‘循環の一端’ カテゴリーのアーカイブ

カルマ・頑張ってもダメなら!?

2010/02/28

2010年 2月 27日


 入浴中に女性の霊から話しかけられた。興味深いが、概要を聞いているうちに心配になってきた。話を曲解する人が出ないか? ……この通信霊に相談したところ、「半年ほど寝かせておけば」というので、忘れても困るし、とりあえずパスワード保護をして公開することとした。

 とはいえ、勿体振るほどの内容でもない。俗に言う、口伝に属する話題である。

 つまり、当たり前な内容であるのに、気がつかない人は気がつかず、気付く準備の出来ている人にのみ有益な内容なのである。 そして下書き後に気がついた。もとより読み手を選ぶ内容であるから、別に隠すほどの話ではない。というわけで、一時パスワード保護をしたが、一般公開に変更した。


 とても叶えたい願いがあるのに、頑張っても上手くいかない。 ……だからもっと頑張る。

 さらに頑張って上手く行くならそれで良し。だが上手くいかなければ? ……さらに頑張る?

 まあ、口先ばかりの横着者ならば、そういう選択もある。 だが、物事には程々(ほどほど)が有る。のんびりしても、また、焦っても上手くいかないことは決して少なくない。

 さて、果たして努力が足りなかったのか。それとも急ぎすぎたのか。または、焦りすぎたのか。 つまりは、1、もっと頑張るべきか、 2、少し落ち着くべきか……さて、どちらだろう?

  この二つの見極めがとても大切なのは言うまでもない。なにしろ、同じ目標に正反対の二つの選択肢が有るのだから。 だが念のため。

 私は上に例題を掲げたのではなく、ただ単に選択肢の存在を示したのみである。つまり、状況に応じて努力の程度、速度を調節している人であるなら、わざわざ指摘するまでもない話であり、それを例題として受け止め、どちらだろう、等と考えた人であれば、上述の二つの選択、つまり、頑張るか、落ち着くか、という話以前に心に止めて置くべき話がある。……その話こそが本題だ。

   もっと頑張るべき……のんびり屋も

   落ち着くべき……焦り屋も 共に気付くべきことが有る。

あなたは、理・知以外の何に振り回されて ……いるのか?

 さらにいえば、願いの成就に最適な方法を取れないあなたは……果たして何のために努力しているのだろう?

 苦しまない生き方が有るとしても、苦しむ人は苦しむ。結局、自分で選んでいるのである。

「イヤ、私は苦しむつもりなどない!!」と、あえて言う人もいるだろうが、知る人ぞ知る……私が問題として指摘しているのは、「苦しまないようにしようと努力して、でも、苦しむのは何故か?」という、いつもの話題なのである。

最もいつもの通り、結論は出さないが。

 私がここに結論的な意見を書き留めなくても、気付く人は直して不幸を退け、気づかぬ人は私が結論づけても気付くことはない。

 その差は実に、自分の努力で答えを見つけるか、他者の努力、ひいては実力以上の答えを求めるかの違いなのだが……自分の器量・実力を知っているものなら、誤るはずのない選択……端的にいえば、世の中には、得られるはずのないものを追いかける定めの人がいると言うことでもある。 すると、気づいた人には夢との決別が必要であり、気づかぬ人には、さらなる苦しみが未来、いや気づかぬだけで足下にすでに危機があるのだろう。


 

 

 

 嫌味のようで申し訳ないが……もう少し付け加える。 いわゆる苦しみには、(成功に至る道の)過程の苦しみと、(至らぬさ故の)結果としての苦しみがある。……あなたの苦しみは、そのどちらであろう?

 言うまでもなく、過程の苦しみはいずれ報われ、結果としての苦しみは、改めることなければ消えることのなく、地獄の亡者の苦しみと同種のもので、死後も苦しみが続く。

 あなたは何のために苦しむのか……正しい努力の結果として幸せを得るためか、はたまた、姑息・あくどい手段で幸せをつかみそこねるためか?


 まあ、悩むのも青春の内か?

迷いの解消・前は後ろの正反対(新編集)

2010/01/17

前は後ろの正反対

2004年 06月 17日

 前を見れば欲が出る。あれもしたい、これもしたい。

 前を見るから脇道に入りたがる……一体前ってどっちだろう?

 一生懸命に生きるから、どうしたいのかが判らなくなる。

 そんな時は真後ろを向いてみる。自分が一番イヤな選択肢は何であるか? それを真剣に見つめてみる。そして、その正反対を見てみると……自分が絶対に目をそらしてはいけない前が見る。

 一刻も早く、一歩でも前に。そう思う気持ちが道をそらす。

 真っ直ぐな道より、近道はないというのに。頭で判っても気がつけば曲がっている。曲がっていることに気がつかずに、道が見えないと絶望する。迷っているのではなく自分を信じていないだけ。自分を信じずにいては、自信がなくなるのは当たり前だ。


迷いは万病の元

2004年 07月 13日

「君は迷いが多いね」と指摘されてもピンと来ない人も、設問を逆さにしてみるとわかりやすいもの。「打ち込んでいる物がないでしょう」違いますか?

 何かに打ち込んでいる人は、自分の力の大部分を目的に注ぎ込めます。ゆえに猛烈な力を発揮できる物ですが、迷っている人はいつまでも足踏みを続けます。迷って足踏みをしていると、前に進まないのだから楽なようにも錯覚するけれど、実は泥沼に落ちた自動車宜しく、エンジンを吹かしても車輪は空回りを続けるようなもので、浪費される活力は相当な物なのです。……迷うことに焦るから……迷った時には様子を見る。様子を見るというのは、一念専心休むことが大事なのです。身動きできなければ精神統一するぐらいの気持ちが大切です。それが出来なければ、全力疾走している人よりも心身をすり減らすのが迷いだとおもうべきです。これは全く、迷いを万病の元と呼んでも差し支えないほどです。


衣食足りて礼節を知る

2004年 07月 13日

 衣食足りて礼節を知る――といいます。豊かさと善良さは比例するというのです。これは反対にも働きます。つまり衣食が足らず礼節を失う――というわけです。特に小心な人ほど……と表現されて、「ああ、自分のことか」と思える人は幸いですが、ともかく、僅かな不足、欠乏、不安、などから、衝動的な行動に打って出て、挙げ句の果てに自分の立場をますます悪くする人がいます。

