‘盧氏’ カテゴリーのアーカイブ

新作・人の幸せが辛い

2010/01/15

   久しぶりに、かつての常連からメールを受けた。いろいろと悩んでいる様子だが、これまた久しぶりに盧氏が答えるという。

・・・・・・・

Q 「悩んでこういう時だけメールするなんて都合良いですか?」

A 『真の悩みに会ってこそ、真に相談することが出来る。汝のかつての質問には虚飾が少なからずあった。』

 

Q 「私は寂しがり屋です。そのくせ強がりで嘘つきで頑固で弱虫なんです。そして、また『もがいて』ます。」

A 『人を見る目の無いこと――汝の欠点はただ一つである。真に頼りになるものを知らずにいるから、寂しく、弱い。知らずにいるから、強がらねばならず、嘘をつかねばならず、頑固にならねばならず・・・だが、自分の行くべき道を知るから、もがかずにいられない。』

 

Q 「正しく生きる事と、生きていく上で生まれてくる醜い感情との板挟みです。」

A 『誰にとって正しい生き方か? 汝が行き詰まっているのは他人と自分の価値観との間である。今、汝が良かれと思う生き方は、果たして汝を幸せにするのか、こんなにも苦しめられているのに。』

 

Q 「弱い人間って周りの人間も傷つけるんですね。自分が弱いばっかりに親友を傷つけました。大好きな友達も彼も傷つけました。」

A 『未練――守ろうとしてもがく。だが、何を守っているのか? 本当に守っているのか? 守れているのか? 実は傷つけていないか?』

 

Q 「自分が置いていかれる気がして周りの幸せを心から祈ってあげられないなんて心が狭いですよね。自分に自信が持てないんです。」

A 『才能と境遇との板ばさみ――誰があなたを苦しめているのか? 苦しめているのは幸せな誰かではない。不幸せなあなただ。』

  『なぜもがくのか? その状況から逃れる方法を知らぬからだ。あなたは、何と戦うべきかに気づいていない。あなたは自分を苦しめている者を守ろうとして、自分を救う者を苦しめている。なぜなら、あなたは賢く、賢いが故に直ちに答えを見、その答えに直ちに飛びつく。だがそれは安易な答えだ。』

  『なぜそれを安易な答えというか。・・・なぜなら、あなたの得る答えなるものは、ただ、あなただけの幸せに続いているからだ。――すべてを幸せにしないような答えは、真の答えにあらず。』
  『他者の幸せを思ってこそ、真の幸せを得られる。それは一見回りくどく思えるかもしれなが、他者から幸福を願われぬ人はなかなか幸せにはなれぬものだ。自分の幸せを求めて、他者の幸せを祈るのは決して遠回りではない。……愚直な生き方は、あなたが思うほど格好の悪いものだろうか?』
 

 

胎教と幼児教育

2006/04/19

 (A)廬氏の回答

心霊主義掲示板への回答として

06年4月19日 

Q 「胎教、および、幼児教育について教えを乞う」

 個々の手段については割愛する。

顰蹙――にならう犬猫を育てるだけならエサを与えさえすればよい。だが人の子を育てるというのは、その心を育てるということだ。音楽を聴かせ、オモチャを与え、教材を与える……だが子供の欲求を酌み取ることなくただ与えるだけなら、犬猫を育てるのとどう違うというのだろう?
 大切なのは、目をかけ、気配りをし、子供の欲求にしっかりと応えることである。……つまりは愛情をかけるということである。その愛情の発露としての胎教や、幼児教育であるならことさらにいうべき事など無い。昔から智慧ある婦人等が心掛けてきたことであるから。
 だが、子供の欲求を損なう形で押しつけるような、物まね胎教、物まね幼児教育は、思うような結果を得られまい。

顰蹙: 「蹙(美女)の顰み(しかめつら)にならう(真似する)」

純粋さを育てる――私には子供がいない。だが、私は多くの純粋なる「子供等」を育ててきた。いや、大人の邪気を取り去って子供としたのである。

 であるからいう。

汝に邪念はなしか?――分不相応の子を得て、誉れの美酒に酔いたいという欲はないか? 今時の子等はアレルギーなどで苦しむとか。水や空気や食い物に安心が出来ぬということだが、世の親が子を思う気持ちには毒が含まれていないのか?

胎教よりも邪気を抜くべし……子の非行を見て涙で邪気を吐くのではなく、日常生活の中で邪気を吐き、無邪気な子供を毒さぬようにすべし。それを忘れて何の胎教か!


