‘循環の一端’ カテゴリーのアーカイブ

地上で学ぶべきもの

2006/04/16

 そもそも、精神性がすべての事象を生み出し、自己表現の自由な場である霊界から、わざわざ暗く、鈍く、不自由な物質世界に生まれてきたのは一体なぜなのでしょう。……それを考えてみてください。

 人生は魂の修行の場といわれますが、具体的にいうなら、思慮深さと忍耐と工夫する力の育成である事が地上の特質から見て取れます。

 つまり、不自由に負けず、使いにくくても放り出さず、それらを生かす忍耐力。そして、いかなる困苦や逆境をも目的達成の手段に用いる、魂の柔軟性と強さの鍛錬なのです。

 守護霊は霊界にありながら、欲望に囚われ、勘が鈍く、目先のことに囚われて、気分屋な人間を指導していかねばなりません。その守護霊はどの様にして霊性を磨いたのか、どの様なことを重視して霊性を磨いたのかというなら、まさに地上において、忍耐力と柔軟性と強さを鍛えていったのです。

 ですから、私どもが、地上にあって、辛い、苦しいという気持ちを、守護霊はとても良く理解してくれます。しかし、守護霊達も同じ困苦をくぐり抜けてきたのです。私どもを容易に甘やかせてはくれません。


2006-04-16

信じる心

2006/04/16

 自分を信じる事は大切です。それは力を生み出しますから。

 何かを信じる事は大切です。それは力を増しますから。

 しかし、何かを信じても行うことがなければ、霊性の向上も魂の向上もありえません。

 そして充分な霊性を持たないと、信ずるに値するものを見分ける事も出来ません。

 学ぶ事、行う事、そして信じる事、良い人生を生きるためには、バランスが大切です。


2006-04-15

自らが騙す

2006/04/09

2006年 04月 08日


 これでよい、という安易な発想、
 出来ない、という情けない言訳、
 それがどれだけ人生を汚しているか。

「あなたはそれでよい」という言葉が欲しくて、
 自分の責務を背負ってくれる人を求めて、
 他にすがりつく

 騙された、という人の多くは、他(人)を、摂理(仕組)を、言うなれば自己の運命を騙そうとして失敗し、そして悔しがっているのだ。

 払う代償よりも遙かに大きな利益を求めていはしないか。自己の過ちの清算ではなく、幸運を買いたたいて儲けようとしていないか。

……騙されない方法はないか、という問いかけは巧く騙す方法はないか、という下心から出ている。その矛盾に気が付かないから、他の矛盾にも気が付かない。

 つまりは、信じて騙されたと感じた人は、悔しがる前に、隙の解消を心掛けるべきである。

 他に依存するから苦悩が増すのである。答は外にではなく、自分の内にある。それが理解できれば人に騙されることに傷つくことがなくなる。なんとなれば、他人の言動はヒントであって答ではないということだから。答と信じて飲込むから、騙されたと感じるのだ。

 ヒントであるなら、試行錯誤を繰返して、納得のいく部分を取込めばよいのである。

 もっとも、物事を論理ではなく、好き嫌いで判断する気質の人々に、これは有益な助言とは成らないだろう。…… 他人に依存せずには生きられぬ定めの人なのだから。


環境は大同小異。後はテクニックだ。

2006/04/03

2006年 04月 02日


 車で悪路を走るとする。突然ハンドルを取られて車はあらぬ方向に……その原因は果たして、路面の悪さか、操作ミスか、車の故障か、誰かの謀略か。――私自身、霊感をもち、また、霊障に苦しんだ経験もあるから、霊障が無いというつもりは無い。だが人の苦悩の原因を、霊障に求めるのはどうかと思う。

・・・・・・・

 上述、「車で悪路を走る」を比喩としてそれを説明するなら、霊的環境がつまりは道路である。少なくとも道が合っての車であるから、全ての原因は路面に求めることも出来る。ここでわざわざ、「悪路」と限定したのは、世間一般に心霊知識が普及していなくて迷信が多いことを表わしている。

 悪路であるから、操作ミスや故障を誘発しやすくはあるだろう。……だが、道が悪いのは誰もがほぼ、同じ条件である。たとえ心霊知識があろうとも、その心霊知識がいかに磨かれたかを考えるなら、つまり悪因縁が多すぎた結果、必然的に身に付いたと考えれば、人の備えた条件に個人差がありそうでいながら実は大して差がないことに気がつく。

