‘盧氏’ カテゴリーのアーカイブ

負けん気

2006/04/12

 『怒りとは相手に対する負けん気である。が、相手に優位を感じているなら、負けん気など感じる必要もない。鷹揚に言わせておけばよいのである。鷹揚に言わせておけぬということは、相手の非を見て、それを正せぬ己の弱さを自覚しているということだ。負けん気とはつまり、勝利を求める気持ちでなく、負けを認められぬ弱さである。弱いから吠える。

 負けだから悔しいのだ。悔しいから、神仏を引き合いに出し、霊媒に頼り、正義を口にして地団駄踏む。

 真に悔しければ勝て。相手の非に対して鷹揚に受け止められる強さを得よ。

 相手に非があるからといって、相手に勝てるとは限らない。すると、神仏・正義の弱さを詰る気持ちが生じるが、それは正しい見地ではない。心霊家であるならすでに教わっているとおり、人は修行のために地上に生を得るのだ。……どうして地上に、学ぶ必要のない者がいようか。……どうして、神仏が、修行の機会を奪うというのか。愚か者だからこそ修行が必要なのだ。ならば、非を持つものは神仏の保護下にある。非を行うためでなく、非を正すために神仏に守られている。それが霊的真相である。

 むろん、自ら非に気がつかぬ愚か者も多い、それ故に様々な機会が準備されようし、その結果、善良に生きようとする者が心を痛めることもまま見ることではある。だが、善良である者も、修行の機会を与えられたればこそ善良に生きられるのだ。同様に非ある人にも機会を与えねばならない。

 許せとはいわぬ。だが、己が気持ちの負けを、神仏の弱さにすり替えてはならぬ。』


 非を正すことを口実にしてみても、非に憤ることには復讐心が含まれる。そして復讐心は醜いのものだ。他人の非をあげつらうことで己の非を正当化してはならぬ。

 負けん気は、敗者の気の持ちようである。そが証拠に、負けん気に取憑かれたものは、卑怯な手段を使ってまで、相手に復讐せんとする。 … …姑息な手を使わざるを得ないところに、すでに正義無く、勝利無く、ただ、より惨めな敗北が待っていることを暗示する。

腹が立つ……そは仏教に於いて、地獄に堕ちると同義の言葉である。その救いを求める無かれ。

弱き我を救えと祈るならば聞く。だが、我に代わって悪を撃て…… という姑息な祈りに耳は貸さぬ。


Q 『いや、失礼な質問だったことをお詫びします。……でも、お怒りは教えと相反するのでは?』


 ならばこそ!――「腹が立った時の気の持ちよう」に対する、我が真の答が、『腹を立てるな』 であることが腑に落ちよう。

2006-04-12


試験地獄

2006/04/12

試験地獄――地上では「試験」に悩める人が多いとか……試験を自らの実力を披露する場と思うならば楽しかろうに、枠からふるい落とされる場であると思わざるを得ないから苦しい思いをせねばならぬ。学ぶために必死さが必要とされるわけだが、動機が正しくなければ結果は歪んだものとなる。他を蹴り落として生き残るために学んだ者が、その知識で誰を活かすのだろうか?

 心が未だ純粋で、また、明日の世界を背負って立つべき少年少女に、闘争を仕込み、いかなる未来を生み出すつもりでいるのか。未来は現在が生み出すのである。現在に闘争を教えるなら、明日は闘争となる事を読み取らねば成るまい。

 むろん、闘争を教えられて平和の大切さを理解した子もなくはあるまい。未来はそんな彼・彼女らに導かれるべきである。

 地上で試験地獄といえば、その試験の多さと辛さを指すのだろうが、ただ、試験に臨む子等の心を見る限り、元来は優しい子さえも、友人達さえも敵として心で争うことを強いる、その浅ましさこそが地獄である。


2006-04-12

行き詰まり時の精神統一

2006/04/12

Q「今までがんばってきましたが、いよいよ行き詰まって来ました。こういう時こそ精神統一だと思うのですが、雑念がどうしても消えません。どういう心構えで望めばよいのでしょうか?」

学びて迷うは試練――物事には原因があって結果がある。人はそれを心の奥に理解しているが、往々、真理を突き止める前におおよその言葉で理解し、納得してしまう。

 いわば、戸を叩きて家に入らぬようなものである。仮に客間に通されても、奥座敷にまで招き入れられる人は希だ。知識も同様である。そこにある事を知っても、何があるかは知らない。何があるかを知っても、何に使えるかを知らない。