 まずい!――と感じたならば、自分の立場が良くなるように工夫すべきなのに、ますます悪くなるようにがんばってしまう。これはつまり、迷いが迷いを呼んでいる状態です。


迷いの原因

2004年 07月 13日

 知識の不足が迷いを呼ぶ……というのは、ありがちな解釈です。確かに、知識の不足も迷いの原因の一つには違いないのですが、もっと大きな要因は、理想と現実のギャップに求めることが出来ます。つまり、人は理想の実現に困難さを感じると、ついつい、理想と現実を結びつけるような奇抜なアイデア(というより妄想)を弄んでしまうわけです。

 これを業《カルマ》に振り回される等と呼ぶのですが、自分の欲が人を迷わせるというわけです。

・・・・・・・

 穏便とはいいがたい話です。迷いの主たる原因が欲にあるとします。すると、迷いを断つためには、まず欲を断つ必要が出てきます。欲さえ断てれば後は摂理、すなわち自然の法則に任せるだけで、自ずと真理の大道に合流していくわけです。

 ところが、どうしても欲を断てないとすると、迷いも断つことが出来ません。しかし、人は自分の欲の強いことには往々我慢が出来ますが、自分の迷いの強いことは往々我慢しがたいものです。すると、人は迷っていたことを忘れようとします。つまりは、ボーっとしていればいいのですから、迷いを忘れるのは比較的簡単です。

 それでも問題が残ります。迷いは人の活力を浪費するのです。そして、迷いを忘れ、浪費も忘れたとしても……実際に浪費は続きます。疲れた、気力が萎える、めんどくさい、誰かに頼りたい、大事にされたい。更にあなたが相対的な情念を理解できるならこうもいえます。自分が相手を大事にする以上に、相手から大事にされたい。自分が相手を愛する以上に、相手から愛されたい。

 これらは、迷いを忘れた迷い人の症状です。そして魂はゆっくりと堕落していきます。

 迷いの苦しみに欲を断てる人は、すなわち人生の試練をこなせる人です。反対に、欲を断てぬ人は、試練を自らの躓きに変える人です。ある人にとってのチャンスが、別の人の災難となる。人はこうしてふるいにかけられています。これをして無情というのは簡単ですが、宇宙は広くても、人類が使える資源は限られているのです。限られている以上、ふるいがあるのは避けがたいのですよ。


工夫の無さは迷いの証

2004年 07月 13日

 押してダメなら引いてみな――うまく行かないなら、無理をするよりも工夫すべきです。やり方を変えてみたり、ちょっと間をおいてみたり、無理をしても自他共に傷つくだけなのですから。

 ところが、押してダメならもっと押せ――と努力する人の多いこと。それでも開かなければ、人の助けまで借りて更に押そうとする。引いたりズラしたりすれば簡単に開く仕掛けであっても……このような人は無益な苦悩を生み出します。そして、無益な苦悩を人々に振りまきます。

 身近にこういう人がいて、縁が切れなければ……無益な苦悩以前に、自分の因縁に苦悩してしまうのが霊能者の苦労と言えましょうか。


ヒントを遠慮して答えは欲しがる迷い

2004年 07月 14日

 心の迷いが起因する問題について、いくつか相談を頂いております。しかしながら、霊査がなかなか出てきません。では、回答以前に何を語るべきかと探ってみますと、こういう事なのです。

 相談者の方は、気を遣い、ヘルプを乱用しないつもりで、霊媒(老神いさお)に相談するのを堪えている。そして、行き詰まって相談するが、それは結局、問題集に取り組んで回答を見るのと変わりがないというのです。なぜ、ヒントを見ないのか。

 ヒントを見ることを遠慮しながら、でも、答えを見ようとする。その間の相談者の努力とはただ迷いの生み出す苦しみに耐えるだけで、ちっとも成長がない。大事なのはヒントであって、答えではないのです。

 にもかかわらず、皆様は、ヒントは遠慮して答えを求める。……というのも、欲を棄てられず、また迷うことを棄てられないから、ということです。


人の迷いを背負い込む

2004年 07月 14日

 前述、「迷いを忘れた迷い人」――なる者がいたとします。自分自身は迷いを忘れても、迷いを棄てたわけではありませんから、そこにどうしても矛盾が生じます。その矛盾のしわ寄せを一人で背負うのは自滅行為ですが、ありがたいことに、又は、とても迷惑なことに、人は一人で生きられず、家族や社会の中で暮らしています。するとつまり、自分の生み出す矛盾や葛藤を、第三者に押しつけられる場面が往々存在し、それが悲劇の源となっていることを散見いたします。

 迷いの生み出す問題を解決するためには、迷いを棄てるほか有りません。しかし、誰かに押しつけられるなら、迷いが生み出す苦しみからは逃れることが出来ます。そして……苦しくないなら待つことも辛くはありませんね。

 迷いは苦しいからこそ、迷いを棄てようとする……冷酷なようで破滅を避ける仕組みがそこにはあるのに、迷いの苦しみだけを誰かに押しつけてしまえるから、迷いを棄てられずに魂の破滅を招くことが生じるわけです。

 自分の愛しい人の矛盾や葛藤を受け止める……一見、利他的な行為ではありますが、でも、因果応報、自らの迷いは自らが解決せねばならぬのに、迷いの苦痛を逃れたら、迷いを棄てることがますます出来なくなるもの。恋人や親兄弟の業《カルマ》を消すならいざ知らず、ただ苦悩ばかりを預って、利子を付けて返すのでは残酷な話です。

 表面的にいうならば、人は業《カルマ》よりも苦悩を嫌いますから、ただ、苦悩を取り去ることを善として、苦痛を伴い業《カルマ》の消滅は嫌がるのが普通です。そうして人々は愛する人々と一緒に「危地」を進むわけです。――感情的な不安よりも、真実の危険を軽視するなんて、私には耐え難いことですが、それが世間の良識であり、覚者だろうと抗いがたい強制力を持った誤解がそこにあるわけです。


