‘盧氏’ カテゴリーのアーカイブ

妬み、憎しみ。

2011/01/30

 妬み、憎しみ。

 人が生きる上で、避けがたい内心の敵であり・・・そして、世の中を覆い尽くす「魔」である。

 とはいえ。

 (人々が)焦らなければ、どうということのない相手である。

 

  人は、苦しむために生まれてきた・・・といっても過言ではない。なにしろ、世界は不健全であって、油断は許されないのだから。・・・人が生きるこの世の中は苦しい。・・・それを知らぬことは不幸なことだ。たまたま育った環境が恵まれていたからといって、明日も豊かとは限らないのだから。

 とはいえ、人は豊かに、安楽に生きたがる。・・・それが、夢幻と知っていても。・・・故に人は、己の貧しさを信じようとしない。

信じなければ免れるのか?

免れられないから人は苦しみ、しかも、どうすべきかに気付かない。

人は、己の愚かさ故に苦しむというのに、苦しむ人は己の愚かさに気付かない。

 苦悩を免れる賢さなど、天上天下にありはしない。ただ、速やかに苦しみから逃れる者と、苦しみから逃れがたい者とがいるだけだ。

あなたはそれに気づいているか?

 己を幸せな人と思うのも、己を不幸な人と思うのも、無駄に力が入っている。あるがままに。あるがままに。

 楽しければ楽しいなりに、辛ければ辛いなりに生きれば良いものを。

 他者を見るに決めつけてかかるのは論外。己を思い込むのも苦しみの元で、あるべき姿を知るに知れなくて人が苦しむというなら、人は一体どれほど愚かだというのか。

 あなたは、あなたの努力の分だけ、苦しみの代価を払っているのである。・・・苦しみを嫌うなら、せめて愚かな努力を減らせばよいのに。

 どうして、必要な分だけで我慢できないのか? ・・・努力する以前に、己らしく生きることに苦しんでいる事に気づくべきだ。

 

 本来、当たり前に生きることは苦しいことではなく、むしろ心地よいはず。・・・ただ、他者を見、己の理想に負けるがゆえに、人は争い、知らずに苦しむのである。

 やめられない。・・・にも関わらず、妬み、憎しむのは、別段、かけ離れたこととも言えない。

 人はどこかに、その生命力を費やす。・・・有益なことか、無益なことかに関わらず。

 あなたは、あなたの生きる力を何に費やしているか? 悩みや苦しみを、嘆き悲しむ事に費やしていないか?

新作・人の幸せが辛い

2010/01/15

   久しぶりに、かつての常連からメールを受けた。いろいろと悩んでいる様子だが、これまた久しぶりに盧氏が答えるという。

・・・・・・・

Q 「悩んでこういう時だけメールするなんて都合良いですか?」

A 『真の悩みに会ってこそ、真に相談することが出来る。汝のかつての質問には虚飾が少なからずあった。』

 

Q 「私は寂しがり屋です。そのくせ強がりで嘘つきで頑固で弱虫なんです。そして、また『もがいて』ます。」

A 『人を見る目の無いこと――汝の欠点はただ一つである。真に頼りになるものを知らずにいるから、寂しく、弱い。知らずにいるから、強がらねばならず、嘘をつかねばならず、頑固にならねばならず・・・だが、自分の行くべき道を知るから、もがかずにいられない。』

 

Q 「正しく生きる事と、生きていく上で生まれてくる醜い感情との板挟みです。」

A 『誰にとって正しい生き方か? 汝が行き詰まっているのは他人と自分の価値観との間である。今、汝が良かれと思う生き方は、果たして汝を幸せにするのか、こんなにも苦しめられているのに。』

 

Q 「弱い人間って周りの人間も傷つけるんですね。自分が弱いばっかりに親友を傷つけました。大好きな友達も彼も傷つけました。」

A 『未練――守ろうとしてもがく。だが、何を守っているのか? 本当に守っているのか? 守れているのか? 実は傷つけていないか?』

 

Q 「自分が置いていかれる気がして周りの幸せを心から祈ってあげられないなんて心が狭いですよね。自分に自信が持てないんです。」

A 『才能と境遇との板ばさみ――誰があなたを苦しめているのか? 苦しめているのは幸せな誰かではない。不幸せなあなただ。』

  『なぜもがくのか? その状況から逃れる方法を知らぬからだ。あなたは、何と戦うべきかに気づいていない。あなたは自分を苦しめている者を守ろうとして、自分を救う者を苦しめている。なぜなら、あなたは賢く、賢いが故に直ちに答えを見、その答えに直ちに飛びつく。だがそれは安易な答えだ。』

