‘循環の一端’ カテゴリーのアーカイブ

拗らす人

2010/04/09

自分を責める

 他者から責められるのは辛い。・・・赤の他人よりも親に責められるのはもっと辛いが、それは別の話題。・・・とりあえず、他者から責められるのが辛くても、46時中顔をつき合わしているはずも無く、人には大抵、逃げ場がある事を忘れてはいけない。

  が、自分が自分を責めたらどうか。人は逃げ場を失う。

 他者の責めを真に受けて、自分で自分を責める。・・・それでは辛い。辛くてしかも逃げ場が無ければ、あなたならどうするか?

 自己欺瞞?、責任転嫁? まあ、頭を切り替えてさっさと忘れるのが良いが・・・それがつまり、逃げ場があるということだ。

 あなたは、自分を責めていないか? 心の中で言い訳を繰り返していないか。嘘を繰り返していないか。物事を拗らせていないか。

 仕方の無いことをガタガタ言うな・・・自分の大切なものなら責めるよりも庇え、自分を自分で庇わずに、誰が自分を庇ってくれるのか。

 あなたが苦しんでいるのはなぜか?

 誰か他者から責められているのか? 他者ならば庇うことも出来よう。だが、自分で自分を責めている人が、一体誰が庇えるのか。

・・・・・・・

 つまり、そういうことである。解決できる問題は解決できても、解決できない問題は解決できない、なのになぜ、人はわざわざ問題を拗らせるのか。

 人々は、その抱える問題に悩む。だが、本当に手当てが必要なのは悩みを拗らせるその人の性(さが)であろうに。

 ああ、つまり、この手の問題には神がかりも役に立たない。

 親子の場合

 ところで、自分で責めるほどには辛くないとしても、親に責められるのは辛い。で、親に責められた子はどうするのか、といえば・・・子供の反抗に悩む親は多い。が、ひょっとして子供を責めてはいないか・・・自分も気づかぬうちに、自分が気づかぬ方法で。もしくは、自分の意図せぬ方法、または拗らせてしまって。

 愚か

 苦しみから一刻も早く逃れたい気持ちは良くわかる。だが、逃れるよりもまず解決すべきである。解決を心がけずにただ逃げようとして、結果、拗らせ、苦しみを増しては本末転倒であろう。まあ、そういう人を指して愚かという言葉があるのは不愉快でも心に留めておくほうが良い。

 つまるところ愚か者を救う術は無く、ただ、知恵をつける事のみが逆境を救うのであるから。・・・それは一見当たり前のようではあるが、同時に苦しみが伴うことを忘れてはいけない。とくに、当たり前の事柄を、他者に強いようとする者は。

 ところで、往々賢そうな人も特定の事柄には愚かであるものだが、愚かな人に賢さを期待しないほうがいい。大抵の愚者は、救いの手を差し伸べられてもなお、同じ過ちを繰り返したがるし、心底救いを求めながらも、自分の過ちを改めようとしないからだ。

 拗らせる・・・本来、物事が上手く行くほうが稀なのである。種モミもまかない水田に豊作を期待するほうが愚かなはずだ。が、実にそういう不精な人ほど、多くの助けを集めているのに、どうしてこうもたくさんの助けがあってなお、人は不幸になれるのだろうかと、不思議に思わずにいられない。

(蛇足であるが。ゆえに、不幸な人に同情することは慎むべきだ。それは相手の守護霊への侮辱であるし、相手の拗らせる能力を過小評価していると思えるからだ。)

カルマ・頑張ってもダメなら!?

2010/02/28

2010年 2月 27日


 入浴中に女性の霊から話しかけられた。興味深いが、概要を聞いているうちに心配になってきた。話を曲解する人が出ないか? ……この通信霊に相談したところ、「半年ほど寝かせておけば」というので、忘れても困るし、とりあえずパスワード保護をして公開することとした。

 とはいえ、勿体振るほどの内容でもない。俗に言う、口伝に属する話題である。

 つまり、当たり前な内容であるのに、気がつかない人は気がつかず、気付く準備の出来ている人にのみ有益な内容なのである。 そして下書き後に気がついた。もとより読み手を選ぶ内容であるから、別に隠すほどの話ではない。というわけで、一時パスワード保護をしたが、一般公開に変更した。


 とても叶えたい願いがあるのに、頑張っても上手くいかない。 ……だからもっと頑張る。

 さらに頑張って上手く行くならそれで良し。だが上手くいかなければ? ……さらに頑張る?

 まあ、口先ばかりの横着者ならば、そういう選択もある。 だが、物事には程々(ほどほど)が有る。のんびりしても、また、焦っても上手くいかないことは決して少なくない。

 さて、果たして努力が足りなかったのか。それとも急ぎすぎたのか。または、焦りすぎたのか。 つまりは、1、もっと頑張るべきか、 2、少し落ち着くべきか……さて、どちらだろう?

  この二つの見極めがとても大切なのは言うまでもない。なにしろ、同じ目標に正反対の二つの選択肢が有るのだから。 だが念のため。

 私は上に例題を掲げたのではなく、ただ単に選択肢の存在を示したのみである。つまり、状況に応じて努力の程度、速度を調節している人であるなら、わざわざ指摘するまでもない話であり、それを例題として受け止め、どちらだろう、等と考えた人であれば、上述の二つの選択、つまり、頑張るか、落ち着くか、という話以前に心に止めて置くべき話がある。……その話こそが本題だ。

   もっと頑張るべき……のんびり屋も

   落ち着くべき……焦り屋も 共に気付くべきことが有る。

あなたは、理・知以外の何に振り回されて ……いるのか?

 さらにいえば、願いの成就に最適な方法を取れないあなたは……果たして何のために努力しているのだろう?

 苦しまない生き方が有るとしても、苦しむ人は苦しむ。結局、自分で選んでいるのである。

「イヤ、私は苦しむつもりなどない!!」と、あえて言う人もいるだろうが、知る人ぞ知る……私が問題として指摘しているのは、「苦しまないようにしようと努力して、でも、苦しむのは何故か?」という、いつもの話題なのである。

最もいつもの通り、結論は出さないが。

 私がここに結論的な意見を書き留めなくても、気付く人は直して不幸を退け、気づかぬ人は私が結論づけても気付くことはない。

 その差は実に、自分の努力で答えを見つけるか、他者の努力、ひいては実力以上の答えを求めるかの違いなのだが……自分の器量・実力を知っているものなら、誤るはずのない選択……端的にいえば、世の中には、得られるはずのないものを追いかける定めの人がいると言うことでもある。 すると、気づいた人には夢との決別が必要であり、気づかぬ人には、さらなる苦しみが未来、いや気づかぬだけで足下にすでに危機があるのだろう。


 

 

 

 嫌味のようで申し訳ないが……もう少し付け加える。 いわゆる苦しみには、(成功に至る道の)過程の苦しみと、(至らぬさ故の)結果としての苦しみがある。……あなたの苦しみは、そのどちらであろう?

 言うまでもなく、過程の苦しみはいずれ報われ、結果としての苦しみは、改めることなければ消えることのなく、地獄の亡者の苦しみと同種のもので、死後も苦しみが続く。

 あなたは何のために苦しむのか……正しい努力の結果として幸せを得るためか、はたまた、姑息・あくどい手段で幸せをつかみそこねるためか?


