‘循環の一端’ カテゴリーのアーカイブ

経験を積むことが大切です?

2007/02/24

2007年02月24日


静岡オフ会の車中で、心霊思想の本を読んだという、某氏が

「いろいろな経験をするために人は生まれて来た、と書いてあるのを読んで、気持ちが楽になりました」と話し出した。

いや、確かに私の師や、そのまた師も頻繁にそういう表現を使っているが……「それは、ポピュラーな心霊思想だけど、真理とはいえない。何しろ矛盾があるんだ。霊魂同士は経験を共有する事ができると言う一方で、経験する事が大切だという。いったい、共有する事ができるのか、それとも経験が本当に大切なのか?」

「でも、そう信じれば気が楽です」

とりあえずこの辺で、話題をずらした。

・・・・・・・

……信じていられれば幸せだけど、たとえば勤め人がノルマも果たさずに「私はいろいろ経験しました」といって、澄ましていられるか?

たとえば、子供がお腹を空かしているのに、「お父ちゃんがんばったけど、給料もらえなかった。でも経験したからいいだろ」といえるか?

揚げ足取りに聞こえるかもしれないが、地上は、経験を得るためだけでは生き抜けない。確かに経験は死後も持ち越せる貴重な財産ではあるが、地上生活の特質を言い表すのに、経験という表現は不適切ではないか、と思う。

私が理解するのは、「実現するために生まれてきた」……である。想念の中で実現不能な妄想と遊んで暮らす霊魂たちに、真実と向き合わせるチャンスをもたらすのが地上での生である、と思うのだ。

・・・・・・・

……と、聞いたらきっと、気が重くなるだろうな。というわけで、静岡オフ会に向かう道中では、気が重くなったら可哀想なので、あの時は、私の本音はいわずにおいた。

・・・・・・・

畳み掛けるようだけど、「人生の目的は経験」という表現は、霊媒・霊能者――ひいては、通信を送る霊たちにはとても都合のいいものだ。たとえば、何とか楽して成功をつかもうとしている強欲な人を拒むのに便利である。

『楽をするのが人生ではないのだから……』……確かに。したがって、決してでたらめな理屈ではない。実際、苦労すべき苦労を免れる方法はないのだから。

一方で、しなくてもいい苦労までも、進んで背負うのはどうか? なるほどやりたければやるがいい。いや、その努力が報われるかもしれない。……稼ぐための本業や人生の本懐がおろそかにならぬ範囲でならば。……だが熱心家はわが身を省みずに他人の為すべきことに熱中するものだ。

たとえば、他人の金の利殖まで心配したあげくに失敗し、残った金で自分の生活再建を心配する羽目に陥った人などは……いい経験が積めたというべきなのだろうか?

本当に経験が大切なのか? すべての人に大切なのか?……誰の言葉かは知らぬが、「愚者は経験から学び、余は本から学ぶ」という言葉を知って、私はこの霊的真理といわれているらしい「経験を積むために生まれてきた」という言葉を、あしらい言葉とみなすようになった。

無論、経験のすべてが無駄だとはいわない。たとえば美食に関する本を読むより、食べてみたいではないか。その他もろもろ……下品に流れるのを避けるが……本で読むより実際に経験したい事は多々ある。

ましてや、手伝いを必要としている人に向かって本を差し出し、「これを読めばあなたも救われます」という人には、(宗教かぶれの中に多い)……今回のオフ会参加者にはいないが……確かに、経験が不足しているというべきだろう、いや、経験から学ぶ事が足りないというべきか。

ではいったい、人生の目的とは何か?……なにやら、私の支配霊が、良い話題だと口を出したがっているようだが、普遍的な助言を聞き取るには、今夜はもう時間がない。

人の数だけ人生があるのだ。向かうべき結末は決してひとつではありえない。結局、自分が為すべきことを無理なくすばやく感知する力を得、活用し、使いこなせるようになる事が大切だと思う。(その感知する力を、霊性とか、神心などという)

必要なのは苦労する事でも、経験する事でもない。……夢を実現する事だ。

その上で、苦労は、生き方に無駄のある証、人はさまざま経験の中で、最適解を見出していくべきなのである。経験は資材であって製品ではない。経験を加工して生かし、無駄な努力を減らしてこそ、夢の実現に近づくのである。

……と、私は思うのだが……その考えを知ってもなお、あなたは苦労や経験を、何より大切に思うか? もっと、自分の夢の実現を大切にすべきだと思うのだが……それとも夢を忘れてしまったのだろうか?