 すると、本当に差が出るのは、操作ミスの有無、故障の有無、では無かろうか。そう気がついたが故に私は、それ以上に心霊知識を掘り下げるよりもむしろ、人としての上手な生き方に改めて研究心を向けることになった。…… むろんその過程はあまりに幼稚であると自認している。(どのレベルかはここでは問題ではない)が、ある意味古典的な智識を再認識して直ちに、もう一段別な視点があることに気がついた。

 実はこれ、心霊相談を通じて深まった理解とも関係がある。……私の見るところ、「悩み多き人」とは、つまり切り替えが下手な人なのだ。

・・・・・・・

 操作ミスや故障の有無は、むろん重要な要素ではあるが、それ以上に重要な要素は、 異常の把握能力なのだ。つまり、操作ミスや故障も、やはり誰にでもあり得ることなのである。ただ、進み方の早い人は、操作ミスをすかさず是正し、また、故障が小さなうちに素早く修理するために被害を最小にしているが故に、他よりも早く進めるのである。

 つまり、悪路の運転において、道の悪さからハンドルが取られる……等ということを問題にするのは、悪路の運転技能を持たぬものがいうことなのだ。

 悪路(人生は険しく)でなおかつ車(身体)は故障が避けられない。

 操作ミスや故障の有無という要因も、人の備えた条件に個人差がありそうでいながら実は大して差がないのである。

・・・・・・・

 すると結局――様々な障害要素があっても、最後は(人生の)運転テクニックの問題に至る―― ということになる。

 だから私は、心霊思想・心霊知識を人類の必修過程となるべきと信じているが、大人が生涯を掛ける程の価値がない事を感じ取っている。 ……それが私の一番の苦痛なのである。もっと冷静・淡泊――つまり、慌てず、着実に進む研究家がもっと増えてくれれば私の負担も減るのだろうに。


葛藤を解決する

2006/03/18

2006年 03月 17日


 伝家の宝刀はみだりに振るうものではない。乱用すればたちまち刃こぼれをしてしまう。……つまり、しまっておくべきものはやはりしまっておくのが良い。だが、持っていることを忘れては意味がない。

 問題解決の英知、特に葛藤の解決法には刃こぼれは起こりえないように思えるが、やはり乱用は禁物なのである。なんとなれば、葛藤するような曲がった心は、曲がった状態を好み、話術でそれを正しても、その話術に心が慣れると無意識に嘘をつき始めるからだ。…… そして当然、忘れてしまっては学んだ意味がない。

 ここで扱うのは葛藤の解決法ではあるが、使わなければ意味がなく、乱用すれば効果がなくなるものである。読んで応用しようと思う方はそれを注意していただきたい。

 

引き篭もりを続ける人に聞く。

「あなたは何をしたいの? したいことがあるなら手伝ってあげるから」

……だが、返ってくるのは葛藤に満ちた言葉の羅列か、さもなくば葛藤で口が利けなくなった挙句の沈黙だろう。

大体において、葛藤もなく生きている人は、葛藤の解決策を知っている人というより、神秘を目にしてもさして疑問を抱くこともなく、盲目的に日々を送る人なのである。そういう人に葛藤を打ち明けたところで、理解を受けずに傷つくだけだ。悩める人は悩まぬ人を鈍感・無神経と憎み、悩まぬ人は悩める人を過敏で面倒と嫌う。……相談する以前に価値観の溝が広がっている。

葛藤する人と向き合い、何もすることの出来ない自分に気がついた人は、自分の歩んできた人生が不毛ではなかったかと恐れてみるべきである。

乱暴に言えば、葛藤とは、好むものが多すぎて、どれも捨てられずにいるものだ。ならば発想を転換するのである。自分が捨てたいものを選ぶのは実に容易だ。では、その中で一番捨てたいものは何であろう……一番不要と思うもの、その反対のものが一番必要なものではないか。

そうやって問題を絞っていけばおのずと葛藤が消えていく。だがこの智恵だって、自分を正そうという気持ちのない人にはまったく役に立たないことである。


世話が足りぬ?