 まあ、悩むのも青春の内か?

迷いの解消・前は後ろの正反対(新編集)

2010/01/17

前は後ろの正反対

2004年 06月 17日

 前を見れば欲が出る。あれもしたい、これもしたい。

 前を見るから脇道に入りたがる……一体前ってどっちだろう?

 一生懸命に生きるから、どうしたいのかが判らなくなる。

 そんな時は真後ろを向いてみる。自分が一番イヤな選択肢は何であるか? それを真剣に見つめてみる。そして、その正反対を見てみると……自分が絶対に目をそらしてはいけない前が見る。

 一刻も早く、一歩でも前に。そう思う気持ちが道をそらす。

 真っ直ぐな道より、近道はないというのに。頭で判っても気がつけば曲がっている。曲がっていることに気がつかずに、道が見えないと絶望する。迷っているのではなく自分を信じていないだけ。自分を信じずにいては、自信がなくなるのは当たり前だ。


迷いは万病の元

2004年 07月 13日

「君は迷いが多いね」と指摘されてもピンと来ない人も、設問を逆さにしてみるとわかりやすいもの。「打ち込んでいる物がないでしょう」違いますか?

 何かに打ち込んでいる人は、自分の力の大部分を目的に注ぎ込めます。ゆえに猛烈な力を発揮できる物ですが、迷っている人はいつまでも足踏みを続けます。迷って足踏みをしていると、前に進まないのだから楽なようにも錯覚するけれど、実は泥沼に落ちた自動車宜しく、エンジンを吹かしても車輪は空回りを続けるようなもので、浪費される活力は相当な物なのです。……迷うことに焦るから……迷った時には様子を見る。様子を見るというのは、一念専心休むことが大事なのです。身動きできなければ精神統一するぐらいの気持ちが大切です。それが出来なければ、全力疾走している人よりも心身をすり減らすのが迷いだとおもうべきです。これは全く、迷いを万病の元と呼んでも差し支えないほどです。


衣食足りて礼節を知る

2004年 07月 13日

 衣食足りて礼節を知る――といいます。豊かさと善良さは比例するというのです。これは反対にも働きます。つまり衣食が足らず礼節を失う――というわけです。特に小心な人ほど……と表現されて、「ああ、自分のことか」と思える人は幸いですが、ともかく、僅かな不足、欠乏、不安、などから、衝動的な行動に打って出て、挙げ句の果てに自分の立場をますます悪くする人がいます。

 まずい!――と感じたならば、自分の立場が良くなるように工夫すべきなのに、ますます悪くなるようにがんばってしまう。これはつまり、迷いが迷いを呼んでいる状態です。


迷いの原因

2004年 07月 13日

 知識の不足が迷いを呼ぶ……というのは、ありがちな解釈です。確かに、知識の不足も迷いの原因の一つには違いないのですが、もっと大きな要因は、理想と現実のギャップに求めることが出来ます。つまり、人は理想の実現に困難さを感じると、ついつい、理想と現実を結びつけるような奇抜なアイデア(というより妄想)を弄んでしまうわけです。

 これを業《カルマ》に振り回される等と呼ぶのですが、自分の欲が人を迷わせるというわけです。

・・・・・・・

 穏便とはいいがたい話です。迷いの主たる原因が欲にあるとします。すると、迷いを断つためには、まず欲を断つ必要が出てきます。欲さえ断てれば後は摂理、すなわち自然の法則に任せるだけで、自ずと真理の大道に合流していくわけです。

 ところが、どうしても欲を断てないとすると、迷いも断つことが出来ません。しかし、人は自分の欲の強いことには往々我慢が出来ますが、自分の迷いの強いことは往々我慢しがたいものです。すると、人は迷っていたことを忘れようとします。つまりは、ボーっとしていればいいのですから、迷いを忘れるのは比較的簡単です。

 それでも問題が残ります。迷いは人の活力を浪費するのです。そして、迷いを忘れ、浪費も忘れたとしても……実際に浪費は続きます。疲れた、気力が萎える、めんどくさい、誰かに頼りたい、大事にされたい。更にあなたが相対的な情念を理解できるならこうもいえます。自分が相手を大事にする以上に、相手から大事にされたい。自分が相手を愛する以上に、相手から愛されたい。

 これらは、迷いを忘れた迷い人の症状です。そして魂はゆっくりと堕落していきます。

 迷いの苦しみに欲を断てる人は、すなわち人生の試練をこなせる人です。反対に、欲を断てぬ人は、試練を自らの躓きに変える人です。ある人にとってのチャンスが、別の人の災難となる。人はこうしてふるいにかけられています。これをして無情というのは簡単ですが、宇宙は広くても、人類が使える資源は限られているのです。限られている以上、ふるいがあるのは避けがたいのですよ。


工夫の無さは迷いの証

2004年 07月 13日

 押してダメなら引いてみな――うまく行かないなら、無理をするよりも工夫すべきです。やり方を変えてみたり、ちょっと間をおいてみたり、無理をしても自他共に傷つくだけなのですから。

 ところが、押してダメならもっと押せ――と努力する人の多いこと。それでも開かなければ、人の助けまで借りて更に押そうとする。引いたりズラしたりすれば簡単に開く仕掛けであっても……このような人は無益な苦悩を生み出します。そして、無益な苦悩を人々に振りまきます。

 身近にこういう人がいて、縁が切れなければ……無益な苦悩以前に、自分の因縁に苦悩してしまうのが霊能者の苦労と言えましょうか。


ヒントを遠慮して答えは欲しがる迷い

2004年 07月 14日

 心の迷いが起因する問題について、いくつか相談を頂いております。しかしながら、霊査がなかなか出てきません。では、回答以前に何を語るべきかと探ってみますと、こういう事なのです。

 相談者の方は、気を遣い、ヘルプを乱用しないつもりで、霊媒(老神いさお)に相談するのを堪えている。そして、行き詰まって相談するが、それは結局、問題集に取り組んで回答を見るのと変わりがないというのです。なぜ、ヒントを見ないのか。

 ヒントを見ることを遠慮しながら、でも、答えを見ようとする。その間の相談者の努力とはただ迷いの生み出す苦しみに耐えるだけで、ちっとも成長がない。大事なのはヒントであって、答えではないのです。

 にもかかわらず、皆様は、ヒントは遠慮して答えを求める。……というのも、欲を棄てられず、また迷うことを棄てられないから、ということです。


人の迷いを背負い込む

2004年 07月 14日

 前述、「迷いを忘れた迷い人」――なる者がいたとします。自分自身は迷いを忘れても、迷いを棄てたわけではありませんから、そこにどうしても矛盾が生じます。その矛盾のしわ寄せを一人で背負うのは自滅行為ですが、ありがたいことに、又は、とても迷惑なことに、人は一人で生きられず、家族や社会の中で暮らしています。するとつまり、自分の生み出す矛盾や葛藤を、第三者に押しつけられる場面が往々存在し、それが悲劇の源となっていることを散見いたします。

 迷いの生み出す問題を解決するためには、迷いを棄てるほか有りません。しかし、誰かに押しつけられるなら、迷いが生み出す苦しみからは逃れることが出来ます。そして……苦しくないなら待つことも辛くはありませんね。