人の迷いをなぞる

2004年 07月 14日

 まったく、まったく。迷いから醒めるには何が必要なのでしょうか? 人類の歴史はおそらくは迷いの歴史。ならば、迷いから抜け出る手だては、いくらでもヒントが見つかりそうな物……ええ、有るのです。ただ、迷える人が考えたことなら、それは迷いをますます深めるような表現を多用しているのが当たり前。

 いや、解脱者もいるけれどね。彼曰く「色即是空、空即是色」

 結局、迷いを棄てた人だけが理解できそうで、迷える人はますます訳の分からぬ言葉に出会ってしまう。

 要するに、迷える人が解脱しようとすれば、人の迷いをなぞることになります。すると、自分の迷いの他に人の迷いまで背負うことになるのです。……勉強で迷いを断つのは難しいものです。


心で、心の迷いは解きがたい

2004年 07月 14日

 前述のように、迷いに関しての相談をいくつか受けました。そして、その霊査はなかなか得られません。それは心の問題を、ただ心だけで解決しようとするから生じるのだと私は思います。

 簡単なことから、行動に移せば、それだけで糸口が見つかり、突破口が広がっていく。案外そういう物なのです。

 ある人の霊査も、なかなか降りずに心配していたら、先方からオフ会参加の打診がありました。すると途端に霊査が降り始めたりして、結局、行動しようとしたことが呼び水になったのでしょうね。もっとも、オフ会の準備に忙しくて、まだ筆記していませんが。

 迷える時は、出来ることから行動を始めるべきです。行動しながら考えることが良い。つまり、人は、考えすぎを防ぐ仕組みを持っているのです。自分を守る仕組みを寝かせておいて、苦しい、助けてというのは、ナンセンスというより、危険なことかも知れませんね。


痛い相談

2004年 07月 15日

 ここ数日、『迷い』をテーマにした更新を続けています。私としてはこんな辛気くさい……でも重要なテーマよりも、取りかかりたいテーマがいくつか出かかっているので心掛かりなのですが、必要な手順を省く事は後々面倒の種となる事を知らないわけではありません。

 迷いの生み出す苦痛について、霊感の鈍い方々は、「苦痛』として自覚していない場合も散見します。ところが、これを霊媒などが共感すると、胃の周囲が痛くなるのでやっかいです。つまり、霊媒能力の強い人が、『あの人、どうしているかな?』……などと思うと、とたんに自分の胃が痛くなるわけです。

 まあ、痛みを感じる事に恐怖するようでは霊媒はつとまりません。本当の交信は、感覚や体験の共有という形で行われるのですから、痛みを表現しようとする霊が居たら、その痛みをそのまま感じるのが霊界での交信なのです。胃が痛くなる相手が何人か居います。

 つまり、交霊で痛みを感じるのは、地上で、痛みに関する話をするのと同じ事です。別段自分の身体に悪いところがあるわけで成し、交信をやめればたちどころに痛みが消えるので、じたばたするほどの事もありません。

 ところが、特に人間相手で困るのは、交霊と比べて話がしつこくなりがちで、しかも、相手の切り替えが下手だから、いつまでも痛みが伝わってくる事です。さらに悪い事に、精神的な痛みの感じ方というのは非常に個人差があり、当人はせいぜいが不平不満の解消程度しか認識していなくても、その話を聞く霊媒には激痛が感じられる場合がある事です。幼少時の体験が原因だったりすると、もう痛みになれて悪夢を見たり、無意識に自傷行為に走ったりする程度で、自分の抱えている問題を適切に認識できない場合があるのです。

 こういう場合、当人にしてみれば、ただ愚痴を聞いてもらいたいだけなのですが、それに付き合わされる霊媒にしたらたまりません。愚痴を聞いているだけなら何年も、何十年もその苦しみを共有させられるのですから、うんざりです。特に、当事者が問題解決に乗り気でなければ、痛みに耐える事が不毛な努力に過ぎないのですから。

 もう一言付け加えるなら、人間の持ち時間には限りがあります。どうせ不毛な事をするなら楽しい事をしたいし、どうせ耐えるなら有益な事をしたいものだ――そうは思いませんか? 私は強く、強くそう思います。

・・・・・・・

 さて、強く痛みを生じる相談が三件ほど寄せられています(中には相談の自覚がないが)。例によって詳細は書けませんし、そもそも痛みを生じるという事は、当人が解決するのに迷いがある事を暗示しています。というわけで、直接のお返事の他に、相談者を想定しつつ、普遍的な回答をする事は、冷静に問題を受け止める良いチャンスかもしれません。

Q「願望成就しない。自分には縁がないと諦めた。」

 適切な譬喩とは申せませんが、良く引き合いに出す話を流用致します。

 「お金持ちになりたい」という願望が成就しない人がいます。障害を明らかにしようと、「なぜお金持ちになりたいのか?」と問うと、「もっとお金を使いたいからだ」と答える。……使っていたら貯まるはずがありません。まして、安物買いの銭失いというわけで、お金の使い方次第では効率の悪い事、おびだたしくもあります。

 この「願望が成就しない」という件も、守護霊様の意見とは別に、私が霊査致しましても、どうも無駄な事に力を注ぎすぎて、肝心な部分に力不足を感じます。

 それは結局のところ、正しい努力をしているというより、自分のカルマに振り回されている状況といえましょう。

 すなわち、自分が幸せになるための願望成就ではなく、自分の欲に引きずり回されている状況での願望成就……すなわち、不幸になるための努力の過程にあるのだと私は判断致します。

 もっとも、あなたの守護霊の判断と私の判断の違いは、視点の違いに過ぎず、問題は縁の有無というより、時機を失して、次の時機がまだ先にあるという事です。待つのもつらいが、待つ間にもすべき事があります。そして、待ち時間を有効に使ったものだけがチャンスに遭遇してそれを無駄にしないのです。

Q「伴侶との行き違いについて。」

 心霊相談を休業する以前から、恋愛相談などはお断りしてきましたが、家族・特に夫婦間の問題や、恋人との間の問題についても、相談したくても相談できずにいらっしゃる方、また、断りの対象になっている事を失念していらっしゃる方などがあります。

