‘循環の一端’ カテゴリーのアーカイブ

人は無力じゃない

2011/09/29

先日、車を運転中のこと。カーラジオでは、リスナーの投稿が読まれていて・・・

「人は無力なものだから・・・」

実をいえば、なにゆえ、人は無力と言い出したのか、記憶に残っていない。ただ、「人は無力」という言葉だけ、ハッキリ記憶に残り、と同時に、

人は決して無力ではない(この怠惰な奴め!)』と聞こえた。(括弧内はその時に感じた、ニュアンス)

その時は、運転中のことゆえ、帰宅後に改めて聞くことにした。


『人は非力ではある。だが、無力ではない。

『非力であるから、コツコツと務める。何度でも、やり直す。

『今日に間に合わない事なら、前日から準備する。それでも間に合わなければ前々日から、更に前から。

『時として、いや、往々にして、予想外の事柄に、今までの努力を覆される。それでも、生きていればまたやり直す。

『例えば、この度の大災害(311)も、多くの被害が出て、それも、人の過ちから、更に大きな被害をなしたところもある。それをもって人は無力というのか?

『だが、先人の努力が実り、難を逃れた者も決して少なくない。それは必ずしも、巨大な堤防とは限らない。避難訓練や、いざという時の覚悟と決断の結果もあろう。

『なるほど非力な人間では、何も出来ぬうちに、流され、押しつぶされた者も多い。その被害者を無力と呼ぶのか? 無であると、取るに足らぬと言うのか?

『いや、足らなかっただけだ。目の前の現実に、努力が及ばなかっただけであろう。』

・・・・・・・

『この世に、無力な人などない。

『努力が及ばなかった人を、結果だけで詰ってはいけない。

『そして、たとえ非力でも無力ではないのに、力を尽くさず、無力だなどといってはいけない。

『(自ら無力というものは)本当に無力なのか? それとも怠惰なのか、無能なのかどちらだろう?

『力が及ばぬことであれば、百年も前から備えれば良い。人は非力ではあるが、文明は偉大な結果を残してきたのだから。その文明さえも、大自然の脅威の前では、幼稚に思えるとしても・・・幼稚であればなおのこと、人々は努力を続けなくてはならない。』

・・・・・・・

『結果だけを欲しがる者には、その努力こそが苦しみに思えるかもしれない。

『だが、努力なくして成し得た結果はない。たとえ、努力の過程が他者には伺えなかったとしても。

(さらに…)

心の鏡

2010/09/14

 私は不幸だろうか?

 まあ、子供の頃から、いろいろ苦しい思いもしたし、いまだにいろいろ苦しい思いもしている。まあ、ここ数年の苦労はといえば、三分の一は自ら買って出た苦労で、三分の一は「尊敬されたい病」患者の相手、残りが多分、向上意欲の空回りから来る。浮世のシガラミから逃げるのは無理でも、苦労の大半は捨てられなくもない、と後悔の念も多少ある。

 日々、考えることも多い。・・・あれにするか、これにするか。・・・それを「迷い」というなら日々迷う人生である。

 私自身も人として未熟なことから免れず、災難にも合うし、過ちも犯す。・・・恥ずかしし、辛いし、悔しい。そういう感情を持て余すときもある。

 確かに、楽じゃない。・・・ならば不幸なのか?

 だが、苦難を乗り越えればこその喜びもある。幸福とは果たしてゴールであろうか? 行きつけばもう、不幸には遭わぬものだろうか?

   幸せになりたいと人は言う。

   不幸は嫌だと人は言う。

 だが、幸せも、不幸も果たしてゴールであろうか? そこに行き着けば時は止まるのか?