(B) 某氏の霊より

心霊主義掲示板への回答として

06年4月19日 

心霊主義掲示板の投稿を読んだ後、 入浴中に懸り、いくつかビジョンを見せた後、「(ラフ原稿を)適当に味付けして出しておけ……」とのこと。努力してみた。

1,胎教について

 母親の笑顔(が醸し出す雰囲気)に敵う音楽はなし。母親が聞いてリラックスできる音楽を聴くなら良い。瑣事を忘れて聴くときには一心に聴くべし。だが、胎教と特別な気持ち、義務感から音楽を聴くなら、音楽を馬鹿にする子に育つ。

2,幼児教育について

 気配りの出来ない親が、いくら熱心に教育したって、犬に芸を教えることも出来ない。子供に為すべき事は「子供」に訊け。 


(C) 小嬰氏より

心霊主義掲示板への回答として

06年4月19日 

Q「胎教、および、幼児教育について教えを乞う」

 私が思いますに、胎教・幼児教育はとても大切です。それの施されていない子と比べて見ると、よく分ります。ですが、せっかちな人では良く教育が出来ません。早くから教育をすべきであるというのは、日常生活の何たるかを理解しない大人のいうことです。

 先ず、真の胎教・幼児教育には、目標を定めねばなりません。たとえば君子に育てたければ、親は君子に接するが如き気分で日々を送るべきです。士に……(武士というても良さそうです)……育てるなら、親も士として振るまい、鳶が鷹を生むかのような不自然な願いはお止めになることです。

 親が子に嘘をつきながら、子供の非行に涙するなどというのは、天罰と思わねばなりますまい。……自然に接すれば、その子の持っている天与の才が開花いたします。

 作為で引き出そうとするのは助長……折角の才能も親が不躾でダメにしている例は非常に多うございます。


幼児向けの教育が必要なのは親の方だ

2006年04月20日

 胎教・幼児教育に関する質問(質問者を、ではない)は掘り下げると奥が深い。

 必要なのは胎教や幼児教育の手段だろうか? 親の個性、子供の個性に合わない方法であれば、教育が親子間の信頼関係を歪めはしないか。親が嫌々勉強しているのに付合わされたら、体感的に子供も勉強が嫌になるだろう。

 大体、農作物に与える肥料や農薬だって、効果を観ながら適宜に調整するものだし、犬馬の調教だって、動物の反応を見ながら行うものだ。それを子供の躾・教育に関しては、方法論ばかりが先行するのは、人が幼児に対して不自然で過大な期待をしているのか、もしくは、人間の幼児が農作物や犬馬以下の存在として扱われているのではないか。…… 少なくとも、犬馬の子供らの方がよほど個性を大事にされているかに見える。――または、職業教育者が営利主義に陥って市場拡大を図っているのに、人々が知らずに踊らされているのか。

 丁度、インスタント食品の普及で味音痴が増えている(といわれている)ようなものではないか。箸や鉛筆の正しい持ち方が出来ない子供が多いというのも、親が子供と、まともな時間の過し方をしていないことを暗示する。単に食べ物を買え与えて後の世話をしないのではないか。それでは食事のマナーなどが身に付くはずもない。

 いや、もっと対外的な問題がある。子供が子供同士で遊ぶのは当然のこととして、休日も子供だけで過すか、親に連れられて行楽地に出掛けるだけでは、住宅近隣地での子供達の態度が悪いのも当然だ。ガラスの前でボール遊びしてガラスを割って逃げる、看板をボールの的にしては看板を壊す、立体駐車場で自転車を乗回す。注意すれば屁理屈で返し、叱れば逃去る。……親は一体何をしているのか。

 ああ、マンションのエントランスのド真ん前で、井戸端会議を開いて通行の邪魔をし、子供等は郵便ポストにイタズラをしている。まあ、親のマナーもその程度のものである。

 なるほど、親が忙しいのも理解するが、教育というのは教材を選ぶことではなく、子供に時間を割くことではないだろうか。大人と付合う機会がなくて、子供同士の中でだけ人間関係を育てさせるから、身勝手で、感情的で、非論理的な(というか、短絡的な)コミュニケーション能力しか持てない。……子供ぽい人間が増えているのではなく、大人と接する機会が少なくて、どう他人と接して良いのか判らない人間が多いのだろう。だから嫌われて途方に暮れる……嫌われて、慌てて、かえって傷口を拡げてしまう。

 で、自分らが苦労したから、子供にはちゃんと教育の機会を与えねば、というわけで、又教材に頼る。……破綻的論理の輪廻だ。グルグルと同じ事を繰返すように見えて、実際はどんどん事態が悪化している。

 良い教材よりも、親が心のゆとりを持って子供に接せられるようにすることが、本当の意味での子供の教育に必要なことだろう。…… だが、教材や教育法に目がいく。子供を迷わせる現代の親たちは、一体何から目を背けているのだろう?