  『なぜそれを安易な答えというか。・・・なぜなら、あなたの得る答えなるものは、ただ、あなただけの幸せに続いているからだ。――すべてを幸せにしないような答えは、真の答えにあらず。』
  『他者の幸せを思ってこそ、真の幸せを得られる。それは一見回りくどく思えるかもしれなが、他者から幸福を願われぬ人はなかなか幸せにはなれぬものだ。自分の幸せを求めて、他者の幸せを祈るのは決して遠回りではない。……愚直な生き方は、あなたが思うほど格好の悪いものだろうか?』
 

 

向上心の空回り

2007/01/22

2007年01月22日


Q 「向上したいといいながら、騒ぐばかりで、どうにも進歩のない人がいます。なぜ、こういう事になるのか? また、どう受止めればよいのでしょう?」

頭が滑る……やりたい事が多すぎて努力が追いついていない。気分は舞上がり、うまく行かぬから気が焦る。自分の力を一喜一憂するためだけに浪費し、夢を実現し、また、自己を向上させていくことにまで力が廻らない。そもそも、自己の向上という現実的な成果を求めている相手ではない。ただ、向上した自分の姿を思い浮べて良い気分に浸りたいだけである。

これは若さの持つ副作用の一つである。生気溢れる人は、呼吸しているだけでも幸せなものだ。と同時に、他にも幸せのあることを想像も出来ない。反対にコツコツと物事を為そうとすると、溢れる生気を持て余して苦痛を感じる。

Q 「発散がヘタ?」

こうもいえる。今までの人生を、ただ、親など、自分より上位にあるもの、優位にあるものへの対抗心(反抗ではない)で過してきた。……見下している、ともいえる。だが、見下した相手の真価に気づいた時、自分の本当の価値も知る。

たとえば養育されているときには、親の収入を内心侮蔑するが、いざ働こうとすると親の収入に敵わぬ事に打ちのめされる。誰かに侮辱されるのではない。自分が侮蔑してきた相手に、敵わぬ事で打ちのめされるのだ。

それまでは色々な人々を侮蔑することで発散していたが、侮蔑する相手を失って鬱屈してしまうのである。

その後の人生は大きく二種に別れよう。おまえが問題にするのは、その鬱屈した気持を「霊障である」と思いこむ者であるが、内心の侮蔑・対抗心を、あからさまな攻撃・反抗心に変じる者の方が圧倒的に多いだろう。

優越感に浸る間は、本心を隠すが、優越感を失った後は、見てくれに構うことなく利己的な行動に流されていく。

Q 「子供の頃は良い子だったのに……」

親を尊敬し服従していたのではなく、親を相手にしていなかったのだ。……むろん、誰もがあからさまな攻撃心を露にすることはないだろうが、見る限り、多くの者が親への侮蔑と現実の自分との差に苦しんでいる。

Q 「どう受止めればよいのでしょうか?」

若さのもたらす気分の高揚、溢れる生気に陰りが出れば、いやでも人は冷静に戻り、現実との妥協が当り前に受止められるようになってくる。時間に任せるのも一つの手ではあるが、当然それは莫大な後悔と共に生きることを意味する。だが、同情が必要であるのか?

Q 「確かに自業自得ではありますが、家族にすれば大変かと?」

かつては侮蔑し、今は憎んでいる相手の助言や親切さをどうして受入れようか? 今まで見下し、侮蔑してきた相手の親切ほど、イヤミなものはないだろう。一体、救いたいのか、報復したいのか?

Q 「上手に下手に出る、ぐらいでしょうか?」

取繕いは、たちどころに破綻する。……こういう子も、その親も、侮蔑し、侮蔑されていることに気が付かなかった罪を罰せられているのである。

価値あるもの、自らを生かすものを侮蔑する。限りある人、制約に縛られている存在が決してやってはならぬ事だ。その罪を許されるまで苦しみは無くならぬ。

Q 「何か話題が、とんでもない大事に転じた気がしますが」

だらしなく生きる、それは人として大切な何かを学び忘れたということである。それがどうして大事でないと思うのか?