 いうまでもない。その先も人生は続くのである。心霊主義者であればなお遠く、死後を超えて永遠の先まで人生は続くことを信じていよう。

 ならば、苦しみにも会おうし、喜びにも会おう。

 故に、不幸とは、苦難から逃れることを辞めた者・・・向上を忘れたものの境涯といえる。

 逆に、苦難の中にあっても希望を失わないものは、それなりに幸せだし、その先、達成感まで得た者は遥かに幸せであろう。

 私は思う。不幸な人とは、己を哀れんだものである。幸せな人とは、己を誇る人である。・・・もっとも、他人を蔑して安易に優越感に浸る者も少なくないが、まあ、それも「幸せな人」であるに違いがなく、そして本題は別にある。長々と書いたが、実はただの伏線に過ぎない。

 例えば(今回の本題ではあるが、応用が効くことに留意されたい)、先祖供養。

 お香とお花を供え・・・まあ、宗派によっては花以外の植物を供える場合もあるし、香を省く場合もあるようだが・・・そういう準備もそれなりに必要であろうが、多くの人は、祈る際の心がけも大切と信じているだろう。

   感謝の気持ちで手を合わせる。・・・大切な事だ。

 ところで、どういう心が良い心がけ、と言われるのだろう?

 たとえば、常日頃、「ああ、あの人みたいになりたいな、羨ましいな。」と思う人であれば、いくら墓前や、仏壇の前で懸命に手を合わせる人であれ、祖先の霊は決して平穏な心で受け止められまい。・・・他者を羨むのは、自身の現状否定、ひいては祖先に対する冒涜であるからだ。

「嫌なら出て行け!」・・・極端にいえば、そういう事だ。

 極端にいえば、出て行け、と言われるような心がけで、先祖供養もないものだ。それを繰り返せば、祖先の霊は目を背け、それゆえ、悪霊・低級霊が入り込みやすくなる。まあ、それは大した問題ではない。どうせ、他人を羨むようなら、祖先の霊から目を掛けられても焼け石に水だからだ。

 または、信仰心。

 神仏に祈るにせよ、真心は大切である。・・・では真心とは何か。

 目に見えず、手にも触れぬ心を説明するのは難しい(言い訳)。

 それをあえてするなら、

 無知ゆえの素直さは真心ではない。なぜなら、他者の言葉で容易に疑念が湧き上がるから。

 とはいえ、疑いの念が生じないのは、愚か者故。

 疑わしいかどうかで物事を判断するのは理知であって、真心とは、信じるべきを信じ、信じぬべきを信じぬことだ。・・・あたりまえといえばあたりまえ。

 だけど人は、旨い話に騙され、大切な事は面倒という。そのような考えに真心があるか。

 まったく。三歳の子でも知っているが、七〇歳の年寄りでも実行は難しい。

宜なる哉

2010/08/28

 人には得手・不得手がある。

 私は取り立てて何らかの長所があるとしても、それを理由に誰かの欠点を笑いたいとは思わない。

 ・・・まあ、日常の中で、自分の欠点に追いかけられて過ごせば・・・生業を維持するのは誰にとっても大変なことのはず・・・強がるためにも、誰かを蔑視したいのは人情かもしれないが、私はそれを潔しとはしない。この不景気なご時世の必然的な欲求の中で、私も日々、心中で悲鳴を上げていてもなお、他者をいびるのは恥と思う。

 今は楽でも、その先に待つ苦難を知るが故に、力むことなく、その道が過ちと信じることが出来る。

 

 とはいえ、つまり、他者への蔑視を恥じていてもなお・・・往々、他者と話していて、『やはり◯◯が分かっていないのだな』と思うことがある。

 たとえば・・・頑張る人もいれば、頑張ることを嫌う人もいる。・・・果たして、そのいずれが正しいのか。・・・その一方で、必要に応じて頑張り、必要なければ頑張らぬ人もいる。悠々自適、もしくは、自由・自在な生き方。

 何を意固地になっているのだろう? ・・・頑張る人も、頑張ることを嫌う人も。 状況に合わせて生きることも出来ず、まるでムキになっているかのような生き方をして。・・・もっと工夫すれば、いや、もっと肩の力を抜けばよさそうなものを。

 皆、自我(エゴ)・・・もしくは、いわゆる自我(エゴ)に振り回されていないか? つまり、自分の主であることを忘れて、自分の奴隷になっていないか。いわゆる、欲望と呼ばれる主体を自分と思っていないか?

 

 大切に扱うべきではないか? あなたがそれを本当に大切に思うなら。・・・が、頑張るだけで手に入るのか。(それは果たして、大切なときに頑張らなかった事への反動なのか?) または、諦めてしまえるのか(努力の大切さを過大評価していないか?)