2006/02/28

2006年 02月 27日

「世話が足りぬ」……となぜ思うのか。


 子供っぽい人、大人になりきれていない人が多いという。マナーは悪い、責任感に乏しく、忍耐に欠ける、ワガママで自己中、熱しやすく冷めやすい、幼稚、知識はあっても深みに欠ける……当サイトを訪れる方は、大人であろうと努力なさっていることであろうし、子供っぽいといわれると不快にも感じられるだろう。だが、なぜ大人であるべきなのか? そもそも大人とは何か、何をどう努力すれば良い大人になれるのであろうか。

 この問題提起の意図することはわかる。社会の構成員の人格・資質の低下を問題にしているのだ。では、どのような社会構成員が現代日本に求められているのだろうか? そして、いかなる時代と比べて現代日本が劣っているというのだろう?

 人的・領土的超大国である中国と、資源・技術超大国である米国の双方を同時に相手をした太平洋戦争当時か、圧倒的国力の差がある日清・日露戦争当時か、はたまた、開国と攘夷で内乱を繰り返した幕末期か、外の国は我関せずを決め込んだ鎖国時代か…… 振り返ってみると一長一短、無謀で、はた迷惑な人を指して、大人というのではあるまい。

 かつてB級SF映画を見ていて気がついたのだが、たとえばアメリカの兵隊なら地球の平和のために銃をとれば英雄になれるが、自衛隊員が地球(日本のためでなく)の平和のために銃をとれば、犯罪者にされてしまうだろう。そういう時代に生きている日本人にとって、「大人」とは何であるのか。

 私にはどうもこの、「子供っぽい人、大人になりきれていない人が多い」という表現には、大人げない意図を感じる。つまり、曖昧な「大人」という概念を持ちだして、自分は悪くない、悪いのは子供っぽい奴らだ……と責任転嫁している様に感じるのだ。

 なにも世論と戦おうというのではない。また、良い大人であろうという努力は大切だと私も思う。ただ、設問がまずければ、良い答は得られないのだ。……大人という第一目標はあまり適切とは思えないし、それが解答とも思えない。さらにいうなら目指すべきは、大人というより聖人・君子を目指すべきではないのか。人々が皆、聖人・君子を目指してこそ、未来に希望も持てるだろうに、大人の当て馬に、聖人君子を持ち出すならば、あちこちから、それでは窮屈であるとか、面白味に欠けるなどという野次が出るのが情けなくもある。

 大人として、子供っぽい連中を見下すことは良くても、聖人君子等から凡庸と見下されるのは嫌なのだろう。……それと同じ心理が、「子供っぽい」といわれる人々にも働いて、独自の価値観に逃避し、その間に溝が広がっていることを考えもせずに。

・・・・・・・

 人が為すべき事には、もっと端的な目標があると思う。平易な道のりではないし、完璧な手段でもないが、少なくとも分りやすくはある。

現代人に圧倒的に不足しているのは、何かを、また、誰かを世話する経験である。

 世話を受けるばかりだから、根気が育たず、努力に意義も見つけられず、ワガママも通る。人への思慮が足りなくもなるだろう。だが、根気、努力、思いやりや思慮などは、他の世話をすするのに必須の基礎的能力なのである。おそらく、核家族化、少子化の進行で、子供が失ったのは、世話をする体験ではないか。いかに子供を指導するかに腐心する向きもあるが、知識を押しつけるから反発を生むし、口先だけの倫理観では役に立たぬのである。それよりも、責任を与える方がよほど素直に取り組むだろう。

 たしかに、教師や看護師等も犯罪を起す人はあるが、それは、世話をする経験の大切さへの反例とはならないだろう。なにより、子供達に口だけで命の尊さを説明するよりも、「飼育」などを必修科目にする方が、「百聞は一見にしかず」となるだろう。

・・・・・・・

 周囲の人々を理解する努力もせずに、「孤独だ、誰も私を理解してくれない!」などと嘆く者、他を大切にすることもなく、愛されないと嘆く者、稼ぐ努力もせず、浪費ばかりして金がないと嘆く者……自分を幸せにする努力をしない、というより、どう努力すればいいのか分らず、ただ、泣き叫んでいるだけの人は、なるほど乳を欲しがる赤ん坊的ではある。

 当然、自立を求められるだろうし、自立を促す表現として「大人に成れ」といわれるのも当然ではある。だが、何を持って大人というのか? それを適切に説明できる大人が、日本のどこにいるのだろう。聖人君子への道ならば論語などの古典にヒントを見いだせるかも知れない。だが、一般的な大人となると、そのヒントはどこにあるだろう? いや、マニュアルを読んで慣れるようなものだろうか、大人というのは。

 間違いならば直せばいいが、未熟であるのは直すのではなく、学ぶことしか出来ぬだろう。……大人への道は容易ではなさそうだ。だが少なくとも、何かの世話をすることで会得できることはとても多いと思う。 