あれは八岐大蛇だ。

2007/02/22

2007年02月22日


 心霊研究会発足後の浅野和三郎氏の大本教批判は熾烈だ。が、太平洋戦争中の空襲被害や物資欠乏、さらには広島・長崎の原爆被害を知ってもなお、その筆は変らずにいるだろうか。興味のあるところだ。なるほど出口直氏のお筆先の表現は拙かったかも知れない。だが、その誠意が注がれている先を浅野氏が見通していたとは到底、言い得ないとおもう。

 大本教批判も、大本教擁護も、私の念頭にはなく、あえてこの話題は、霊界通信の奥の深さを指摘するに留める。高度な用語を多量に駆使しているからといって、その意図が高尚とは限らないし、幼稚な表現の短文が、えてして的確に真相を言表わしている場合もある。

……さて、結論からいえば、以下に紹介するのは、別段、高尚・高度な内容を紹介しようというのではなく、童話的表現だからといって看過してはいけないということである。


 テレビの報道番組で、中国の話題が取上げられていた。見ている私の霊耳に、かく聞えた。

『かの国等は「八岐大蛇」だ。信用ならぬ』

……いやぁ、古事記・日本書紀ですか?

『そうではない。一つに見えるが、顔・頭が沢山ある。つまり、誰と交渉して良いかが見えない国だ、ということだ。

『すべてがそうだとはいわぬが……ある頭と仲良くなっても、他の頭から狙われる。他の頭とも仲良くしようとすると、仲が良かった頭からも狙われる。全体の論理よりも派閥の論理が優先し、担当者が変れば方針も変る。

『交渉で相手の考えを変えようとしても、他の頭が邪魔をしてうまく行かない。何しろ、派閥抗争に忙しくて、対外的な妥協が出来ずにいるのだから、本質的に交渉の余地はない。かような状況では、相手に理性を求めるのは難しく、ただ、先方の内情が流れ着くままを受入れるしかあるまい。

『そういう内情を抱えていることを指して、「八岐大蛇」に例えたのである。いくら霊界の住人だといって、生きた八岐大蛇を見た事はなく、無意味にその名を使うこともない』

……なるほど、八つの頭、というより、たくさんの頭、一つ一つの頭にはそれなりに理知的な理由があるのだろうけれど、全体としてみると野獣の本能的な反応しかできない、ということ?

『軍事開発(衛星迎撃)が国際的批判の対象、それも軍事的脅威が問題ではなく、環境破壊が問題視されるなど、ナンセンスとしか言いようがない。国威を掲揚しているのだか、卑しめているのか。国を守っているのだか、食いつぶしているのだか……』

……かつての日本も、陸軍は中国と、海軍は米国と戦争を始めて、結局は負けたわけだけど……

『三人寄れば文殊の知恵、とは、助け合ってこその話である。意志の統一がうまく行かなければ、船頭多くして船山に上る、であろう。葛藤は自滅の第一歩だ。そして、葛藤は古今東西ありふれた事である。』

……ところで、北朝鮮の行動なども、八岐大蛇なのだろうか?

『あれは、虎の背に乗る、というべきだ。小心であるほど、一度走り出した席から降りる事も出来ない。皆おびえながら威張っている……相手がおびえている事に気がつかずに迎合する者もいる』


見えるもの、見えないもの

2007/02/15

2007年02月15日


私は普段、眼に見えぬものを扱う仕事をしている。(電気設備の設計ともいう)……そして、どうも眼に見えるものを対象とした職業の人と折り合いがわるい。仕事もかち合うが、価値観も論法もそりが合わない。

たとえば工事中、扉の開く方向を変更したとする。……多くの方々はただ、扉の使い勝手の違いしか思い描かないかも知れないが、電気のスイッチは、取手側に取り付けるのが普通だ。すると、ドアを開けたその手をちょっと動かすだけで電灯が点けられる。……自然な動作として。そして、この位置が変わると扉の蔭になってスイッチが押しにくい。