 意地に振り回されていないか? そうであるなら、あなたがどこに向うか、いや、あなたがどこに行き着くのかは、あなたの意図がどこにあろうとも自明であって、それゆえ、宜なる哉、と、私は思わずにいられないのである。

 例えばそれが、「先祖供養は大切だよね。」という、思いであろうと。・・・今なすべきことから目を背けて、用意には手の届かぬことに努めていないか?

 私はそれを「無駄な努力」とは言わない。ただ、「順番を間違えば、多くが無駄になる。」と思うだけだ。

 それはつまり、あなたが努力するのは、無駄にするためか、それとも大切にするためか、という問である。・・・この実に明快な問の答えを人々は間違う。「大切にするために」と言いながら、人は無駄にするのである。

 人々は無意識に無駄にしている。・・・その事実は、とりわけ不可解なことだろうか?

 古今東西、人々は、正義のために人を罰し、平和のために戦ってきた。豊かさを得るために他者を搾取しもした。いわば、当たり前の選択であるし、その選択故に、今の地上が不幸だとは思わないのだろうか?

 いや、その事実認識は虚しいものであるか。

 

 この世の中をもって『足るを知る』というのであれば、それはつまり私たちは幸せなのであるから。たとえどれほど苦難が伴おうとも。

 むろん、利点を認めず、短所ばかりを論じて、自らの不幸を嘆くのもナンセンスではある。

 ただ私は思う。多くの人は、持って生まれた利点を正しく評価せず、不満ばかりいうか、不満も言わずに黙殺している。

 自分を活かさずに、いかなる大事業が実現できるというのか? ・・・己が為すべき大事業を思わないなら、その人生はまた、それなりでも宜なる哉。

 自らの不幸を嘆く人は、おそらく本当に不幸なのであろうが、しかし、自分の長所を皆、活かす努力をしているのだろうか、と思えば、多分不幸にして活かしていないと思う。

 その意味で、本当に「宜なる哉」と思えるのは、つまり、自分の長所を活かして、短所を庇う努力をしている人が多くを得ることであり、また反対に、「失敗にも価値がある」とうそぶきながら、自分の短所を知らず、長所を鼻にかけている人が多くを失うことである。

 成るように成り、成らぬようには成らぬ。・・・その当たり前な論理が生きているが故に私は、「宜なる哉」と思い、と、語る。

 

 

 

 

 

 

己が慢心を恐れる。

2010/07/31

 もう一ヶ月以上も前のメールが話題である。もっとも、一ヶ月ならまだ早いほうか。

「慢心をして人の道にはずれたことをしないように、また、道を踏み誤らないように」と思い、オフ会に参加した、という人のメールを読みながら、真面目な参加者にありがたくもあり、また、なにやら引っかかるものを感じてはいたが、急ぎ連絡事項のみ返事して、そのままになっていた。

 まあ、「慢心」というキーワードでは色々書く事もあるのだが、本件は、この方の事例に限る。(限れ、と言われた。・・・それもネチネチと。)

 まず、なぜ私が「慢心をしない」というキーワードに引っかかったのか、といえば、

  1. 慢心に自ら気づくことができるか?
  2. 他者から「慢心」と指摘されて納得することが出来るか?
  3. 順番を間違っていないか?

 そもそも、(自らの)心の異常を、(自らの)心が察知するのは難しいのです。・・・物の長さを測るなら、ものさしを使いますが、そのものさしが伸びていないかどうか、他にものさしがなければどう測るか・・・

 また、他者から指摘される「慢心」が、果たして考慮に価するか。人は往々、有能な他者、論理的に勝てない相手に対して、「相手の慢心」を攻撃します。こういう感情論はそもそも相手にする価値もありませんが、それは同時に、他者から指摘される「慢心」という注意に耳を貸さなくなる、貸す意味があまり無い、貸せばますます混乱する。という、不都合な助言でありましょう。

 その一方で、その時々に行いの結果を反省してみれば、そこに「自分の慢心があった」、と思われることも多々あるわけで、では、慢心をどう扱うか、と考えると、答えが出ない。そもそも設問が間違っていないか、と思うわけです。

 心の異常を心が察知することが出来ない。・・・でも、人が恐れるべきは慢心だけか?