大事なものが欠けているのだ。地上のものさし、つまり結果だけでその罪を判断すれば、さしたる罪には思えまいが、それはただ、手段を持たぬが故の結果である。歴史を振返れば、大事なものが欠けている(世襲の)君主等がどれほどの被害を社会に及したか。

この罪は重い。ただ、害が外に及ばぬ事だけが救いともいえる。

Q 「自らを生かすもの、助けるものを侮蔑する……大なり小なり人がやっている悪行ですね」

社会を汚し、環境を汚し、子孫の未来を汚している。……人々は過去の時代の人々を未開であると侮蔑するが、未来を汚すことにかけて、今の時代の人ほど悪辣な存在は無い。現代は霊性の暗黒時代である。……良い自分であろうとするが、未来を汚すことを止められないのだから。

Q 「皆同罪だと……」

そうまではいわぬ。ただ、害が少ないからと簡単に考えるな、ということである。また、家族がかわいそうだからと、安易な解決を求めるな、ということでもある。

だらしなく生きるすべての人が、だらしない心の持主であるとはいわぬ。病気もあるだろう。霊障もあるだろう。他にはいえぬ不都合もあるのだろう。

だが、溌溂と生きる人々であろうとも、未来を汚していることに気が付かぬ人が多い。

自分を生かしているもの……地球、環境、社会、家族もまたあてはまる。それらの大切さに気が付かずに生きることが、結局は自分の可能性を狭め、また未来を汚す大罪となるのだ。


不安からどう逃れるか

2006/05/17

2006年05月17日

関連事項: 隠れ悪魔信仰者


Q 「不安からどう逃れるか」

自己の弱さに逃げない――働く先に言い訳をする。気が休まるつもりでいるが、他人に気配りを要求している。得てして人は自らの困苦を、他人に押し付けて気が付かない。人が背負うべき苦労はさして変わりないのに、自分だけが不安であるかのように振舞うわがままさ。周囲の不安を仰いで、努力をむなしくさせる愚かしさ。

不安が何者も救わない、不安を抱いても何の価値も無いことを知りながら、それを他者にまで害を及ぼす。……ただ自分が不安であるからという理由で。

自分の弱さに逃げる。それは自分の業を他人に転嫁する努力である。だが、摂理は個々人に、自らの責任を果たすことを強いる。他人に転嫁した業は膨らんで我が身に戻ってくるのだ。

大きな問題は、「不安」が建前であり、本音は自らの「弱さ」であることだ。弱さを自覚する者ならば、努力の余地もあれば、助け合いの余地もある。すなわち希望があるのだ。だが、自らの弱さを認めずに、ただ不安だけに大騒ぎする者には何ら希望が無い。不安解消が実現不能であるから妄想でしかないのだ。

したがって、不安から逃れるための第一の関門は、自らの弱さを自覚することである。

原因がわからずには解決策が見つかるはずも無い。……自らの弱さ以外のところに、不安の原因を探すから解決策が見つからない。弱さを自覚すれば後は個々別の問題となり、一般論で答えるのは適切ではない。

Q 「自分の弱さを認めたがらぬ人もいます」

毒虫の巣――主観と客観の間に差がある人なら、問題は不安解消だけに留まるはずが無い。その不安の陰には、沢山の問題が隠れている。汝は毒虫の巣となっている石をひっくり返す覚悟があるのか?……だとしたら、汝が問うべきは、どう不安を抱くか、正しい警戒の仕方、であろう。

Q 「自分の弱さに開き直って努力しない人もいます」

真の勇気と匹夫の勇――弱さを知りつつも強敵から逃げぬ勇気と、己の弱さを知らずに強敵に向かっていく匹夫の勇を混同してはならない。自分の弱さを理解せずにいるから開き直っても努力しないのだ。知っても理解せぬ者に、どう理解させるというのだ。

Q 「大きな墓穴であるとは思うのですが、念のためにお聞きしたい。知っても理解せぬ者に、どう理解させたらよいでしょうか?」

相手に理解を求めるなら、まず相手を理解することである。その上で理解の障害となっているものを一つずつ取り除いていけばよい。だが、世には極めきれぬ智識があるというのに、それを学び、理解するのを休んでまで、他者に何らかの理解をさせることに価値があるのか。……つまり汝は人生の意義を理解しているのか。他人の無知を救う前に、自分の無知を救うべきではないか。

