‘盧氏’ カテゴリーのアーカイブ

修行の栞

2006/01/06

2006年 01月 05日


 修行をしたいという申し込みが増えている。しかし、私はいささか前を歩いているかも知れないが、ゴールにたどり着いたわけではない。それもあってか、改まって教えを乞われて戸惑うことがある。ついては「修行の道標」となる事柄を霊達に質問してみた。

Q 「どう修行すべきでしょうか?」

A 「あまり修行、修行とあらたまらぬが良い。人の数だけ修行の形があるのに、下手に修行の知識が広まれば、大勢が形に嵌ろうとして窮屈になっていく。自由闊達に自分を伸ばすのがよいのじゃ」

……なるほどと思ってしばらくこの質問は棚晒しになっていた。ところが、廬氏がこの件につき回答しようといいだした途端、それを遮るように話が広がった。

A 「己の過ちを認め、足らぬものを認め、弱いところを認め、欠点を認めることが、地上の生で学ぶべきことだ。

 霊界では、過ちがあろうとも魂の行き方が鈍ることなく時は過ぎていく。つまり、魂の行いが悪いことは、すなわち地上の人のいうところの妄想となって、ただその妄想が大きく膨らんでいくだけのことだ。正す必然がない世界では間違いを正すのは容易ではない。指導の神々(通信のまま、スピリチュアリズム的には高級霊と呼ぶべきか)が口を酸っぱくして言い諭しても開き直って、ワガママを改めようとしない霊魂の何と多いことか。……実をいえば、地上に再生する魂の中には、妄想をあらためぬ為に、『ならばその信念を地上で試してみよ!』と、送り出される者もいる。

 であるから人は、自らの信念を地上で貫いて自分の正しさを証明するか、心掛けを改め、素直に、そして誠実に生きるようにと勉めるかを選ばなければならない。……であるからこそ、隠しておきたいことがあるのだ。ただ苦労に信念を曲げ、死後は再び、夢幻界でワガママ放題をしようとする安易な霊魂に、抜け駆けの知識を与えたくなかったのである。……まあ良い。わしらもズルを認める気はないでな。」

Q 「素直で誠実に生きる、とは、魂の修行の完結の目的ではなく、人生の修行の完結に関する助言ですね。」

A 「うむ、廬氏の口出しを恐れたのは、氏が自らの努力による魂の完結を目指す方であるからだ。それに対してわしらのやっていることは、いわば、『授業を受けるなら師に敬意を払え』という程度の話で、無論必然もあってのことだ。ただ、情けないことにこの程度の課題さえも解けぬ者の何と多いことか……」

……ああ、たしかに……

A 「そう、心霊を学ぶというのは、素直に生きるということである筈なのに、大多数の者が、 無理を通す為に心霊を学ぼうとする。霊媒も神仏も騙してまで、自分のワガママを通そうとする魂の何と多いことか。その様に先のない行き方をする霊魂と関わらず、己の修行に専念することだ。」


地上人生の目的とは?

2005/11/20

Q「地上人生の目的とは?」

感化――漏れなく感化を受取る場である。

 親が我が子を学校に送るのはなぜか? 教育というのでは大雑把に過ぎる。家に籠り切りを避けるため、身体を動かす機会を与えるため、食事の偏りを正すため、生活習慣を正すため、同年代の子供達と触れ合わせることで協調性を育てるため…… 親が育児以外のことに専念するためというのも理由の一つかも知れない。
 これらすべては答たり得る一方で、どれか一つだけを目的と見なすのは間違え……少なくともその視野の狭さを恥とすべきであろう。
 地上の生には様々なチャンスがあり得る。それをどう受け止めるかは一人一人の感性に依る。ただ、普遍的であるのは、他から多くの感化を受けるべき魂が地上に送り出されることである。
 人生が、霊性向上の修行の場であるというのも答の一部である。だが、この表現はいくつかの誤謬を含む。「では霊性とは何か?」…… その解釈に勝手が持ち込まれると真理が意義を失ってしまう。一部の指導者がそれぞれの思うことで人々を導こうとするが、真理を超えた教師はいない。正しい教師に優れる書物もない。書籍は読み手を選べず、教師には指導技能の限界があり、真に頼るべきものはただ真理だけであるが、ありのままの真理は人々にとって迂遠で掴みがたい。すると人は修行をするというよりも、修行を受けるための修行中なのだと思うべきだ。……真に師とすべきは、真理であって人でなく、そして書物ですらない。人が書に学び、人に学ぶのは、ただ、真理を掴むための手段を磨いているに過ぎない。人は多くの感化を必要としているのだ。
 魂は永遠の向上の目指すのである。修行にあの世もこの世もなく、ただ、修行の種類に相応しい場があるというだけのこと。そして地上は修行の初歩に用いられる場である。死は決して偉大なる終わりではなく、初心者の踏み越えるべき一過程に過ぎない。それ故に人々は死に対して、迷い、目を逸らし、そして騒ぐのである。その哀れなる逡巡の様を見れば、地上の生が魂の歩むべき階梯のごく下段でしかないことが分るだろう。背を押されなければ前に進めぬ者、そして、段を上がれずにくぐり抜けようとする者ばかりが地上にいる。

Q「なぜ邪魔をする者が多いのか?」

 一方で、人生を修行の場と見なすことには、大きな誤謬がつきまとう。……多くの人が疑問を抱く。「地上が学校のようなものであるなら、どうして多くの悪人がいるのだ、修行の邪魔をし、修行を壊そうとする者が、なぜこんなにも多いのだ」