僻《ひが》む

2006/04/12

 見限ること――僻むとは、見限る心である。自分の運命、自分の祖霊、自らを守護する総てのものを見限って、自分は一人なのだと思いこむ。それが僻みである。

 見限ることの大きな問題は、自らそれを失わせしめることにある。与えないのではなく、受取らぬ所にこそ僻む心の本質があるのだ。

 この心を分析するのは不快でもある、だがいくつか実例を挙げてみよう。

 自分には才能が無いと思う……それが僻みである。

 持たざるから、持つ者を不公平だと思う……僻みが肥大する。

 公平となるように持つ者を縛ろうとする……僻みが露呈している。

 根源にあるのは、自分自身を見限る心――努力もせずに自分の可能性を見限る心がある。

 なるほど確かに、人は総てには達し得ない。まずは得手不得手があり、境遇があり、器量があってそれらを越えるのは難儀でもある。…… しかし、一つがダメだからといってそれがなんだというのだろう? 

 既に自分を見限り、総てを抛り出す口実を捜して、あれこれと欠点を探しまわる。僻む前には見限る心が働いているのだ。

 価値を知らぬ――僻む者を見て、心の幼さを感じるのは適切な観点である。僻みの根源には見限る心が働いているが、それはつまり、価値や意義をしらぬからこそ見限り、棄てようとするのだから。

 物事の価値を知り、物事の活かし方を学び、一見無価値に見える物にいかなる価値可能性が潜んでいるかを考察することに歓びを見いだせれば、自ずと僻み心が消えていく。

 僻み癖を直すのは難しいが、それは過ちから生じる悪癖ではなく、心の未熟さから生じる悪癖だからだ。


2006-04-12

負けん気

2006/04/12

 『怒りとは相手に対する負けん気である。が、相手に優位を感じているなら、負けん気など感じる必要もない。鷹揚に言わせておけばよいのである。鷹揚に言わせておけぬということは、相手の非を見て、それを正せぬ己の弱さを自覚しているということだ。負けん気とはつまり、勝利を求める気持ちでなく、負けを認められぬ弱さである。弱いから吠える。

 負けだから悔しいのだ。悔しいから、神仏を引き合いに出し、霊媒に頼り、正義を口にして地団駄踏む。

 真に悔しければ勝て。相手の非に対して鷹揚に受け止められる強さを得よ。

 相手に非があるからといって、相手に勝てるとは限らない。すると、神仏・正義の弱さを詰る気持ちが生じるが、それは正しい見地ではない。心霊家であるならすでに教わっているとおり、人は修行のために地上に生を得るのだ。……どうして地上に、学ぶ必要のない者がいようか。……どうして、神仏が、修行の機会を奪うというのか。愚か者だからこそ修行が必要なのだ。ならば、非を持つものは神仏の保護下にある。非を行うためでなく、非を正すために神仏に守られている。それが霊的真相である。

 むろん、自ら非に気がつかぬ愚か者も多い、それ故に様々な機会が準備されようし、その結果、善良に生きようとする者が心を痛めることもまま見ることではある。だが、善良である者も、修行の機会を与えられたればこそ善良に生きられるのだ。同様に非ある人にも機会を与えねばならない。

 許せとはいわぬ。だが、己が気持ちの負けを、神仏の弱さにすり替えてはならぬ。』


 非を正すことを口実にしてみても、非に憤ることには復讐心が含まれる。そして復讐心は醜いのものだ。他人の非をあげつらうことで己の非を正当化してはならぬ。

 負けん気は、敗者の気の持ちようである。そが証拠に、負けん気に取憑かれたものは、卑怯な手段を使ってまで、相手に復讐せんとする。 … …姑息な手を使わざるを得ないところに、すでに正義無く、勝利無く、ただ、より惨めな敗北が待っていることを暗示する。