 大事な事は、相手の心をどうにかしようとするのは邪である、そして、邪な事を手伝わせようとするのはもっと邪である。という事なのです。

 人生の伴侶に相対するのに、他人の手助けを必要とするなら、それはもう伴侶とは呼べません。つまり大切なのは、どうしたら自分は伴侶たりえるか、という事であり、相手が悪いと思えても、それを補えてこその伴侶、至らぬ同士が助け合うのが伴侶であるとしっかり認識する事といえます。

 もっとも、人生の伴侶に関する悩みの大部分は、「相手が責任を果たそうとしない」という事でして、これがとても難しい。一方的な依存、つまり、夫が、稼がず、かといって家事もせず、あげくに女を作った、なんて話なら、「別れろ……」としか言いようがありません。

 しかし、相談の大部分は、相手の長所を無視して、欠点ばかりが目につくという場合が大部分です。こういう問題は、実は心霊相談よりも整体などの方がよほど効果的な回答を提示できるでしょう。この手の不平不満は、大抵の場合、不健康が理由だからです。

 不健康というのは、病気を意味しません、ただハツラツと生活が出来ず、だるいとか、面倒だとか言って、人の手を煩わせてしまうから、そこに不満が生じ、不満が積もり積もってイライラしてしまい、イライラが高じて感情的になっていく、という悪循環に陥っていると見なすわけです。

Q「親・子との行き違いについて。」

 ここでは、親・子との問題に集約しましたが、縁を切りがたい相手と広く捉えてかまいません。

 特に相手との関係が重荷になるのは、要するに縁を切りがたいからです。で、そこまで問題がこじれてしまうのは、当事者の一方、または双方が、姑息な人間関係の手法を使うからといって良いでしょう。つまり、相手の好意を確認するのに相手を困らせてみる……という事をやるわけです。

 たとえば仕事に行こうとすると病気になるとか、無理難題を吹きかけ、応じなければ泣きわめくとか……こういう無茶な行動に出るのは信頼関係が破綻している……痛みでしか相手の存在感を確認できなくなっているという状況です。

 これは正直辛いし、はっきり言って痛い。そして、解決策もまた無数に見いだせるでしょうが、この手の問題も、やはり、心霊的な解決よりも整体的な解決策の方が効果的でしょう。

 つまり、お互いが不健康だから、不健全な見方・視点で相手を見てしまうのだ、また、不健康だから依存心が強くなり、不健康だから相手の依存心が重荷に感じ、お互い辛いからイライラして和解策もとれなくなっていく。

 この問題の解決は忍耐を要します。また、ここでは不健康と表現しましたが、加齢も、問題の一因となりますね。

抑圧された心

 特に女性に多いのですが、親に対する不平不満から迷っている人が多いのです。もう霊媒だけが分かる痛々しさというより、誰でもこのいびつさに気がつくのではと思えます。

 そして、この問題を大げさにしているのは、親の悪口への病的な嫌悪です。親の悪口をいわず、親の欠点を見まいとする……自分の親を無理に尊敬する為に、自分を騙し、自分をだますから何が真実であるかが分からなくなるのです。

 褒めるの価値観もゆがみ、貶す価値観もゆがみ、何を言わんとしているのかがわかりにくい。こうした事例がすべて、親への不平不満が言えないためとは申しませんが、私の知る限り、こういう事情の持ち主がとても多いのです。

 しかし、赤の他人の行為なら許せる事も肉親の言動ならば許せぬ事もあるはず。他人に冷たい仕打ちをされたところで所詮は他人なのですが、身内が冷たい仕打ちをすれば恨む気持ちも生じますよね。つまり、親だからこそ許せない事の一つや二つ、ないとしたら、それは他人に接するような冷淡さで親と接していると言えなくもないのです。

 大事な事は、親への復讐ではなく、欠点は欠点と正しく認識する事で、適切な……つまりいびつではないフォローが出来るようになる事です。

 ところが……これがなかなか出来ないものです。自分は変われても親を変える事は出来ず、親が変わらなければ悩みは増すばかりですよね。こういう場合、親が死ぬまで治らぬのかな……と思います。

総論

 以上、四点の事例を紹介したわけですが、実はこれらの回答事例は、枝葉末節に過ぎません。こういう回答もしなければ、へっぽこ霊能者が相談者を煙に巻いているようだから書いているだけの事で、もっと簡潔に指摘する事がよほど大切だと私は考えます。

 これら、迷える人は、果たして問題に悩んでいるのだろうか? と私は考えます。むしろ思考過程にだまされて悩んでいるのではないかと思うのです。

 まず、各事例は、自分の大事な人をかばおうとするが故に生じる苦しみです。いわば自分の愛情に苦しめられているようなものですが、なぜかばう事で苦しむのでしょうか?

 その迷いの原点は、物事を善悪で計るところにあると思われます。つまり、善ならば良し、悪ならば拒絶するという価値観と、大事な人に悪いところがあればそれを受け止めようとするところに、矛盾と葛藤の種があるのです。

 善悪で考えるというのは、宗教で言うところの二元論に相当します。つまり、善悪は相対・不離の、たとえば電気にプラスとマイナスがあるように、また、光があれば影が生じるといったように、相対不離で一方には必ず他方がつきまとい、相互に争いを続けるといった思想です。

 しかし、近代心霊思想は、一元論で受け止めます。プラスとマイナスは中性の揺らぎ、光と影はただ濃淡が違うだけ。善とはより高度な存在であり、悪とは未熟な存在を指す。いや、老子の思想を考え合わせれば、影があるから光を認識できるのです。

 悪だから異質の存在……なのではなく、未熟だからあなたが補わなければならない。そう受け止められれば、ここに迷いはなくなるはずなのです。

 つまり、愛しい人に悪があれ、それをどう取り除くかに心を痛めなければなりません。それはつまり、相手の欠点が二人の間の障壁であるという事です。

 しかし、愛する人にあるのが悪ではなく欠点ならば……相手はあなたを必要とするという事、すなわち、欠点があるからこそお互いが、強く結ばれざるを得ないという事です。

 愛する人の、または、あなたの親の欠点を正しく認識しなさい。というのは、あなたが大切に思う人の悪を見つけろ、相手との断絶を直視しろと言うのではなく、あなたがより強く結びつけなければならない点を見つけなさいという事なのです。