 慢心は、人が注意すべき、不適切な心のあり方の一面でしかない。なのに、慢心を恐れるのは・・・

  1. 実際に自分が慢心で失敗しやすい。
  2. 誰かに言われて真に受けた。
  3. 占いとか・・・

 もちろん、一般論として言うなら、人の数だけ原因はあるはずで、これが答え、と、私は論じることはしません。ただ、追いかけるものがあるなら、なにゆえ追いかけるか、その理由を心の隅に置いておくべきだ、とは思います。さもないと、やっているうちに目的が摩り替わったりするからです。

 もしくは・・・慢心を恐れる心もまた、何かから摩り替わったものかもしれません。

 たとえば、子供時分に親から「生意気!」と叱られ続けて、あげく、学校で受けた指導中に「慢心は厳禁です」と言われた二つが結びついてしまい・・・

 そう、いかなる理由から、何を追いかけるのか?

 慢心は心の一部であり、人道を外れるのは行いの一部でしかない。・・・

(まあ、そこまでメールに書かれていた訳でも、霊査として読み取ったわけでもないが)

 恐れれば、行うことを止める事になる。慢心を恐れれば考えることを止めるのか・・・もしくは、慢心なくしてどうして危地を乗り切るか・・・さて、心にあるのは果たして欠点か、それとも、使いどころを待っている強力な道具か、どうか?

 果たして恐れているのか、それとも、自分の可能性を殺しているのか。

 

 結構、人は己を殺している。・・・そうやって人は己のブレーキかけながら、一方では思いっきりアクセルを踏み込んで、無理やり高速で走っているかのようだ。軋むブレーキに苦しみながら。 スピードに恐れるより壊れそうなブレーキに怯えている。

 まあ私は、アクセルよりもブレーキの方が強力な性格らしく・・・あまり良い助言は出来なかったかもしれない。

 

アクセル全開?!

2010/05/22

 これは私が直接受けた相談ではなく、行きがかりで耳にした話題。その経緯はそれなりに面白いかもしれないが・・・本題とは無関係である。強いて言えば、どうも関係者全員の守護霊等はこの時を有効活用したのだろう、という話で、いずれ機会があれば。もしくは、暇があれば。

・・・・・・・

 旅先に同行していた友人が、そのまた友人から久しぶりに電話を受けた。なにやらかなり深刻な話、というより、深刻な状況らしい。

 家を出る、の、死にたい、等といった言葉が聞こえてくる。が、知る人ぞ知る、私はそういう話題というより、そういう言葉を乱発する人には無関心である。はっきり言って私には不向きな話題であって、もとより私宛の相談ではないし、返事をする話題ではない。

・・・・・・・・

四路五動

 ところで、このメンバーには大分以前に、『四路五動』という話をしたことがある。これは私の造語ではなく、つまりは受け売りであり、当サイトでも何度か話題に上げている言葉である。(ただし、引越し途中の現時点ではデータが上げてないかも) これは兵法で、軍が行く道(路)は、前後左右にあり、軍の動きには前進後進左折右折の四動に加えて、不動・・・動かぬ、または、待機や待ち伏せ、という選択肢がある、というものだ。

 ところがこの、不動という選択肢は、わかる人にはわかる一方、わからない人にはトコトンわからない。いつもジタバタして、拗らせつくして泣き寝入りか、他人に丸投げして自分は耳目を塞いで、そんなことは無かったと自分を信じ込ませている。

 というか、この問題は、当事者のみのものというより、一種の躾に属して先祖伝来のものらしく、当たり前に思っていて直そうとしないし、問題に気づいてもとかく変えられない。変えようにも周囲がみな邪魔をして変える事が出来ない。

 変えることが出来ない・・・といえば、それこそ不動であるはずが、動かないのは結果だけで、当事者・関係者はとにかくあくせく色々努力して、結果が変わらないのであれば、それは無駄な努力と呼ばれそうなものなのに、無駄な努力と認識する以前に、その努力を「苦しみ」と受け止めるから、辛い・死にたい、と始まる。

本末転倒

 まあ、そりゃ人間いつかは死に至って、その事実には逃げ道が無い。であるから、「死にたい」というのはおそらく是非を論ずる余地なき話題であろう、と、(人々には色々反論もあろうが)私は思う。ただ・・・『死』が避けられぬ話題であろうが、果たして今すべき話題であろうか、とも思う。

 つまり、途中・過程を省みることなく、一足先に最終問題に飛びついて、本当に正しい答えが得られるの? と思うのである。

 噛み砕けば、人が死を免れぬとしても、人は果たして死ぬために生きているか、それとも生きていれば死が避けられぬのか、どちらだろう?

