないはずが無い。むしろ往々、人は面倒事に巻き込まれるために生きているように錯覚することもあろう。

 いや、仮に無事な道が判るとして、人はそうそう自由に歩んでいけるものだろうか?

 人は結局、与えられた道の中で、最善をつくすことしか出来ないのである。

 にも関わらず、

 

 どうしたらよく生きられるか・・・と、日々、考えている人は多い。

 さて、あなたに必要なのは新たな進路であるか、それとも、今の道を歩み通せる自信であるか。

 または・・・踏み外した道を、後戻りする勇気か。・・・その全てを見極めるために、立ち止まり、己の未熟さを省みる大いなる勇気か。

 

 どうしたらよく生きられるか・・・と、日々、考えている人は多い。

 よく生きようとして・・・誰かを愛して、誰かに愛されたくて・・・あなたの生きている道は、素直な道か、醜く捻くれた道か。

 

 どうしたらよく生きられるか・・・と、日々、考えている人は多い。

 その想いは果たして善良な心の表れか。それとも、未熟であさましい自分の本性からの逃避か。

 その想いは果たして素直なものか、捻くれたものかどちらだろう?

 つまるところ、あなたが今、歩む道に正否があるのか、歩むあなたに正否があるのか。

迷いの解消・前は後ろの正反対(新編集)

2010/01/17

前は後ろの正反対

2004年 06月 17日

 前を見れば欲が出る。あれもしたい、これもしたい。

 前を見るから脇道に入りたがる……一体前ってどっちだろう?

 一生懸命に生きるから、どうしたいのかが判らなくなる。

 そんな時は真後ろを向いてみる。自分が一番イヤな選択肢は何であるか? それを真剣に見つめてみる。そして、その正反対を見てみると……自分が絶対に目をそらしてはいけない前が見る。

 一刻も早く、一歩でも前に。そう思う気持ちが道をそらす。

 真っ直ぐな道より、近道はないというのに。頭で判っても気がつけば曲がっている。曲がっていることに気がつかずに、道が見えないと絶望する。迷っているのではなく自分を信じていないだけ。自分を信じずにいては、自信がなくなるのは当たり前だ。


迷いは万病の元

2004年 07月 13日

「君は迷いが多いね」と指摘されてもピンと来ない人も、設問を逆さにしてみるとわかりやすいもの。「打ち込んでいる物がないでしょう」違いますか?

 何かに打ち込んでいる人は、自分の力の大部分を目的に注ぎ込めます。ゆえに猛烈な力を発揮できる物ですが、迷っている人はいつまでも足踏みを続けます。迷って足踏みをしていると、前に進まないのだから楽なようにも錯覚するけれど、実は泥沼に落ちた自動車宜しく、エンジンを吹かしても車輪は空回りを続けるようなもので、浪費される活力は相当な物なのです。……迷うことに焦るから……迷った時には様子を見る。様子を見るというのは、一念専心休むことが大事なのです。身動きできなければ精神統一するぐらいの気持ちが大切です。それが出来なければ、全力疾走している人よりも心身をすり減らすのが迷いだとおもうべきです。これは全く、迷いを万病の元と呼んでも差し支えないほどです。


衣食足りて礼節を知る

2004年 07月 13日

 衣食足りて礼節を知る――といいます。豊かさと善良さは比例するというのです。これは反対にも働きます。つまり衣食が足らず礼節を失う――というわけです。特に小心な人ほど……と表現されて、「ああ、自分のことか」と思える人は幸いですが、ともかく、僅かな不足、欠乏、不安、などから、衝動的な行動に打って出て、挙げ句の果てに自分の立場をますます悪くする人がいます。

 まずい!――と感じたならば、自分の立場が良くなるように工夫すべきなのに、ますます悪くなるようにがんばってしまう。これはつまり、迷いが迷いを呼んでいる状態です。


迷いの原因

2004年 07月 13日

 知識の不足が迷いを呼ぶ……というのは、ありがちな解釈です。確かに、知識の不足も迷いの原因の一つには違いないのですが、もっと大きな要因は、理想と現実のギャップに求めることが出来ます。つまり、人は理想の実現に困難さを感じると、ついつい、理想と現実を結びつけるような奇抜なアイデア(というより妄想)を弄んでしまうわけです。

 これを業《カルマ》に振り回される等と呼ぶのですが、自分の欲が人を迷わせるというわけです。

・・・・・・・

 穏便とはいいがたい話です。迷いの主たる原因が欲にあるとします。すると、迷いを断つためには、まず欲を断つ必要が出てきます。欲さえ断てれば後は摂理、すなわち自然の法則に任せるだけで、自ずと真理の大道に合流していくわけです。

 ところが、どうしても欲を断てないとすると、迷いも断つことが出来ません。しかし、人は自分の欲の強いことには往々我慢が出来ますが、自分の迷いの強いことは往々我慢しがたいものです。すると、人は迷っていたことを忘れようとします。つまりは、ボーっとしていればいいのですから、迷いを忘れるのは比較的簡単です。

 それでも問題が残ります。迷いは人の活力を浪費するのです。そして、迷いを忘れ、浪費も忘れたとしても……実際に浪費は続きます。疲れた、気力が萎える、めんどくさい、誰かに頼りたい、大事にされたい。更にあなたが相対的な情念を理解できるならこうもいえます。自分が相手を大事にする以上に、相手から大事にされたい。自分が相手を愛する以上に、相手から愛されたい。

 これらは、迷いを忘れた迷い人の症状です。そして魂はゆっくりと堕落していきます。

 迷いの苦しみに欲を断てる人は、すなわち人生の試練をこなせる人です。反対に、欲を断てぬ人は、試練を自らの躓きに変える人です。ある人にとってのチャンスが、別の人の災難となる。人はこうしてふるいにかけられています。これをして無情というのは簡単ですが、宇宙は広くても、人類が使える資源は限られているのです。限られている以上、ふるいがあるのは避けがたいのですよ。


工夫の無さは迷いの証

2004年 07月 13日

 押してダメなら引いてみな――うまく行かないなら、無理をするよりも工夫すべきです。やり方を変えてみたり、ちょっと間をおいてみたり、無理をしても自他共に傷つくだけなのですから。

 ところが、押してダメならもっと押せ――と努力する人の多いこと。それでも開かなければ、人の助けまで借りて更に押そうとする。引いたりズラしたりすれば簡単に開く仕掛けであっても……このような人は無益な苦悩を生み出します。そして、無益な苦悩を人々に振りまきます。

 身近にこういう人がいて、縁が切れなければ……無益な苦悩以前に、自分の因縁に苦悩してしまうのが霊能者の苦労と言えましょうか。


ヒントを遠慮して答えは欲しがる迷い

2004年 07月 14日

 心の迷いが起因する問題について、いくつか相談を頂いております。しかしながら、霊査がなかなか出てきません。では、回答以前に何を語るべきかと探ってみますと、こういう事なのです。

 相談者の方は、気を遣い、ヘルプを乱用しないつもりで、霊媒(老神いさお)に相談するのを堪えている。そして、行き詰まって相談するが、それは結局、問題集に取り組んで回答を見るのと変わりがないというのです。なぜ、ヒントを見ないのか。

 ヒントを見ることを遠慮しながら、でも、答えを見ようとする。その間の相談者の努力とはただ迷いの生み出す苦しみに耐えるだけで、ちっとも成長がない。大事なのはヒントであって、答えではないのです。

 にもかかわらず、皆様は、ヒントは遠慮して答えを求める。……というのも、欲を棄てられず、また迷うことを棄てられないから、ということです。


人の迷いを背負い込む

2004年 07月 14日

 前述、「迷いを忘れた迷い人」――なる者がいたとします。自分自身は迷いを忘れても、迷いを棄てたわけではありませんから、そこにどうしても矛盾が生じます。その矛盾のしわ寄せを一人で背負うのは自滅行為ですが、ありがたいことに、又は、とても迷惑なことに、人は一人で生きられず、家族や社会の中で暮らしています。するとつまり、自分の生み出す矛盾や葛藤を、第三者に押しつけられる場面が往々存在し、それが悲劇の源となっていることを散見いたします。

 迷いの生み出す問題を解決するためには、迷いを棄てるほか有りません。しかし、誰かに押しつけられるなら、迷いが生み出す苦しみからは逃れることが出来ます。そして……苦しくないなら待つことも辛くはありませんね。

 迷いは苦しいからこそ、迷いを棄てようとする……冷酷なようで破滅を避ける仕組みがそこにはあるのに、迷いの苦しみだけを誰かに押しつけてしまえるから、迷いを棄てられずに魂の破滅を招くことが生じるわけです。

 自分の愛しい人の矛盾や葛藤を受け止める……一見、利他的な行為ではありますが、でも、因果応報、自らの迷いは自らが解決せねばならぬのに、迷いの苦痛を逃れたら、迷いを棄てることがますます出来なくなるもの。恋人や親兄弟の業《カルマ》を消すならいざ知らず、ただ苦悩ばかりを預って、利子を付けて返すのでは残酷な話です。