 使えぬ知識にいかなる価値があるのか?……智慧者とは、智慧の保持者を呼ぶのではなく、智慧の活用者をそう呼ぶのである。……ただ、多くの知識を集め、開陳することは智慧を活用しているとは呼びがたい。それはただ、一知半解の愚かさを他人に見えているだけである。

 多くの人々が、真理の追究を目指していることは見て取れる。だが、皆、戸を叩きて家に入らぬ。客間に通されても奥座敷までは進まぬ。……すなわち、学びて質問せず、質問して活用しないのである。知識を、より良い人生の完成に使うのではなく、他人に披露して、さも自分は知者であるが如く振る舞うためにだけ使う。だが、借り物の智慧が果たして真に役立つのか? 困った時はあの人に聴けばよい……というのでは、なんの向上があるのだろう!?

 迷い、行き詰まるのは、智慧が身に付いていないからである。止まれ、そこで新たな智慧を求めるのではなく、どうすれば智慧が身に付くかを思わねばならぬ。……即ち、試練である。試練が苦しいのは自ら乗り越える力がないことにある。もしも、自ら乗り越える力があるのなら、腕試しの如く試練が楽しめるのだ。

 人生に置いて試練を嫌う……試練無くしてどうして日頃の修行の成果が分かるのか? そこに思い違いが潜んでいることを自ら見いださなければならぬ。

日頃の努力が大切――人生に伴う様々な処置、それらを先送りして行き詰まる。日頃解決できない問題を、行き詰まり、せっぱ詰まった状態でどうして解決できるというのか? 止まれ……このような対処は地上に多いが、それは正しい精神統一、正しい瞑想の知識を持たぬ者の行為である。

 すなわち、追いつめられ、表面意識が悩みに病んで衰弱に陥いり、反対に必要性から本性(潜在意識)が強まって、表面意識に打ち勝ち、ようやくにその人が本来もっている解決力が発揮できるという仕組みだ。

(なんと煩雑な説明が必要なものか、現代日本語は……生前ならば三語程度で説明できたものを)

 このようなやり方はとても酷い。心の表と裏を争わせていては心身に負担が多き過ぎよう。葛藤が心身を痛めて病を得たり、注意力の衰えが事故を招いたりと迷いが失わせるものはとても多い。

 精神統一・瞑想・座禅の意義とは、心の裏表の闘争をやめることである。闘争をやめることで、自然と本性の持つ能力を発揮することが精神統一の意義なのである。

 それを、行き詰まってから精神統一を始めるのでは遅きに失する。心の表と裏、その両軍が健全であればこそ、力強い和平が得られるが、両軍相争い双方傷ついた上で講和しても、夜盗が跋扈するのは当たり前ではないか。日頃精神統一を怠けていた者が、困って慌てて精神統一することは憑依霊を招くようなものである。

……正しき道のりならば苦のないものを、力みすぎて大事にしてしまう。それ故に人は試練を嫌うのだ。

まずは人の手を借りて問題を解決せよ――精神統一がうまく行かぬ人が自分の本性を頼って問題を解決しようとしても、むしろ魔が差すことが多い。それ故に、まずは他人の手を借りて問題を解決し、解決しても油断することなく精神統一に励むことだ。

悩みを分類せよ――むろん、人の手を借りるといっても、自ら為すべき事は多い。そもそも、人が横着する悩み事には、努力が足りぬものと、智慧が足りぬものの二つに分けなければならない。この時注意が必要である。

 人は無駄な努力を嫌うし、愚か者と見なされるのも嫌うものだ。……すなわち、悩める者は往々、智慧を求めずに努力の肩代わりを他に求める。これが大きな間違いである。

 己が嫌うのと同様、人は皆、無駄な努力を嫌うのである。と同時に、愚か者と見なされるのも嫌い、むしろ、知者と見られようと努力するものである、。……すなわち、智慧を求められると人は歓ぶが、努力の肩代わりを好むものは希なのである。このような心がけで相談してどうして援助が得られようか?