 迷いは苦しいからこそ、迷いを棄てようとする……冷酷なようで破滅を避ける仕組みがそこにはあるのに、迷いの苦しみだけを誰かに押しつけてしまえるから、迷いを棄てられずに魂の破滅を招くことが生じるわけです。

 自分の愛しい人の矛盾や葛藤を受け止める……一見、利他的な行為ではありますが、でも、因果応報、自らの迷いは自らが解決せねばならぬのに、迷いの苦痛を逃れたら、迷いを棄てることがますます出来なくなるもの。恋人や親兄弟の業《カルマ》を消すならいざ知らず、ただ苦悩ばかりを預って、利子を付けて返すのでは残酷な話です。

 表面的にいうならば、人は業《カルマ》よりも苦悩を嫌いますから、ただ、苦悩を取り去ることを善として、苦痛を伴い業《カルマ》の消滅は嫌がるのが普通です。そうして人々は愛する人々と一緒に「危地」を進むわけです。――感情的な不安よりも、真実の危険を軽視するなんて、私には耐え難いことですが、それが世間の良識であり、覚者だろうと抗いがたい強制力を持った誤解がそこにあるわけです。


人の迷いをなぞる

2004年 07月 14日

 まったく、まったく。迷いから醒めるには何が必要なのでしょうか? 人類の歴史はおそらくは迷いの歴史。ならば、迷いから抜け出る手だては、いくらでもヒントが見つかりそうな物……ええ、有るのです。ただ、迷える人が考えたことなら、それは迷いをますます深めるような表現を多用しているのが当たり前。

 いや、解脱者もいるけれどね。彼曰く「色即是空、空即是色」

 結局、迷いを棄てた人だけが理解できそうで、迷える人はますます訳の分からぬ言葉に出会ってしまう。

 要するに、迷える人が解脱しようとすれば、人の迷いをなぞることになります。すると、自分の迷いの他に人の迷いまで背負うことになるのです。……勉強で迷いを断つのは難しいものです。


心で、心の迷いは解きがたい

2004年 07月 14日

 前述のように、迷いに関しての相談をいくつか受けました。そして、その霊査はなかなか得られません。それは心の問題を、ただ心だけで解決しようとするから生じるのだと私は思います。

 簡単なことから、行動に移せば、それだけで糸口が見つかり、突破口が広がっていく。案外そういう物なのです。

 ある人の霊査も、なかなか降りずに心配していたら、先方からオフ会参加の打診がありました。すると途端に霊査が降り始めたりして、結局、行動しようとしたことが呼び水になったのでしょうね。もっとも、オフ会の準備に忙しくて、まだ筆記していませんが。

 迷える時は、出来ることから行動を始めるべきです。行動しながら考えることが良い。つまり、人は、考えすぎを防ぐ仕組みを持っているのです。自分を守る仕組みを寝かせておいて、苦しい、助けてというのは、ナンセンスというより、危険なことかも知れませんね。


痛い相談

2004年 07月 15日

 ここ数日、『迷い』をテーマにした更新を続けています。私としてはこんな辛気くさい……でも重要なテーマよりも、取りかかりたいテーマがいくつか出かかっているので心掛かりなのですが、必要な手順を省く事は後々面倒の種となる事を知らないわけではありません。

 迷いの生み出す苦痛について、霊感の鈍い方々は、「苦痛』として自覚していない場合も散見します。ところが、これを霊媒などが共感すると、胃の周囲が痛くなるのでやっかいです。つまり、霊媒能力の強い人が、『あの人、どうしているかな?』……などと思うと、とたんに自分の胃が痛くなるわけです。

 まあ、痛みを感じる事に恐怖するようでは霊媒はつとまりません。本当の交信は、感覚や体験の共有という形で行われるのですから、痛みを表現しようとする霊が居たら、その痛みをそのまま感じるのが霊界での交信なのです。胃が痛くなる相手が何人か居います。

 つまり、交霊で痛みを感じるのは、地上で、痛みに関する話をするのと同じ事です。別段自分の身体に悪いところがあるわけで成し、交信をやめればたちどころに痛みが消えるので、じたばたするほどの事もありません。

 ところが、特に人間相手で困るのは、交霊と比べて話がしつこくなりがちで、しかも、相手の切り替えが下手だから、いつまでも痛みが伝わってくる事です。さらに悪い事に、精神的な痛みの感じ方というのは非常に個人差があり、当人はせいぜいが不平不満の解消程度しか認識していなくても、その話を聞く霊媒には激痛が感じられる場合がある事です。幼少時の体験が原因だったりすると、もう痛みになれて悪夢を見たり、無意識に自傷行為に走ったりする程度で、自分の抱えている問題を適切に認識できない場合があるのです。

 こういう場合、当人にしてみれば、ただ愚痴を聞いてもらいたいだけなのですが、それに付き合わされる霊媒にしたらたまりません。愚痴を聞いているだけなら何年も、何十年もその苦しみを共有させられるのですから、うんざりです。特に、当事者が問題解決に乗り気でなければ、痛みに耐える事が不毛な努力に過ぎないのですから。

 もう一言付け加えるなら、人間の持ち時間には限りがあります。どうせ不毛な事をするなら楽しい事をしたいし、どうせ耐えるなら有益な事をしたいものだ――そうは思いませんか? 私は強く、強くそう思います。

・・・・・・・

 さて、強く痛みを生じる相談が三件ほど寄せられています(中には相談の自覚がないが)。例によって詳細は書けませんし、そもそも痛みを生じるという事は、当人が解決するのに迷いがある事を暗示しています。というわけで、直接のお返事の他に、相談者を想定しつつ、普遍的な回答をする事は、冷静に問題を受け止める良いチャンスかもしれません。

Q「願望成就しない。自分には縁がないと諦めた。」

 適切な譬喩とは申せませんが、良く引き合いに出す話を流用致します。

 「お金持ちになりたい」という願望が成就しない人がいます。障害を明らかにしようと、「なぜお金持ちになりたいのか?」と問うと、「もっとお金を使いたいからだ」と答える。……使っていたら貯まるはずがありません。まして、安物買いの銭失いというわけで、お金の使い方次第では効率の悪い事、おびだたしくもあります。

 この「願望が成就しない」という件も、守護霊様の意見とは別に、私が霊査致しましても、どうも無駄な事に力を注ぎすぎて、肝心な部分に力不足を感じます。

 それは結局のところ、正しい努力をしているというより、自分のカルマに振り回されている状況といえましょう。

 すなわち、自分が幸せになるための願望成就ではなく、自分の欲に引きずり回されている状況での願望成就……すなわち、不幸になるための努力の過程にあるのだと私は判断致します。

 もっとも、あなたの守護霊の判断と私の判断の違いは、視点の違いに過ぎず、問題は縁の有無というより、時機を失して、次の時機がまだ先にあるという事です。待つのもつらいが、待つ間にもすべき事があります。そして、待ち時間を有効に使ったものだけがチャンスに遭遇してそれを無駄にしないのです。

Q「伴侶との行き違いについて。」

 心霊相談を休業する以前から、恋愛相談などはお断りしてきましたが、家族・特に夫婦間の問題や、恋人との間の問題についても、相談したくても相談できずにいらっしゃる方、また、断りの対象になっている事を失念していらっしゃる方などがあります。