 物理的・客観的に死の瞬間を迎えようとしているならまだしも、五体満足のうちから生きることを諦めるというのは何ゆえか。過程を跳び越して結果に至るのは果たして正しい思索の結果といえようか? それは飛躍と呼ぶべきであろう。その様な思考の飛躍をする人を指して、周囲の人々が気・・・狂い・・・と呼ぶにせよ。

それこそが結論か?

 私は思うのだ。本来至るべき結論とはかけ離れたことを考えていないかと。つまり、最初に飛躍があるなら、着地点がずれるのも仕方が無いのでは? と思うのである。

 たとえば・・・本当に死にたいのか、それとも今の状況(?)を終わらせたいのか、真の悩みは果たしてどちらであろう?

 どうも、そのような人の思想、というか発想には『止まる』という選択肢が見当たらない。 ダメでもともとで何かにチャレンジするとか、いっそ諦めて死んでしまおうとか・・・時期が訪れるまで待つという考えが見えないし、「待て」、「落ち着け」という助言を無視するどころか、腹を立てている。いわば『四路四動』であって、選択肢が無いという思い込みゆえに正しい発想、いわば、ジタバタしない、という選択が出来ないのでは、と思うのだ。

「動かぬ」、という答えに至れないのは、決して頭が悪いからでなく、あえて言えば、その自我を育ててくれた周囲の親族等を疑うことなき素直さの持ち主ゆえであろうと・・・いや、私も、『この世界には愛が足りない』とは思っているが、その一方で、この世界は愛ゆえに拗れてはいないだろうか?・・・どうしても巧くいかないなら、不足しているのは努力や工夫であるのか、反省か、どちらであろう? もしくは、壁にぶつかっているのは、押しが足りないからか、道を選び間違えたのか、どちらであろう? さらには、そういう相談を受けるあなたもまた、生き方に焦っていないか。と。

不動の覚悟。

 放っておけば結果が変わらぬ、どちらか、または双方が動かなければ結果は変わらぬ。

 さてどちらが動くべきか。さて、もしも自分が動かぬ結果に焦れて、相手が動き出したなら・・・相手がこちらの都合に合わせて動いたなら、それはつまり、動かぬことで相手を支配したということではないか。

 動かぬことで相手を支配する術があるというのに、そもそも、人はなぜ動くのか? なんのために待たず、動き・・・いや、なぜジタバタするのか?

 多くの人が、敵や状況を支配することよりも、ただ、ジタバタすること、つまりは状況に支配されること、を選ぶ。

 無思慮で安易な選択である。 往々、その結果に苦しい思いをすることに気づきながらもその生き方を変えない。

 まるで石がただ転がり続けるような生き方である。そういう生き方をしているなら、その人の未来も予測しやすくもあろう。

 

たとえば、「声が聞こえて苦しい」という。

 ジタバタ、といえば・・・なにやら「(人も無いのに)声が聞こえて苦しい」という悩みを良く聞く。端的にいえば聞かなければ良いのである。が、それが出来ない。出来ないから悩んでいるのである。

 しかし、たとえば雨風の音や潮騒、川の流れの音、虫や蛙の鳴き声が煩くても、多くの人は寝る。音が煩くて眠れない人もいるが、果たして周囲に音があふれている人だけが、気になって眠れないのだろうか? 眠れる人と、眠れない人との差は果たして外にあるのか、内(自分の心)にあるのか。

 声が聞こえて煩い、というのは、果たして語りかける人(?)に責任があるのか、それとも耳を塞げない自分に問題があるのかどちらだろう?