 人を頼る時、往々、相手の智慧を軽んじ、相手の努力を期待するのが人情だが、見つからぬ答えは、あって欲しくないところにある。それ故、人々は答えを見いだしにくい。悩んで答えがえられぬ人は、往々、智慧が足りぬというより、好き嫌いが激しく、探せぬ場所が多いことに苦しんでいるのである。

 ならば、好き嫌いを押さえて、自分の弱点を直視し、自らが努めるべき事は素直に受け入れる覚悟をもたねば、人に頼ってもうまく行かないものだ。そして、人に弱点をさらけ出すのを嫌って、一人で解決しようとするのは間違いである。そもそも自分の弱点を完全に直視できる人は悩みに足を止めることがないからだ。それがつまり、見つからぬ答えは、あって欲しくないところにあるということなのだ。

(注: 打開策については保留の感が強く、以下は純粋なる廬氏よりの通信とは言い難い)

流されて生きるものは援助が得られぬ――これは心霊的な見地からの助言である。目的の明確なる者を応援するのは単純である。その目的とすることを後押しすればよいのだ。だが、無目的な者が相手では、背後の者達も見守ることしかできない。

 自ら考え、自らが決断した人生で出会った問題であるなら、答えは見いだしやすい。が、他人の真似、他人の指示で生きている人ほど、行き詰まっても、何に行き詰まっているのかを理解しないのである。……問題を知らずに動答えを得るというのか?……また、何を質問したいのか分からないという人は多いが、それでどうして答えが得られるというのだろうか? それは知的な悩みというより、自分をもてあましているのである。そういう人に必要なのは知的な学習よりもむしろ、身体的な教練である。

(注: 質問の真の回答は、「問題解決に必要なのは精神統一ではなく、自分が目を背けている事実を直視することだ」と言わんとしているようである)


2006-04-12

自分を信じる

2006/04/12

Q 「自分を信じるということは私は難しいことのようです。何をしても人からののしられることが脳裏をかすめて思うように行動できません。」

Q 「その気がないのに私が罪を重ねているような気がしてくるんです。」

 あなたは理想が高く、完璧を追求しようとするけれど、でも、理想に実力が追いついていないからそのギャップに悩むのです。

廬氏より

 他人を信じ、自分を信じる過ち――そは、自分を信じぬのにあらず。あなたは、他人が自分を責めると信じ、他人に責められる自分を信じながら、良き行いに励む自分を信じぬというのか? 恐怖は誰にもつきまとうが、恐れていようが、恐れまいが、いずれにせよ、あなたは努力し、そして責められるのであろう。むやみに恐れて自分の苦しみを増やすのは止めるべきである。苦しむのは罵られるのを待ってば良い。

 イヤミな存在――人が悔やしむのは責められることにあらずして、己が弱点を見せつけられることなり。すなわち、あなたは、相手が出来ぬ事を努力して克服する。それでは誰もがあなたに虐められいるかのように錯覚する。

 人の敵は、他にあらず、己こそが最大の敵――罵られるよりも惨めさに人は耐えかねるのだ。自らが抱く惨めさに耐えかねて、人々はあなたを責めるのである。それは哀れではあるが自業自得だ。罵られるあなたにとって不幸ではあるが、相手はそれ以上に辛いのである。相手を許せとは言わない。だが、苦しむものを責めても、憎しみが増すだけである。理に適う行いを心掛けよ。

 大事に集中せよ――すべての事に万全を期すなかれ、程々でよいことは程々にすることだ。本当に丹誠を込めるべき事に人生を費やすべきである。

Q 「災難はいつも11月なんです。何故なんでしょ?」

 逆縁を縁に変えよ――災難が11月と思えばこそ、逆縁が集まりあなたを苦しめる。それを逆手にとって、転機・新規巻き返しの機会が訪れるのが11月だと思うべし。すると苦しめようとするものが集まらなくなるだろう。


別な人からです。

Q 「最近思うのですが、やりっぱなしが多々あります。」

 あなたは会社で正当な評価を受けていない。……あなたは内心強くそう感じているし、実際、それを否定する理由もない。だが、くだらぬ仕事に時を過ごすのは、自分をくだらぬ人にするだけのこと。評価されなくとも良い仕事を重ねれば、いずれあなたを惜しんで好機がやってくる。