 表面的にいうならば、人は業《カルマ》よりも苦悩を嫌いますから、ただ、苦悩を取り去ることを善として、苦痛を伴い業《カルマ》の消滅は嫌がるのが普通です。そうして人々は愛する人々と一緒に「危地」を進むわけです。――感情的な不安よりも、真実の危険を軽視するなんて、私には耐え難いことですが、それが世間の良識であり、覚者だろうと抗いがたい強制力を持った誤解がそこにあるわけです。


人の迷いをなぞる

2004年 07月 14日

 まったく、まったく。迷いから醒めるには何が必要なのでしょうか? 人類の歴史はおそらくは迷いの歴史。ならば、迷いから抜け出る手だては、いくらでもヒントが見つかりそうな物……ええ、有るのです。ただ、迷える人が考えたことなら、それは迷いをますます深めるような表現を多用しているのが当たり前。

 いや、解脱者もいるけれどね。彼曰く「色即是空、空即是色」

 結局、迷いを棄てた人だけが理解できそうで、迷える人はますます訳の分からぬ言葉に出会ってしまう。

 要するに、迷える人が解脱しようとすれば、人の迷いをなぞることになります。すると、自分の迷いの他に人の迷いまで背負うことになるのです。……勉強で迷いを断つのは難しいものです。


心で、心の迷いは解きがたい

2004年 07月 14日

 前述のように、迷いに関しての相談をいくつか受けました。そして、その霊査はなかなか得られません。それは心の問題を、ただ心だけで解決しようとするから生じるのだと私は思います。

 簡単なことから、行動に移せば、それだけで糸口が見つかり、突破口が広がっていく。案外そういう物なのです。

 ある人の霊査も、なかなか降りずに心配していたら、先方からオフ会参加の打診がありました。すると途端に霊査が降り始めたりして、結局、行動しようとしたことが呼び水になったのでしょうね。もっとも、オフ会の準備に忙しくて、まだ筆記していませんが。

 迷える時は、出来ることから行動を始めるべきです。行動しながら考えることが良い。つまり、人は、考えすぎを防ぐ仕組みを持っているのです。自分を守る仕組みを寝かせておいて、苦しい、助けてというのは、ナンセンスというより、危険なことかも知れませんね。


痛い相談

2004年 07月 15日

 ここ数日、『迷い』をテーマにした更新を続けています。私としてはこんな辛気くさい……でも重要なテーマよりも、取りかかりたいテーマがいくつか出かかっているので心掛かりなのですが、必要な手順を省く事は後々面倒の種となる事を知らないわけではありません。

 迷いの生み出す苦痛について、霊感の鈍い方々は、「苦痛』として自覚していない場合も散見します。ところが、これを霊媒などが共感すると、胃の周囲が痛くなるのでやっかいです。つまり、霊媒能力の強い人が、『あの人、どうしているかな?』……などと思うと、とたんに自分の胃が痛くなるわけです。

 まあ、痛みを感じる事に恐怖するようでは霊媒はつとまりません。本当の交信は、感覚や体験の共有という形で行われるのですから、痛みを表現しようとする霊が居たら、その痛みをそのまま感じるのが霊界での交信なのです。胃が痛くなる相手が何人か居います。

 つまり、交霊で痛みを感じるのは、地上で、痛みに関する話をするのと同じ事です。別段自分の身体に悪いところがあるわけで成し、交信をやめればたちどころに痛みが消えるので、じたばたするほどの事もありません。

 ところが、特に人間相手で困るのは、交霊と比べて話がしつこくなりがちで、しかも、相手の切り替えが下手だから、いつまでも痛みが伝わってくる事です。さらに悪い事に、精神的な痛みの感じ方というのは非常に個人差があり、当人はせいぜいが不平不満の解消程度しか認識していなくても、その話を聞く霊媒には激痛が感じられる場合がある事です。幼少時の体験が原因だったりすると、もう痛みになれて悪夢を見たり、無意識に自傷行為に走ったりする程度で、自分の抱えている問題を適切に認識できない場合があるのです。

 こういう場合、当人にしてみれば、ただ愚痴を聞いてもらいたいだけなのですが、それに付き合わされる霊媒にしたらたまりません。愚痴を聞いているだけなら何年も、何十年もその苦しみを共有させられるのですから、うんざりです。特に、当事者が問題解決に乗り気でなければ、痛みに耐える事が不毛な努力に過ぎないのですから。

 もう一言付け加えるなら、人間の持ち時間には限りがあります。どうせ不毛な事をするなら楽しい事をしたいし、どうせ耐えるなら有益な事をしたいものだ――そうは思いませんか? 私は強く、強くそう思います。

・・・・・・・

 さて、強く痛みを生じる相談が三件ほど寄せられています(中には相談の自覚がないが)。例によって詳細は書けませんし、そもそも痛みを生じるという事は、当人が解決するのに迷いがある事を暗示しています。というわけで、直接のお返事の他に、相談者を想定しつつ、普遍的な回答をする事は、冷静に問題を受け止める良いチャンスかもしれません。

Q「願望成就しない。自分には縁がないと諦めた。」

 適切な譬喩とは申せませんが、良く引き合いに出す話を流用致します。

 「お金持ちになりたい」という願望が成就しない人がいます。障害を明らかにしようと、「なぜお金持ちになりたいのか?」と問うと、「もっとお金を使いたいからだ」と答える。……使っていたら貯まるはずがありません。まして、安物買いの銭失いというわけで、お金の使い方次第では効率の悪い事、おびだたしくもあります。

 この「願望が成就しない」という件も、守護霊様の意見とは別に、私が霊査致しましても、どうも無駄な事に力を注ぎすぎて、肝心な部分に力不足を感じます。

 それは結局のところ、正しい努力をしているというより、自分のカルマに振り回されている状況といえましょう。

 すなわち、自分が幸せになるための願望成就ではなく、自分の欲に引きずり回されている状況での願望成就……すなわち、不幸になるための努力の過程にあるのだと私は判断致します。

 もっとも、あなたの守護霊の判断と私の判断の違いは、視点の違いに過ぎず、問題は縁の有無というより、時機を失して、次の時機がまだ先にあるという事です。待つのもつらいが、待つ間にもすべき事があります。そして、待ち時間を有効に使ったものだけがチャンスに遭遇してそれを無駄にしないのです。

Q「伴侶との行き違いについて。」

 心霊相談を休業する以前から、恋愛相談などはお断りしてきましたが、家族・特に夫婦間の問題や、恋人との間の問題についても、相談したくても相談できずにいらっしゃる方、また、断りの対象になっている事を失念していらっしゃる方などがあります。

 大事な事は、相手の心をどうにかしようとするのは邪である、そして、邪な事を手伝わせようとするのはもっと邪である。という事なのです。

 人生の伴侶に相対するのに、他人の手助けを必要とするなら、それはもう伴侶とは呼べません。つまり大切なのは、どうしたら自分は伴侶たりえるか、という事であり、相手が悪いと思えても、それを補えてこその伴侶、至らぬ同士が助け合うのが伴侶であるとしっかり認識する事といえます。

 もっとも、人生の伴侶に関する悩みの大部分は、「相手が責任を果たそうとしない」という事でして、これがとても難しい。一方的な依存、つまり、夫が、稼がず、かといって家事もせず、あげくに女を作った、なんて話なら、「別れろ……」としか言いようがありません。

 しかし、相談の大部分は、相手の長所を無視して、欠点ばかりが目につくという場合が大部分です。こういう問題は、実は心霊相談よりも整体などの方がよほど効果的な回答を提示できるでしょう。この手の不平不満は、大抵の場合、不健康が理由だからです。

 不健康というのは、病気を意味しません、ただハツラツと生活が出来ず、だるいとか、面倒だとか言って、人の手を煩わせてしまうから、そこに不満が生じ、不満が積もり積もってイライラしてしまい、イライラが高じて感情的になっていく、という悪循環に陥っていると見なすわけです。

Q「親・子との行き違いについて。」

 ここでは、親・子との問題に集約しましたが、縁を切りがたい相手と広く捉えてかまいません。

 特に相手との関係が重荷になるのは、要するに縁を切りがたいからです。で、そこまで問題がこじれてしまうのは、当事者の一方、または双方が、姑息な人間関係の手法を使うからといって良いでしょう。つまり、相手の好意を確認するのに相手を困らせてみる……という事をやるわけです。

 たとえば仕事に行こうとすると病気になるとか、無理難題を吹きかけ、応じなければ泣きわめくとか……こういう無茶な行動に出るのは信頼関係が破綻している……痛みでしか相手の存在感を確認できなくなっているという状況です。