扉の方向を変更するのは、大工にとっては簡単なこと。簡単ついでに、電気工に、「スイッチを動かせ」と言うのだが……スイッチは壁の内部で電線が繋がっている。

眼に見えるものを扱う者と、眼に見えないもの、壁に隠れているものを扱う者との相互理解は、なかなか難しい。(眼に見える部分だけで事足りる人には、往々配慮が足りないと思うが、先方にも言い分はあるのだろう)

たとえば霊感の持ち主が、二人の霊を見、そう主張したとする。私は思うのだ。『影響を及ぼしているのはその二人だけか?』……手の内を簡単に表すのは素人だ。もしも私が悪霊の親玉なら、手下を交互に襲わせて、何人で祟っているか判らないようにするが……敵(祟られている者)は、見えざる相手(存在しない敵)にまで対策を立てなければならなくなるだろう。

いや、悪意が無く、ただクレームをつけているだけの霊であれば、手の内を安易に表すのは不思議でもないが……それにしてもだ。ただ不愉快だからといって化けて出ることが出来るなら、世の中、もっと心霊に対する認知が多くて良さそうに思う。

たとえば、幼い子供を残した母親、熱愛中に死別した恋人は、なぜ想い人の前に姿を見せることが出来ないのか、不思議に思ったことはないか? 恨みならば化けて出られるのに、愛する人の前に姿を見せられないとしたら、霊とは、愛とは、何と非力なものだろうと思わないか?……どんな仕組があって、生きている人の前に姿を見せる事の出来る霊と、出来ない霊とがあるのだろうか……単純に考えれば、一個人の都合では手に余るのが化けて出ることなのだろう。(実際にそういう霊界通信もある)するとだ、霊が姿を見せたとしたら、その背後にある仕組、または黒幕の意図についてまで思いを巡らせるべきではないか?

霊が見えるという人は、ちゃんとそこまで気を回しているのだろうか?……どうにも私には、霊媒の中にも、見えるものだけを対象にする気性の持ち主と、見えない部分にまで気を回す気性の人があると感じる。

私が内心で『表面的な捉え方だけで』等と思っている相手も、私のことを『何をクドクドとうるさい奴だ』などと想っているのだろうが……。

まあ、その違いは必ずしも、正否の問題とは言い切れない。見方の違いがあればこそ、多くの人が納得しやすい環境が出来るのだから。

だが、車の運転だって、見通しの悪い交差点での飛び出しを警戒しなければならないはず。多くの車は狭い路地もビンビンと走るが……やはり私は、見えないものをおろそかにする人々とは、どうも相性が悪い。


主たる業(カルマ)の在りか

2007/02/07

2007年02月07日


人の思考は合理的であろうとする。無駄なことを嫌い、最短コースで成果を得ようとする。

だが、身体は動かさないと怠くなるし、頭がヒマになればくだらぬ事を考え出す。ヒマであろうと時間が来れば腹が減る。そう、身体(脳や内臓も含めて)は、毎日、一定量の活動を必要とする。現状を維持するためだけでも……である。

人は合理的に行動しようとするが、身体は合理的理由が無くても活動を必要とする。……意志と身体との必然性/利害の違い。ここに大きな矛盾のタネがある。

理由が無ければ身体を動かしたくない。……だが、身体は活動を欲する。衝動に駆られて結局は身体を動かすわけだが、動き出すに当って、思考は身体のわがままに対して、理由をコジツケずにはいられない。

「買い忘れを思い出したからちょっと買い物に!」、「ヒマだから散歩」……という程度ならばまだ良い。ただの思いつきを天啓やお告げ、といった、不思議系 のコジツケ解釈をしたらどうなるか? 非論理的な論理に当たり前に思えるようになると、人として危うい。……変な人と思われるだけならまだ幸せだ。

活動を欲するのは身体だけではない。脳もまた活動を欲する。……妄想を妄想と思える人、「夢見て何が悪い」と開き直れる人であれば、まだ良い。

無駄な考え、非合理的な思考を嫌う人ならどうか……マイナーな思想にかぶれたり、自己中心の思想に走ったり、無闇に論争を好んだり……良識を保っていられるなら幸いだ。

内臓や生理的器官の欲求も難しい。止らぬ飲酒癖は果たして低級霊の誘惑によるものか?……果たしてそれだけなのか?