 まずは自分を腐らせぬ事である。なかなか買い手がいないとしても、自らを腐らせてはさらに買い手がつかなくなるのだから。


もう一方からです。

Q 「自分はなんてダメな人間なんだろう、と思いながら、なかなかマシな人間になれなくて沈んでしまいます。」

 因を取り除かなければ解決なし――原因を正しく認識しないから、努力しても直らない。仕事に懸命に打ち込み、家族のために懸命に働き、あげく、霊査でも叱られてばかりでは、汝の生き方はあまりに儚い。すなわち汝は、懸命であることが幸せなのである。忙しく働くことに霊的な喜びを見いだしている。だがそれは、大酒飲みの幸せと似ていなくもない。とても危険な幸福感の追求である。

 だが忘れるなかれ、自分の過ちに気がつける人は駄目な人とはいわぬ。駄目な人とは自分の過ちに気がつかぬ者である。そして、駄目な人間を何とかしようとする人もまた駄目な人である。

 自覚無くして人は変れぬ――人の欠点を指さす者が、一番の欠点を指しているとは限らぬ。遠慮がちに無難なところを指しているかもしれぬのだ。忙しさに幸せを感じながら、人前では覚えず、辛い、苦しいと嘆いてみせるのはなにより汝を不幸にしている欠点かも知れぬ。

 災難は悪意よりも未熟さが招くものだが、未熟者には難を避ける手だてがない。ところが思い違いが災難の元であるなら、思いを変えるだけで難を逃れることが出来るだろう。汝は幸せになれるし、汝の幸せを多くが望んでいる。ただ、それを汝、自身が自ら見ようとしていないだけである。 

 もっと己を信じ、己を愛する者を信じよ。そして、己の間違いを利用している者がいることを信じよ。他が利用している限り、汝の過ちは正すのに苦労する。ならば、苦を楽と言い換える事が大切である。

「自分はこれでもやっていける。なんて幸せな境遇だろう。」――そう信じられれば、汝に災難をもたらす者が、諦めて去っていく。

2006-04-12


自己中心

2006/04/12

(123, ‘人に良く思われたい’, ‘自分だけ良くなりたい’, ‘


Q 「『人に良く思われたい、自分だけ良くなりたい。』と、自己中心的な自分をクリアできずにいます……」

 欠点と向き合い、欠点に負けぬように勤める事は良き事である。それでこそ我が声を発する意味がある。それゆえ、その欠点を直す為に何が必要であるか、とくと教えよう。

結果には原因がある――人がそうあるためには、そうさしめる要因がある。いわば環境がそうあらしめているのである。

 空を羽ばたく鳥にはエラはないが、海を泳ぐ魚には羽根がない。一つ部分だけを見ればそれは欠点に見えるかも知れぬが、環境を含めてみればそれは必然である事が多い。問題は、人は様々な環境を移り住む事である。子供自分の必然から生じた特質が、別な環境に移れば欠点ともなる。ある環境での欠点が別な環境での長所ともなる。

 ならばこそ、人が求めるのは円満なる向上にあらず、見性であり、覚悟であり、成仏である。必然から生まれた性質に善悪も無し、例えば気候の関連なる土地では田畑を作らず肉のみを喰らう、これが果たして欠点であり、魂の罪であるのか? また、気候が温暖な地では労せず食物を手に入れるとか、これは果たして福徳といえようか? 温暖な地に生まれたものが極楽に近く、寒冷な地に生まれたものが地獄に近いのではない。ただ、人の本質のみが人を高みに導くのである。――境遇や、自らの欠点に囚われてはならぬ。それは必然の結果であり、本質的な問題にあらず。

 他に自分を認めさせたいとか? ……人は一人で生きるにあらず、ならば、人々とより良く交わりを持つ事は人生に於いて大切な事である。そうであるから、人は本能として自分をよく見せたがる。だが、人から羨まれるのも困りものである。だが、質問者は、自分だけが良くなりたいと願っている。これはすなわち厳しき環境の中にあって、そこから移る事を考えられぬ者の発想である。

 思え……欠点はただ人の性質にあらず、そは環境の必然で決まるものだ。故に答えは二つある。汝が環境を変えるか、汝が環境に合わせるかである。

 さて、汝は人によく見られたいとか? その欲求の強さを知り、さらに推し進めて考えよ。自分がそうであるなら、人はどうであろうか?  汝の周囲は、さぞや、自分を認めさせたい人ばかりが集まっているのだろう。それは、おだてがとても効きやすい環境であるという事だ。 欠点とはすなわち弱点である。弱点とはすなわちつけ込む所である。と同時に、つけ込まれぬように気をつけるべきところである。