 これは正直辛いし、はっきり言って痛い。そして、解決策もまた無数に見いだせるでしょうが、この手の問題も、やはり、心霊的な解決よりも整体的な解決策の方が効果的でしょう。

 つまり、お互いが不健康だから、不健全な見方・視点で相手を見てしまうのだ、また、不健康だから依存心が強くなり、不健康だから相手の依存心が重荷に感じ、お互い辛いからイライラして和解策もとれなくなっていく。

 この問題の解決は忍耐を要します。また、ここでは不健康と表現しましたが、加齢も、問題の一因となりますね。

抑圧された心

 特に女性に多いのですが、親に対する不平不満から迷っている人が多いのです。もう霊媒だけが分かる痛々しさというより、誰でもこのいびつさに気がつくのではと思えます。

 そして、この問題を大げさにしているのは、親の悪口への病的な嫌悪です。親の悪口をいわず、親の欠点を見まいとする……自分の親を無理に尊敬する為に、自分を騙し、自分をだますから何が真実であるかが分からなくなるのです。

 褒めるの価値観もゆがみ、貶す価値観もゆがみ、何を言わんとしているのかがわかりにくい。こうした事例がすべて、親への不平不満が言えないためとは申しませんが、私の知る限り、こういう事情の持ち主がとても多いのです。

 しかし、赤の他人の行為なら許せる事も肉親の言動ならば許せぬ事もあるはず。他人に冷たい仕打ちをされたところで所詮は他人なのですが、身内が冷たい仕打ちをすれば恨む気持ちも生じますよね。つまり、親だからこそ許せない事の一つや二つ、ないとしたら、それは他人に接するような冷淡さで親と接していると言えなくもないのです。

 大事な事は、親への復讐ではなく、欠点は欠点と正しく認識する事で、適切な……つまりいびつではないフォローが出来るようになる事です。

 ところが……これがなかなか出来ないものです。自分は変われても親を変える事は出来ず、親が変わらなければ悩みは増すばかりですよね。こういう場合、親が死ぬまで治らぬのかな……と思います。

総論

 以上、四点の事例を紹介したわけですが、実はこれらの回答事例は、枝葉末節に過ぎません。こういう回答もしなければ、へっぽこ霊能者が相談者を煙に巻いているようだから書いているだけの事で、もっと簡潔に指摘する事がよほど大切だと私は考えます。

 これら、迷える人は、果たして問題に悩んでいるのだろうか? と私は考えます。むしろ思考過程にだまされて悩んでいるのではないかと思うのです。

 まず、各事例は、自分の大事な人をかばおうとするが故に生じる苦しみです。いわば自分の愛情に苦しめられているようなものですが、なぜかばう事で苦しむのでしょうか?

 その迷いの原点は、物事を善悪で計るところにあると思われます。つまり、善ならば良し、悪ならば拒絶するという価値観と、大事な人に悪いところがあればそれを受け止めようとするところに、矛盾と葛藤の種があるのです。

 善悪で考えるというのは、宗教で言うところの二元論に相当します。つまり、善悪は相対・不離の、たとえば電気にプラスとマイナスがあるように、また、光があれば影が生じるといったように、相対不離で一方には必ず他方がつきまとい、相互に争いを続けるといった思想です。

 しかし、近代心霊思想は、一元論で受け止めます。プラスとマイナスは中性の揺らぎ、光と影はただ濃淡が違うだけ。善とはより高度な存在であり、悪とは未熟な存在を指す。いや、老子の思想を考え合わせれば、影があるから光を認識できるのです。

 悪だから異質の存在……なのではなく、未熟だからあなたが補わなければならない。そう受け止められれば、ここに迷いはなくなるはずなのです。

 つまり、愛しい人に悪があれ、それをどう取り除くかに心を痛めなければなりません。それはつまり、相手の欠点が二人の間の障壁であるという事です。

 しかし、愛する人にあるのが悪ではなく欠点ならば……相手はあなたを必要とするという事、すなわち、欠点があるからこそお互いが、強く結ばれざるを得ないという事です。

 愛する人の、または、あなたの親の欠点を正しく認識しなさい。というのは、あなたが大切に思う人の悪を見つけろ、相手との断絶を直視しろと言うのではなく、あなたがより強く結びつけなければならない点を見つけなさいという事なのです。

・・・・・・・

人生の伴侶がなかなか見つからない

 まあ、以上で終わりにすれば話もきれいなのですが、ちょっと強欲な質問にも答えておきましょう。

 むろん、人生の苦楽をともにするのですから、その相手はなるべく頼りがいがあり、また、迷いや不正の少ない方が良いものです。……で、速やかに伴侶を手に入れる人は、ほとんどの場合、「私がいなければこの人はだめだから……」と、欠点を補うつもりで相手と接しています。(そのくせ、不健康になると、相手の欠点を重荷に感じて不平を言うのだから……いえ、そういうカップルを支える事も友人の勤めですよね)

 対して、伴侶を得がたい人は、「この人がいなければ私はだめだから……」と、欠点を許さぬ態度でいます。

 不幸にして……欠点のない人はいませんから、このような態度では死んでも伴侶を見つけられません。往々、「あの世で伴侶を見つけろ」と怒鳴りたくなるような強欲な人もいるぐらいです。間違って見つけた人がいるなら、人を見る目のない人か(当事者さえ幸せならば、ねえ)――控えめな人なのでしょう。

 いや、いや既婚者から恨まれるような発言は慎みましょう。


迷いは霊感の大敵

2010年1月17日

「霊能者は自分の未来は見えない」・・・等という。なんのことはない、そもそも迷いが生じたとしたら、それは背後霊の庇護を外れたということなのだ。――庇護下に無いのに霊感を使えば、回答者がいないのに良い返事が得られるはずも無い。イヤそれどころか、野次馬な霊にミスリードされる危険もある。

 私もまあ、誰かの助言を欲することもあるが、なんとか自分の霊感内で収まるか、追認程度で済むことが多いのは、ちょっとしたコツがある。

 まず、迷いが生じた事自体を楽観視しない。行き詰まったら元きた道を戻るぐらいの覚悟を決める。

 また、答えが無いのも答えのうち、とも覚悟する。つまり、何も答えがなければ、まあ、何とかなる、ということだ。

 そして要領の得ないメッセージを受け取ったら、それこそ、とことん行かなければならない、ということだ。途中下車は許されまい。

 人生で横着する様々な事態は、所詮、途中経過であって、良いことも、悪いことも、最終結論ではない。つまり、どう転がるか、わからないのである。だから、今は悪くてもジタバタしない。それよりも何よりも、霊媒にとって恐れるべきは、状況・事態の悪さではなく、背後霊らとの絆の有無なのである。それゆえ、たとえ不幸を味わっているさなかでも、自分が愛されていることを信じなければならない。

「人生は、背後霊(守護霊・祖霊)との二人三脚」と思うなら、迷いとは、チーム全体の危機なのです。眼前の事態だけの問題ではありません。それに気がつかなければ・・・視野が狭いということです。ならば・・・運が悪いならそのうち改善するかもしれませんが、自分が悪いなら、決して改善しないことを暗示します。

 それはもう、ただの迷いではなく大問題、いや大問題というより、救いようの無い問題、ではありますが。

船頭多くして船山に上る

2004年 11月 15日

 兎角、気弱な方は、いろいろな方面の意見を求めます。確かに多方面からの情報は物事を立体的に浮き上がらせるものですが、情報が増えれば増えるほど、物事の理解には高度な分析能力が求められるものです。

 特に分析中に難しいのは、取捨選択で、人の意見には主観もあれば偏見もまじり、切り捨てることがなければ、立体的に浮き上がらせるどころか、矛盾だらけで組み立てようがなくなることもよくある話です。

「船頭多くして船山に上る」といいますが、あちこちの意見を聞いて廻り、かえって迷いを増やすのであれば、気弱さから迷うという悪循環に呑み込まれてしまいます。

……さて、気弱さ故に迷ってしまった人が、そこで己を反省したとします。

「なぜ、私は迷ったのだろうか?……そうだ! きっと船頭が悪いからに違いない。今度は別な船頭を頼もう!!」

 しかし、気弱さからまた、たくさんの船頭を雇い入れればやはり船はやはり山に登っていくのでしょう。

……この意見は、迷える者をあまりに見下していないか! そう思われますか?

 智慧あれば助言に頼らず、分別あれば助言に迷わず――智慧も分別も無いから助言を受けて迷うのです。すべての迷える者が救いがたいとは申しません。しかし、間違った助言の受け方をしている人は救いがたいと思います。


自己評価の手段

2006/06/03

Q 「自分に優しすぎるという罪悪感がある。」


 自分に優しいかどうかは、どうでも良いのです。

 たとえば、明日早起きしなければならない晩に、好きなだけ酒を飲んだとします。……それが自分に甘い優しい事になりますか?