 自分の状況が、そのどちらであるか。わかる人はわかる。わからぬ人にはわからない。では、なぜわからないのか?

 おそらくは、ジタバタしているからだ。つまりは、自分を思うようにコントロール出来ずにいるからだ。では、なぜ自分をコントロールできないのだろう?

 

稼ぐより損を避けよ

2010/05/17

『稼ぐよりも損を避けよ』と聞こえた。まあ、いつもの話題である。一見、消極的な話題ではあるが、趣旨は少し違う。(というか、本文は霊査ではなく解説に尽きる)

「虎穴に入らずんば虎児を得ず」というわけで、時として冒険も必要ではあろう。が、自分の失敗を隠すために大騒ぎしたあげくに損失を拡げ、後で泣きつくな、というのである。

そういう失敗を繰り返す人に対して、「問題解決力を求めるよりも、失敗を避ける工夫(というより冷静さ)が大切である。」ともいうのだが・・・まあ、俗に「救いようの無い◯◯」とか。または、「神も仏もない」とか。

・・・・・・・

「そういうこと(常識論)は百も承知、私は尻拭いが欲しいのではなく、前に進む方法を知りたいのだ。」という人もいる。

 私はそういう人に対して、相反する二つの想いを抱く。

 1、そういうあなたは穴だらけ。・・・どう指摘すれば角が立たないかな。

 2、でも、前に進まなきゃ、自分の欠点が自分で見えるようにならないよな。

・・・・・・・

 人は無力な赤子の姿で生まれ出て・・・という、抹香臭い話は棚に上げる。 たとえば、自動車の免許制度を考えてみよう。日本の現行制度は、完璧な運転技能・知識の持ち主にのみ免許が交付されるわけではない。最低限とされる知識と技能(とその他)の持ち主に交付されているのだ。つまり、運転しながら上達していくことも織り込んだ上で免許が交付されているのである。

 なお、こういう説教臭いことを中継する霊媒ですら、未熟を克服するのに天与の才能だけでなく、努力・精進が求められている。結局、未熟であろうと前に進まずにはいられぬではないか。

 そう思っていると、霊感に『別な相反する二つの視点』が示される。

 1、往々、チャンスを与えたくても、無い袖は振れない。(環境に不足がある)

 2、不適当なことばかり選り好みする者が・・・

  つまるところ、文句を言われてもどうにもならない事情(もしくは文句を言うからどうにもならない事情)がある。ならば、文句を言っても拗れるばかりということだ。

・・・・・・・

 整理する。

 どうにもならなくて、前に進めない(修行ができない、境遇がよくならない)時に、文句を言っても良いことはない。むしろそういう時には、『稼ぐ(前に進む、向上する)より、損(挫折、堕落、脱線、迷子)を避けよ。』というのだ。

 というか、うるさい。黙ってろ。

 ・・・これは意見というより、道理だから。

 

 

行き止まり。

2010/05/09

 人々は懸命に想う・・・己の行いの言い訳を。自己への虚飾を。もしくは、相手を丸め込むための嘘を。

 私はそれを責めない。だが、その想いを共有しようとも思わないし、共有出来るはずも無い。・・・あなたは誰かの言いなりに生きたいと思うか? 迷った時には指示を心待ちにするのに。

・・・・・・・

 誰とも共有出来ない想いを抱く人は多い。そのような想いを抱く人は、一体どのような境涯か。

 忙しく心を動かして・・・まるで、一人であるのを忘れようとするかのように。・・・袋小路に向かって急ぐ人々。

 何度も、何度も、なんども、なんども繰り返してきたその行き詰まり。・・・その循環、その輪廻。逃れ得ない鎖、が、実は単なる自縛。 自暴自縛の日々に苦悩する人々。

 その苦しみから逃れたくて、心霊を選び、学んでもなお、言い訳と、虚飾と、そのための嘘を止めない人々。

 火宅とも呼ばれる、苦しみ絶えないこの世界に安らぎを見出すのはいかなる人々か。

・・・・・・・

 救いを求めるなら、せめてその悪魔(焦り)の手(苦悩)を放せば良さそうなものを。

 いや、その手(苦)を放せば、あえて神の救いなど必要としないものを。

 

 

 