 汝はその弱点故に……己が弱点を知るが故に、周囲に勝される。それに誇り・自信を抱くべきである。そは、汝が苦しみを抱く環境の中にあって、汝のみが勝れる長所であるのだから。

欠点に囚われるな――直すべきは欠点にあらず、間違った問いに取り組むから答えが見えぬのだ。考えるべきは、 己が性質を生かす事である。そこには必ず答えがある。

2006-04-12


悪縁断ち難し

2006/04/12

Q 「全く悪縁断ち難く……」

悪縁の効用――物事には長所もあれば短所もある。短所だけを見れば耐え難いが、一得一失、その欠点を受け入れなければ得られぬものもある。不平不満に我を忘れて、悪縁の持つ長所はちゃっかりと着服してはいないか考えるべきである。

 例えば、職場に好まぬ者がいると聞く。だが、働くものは皆一様に疲れれば不平も生まれるし、誰かを憎めばこそがんばれる時もある。もしも職場に普段から不快な者がいなければ……一体誰が、不平不満の矛先を担うのだろう? 自分ばかりが被害者ではない。そう思えば連帯感も生まれる。身内に敵が多いのは困るが、一人もいないのも困りものだ。すなわち、多少の不平不満があるのは大過を避けるのである。

Q 「その長所を生かしがたい悪縁もあります。」

一方的な悪縁は必ず断たれる――その悪縁は果たしていつまでも続くものであるのか?

苦に我を忘れるな――小さなトゲが刺さっても、人はなるほど耐え難い。だが、大けがの中の小さな傷がどうして一々気に障ろうか? 人が小さな痛みに耐えがたいのは恵まれている証である。

 だからといって苦を諦め、受け入れよ……というのではない。小さな苦に振り回されて、幸せを失ったり、大きな敵を作ったり、せっかくの好機を逃したりはしてないか?

 苦に我を忘れてはならない。悪縁が断ち方きも、実はその中に長所があればこそである。悪縁を絶つ事よりも悪縁に頼る自分を改める事である。

2006-04-12


自己嫌悪

2006/03/27

Q 「自己嫌悪に対してどう向合っていけばよいでしょうか?」

無知が敵――自己嫌悪に限らず、自立もせずに日常を悶々と、無限の堂々巡りに悩みを掻き回すものは、無知故に悩んでいることに気が付かぬ。方程式を解くにも必要な変数の数がある。答を得るには十分な手がかりが必要である。
 解くべき条件が整わぬのに、悩むことにいかなる意義があるのか。考えている振りをしているだけなら、その悩みは仮病に等しい。問題を先送りにしたところで解決力が身に付くわけではない。先送りにすれば、問題を克服した先にある幸福がただ目減りするだけであることも気が付かないというのか。
 あたかも、苦しむために苦しむのは、それ又無知が己を害しているのである。

魂心体の不調和――そもそも、人は心と体の二つから成立つ。さらにいえば、魂の働きを自覚せぬものもいるが、魂の働きこそが永遠に価値あるものである。
 すなわち、魂心体の三者が協調してこそ、真に価値ある行いが出来る。ここでいう、魂心体は、心霊主義者のいう、心・霊・体と読みかえても構わない。
 地上(物質世界)に生きる人にとりて、自己の魂を自覚することが少ない。心・体の目指すところが違うことにも気が付くことはない。だが三者の性質が異なればこそ、同じ方向を目指すのにも齟齬が生じるのは当り前のことである。
 魂の目指すことは遼遠であって計りがたく、しかも地上では実現が難しい、心は往々気ままに見えて頑固、強固に見えて流されやすい。身体は寡黙で従順に見えて、その内実はワガママで移り気である。
 遼遠であるが故に、魂の意図はなかなか人生に反映されず、肉体は寡黙でワガママであるから、肉体を上手に扱えず、心に思うことが実現できないことを人はなかなか自覚しない。
 まして、心と比べて、身体が起す変化……即ち行動はいかにも鈍重なものである。これら性質の違いを正しく理解してこそ、人は己を御することが出来る。

心が思い立ってもすぐには変れぬのが肉体なのである。

 故に、心を変えるには断固として、身体を変えるには寛容をもって段階的に行うのが自然であって無理がない。または、身体に染みついた習性を正すのに他人の助けを求めるのも自然であって無理がない。これはたとえば、禁酒や禁煙について当てはまるだろう。無意識に手が伸びるのだから、他人の注意があった方が良い。