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人生の伴侶がなかなか見つからない

 まあ、以上で終わりにすれば話もきれいなのですが、ちょっと強欲な質問にも答えておきましょう。

 むろん、人生の苦楽をともにするのですから、その相手はなるべく頼りがいがあり、また、迷いや不正の少ない方が良いものです。……で、速やかに伴侶を手に入れる人は、ほとんどの場合、「私がいなければこの人はだめだから……」と、欠点を補うつもりで相手と接しています。(そのくせ、不健康になると、相手の欠点を重荷に感じて不平を言うのだから……いえ、そういうカップルを支える事も友人の勤めですよね)

 対して、伴侶を得がたい人は、「この人がいなければ私はだめだから……」と、欠点を許さぬ態度でいます。

 不幸にして……欠点のない人はいませんから、このような態度では死んでも伴侶を見つけられません。往々、「あの世で伴侶を見つけろ」と怒鳴りたくなるような強欲な人もいるぐらいです。間違って見つけた人がいるなら、人を見る目のない人か(当事者さえ幸せならば、ねえ)――控えめな人なのでしょう。

 いや、いや既婚者から恨まれるような発言は慎みましょう。


迷いは霊感の大敵

2010年1月17日

「霊能者は自分の未来は見えない」・・・等という。なんのことはない、そもそも迷いが生じたとしたら、それは背後霊の庇護を外れたということなのだ。――庇護下に無いのに霊感を使えば、回答者がいないのに良い返事が得られるはずも無い。イヤそれどころか、野次馬な霊にミスリードされる危険もある。

 私もまあ、誰かの助言を欲することもあるが、なんとか自分の霊感内で収まるか、追認程度で済むことが多いのは、ちょっとしたコツがある。

 まず、迷いが生じた事自体を楽観視しない。行き詰まったら元きた道を戻るぐらいの覚悟を決める。

 また、答えが無いのも答えのうち、とも覚悟する。つまり、何も答えがなければ、まあ、何とかなる、ということだ。

 そして要領の得ないメッセージを受け取ったら、それこそ、とことん行かなければならない、ということだ。途中下車は許されまい。

 人生で横着する様々な事態は、所詮、途中経過であって、良いことも、悪いことも、最終結論ではない。つまり、どう転がるか、わからないのである。だから、今は悪くてもジタバタしない。それよりも何よりも、霊媒にとって恐れるべきは、状況・事態の悪さではなく、背後霊らとの絆の有無なのである。それゆえ、たとえ不幸を味わっているさなかでも、自分が愛されていることを信じなければならない。

「人生は、背後霊(守護霊・祖霊)との二人三脚」と思うなら、迷いとは、チーム全体の危機なのです。眼前の事態だけの問題ではありません。それに気がつかなければ・・・視野が狭いということです。ならば・・・運が悪いならそのうち改善するかもしれませんが、自分が悪いなら、決して改善しないことを暗示します。

 それはもう、ただの迷いではなく大問題、いや大問題というより、救いようの無い問題、ではありますが。

船頭多くして船山に上る

2004年 11月 15日

 兎角、気弱な方は、いろいろな方面の意見を求めます。確かに多方面からの情報は物事を立体的に浮き上がらせるものですが、情報が増えれば増えるほど、物事の理解には高度な分析能力が求められるものです。

 特に分析中に難しいのは、取捨選択で、人の意見には主観もあれば偏見もまじり、切り捨てることがなければ、立体的に浮き上がらせるどころか、矛盾だらけで組み立てようがなくなることもよくある話です。

「船頭多くして船山に上る」といいますが、あちこちの意見を聞いて廻り、かえって迷いを増やすのであれば、気弱さから迷うという悪循環に呑み込まれてしまいます。

……さて、気弱さ故に迷ってしまった人が、そこで己を反省したとします。

「なぜ、私は迷ったのだろうか?……そうだ! きっと船頭が悪いからに違いない。今度は別な船頭を頼もう!!」

 しかし、気弱さからまた、たくさんの船頭を雇い入れればやはり船はやはり山に登っていくのでしょう。

……この意見は、迷える者をあまりに見下していないか! そう思われますか?

 智慧あれば助言に頼らず、分別あれば助言に迷わず――智慧も分別も無いから助言を受けて迷うのです。すべての迷える者が救いがたいとは申しません。しかし、間違った助言の受け方をしている人は救いがたいと思います。


当たり前のこと

2006/04/30

2004年 06月 29日


 先週、足の悪い母を連れて、とある気功師を何度か訪ねた。私にも整体の知識はあるし、それなりに実績も持っているけれど、母の足に関しては、「(主に再婚先の)祖先の因縁」と出ていて、簡単には治らないことを確認している。反対に、背後が「やれ!」という時の効果のすごさも知っているが……ここで言っても強がりにしかならない。私は母の足を治していないのだから。

 幸い、母はとても困ったことに(?)偽薬効果の出やすい人で、新しい所に連れて行くと慣れるまでの二、三回は非常に喜ぶ。まあ、話題はそこにはない。

 昨今、癒しを求めている人が多い。母を連れて行った先でも頭を抱えるほど、嫌みったらしい「癒し」を感じた。癒し効果のある水、そして石、土地、訳の分からぬ機械に、偉大なる先生様。確かにそれは素晴らしいものだ。だが、その水、その石は、いかなる命を生み出すのだろうか? それに比して……往々、ぼろくそに悪口の対象にもしているが……我が母・父は私を生み出したのである。

 赤の他人に親身になってくれる、この気功師もありがたいが、なにやら大事にすべき者を、一つ二つ見落としているかのような気がするのは、私の気のせいか?