魂が歩むべき階梯の底辺であるから――その疑問は、地上にいる魂が、霊魂の辿るべき階梯のごく底辺にいることの傍証でしかない。つまり登り始めた者と、未だ登ることを知らぬ者とがいるのである。―― これが階梯を一段歩めば、後は登るか、降りるかの選択しかなく、階梯を上がることの歓びを知った後は、早く登るか、遅く登るかの違いしかなくなる。

 ぐずぐずしているのは、登ることの意義を知らず、登ることの歓びを知らぬ者である。ぐずぐず言うのは登ることの意義は知っても登り方を知らず、登ることの歓びだけを知っている者である。階梯の底辺だけにある混濁にすぎない。

 澄んだ水を湛える美しい湖も、その底には泥土が堆積している。その泥土が地上に比せられるのだ。

 死後個性の存続を信じぬ者の存在も又、地上がごく底辺であることの傍証の一つである。わずか百年前後で無に帰すような霊性で満足する者もいれば、永遠の霊性であろうとする者も地上にいる。……永遠の成長を信じつつも、未だ登ることも知らぬ者もいれば、死後個性の存続を信じぬまま、辿るべき階梯を登り始める者もいる。それらの者達は互いに感化し合い、また、天の摂理からも感化を受け、その在り方が変化していくのである。

Q「人生を無駄にせぬ為には」

感化の機会を大切にする――厭わず、焦らず、多くを見聞きし、出来ることは体験することである。善き行いは、自らを守るために行い、悪しき行いは、自らを守るために慎む。人は過ちからも学ぶことが出来るが、改めること、正すことを知らぬままでは、人は必ず行き詰まる。いずれは行き詰まるが故に、過ちを押し通すのはワガママであって自由とは異なる。真の自由とは、己に過ちがあるとき、それを正せる行動力のことである。その自由を得てこそ、人生を我が物にしたといえる。自由なき人生は他の奴隷に過ぎない。……奴隷として生きるのは人生の無駄である。


2006年 02月 18日

矛盾した悩み

2005/11/20

心を鏡のように静めなければ、ただしく見、ただしく聞くことは出来ない。


Q 「なぜ、現代日本には矛盾した悩みを持つ人が多いのか」

親不孝ゆえに――人が己の体験だけで、悩み、苦しむのならば、そこに矛盾が入ることはない。出来るものは出来、出来ないものは出来ないのだから。為すか、為さぬか、答はそれだけだ。

 だが人に強いられた生き方の中で、人は往々に矛盾に直面する。なんのことはない、ただ『指示が悪いのだ』と思えればよい。だが、様々なしがらみがそれを拒絶する。

 特に己に自信のないときは『指示が悪い』とはなかなか言出せぬ。……「では思うとおりにやって見よ」、と言換えされることを恐れるようでは矛盾の中で苦しみ、もだえて、よりよい指示が必要と気づいてくれるのを待つよりない。

 さもなくば、泣きわめき、暴れて見せて、その矛盾を知らしめるか……自ら進んで、己の人生を歩む。それなくしては人生の矛盾から逃れることは出来ない。

Q 「それが親不孝とどう関係があるのか?」

無抵抗という批判――そもそも人生の全責任は、己自身が負うものだ。だが、人は正しく己の責任と向合っているのか? 自ら進んで生きず、人の指示に嫌々従い生きる。それで失敗すれば誰が悪いのだろう? 実施者である己自身か、それとも指示者か? ……多くの人はこんな責任逃れの小細工をしては居ないか。

 無抵抗という批判、従順という親いじめ……親に従うのは親孝行のようだが、指示に従い苦しむことで親を悩ませているのである。これを親不孝と言わずになんと言おう。

心底の卑劣――人々は、上辺の素直さだけで満足しがちだ、だが、霊達にまず最初に見えるのは心底なのである。そして、無理に素直に生きようと努める人々は、矛盾の中で捻れを起し、心底に意地の悪さを育てている。

 周囲に素直に、親に従順に生きようとして、でも巡(運)りの悪さに苦しむ人々が「なぜ霊達の助けが得られぬのか!」と悲嘆に暮れる。だが、霊達にまず最初に見えるのは「心底」なのである。それ故に無抵抗という批判、従順という責任逃れをしているものは、おぞましいバケモノのように感じるのである。

自縛――なによりも困るのは、責任逃れの従順者は、あまりに多くの意見を聞いて、どれ一つとして全うしないことだ。指導されればされるほど、混乱し、矛盾を深め、あらぬ事をするのである。

 また、見落されがちのことであるが、目的への道は一つとは限らず、意見の多くが正しいとしても、選択肢が有るが故に、混乱し、矛盾を深め、わざわざ誤った道を選ぶのである。

 心底に捻れがある者は、正しい意見を聞いても、理解することは出来ない。理解できずに行えば過ちを犯す。そして、責任をとりたくないから従順に生きる者が過ちを犯せば「指導の間違い」をなじるという卑怯をする。

 それがどれほど危ういことか……直接憑ろうにも捻れがあるし、霊媒を通じて助けようとすれば霊媒を傷つけてしまうだろう。…… 救いがたいのである。その心の捻れ故に。

Q 「指示が悪いと思えれば、なぜ良いのか?」

代償――何事にも代償が伴う。親が子に注ぐ愛情を「無償の愛」と呼ぶのは構わぬが、「無償の愛」とは与えて見返りを求めぬ事であって、無償で受取れる愛と思うのは、盗人根性というべきだ。無償に甘えるから価値を知らず、生かし方に気がつかないのである。……親子間の甘えとは、親が子に教える一番大きな間違いであろう。