腹が立つ……そは仏教に於いて、地獄に堕ちると同義の言葉である。その救いを求める無かれ。

弱き我を救えと祈るならば聞く。だが、我に代わって悪を撃て…… という姑息な祈りに耳は貸さぬ。


Q 『いや、失礼な質問だったことをお詫びします。……でも、お怒りは教えと相反するのでは?』


 ならばこそ!――「腹が立った時の気の持ちよう」に対する、我が真の答が、『腹を立てるな』 であることが腑に落ちよう。

2006-04-12


試験地獄

2006/04/12

試験地獄――地上では「試験」に悩める人が多いとか……試験を自らの実力を披露する場と思うならば楽しかろうに、枠からふるい落とされる場であると思わざるを得ないから苦しい思いをせねばならぬ。学ぶために必死さが必要とされるわけだが、動機が正しくなければ結果は歪んだものとなる。他を蹴り落として生き残るために学んだ者が、その知識で誰を活かすのだろうか?

 心が未だ純粋で、また、明日の世界を背負って立つべき少年少女に、闘争を仕込み、いかなる未来を生み出すつもりでいるのか。未来は現在が生み出すのである。現在に闘争を教えるなら、明日は闘争となる事を読み取らねば成るまい。

 むろん、闘争を教えられて平和の大切さを理解した子もなくはあるまい。未来はそんな彼・彼女らに導かれるべきである。

 地上で試験地獄といえば、その試験の多さと辛さを指すのだろうが、ただ、試験に臨む子等の心を見る限り、元来は優しい子さえも、友人達さえも敵として心で争うことを強いる、その浅ましさこそが地獄である。


2006-04-12

行き詰まり時の精神統一

2006/04/12

Q「今までがんばってきましたが、いよいよ行き詰まって来ました。こういう時こそ精神統一だと思うのですが、雑念がどうしても消えません。どういう心構えで望めばよいのでしょうか?」

学びて迷うは試練――物事には原因があって結果がある。人はそれを心の奥に理解しているが、往々、真理を突き止める前におおよその言葉で理解し、納得してしまう。

 いわば、戸を叩きて家に入らぬようなものである。仮に客間に通されても、奥座敷にまで招き入れられる人は希だ。知識も同様である。そこにある事を知っても、何があるかは知らない。何があるかを知っても、何に使えるかを知らない。

 使えぬ知識にいかなる価値があるのか?……智慧者とは、智慧の保持者を呼ぶのではなく、智慧の活用者をそう呼ぶのである。……ただ、多くの知識を集め、開陳することは智慧を活用しているとは呼びがたい。それはただ、一知半解の愚かさを他人に見えているだけである。

 多くの人々が、真理の追究を目指していることは見て取れる。だが、皆、戸を叩きて家に入らぬ。客間に通されても奥座敷までは進まぬ。……すなわち、学びて質問せず、質問して活用しないのである。知識を、より良い人生の完成に使うのではなく、他人に披露して、さも自分は知者であるが如く振る舞うためにだけ使う。だが、借り物の智慧が果たして真に役立つのか? 困った時はあの人に聴けばよい……というのでは、なんの向上があるのだろう!?

 迷い、行き詰まるのは、智慧が身に付いていないからである。止まれ、そこで新たな智慧を求めるのではなく、どうすれば智慧が身に付くかを思わねばならぬ。……即ち、試練である。試練が苦しいのは自ら乗り越える力がないことにある。もしも、自ら乗り越える力があるのなら、腕試しの如く試練が楽しめるのだ。

 人生に置いて試練を嫌う……試練無くしてどうして日頃の修行の成果が分かるのか? そこに思い違いが潜んでいることを自ら見いださなければならぬ。

日頃の努力が大切――人生に伴う様々な処置、それらを先送りして行き詰まる。日頃解決できない問題を、行き詰まり、せっぱ詰まった状態でどうして解決できるというのか? 止まれ……このような対処は地上に多いが、それは正しい精神統一、正しい瞑想の知識を持たぬ者の行為である。

 すなわち、追いつめられ、表面意識が悩みに病んで衰弱に陥いり、反対に必要性から本性(潜在意識)が強まって、表面意識に打ち勝ち、ようやくにその人が本来もっている解決力が発揮できるという仕組みだ。

(なんと煩雑な説明が必要なものか、現代日本語は……生前ならば三語程度で説明できたものを)