 人々は、己が心を救う、正しき道を求めずにいる。 どんどん苦悩の深みに嵌り込みながら。

 達成感をもたらしてくれる障害を厭い、ささやかな障害を厭い、僅かな障害を厭い、達成感のない状況を退屈と厭う。

 

 陳腐な助言は腐るほどある。が、大抵は言い訳を得るまで足踏し、言い訳を得て道を誤る。

 一人で生きることをやめようとせずにいる過ち。

 

 

 自ら邪魔をしなければ、どれほどのことが出来ただろうと、省みることもなく。

二律背反

2010/05/05

  老若男女、同じ時を共有していても、それぞれが体感する、いわゆる主観的な時間は異なる。それゆえに男女は互いに理解し難く、老若は互いに理解し難い。

 もしくは、同じ世代の同性同士だって、細かく見ればやはり主観時間は異なる。誰も彼もが流行を追うわけでないのと同様だ。

 相手の思想に歩み寄ろうとする者は多い。お互いに歩み寄ろうとする者たちも決して少なくはない。だがそれらの多くは、相手を知ろうと急ぎ、解り合えたいと焦《あせ》り、うまく行かないもどかしさから焦《じ》れる。

 まずは、足を止める。 ・・・歩きながらでは行き違うことなら、まずは足を止めることから始めるべきなのだ。

 が・・・相手を思うからこそ、急がずにいられず、急ぐからこそ、相手を傷つけずにいられない。

 それはつまり、相手がわからぬから焦るが、自分自身を判らぬからなお、相手がわからぬという悪循環に気づかぬから故のこと。


 愛し合う二人よ。

 思うことで人は疲れ、思われることで人が疲れるのは何故か。・・・焦ってはいないか。恋焦がれる相手とは、実は自分の思いの影にすぎないのに。

 故に人は往々、自分の思いとはかけ離れた相手と気づいて恋が冷める。

 

 子を持つ親よ。

 子供らの浅薄な、そして敏感というより過敏な感覚に振り回されてはいないか。子供の行いというのは、実は親の行いの影にすぎないのに。

 子の過ちとは、己が過ちと気づかぬ愚者が、親ばかと呼ばれるのに。

 

 なぜ振り回されるのか!?

 あなたが己を知らぬからだ。人の思いは常に「二律背反」、人は誰かを愛す時、その人を憎まずにはいられない。・・・憎しみという一面を忘れた人だけが恋に落ちるが、何かの折りに思い出して破綻する。・・・もしくは、思わぬ相手は憎まずに、ただ無私をして心がゆるがない。

 結局、人は誰かに悩まされ、苦しめられているようでいて、実は、自分の思いを扱い兼ねている。

 相手を忘れることが出来ず、他の誰かを思うことが出来ず。


 子供の日におもう。

 人への思いは、相手への思いの形を借りた、自分の、自分への思い。

 それゆえに思うようにならぬだけで恨み、憎む。・・・相手を在るがままに認めぬが故の過ちと気づかず。

 子供への怒りとは、実は己の子供らしさ、すなわち未熟と気づかぬが故なのに。または、子供への愛の何たるか。


 人々はみな愚かで、ただ、反省出来る者と、反省出来ぬ者とがいる。・・・それこそ年齢にかかわらず、一体どちらを大人と呼び、子供と呼ぶべきか。

 大人であるとか、子供とか。・・・その区別は一体何処にあるべきか。身体か、精神か。

 子供の日に思う。・・・肉体的大人が寛容に非ずして、何の子供の日か。

 

(さらに…)

先人の足跡

2010/04/25

 我が行く道は、先人が踏み固めたもの。

 我らは、親の愛を受けてその道を行く。

 

 一人に思えても、無数の人に支えられてこの旅がある。

 ……その旅が孤独に思えるのは我が見識の狭さ。

 ……その旅が苦痛に思うのは、己が勤めを知らぬが故。

 真っすぐ行けば良いものを……曲がるは心の迷いの表れ。

 誰が難しくするのではなく、己が未熟ゆえにその旅が辛い。

 

 未開の荒地を目指してもなお、先人の足跡からは逃げ難い。

 なぜ逃げられず、なぜ逃げようとするのか……

 そして、先人の足跡を追いながら、先駆者を気取る愚か者。

 