親子の確執

2006/02/23

2006年 02月 22日


 この問題に目を奪われると、大局を見失います。悩んで、悩んで、それでも答が得られないのは、その問いが難しいためであるのか、問題の本質を捕らえ違えているのか……

親子の確執

 他人に言われて気にならぬ事でも、親に言われるととても傷つく言葉は多々あります。しかし、親が親をやっているのではなく、人が親をやっているのです。そこに至らぬ点が無いはずもありません。親の勤めを忘れて失言することもあるでしょう。……だがそれを云うなら、あなたは子としての本分を常に尽くしているのでしょうか?

 互いに事情を持ち、互いに言い分もあります。……細々としたことを突きつけあっても問題は拗れるばかり、拗れるような事ならば考え、悩み、そして論じる価値がありません。互いに人として、未熟な親、未熟な子として努めるなら、互いの至らなさは果たして責めるべき事なのか、いたわり合うべき所なのか、どちらでしょう?

 大地の周囲を太陽が回るのか……太陽の周囲をを地球が回るのか、それとも太陽と地球が互いに巡りあっているのか、その運動の見かけは似ていてもよく見れば違うのです。

 立場は違えど、互いに人生を磨きあう仲なのです。罵倒で魂を磨くのか、それとも……


特別なのは死ではなく生

2006/02/23

2006年 02月 22日

感官の牢獄……特別なのは死ではなく生


 それまでは霊を恐ろしいものと感じていたご婦人が、ご主人の死後、死後の個性存続を信じるようになり、霊への恐怖が無くなった、という。

 ご主人がお亡くなりになったことについて、お悔やみを申し上げるなら、床に溢れるほど涙がこぼれるのではないか、と思えるほど、受取ったメールは水色に感じられた。

 悲痛、というのではない。ただ、悲しみを感じるのだ。今後の生活について不安もあろうが、ただ、私の感じたままを言うなら、光明は差している。慎ましい方のようだから、さほどの不自由はなさそうというのが一つの慰めであろうか。もっとも、当人の気休めになるかどうかは分らない。

 ただ、床に入る前に書き残しておきたいことがある。

感官の牢獄

 マイヤースの霊界通信「永遠の大道」中に「感官の牢獄」なる言葉がある。

 つまり人は、牢獄に閉じこめられ、五感というわずかな隙間から世界を眺めている様なものだというのだ。……この言葉は非常に滑稽である。なぜなら、大抵の人々は、五感に感じられるもののみを真実と信じて、それ以外を妄想と信じようとしているのだから。つまり、己が牢獄に閉じこめられていることを大抵の人々は信じようとしないのである。

 だが、ある日突然、大切な人、失いたくない人が居なくなってしまった。果たしてそれは、外に連れ出されてしまったのか、それとも単に消え去ってしまったのか……強く愛するものを失った人ほど、外の存在、つまり「死後の世界」の存在を強く信じようとする。そう信じる人を慰める人は、たとえ自分が信じていなくても、強いて否定しようとはしないだろう。その優しい嘘の中で人は往々迷信に陥る。死後の世界にいる人をいかに助ければよいのだろうか、と。

・・・・・

 人の五感が感じられるだけが世界のすべてであるなら、私たちはその範囲内で自由であろう。だが、もしも「外」、つまり地上の生の他にも生活があるなら、私たちが自由と信じるそれは、一体どれだけ自由であるのだろうか? いや、露骨に云うなら、私たちは本当に自由であるのだろうか?

 もしも死後の個性存続が事実であるなら、霊魂成るものは死して突然生じるはずもない。つまり人は永遠に霊魂であり、時たま、肉体を持つに過ぎない。ならば霊魂の本質とは、死後であって、肉体を持っている時ではない。

 すると、死は特別なことではない。特別なのは生きることだ。生きることが特別であるから、共に生きられない死別が、悲しいのは避けがたい事実であるし、同情に値する現実でもある。

 だが、死者を心配するよりも、先ず、生の本質、生の持つ重大さ、生の孕む沢山の危険性を知らぬまま、生きている自分を心配することが必要では無かろうか。

・・・・・

 整理する――死を明らかにしなくとも、又何ら準備しなくとも人はいずれ死に至る。だが、生は様々な手間暇を掛けなければ容易に失われるのである。死を研究することは、つまり生の意義を明らかにするのでなければ意味がないと思う。少なくとも生きている間は。