 だが、人としての経験が不足している者は、思えば身体がついてくるものと思って行動を初め、思うように身体が動かぬ事を、己の御し方に問題があると思わず、己の不甲斐なさと認識する。
 身体の扱に上手になろうとせず、誤った認識である、不甲斐なさを解決しようというのである…… 設問を間違いながら正しい結果が得られるはずもない。延々と無駄な努力を重ねた挙句、何故それが無駄であるかに気が付きもしないで、再び間違った結果にたどり着く。……自分は駄目な人間である。と。

始めから外れている――「自分は駄目な人間である」このいかにも説得力がありそうでいて、その実全く無意義な回答を真実と信じるのはなにゆえか。解決策を答というのだ。解決策でなければいい訳であって答ではない。いい訳と答の区別もつかぬ知力であれば、そもそも成功への道筋から、歩き始める前から外れているのである。
 こういう努力をする者ほど、「努力に価値はあるのか」と訴える。その問いは正しく魂の叫びであり、同時にあまりにも不毛である。正しい努力に価値があり、間違った努力には価値がないのだ。……解決策と、いい訳の違いも知らず、無駄に考え、無駄に努力する者にとって努力は毒であって価値はない。その意味において、その叫びは確かに魂が言わしめたのであろう。だが同時に、正しい努力をせずに、成功を収められる筈もないのだ。
 世の中には一見、楽々と成功を収める者もいる。だがそれは、必要な努力を楽しみながら行える人…… 魂心体の三体が一致して成功を目指す者なのである。魂心体の調和が取れぬ者にそれを望むべくもない。

自分に甘えない――自分自身を御することは難しい、ならば、訓練を通じて己の限界を知り、限界を拡げていくことで魂心体の調和を整えていくことが大切であろう。

 しかるに、自分の思うとおりにならぬからと、自分自身まで嫌うその心は、あまりに幼稚で未熟ではないか。何より、嫌えば相手が困るというのか。赤子がむずがれば周囲の大人が機嫌を取るだろう。だが、大人がそれをすれば面倒がって誰も相手をしたがらぬだろう。他の面倒を見るべきが大人の勤めだからだ。自分の身体の面倒を見るべきを、むずがる身体と共に心までむずがってどうする。

 自己の年齢から、嫌いなものの数を引いてみよ。それが心の年齢である。


2006年 03月 27日

信仰の意義と対象

2006/03/25

日本人は宗教に節操がないといわれますが、私は、まず信仰心があって、その時々に向ける対象が違うだけだと考えます。だから、七五三は神式、死ねば仏式、初詣に行く一方でクリスマスも祝う。対して外国の多くでは、先ず信仰対象があってその中で信仰心を育んでいるようです。だから、他宗教を敵視することも多いのでしょう。

他宗教を敵視する文化背景があるからか、キリスト教文化圏の霊界通信を読んでいると、どうも宗教に関する記述に引っかかりを感じます。(以上は質問の発端を説明するだけで、世間にある霊界通信などの具体的な問題提起はいたしません。)

Q「信仰とはなにか、信仰対象は何が適切か」

始めに信仰心が有るべき――始めに信仰心を掲げるべきである。真に全身全霊を捧げて信仰すべき何者も地上には存在しない。物質世界に降りてきた途端に、宗教は物質的属性を帯びてしまい、純然たるものではなくなる。すべての宗教は、生前私が一生を捧げた仏教でさえも、真と呼ぶべきものではないし、真を求めるべきものでもない。その状態の中で、人はまじりものの排除に努めて、より純粋に近づくことを大事とすべきである。

 より純粋なる宗教を求めるのは、過ちの元である。極論すれば何も信じないことが一番の純粋となるだろう。複雑な物には多くの交りものが入り込み、それゆえに経典の多い仏教こそが一番の偽物といえるかも知れない。だからこそ、仏教を学ぶ物は、まず最初に何が真であるのかを学ばねばならない。……何が真であるのか、つまり、何が真でないのか、だ。経典も言葉という未熟な表現を使う限り、言葉だけから学べば未熟な智慧しか得ることが出来ない。だからまず、その空しさを知らねばならない。

 ただ知り、ただ信じることには過ちが入り込む、それ故に、信仰から入って信仰心を育てるのは、同時に迷信をも育てることになる。世に宗教を理由とする暴力が多いのは、まず、信仰から入って信仰心を育てた結果である。