 このようなやり方はとても酷い。心の表と裏を争わせていては心身に負担が多き過ぎよう。葛藤が心身を痛めて病を得たり、注意力の衰えが事故を招いたりと迷いが失わせるものはとても多い。

 精神統一・瞑想・座禅の意義とは、心の裏表の闘争をやめることである。闘争をやめることで、自然と本性の持つ能力を発揮することが精神統一の意義なのである。

 それを、行き詰まってから精神統一を始めるのでは遅きに失する。心の表と裏、その両軍が健全であればこそ、力強い和平が得られるが、両軍相争い双方傷ついた上で講和しても、夜盗が跋扈するのは当たり前ではないか。日頃精神統一を怠けていた者が、困って慌てて精神統一することは憑依霊を招くようなものである。

……正しき道のりならば苦のないものを、力みすぎて大事にしてしまう。それ故に人は試練を嫌うのだ。

まずは人の手を借りて問題を解決せよ――精神統一がうまく行かぬ人が自分の本性を頼って問題を解決しようとしても、むしろ魔が差すことが多い。それ故に、まずは他人の手を借りて問題を解決し、解決しても油断することなく精神統一に励むことだ。

悩みを分類せよ――むろん、人の手を借りるといっても、自ら為すべき事は多い。そもそも、人が横着する悩み事には、努力が足りぬものと、智慧が足りぬものの二つに分けなければならない。この時注意が必要である。

 人は無駄な努力を嫌うし、愚か者と見なされるのも嫌うものだ。……すなわち、悩める者は往々、智慧を求めずに努力の肩代わりを他に求める。これが大きな間違いである。

 己が嫌うのと同様、人は皆、無駄な努力を嫌うのである。と同時に、愚か者と見なされるのも嫌い、むしろ、知者と見られようと努力するものである、。……すなわち、智慧を求められると人は歓ぶが、努力の肩代わりを好むものは希なのである。このような心がけで相談してどうして援助が得られようか?

 人を頼る時、往々、相手の智慧を軽んじ、相手の努力を期待するのが人情だが、見つからぬ答えは、あって欲しくないところにある。それ故、人々は答えを見いだしにくい。悩んで答えがえられぬ人は、往々、智慧が足りぬというより、好き嫌いが激しく、探せぬ場所が多いことに苦しんでいるのである。

 ならば、好き嫌いを押さえて、自分の弱点を直視し、自らが努めるべき事は素直に受け入れる覚悟をもたねば、人に頼ってもうまく行かないものだ。そして、人に弱点をさらけ出すのを嫌って、一人で解決しようとするのは間違いである。そもそも自分の弱点を完全に直視できる人は悩みに足を止めることがないからだ。それがつまり、見つからぬ答えは、あって欲しくないところにあるということなのだ。

(注: 打開策については保留の感が強く、以下は純粋なる廬氏よりの通信とは言い難い)

流されて生きるものは援助が得られぬ――これは心霊的な見地からの助言である。目的の明確なる者を応援するのは単純である。その目的とすることを後押しすればよいのだ。だが、無目的な者が相手では、背後の者達も見守ることしかできない。

 自ら考え、自らが決断した人生で出会った問題であるなら、答えは見いだしやすい。が、他人の真似、他人の指示で生きている人ほど、行き詰まっても、何に行き詰まっているのかを理解しないのである。……問題を知らずに動答えを得るというのか?……また、何を質問したいのか分からないという人は多いが、それでどうして答えが得られるというのだろうか? それは知的な悩みというより、自分をもてあましているのである。そういう人に必要なのは知的な学習よりもむしろ、身体的な教練である。

(注: 質問の真の回答は、「問題解決に必要なのは精神統一ではなく、自分が目を背けている事実を直視することだ」と言わんとしているようである)


2006-04-12

自分を信じる

2006/04/12

Q 「自分を信じるということは私は難しいことのようです。何をしても人からののしられることが脳裏をかすめて思うように行動できません。」

Q 「その気がないのに私が罪を重ねているような気がしてくるんです。」

 あなたは理想が高く、完璧を追求しようとするけれど、でも、理想に実力が追いついていないからそのギャップに悩むのです。

廬氏より

 他人を信じ、自分を信じる過ち――そは、自分を信じぬのにあらず。あなたは、他人が自分を責めると信じ、他人に責められる自分を信じながら、良き行いに励む自分を信じぬというのか? 恐怖は誰にもつきまとうが、恐れていようが、恐れまいが、いずれにせよ、あなたは努力し、そして責められるのであろう。むやみに恐れて自分の苦しみを増やすのは止めるべきである。苦しむのは罵られるのを待ってば良い。