 今日の楽しみは明日の苦しみで相殺、いやむしろ赤字でしょう。一時的な苦楽だけで物事を考えるから罪悪感が生じるけれど、長い目で考えれば必ず帳尻……つまり因果応報、努力は報われる……は合うのです。すなわち、苦楽ではなく最善を考えなければならないのです。

 無理をすると、周囲の人々や、背後霊を遊ばせて、自分一人の労働となるから苦労が大きいのです。いわばそれは第三者の責任まで自分が背負い込むという愚かな行為です。

 反対に周囲の人々や背後霊と共に片づけるようにタイミングやリズムを合わさせるなら相応に楽になります。これはつまり、おのおのが責任を分担するという事で、収支決算にインチキはありません。要するに問題は、自分の苦楽ではなく全体の苦楽なのです。

 しかし、自他だけで物事を考え、また、表面的な苦楽で考えるから、自堕落という罪悪感をもったり、余計な苦労を背負い込んだり、下手をすると無意味な行動に走ったりもします。いわば、自分の進むべき道を正しく評価する手段を知らないという事です。


水子霊

2006/04/16

水子霊

最終更新日 2002年04月16日

 堕胎の害

 堕胎による一番恐ろしい害は、水子霊の祟りというよりも、むしろ、命を断つ事に罪悪感が失われていく事です。……祈れば許される。そういうものではありません。

 いずれ子供を持ったときに、自分が抱いている子供と、水に流してしまった子供の価値の違いを見出せるでしょうか。自分の抱き上げた子供を可愛いと感じた時、自分の都合で命を絶ってしまった水子の事を思わずにいられるでしょうか。

 子供の折檻死や、放置して死に至らしめる親が増えていますが、社会の影では、堕胎という名で、さらに多くの子供たちが死という運命を与えられているのです。生まれてくる命を大切にしない社会が、どうして子供を大切にできるというのでしょう。

 それはまた、その子にとっての運命ともいえます。

 しかし、自分の手に運命を委ねている、一つの命を救えない人が、どうして自らの魂の救いを求める事が出来るのでしょう。そして、小さな命を大切に出来ないような、恋愛で幸せになれるでしょうか。そんな独り善がりな気持ちは、いずれ裏切られます。そして、その独り善がりな心には、自らが直視できない無数の罪悪感が宿ります。この罪悪感が、格好の悪霊の巣になるのです。

 堕胎も殺人です。確かに、母体を守る事も大切ですし、強姦された結果の妊娠なども、出産後の事などを考えれば、堕胎も仕方がないと言えるでしょう。しかし、堕胎を繰り返せば、精神を病んでいきます。しかも、避妊せずにいれば、妊娠するのは当り前です。ちょっとした配慮で防げる悲劇を繰り返す事ほど、自分の魂を傷つけるものはありません。


水子供養

最終更新日 2002年04月16日

 水子供養

 さて、水子の供養ですが、一番大切なのは残された者の気持ちです。基本的に三歳未満の子供に、大げさな葬儀はむしろ、周囲の人から白い目で見られます。ご夫婦そろって、近所のお寺でお経を上げていただく程度で充分だと思います。(クリスチャン等を除いてですが)

 その場合、お付き合いのあるお寺がない場合、むしろ大きなお寺を頼った方が、謝礼がきちんと決まっていて、安心かもしれません。

 一方、まるで何もしないと、ささやかな不幸に見舞われたときに過剰に不安に陥りがちですし、いずれは誰も死に直面するわけで、その際に水子とは言え、自分の子供を粗末に扱ったという思いは何よりも心に引っかかります。

(仏事をおろそかにする人ほど心霊詐欺に掛かりやすい)

 また何よりも問題なのは、母親にとって自覚はなくても水子の存在は案外大きな心の傷になっるということです。

 ですから、私がお勧めするのは、やはり、日本の普通の葬式方法の略式で良いから読経を上げてもらうべきと思います。心配なのは料金ですね。あまり水子供養を前面に出しているところは、特別な料金設定などがありそうで嫌ですよね。金で人の幸福は買えませんが、かといって人はいずれ死なねばならず、いずれはお寺にもお世話になるのでしょうから、そのような仏事を任せられるお寺を探して置く気持ちで、暇を見てはあちこちのお寺に行って相談なされると良いかと思います。 (参照:先祖供養)

 もう一つの方法

 日本の心霊の独特な考えですが、人間には守護霊と呼ばれる霊が一人一人についていて、その守護霊が担当する相手の霊的な加護や、精神性を導く働きを持っています。そして、守護霊の上部には総括する役割の存在がいて、そのような霊を日本では神仏と呼称します。

 これは神道、特に国家神道的な神でも、仏教的な仏とも違います。死者の事を『仏さん』などと呼ぶのと同じ考えです。そして、霊能者や、行者、拝み屋など、心霊を扱う人の場合、そのような霊を見、話しをする事が出来ますが、普通の人の場合は、不可能ですよね。ですから人知に余るような悩みがあった場合、人は社寺で祈り社寺の神体仏像などを、神仏と見なして語りかけるわけです。

 ですから、神道仏教的な思想とは関わらず、社寺は常に高級霊が見張り、あたかも高級霊界の受付所のようになっています。もっとも様々な制約やコツが有るのですが……

 さて、本題の死者の供養に戻ると、現代日本ではちょっと難しい話なのですが、かつての日本の生活には産土(うぶすな)神や、氏神様と呼ばれる神社が集落に必ずあり、そして、人が生まれてはお宮参りに行き、七五三に神社に行く、そして亡くなればまた、報告に行き、今までの加護に感謝するという習慣があります。

 まあ、死を穢れと考える神道は、喪中の者は鳥居をくぐるな、などと言いますが、儀式の都合等の場合はさておき、「死が穢れなら、お払いさえ受けていれば人は死なないか!」という話になってしまいます。その辺は、陰陽師の活躍した頃の、鬼や怨霊伝説の名残りの気がします。……脱線ですが。

 ですから、もしお子さんが、生まれ育った場合に、お宮参りに連れて行くであろう神社…それが子供の産土神に当たります……にお参りし、霊界でのお子様を霊界でも見守ってくださるようにお願いするのが良いでしょう。

 この場合、正式な祈祷や、昇殿参拝などはする必要がありません。社殿の前、拍手を打った後、ゆっくり心の中で、願い事を三回繰り返し、頭を下げて、『お願いします』と結べばよいのです。願い事を三回繰り返すのがコツです。一回だけだと、祈っている人間も気が高ぶって相手に念がうまく通じない事もあるからです。


早世・夭折

最終更新日 2002年04月16日

 早世

 親より先に子が死ぬ……親にとってこれほど不幸なことはありません。この、親の不幸につけ込んで布教をする人などがいますので、子供の早世(早死)を親の因縁と思い悩む方がいらっしゃいます。その誤解を解くためのページです。

・・・・・・・

 ある意味、胎児というのは、地上でもっとも幸福な存在といえましょう。母親の胎内に守られ、ただひたすら成長の努力を続ければよいのですから。人間はこの母親の胎内での得た幸福感、そして、乳幼児の頃に受けた愛情で、人格の器を作ると思えます。

 成長するにつれて、社会に揉まれ、それなりに分別もついてきますが、やはり幼児期に親に死に別れた人などは、最後の精神的な踏ん張りが足りない気がするのは幼児期に愛情が不足したからと言えましょう。その一方で、両親がそろっていながら情緒不安定な人もいます。親は愛情と思いながら実は我欲を注いでいるのかも知れません。

 さて、子供の早世には様々な原因があります。人それぞれに事情があることでしょうから、それらすべてを一様に説明することは不可能ですが、転生という点に限ると、以下のように考えられます。

 前世において、衝撃的な死を味わい、その現実を受け止められなかったような霊は、胎児となる事で、ある意味感情的な物をリセットする事が出来ます。私たちもあまりに不運な目にあうと、『夢なら覚めて欲しい』そう考えますよね。それと同様なのです。

 衝撃が生み出す心の傷は、母親の胎内にいて四六時中注がれる愛情が打ち消してくれます。このような手順を踏まなければ自分の死を認める事の出来ない傷ついた霊も、霊界にはたくさん存在します。

 魂に傷があるがために、長生きをしても人生の苦難に耐えにくい、それがために、早世する肉体的な環境の持ち主の所に転生すると考えられます。

 人生は霊性向上の場なのです。子供を産み育てる親にとっても、生まれてくる子供にとっても人生は霊性向上の修行なのです。わずかな時間でも関わりあった事が、互いの心に残すものを大切に扱っていただきたいと思います。

 死別の悲しみ

 身内を失うのはとても辛い事です。それが我が子ならば、苦しみがさらに増す事でしょう。しかし、死をあまりに悲しむ事は、死での旅路につく魂にとって、大きな負担となります。

 身内の者たちにしてみれば、「もう少し生かしたい、いや何とか出来たのではないか」などという考えが、頭の中に巡りましょう。しかし、残された者たちがどれほど嘆き、引き止めようが、死の淵から帰ってくるのは容易ではありませんし、肉体が損なわれていれば不可能なのです。