 信仰心から信仰に至った者なら、言語という未熟な表現手段に惑わされることなくその真意を汲取って、宗教を暴力の手段にすることは避けるであろう。

Q「すると、信仰対象の選び方という設問は無意味な感がいたします。」

他の霊が代りに答える。

 私が思うに、信心というのは人が善良に生きるための根幹であって、それを育てることはとても大切だと思う。人を信じるが故に人から信じられ、誠実であろうとするから誠実な態度で接せられる。

 それ故に、信仰の対象を何にすべきか、という問いは空虚である。

 そもそも人は何を信じるというのだろう? 天の公平さか、古代の英雄の叡智と力であるのか。信仰対象とは、いわば心の拠所とするものだが、働き以上の報酬を求めたり、人格以上の尊敬を求めたりする様な不誠実な者が何を信じたとしても報われるものではない。それは信心ではなく利用にすぎない。

 真に信心する者は、信じる事の意味を知っているが故に、信じられることの大切さも知る。だから善良に、誠実に生きる努力をしているはずである。そういう人達にとって、何を信じるかは問題にはならない。

盧氏

信じることを力とする――もしも信仰の対象を必要とするなら、自分が一番素直になれるものを選ぶべきである。あれこれと、期待を抱く相手を信仰対象に選べば、自分の欲に騙されてしくじるだろう。

Q 「困って宗教の門を叩くものは救われないと?」

困っている人に救いがあるのではない。――困っている人に救いがあるのではない。救われるべき者が救われるのである。救うのは宗教ではなく、切っ掛けをもたらすに過ぎない。

 自身に功徳無く、身内に功徳無く、努力無く……それでは救いが遠い。

 不平不満、愚痴を慎まず、恨み、妬みていれば、……親切すら遠ざけてしまう。

 自分を救いたければ、自ら努力すべきである。自らを救わずにいて、誰も助ける者がないと嘆く……それは救いを求める姿ではなく、憑依相手を求める地縛霊の姿である。


06年 03月 25日

心を鏡に真理を知る

2006/03/20

2006年 03月 19日


人に善し悪しがある――人は己が心に映して物事を理解する。(叡智に見えても自身に反映出来なければ、即ち空論) その心が歪んでいればいかなる真理も歪んでしまう。宗教・真理に善し悪しがあるように見えて、実はそれに携る人の心に善し悪しがあり、それを観察する人の心に善し悪しがある。

 それ故に、真理の探究は歪まぬ心の持主のみが出来る。少なくとも歪の少ないものが、より真理に近づくことが出来るのだ。そして、真理を学ぶ者は、心を素直に持つことから始めなければならない。

 世の中に悪が多いという。……世相を映す、その心は歪んでいないのか? 素直な心に映るのは、救いを求める者の多さ。そして、真実を理解できない者の多さ。……歪んだ心は真理を反映することが出来ない。

 皆、それぞれに歪んだ心に映る世相を眺めて、それぞれに罪をあげつらう。……その闘争の生み出すのがこの世の地獄。世にどれほど叡智があり、智者がいようとも、愚者は理解しない。必要なのは外にある答ではなく、内在する問題の解決だ。

 知を理解するには愚を、善を理解するには悪を、生を理解するには死を……それぞれを同列にして比べるのではなく、なにが知と愚を分け、なにが善悪を分け、なぜ生死が生じるのかを考える。横ではなく縦に考えるのである。すると歎くよりも大切なことが見えてくる。

 中道――すなわち人が進むべき道である。

・回答事例

 知と愚――真理を求めるから愚が見える。学ぶ気がない人は愚を恐れない。真理を求める者が知者であり、知者を称える者も、愚をなじる者も、真理を求めていないが故にやはり知者とはいえない。自分に真理をもたらすことこそが大切で、知と愚とを分けて考えることに知はない。

 善と悪――利を求めるから悪が生じ、悪を嫌うから善が生じる。(イタズラを始めた子供を観て、親は善のなんたるかを教え始める)そこに争うべき利がなければ、善も悪も意識する必要はない。

 生と死――生きているから死がある。死者は死ねない。死は本質的に自然で避けられないものだ。そして生に限りがあるから、なお意義の追求や目的の達成が大切になる。目的を追求する人には死を恐れる暇がない。