疲れる恋、不幸な恋はいかにして生まれるか?……淫欲の霊の誘惑によるのか?……果たしてそれだけなのか?

……自分を不幸にするために努力する人。その努力の在り方は決して合理的ではない。理知的でもない。ならば、その動機は一体どこから生じるのか?――悪霊・低級霊? それもあるだろうが……身体・脳・内臓や生理的器官の退屈は侮りがたい。

いや、単なる身体的欲求だけならば害の生じるはずもない。ただ、本来ならば単純極まる身体的欲求に、合理的に解釈しようとして陥る、論理的矛盾こそが重大な問題を引き起こす。

ただの身体的欲求、運動などの発散で解消される類の物……を、大袈裟な話にして、引っ込みがつかなくなっている人の何と多いことか。

本当は単純な問題なのに、引っ込みがつかなくなって大騒ぎにしてしまう……わざわざ自分を不幸にする人々。自分で自分を振り回していては、なるほど難か ら逃れにくい。それを、業が深い、カルマだ、といわれて納得してしまえば……いや、納得してしまうのは、そもそもコジツケ論に弱い人だからだろう。

コジツケ論に弱いだけならばまだ幸せかも知れない。真実よりも迷信の方が人受けする……迷信の方が信じられるという人は決して少なくないのだから。

人間の動機というのは案外にくだらない。……人の動機のくだらなさを知って、幻滅するのは哀れである。身体というのはしょせん、一つの動物。社会性は備えていても獣なのである。それを飼い慣らし、誘導し、有益に働かせるのが人の心、ひいては霊性ではないか!

恥じるべきはくだらぬ動機を持つことではなく、くだらぬ動機に支配されることだ。頑張るためには、自分自身のくだらぬ動機を利用しても良いのである。たとえば努力した後に美味しい物を食べるとか……


酩酊の生む自信

2007/02/05

2007年02月05日


俺は優れている、俺は人とは違う……という気持ばかりが溢れている。だが「何所が?」と問われると返答に詰る。……その自信が論理的な自信ではなく、ただ、肉体的な若さが心にもたらす高揚であることに気が付いていない。

その自信には裏付けがないから容易に傷つく。ただ現実を見せつけられるだけで、浮ついた心は傷つく。つま先立てば危ういという言葉の通りに。そう、酔っぱらいが容易に転ぶように、高揚した心も容易にひっくり返るのだ。

具えた才能・能力と、自己認識との間のバランスが取れるのはいつのことか。

老いて高揚が薄れた先に……若さと力が漲る時季に、若さに酩酊し、高揚して日々を過す。その酔いが覚めた後に残るものは何か? 夢の中だけの、現実には通用しない「偉大な自分」の思い出。

酔いが深いほど、覚めたときの現実が辛い。


いわゆる地縛

2007/02/01

2007年02月01日


たとえ、死後の個性存続を信じていない人でも、

「金はあの世に持っていけない」等という。

そして、死後の個性存続を信じている人でも気が付いていないことがある。

「負目はこの世に置いていけない」事である。

死んでしまえば金や物を返すのはまず無理で、いろいろと償うのも難しい。

持って行けない金を増やしても死ですべてを手放し、持ちきれないほどの負目を増やして死ですべてを背負込む。

たとえ死後の個性存続を信じない人でも、不運が重なれば祟りを思い浮べる。だれもが、この世に未練を残した亡者を恐ろしく感じるのに、この世に未練を残すような生き方を恐れる人はとても少ない。

神の愛を論じる以前に、人には慎むべき事があり、努力すべき事がある。……一部の人々は、手の届く物をおろそかにし、手の届かない物を大切にするが、欲しがりながら追いやるやり方が、人の苦しみの原動力であり、その矛盾が天に昇ることを妨げていることにいつ気が付くだろう?


不器用だから

2007/02/01

2007年02月01日


不器用だから、困ったことに陥る……

無自覚だから、陥るまで気が付かず……

陥っているから、自力が生かせず、ただ諦めるか、救われるかの両極端の中にいる。

何度苦境に陥っても、そこから抜出す方法を学べず、ただ自信だけが失われていく。

・・・・・・・

自分を信じることは大切だ。なんとなれば、自分以外の誰を信じるべきなのか?