 そして残された者の悲しみは、死者の苦しみでも有ります。憎悪による自殺など、特別な場合を除いて、誰も自ら死によって、愛する者たちと別れたいとは思わないのです。嘆きは、悲しみを呼んでしまいます。彼らには次の生活が待っています。行かねばならぬものなら、快く送り出す。それが死によって分けられた互いにとって幸せなのです。

 また、早世した子供に対しては、親の責務を果たせなかった、自責の念もありましょう。しかし……幼子ならば、親を慕い、寂しがる気持ちはあれど、親を恨む事はありません。ある程度、成長した子であるのなら、親を恨むのは筋違いでしょう。

 死者との通信を望むな

 死者との通信を望むべきではありません。特に子を亡くした親ほど死者(我が子)との通信を強く望みがちですが、彼らには次の生活が待っています。残された者たちが未練を持って生きることは、死者にとって負担となります。

 この世での生活を終えた霊たちは、まず現界での生活の、悪い点を反省し、良い点を伸ばすように指導を受けます。生前も死後も時間を無為に過ごす事は出来ますが、余分に使える時間が有るわけではありません。無為に使った時間は、やはり無為に使った時間なのです。

 鉄は熱いうちに打ての例えのとおり、霊界入りして直後は、学ぶべき事が多いのです。

 心霊研究団体では盛んに交霊を行ないます。人々の記憶にあるような霊からの霊界通信は、関係者に対して否定しがたい証拠となりますから、なるべく死んだ直後の霊を呼びたがります。

 しかしながら、普通の交霊会に現われる霊というと、大抵、親族もすでに亡くなっているような古い霊に限られます。その理由は、やはり霊界入りした直後の霊は、現界の影響が強すぎて、霊界通信に絶えるだけの霊界に関する知識が無く、また、霊界で学ばなくてはならないことが多すぎて忙しく、現界に関わる事を嫌う事がありあます。

 本来、死の直後の霊は、呼び出されることを嫌います。感情を満たすだけの無為な死者との通信は望むべきではありません。


水子霊・相談例

最終更新日 2002年04月15日

 水子霊の祟りとは、大抵、女性の罪悪感の事を指します。水子供養とは、罪悪感の消去を目的にするわけです。その根拠は、子供は母親だけでは作れず、中絶は男性側にも問題があるのに、男性に水子の祟りが少ない事や、水子の害と呼ばれるものは、まじめな人に多く、遊び人に少ない事が挙げられます。

 水子の霊を調べるのは、霊能者にとってはとても簡単です。水子の霊が胎児から離れる時に、媒体となる幽体を脱ぎ捨てていきます。ですから母親の周囲には、へその緒状の幽体が霊視できるのです。これを勘定すれば、女性が気がつかないうちに、流れていた子供の数まで当たります。

 実際、水子の数を指摘すると、よくよく考えて思い当たる事も多々あるものなのです。その一方で、霊視されるのは、幽体の抜け殻ですから、親を恨む、または害を及ぼす、といった悪意は見られないのです。

 つまり、水子の害というのは、子供の霊の怨念ではなく、むしろ、親の罪悪感なのです。罪悪感というのは贖罪を求める気持ちを内在していますから、自覚の無いままに不幸が起る事を期待しているのです。これでは守護霊の張る霊的防御のスイッチを切ってしまったかのように、低級霊に漬け込まれる隙が出来てしまいます。つまり罪悪感を打ち消す為に不幸を望むことが、水子の祟りの正体なのです。

 とは言うものの、水子霊の祟りと呼びえる現象がまったくないかというと、決してそんな事はありません。その多くの例は、霊現象というよりも心理的な要因ではありますが、ご参考までに実例を挙げておきます。

 相談例1:離婚歴のある女性の場合。

 前夫に子供を残して再婚した彼女は、常々残してきた子供に罪悪感を感じていて、現在の夫との間の子供のわがままに拒否的な感情を抱いていました。このような心のしこりが家庭生活に影を落としていたのです。

 相談例2:経済的な事情から、堕胎をせざるを得なかった女性の場合。

 水子にしてしまった子供に対して罪悪感を抱いているために、その後生まれた子供と罪悪感が二重写しになって、子供の相手をまともにできないのです。

 相談例3:私生児

 私生児として生まれたある女性は、母親に対して複雑な感情を抱いています。母親は大好きなのだが、境遇に不満があり本当は泣き言を言いたい。でも母親は傷つけたくない。その葛藤が体に影響を及ぼし、様々な不具合を抱いています。

 その他:

 自分も親になれば親の苦労がわかる、などといいますが、結婚に失敗し、また、堕胎をし、その罪悪感を親に向けてしまい、ますます親子関係が拗れる人もいます。


相談から指導へ

2006/04/16

 人間には長所があり、適性があって、個性を形成している。……当然、欠点もあり、苦手なこともあって、それもまた個性の一部である。

 たとえば、ある人が悩みを抱くとして、それは単なるその人の事情が生み出したものであるとは限らない。その悩みの元のある程度、場合によっては大部分は、その人の個性の中に原因がある。つまり、被害者の適性や、欠点なども苦しみの原因の一部なのだ。

 それ故に、真に悩みを解決したければ、自己の向上も不可欠となる。……私が、悩めることがチャンスであると考える所以である。

 ところで、個性が一人一人違うのであれば、助言も一人一人によって変るべきなのは間違いない。……だからこそ、大量複製された言葉による指導ではなく、個人指導が必要ということになる。相談に応じる側が、それに気がつかないとしたら滑稽ではあるが、相談を求める側もそれに気がつかないのは悲惨としかいいようがない。適性が合わないのにもかかわらず、他人のやり方を真似て、失敗の傷を拡げる人の何とも多いのだ。自分の個性を蔑ろにされて愉快な人も居ないだろうに、自分はせっせと自分の個性を蔑ろにしている。

 ここでいう、個人指導と、個人相談とは若干意味が違う。相談主は往々、今現在の苦境から抜けることだけを考えて、安易な救済ばかりを希望し、なおかつ不快な指摘にはすぐに眼をつぶってしまいがちだ。

 敢えてしつこく、非難めいたことを書くが、実力を超えた問題であるからこそ悩み、人を頼っているのに解決すべき時期や、解決手段までも指定する人がいる。私は別段それを非難したいわけではないが、そういう行為が正に自分を苦況に追いやっている事に気がつかなければ解決しないのではないか。

 これでは、泥棒を自宅にかくまいながら窃盗を防げというのに等しい。こういう無茶な要求に疑問を抱かなければ葛藤の多い人生にならないはずもない。

……身体の健康維持には、医療の他に整体なる選択肢がある。つまり病気の生じやすい体質を改善していく手法だ。同様に、心の悩みを解決するほかに、悩みを生じやすい気質を改善していく、整心、いやむしろ「整魂」なる手段が必要なのではないか。今、そう考えている。

 悩み事に対する、心霊相談は中断というよりもう止めるべきであろう。為すべきは、心霊指導、または、「整魂」なのだと、考えている。


 2006/04/16

死にたい……自殺願望

2006/04/16

死にたい……

2006-04-15

 世の中には、ろうそくの炎が立ち消えるように、誰にも心中を明かさずに消えていく人もいます。そういう人は、あまりの心労に他人に相談する事を忘れているもので、だから、自殺の名所に「相談してください」という看板が立ち、多くの人が自殺を思い止まる要因になっています。

 そして大切な事は、わざわざ自殺の名所にたどり着きながら、後戻りして自殺防止の相談を受けるのは、そもそも死にたくて自殺しているのではなく、苦しみから逃れたくて自殺を思い立っただけで、生きて苦しみを除けるならば死にたくないのは生物として当たり前の反応だと思います。

 なるほど中には生きる事に希望を見出せず、その一方で生活の雑事が面倒になって死にたいと思う人もいますし、その他の漠然とした理由や、精神病的な強迫観念に囚われて自殺願望を持っている人も居ますが、私に助言ができるのは生きる方法であり、生きる気が無い人には、言葉は何の助けにもならないということです。

 あなたが「生きたいから相談に乗ってくれ!」というなら、私は誠意を尽くし、努力をします。 しかし、「死にたい」という相談に対する回答は私にはありません。 出来るのはせいぜい、知らない人から自殺の予告が入ったと、警察に連絡するぐらいなものです。

心霊家として、そして霊媒として一言いうなら、「死んで楽になった」という人を私は一人も知りません。

 中には、強迫観念に憑かれている人もいれば、目標を見失って生きるのが面倒になった人も、「死にたい」とつぶやくものです。そういう人への回答は別に用意します。

 実を言えば、私の元へはかなりの頻度で、「死にたい……」というメールが舞い込みます。「死にたい」という台詞は、生活苦に対する無意識のストレス発散であるから、死にたいと言っているうちはなかなか本気で自殺しないものですし、その真意・根底には、「死にたいほど真剣に苦しんでいるのだから、早く助けて!!」という、意思があることは、霊感が無くてもわかるというものです。

 ところで、まったく人間というのは、苦しい時にも他人に気を配れる人もいる一方で、大抵の人は苦しい時には人の都合などお構いなしに騒ぎ立てるもので、まあそれが人間の性、と同時にお互い様と受け入れるしかないとは思いますが、中には、自分が苦しいと、苦しみを逃れる努力を忘れて人まで苦しめようとする人がいるから困ったものです。

 なるほど、あなたにして見れば命がけの相談かもしれません。でも、冷静な第三者としての私からは、自分の命を人質にして回答を強要する人でなしにしか思えないのです。そういう人の甘えた欲求に対して真剣に答えようとしたら限りがありません。私にも生活がありますから、どこかで相談を拒絶しなければならなくなりますが、そうなったら、相手は売り言葉に買い言葉で追い詰められるかもしれません。

 結局、真剣に自殺を考えている人に対しては、まずは引き止める必要がありますが、でも、他人に甘えたいがために自殺をほのめかす人は絶対に甘やかせられないわけで、メールや掲示板などで相談に応じる事はとても出来ないといえます。


自殺衝動・でも生きたい!!