 大事な事は、相手の心をどうにかしようとするのは邪である、そして、邪な事を手伝わせようとするのはもっと邪である。という事なのです。

 人生の伴侶に相対するのに、他人の手助けを必要とするなら、それはもう伴侶とは呼べません。つまり大切なのは、どうしたら自分は伴侶たりえるか、という事であり、相手が悪いと思えても、それを補えてこその伴侶、至らぬ同士が助け合うのが伴侶であるとしっかり認識する事といえます。

 もっとも、人生の伴侶に関する悩みの大部分は、「相手が責任を果たそうとしない」という事でして、これがとても難しい。一方的な依存、つまり、夫が、稼がず、かといって家事もせず、あげくに女を作った、なんて話なら、「別れろ……」としか言いようがありません。

 しかし、相談の大部分は、相手の長所を無視して、欠点ばかりが目につくという場合が大部分です。こういう問題は、実は心霊相談よりも整体などの方がよほど効果的な回答を提示できるでしょう。この手の不平不満は、大抵の場合、不健康が理由だからです。

 不健康というのは、病気を意味しません、ただハツラツと生活が出来ず、だるいとか、面倒だとか言って、人の手を煩わせてしまうから、そこに不満が生じ、不満が積もり積もってイライラしてしまい、イライラが高じて感情的になっていく、という悪循環に陥っていると見なすわけです。

Q「親・子との行き違いについて。」

 ここでは、親・子との問題に集約しましたが、縁を切りがたい相手と広く捉えてかまいません。

 特に相手との関係が重荷になるのは、要するに縁を切りがたいからです。で、そこまで問題がこじれてしまうのは、当事者の一方、または双方が、姑息な人間関係の手法を使うからといって良いでしょう。つまり、相手の好意を確認するのに相手を困らせてみる……という事をやるわけです。

 たとえば仕事に行こうとすると病気になるとか、無理難題を吹きかけ、応じなければ泣きわめくとか……こういう無茶な行動に出るのは信頼関係が破綻している……痛みでしか相手の存在感を確認できなくなっているという状況です。

 これは正直辛いし、はっきり言って痛い。そして、解決策もまた無数に見いだせるでしょうが、この手の問題も、やはり、心霊的な解決よりも整体的な解決策の方が効果的でしょう。

 つまり、お互いが不健康だから、不健全な見方・視点で相手を見てしまうのだ、また、不健康だから依存心が強くなり、不健康だから相手の依存心が重荷に感じ、お互い辛いからイライラして和解策もとれなくなっていく。

 この問題の解決は忍耐を要します。また、ここでは不健康と表現しましたが、加齢も、問題の一因となりますね。

抑圧された心

 特に女性に多いのですが、親に対する不平不満から迷っている人が多いのです。もう霊媒だけが分かる痛々しさというより、誰でもこのいびつさに気がつくのではと思えます。

 そして、この問題を大げさにしているのは、親の悪口への病的な嫌悪です。親の悪口をいわず、親の欠点を見まいとする……自分の親を無理に尊敬する為に、自分を騙し、自分をだますから何が真実であるかが分からなくなるのです。

 褒めるの価値観もゆがみ、貶す価値観もゆがみ、何を言わんとしているのかがわかりにくい。こうした事例がすべて、親への不平不満が言えないためとは申しませんが、私の知る限り、こういう事情の持ち主がとても多いのです。

 しかし、赤の他人の行為なら許せる事も肉親の言動ならば許せぬ事もあるはず。他人に冷たい仕打ちをされたところで所詮は他人なのですが、身内が冷たい仕打ちをすれば恨む気持ちも生じますよね。つまり、親だからこそ許せない事の一つや二つ、ないとしたら、それは他人に接するような冷淡さで親と接していると言えなくもないのです。

 大事な事は、親への復讐ではなく、欠点は欠点と正しく認識する事で、適切な……つまりいびつではないフォローが出来るようになる事です。

 ところが……これがなかなか出来ないものです。自分は変われても親を変える事は出来ず、親が変わらなければ悩みは増すばかりですよね。こういう場合、親が死ぬまで治らぬのかな……と思います。

総論

 以上、四点の事例を紹介したわけですが、実はこれらの回答事例は、枝葉末節に過ぎません。こういう回答もしなければ、へっぽこ霊能者が相談者を煙に巻いているようだから書いているだけの事で、もっと簡潔に指摘する事がよほど大切だと私は考えます。

 これら、迷える人は、果たして問題に悩んでいるのだろうか? と私は考えます。むしろ思考過程にだまされて悩んでいるのではないかと思うのです。

 まず、各事例は、自分の大事な人をかばおうとするが故に生じる苦しみです。いわば自分の愛情に苦しめられているようなものですが、なぜかばう事で苦しむのでしょうか?

 その迷いの原点は、物事を善悪で計るところにあると思われます。つまり、善ならば良し、悪ならば拒絶するという価値観と、大事な人に悪いところがあればそれを受け止めようとするところに、矛盾と葛藤の種があるのです。

 善悪で考えるというのは、宗教で言うところの二元論に相当します。つまり、善悪は相対・不離の、たとえば電気にプラスとマイナスがあるように、また、光があれば影が生じるといったように、相対不離で一方には必ず他方がつきまとい、相互に争いを続けるといった思想です。

 しかし、近代心霊思想は、一元論で受け止めます。プラスとマイナスは中性の揺らぎ、光と影はただ濃淡が違うだけ。善とはより高度な存在であり、悪とは未熟な存在を指す。いや、老子の思想を考え合わせれば、影があるから光を認識できるのです。

 悪だから異質の存在……なのではなく、未熟だからあなたが補わなければならない。そう受け止められれば、ここに迷いはなくなるはずなのです。

 つまり、愛しい人に悪があれ、それをどう取り除くかに心を痛めなければなりません。それはつまり、相手の欠点が二人の間の障壁であるという事です。

 しかし、愛する人にあるのが悪ではなく欠点ならば……相手はあなたを必要とするという事、すなわち、欠点があるからこそお互いが、強く結ばれざるを得ないという事です。

 愛する人の、または、あなたの親の欠点を正しく認識しなさい。というのは、あなたが大切に思う人の悪を見つけろ、相手との断絶を直視しろと言うのではなく、あなたがより強く結びつけなければならない点を見つけなさいという事なのです。

・・・・・・・

人生の伴侶がなかなか見つからない

 まあ、以上で終わりにすれば話もきれいなのですが、ちょっと強欲な質問にも答えておきましょう。

 むろん、人生の苦楽をともにするのですから、その相手はなるべく頼りがいがあり、また、迷いや不正の少ない方が良いものです。……で、速やかに伴侶を手に入れる人は、ほとんどの場合、「私がいなければこの人はだめだから……」と、欠点を補うつもりで相手と接しています。(そのくせ、不健康になると、相手の欠点を重荷に感じて不平を言うのだから……いえ、そういうカップルを支える事も友人の勤めですよね)

 対して、伴侶を得がたい人は、「この人がいなければ私はだめだから……」と、欠点を許さぬ態度でいます。

 不幸にして……欠点のない人はいませんから、このような態度では死んでも伴侶を見つけられません。往々、「あの世で伴侶を見つけろ」と怒鳴りたくなるような強欲な人もいるぐらいです。間違って見つけた人がいるなら、人を見る目のない人か(当事者さえ幸せならば、ねえ)――控えめな人なのでしょう。