 人は思い、思うから行う。……そして思いを実現し、思いに縛られて破滅もする。

 何から逃げようというのか? 目指すところは足跡だらけだというのに。

 

 先頭を行く者は、一人でないことを知っている。

 多くのものの助けを得てこそ、辿りつける境地であるが故に。

 故に、真の道を歩むものは、敬うことを知っている。

 

 敬うものを知らないものが、荒野をさまようのは心の狭さゆえに。

 大衆の中にあって、目を閉じ、耳をふさいで「孤独」と呟くがごとく。

 ……なぜ目を閉じ、耳をふさぐのか。

 その結果得たる苦しみに見合う価値のあることか。

 ・・・・・・・・・

不完全であるが故に。 (補足あり)

2010/04/17

 私たちは、不完全な世界に、不完全な存在として生を受けた。

 さて、この世界における、私たちの役割は何であろうか。

 成長するため、という人もあれば、育てるため、という人もある。己の未熟から目をそらして、ただひたすらに他者と世界の粗を探す人もいる。もしくは、不完全ならば、不完全なりに楽しむ人もいるし、単に満足している人もいる。・・・もしくは、変化を恐れぬ人と、変化を恐れる人と二分すべきか。

 未完成なものに在る自由と、完成されたものにある不自由。 人が自由意志をもつというなら、選ぶべきはどちらであろうか。

 その選択にあるのは、正誤でなくして成果である。つまりは自分をより生かすための選択である。

 にも関わらず、不毛な選択をする人ほど、より大きな成果を求めるのは、苦労が生み出す満足を知らぬからだ。

 そう、不完全な世界であるからこそ、私たちが必要とされているのである。たとえ不完全であっても。いや不完全であるが故に。

 そして、この世界にあって、完成している人が何を必要とするのだろうか? 他者への非難のその他に。 歩むのをやめて罵るばかりの人々。 でも、道ははるか先まで続いている。

 私たちは不完全であり、努力を強いられる。が、努力の喜びを知るからこそ、己が不完全であることを受け入れることが出来るのだ。それは往々、苦痛ではあっても幸せなことであろう。少なくとも、自尊心の牢獄に閉じ込められて前に進めない者よりも。他者を嬲らなくても生きられるのだから。


補足:  2010年4月19日

 不完全であるから利益を得る者あり、反対に、利を失い、難を得る者あり。

 難を克服するのに、静かに淡々と前進する者あり、他を傷つけ、己を傷つけて進む者あり、それでもなお進まぬ者あり、ひたすらに拗らせる者あり。

 とはいえ、克服する者と、拗らせる者との間には、賢愚の差があるというよりも、むしろ体質・体癖の差があって、つまり、目的に対して必要な手段をじっくり見定めるか、それとも、好むものにすぐ飛びつくか、という程度の安易な差で、大方決まってしまうようだが。・・・それを、体質だから仕方が無いと諦めるか、克服しようと努力するのか?

 つまるところ、

 不完全であるから利を失い、難を得る者あり、反対に、不完全であるから利益を得る者あり。

 難を克服するのに、すぐ諦める者あり、たゆまず努力する者あり。

 それは別に、善悪の差ではなくて、可否、つまり自分はどのような結果を求めるのか、ということだが・・・その至る結果の真価を知らぬ者がすぐ諦める。

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みにみにぶろぐ
  • ・原発全廃
  • ・その後悔の帳尻が合う生き方をしているか?
  • ・我が国だけが原子力を全廃しても、隣国が原子力発電を推進すれば、危険性は無くならない。
  • ・生きるとは生むことである。
  • ・いろいろなる不平不満はあるだろう。だが人は歩んでいる。
  • ・与えられる事を当たり前に思っている者が飢える。
  • ・なぜ、争うのだろう? 事態はただ現実への妥協を求めているだけなのに。
  • ・ 見せられると信じたくなる
  • ・豊かな者は足りぬものに気が付かず、知りたる者は、知らざることに気が付かぬ。……
  • ・ 心に不満が生じるのは、あなたが焦っている証。もう少しゆっくりと生きなさい。

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