2006-04-15

以下は、自殺衝動に襲われながらも生きる事に努力しようとなさっている方への解説です。

 病的な自殺観念

 私の基本的なスタンスは、病気は医師に任せるというものです。まず、医師の助言を優先してください。心霊にすがるのは医師が見放してからにする事が大切だと思います。

 とはいうものの、霊能者として感じる注意点があります。

 1.葛藤と戦う

 皆さんは本当に葛藤と戦う事が下手だと思います。 心の中にわきあがる衝動は、自分自身の分身と同じです。争えば自分と同じだけの力を持っているのですから、決して決着がつきません。そしてどちらが優勢になっても引き分けでもあなた自身が苦しむ事になります。

 争いになったら、葛藤のどちらが勝っても、あなたの負けです。争わぬ方法を見出すか、妥協点を見出す事が大切ですし、妥協できなくても真剣に争わないことです。

 2.決して慌てない

 人は苦しければ直ちに逃れようとします。ですが、助けが届くには時間が掛かるものです。具体的には医師の処方に満足できないからと、心霊相談に頼るのはあまり褒められた事ではありません。その努力が事態を混乱させる事になると思います。

 3.他に頼らない

 自らが苦しみを生み出しているのに、薬や他人に頼って助かろうとしても自分からは逃げ切れません。


自殺願望・絶望または諦め

2006-04-15

自殺願望をお持ちの方へ

 災難は、悪意より未熟さ、不運より要領の悪さがもたらします。

 あなたを不幸にしているのは一体誰か……

 その原因があなた自身にあったとき、あなたは振り上げた手を一体どのようにして下ろすのでしょうか。

 困り果て、悩みぬいた末に、私の元に至った挙句、「あなたが悪い!」といわれたら、きっと、腹も立つことでしょう。それがわかるがゆえに、以下の問題は、私が最も回答したくない問題の数々と言えます。

 自分に内在する問題点を明らかにする覚悟のない人は、どうか、他の霊能者をお当たりください。そのほうが、あなたにとっても、私にとっても幸せなことでしょうから。


自殺願望の考察

2006-04-16

 普段、人間は言葉で思考し、それをそのまま口から発するものですから、一般的な事柄については、真意を深く感じる必要も無く、会話が成立します。

 一方、霊が、人間を通じて言葉を発する時には、頭の中に浮かんでいるたくさんの言葉の中から、目的に一番近い物を選び出し、繋げて文章を作るといいます。(永遠の大道や、シルバーバーチの霊訓などを参照のこと)

 この事はごく当たり前ですが、言葉は、意思の表現方法としてはとても拙い物であり、真意を読み取る努力が、特に心霊的な言葉には重要であるという事の一つの理由でもあります。

 さて、自身の魂が何かを言葉で表現しようとするなら、やはり霊と同様に、頭に格納されている言葉を選び出して、繋げていると考えるべきでしょう。そして、前述の「死にたい」ですが、その言葉が、その人の魂の発する言葉だと考えると、その真意は一体なんでしょうか。

 私は、「自由になりたい」と受け取りました。

 魂は、五感というわずかな感覚で世界で感じる事に嫌気を感じている。それ以上に五感というわずかな感覚だけで、友情や愛情を感じる事をとても寂しく思っている。「自分の魂を解き放ち、もっと多くの感覚で、世界や友人や愛する人の事を感じたい!」私の霊耳にはそう聞こえたのです。

 人々の言葉にならない寂しさ、それは孤独だからというより、自身の魂が五感に閉じ込められている事を寂しく感じているのではないでしょうか。


自在でありたい

2006-04-16

 さて、魂は単に肉体から逃げたがっているのでしょうか。確かに努力の甲斐なく、苦しみにあえいでいればそこから逃げたくなる気持ちは分からないでもありません。でもそれは、希望なく苦しんでいるからであり、できる事なら逃げる事よりも、自身が主導権を握りたいというのが本音でしょう。

 先ほどは「自由」という表現を使いましたが、真実は「自在」という言葉が適切なのではと思います。辞書で引くと、自由には様々な意味が含まれていますが、一般的に、自由は、「どうにでも動く」、自在は「意のままに動く」となるでしょう。そして、そう、魂は「せめて自由を……」と望んでいるのであり、できることならば「自在」を求めているのではないでしょうか。
 求めているのが自由ならば、確かに死も回答のひとつかもしれません。しかし自在なら……

 そう、私は、漠然とした「死にたい」という言葉の中に、その人の熱烈な、霊性解放に対する衝動を感じたのです。自身に内在する理解不能な衝動……理解不能だから、「死にたい」という否定的な、消極的な表現になってしまう。でも、それが「霊性解放」に対する欲望だと自覚した時にどうなるでしょうか。

 時々、死にたくなるともらしたこの人は、素晴らしい霊性を持ちながら、自分の霊性の生かし方に気がついていないだけではないか。そう感じるのです。


佳人薄命

2006-04-16

 

 「美人薄命」等ともいわれますが、本来は「佳人」です。美人が見た目の美しさを指すのに対して、心根の美しさを併せ持つ人を「佳人」というのです。さて、この佳人薄命も、霊性解放の観点から見ると、面白い事に気がつきます。

 シルバーバーチの霊訓などでも、不健康の理由を、心身のバランスが取れていないから等と表現されていますが、魂が肉体に閉じ込められている事を良しとしない事が、不健康な理由と考えたらいかがでしょうか?

 素晴らしい智性の持ち主が薄命なのも、霊性が閉じ込められている事を苦痛に感じながら生きているせいと考えたら……自殺をしたくは無いけれど、魂が肉体に閉じ込められているのは嫌だ……そういう動機があるとしたら。

 もちろん、不健康で、自殺願望がある人が素晴らしい霊性を持っているとは限りませんが、不健康さと自殺願望の背後に、霊性解放への秘めた衝動がある場合がある事は、特に心霊主義《スピリチュアリズム》に関心のある人には重要な事に思います。


自殺願望 2

2006-04-16

 もう一押し、考察を進めます。

 シルバーバーチの霊訓の第一巻の冒頭に、地上に派遣されたシルバーバーチのぼやきが出ていますが、シルバーバーチたち、高級霊界の住人たちにしてみれば、地上が色褪せ鈍重な世界に感じられるのと同様に、霊性進化が進み、転生の必然性が薄れてきた魂にとっては、やはり地上生活というのは、どんよりと濁って活気の無い世界に感じられるのは無理も無い事だと思います。

 こうなると、いち早く地上を脱したいという気持ちは、案外、魂の本音かもしれません。もちろん、理由があって転生してきている以上、勝手に地上を去る事が出来ませんが、魂が意識にごくわずかしか顕在しない普通の人の場合、魂の本音が、肉体に思わぬ反応を引き起こす事例があるのでは……そう思います。

 人は感じる事で思考を始めますが、言葉を処理する形で思考するものです。そして、霊性解放への衝動が、「死にたい」という言葉に置き換わったとすると、その人の思考はいかに死ぬか……に向かってしまうのではないでしょうか。

 そして、霊性解放を強く想う時というのは、やはり物事がうまく進んでいない時だと思うのです。きっと、物事が進行中であるなら、「感じる」暇もない事でしょう。つまり、苦しい時に、その状態からの脱却願望を「死にたい」と錯覚してしまったとしたら、一体どうなるかという事です。

 いうまでもなく自殺に対する強い衝動となる事でしょう。そのような人に対して、心霊的な常識……すなわち自殺が大罪である事を告げることが果たして解決になるでしょうか。私はならないと感じます。本音は自身の霊性解放にあるのです。その人の魂は、様々な地上的な制約に息が詰まる思いをし、その苦しみから逃れようと必死になっているのです。その人に対して、罰で脅かすような真似は、ますますその魂を追い詰めてしまいます。