だが、信じるためには先ず知るべきだ。……不器用な自分を知ればこそ、早めに手を打つなり、練習するなり、回避するなりの手も選べようものを。

己を盲信することを自信と勘違いしているから、避けられる痛みを、更に痛くして、痛くてたまらないのに、痛くないフリをして生きなければならない。

苦しんだ挙句に、「神も仏もないものだ」とうそぶく……それが、己の盲信の結果とも気が付かずに、天を恨む。

神仏が居ないのではなく、信仰心が歪んでいると気が付かない。……不器用だから、信仰心まで歪む。


謎かけ

2007/01/29

2007年01月29日


この言葉の意味が分るなら、あなたはきっと十年以内に大きな幸せを掴んでいるだろう。

人の手を煩わせる。それこそが孤独でない証だ。

人の手を煩わせる。だからこそ人は孤独となる。

・・・・・・・

一得一失――何かを得るのに代償を支払う。

貪るな。自分の未来を今、食いつぶすな。

明日のために何かを残せる人が、明日、幸せを掴める人なのだ。


異なる見方

2007/01/28

2007年01月28日


人の行為は思わずして大きな影響を及ぼすこともある。

だからといって、自分の行為が相手に及ぼす影響を心配しすぎるのもナンセンスだ。送る側にも責任があり、受取る側にも責任があるのだから。

・・・・・・・

人を信じよといい、信じなくても良いという。

大きな影響があるといい、影響を心配しすぎるなという。

その時々で言うことが違うと、戸惑う人もいる。……だが、人生というのは決断の繰り返しではないか。ただ、同じ事だけを繰り返して生きられるほど人生は単純でない。

私は、人生の指針を与えているのではない。ただ、あなたとは異なるであろう視点を提示しているのだ。違う見方があるということを、あなたが認識すれば、それが最大の成果なのである。


気の持ちよう?

2007/01/26

2007年01月26日


心霊や占いなどの成果を、「気の持ちよう」と切り捨てる人は多い。

ほう……では、「気」とはどう持てばよいのだろう? 不幸な人が幸せになり、病気の人が健康になるような、気の持ちようというのは、たいそう価値があるのではないか?

スポーツマンや音楽家なども、技術を磨くだけでなく、精神修養を大切にする。……気の持ちようを重視する人は案外多い。だが、気の持ちようを知らぬ人はさらに多くはないか? 上記の話題も、本当に気の持ちようを知っている人であれば、具体的な心掛けなどを説明するだろうに。神秘的な事を「気の持ちよう」と、まともに取り上げないが、その一方で、気の持ち用の何たるかを知らない。何のことはない。神秘を学ぶ準備が出来ていないだけだ。……揚げ足をとらんとするのではない。議論の無駄をいうのである。

一方で、他者から「気の持ちよう」といわれて躊躇するような人が、神秘的な事柄に関わるのは決して良いこととは思えない。……なにしろ、気が座っていない。

釈迦は最後に、「自分を州(または灯、つまり心の拠所)とせよ。真理を州とせよ」と説いたというが、神秘への接し方に迷う者は、他者を頼るに、いかなる根拠を持っているのだろう? 信念か、理論的な知識か? そのどちらも持たず、人が「良い」というものに心なびき、人が「悪い」といえば目を背ける。自らの精神修養には無関心で、ただ、神秘を利用しようとしているだけではないか?

利に釣られやすい人ほど騙され易いとは良く聞くが、心構えの出来ていない人が、「利」以外の何を信じるというのだろう? 釣るつもりが釣られはしまいか? 信念や知識が不足すれば、口の上手い人にいいように利用されかねない。 いや、利用されるならまだ幸せかも知れない。……信念や知識は、信じるためだけでなく、真実を適切に理解するためにも必要なのである。不足があれば、正しい相手の言動を誤解して『騙された』と思い込むなら、その過ちはいつ正されるだろう? 誤解が正されるまで延々と間違った行いを続けなければならない……かくも傷つくために神秘に近づく人が多いから、神秘が蔑視される。神秘が賤しいのではなく、卑しい人が神秘に群がりすぎるのである。


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