・・・・・・・

 足の悪い母を送って、私は車を玄関前に横付けし、母を降ろして、ちょっと離れた駐車場へ車を持っていく。それを見た気功師が、「あなたの息子さんは親孝行だねぇ」といったとかで、母が喜んでいた。単純な話である。

 私は別段、いや、特別に親孝行を心がけているわけではない。ただ、駐車場から歩かせると日が暮れて、朝日を迎えてしまいそうだから、玄関前に落とすだけだ。要するに合理的なのである。母もその辺は心得ているが……どうやら内心では気がついているようだ。私のいう合理的とは、本来当たり前のことであり、当たり前なことが出来ないのが周囲の人々であることを。要するに、老いた親を「役立たず扱い」する事でストレス発散している人々が多いということを。

 先日、叔母が私を気の毒がった。「あなたもお母さんの世話ばかりしてないで……」でも、昨年末の渡米とその前後の準備・整理期間、合わせて一ヶ月強の間、母に顔を見せなかったら、久しぶりにあった母の顔が歪み、呂律《ろれつ》が回らなくなっていた事を話した。

「まともに話をしてやらないと、ぼけるし、ぼけたら目も当てられないからね。」

 うーん。孝行息子の化けの皮が剥がれそうだが、私としてはやはり親孝行というより合理的なつもりなのだ。因果応報。善因善果、悪因悪果。……私を褒める人々を見ると思う。

老子より、「大道廢、有仁義。知慧出、有大偽。六親不和、有孝慈。國家昏亂、有忠臣。」……大道が廃れて仁義が有り、智慧を誇るから偽りも現れ、親族が不和だから、孝行が評判になり、国家が乱れるから、忠臣が評判になる。

 私は親と当たり前に付合っているだけなのです。歩かせるのが面倒だから車を横付けし、ぼけられると困るから、相手をする。……そうしない人々が当たり前で、そうする人が褒められる? 現代人類って、レベルが低いんじゃない?


2004年 06月 30日

6月29日「当たり前のこと」の中で、私は、

「子を産めぬ気功水や気功石よりも、大切にすべきものがあるのでは」と、主張した。しかし、こういう表現が回りくどく感じる人が多々いるようだ。

「子を産めぬ気功水や気功石よりも、我が身を生んだ親を大事にせよ」となぜ主張しないのだろうか……と。

 私はいつもこのように重点をぼかす。わざとであるし、信念でもある。さてそれをどう語ろうか。

 一つの事実は、見る人によって様々な解釈が成り立つ。その多様性こそが精神世界・霊界の美しさであり、強さでもある。私は誰かに自分の考えを押しつけたくはない。それは一様化であり、もろさであり、侵略であるから。

 私は心霊知識を学んだ。そして得たのは自己の正しさと、他の思想への敬意と、違いを乗り越えて助け合うことのすばらしさだ。たしかに世の中には他と共存が出来ないものがいる。しかし、神経質にならねばならぬほど、世間は狭いわけでもない。

・・・・・・・

 私の師ならば、ここぞとばかりに先祖供養の大切さを語るだろう。だが出来の悪い私は思う。「先祖供養って何だろう……?」と。私のHPの読者なら、先祖供養が、高価な墓石や仏壇、又は僧侶の読経、お花・お香の事だとは思うまい。……おそらくは。

 祖先を尊敬し、敬うことだ……と、言葉にすることも出来る。でも、その言葉にうなずいた人も、腰が痛かったり、足が痛かったりしたら、気功やら何やらにすがりつき、「ああ、老神やらご先祖様よりも、この気功石・波動石の方が霊験あらたか」等と思うかも知れない。まあ。老神いさおについては実際にはその通りかも知れないが、……生まれてきたら祖先は用済み、後は現世利益の多い方が……等という考えは戴けない。そもそも、生まれてこなければ苦しみもないはずで、それでも生にすがりつくから癒しに頼るのである。

 私は先祖供養さえあれば、気功やら健康器具・医薬品が不要であるというのではない。自分の親や子と向き合うことを面倒がり、嫌がりながら暮らす……生活の基盤に嫌悪を残しながら、自分の幸せを外に求める滑稽さを指摘したいのだ。

 そういう目で改めて見て欲しい。癒し……結構だけれど、現実逃避としての癒しが何の救いになるのか? 現実を正せてこそ、本当の癒しではないのか? ところが、どうも癒しブームで注目されるのは、少々浮世離れした場所、物、人だ。 ……それって変とは思わないか? どう変であるのか……を自分で考えられないなら、あなたは生きる術を持っていると言えようか?


2010年 02月 15日

 母はその後、再婚相手と離縁、手術で人工股関節を入れて、元気に遊び歩いております。

地上で学ぶべきもの

2006/04/16

 そもそも、精神性がすべての事象を生み出し、自己表現の自由な場である霊界から、わざわざ暗く、鈍く、不自由な物質世界に生まれてきたのは一体なぜなのでしょう。……それを考えてみてください。

 人生は魂の修行の場といわれますが、具体的にいうなら、思慮深さと忍耐と工夫する力の育成である事が地上の特質から見て取れます。

 つまり、不自由に負けず、使いにくくても放り出さず、それらを生かす忍耐力。そして、いかなる困苦や逆境をも目的達成の手段に用いる、魂の柔軟性と強さの鍛錬なのです。

 守護霊は霊界にありながら、欲望に囚われ、勘が鈍く、目先のことに囚われて、気分屋な人間を指導していかねばなりません。その守護霊はどの様にして霊性を磨いたのか、どの様なことを重視して霊性を磨いたのかというなら、まさに地上において、忍耐力と柔軟性と強さを鍛えていったのです。

 ですから、私どもが、地上にあって、辛い、苦しいという気持ちを、守護霊はとても良く理解してくれます。しかし、守護霊達も同じ困苦をくぐり抜けてきたのです。私どもを容易に甘やかせてはくれません。