 子育てとは、未熟な親が更に未熟な子供を育てるということである。育てる課程で親は多くを学ぶわけだが、幼少の子供が学ぶことは、未熟な教えであることに留意せねばならない。親から自立せぬ子は役に立たぬのである

 失敗を恐れ、批判をかわそうと汲々としている者が、自分が生れてこの方、未熟で役に立たぬ事ばかりを教わってきたと認めるのは難しかろう。……それこそが、青年を悩ます矛盾の根源である。

 初期の間違いを正すことがなければ、その上にいかなる論理が組み上がるのか? 歪んだ基礎の上に家を建てるようなもので、家が歪まぬ方がおかしい。

 成長し、社会に出ることで、親の教えや子供時代の生き方に過ちを見いだしたとする。それは、育てて貰った代償と割切り、以後は大人としての生き方、自己責任を自覚する生き方、ひいては親に負担をかけぬ生き方を心がけるのが自然の流れなのだ。

成人す――人に成るということ……親の責任を軽減する。それをせずにどうして成人したといえるのか? 親の未熟さを何時までも体現して見せて、それが親いじめでないといえようか? 親も過ちを犯すものだ。親をかばうには、過ちを隠すのではなく、過ちを繕わねばならぬ。……不満を抱くのではなく、欠点を繕うことが必要なのだ。

Q 「親の問題点も見えてきますね」

 親にも無理があり、不自然を行うから子供を迷わす。

 功労経た親が己の矛盾に気がつかぬのであるから、年若い子供が親の矛盾に気がつくのはなお難しいと知るべきだ。

 親不孝な子供を持つのは、親の自業自得でもある。――だが、業とは未熟や過ちから生じるよりも、認めぬ事、改めぬ事から生じるものが根深く、災いが大きなものだ。災難の種を播きながら、それを刈取ることをせず、ただ、天を恨み、人を嘆く。…… 悲痛な祈りであるがあまりに醜い祈りでもある。

 過ちを認めず、過ちを改めず、ただ結果だけを変えようとする。そんな無理や不自然を誰が正せようか?

 すでに妄想に浸るものが、神示・霊覚を得ても生かすことが出来ないのは自明のことである。自然をないがしろに、不自然を求めているのだから。

 霊を求める者は救われがたい……心霊家が心得るべき矛盾である。

 不自然・超常が霊ではなく、自然こそが霊なのだ。それを素直に受止めたとき、人は霊覚に目覚める。

・・・・・・・

……なぜかくも現代日本人は無責任になったのか?

 己は無責任なままで、他に救いを求める大無責任さよ。……嗚呼!!


2005年 11月 22日

どう修行するか?

2005/11/15

どう修行するか?

2005年 11月 15日

Q「最近、統一会がマンネリ化しつつある気がします。良き道をお示し下さい」

意図的な物――修行に形式を取入れると、進み具合の如何に関わらず、形式を守ることに満足しがちだ。特に、理解していない者ほど形式に従うことに満足してしまう。現状は自覚を促している時期である。

Q「オフ会参加が困難な遠隔地の方から、個人的な修行の方法について質問を受けました」

某女の守護霊より……「それについては、私がお話しいたします。」

・・・

 まず、池に指輪を落としたものと想像してみてください。ある人はがむしゃらに手探りで探すでしょう。またある人は息を凝らして水面をのぞき込み、さざ波が収まった水面からおよその指輪の位置を捕らえて、それから手を差し伸べて指輪を拾うでしょう。

 むろん水は光の屈折が異なりますから、思う位置へと指を運ぶのは容易ではありません。ですが、この比喩のいわんとすることはもっと精神的な答です。

 迷った時、困った時、自らの能力を超えた出来事と出会った時にあなたはどうするのか? この時の態度こそが、心霊主義者とそうでない者との差なのです。

 地上世界は助け合いで成り立っています。いえ、争いで成り立っているという見方もありますが、ならばなおのこと助け合うことが大切であるといえるのです。さらに心霊主義者の理念を再認識するなら、死者と生者とが助け合わずして、どうして地上の生が魂の向上に繋がるというのでしょうか?

 むろん、努力は大切です。でも、ただ努力するだけならば真の心霊主義者とは申せません。最初に心を静め、己が為すべき事をしっかりと見据えた上で努力する。努力の合間、合間にも一時は手を休め、目指すことと努力の方法が違ってはいないかを確認し、限界のある物質的肉体に無理がかかっていないかと点検する。…… そういう生き方が出来てこそ真の心霊主義者なのです。

 ただ信じるだけ、頼るだけで、何ら生かす努力がないなら、それは心霊主義者ではなく、心霊信者、心霊教徒に過ぎません。つまりそれは偉大な理念の協力者ではなく、他者の進歩向上に寄生する扶養家族に過ぎないのです。

・・・

 ここで、一つ大切なことがあります。心霊を学んだ人は自らも霊感を磨こうといたします。そしてしばし……しばし精神を統一し、心を澄まして異界からのメッセージを得ようと努力し、そしてたちまち諦めます。しかし、答のない物は答えようがないのです。…… 上述の例で行くと池の水面を覗いても指輪が見つからなければどうすべきでしょう? 泥に埋まったと疑うべきか、思わぬ所までとんでいったと思うべきか? はたまた自分には見つからぬと諦めるのか?