 自殺は悪い事です。しかし、本音がもしも、自分の在り方・「自在」を求めているのであれば……

「君に必要なのは、死ではなく自在なんだよ。妄念に奪われた、自分の主導権を魂に取り戻す事なんだ。」

 そう言って上げられるのではないでしょうか。

 「死にたい」……魂の発した言葉は、自分の意識に暗示をかけてしまうのです。それは決して本音ではないとしても、人は言葉で考えようとする為に「魂の自由」を「肉体からの解放」……すなわち「死」とイメージしてしまえば、答えは自殺でしかなくなるのです。

 今の自分の範囲に、自分の魂の可能性を閉じ込めないでください。あなたが求めるべきは、自由ではなく、自在なのです。


夢・希望・願望

2006/04/15

夢や、希望、願望が実らないという相談についてです。

この問題についてのご相談は、なるべくご遠慮ください。私としては見ず知らずの人の夢を壊す、嫌われ役を自ら買って出たいとは思っていないのです。


 漠然とした相談

 時折、「自分の希望のままに、物事が運ばない……」という、不可思議な相談を受けます。

 私には、この質問の論理がどうにも理解できません。物事が成るには、正しい方法と、適切な努力が必要なのであって、本来なら物事が上手く運ぶ方が不思議なのです。まして、力が及ばなければ、物事が上手く運べなくて、むしろ当たり前ではありませんか。

 ですから、この問題への回答は実に単純明解なものしか、思いつきません。

 「あなたの努力が適切ではないか、努力が足りないか、いずれかでしょう」

 いえ、もっと重大な問題があるようです。

 

 実力

 悩み事というのは、自分の実力を超えているからこそ生じます。では、夢が実現できないということは、一体何を意味するでしょうか?

 質問の筋道をきちんと説明できない人は、努力家ではなく、夢想家であるということです。努力もせず、筋道も間違っていたら、あなたの理想が実現するのは、とても難しいことでしょう。

 苦しんでいる人は、大抵は自ら問題を生み出しているものです。そしてじたばたと、苦しみにもがき苦しむ人は注意しなければなりません。苦しいのならばなおのこと、じたばたとすることに無駄な労力を使ってどうなることでしょう。

 

 時期・チャンス

 懸命に努力しても、何の結果も得られないこともあります。努力だけでは足りないのか……その問題に取り組んだのが、心霊である……そういう解釈もあります。つまり、心霊というのは努力を型に成すための研究でもあるのです。

 努力を型に成すには、タイミングも大切ですし、待つことも大切です。たとえば春に播くべき種を、冬に播いたら……小春日和に発芽した若芽は、真冬日に凍りつき、枯れてしまうことでしょう。

 死者の言葉に耳を貸した、心霊は「摂理」にいたります。出来るものは出来るし、出来ないものはやはり出来ないのです。しかし、摂理に敬意を払わない者は、出来ないものをやろうと努力し、挫折します。

 努力は大切ですが、目的を見失っては成らないのです。努力のための努力は、自己満足に過ぎません。目的のための努力こそが、あなたを成功と幸せに導くのです。

 

 夢の代価

 慎み深く暮らしていても、事故に巻きこまれることもあるのに、ただ無事でいられるというだけでも、一体どれだけの幸運が必要なのでしょうか。なのに不運を嘆く人のなんと多いことでしょう。

 夢は、一体誰のためのものなのでしょうか?

 不運を嘆くあなたは、自分の夢が実現できないのではなく、夢の代価を払えずにいるのです。この差は似て非なるものです。

 

 摂理

 蒔かぬ種は刈り入れられないのが摂理です。つまり夢が成らないことも、自らが原因を作っているのです。

 

 努力

 質問: 人生に努力は、必要でしょうか……

 私の立場は非常に明快で、ただ摂理があるだけのことです。

 物事には代価が必要であり、安易に得られる物は、それなりの価値しかありません。 つまり

……欲しければ働け、嫌なら諦めろ

……それだけの話です。

 努力が美徳であるというのは、努力するだけ利益が上がる農耕文化の思想に過ぎません。運の比重の大きな狩猟文花では、地道な努力よりもむしろ、より多くの分け前を得るための自己主張などを重視します。 そして、現代日本も、努力よりもむしろ自己表現が重要に成りつつあります。

 そして、私も努力をすることが大切だとは思いませんが、自己表現も下手なら、努力もしないのでは一体どこに取柄があるのでしょうか。そして、「自分の希望のままに、物事が運ばない……」という質問は、摂理の面から一体どのような解釈ができるのでしょうか。

 このような質問をする人には、想像もつかないことでしょうが、私の回答は、『今のところはまだその程度で済んでいますが、いずれもっと大きな悲劇と逃れることが出来ない困苦に見舞われることでしょう』というものです。

 無理に働く必要はないと思いますが、自分が欲しいだけのものを稼ぐ努力がなく、そして夢や願望を捨て去れなければ、自分自身の怠惰と欲望の板ばさみで苦しむことになります。そして、年老いてから努力するのは何よりも切ないことですよ。

 そして、若いうちに運や縁を育てておかなければ、年老いて、苦しみに直面しもあなたの苦しみに親身になってくれる人は現れないからです。

 

 楽しみ

 人生は、ぜひ、楽しまれるべきです。ですが、その前に、人には自らを削って楽しむ人と、自らを太らして楽しむ人に大別できることを覚えていてください。苦労を後回しにすれば、いずれ帳尻が合います。怠惰の生み出す苦しみは他人には解消出来ないものなのです。

 そして、何より幸せなのは、生み出す喜びを極めることです。人が苦労と思うことを喜び楽しみながら出来るという事……これはどんなに羨んでも、努力しても会得できるものではありません。

 また、浪費というのは、なんと心地よいことでしょう。しかし物や金がなくなれば、とたんに人は心寂しさを覚えます。働くのは面倒だ……ですが、形あるものを作り、残していくことはなんと安心感が生まれるものでしょうか。

 浪費と言う、目先の甘さに囚われて、知らずに不安の種を播き、面倒という、目先の苦さに囚われて、安心の種を播き忘れたら、楽しみの果てにただ不安が残ります。

 結局のところ、人には、自分の未来を取り崩して今の楽しみを追いかける人と、楽しみながら未来を生み出していく人がいるのです。

 

 怠惰の理由

 なぜ、人は怠惰に陥るのでしょうか。私が見る限り、夢を実現できない人は、夢よりも、努力よりも、言い訳を大切にしている人のようです。

 本当の夢を抱いているなら、何をさておいても、努力するはずなのです。それも、自分では努力とは思わず、傍目に見えるような苦しみも知らずに、ただ一心に夢に向かって進んでいます。

 夢が実現しないと嘆いている人に触れるのは、私にとって苦痛以外の何者でもありません。その心の中に言い訳と不満と妬みしか、見えないからです。

 延々と理屈を並べで、でも実現のための行動に移らない……当人は否定しますが、傍目から見たら、そういうのを「言い訳」と呼ぶのです。そして、言い訳であることを自認しないから、永遠と無駄な思考を続けるのです。

 しかし、先が見える努力というのは、動き出すまでは辛くても、いつしか没頭して苦しみを忘れますが、先が見えないというのは、黙って座っているだけでも辛いものです。


2006-04-15

幸せになれるか?

2006/04/15

幸せになれるか?

2006-04-15

 時折、「○○さんは、幸せになれるでしょうか?」という、ご質問をいただきます。本当は、自分が幸せになれるか……という問題のほうが、重大なはずなのですが、自分のことは、いろいろな面で聞きづらいのでしょう。

 このような場合、間接相談はお断りしている旨を書いて、お返事に代えさせていただいているのですが、実は答えは常に一つしかありません。

「幸せにはなれないでしょう」

 これは不幸になるという意味ではありません。そしてなぜ、答えが一つしかありえないのでしょうか……

 漠然とした、質問には漠然とした回答しか生まれません。問題の絞込みが不十分であれば、選択肢は無数に生まれてしまいます。しかし、「幸せになれるだろうか?」という質問には、答えは一つしかありえないのです。

 もしも、質問者が、幸せの正しい意味を知っているなら、その実現に向かって努力するはずです。幸せの実現に障害があるなら、「幸せになれるか?」と質問せずに、「どうしたら障害を乗り越えられるか?」と質問することでしょう。

 つまり、幸せになれるかどうかを悩んでいるというのは、幸せになる方法を知らず、その努力もしていない事を、公言しているようなものなのです。

 「あなたは幸せになる方法を知らない」と、いうと、大半の人が、「いや、そんなことは無い」と否定されますが、では一体どんなことが「幸せ」かというと、大抵は、満足感や充足感を、幸福感と錯覚し、満足・充足することを幸せであると、思い込んでいらっしゃいます。