 繰り返すが、特別なのは死ではなく、生である。同情すべきは死者ではなく生者なのである。だが、退廃的な人というのは確かに存在する。つまり、大変なのは生きることであるのに、それでもなお、死者が生者に助けを求める事もあるだろう。だが、それは往々、道理に合わぬのだ。少なくとも公平ではないし、公平でないことを強いる者に正義はないのである。

 生死を超えた協力関係までも否定するものではないが、己の責務を知らずに放棄して、他者に尽すのもナンセンスである。まあ、そんなことは本来どうでも良い。

 私が大切に思うのは、人は死して突然に霊魂になるのではなく、生きている今も霊魂のままであるということだ。―― 愛する人をどれほど大切に思ってみても、それはしょせん、五感というわずかな隙間から得た価値観に過ぎない(のかも)知れないのだ。自分を閉じこめたままにしてはいけない。少なくとも、霊魂の存在を信じる人は。更にいえば、大切な人を持っている人は、なおのこと、五感を超えた絆を育てるべきである。


神は愛より大なり(太上は天を師とし)

2006/02/21

2006年 02月 20日


「言志四録」なる本がある。従来から注目していたが手に取ってみるチャンスがなかった。ところが先日、書店で見つけてパラパラとページをめくってみた。結論からいえば購入には至らなかった。つまらなかったのではなくここ数ヵ月間の本代がかさみすぎていたからだ。まあ、それはさておき…… たまたま開いたページにかく記載されていた。

「太上は天を師とし、其の次は人を師とし、其の次は経を師とす」

 皮肉な想いに、思わず笑みがこぼれてしまった。心霊家足るもの、常に天に目を向け、天の言葉に耳を傾け、天の意志に従うように勉めなければならないと自認していたからだ。一方で残念に思うのは、書物至上主義や、教主至上主義的な人々の存在である。受売りを自慢し、受売りだけで充分とし、受売りに反するものをすべて拒絶する人々など面白みもない。どうせならオリジナルと接したいし、読む者、聞く者に受売りを強いるような人の言葉なら聴く時間も勿体ないと思うからだ。

 ところで(実はここからが本題だ)、この文章をまとめるに当って、なにぶん購入していない書籍の内容なので、うろ覚えを廃するためにネットで検索をしてみところ、不可思議に感じたことがある。この太上(最上の人)が師とする「天」の解釈だ。

 ちなみに、「人を師とし」とは、つまり教師について学ぶと読み替えて問題はないし、「経を師とす」とは、経典、又は書物と読み替えても問題はないと思う。なんとなれば表現の問題であってそれぞれの読換えは事実上等価であるから。問題なのは、「天を師とし」だ。

 一書に曰く「自然から学ぶ」又別な書に曰く「宇宙の真理から学ぶ」 ……これらの解釈は果たして適切なのだろうか。経が、書物を表わすのは単なる用語上の違いに過ぎない。だが、天という言葉を「自然」と読み替え、または、「宇宙の真理」と読み替えるのかなり乱暴な解釈に思える。……まあ、「天」の思想が抽象的に過ぎるから、一般向けにかように解説するのは必然的かも知れないが。

 マイヤースからの霊界通信である、「永遠の大道」中に、「神は愛より大なり」 という一節がある。これは、「神は愛である」という従来の言語表現に疑問を提示した結果である。それをした智識として言志四録に思う。

「天は自然より大なり」そして、「天は宇宙の真理より大なり」と。

 もしも「天」が「自然」・「真理」と等価であるならなぜ敢えて天という言葉を用いるのか。まあ、私も含めて概ねの人にとってその差はさしたるものではないだろう。ただ、皮肉なことにこれだけは提示できそうだ。

「太上は天を師とし、其の次は人を師とし、其の次は経を師とす」……これを読み、そして、天について、「自然」であるとか、「宇宙の真理」であるとかの解釈を示した者は、果たして経を師としているのか、人を師としているのか、それとも天を師としているのだろうか?