 心霊主義者が霊媒に指導を仰ぐのは、共同でカンニングをするためではありません。そこに無いことを確認するためなのです。そして在りかの探し方の指導を得る為なのです。

 無い答えを諦めることは利口なことです。ですが、自分の霊的才能を諦めることは、顕幽両界にわたる修行の旅の否定となるのです。もしもあなたが何ら霊的センスを発揮できないというのであれば、それはつまりあなたはごく初歩的なトレーニングの最中、つまり、修行の旅の代りに、旅に必要な基礎的知識の習得中であるということなのですから。

 忘れてはいけません。あなたが霊的センスを発揮できないのは見捨てられたからではなく、あなたが諦めているからです。あなたがヒントを得られないのは、あなたが見捨てられたからではなく、他者が答えられない質問をするからです。

 人生に責任を持つべきはまさに当事者、当事者なのです。他の誰でもありません。するとどうしても、他者には決して答えられない質問に心囚われることもあるでしょう。問うても答が得られぬ事に心を悩まさぬ事です。それはつまり現実からの逃避でしかありません。だから、答が得られなければ質問を変えてみることです。すると糸口が掴めるかも知れません。… …いつかは。

 多くの人は歪んだ問いを延々と続けて、答が得られぬと天を恨み、恨みの念がさらに必要なる答を隠すことに気がつきもいたしません。心を清らかに保つことの大切なのはそういうわけです。

「やはりダメだ」……という言葉は、つまり努力を放棄する者の言い訳です。世の人に霊感の無い人はいません。霊感という言葉に語弊があるなら、地上に直覚のない人はいないのです。……ただ、真実からあえて目を背ける人と、下らぬ事にばかり目を向けて、大切な物を見落とす人がいるだけのこと。

 心霊主義者とは、大切なことから目を背けぬ人をいいます。何よりも魂のあるべき姿から目を背けぬ人をいうのです。

 最後に……世の中に霊感の無い人はいません。それゆえに「自信とはつねに守護霊と結びついている事」という見方をお伝えしておきます。大切なのはコミュニケーションの手段・手法ではありません。それは努力で補えることなのですから。でも、あなたが守護霊を信じないのなら、守護霊も力を発揮出来ぬ物なのです。それもまた、答えられぬ事の一部なのです。


どう修行するか 2

2005年 11月 15日

某女の守護霊より……

Q 「心霊主義者であることは重要であるのか?」

 人生において心霊主義は必須の答ではありません。私の庇護者にも心霊主義者であることを強いはしません。ただ、地上に死者と手を携えて修行・向上の道を歩もうとするの人がいるのと同様、死者の中にも修行・向上の手段として、地上の人々を助けることを選ぶ者達がいるのです。

 つまり、心霊主義者であるかどうかを重視するのは、霊界にある「霊心主義者」なのです。むろん、この重視とは単なる主義思想の異同ではありません。互いにどれだけ共鳴・協調するかというものなのです。

 一人でコツコツと学ぶのも良いでしょう。でも、助け合うことで人はより広く、より客観的に学ぶことが出来ます。これはとても魅力的な選択肢です。


Q 「人と共に学んで、他者の間違いを鵜呑みにしたらどうなるでしょう?」

 間違うことも学びです。間違いを正すことはもっと大きな学びです。何よりも悪いことは無関心であること……違いますか? 心霊主義に限らず当たり前のことかと思います。


Q 「それぞれの求めることと、行うことの違いが対人関係の重荷です」

 違いに気づこうともせず、違いを思い知った時に「裏切られた!」と大騒ぎする。……確かに重荷でしょうね。素直に与えられた物だけで満足し、足りないものは自らの努力で得るようにすれば、きっと無様なことをせずに済み、無様なことを恥じることもなく生きることが出来るのに。

 でも私の庇護者はそういうことはしません。


Q 「かつての私は急ぎすぎたのでしょうか?」

 あなたに限らず、皆、あまりに不足を来していたのです。飢えているのに急に食べるから腹痛を起してしまう…… 足りないぐらいがちょうど良いのです。

 広い世の中、足りなければ大騒ぎする人があまりに多すぎます。でも、自らの努力もなく足りぬと騒ぐ者に真剣に応対することも愚かといえます。


Q 「次のステップへのヒントをいただけますか?」

 これは私の庇護者一人に宛てるものではなく、あなたのオフ会参加者一般にあてはまることです。

 まだまだ不平不満を吐き出さねばなりません。確かに足りぬものはあるでしょう。ですが、充足すれば人は往々安穏としてしまいます。適度に足りず、でも、充足する希望がある状況こそが在家の修行者にとって満足する環境なのです。

 それこそ、廬氏ではありませんが、足りぬ事が問題ではなく、充足する希望のないことこそが問題、いえ大問題なのです。それを、少々の不足で不平不満をいうなら、充足の希望が遠のいてしまいます。


守護霊のこと

2005年 11月 18日

上記「どう修行するか 2」において、通信をくれた某女の守護霊についての問い合わせを受けました。

参考: 「失せ物探し……焦るな

・・・

「溺れる者は藁をもつかむ」と申しますが、溺れている人に不用意に泳ぎ近づくと、必死にしがみつかれて、水泳のベテランでも共に溺死することがあります。

 同様に、悩める人に安易に守護霊からの通信を与えたりすると、しがみついて大変なことになり兼ねません。自分の気に入るメッセージを得るまでは延々と愚にもつかないことを質問攻めに質問攻めし、その返事が小言ばかりだと、心の空虚感を感じた相談者は、それこそ、明日の天気から、時事問題の細々としたことまで質問攻めにし、質問のくだらなさに辟易とすると、ますます質問がエスカレートするという悪循環に陥ります。

 水泳中にしがみつかれたら、わざと水に潜るとしがみついた人が手を離すそうですが、質問者が緊張しているときには、わざと回答をずらすのも霊媒が共倒れしないためのテクニックの一つです。