 いや、いや既婚者から恨まれるような発言は慎みましょう。


迷いは霊感の大敵

2010年1月17日

「霊能者は自分の未来は見えない」・・・等という。なんのことはない、そもそも迷いが生じたとしたら、それは背後霊の庇護を外れたということなのだ。――庇護下に無いのに霊感を使えば、回答者がいないのに良い返事が得られるはずも無い。イヤそれどころか、野次馬な霊にミスリードされる危険もある。

 私もまあ、誰かの助言を欲することもあるが、なんとか自分の霊感内で収まるか、追認程度で済むことが多いのは、ちょっとしたコツがある。

 まず、迷いが生じた事自体を楽観視しない。行き詰まったら元きた道を戻るぐらいの覚悟を決める。

 また、答えが無いのも答えのうち、とも覚悟する。つまり、何も答えがなければ、まあ、何とかなる、ということだ。

 そして要領の得ないメッセージを受け取ったら、それこそ、とことん行かなければならない、ということだ。途中下車は許されまい。

 人生で横着する様々な事態は、所詮、途中経過であって、良いことも、悪いことも、最終結論ではない。つまり、どう転がるか、わからないのである。だから、今は悪くてもジタバタしない。それよりも何よりも、霊媒にとって恐れるべきは、状況・事態の悪さではなく、背後霊らとの絆の有無なのである。それゆえ、たとえ不幸を味わっているさなかでも、自分が愛されていることを信じなければならない。

「人生は、背後霊(守護霊・祖霊)との二人三脚」と思うなら、迷いとは、チーム全体の危機なのです。眼前の事態だけの問題ではありません。それに気がつかなければ・・・視野が狭いということです。ならば・・・運が悪いならそのうち改善するかもしれませんが、自分が悪いなら、決して改善しないことを暗示します。

 それはもう、ただの迷いではなく大問題、いや大問題というより、救いようの無い問題、ではありますが。

船頭多くして船山に上る

2004年 11月 15日

 兎角、気弱な方は、いろいろな方面の意見を求めます。確かに多方面からの情報は物事を立体的に浮き上がらせるものですが、情報が増えれば増えるほど、物事の理解には高度な分析能力が求められるものです。

 特に分析中に難しいのは、取捨選択で、人の意見には主観もあれば偏見もまじり、切り捨てることがなければ、立体的に浮き上がらせるどころか、矛盾だらけで組み立てようがなくなることもよくある話です。

「船頭多くして船山に上る」といいますが、あちこちの意見を聞いて廻り、かえって迷いを増やすのであれば、気弱さから迷うという悪循環に呑み込まれてしまいます。

……さて、気弱さ故に迷ってしまった人が、そこで己を反省したとします。

「なぜ、私は迷ったのだろうか?……そうだ! きっと船頭が悪いからに違いない。今度は別な船頭を頼もう!!」

 しかし、気弱さからまた、たくさんの船頭を雇い入れればやはり船はやはり山に登っていくのでしょう。

……この意見は、迷える者をあまりに見下していないか! そう思われますか?

 智慧あれば助言に頼らず、分別あれば助言に迷わず――智慧も分別も無いから助言を受けて迷うのです。すべての迷える者が救いがたいとは申しません。しかし、間違った助言の受け方をしている人は救いがたいと思います。


足りぬもの。

2009/08/14

2009年08月14日


「口が寂しい」……という、経験をお持ちであろう。

お腹が減っているわけではないが、何か食べたい……まあ、お菓子が好きで、という人もあろうが、それもまた比喩のうちに入る。

己の欲するものを知らぬ者が陥る飢え……というのはこの場合は大げさにも思えるかもしれない。が、切羽詰まる前に悟っていた方が苦労が少なかろうと思う。


相談者の中には、悩み事があって相談する人だけでなく、相談したいが為に相談する人がいる。(補足参照)

むろん、自力でどうにもならないから相談相手を求めるのであろうが、悩み事の持ち主には、ゴールがはっきりしているだけに解決策が提示しやすいし、相談相手の満足度も高めである。

一方、相談したいが故に相談する人の場合、場当たり的な相談内容で、かつ、悩んでい相談しているのではないから、ゴールが見えにくい。自明な回答が拒絶されるという不条理な経験も多い。何より困るのが、堂々巡りの内容で、延々と続くメールである。

……心霊主義は、魂の永遠の成長を大切にする。もとより、心霊主義者を擁護する霊達も永遠の成長を大切にする。……つまるところ、「堂々巡り」に陥っている人を助けたいという力(=欲求)が生じない。さらに言えば、同じ話題を繰り返す=回答者の善意を軽んずる人を大切にすることは、自滅を招く。

そう、無料で強欲の相手をしていたら、生活が破綻する。 ……悩む人よ、ほどほどに。助けになろうとする人よ、ほどほどに。

ほどほどにしないから、己の悩みに迷い、その迷いから出られなくなる。……不幸を演出していたつもりが、不幸に陥るのではつまらない。


相談事・悩み……努力だけで解決出来るとは限らない、むしろ、努力を辞めないから解決しない問題も多いのである。何となれば、悩み事とは、結局、自分自身が生み出したもの、または、生み出しつつあるものだから。

前に進むだけが努力じゃない。

立ち止まることが必要なのに……、または、後ずさることが必要なのに、あえて前に進もうとするから、他者の助けを必要とする人がいるのである。そういう人が、他者の力を借りてまで前に進めばどうなるか?

……事態が拗れる。

助言を必要とする人の多くは、助言者に必要な資質をもった知人を持たない。それ故に、その友人・知人の助言は、わかりやすく、受け入れやすく……己が過ちを犯したのと同レベルであるから、解決よりもむしろ拗らせることに力を発揮する。

悩んで良き答えが得られない、というのはなるほど苦しいことだが、その苦しみを軽んじてはいけない。その一つの悩みが去れば、その苦しみも去るだろうが、良き助言者を持たない、という、霊的な貧しさは、延々と続くのである。

悪路を歩むのに、杖を持たないようなものだ。転んでもなお、杖を求めなければ、また転ぶだろう。……同じ過ちを繰り返す程度の知力しか持たなければ、転ばなくても別な災難に遭うのではないか?

自分に足りぬものを知らない、……気がつかない。そのことがどれほど不幸であるか。そもそも、その不幸を知らなければ、改善の方法もない。


(補足)

向上心を支えるのは好奇心であろう。好奇心抜きの向上心というのはなかなか考えにくいが、好奇心が強い人からも、必然的にたくさんのメールが届く。しかし、好奇心の強い人ほど、興味深い事柄に関心を持ち、読んでいて飽きないものである。

一方、どうどう巡りの質問とは、詰まるところ、読んでいて飽きが来るものである。それこそ、病気のことなら医者に聞け、天気のことなら気象庁に聞け、と言いたくなる。……そういう単調な質問に囚われているのは、質問者にそれなりの欲求(おそらくは無自覚の)があるのを、私も気がつかないわけではない。が、質問者が気付かねば解決の道は開かない。

結局、自分の時間は有意義なことに用いるべきである、切実な想いを抱いている相談者であろうと、がむしゃらに回答したからとて、その悩みを解決出来るとは限らないのだ。……むしろ、どうどう巡りの質問をする人は解決されるのを嫌う。


向上したいけれど。

2007/05/31

2007年05月31日


友人から相談、というより打ち明け話を聞かされた。私に解決を求めているのではなく、今抱える悩みについて切々と語る。

「どうやったらもっと成長できますか?」……と問われて、私は考え込む。

人生は霊性向上の修行の場である。であるから、向上や成長というテーマは至上命題である。が、私にはどうにも煮え切らない思いがある。

誰もが学んで学びきれるものではなく、誰もが知って理解できるわけではない。

人は本当に学んで、成長できるものなのだろうか? ――出来なくはないと思うが、その言葉通りではないと思うのだ。

人は結局、知っていることしか、理解できないのでは無かろうか?