悪霊の影差す家

2006/03/13

2006年 03月 12日


 三ヶ月ぶりの墓参からの帰宅の途中、母の知人宅に立ち寄った。ここ数年、何やら災難が続いている家である。

 気だての良いご家族で霊障と縁がある様にも思えないのだが、やはり家に何か影が差している。とはいえ、一時は商売が行き詰まっていたものが最近は好転しつつあるというので、ここで余計なことをいうのは時機ではないと判断し、口を噤むこととした。――不安があれば魔が差しやすいし、自信と希望があれば霊的加護もいやますものであるから、単に疑われるからといって見たもの、感じたものを霊媒が口にするのは避けなければならない。

 そもそも誤解されがちであるが、ある家に、またはある人の背後に、悪霊・低級霊がいることは、当事者にとって迷惑であっても、大局から見ればさしたる問題ではない。チャンスを与えなければ更正、向上の道が閉ざされてしまうのだ。人がそれぞれ、自分の幸せを先ず考えるのはやむを得ないかも知れないが、自力で足りずに他力を求めるとき、その救いを与えてくれる神仏等と呼ばれる高級霊が、いかなる動機、いかなる視点でそれを行うかを考えるべきである。

 地上で迷い、悩める存在であり、また、神仏の加護を必要とする我ら人と、霊媒等に悪霊・低級霊などと見下される存在との間にどれほどの差があるのだろう? すべては神仏の加護を必要とする未熟な存在ではないか。

 自分は助けて、悪霊・低級霊はその境涯の中に留まればよいという発想は、決して神仏等が好ましく思う想念ではあるまい。悪霊・低級霊を神仏が救うからこそ、自分は人としての勤めを果たせるのだ……そう思える人こそが高級霊から加護を得られる人なのである。

 だから……その家には不浄な霊魂の影が見えているし、家族には健康上の不安もあるが、知人等は明日に希望を持って毎日を努めているのだから、それはある意味、悪霊・低級霊の更正・向上のチャンスであると思えるのだ。

 また、不安を口にすれば、その後に何事もなければ「よかった」といえるし、何かがあれば「やっぱり」といえて、何やら私がその家に恩を施せたような気分も生じる(私はやらぬが、そうしている人もいるという、いわば嫌味である)が、不安を与えることで、高級霊等と家族との間に暗雲を生じさせては、この世の法で裁かれなくとも、真理の法に裁かれるだろう。それは心霊を学ぶ者として、なんとも情けないことである。

 だから私は、不吉なことを口にするのを止め、ただ心中で、手に負えないときには、霊達の加護があればよいと願うに止めた。

 蛇足かも知れないが……みだりに除霊をすると、拗れて悪縁が深まることもある。触らぬ神に祟りなしとか、見えるからといって手出しをするのは厳に慎むことである。また、霊が見える者から注意を受けたからといって、無闇に追い出そうとするのも危険である。先ずそれらの霊が、更正・向上することそして、手に負えぬ場合は助けを求めることを基本とすべきだ。神仏に特別扱いを願うのは、利己的な悪霊の価値観と同じなのだから。

・・・・・・・

 しかし、なんにせよ、どうしてこのような不浄の霊と縁を結ぶこととなったのか、その疑問については明らかにすべきであろうと信じる。会話のまにまに精神統一し、回答を願ったところ……

『近所に除霊で金集めをする宗教団体があり、集まる人々が不浄の霊を置いていく。置いて行かれた霊が居場所を求めてうろついているのである。この家に直接の悪縁はないが、霊らは、なまじ信仰に篤い家なので自分らも祈って貰いたくてイタズラをしている。また、この家が信仰に篤いといっても自分と家族の幸せを願うことが信仰と思い込んで、悩める者達への配慮が欠けている。悪とはいわぬが善に欠けたところがあるので、気がつくまで片目をつぶっているのだ』……と聞こえた。

 これについては伝えるべきかと一瞬逡巡したが、

『自分らで考えなければならない。言われてやるだけなら誠意が籠らない』

 とも聞こえた。実は文字通りの意味ではないと思う。もしも各自が皆、それを体験から学ばなければいけないのであれば、ここでこの話を紹介することに矛盾がでてくるだろう。ようするには、何か考えがあって今は伏せている話なのである。それに、この家には、何かあったときに相談する先の霊能者がいるようなので、私が口を出せば、同業者の客取り合い的な面倒が生じかねない。あそこに相談するのは止めた……と思わなければ、私が口を出すべきではないのだろう。やはり今は時機ではないらしい。


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