 イヤミな存在――人が悔やしむのは責められることにあらずして、己が弱点を見せつけられることなり。すなわち、あなたは、相手が出来ぬ事を努力して克服する。それでは誰もがあなたに虐められいるかのように錯覚する。

 人の敵は、他にあらず、己こそが最大の敵――罵られるよりも惨めさに人は耐えかねるのだ。自らが抱く惨めさに耐えかねて、人々はあなたを責めるのである。それは哀れではあるが自業自得だ。罵られるあなたにとって不幸ではあるが、相手はそれ以上に辛いのである。相手を許せとは言わない。だが、苦しむものを責めても、憎しみが増すだけである。理に適う行いを心掛けよ。

 大事に集中せよ――すべての事に万全を期すなかれ、程々でよいことは程々にすることだ。本当に丹誠を込めるべき事に人生を費やすべきである。

Q 「災難はいつも11月なんです。何故なんでしょ?」

 逆縁を縁に変えよ――災難が11月と思えばこそ、逆縁が集まりあなたを苦しめる。それを逆手にとって、転機・新規巻き返しの機会が訪れるのが11月だと思うべし。すると苦しめようとするものが集まらなくなるだろう。


別な人からです。

Q 「最近思うのですが、やりっぱなしが多々あります。」

 あなたは会社で正当な評価を受けていない。……あなたは内心強くそう感じているし、実際、それを否定する理由もない。だが、くだらぬ仕事に時を過ごすのは、自分をくだらぬ人にするだけのこと。評価されなくとも良い仕事を重ねれば、いずれあなたを惜しんで好機がやってくる。

 まずは自分を腐らせぬ事である。なかなか買い手がいないとしても、自らを腐らせてはさらに買い手がつかなくなるのだから。


もう一方からです。

Q 「自分はなんてダメな人間なんだろう、と思いながら、なかなかマシな人間になれなくて沈んでしまいます。」

 因を取り除かなければ解決なし――原因を正しく認識しないから、努力しても直らない。仕事に懸命に打ち込み、家族のために懸命に働き、あげく、霊査でも叱られてばかりでは、汝の生き方はあまりに儚い。すなわち汝は、懸命であることが幸せなのである。忙しく働くことに霊的な喜びを見いだしている。だがそれは、大酒飲みの幸せと似ていなくもない。とても危険な幸福感の追求である。

 だが忘れるなかれ、自分の過ちに気がつける人は駄目な人とはいわぬ。駄目な人とは自分の過ちに気がつかぬ者である。そして、駄目な人間を何とかしようとする人もまた駄目な人である。

 自覚無くして人は変れぬ――人の欠点を指さす者が、一番の欠点を指しているとは限らぬ。遠慮がちに無難なところを指しているかもしれぬのだ。忙しさに幸せを感じながら、人前では覚えず、辛い、苦しいと嘆いてみせるのはなにより汝を不幸にしている欠点かも知れぬ。

 災難は悪意よりも未熟さが招くものだが、未熟者には難を避ける手だてがない。ところが思い違いが災難の元であるなら、思いを変えるだけで難を逃れることが出来るだろう。汝は幸せになれるし、汝の幸せを多くが望んでいる。ただ、それを汝、自身が自ら見ようとしていないだけである。 

 もっと己を信じ、己を愛する者を信じよ。そして、己の間違いを利用している者がいることを信じよ。他が利用している限り、汝の過ちは正すのに苦労する。ならば、苦を楽と言い換える事が大切である。

「自分はこれでもやっていける。なんて幸せな境遇だろう。」――そう信じられれば、汝に災難をもたらす者が、諦めて去っていく。

2006-04-12


自己中心

2006/04/12

(123, ‘人に良く思われたい’, ‘自分だけ良くなりたい’, ‘


Q 「『人に良く思われたい、自分だけ良くなりたい。』と、自己中心的な自分をクリアできずにいます……」

 欠点と向き合い、欠点に負けぬように勤める事は良き事である。それでこそ我が声を発する意味がある。それゆえ、その欠点を直す為に何が必要であるか、とくと教えよう。

結果には原因がある――人がそうあるためには、そうさしめる要因がある。いわば環境がそうあらしめているのである。

 空を羽ばたく鳥にはエラはないが、海を泳ぐ魚には羽根がない。一つ部分だけを見ればそれは欠点に見えるかも知れぬが、環境を含めてみればそれは必然である事が多い。問題は、人は様々な環境を移り住む事である。子供自分の必然から生じた特質が、別な環境に移れば欠点ともなる。ある環境での欠点が別な環境での長所ともなる。