地上だけが修行の場、すなわち独立した修行のコースなのではなく、霊界で座学、地上で実習を行い、その二つがで一セットなのでは無かろうか。可能性としたら、地上の座学も無駄ではなかろうし、実習の際に教科書を参照していけないはずもない。だが、霊界で学んでいないことを新規に地上で学ぶのはほとんど不可能であるというのが、私の実感だ。

だからたとえば、「二度としませんから許してください」という人がいても、ほとんどの場合、私は相手にしない。許せないからではなく、今さら相手にする意義が見いだせないからだ。一方で、上述の友人の様に、自称「挫折ばかり」だとしても、私はそれを責める気にならない。

私が彼女に伝えたいのは、ただ、「反省するよりも自分らしく生きなさいよ」ということだ。成長することよりも、年齢相応の言動、いや、霊格相応の言動や価値観に立ち戻るべきなのだ。

あなたに必要なのは成長ではない――あなたが求めているのは成長ではなく、出来るはずもない矛盾の実現である――あるべき姿に戻ることなのだ。他者の価値観に振り回されて苦しんでいる。それは結局、あなたが、あなたを傷つけているその人を大切に思っているからなのか(そういう一面もあると思う)、それとも、あなたに自信が不足しているのか、ではないか。

『その悩みは頑張っても解決しないよ』と思う――当人も気付いているとおりに。……「では、どうすればいいの?」というのは正当な疑問であろうけれど、矛盾であり、葛藤であって、論理的な袋小路、すなわち、考えれば考えるほど答が見えなくなる状態なのだ。考えるのを止めるべき時なのである。

今、本当に必要なのは、成長ではなく、自分を信じ(自信)、他者の価値観に振り回されないことであろう。それが出来ればどれほど人生が楽になるか、悩めるあなたは容易に想像がつくはず。――ならば、理想は理想と切り捨てるその前に、どうしたらその理想が実現できるかが大切ではないか。

他者を批判するのも、反省を過剰に行うのも、もう止めよう! ――それよりもお互いの幸福を考えようではないか。往々、あなたを悩ませたその人は、お互いの苦しみに無頓着かも知れないが、それでもお互いの幸福は、あなたの幸福のためには大切ではないか! あなたは自分の幸福のために、お互いの幸福を論じていいのだ。それは恥じるべき事ではない。――何となれば、人は己の幸福に責任を持っているのだから。あなたは、互いの幸せのために提案した。それで充分ではないか。

出来ないことや、どうにもならないことに頭を悩ますよりも、あなたは、あなたが出来ることに集中すべきだ。


そんなに求めなくても

2007年06月03日

何度も書いている話題ではあるが、向上・修行についての話題の補足として改めて書く。


人は生き詰まると、向上や修行の大切さを再認識する。――そして、私は時折、その修行方法についての相談を受けるが、その都度、霊査を取りつつ、やはりと返事につまることがある。

皆、今の実力に不足を感じているのである。つまり、120パーセント、そしてそれ以上を得るための方法を模索している。ところが、私が受ける霊査はせいぜいが、70パーセントか、80パーセントの実力を出す方法に関する示唆なのである。

往々、その事に傷つく人もいるようだが、私が得る啓示を総括するなら、人は実力が無くて苦境に陥るのではなく、実力を充分に発揮できなくて苦境に陥るのである。

道がないのではなく、道はあるのに見つからない。……見つからぬ道を造ろうとしているのである。それは無理の上にさらに無理を重ねようとする努力だ。

努力よりも素直になることが必要なのに。不足を小細工で補おうとするから、かえって拗れる。

向上・修行は永遠の課題ではあるが、人生の一部だけを切り取って、向上の度合いは計れるものではない。いや、私は思うのだ。生と死とが一組になって向上の手はずが組まれているのではないかと。ならば今生が苦悩と悲劇の連続であろうともそれは来世と合わせて正しき道かも知れないし、今生が楽に思えても、それは来世と合わせて間違った道かも知れないのである。


自分探し

2007/03/29

答は内にある

2007年03月29日

どんなに素晴らしい叡智に接しても、理解できなければ人生に生かすことは出来ない。人生に生かすことが出来なければ、その叡智なるものは絵に描いた餅に等しい。その智慧は本当に有益であるのか? 単に美句麗文が並んで魅力的である、というだけかも知れない。または、他を感心させるのに便利なのかも知れない。

知ることによって、人生が変わっていくのを感じる体験、その体験は霊性を活性化させる……いや、霊性などという曖昧な表現を避けるなら、清潔な創造性というべきか。他者を恨んだり、復讐を考えたり等という暗い想念、ある意味は現実逃避、自己逃避。……それまでの自分が出来うる、もっとも気の晴れる心の用い方が、突然くだらなく思え、自分が進む未来の光景が感じられて、早くそれに、それに一歩でも近づきたくなる感覚……生きるって楽しい! と実感する。

本当に嫌な相手であれば、憎悪するよりも、煩わされずに前に進む方がよい……その理屈が実に当たり前に思える心境・境涯だ。

そう、実をいえば、人を恨む気持ちのどこにあるかを私は知っている。自分の良き未来に確信を持っている人なら、憎悪するよりも前に進むものだ。人を恨んで、その恨みを捨てられないのは、自分の未来が今よりも暗いと確信している人なのである。一人で落ちるよりも、他を道連れにしようという魂胆。……そんな不毛な考えに囚われるのは、論理なく、知識でもない。自分の何を信じるかなのである。……自分を理解してこそ、叡智が役に立つ。

同時に、表面を取り繕ったところで、自分の未来を明るく思い描けない人には、どんなに誠意をつくし、論理を駆使したところで説得や感化は出来得ない。なんとなれば、自信を失った人は投げやりになって他からの説得に価値を見出さないからだ。……その意味では、人の理解力とはつまり「自信」と同義ではなかろうか。

たとえば仕事で何らかの提言をする。部下の才能を妬む上司は、それを圧殺しようとする。自信を持っている管理職でないと、部下の才能は引き出せない。

人生が順調にいっていた人は、他者の言葉に寛容な態度を取るが、一転、たとえば婚約が破棄されたりすると、一々他人に突っかかるようになる。

……など、など。

理解には自信が必要だ……外部にどんな素晴らしい知識があっても、内面に自信がなければそれを生かすことが出来ない。つまり、答は内にある。

兎角、焦る人は、内なる答に気がつかない。目が外に向けられているからだ。

・・・・・・・

人生の打開策を模索して、いろいろと情報を集め、自己啓発のための勉強をする。だが至った結論は、何をやってもダメだ……という諦め。小細工を重ねて、誠意が欠けていることに気がつかない、いや、「誠意」という、曖昧な理由を提示されて腹が立つ。