・・・

 さて、霊感の仕組みを知らぬ人は、必死な問いかけには相応の回答がもたらされると誤解しがちですが、その必死さは想念(誤った希望=妄想)の壁を作ってむしろ交霊の邪魔になります。ですから、必死な人が回答を得るのは疲れ果てた末のことです。疲れて想念の壁を維持できなくなって始めてインスピレーションが得られるわけです。……これでは非常に疲れます。

 世の中には、「私がこんなに必死に祈っているのに守護霊は応えてくれない!」という方もいらっしゃいますが、その心情は同情に値するとしても、仕組みから見れば無理難題に等しいのです。もっとも、一種ヒステリー体質的な人ならば、トランス状態にはいることでより高次なインスピレーションに浸れるかも知れませんが、よほど前世の因縁などに恵まれない限りは難しいでしょう。

 これに対して霊媒は、たった一度祈って、あとは待つものです。たとえ悩める人に同情してしつこく祈ったところで出来ないものは出来ません。かえって自らを想念の壁に押し込めて一時霊感が失われるのがオチです。……この、待つことが出来ない人が、インスピレーションから遠い生き方をしているわけです。

 とにかく、守護霊の返答を受けるのに重要なのは、動機よりもむしろ手段なのです。だから、悩める人が霊媒に相談するなら、どんなに焦っていても(どうせ相談中には何も出来ないのだから)五分でも、十分でも、落着き、精神統一する必要があります。

 困っているから助言が得られるのではなく、心を落着け、静かに祈れば、いつでも可能な限り手助けを与えてくれるのが守護霊です。しかし、心が乱れ、大騒ぎをしているなら、たとえ問題解決に可能な手段がたくさんあっても、それを伝達する手段を失ってしまうのが守護霊なのです。


ひねくれる

2005/11/12

「ひねくれる」というのは誰に対する裏切りか――ひねくれてみても現実には逆らえぬ。ひねくれてみても現実は変らぬ。ひねくれてみても同情は受けぬ。ひねくれてみても事態は悪くなるばかりだ。

 ひねくれ者は、強がりばかりを重ねて、事態の悪さを放置する。時機を失した物事は覆すことが難しい。

「ひねくれる」というのは、自分を裏切る行為である。自分を味方にできぬなら、どんな簡単なことすら実現は叶わぬ。……そして、より身近な者の裏切りほどその害は多いものなのだ。すなわち自分自身の裏切りよりもひどい裏切りはないのである。

Q 「でも、素直に生きるのは難しい」

 水が高きから、低きへ流れるように、自然の摂理に沿って生きるなら難しいことは何もない。だが、不自然は、容易に行えぬし、力を抜けばたちどころに元に戻るものである。

 素直に生きるとは、いったい何に対して素直になるというのか? 摂理か、己の慾か? 真理か、己の愚かさか?


2005年 11月 12日

商売をどう捉えていくか

2005/11/03

Q「商売をどう捉えていくか」

 概ね、先ほどの通信(下に掲載)に含まれている。

 その労働への意欲は善し……いかに稼ぐかではなく、どう働くか、という決意ある質問である。質問者の気性や今の暮らし向きを知る者であれば色々と細かな助言もあるだろう。が、私はその決意を重視する。

 仕事に打ち込めばこそ、注意が疎かになって過ちも犯す。そして、人が人である以上、過ちを減らすことは出来てもなくすことは出来ない。従って、「商売にいかに取り組むか」に関する答よりも、むしろ「商売にどう取り組むべきか」と常に思う姿勢こそが大切だ。……答を得れば、そこから「なれ」が始まる。そして、人は狎《な》れると大切なことを忘れるものだ。

 だから私は思う。智慧よりも疑問こそが解答である、と。

 先の通信に、「商売としてではなく生活として考えよ」とあるが、商売に取り組む姿勢もまた、今の最善を尽し、明日は明日の最善を尽し、今日の最善よりも明日の最善の方がより多くの誠意と技能が籠められることこそがあなたの成長であろうし、あなたが為すべき修行であるだろう。いわば、商売の方法に答があるのではなく、あなたがより良い姿に成長することこそが大切なのだ。

 その答は日々刻々に見つかるかも知れぬ。だが、その疑問は永遠に失ってはならぬものだ。


 しかし、疑問を抱くのにも智慧がいる。いくつか役立つ考え方を伝える。

主客を明らかにする――何事にせよ、目的を見失えば多くを失う。商売は大切ではあるが、何のために商売が大切なのかを考えなければ意義は破綻する。

主客をわきまえる――商売の主はあなたである。だが、あなたに商売をさせている主はだれか? 誰があなたを健康に生かし、仕事をさせているのだろうか。 それをわきまえて働くのであれば、寺院に多くの寄進をするよりもはるかに善い祈りとなるのである。

仕事が終われば大いに笑う――商売には気苦労も多いだろうし、金のためには我慢も要求されよう。だが心は常に晴れ晴れとしていなければ、疑問は恨みに変り、決意は流れ、心が曇って霊覚も鈍るであろう。思い悩むことは明日にして、仕事が終われば大いに笑い、笑いで心を癒してまた明日の仕事に備えよ。
 いかなる理屈よりも先に、これが大切、これが出来なければ、いかなる修行、いかなる勉強も意義を失う。
 本来は一番最初に掲げるべき事である。だが、最初に読めば侮ってしまうことでもある。行わざる者には理解の出来ない智慧、口伝でしか伝えられぬ智慧である。

俗人は笑いで癒せ――では、聖職につくものは何で癒すのか? 智慧よりも疑問こそが解答である。


先ほどの通信とは……(廬氏ではない)