 私は、この一文を読んで、経ではなく天を師にしたいものだと切に感じた。


何を通信するかが大切なのだ。

2006/01/31

2006年 01月 30日


 良い電話機を持っている人が、友人に恵まれているとは限らない。……するとせっかくのその電話機は、あまり意義のある会話には用いられぬことだろう。だが良い友人に恵まれた人の電話なら、たとえボロくて雑音だらけで聞き取りにくくても有意義な会話に用いられるに違いない。

 大切なのは手段ではなく、目的だ。つまり、霊感が大切なのではなく、何を通信するかが大切なのだ。

 時折、他者の霊媒能力に批判的な意見を目にする。批判するその人の霊媒能力は果たしていかほどのものだろうか? 心霊知識の持ち主は、大多数がいう「誰もが霊媒能力を持っているが、ただ、生かせていないのだ」……と。無論、心霊詐欺師までこの弁法で庇おうとは思わない。だが、詐欺師というのはエセ霊媒のみがするものなのか? いや、エセ霊媒以外の詐欺師もいるのである。つまりは人の問題なのだ。それゆえ「霊媒だから○○だ」と決めつけるのは、その論者の心底に妬みがある等とほじくり返すまでもない。表面明らかに差別的であり、才能ハラスメントでしかない。

 宗教や心霊に関心を持つ人ほど、どうも人権について無思慮な人が多く見られると思うのは私だけであろうか? だがそういう人権に無思慮な……つまり独り善がりな意見に流されることなく、霊的才能を自覚なさった方は、どうか着実に、そして静かに霊的才能を錬磨なさっていただきたく思う。くれぐれも身勝手な意見に心乱されることなく、同時に、闘争心に負けることなく修行を収めていただきたい。

 だいたい、他人の足を引こうとするのは、生きている人も死者の魂も、皆コンプレックスの塊、ヒガミ根性の結晶だ。そういう波動に身を晒しては心身の健康を損なうし、進んで守護霊からはぐれて、わざわざ迷子になるようなものだ。

 無論、慎重さは大切だが、魂の進むべき道は、永遠修行の大道なのだから、いうまでもなく、あれもダメ、これもダメ、あんなのダメ、それもダメ、と批判的意見が多い境涯などに真実・光の道などあるはずもない。

崖を飛べという人を信じろとはいわない。だが、道を下れという人も信じるべきではない。

 急な坂道は頂上への近道……だが、楽だからといって立ち止まり、または、下り道ばかりを選べば、どうあっても山を登るはずもない。

 ・・・

 私よりも霊感が強いのに、それを生かすチャンスに恵まれていない友人が、今頑張っているらしい。近況を知らせるメールを受け取った日はとても嬉しかった。その後、文献データの整理をしていたら、ふっと、ある資料のところで手が止り、懐かしい声で私にこう語りかけた。「あの子に送ってあげなさい」……可能な限りすみやかにそれに従った。おまけにたまたま受けていた相談先にも送ってしまった。

 資料の内容を大雑把にいえば、「人に接するには、機・度・間がある」ということだ。機とはチャンス、度とは回数、間とは……説明が難しいが、これがない人を間抜けという……そして、機・度・間を生かせるのは、呼吸の静かな人だという。すっかり忘れていた話だ。だが読み返してみて、

嗚呼!! と思う。

 同じことを言うにも愚かな私なら、心の静かな人というだろう。だが誰が好きこのんで心を乱すものか。――心の乱れに、心を乱せば救いようもないが、息を整えることで心の乱れも最小に出来るのである。こういう生きた知恵こそ語り継ぐだけの価値がある。

 ・・・

 私も屁理屈屋であるからこそ、屁理屈を止めぬ愚者を嫌うし、屁理屈を超越した人を心底敬愛する。そして、故人であるところの我が心の師(霊媒の師はまだ生きております)の言葉を素直に喜び聞いてくれたこの友人を私は祝福せずにはいられない。

がんばろうな!!


お知らせBy老神いさお。

・PC再起動成功。
 動かなかったのは湿気のせいか、RAMを抜き差ししたら無事に再起動しました。

・サイト再構築中
移行途中のデータが時折、トップページに掲載されますが、編集作業の都合ですので、今しばらくご容赦ください。旧作については、本文右上に日付が記載されます。
 (最近は復旧する暇がなくて新作が多いですが。)

・東京オフ会: 
 7月度の東京オフ会は7月10日(土)
 に、開催いたします。

・東京オフ会: 
 8月度の東京オフ会は8月14日(土)
 に、開催いたします。

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 7月度の静岡オフ会は7月17日(土)・18日(日)を予定しています。(申し訳ありませんが、会場は未確保で代替日がなく、中止するかもしれません。)

・大阪オフ会:
 次回の大阪オフ会は10月の予定です。

・ページ更新
 私事多忙で復旧が滞っております。

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