実をいえば、自分がやっていることの意味をちゃんと理解しているか、どうかの差なのだ。小細工とは不完全・不十分な物まね……良さよりも間抜けさが目立つ行為である。

自分の行動の意味を十分に理解せず、気がつかずにただ、自分を認めさせるために行動しているから、良い結果も出ず、ただ、周囲から面倒がられ、自己顕示を鬱陶しがられるのに、その対策として、また稚拙な行動を取るから信頼が更に失われる。

……答は外ではなく、内にある。いくら学んでも、理解するためには、理解するに足りるだけの自分が必要なのだ。

自己顕示欲の現れと、指摘されて又腹が立つ。別に進んで目立とうとしているわけではない。いや、目立つのは好きだけど。……人生を好転させるためにいろいろと勉強しているのに、自分の性格のどこから来るかを知らない。

……問題解決の答は内にある。上手く解決できぬなら、解決の障害となっている原因をなぜ追求しないのか? 答だけでなく、苦しみが長く続く体質も、内にある。

兎角、顕示欲が盛んな人は、内なる答を軽視する。目が外に向いているからだ。


自分探し

2007年04月01日

私は幸か、不幸か、自分探しの旅なることをしたことがない。ただ、忙しくなると無性に籠りたくなる。いわゆる「引き篭り」と似ているかも知らないが、引き篭り先は自宅ではなく、むろん、どこでも良いわけでもなく、やはり霊的に清浄なところ――精神統一の邪魔の入りにくいところ、出来ることならば、高級霊等の助言が得やすいところを望む。

そもそも、答が内にあるなら、探すのは自分の中だ。出歩けば見つかるというものではない。むしろ外を出歩けば問題がすり替わりかねない。……もっとも、精神統一の大切さを知らない人は、往々、自らをクタビレさせ、諦めて始めて自然に精神統一に入る。その為に……疲れ果てるために旅が必要だというのであれば、なるほど自分探しの旅にも意味があるのだろう。

いや、非日常だからこそ出会えるもの、知り得るものもあるかも知れない。……無いかも知れない。そもそも、シャイであるが故に自分らしさを失っている人なら、果たして見知らぬ人に囲まれて、自分らしさを見いだせるかどうか。

それは果たして確率の問題いか? 「縁《えん》」という、捉えがたい言葉は、論ずるに値するとは思うが、煩を避けて今回は避ける。その上でいえば、足りないのは、環境の変化であるのか? 当人の努力であるか?

場当たり的な努力が実を為すには、よほど祖先の引きが必要だと思う……それこそ「縁《えん》」が足りないということだが。

世の中には、いろいろなことを試す人がいる。心霊を学ぶ身にとって何とも遠回りに見えて、もどかしくも感じるが、でも、遠回りでも道は道だ。遠回りだからこそ出会うこともあるだろう。その上でいえば、出会うなら、なぜ出会ったのか、出会わなければ、なぜ出会わないのか、それを考えることこそが本当の意味での自分探しでは無かろうか?…… 一体自分は誰に生かされているのか……生かされずに生きている者であるのか……そう思える人も世の中には多かろが、全ての人が能動的にのみ生きているわけではない。

少なくとも、正しいことを為すよりも、正しい形で為すことを大切にするのはなかなか難しいことと思う。


高望みの背景

2007/03/07

2007年03月07日


「あなたは高望みをしている」といわれて、気持ちよく聞ける人はいないだろう。自尊心の強い人ほど「高望み」という批判に対して反感を抱く。……周囲から見れば高望みに見えても、当人にとっては、自我が要求する正当な待遇なのである。

だが、その当たり前に思える境遇を得るために当人はいかなる努力しているだろう? ……つまり、要求に見合うだけの対価を支払っているのか?

周囲の人が見るに、望みに見合うだけの努力が見られないから、「高望み」といわれるのだが……これが、「高望み」を批判する人々の視線である。

別な視線を向けると……なぜ、高く望みながら、それに見合う実力なり、努力なりをしないのか?……ということに関して、私なりに見てきた事をまとめる。

*******

現実感が希薄だから。……人生経験の不足が招く食い違い(齟齬)が、行為ともたらす結果との間に差を生み出す――ということは良く感じる事だ。

身体が不調で、腰が重い(行動に消極的になる)……本当にめんどくさがりであれば、黙ってだれている。身体を動かさずに妄想をするのは、心身の連携が取れていないのだ。

親の干渉がうるさい……面倒見が良いのではなく、リズムが合わない場合。よく見るのは、親がせっかちで、子供の行動を見守れない場合だ。すぐに親がチャチを入れるので子供が上達するヒマがない。結局、行動力が乏しくなってしまう。

自意識過剰……すごい事なら取り組めるが、当たり前な事にはその気になれない。(自分を当たり前な人間と認めたくないから)……当たり前な事をやるのにもいちいち大騒ぎする人がいるが、これも自信過剰の一つの表れだろう。

・・・・・・・

霊障? そう、霊障の場合もある。だが基本的に、霊障の現れ方は、上述のような地上的要因の裏にいる。つまり、原因の原因である場合が多い。ようは、霊媒抜きで克服できる場合がほとんどだ。

なんとなれば……口先だけで、行動力のない人に憑依しているような霊に、どんな行動力があるというのか?

いたずらに霊を恐れるべきではないし、霊障を特別視する必要もない。

とはいえ、私が携わった事例を一つ紹介する。

引きこもりの某氏に対して霊査を取ると、土を盛り上げた塚が見え、その下に人が寝ている。別に怒っているわけでも、呪っているわけでもなく、ただ寝ている姿が見えるのだ。が、意味が分からず我が師に相談したところ、「土饅頭」つまり、土葬の墓だという。(すいません。土葬なんて見た事がないもので……)

『土葬された人は苦しがって空気穴を欲しがるもの、竹の節を抜いた棒を突き刺してあげるといい』……と助言を受けたが、その家ではもはや土葬はしておらず、墓地も石をまとめてある。

実際、その家のお墓を訪ねてみたら、お墓に念的な汚れが感じられたので、せっせと除霊(念掃除)をしたところ……数ヵ月後、引きこもりがちの某氏は、実家を出て行った……よほど身内の霊が、というより、身内の心を重苦しく感じていたのだと思う。


各自宛の霊訓

2007/03/06

2007年03月06日


結局、普遍的な意見というのは、実行するのに中途半端なものだと痛感する。……向き・不向き、得手・不得手が絡んでくる。

あまりふさわしくない例えかもしれないが、太った人と痩せた人とでは水行をするのにも差が出てくる。同じ時間、瀧に打たれても身体への負担が全然違う。……時間が長ければより修行になるというわけでもないし、身体に負担をかければ修行になると言う事もないが……個体差を考えずに修行を論じる事はできない。

これをたとえば仏教などでは、「貧者の一灯」などと称す。金持ちが万灯を奉納するよりも、貧者が捧げる一灯のほうが尊いというわけだ。

――価値や努力目標を普遍的意見や一般論で割り切る事はナンセンスだ。

やはり、個々人の性格や志向にふさわしい修行方法、向上法を知ってこそわずか百年前後の短い時間に、より多くを学べる事となるはずだ。……それゆえに、心霊に関する好著を読むだけでなく、審神・霊媒の意見に耳を傾ける事が有益となる。