 ならばこそ、人が求めるのは円満なる向上にあらず、見性であり、覚悟であり、成仏である。必然から生まれた性質に善悪も無し、例えば気候の関連なる土地では田畑を作らず肉のみを喰らう、これが果たして欠点であり、魂の罪であるのか? また、気候が温暖な地では労せず食物を手に入れるとか、これは果たして福徳といえようか? 温暖な地に生まれたものが極楽に近く、寒冷な地に生まれたものが地獄に近いのではない。ただ、人の本質のみが人を高みに導くのである。――境遇や、自らの欠点に囚われてはならぬ。それは必然の結果であり、本質的な問題にあらず。

 他に自分を認めさせたいとか? ……人は一人で生きるにあらず、ならば、人々とより良く交わりを持つ事は人生に於いて大切な事である。そうであるから、人は本能として自分をよく見せたがる。だが、人から羨まれるのも困りものである。だが、質問者は、自分だけが良くなりたいと願っている。これはすなわち厳しき環境の中にあって、そこから移る事を考えられぬ者の発想である。

 思え……欠点はただ人の性質にあらず、そは環境の必然で決まるものだ。故に答えは二つある。汝が環境を変えるか、汝が環境に合わせるかである。

 さて、汝は人によく見られたいとか? その欲求の強さを知り、さらに推し進めて考えよ。自分がそうであるなら、人はどうであろうか?  汝の周囲は、さぞや、自分を認めさせたい人ばかりが集まっているのだろう。それは、おだてがとても効きやすい環境であるという事だ。 欠点とはすなわち弱点である。弱点とはすなわちつけ込む所である。と同時に、つけ込まれぬように気をつけるべきところである。

 汝はその弱点故に……己が弱点を知るが故に、周囲に勝される。それに誇り・自信を抱くべきである。そは、汝が苦しみを抱く環境の中にあって、汝のみが勝れる長所であるのだから。

欠点に囚われるな――直すべきは欠点にあらず、間違った問いに取り組むから答えが見えぬのだ。考えるべきは、 己が性質を生かす事である。そこには必ず答えがある。

2006-04-12


悪縁断ち難し

2006/04/12

Q 「全く悪縁断ち難く……」

悪縁の効用――物事には長所もあれば短所もある。短所だけを見れば耐え難いが、一得一失、その欠点を受け入れなければ得られぬものもある。不平不満に我を忘れて、悪縁の持つ長所はちゃっかりと着服してはいないか考えるべきである。

 例えば、職場に好まぬ者がいると聞く。だが、働くものは皆一様に疲れれば不平も生まれるし、誰かを憎めばこそがんばれる時もある。もしも職場に普段から不快な者がいなければ……一体誰が、不平不満の矛先を担うのだろう? 自分ばかりが被害者ではない。そう思えば連帯感も生まれる。身内に敵が多いのは困るが、一人もいないのも困りものだ。すなわち、多少の不平不満があるのは大過を避けるのである。

Q 「その長所を生かしがたい悪縁もあります。」

一方的な悪縁は必ず断たれる――その悪縁は果たしていつまでも続くものであるのか?

苦に我を忘れるな――小さなトゲが刺さっても、人はなるほど耐え難い。だが、大けがの中の小さな傷がどうして一々気に障ろうか? 人が小さな痛みに耐えがたいのは恵まれている証である。

 だからといって苦を諦め、受け入れよ……というのではない。小さな苦に振り回されて、幸せを失ったり、大きな敵を作ったり、せっかくの好機を逃したりはしてないか?