『商売ではなく、生活と考えよ――商売の難しさとは、金のやりとりに夢中になって他に気が利かなくなることだ。なるほど、世の中には金に妙な因縁を持つのか、金にならぬ事ばかりに手間暇掛ける者もいるが、質問者は相応、金運にも恵まれ、また細かな無駄遣いを省く心掛けもある。華美に走らず、見栄を競わず、無駄を省いて、労を嫌わぬ。であるから、大きな金銭の不足をおそれる必要はない。

 ならば、わざわざ商売……つまり金のやりとりに智慧を巡らせず、生活の一部として金儲けを考えることだ。

 つまり、稼げても失うものが多ければ手を出さず、稼げなくとも得るものが多ければ進んで行い、時と信用を大切にして、良き人生の一部としての労働・商売、同時に勉強・修行、さらには楽しみ、生き甲斐となるように心掛けよ。

 当人がいくら将来を心配して小手先の工作をしてみても、神が干せば人は飢える。であるから心配するよりも目前の機会を逃さぬようにせよ。この機会とはむろん金儲けの機会ばかりではなく、自分にとって良き事すべてを大切にすることだ。』


2005年 11月 03日

忍耐も必要な修行か?

2005/10/27

Q 「忍耐も人生の修行の一つでしょうか?」

 為すことが修行の第一であり、待つことはその一部でしかない。

 為すために必要ならば待つ――それが大切である。目的なき忍耐は問題の先送り、時間の浪費でしかない。一つの事柄に拘り、人生には多くの課題があって、その多くは平行して片付けられる類の問題であることを正しく認識しなければならない。待たねばならぬ事があるなら、それは忍耐の時間ではなく、別な仕事を片付ける時間である。

 (待ち時間に)為さずにいるのは愚かであるし、(待ち時間に) 為すべき事を見いだせぬのはさらに愚かである。さらに、不平は冒涜いい訳(責任転嫁)は甘美な自虐でしかない。…… 人は為すために生れてきたのだ。待つためにではない。

 だが、地上に目を向けるなら、多くの人が待つことの辛さに悲鳴を上げて、他に為すことなど捜すゆとりさえないようだ。だがそれは、冬の中にあって、春に焦れるかのように……時が流れるだけで終る忍耐なのか?

……真の問題は、自らの欲望が実らぬことであろう。実らぬ苦しみを、待つことの苦しみにすり替えているのだ。だが、アワを播いて米が実るのか?

 為すために生れてきたのに、為すべき事を知らず、為す術を知らず、欲に炙られ、時の流れに焦って苦しみもがいている。…… 忍耐は実らぬ欲望の苦しみから人を救わない。

 だが道に迷った者はまず立ち止ってみる事が大切だ。自分の立場を見、自分の選べる道を見、求める未来と今・現在の有様とが一つにつながる道筋を見いだすために。……必要なのは忍耐ではなく、心を止め、自分と向合うことである。

・・・・・・・

 すぎたる欲望は苦しみでしかない。だが多くの場合、欲望が生み出す苦しみは、欲望に見合う行動力さえあれば解消する問題である。つまり、己の不甲斐なさを忍耐の問題にすり替えて、苦しい、苦しいと嘆いている。……嘘つきを救う神・仏がどうして信仰に値しよう? そんな怪しい神仏を拝んで後、宗教に騙されたと泣くのはすなわち己の業である。

 ああ、人は過ぎたる欲に苦しみ、それで足りぬ者は騙されてまた苦しむ。騙されてもなお過ぎたる欲に気がつかぬ者は、本当に騙した者が誰であるのか、本当に自分を苦しめているのが誰であるのかに気がつかず、他者を恨んでなお救われぬ。…… 自分のあり方さえ変えられぬ人が人を変えようとして苦しむのである。その愚かさは一生かかっても治らぬ。来世もまた同じ苦しみをするのか。


2005年 10月 28日

責任の所在を知る

2005/10/27

「責任感が強すぎるのも困りもの」という話題から…… 


Q 「無責任とはいかなくても、脱!過責任はどしたらいいのぉ~?」

 一つ実例を見せることが出来る。私はあなたの人生に責任を負わない。あなたがどう生きるか、(あなたの)人生にどう対処すべきかは、あなたの考えることであり、私の考えることではない。

 人が為すべき事は、人生で出会う一つ一つの事柄に、まず、心を止め(無駄な考えを働かせず)、真心を持って認識し、淡々と心・体を動かすことである。すると物事は自然に動いていくものだ。(……だからこそ「あなたの問題である」という前提が生きてくる)

 物事が自然に流れていかぬとしたら、そこには過ちか、無理、無駄がある。それを改めなければ無駄と犠牲が増えるばかりだ。…… 行き詰れば、立ち止って考え、方法を改めるべきである。

「過責任」などは一つの結果にすぎない。……問題は「強引な生き方」にある。傷つくように生きて、そして傷つく。…… 因縁果の働きとおりである。ならば対応策も因縁果の働きに従えばよい。結果を改めたければまず原因からただしていくことだ。

・・・・・・・

 他のために一生懸命に働いて他者を幸せにしても、自分のために働かなければ自分は幸せにならない。

 これだけ働いたのだから自分も幸せにしてもらえるだろうなどという交換条件で考えるなら……考えるべきだ。

 雇われ店員の給与は、売上げと比べるとあまりに僅かであることを。

 他者の為に働いて得られるのは福徳ではなく功徳である。つまり、得た経験こそが報酬と考えなければならない。

・・・・・・

 いや、おそらくあてにしている自覚はないのだろう。だが、無意識に行動していると分析すべきだ。…… 人の分の苦労を背負い込むことで、自分の業が軽くなることを祈っている。と。