2006-04-16

信じる心

2006/04/16

 自分を信じる事は大切です。それは力を生み出しますから。

 何かを信じる事は大切です。それは力を増しますから。

 しかし、何かを信じても行うことがなければ、霊性の向上も魂の向上もありえません。

 そして充分な霊性を持たないと、信ずるに値するものを見分ける事も出来ません。

 学ぶ事、行う事、そして信じる事、良い人生を生きるためには、バランスが大切です。


2006-04-15

自らが騙す

2006/04/09

2006年 04月 08日


 これでよい、という安易な発想、
 出来ない、という情けない言訳、
 それがどれだけ人生を汚しているか。

「あなたはそれでよい」という言葉が欲しくて、
 自分の責務を背負ってくれる人を求めて、
 他にすがりつく

 騙された、という人の多くは、他(人)を、摂理(仕組)を、言うなれば自己の運命を騙そうとして失敗し、そして悔しがっているのだ。

 払う代償よりも遙かに大きな利益を求めていはしないか。自己の過ちの清算ではなく、幸運を買いたたいて儲けようとしていないか。

……騙されない方法はないか、という問いかけは巧く騙す方法はないか、という下心から出ている。その矛盾に気が付かないから、他の矛盾にも気が付かない。

 つまりは、信じて騙されたと感じた人は、悔しがる前に、隙の解消を心掛けるべきである。

 他に依存するから苦悩が増すのである。答は外にではなく、自分の内にある。それが理解できれば人に騙されることに傷つくことがなくなる。なんとなれば、他人の言動はヒントであって答ではないということだから。答と信じて飲込むから、騙されたと感じるのだ。

 ヒントであるなら、試行錯誤を繰返して、納得のいく部分を取込めばよいのである。

 もっとも、物事を論理ではなく、好き嫌いで判断する気質の人々に、これは有益な助言とは成らないだろう。…… 他人に依存せずには生きられぬ定めの人なのだから。


環境は大同小異。後はテクニックだ。

2006/04/03

2006年 04月 02日


 車で悪路を走るとする。突然ハンドルを取られて車はあらぬ方向に……その原因は果たして、路面の悪さか、操作ミスか、車の故障か、誰かの謀略か。――私自身、霊感をもち、また、霊障に苦しんだ経験もあるから、霊障が無いというつもりは無い。だが人の苦悩の原因を、霊障に求めるのはどうかと思う。

・・・・・・・

 上述、「車で悪路を走る」を比喩としてそれを説明するなら、霊的環境がつまりは道路である。少なくとも道が合っての車であるから、全ての原因は路面に求めることも出来る。ここでわざわざ、「悪路」と限定したのは、世間一般に心霊知識が普及していなくて迷信が多いことを表わしている。

 悪路であるから、操作ミスや故障を誘発しやすくはあるだろう。……だが、道が悪いのは誰もがほぼ、同じ条件である。たとえ心霊知識があろうとも、その心霊知識がいかに磨かれたかを考えるなら、つまり悪因縁が多すぎた結果、必然的に身に付いたと考えれば、人の備えた条件に個人差がありそうでいながら実は大して差がないことに気がつく。

 すると、本当に差が出るのは、操作ミスの有無、故障の有無、では無かろうか。そう気がついたが故に私は、それ以上に心霊知識を掘り下げるよりもむしろ、人としての上手な生き方に改めて研究心を向けることになった。…… むろんその過程はあまりに幼稚であると自認している。(どのレベルかはここでは問題ではない)が、ある意味古典的な智識を再認識して直ちに、もう一段別な視点があることに気がついた。

 実はこれ、心霊相談を通じて深まった理解とも関係がある。……私の見るところ、「悩み多き人」とは、つまり切り替えが下手な人なのだ。

・・・・・・・

 操作ミスや故障の有無は、むろん重要な要素ではあるが、それ以上に重要な要素は、 異常の把握能力なのだ。つまり、操作ミスや故障も、やはり誰にでもあり得ることなのである。ただ、進み方の早い人は、操作ミスをすかさず是正し、また、故障が小さなうちに素早く修理するために被害を最小にしているが故に、他よりも早く進めるのである。

 つまり、悪路の運転において、道の悪さからハンドルが取られる……等ということを問題にするのは、悪路の運転技能を持たぬものがいうことなのだ。

 悪路(人生は険しく)でなおかつ車(身体)は故障が避けられない。

 操作ミスや故障の有無という要因も、人の備えた条件に個人差がありそうでいながら実は大して差がないのである。

・・・・・・・

 すると結局――様々な障害要素があっても、最後は(人生の)運転テクニックの問題に至る―― ということになる。

 だから私は、心霊思想・心霊知識を人類の必修過程となるべきと信じているが、大人が生涯を掛ける程の価値がない事を感じ取っている。 ……それが私の一番の苦痛なのである。もっと冷静・淡泊――つまり、慌てず、着実に進む研究家がもっと増えてくれれば私の負担も減るのだろうに。


葛藤を解決する

2006/03/18

2006年 03月 17日


 伝家の宝刀はみだりに振るうものではない。乱用すればたちまち刃こぼれをしてしまう。……つまり、しまっておくべきものはやはりしまっておくのが良い。だが、持っていることを忘れては意味がない。

 問題解決の英知、特に葛藤の解決法には刃こぼれは起こりえないように思えるが、やはり乱用は禁物なのである。なんとなれば、葛藤するような曲がった心は、曲がった状態を好み、話術でそれを正しても、その話術に心が慣れると無意識に嘘をつき始めるからだ。…… そして当然、忘れてしまっては学んだ意味がない。

 ここで扱うのは葛藤の解決法ではあるが、使わなければ意味がなく、乱用すれば効果がなくなるものである。読んで応用しようと思う方はそれを注意していただきたい。

 

引き篭もりを続ける人に聞く。

「あなたは何をしたいの? したいことがあるなら手伝ってあげるから」

……だが、返ってくるのは葛藤に満ちた言葉の羅列か、さもなくば葛藤で口が利けなくなった挙句の沈黙だろう。

大体において、葛藤もなく生きている人は、葛藤の解決策を知っている人というより、神秘を目にしてもさして疑問を抱くこともなく、盲目的に日々を送る人なのである。そういう人に葛藤を打ち明けたところで、理解を受けずに傷つくだけだ。悩める人は悩まぬ人を鈍感・無神経と憎み、悩まぬ人は悩める人を過敏で面倒と嫌う。……相談する以前に価値観の溝が広がっている。

葛藤する人と向き合い、何もすることの出来ない自分に気がついた人は、自分の歩んできた人生が不毛ではなかったかと恐れてみるべきである。

乱暴に言えば、葛藤とは、好むものが多すぎて、どれも捨てられずにいるものだ。ならば発想を転換するのである。自分が捨てたいものを選ぶのは実に容易だ。では、その中で一番捨てたいものは何であろう……一番不要と思うもの、その反対のものが一番必要なものではないか。

