宜なる哉
2010/08/28人には得手・不得手がある。
私は取り立てて何らかの長所があるとしても、それを理由に誰かの欠点を笑いたいとは思わない。
・・・まあ、日常の中で、自分の欠点に追いかけられて過ごせば・・・生業を維持するのは誰にとっても大変なことのはず・・・強がるためにも、誰かを蔑視したいのは人情かもしれないが、私はそれを潔しとはしない。この不景気なご時世の必然的な欲求の中で、私も日々、心中で悲鳴を上げていてもなお、他者をいびるのは恥と思う。
今は楽でも、その先に待つ苦難を知るが故に、力むことなく、その道が過ちと信じることが出来る。
とはいえ、つまり、他者への蔑視を恥じていてもなお・・・往々、他者と話していて、『やはり◯◯が分かっていないのだな』と思うことがある。
たとえば・・・頑張る人もいれば、頑張ることを嫌う人もいる。・・・果たして、そのいずれが正しいのか。・・・その一方で、必要に応じて頑張り、必要なければ頑張らぬ人もいる。悠々自適、もしくは、自由・自在な生き方。
何を意固地になっているのだろう? ・・・頑張る人も、頑張ることを嫌う人も。 状況に合わせて生きることも出来ず、まるでムキになっているかのような生き方をして。・・・もっと工夫すれば、いや、もっと肩の力を抜けばよさそうなものを。
皆、自我(エゴ)・・・もしくは、いわゆる自我(エゴ)に振り回されていないか? つまり、自分の主であることを忘れて、自分の奴隷になっていないか。いわゆる、欲望と呼ばれる主体を自分と思っていないか?
大切に扱うべきではないか? あなたがそれを本当に大切に思うなら。・・・が、頑張るだけで手に入るのか。(それは果たして、大切なときに頑張らなかった事への反動なのか?) または、諦めてしまえるのか(努力の大切さを過大評価していないか?)
意地に振り回されていないか? そうであるなら、あなたがどこに向うか、いや、あなたがどこに行き着くのかは、あなたの意図がどこにあろうとも自明であって、それゆえ、宜なる哉、と、私は思わずにいられないのである。
例えばそれが、「先祖供養は大切だよね。」という、思いであろうと。・・・今なすべきことから目を背けて、用意には手の届かぬことに努めていないか?
私はそれを「無駄な努力」とは言わない。ただ、「順番を間違えば、多くが無駄になる。」と思うだけだ。
それはつまり、あなたが努力するのは、無駄にするためか、それとも大切にするためか、という問である。・・・この実に明快な問の答えを人々は間違う。「大切にするために」と言いながら、人は無駄にするのである。
人々は無意識に無駄にしている。・・・その事実は、とりわけ不可解なことだろうか?
古今東西、人々は、正義のために人を罰し、平和のために戦ってきた。豊かさを得るために他者を搾取しもした。いわば、当たり前の選択であるし、その選択故に、今の地上が不幸だとは思わないのだろうか?
いや、その事実認識は虚しいものであるか。
この世の中をもって『足るを知る』というのであれば、それはつまり私たちは幸せなのであるから。たとえどれほど苦難が伴おうとも。
むろん、利点を認めず、短所ばかりを論じて、自らの不幸を嘆くのもナンセンスではある。
ただ私は思う。多くの人は、持って生まれた利点を正しく評価せず、不満ばかりいうか、不満も言わずに黙殺している。
自分を活かさずに、いかなる大事業が実現できるというのか? ・・・己が為すべき大事業を思わないなら、その人生はまた、それなりでも宜なる哉。
自らの不幸を嘆く人は、おそらく本当に不幸なのであろうが、しかし、自分の長所を皆、活かす努力をしているのだろうか、と思えば、多分不幸にして活かしていないと思う。
その意味で、本当に「宜なる哉」と思えるのは、つまり、自分の長所を活かして、短所を庇う努力をしている人が多くを得ることであり、また反対に、「失敗にも価値がある」とうそぶきながら、自分の短所を知らず、長所を鼻にかけている人が多くを失うことである。
成るように成り、成らぬようには成らぬ。・・・その当たり前な論理が生きているが故に私は、「宜なる哉」と思い、と、語る。