 これはまた、なんとも不幸なお話と言えましょう。食べ物も、金品も、装飾品も、貴重品も、すべては他の被造物なのです。自分の物ではないものを欲しがり、追いかけ続けるのは永遠の苦悩を抱いているようなものです。

 美食に満足しても、半日もすればお腹が空くのですから。

 たとえば美食を幸せと思うなら、半日ごとに幸・不幸を繰り返し、油断して食べ過ぎて不幸になり、食べ過ぎて胃を壊してまた不幸になるのでしょうか。それでは一体、幸せになる努力をしているのか、不幸になる努力をしているのか、どちらだかわからなくなりますね。

 もちろん、人生、努力をすれば結果を味わいたいものですし、満足・充足を味わうことを私は否定しません。ですが、他にある幸福を追いかけていては、追いかけて、追いかけて、追いかけ続けることに苦しみを抱くようになりかねません。

 人が何を持って、幸福と表現するか……人の数だけ、幸福があるといっても過言ではありませし、「満足感は幸福感ではない!」と説得したところで、空腹に苦しみながら、幸せを噛み締めるのはとても困難でしょう。

 もちろん、法や倫理に触れない限りその人なりの幸福感を追いかけること自体は決して悪いことではありません。しかし、外に幸せを求めては、永遠に追いかけ続けなければならなくなります。

 そして、○○さんは、満足のいく人生を歩めるでしょうか?

 この質問こそ、最も避けたいものなのです。使い切れないほど財産を持ちながらも、物足りなさに悩む人もいれば、貧しくて不満を抱かずに工夫で楽しみ補い生活する人もいるのです。つまり充足感というのは、物質的な豊かさと精神的な豊かさのバランスによって決まります。

 そして、目に見える物質的な豊かさを差し引けば、この質問はそのまま、○○さんの人格・霊格は、どの程度の高さでしょうか……という質問の隠れた回答となってしまいます。質問者の意図するところではないでしょうが、「○○さんは幸せになれますか?」という質問は、実はそのまま、「○○さんの悪口を言ってください」というのに等しい質問なのですね。

 「幸せになれますか?」という疑問は、単純で純粋な疑問なのだから、理屈や裏読みした回答こそ、浅ましい……と思われる方もいらっしゃるでしょう。 一足飛びに回答してよいのならば、まさにその通りです。

 ですから、「幸せになれますか?」というご質問に対して、一番の回答は、

 「幸せとはなんであるのか、よく考えて目標を見出し、その目標に向かって努力なさい。(悪因縁さえなければ……これは一般論では回答できない)努力はいずれ実りますし、努力するほど、その達成感は大きなものですよ」

 となるのですね。

 しかし、せっかくここまでお読みになった人なら、ぜひもう少しお付き合いください。

1、 質問は単純であっても、回答まで単純とは限りません。そして、安易なものはそれなりの価値しかないものです。つまり、幸せを求めるのならば、求めるものに相応の努力を惜しまないでください。

2、この回答が難解に感じられたら、それは、目標までの道のりが困難であるということです。少なくとも幸せな人が、この文章を真剣に読むことは無いはず……覚悟を決めてください。しかし、決して絶望しないでください。あなたはヒントを得たからこそ、ここまで読み進んだのですから。

3、少なくとも、安易な解決法を求めずに、ここまで読み進んだあなたは、幸せになる準備ができているということです。ご自分に自信を持って下さい。安易な答えには相応の価値しかないのです。それはそのまま……価値に見合うだけの努力が要求されているということでもあります。

それでは、皆様、お幸せに……


自己改革……最初の一歩

05年 06月 18日

 どんな見え見えで、簡単な答であっても、自分自身の口でいうことに意義があります。何よりそれは、自分の問題・自分の人生を、人任せにせず、自分ノド力で解決しようという態度表明の第一歩なのです。

不幸の原理を知る

 世の不幸な人を見ていると、往々、わざわざ進んで悪い方へと選択を重ねていくのを目にいたします。「なんだか、危なっかしい運転をしているバス(又は電車)だなぁ~」などと、危険を予知しているのに他人事のように乗り続けて大事故にあったり、「でも辞められないんだよな~~」等とのんきにしていたら悲鳴をあげる羽目になったり、「何か忘れ物をしているような~~」等と油断していたら後で大騒ぎ。

 業《カルマ》というのは、自ずと解消を求めます。

「解っているけど、辞められないんだよな~~」等と口にし、自己改革を自ら否定するかのような態度表明をするから、同じ災難を繰り返してしまうのです。もしも、「これは災難ではなく、私の過ちだ」と気がつくなら運気の流れは変わっていきます。

努力の意義と価値

 結果は努力についてくる――

「そんなことは知っているけれど、努力に見合う結果は得られないじゃないか!」

 多くの人は、自分の努力を過大に評価し、得られる結果を過小に評価します。

 出来るだけ楽をしたい……合理性の追求は知性動物のいわば本能です。ですが、安易な選択は進歩の可能性の否定であり、本能に流されることは進歩の否定……退化への罠なのです。

 だからこそ、「あなたは努力をしなければいけない」……などと思うのも工夫が足りません。

 あなたの努力があなたにもたらすものは、果たして結果だけでしょうか?

 同情や信頼、ひいては連帯感や友情など……目先の欲に囚われて、努力がもたらす様々な副次的な成果を見落としてはいませんか。

 そうなのです。努力に見合う結果は得られぬのです。だが、副次的効果全部を計算に入れると、努力は実に見合うのです。

どうしたら欠点が治るか。

 この話題は迂遠な比喩から始めます。

 たとえば、私は誰かに迷惑を掛けられても謝罪を求めたりはしません。謝罪よりもむしろ絶縁を好むのです。なぜなら、失敗は悪意よりも未熟さがもたらすもの……つまり、未熟故に犯す過ちは一度で終わると思う方が変でしょう。何度も同じような迷惑を掛けられるから……ならば謝罪を受けるよりも、むしろ絶縁した方が後々は楽なのです。

 むろん、野にある善いものを採取するだけでは必要を満たせないことは人類の歴史を遡らなくても解ります……つまり、人を育てる覚悟無くして、豊かな人間関係は望めませんから、みだりに絶縁も選べません。だとしても、被害者の側に立って謝罪の意義を考えると、これはいささか微妙です。加護によるものであれば、謝罪など無くても治るだろうし、未熟さの結果であれば、謝罪を受けても過ちは繰り返されるでしょう……では、誰のために謝罪はあるのか。

 気晴らしのため……その気晴らしを求める被害者もいますが、多くは加害者の気晴らしのために謝罪は存在するのです。

 つまり、謝罪を不要という私は、寛大なのではなく、冷酷なのです。

 さて、怠け癖は人間の本能。そういう見方も出来るでしょうが、霊媒はそれ以外の原因に気がつき……それを口にして嫌われる霊媒在り、口にせずに信用を失う霊媒在り……

 自分の欠点を自覚し、自分を嫌いそうなその時、自分自身と葛藤するだけでは帰って傷が広がります。そういうときには、たとえば、入浴前に自分を省みて、失敗の数だけ、洗面器で冷水を浴びるぐらいの覚悟をなさるべきです。

 自分自身に試練を与え、その報酬に許しを与え、いつまでも失敗を引きずらぬようにする。それを習慣づけることです。

 多くの場合、欠点を直し損ねるのは、自己改革よりも、周囲に頭を下げた方が楽だという心理が働いているからです。…… 謝罪不要といわれて、「嗚呼偽善しゃぶっている相手で良かった」等と思うのは簡単ですが、でも相手の信頼を取り戻せなければ結局多くを失ったままなのですから。

 謝る方が余程楽。その事実に気がつかないから、謝れるときに謝らず、そのくせ、謝っただけでは済まないところで謝って済ませてしまっているのです。

気持ちの切り替え方が難しい

 確かに!! でも、気持ちを切り替えなければ苦しい状態にある時、あなたにはまだチャンスがあるということです。つまり、大切なことを学ばせていただいている最中なのですから。あなたはまだ点から見捨てられてはいないのです。

 帆船時代。船乗りたちは逆風ですら……風上に向かってジグザグに進み、トータルで前進する……推進力に変えてきました。その船乗りたちが一番に恐れたのは無風だったのです。例え、あなたがどんなに努力しても、周囲が全く相手にしてくれなければ、あなたは苦悩を抱えたままじりじりと待ち続けなければいけません。

 操船術の下手なあなたは逆風を災難と嘆き、己を進ませることを諦めてしまいます。錨を降ろし、必死に風向きが変わることを祈る…… でも、逆風は無風よりも有利な状況なのです。何しろそこでは堂々と自己の思うところを表明してもなお、自慢とは受け取られないのですから。自己顕示欲の強い人にしてみれば、順風の時よりもむしろ自己宣伝の好機なのです。


お知らせBy老神いさお。

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