 苦に我を忘れてはならない。悪縁が断ち方きも、実はその中に長所があればこそである。悪縁を絶つ事よりも悪縁に頼る自分を改める事である。

2006-04-12


自己嫌悪

2006/03/27

Q 「自己嫌悪に対してどう向合っていけばよいでしょうか?」

無知が敵――自己嫌悪に限らず、自立もせずに日常を悶々と、無限の堂々巡りに悩みを掻き回すものは、無知故に悩んでいることに気が付かぬ。方程式を解くにも必要な変数の数がある。答を得るには十分な手がかりが必要である。
 解くべき条件が整わぬのに、悩むことにいかなる意義があるのか。考えている振りをしているだけなら、その悩みは仮病に等しい。問題を先送りにしたところで解決力が身に付くわけではない。先送りにすれば、問題を克服した先にある幸福がただ目減りするだけであることも気が付かないというのか。
 あたかも、苦しむために苦しむのは、それ又無知が己を害しているのである。

魂心体の不調和――そもそも、人は心と体の二つから成立つ。さらにいえば、魂の働きを自覚せぬものもいるが、魂の働きこそが永遠に価値あるものである。
 すなわち、魂心体の三者が協調してこそ、真に価値ある行いが出来る。ここでいう、魂心体は、心霊主義者のいう、心・霊・体と読みかえても構わない。
 地上(物質世界)に生きる人にとりて、自己の魂を自覚することが少ない。心・体の目指すところが違うことにも気が付くことはない。だが三者の性質が異なればこそ、同じ方向を目指すのにも齟齬が生じるのは当り前のことである。
 魂の目指すことは遼遠であって計りがたく、しかも地上では実現が難しい、心は往々気ままに見えて頑固、強固に見えて流されやすい。身体は寡黙で従順に見えて、その内実はワガママで移り気である。
 遼遠であるが故に、魂の意図はなかなか人生に反映されず、肉体は寡黙でワガママであるから、肉体を上手に扱えず、心に思うことが実現できないことを人はなかなか自覚しない。
 まして、心と比べて、身体が起す変化……即ち行動はいかにも鈍重なものである。これら性質の違いを正しく理解してこそ、人は己を御することが出来る。

心が思い立ってもすぐには変れぬのが肉体なのである。

 故に、心を変えるには断固として、身体を変えるには寛容をもって段階的に行うのが自然であって無理がない。または、身体に染みついた習性を正すのに他人の助けを求めるのも自然であって無理がない。これはたとえば、禁酒や禁煙について当てはまるだろう。無意識に手が伸びるのだから、他人の注意があった方が良い。

 だが、人としての経験が不足している者は、思えば身体がついてくるものと思って行動を初め、思うように身体が動かぬ事を、己の御し方に問題があると思わず、己の不甲斐なさと認識する。
 身体の扱に上手になろうとせず、誤った認識である、不甲斐なさを解決しようというのである…… 設問を間違いながら正しい結果が得られるはずもない。延々と無駄な努力を重ねた挙句、何故それが無駄であるかに気が付きもしないで、再び間違った結果にたどり着く。……自分は駄目な人間である。と。

始めから外れている――「自分は駄目な人間である」このいかにも説得力がありそうでいて、その実全く無意義な回答を真実と信じるのはなにゆえか。解決策を答というのだ。解決策でなければいい訳であって答ではない。いい訳と答の区別もつかぬ知力であれば、そもそも成功への道筋から、歩き始める前から外れているのである。
 こういう努力をする者ほど、「努力に価値はあるのか」と訴える。その問いは正しく魂の叫びであり、同時にあまりにも不毛である。正しい努力に価値があり、間違った努力には価値がないのだ。……解決策と、いい訳の違いも知らず、無駄に考え、無駄に努力する者にとって努力は毒であって価値はない。その意味において、その叫びは確かに魂が言わしめたのであろう。だが同時に、正しい努力をせずに、成功を収められる筈もないのだ。
 世の中には一見、楽々と成功を収める者もいる。だがそれは、必要な努力を楽しみながら行える人…… 魂心体の三体が一致して成功を目指す者なのである。魂心体の調和が取れぬ者にそれを望むべくもない。

自分に甘えない――自分自身を御することは難しい、ならば、訓練を通じて己の限界を知り、限界を拡げていくことで魂心体の調和を整えていくことが大切であろう。

 しかるに、自分の思うとおりにならぬからと、自分自身まで嫌うその心は、あまりに幼稚で未熟ではないか。何より、嫌えば相手が困るというのか。赤子がむずがれば周囲の大人が機嫌を取るだろう。だが、大人がそれをすれば面倒がって誰も相手をしたがらぬだろう。他の面倒を見るべきが大人の勤めだからだ。自分の身体の面倒を見るべきを、むずがる身体と共に心までむずがってどうする。

 自己の年齢から、嫌いなものの数を引いてみよ。それが心の年齢である。


2006年 03月 27日

お知らせBy老神いさお。

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