今回、3日のオフ会でも、それをしみじみと感じた。

A氏は、集中力があるが視野が狭い。精神統一をすれば、統一に集中しすぎてインスピレーションを拒絶している。(一歩間違えば狂信者に化すだろう)

B氏は、信仰心は篤いがその態度が周囲から往々、傲慢に受け止められる。眼が神に向いている人は、どうも人々に視線を合わせるのが苦手だ。

C氏は、理性的であろうとして覇気が足りない。つまり行動力に欠けている。

D氏は、周囲を立てようとするやさしさを持つが、それが結局、自分を生かせていない。自分の才能や可能性を伸ばすよりも他を引き立てる事に集中してしまう。

E氏は、他人を気にかけすぎるあまり、リーダーシップがおろそかになっている。

などなど……それぞれの特性は、一面の長所と一面の短所を併せ持っている。その特性を強める事は同時に短所を強める事にもつながりかねない。すると、単にそれぞれの特性を強めるだけではなく、適切な方向性を身につけて、長所を生かし、短所を庇うようにしなければならない。……したがって、まず、自分を知ることが大切になる。

心霊を学ぶとは、行き着くところ、自分、そして、人を学ぶという事でもある。……他の人間論とあえて差別化を図るなら、心霊の人間論とは、死んでも終わらない価値観、死では逃げる事のできない責任感の追求でもある。


白いオーラよりも、色のついたオーラのほうが良いのか? と質問を受けた。私は、職業適性の問題と答えた。

なお、無色(未熟)ゆえの白と、さまざまな色が合わさった白(完熟)とでは、価値も意義も全然違うと、背後の霊たちから指摘を受けた。

そう、結局のところ、地上が魂の向上の場だというのは、より多くの経験を積むために来ているというのとかわりはない。だが、どうせなら効率よく学ぶほうが良いと思うが。


答えを求めるが?

2007/03/05

2007年03月05日


誰もが答えを欲している。――必要がなければなお結構……つまり、思いがそのまま結果につながるなら……だが結果が得られぬなら、せめて霊感ででも答えが欲しい。――以上は、誰もが共感できる話であろう。つまり、人は思うままに生きたいし、せめて、自分の正しさを信じて生きたい。

だが心霊を、というより、霊媒術を学んだ私から見れば、答えをよりも結果にこそ価値を見出す。……そこに観点の違いがある。

誰もが答えを求める。……おそらくそうなのだろう。だが、多くの人は、求める答えを期待して、真実を求めていない。――「あなたの考えている通りだ!」と言われたいだけで、内心では真実を恐れている。……思い通りにならない現実を。

もしもあなたが、真実、霊感を求めるなら――神々の祝福を求めるなら――自らの望みは棚に上げ、耳を澄ます……周囲の助言に耳を傾けるべきだ。

誰もが真実を求めるが、不本意な真実を受け入れる覚悟の持ち主はめったにいない。率直に言えば、誰もが真実よりも無理を求める。だが、未来は今の努力が生み出すのだ。――もしもあなたが、ありうるはずのない未来を求めているなら、それはどのような努力の元に得られるというのか?

ありうるはずのない未来……妄想……努力をしても得られず、焦がれても叶わぬ未来。得られぬ未来を追いかけて、真実の未来創造がおろそかになれば……希望が未来を断絶する。

希望が未来を断絶する。――望む未来を失う事が、最善の選択をフイにし、いったい何が残されるのか。

望んでも得られぬ未来は、努力の意義なき未来だ。――それの意味する事があなたには判るか? 判かる人だけが成功を得、分からぬ人には後悔が残るのである。

故人曰く――霊感は望むものではなく、ただ、受けるものだ。表現を変えるなら、招かれる者は多く、選ばれる者は少ない。――多くの人にチャンスはあるが、そのチャンスを成功につなげられる人はとても少ないのである。

似て非なる――誰もが答えを求めるが、多くが求める答えとは、わがままが通ると言う証に過ぎない。心底真実を求めるものはごくわずかであり、そのわずかな者のみが祝福の時を待っている。だが、誰が知ろう? 我が祝福されると? 誰もが祝福を求め、だが、現実に触れて挫折する。

真実は決して易しくはない。


業《カルマ》とどう向き合うか

2007/02/25

2007年02月25日


メールの返事を読んで、話題とは違う事に気がついた。……話題はともかく、要するには認めてもらいたいのだ。

『頑張っているね!』『すごいね!』と。……いや、当人にその自覚があるかどうかは知らない。そこまで深入りしたいとは思わないし、相手もそれを望んではいないだろう。おそらく、ここでこうやってネタに使われる事すら望んでいないと思う。だが……善悪は相対的なもの……かもしれないが、少なくとも正誤は明らかに存在する。

私は相手をちゃんと……いや、それなりに認めている。――おそらく当人が願うほど高くは評価していないが、一方で、当人が自認するよりは高く評価しているのではないか。

他人に自分を認めさせようという態度は、おおむね、誰よりも自分が自分を認めていない。何しろ、巧妙に逃げ道を用意している。……いわゆる、腰が引けているのだ。

他人の言葉を引用するが自分は隠れて、でも相手の評価が気になって仕方がない。その態度自体には別段の是非もない。人間には大なり小なりそういう所、または、そういう時がある。

しかし、問題は「何を認めさせようというのか」という点だ。あるがままの自分を認めさせるというなら、自分の言葉、自分の行為で認めさせるべきであろう。ここ、または今は……ありのままとは違う自分を他に認めさせようとしているのだ。

だがこの時、そこに認めるべき点があるのか……存在しないものを他者に認めさせようというのは、他者に迷惑をかけるという点において、悪とみなして差し支えもあるまい。行う者がいくら正当化したとしても被害者が不快に思わずにはいられない。

いや、この相手などは別段、害もない。強いて言えば、落ち着きがなくて、あてにならぬというだけだ。むしろこの一件を通じて、かつて出会った不可思議な性格の人たちが理解できた気がする。

・・・・・

たとえば心霊思想に触れて宇宙の真理、霊界の法則まで学びながら――浅知恵を振りかざして馬鹿にされる、論難を吹っかけて無視される、世話を焼いて疎まれる、それらは皆、その者たちの秘めたる動機が原因となって、現れた結果、因果律・因縁果の具体例でしかない。そして最も初歩的な真理である、因果律の法則ですら生かせずにいるとしたら、皮肉といえば皮肉であるが……もっと大きな皮肉が潜んでいる。

なぜ行き詰らないのか?――初歩から間違っているのに、行き詰まりを感じることなく延々と努力する。行き詰れば容易に道を改めるだろうに。……それは果たして強運なのか、悪運なのか。

・・・・・

話を先に進める前に、少々強引だが問題を整理しよう。なにしろ、インスピレーションは散漫さから集中していくべきものだから。

  1. 人は無自覚、無意識下の裏面的動機を持つ事がある。
  2. 意識がコントロールする表面的動機と、裏面的動機の間に差異があると、他者には理解しがたい行動を取る。
  3. 裏面的動機の成果が、往々として思わぬ結果の原因である。……つまり、人は無自覚・無意識に、意図せぬ結果を得るための努力をしている。
  4. 当人の目的にそぐわない行動をしているから、第三者には支離滅裂に見える。
  5. それを称して業が深い(因果の働きに振り回されている)という。
  6. だが問題があるのに、行き詰らないから修正ができない。

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