そうやって問題を絞っていけばおのずと葛藤が消えていく。だがこの智恵だって、自分を正そうという気持ちのない人にはまったく役に立たないことである。


親子の確執

2006/02/23

2006年 02月 22日


 この問題に目を奪われると、大局を見失います。悩んで、悩んで、それでも答が得られないのは、その問いが難しいためであるのか、問題の本質を捕らえ違えているのか……

親子の確執

 他人に言われて気にならぬ事でも、親に言われるととても傷つく言葉は多々あります。しかし、親が親をやっているのではなく、人が親をやっているのです。そこに至らぬ点が無いはずもありません。親の勤めを忘れて失言することもあるでしょう。……だがそれを云うなら、あなたは子としての本分を常に尽くしているのでしょうか?

 互いに事情を持ち、互いに言い分もあります。……細々としたことを突きつけあっても問題は拗れるばかり、拗れるような事ならば考え、悩み、そして論じる価値がありません。互いに人として、未熟な親、未熟な子として努めるなら、互いの至らなさは果たして責めるべき事なのか、いたわり合うべき所なのか、どちらでしょう?

 大地の周囲を太陽が回るのか……太陽の周囲をを地球が回るのか、それとも太陽と地球が互いに巡りあっているのか、その運動の見かけは似ていてもよく見れば違うのです。

 立場は違えど、互いに人生を磨きあう仲なのです。罵倒で魂を磨くのか、それとも……


何を通信するかが大切なのだ。

2006/01/31

2006年 01月 30日


 良い電話機を持っている人が、友人に恵まれているとは限らない。……するとせっかくのその電話機は、あまり意義のある会話には用いられぬことだろう。だが良い友人に恵まれた人の電話なら、たとえボロくて雑音だらけで聞き取りにくくても有意義な会話に用いられるに違いない。

 大切なのは手段ではなく、目的だ。つまり、霊感が大切なのではなく、何を通信するかが大切なのだ。

 時折、他者の霊媒能力に批判的な意見を目にする。批判するその人の霊媒能力は果たしていかほどのものだろうか? 心霊知識の持ち主は、大多数がいう「誰もが霊媒能力を持っているが、ただ、生かせていないのだ」……と。無論、心霊詐欺師までこの弁法で庇おうとは思わない。だが、詐欺師というのはエセ霊媒のみがするものなのか? いや、エセ霊媒以外の詐欺師もいるのである。つまりは人の問題なのだ。それゆえ「霊媒だから○○だ」と決めつけるのは、その論者の心底に妬みがある等とほじくり返すまでもない。表面明らかに差別的であり、才能ハラスメントでしかない。

 宗教や心霊に関心を持つ人ほど、どうも人権について無思慮な人が多く見られると思うのは私だけであろうか? だがそういう人権に無思慮な……つまり独り善がりな意見に流されることなく、霊的才能を自覚なさった方は、どうか着実に、そして静かに霊的才能を錬磨なさっていただきたく思う。くれぐれも身勝手な意見に心乱されることなく、同時に、闘争心に負けることなく修行を収めていただきたい。

 だいたい、他人の足を引こうとするのは、生きている人も死者の魂も、皆コンプレックスの塊、ヒガミ根性の結晶だ。そういう波動に身を晒しては心身の健康を損なうし、進んで守護霊からはぐれて、わざわざ迷子になるようなものだ。

 無論、慎重さは大切だが、魂の進むべき道は、永遠修行の大道なのだから、いうまでもなく、あれもダメ、これもダメ、あんなのダメ、それもダメ、と批判的意見が多い境涯などに真実・光の道などあるはずもない。

崖を飛べという人を信じろとはいわない。だが、道を下れという人も信じるべきではない。

 急な坂道は頂上への近道……だが、楽だからといって立ち止まり、または、下り道ばかりを選べば、どうあっても山を登るはずもない。

 ・・・

 私よりも霊感が強いのに、それを生かすチャンスに恵まれていない友人が、今頑張っているらしい。近況を知らせるメールを受け取った日はとても嬉しかった。その後、文献データの整理をしていたら、ふっと、ある資料のところで手が止り、懐かしい声で私にこう語りかけた。「あの子に送ってあげなさい」……可能な限りすみやかにそれに従った。おまけにたまたま受けていた相談先にも送ってしまった。

 資料の内容を大雑把にいえば、「人に接するには、機・度・間がある」ということだ。機とはチャンス、度とは回数、間とは……説明が難しいが、これがない人を間抜けという……そして、機・度・間を生かせるのは、呼吸の静かな人だという。すっかり忘れていた話だ。だが読み返してみて、

嗚呼!! と思う。

 同じことを言うにも愚かな私なら、心の静かな人というだろう。だが誰が好きこのんで心を乱すものか。――心の乱れに、心を乱せば救いようもないが、息を整えることで心の乱れも最小に出来るのである。こういう生きた知恵こそ語り継ぐだけの価値がある。

 ・・・

 私も屁理屈屋であるからこそ、屁理屈を止めぬ愚者を嫌うし、屁理屈を超越した人を心底敬愛する。そして、故人であるところの我が心の師(霊媒の師はまだ生きております)の言葉を素直に喜び聞いてくれたこの友人を私は祝福せずにはいられない。

がんばろうな!!


お知らせBy老神いさお。

ただいま、メールヘのお返事が遅れています。今しばらくお待ち下さい。

移行途中のデータが時折、トップページに掲載されますが、編集作業の都合ですので、今しばらくご容赦ください。旧作については、本文右上に日付が記載されます。

東京オフ会: 3月度の東京オフ会は3月20日(土)午前に開催いたします。参加申し込みは、メール・フォームメールなどでお申込みください。

大阪オフ会: 大阪オフ会は4月11日(日)午後に開催いたします。参加申し込みは、メール・フォームメールなどでお申込みください。
 打ち合わせ用のページを作成しましたが中身はありません。今後参加者の皆様にパスワードをお知らせすると共に内容を追加して行きます。

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