 背伸びをすれば危うい。……ではなぜ背伸びをするのか? 心が危ういからである。


2005年 10月 27日

自分を見下す

2005/10/23

自分を見下す

2005年 10月 23日

 

Q 『自分を見下している自分と葛藤しています。それをどう受け止めたらよいでしょうか』

心を止めよ――葛藤とは自らと争うことである。努力すれば努力するほど葛藤は高まる。解決の努力を休むことなく解決策は見えず、心を静め、休めぬ限り解決はない。

 自らと争う事ほど無駄なことがあろうか。そして自らを信じぬ事も何たる無駄であろうか。己自身がこんな無駄をしていながら人に助けを求める。……智慧ある人ならそれが実に不毛なことに気がつくはず。

 相談者は、精神修養の大切さに気がつきながら、かたちばかり正しくあろうとして、心を静め、とどめる努力をなおざりにしている。姿形ではなく、かたちの見えぬ心の修行こそが大切なのに、人に教えを請う限り、姿形を整えることに夢中になって、遙かに修行から遠ざかってしまう。

 真の道から外れた努力であるから、努力しても筋肉の力、脳力の力しか出てこない。内心から湧き上がる友愛の念と縁がない。だから、皮肉で、冷酷で、下品なインスピレーションばかりが耳に残る。

 他の誰が認めようとも、自分自身が己を認めていない生き方。それを続けることの何たる孤独なことか。心を止めよ、誘惑があろうとも、また、自責の念、羞恥の念に焙られようとも、心を止めよ。最後に残るのはかけがえのない自分の心であり、自分が進むべき道だ。

 たった一つが残るまで心を止めよ。迷えるままに動き続ければますます深い迷いに捕まるだろう。

・・・・・・・

Q 「だいぶ間隔は長くなりましたが、この方からは何度も同じような質問が来ます」

 つまり、自分を信じていない。悲観を信じて、希望を信じず、希望を信じさせようと自分を騙し続けている。騙すのに疲れれば身体を動かし本当の問題から逃げ続けている。また、依存心と信仰心を混同しているので、なかなか自らを救うチャンスに出会えない。

 正しく自分を信じなければ、正しい人を信じることも出来ない。正しい人を信じてみても、理解を誤って自らを騙す。同じような回答を出し続けても、同じような質問を繰り返すのは、つまりそういうことだ。

 見よ、仏教は正しき教えであるが、いかに多くの者等がそれを誤って用いたことか。それは世界のいかなる宗教にも当て嵌まることだ。

 いくら人に学ぶ姿勢があろうとも、正しく理解できなければ人は迷い続ける。

Q 「浮き世暮らしと修行との両立はやはり難しいのでしょうか。」

 こうもいえるだろう。正規品よりも、代用品に手を出す人があまりに多いと。正規の品は得難く見えても本物であるが、代用品は代表品でしかない。

 自分の可能性を広げるための努力は良し。だが、芯がなければならぬ。――それを「筋が通らぬ」という。筋の通らぬ事を延々と続けて、実りの無さに嘆息しても誰も救うことは出来ぬ。

「忙しいから」を言い訳にして手を抜き、手を抜くから無駄仕事となるのだ。これは、在家・出家に関わらぬ、本人の資質の問題だ。 …… 同じ質問を繰り返す者達は、つまり筋が通っておらぬ。筋を通さずに結果だけ求める姿勢はあまり美しくもない。

 だが、人生の何がそんなに忙しいのか? 好むものにはいくらでも熱中できるのに。そう、熱心な努力家ほど、自らを救えずに苦悩する図がそこにある。

 ……間違った人生観が棄てられぬから本道に徹することが出来ない。間違った人生観に照らし合わせるから、真理の筋が飲み込めない。今の苦から逃れる努力ばかりで、苦の源泉を断たぬからいつまでもジクジクと苦しみ続けるのだ。

 つまり、過去の自分を救わずにいるから、未来の自分も救えぬのだ。……今だけを見ているものが陥る苦境である。


我慢から生じるストレスの扱い方

2005/10/21

我慢から生じるストレスの扱い方

2005年 10月 21日

Q 「中耳炎に罹り、治療を受けているのですがちっとも治りません。薬が合わないのでしょうか?」

……ストレスがひどくて治りが遅いようです。

Q 「確かに色々、問題は抱えていますが今のところは出来ることもなく静観するようにしています。」

……確かに、頭を切り換えようと努力しているのでしょう。しかし、あなたは、人に会話を遮られると、声が大きくなる人ですよね。つまり、こらえ・我慢するのにとても強いストレスを感じる人でしょう。

Q 「ではどうすればいいのでしょうか?」

……さあ? 面白いテーマなので廬氏に助言を求めてみましょう。

・・・・・・・

Q 「我慢から生じるストレスの扱い方」

 最初にいう。――治療の助けには成りがたい。相談者は職場で、気むずかしい、扱いが難しい人物と見なされている。むろん周囲の誤解や、一人に多くを背負わせる事への罪悪感もあろう。

 いずれにせよ、そこに想念の澱みが生じて気の巡りに悪影響を及ぼしている。実際、(想念の)影響を受けやすい(社内)人々は、詰らぬ慢性病の形で表われているだろう。仕事の忙しいときほど具合が悪くなる。つまりそういうことである。

 二つ目にいう。これは今後の修行の在り方である。

 まず、人は魂の器である。したがって、魂がより快適に働ける在り方こそが、人が目指すべき生活態度である。

 さて、この世は、そして、我が身さえも、一個の魂がままなるものではない。多くの魂、多くの意志がせめぎ合った結果が表われているのであって、ではその結果が誰の意志かというと判然としない。一部には我の意志が働き、他者の意志も反映されている。それが意志と結果の関連である。

 すると結果とは自分一人が思い詰めることで実現することではないし、して良いことでもない。確かに、自分の意のままになれば面白くもあるだろうが、誰かがワガママをすれば他が憤り、ムキになって改めようとするのも摂理の内である。…… 勝てば恨まれるのである。正しくとも勝てば恨まれるのである。

 これは一重に人の意志ばかりに当て嵌まることではない。人一人と思ってみても、実は、自分は多くの意志を背負っていたりする。守護霊・祖霊・背後霊といった霊的環境もあるが、観念的にいえば、親兄弟、配偶者や子供等の意志を担っていることもあるだろう。…… なかなか勝手は言えぬ。勝手を言うとあちらこちらに障害が表われるものである。

 そう、事を為す……為すというのは自分の責務のようでいて、実は違う。自分はただの焦点、多くの意志の焦点に過ぎないのである。それ故に多くの人に望まれてやったことが、また多くの人から反対・非難を受けることにも繋がる。

あなたは責任感が強い……だが、誰が本当に責任を持つべきなのか?

 自分は生かされている。生かされてこの仕事をしている。……もしもあなたが過ちを犯したとしたら、それは、あなたを生かし続けてきた者にも責任の一端はあるだろう。

 そう、あなたは自分の責務に対して信念を持っている。だが、その信念は果たして正しいものなのか?  真に「責任を持つべき者」それが見えないが為にあなたは信念で自分に責任を課しているのではないか? 責任感の強さから人の分まで、また、神仏の分まで責任を取ろうとしてはいないか?……「過ぎたるは及ばざるがごとし」、摂理に反してまで責任を取ろうとすれば、その無理のすべてがあなたのものとなるのは自然なことだ。

 あなたは罪を犯していない神仏の分まで責任を取ろうとしているのである。病気などで済むなら、何と摂理は寛大な事であろう? きっと、そんなあなたをかばっている者がいるに違いない。

・・・・・・・

 設問を間違えば、正しい答は得られぬ。ストレスの解消法が必要なのではない。無用なストレスを受けぬ方法が必要なのである。

 その上で考えるなら、責任感が強いが故に、あなたは、自分の思いのままに行おうとする。人の考えでは責任がとれぬからだ。

 だが、あなたの責任に関する信念は果たして正しいのか? そもそも責任の所在は信念で決めるべきものか? 違う。責任者を決めるべきはその仕事の流れである。

 あなたは自分の不運を不満に思っていよう。だが、あなたの責任感の強さは、罰当たり(悪業)的ですらある。にも関わらず、その程度の障害で済んでいることは私が見るに、よほど庇われているのだろうということだ。


八つ当たりでもするか?

2005年 10月 21日

 

 友人等との会話の中で、我慢から生じるストレスの扱い方についての話題が出た。車での移動中でメモをとれる環境ではなかったので後ほど霊査を取ると約束して話題を変えたのだが、その間、「藁人形でも作って八つ当たりしたらどう?」等という罰当たり的な発言もあった。当然の如く、私の霊耳に『品のない!』と、非難が飛び込んできたのだが、その時、ふっと、廬氏が微笑むのを感じた。

「皆は品がないというだろうけれど、廬氏ならきっと違う答が返ってくるよね。」と私は話した。……で、尋ねてみた。

 ただし念のために明記したい。ここで大切なのは廬氏の意見ではなく、廬氏のスタンスだ。下品な質問を下品だからしてはいけないといわない。疑問には真剣に応えようとする姿勢があるのだ。

・・・・・・・

 恨むなといわれて恨まずに済むなら容易い。だが人は恨みと無縁には生きられぬ。だからといって恨むことが良いとはいわぬ。何よりも大切なことは、恨みは相手よりも自分を傷つけることを知ることだ。

 技能は言葉で伝授出来ぬ――技能は言葉で伝授が出来ぬ。作ろうと思うものの試行錯誤が不可欠である。だが、いずれにせよ試して自分の胸が痛まぬとしたら、それは出来損ないの呪具である。なぜなら、人間関係において非のないものなど無く、どちらにも相応に非のあるものを、一方にのみ責任が及ぶ呪具があるとしたらそこにあるのは正義でなくてただのワガママだ。

 さて、ワガママをいうものは人を困らせるだけでなく、自分も困った立場に追いやるものだ。従って、呪具に効果がなくても、自分の非を忘れて相手ばかりを恨んでいれば、自分に禍が及ぶであろう。自分に禍が及ばぬのであれば、その恨みは非力なものであるのだろう。

 非力な恨みの持ち主が一体何が出来るのだろうか? 不平不満をいうことで、自分の未来を浪費するだけのことだ。

 恨みは何よりも自分を傷つける。その様な呪具が何の役に立つのか? 誰の役に立つのか?

 恨みに思うことがあれば、まず必要なのは呪具ではない。その恨みを手放すことである。そうすれば己は悪業を生まずに済む。また、人の悪業に流されずに済む。……わざわざ恨むのは、相手の悪業を肩代わりするようなものである。あなたが受け取らなければその悪業のすべては相手の元に返るのに。

 だが、その悪業を当てられても受け止めずにいるのは難しい。それは理性よりも反射の働きによるものだから。悪業の帰し方を言葉で伝授する事は出来ぬ。試行錯誤が不可欠である。

 呪具の作り方など教えようもないが、呪具などが必要とは私には思えぬ。…… 摂理があれば充分の筈だ。あとは試し、慣れることだ。


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