虎を飼いならす方法があるにせよ、素人は虎を飼おうとすべきではない。

それを専門の職とする気が無い限り、人は救わず、助けるだけにせよ。


集中力の高め方

2006/05/12

2006年05月12日


Q「集中力の高め方について助言を頂きたい」

無駄を省く――無心になろうとして雑念が生じるのと、集中しようとして雑念が生じるのは同じ雑念でも似て非なる。集中しようとして雑念が生じるのは、疲労もあるし、懸念もある。霊障の場合もあるだろう。このようなときにはいきなり集中するのではなく、まず無心を目指して雑念をわき上がらせ、その雑念の元を把握してから集中するようにする。

そもそも集中とは何か、自我の本源にすべてを委ねることである。集中すべき時に雑念が生じるのは、自我の本源がそれを拒絶しているのである。その原因を取除かなければ集中は出来ない。それは集中することに危険があるからで無理をして良いことはない。しばし試みて、集中できないときには、無にかえって原因を探ることである。

Q「それがなぜ無駄を省くという要点につながるのでしょうか?」

なぜ集中する必要があるのか?――自己の本源を主体に生きているなら、ことさらに集中する必要はない。状況に合わせて緩急自在、ゆったりと過しながらも無駄なく素早く片付けられるもの。…… それをあえて上手に集中したいという。心に無駄があり、無駄を棄てられぬからそういう滑稽な要望が生じる。

Q「つまりは普段の心がけが大切であると……」

日々の精神統一で、一体、何を解決しているのか。心の煩いを忘れて楽だといっているだけか。苦悩を棚に上げるのは解決の一手段でなければならない。


疑えばきりがない。

2006/05/09

2006年05月09日


Q「この者は救われないと感じますが、その理由がうまく理解できません。」

自分の事が自分で出来る。と、なれば一人前のつもりで居るが、それでは、手のかからなくなった子供に過ぎない。子を養い、老父母に報いて、ようやく真の成人と呼べるのだ。成人のなんたるかも知らずに、他人に迷惑を掛けぬとは反抗期の子供のいうことである。他人の築いた基礎の上に安住できることに感謝することさえも知らぬなら、その愚かさは甚だしい。……感謝すべき事を知らずにいるものが、どうして世を富ませることが出来るのか、世の中が貧しいのに、どうして困窮する我身に救いが来ると信じることが出来るのか。

他人の世話をして当り前……そうあってこそ、困った時に助けが期待できるというものだ。

正しい世の中を支える一人になろうと努力せずに、幼稚・未熟な価値観をそのままにして、苦労・不幸なき人生を求めることが、そもそも考え違いというべきだ。

稔りの得られぬ半端仕事ばかりで日々を送れば、人生が貧しくならぬはずもない。……助けてくれたら恩返しをするなどと空手形を乱発しても、稔らぬ半端仕事しか出来ぬ者がどうして恩返しが出来ようか。礼の有無を問題にしているのではない。その見通しの暗さ、愚かさをして、救いの手を躊躇さしめるのだ。

足りぬならば補えるが、ないのであれば養わねばならない。まして、何度も約束を踏倒している者、すなわち嘘つきを救うのは道義的に難しい。

救われる為に努力しているのであろうが、やっていることは救われぬ努力である。……がたがた言わず、小さな事でよいから稔りのある努力を始めることだ。そうしてこそ救われるための準備が出来たといえるのだから。


頭の整理

2006/05/09

2006年05月09日


頭がもやもやしている。すると、盧氏が語りかけてきた。

掃除――心の掃除をせよ。あれこれと悩んで、答が見つからぬという。それはちょうど、部屋を片付けずに箱の中の整理をするようなものだ。箱の中身と、部屋の荷物との区別が付かなくなるのである。

悩み事の答を求めるのにも、日常のあれやこれやを棚上げせずにいるから、つい、つい、本題からずれてしまう。あれこれとたくさんの本題を持つから、本題を一つも解決できない。そもそも本題とは、主たる問題の筈なのだが すべての問題を捨去ってから取組め……というのではない。いや、そういう表現を使うことは間違いではないが、重要な事は、一つの問題を取組むときには他の問題はよそに片付けておく事である。そうやって一つずつ片付けていけば、片付かない問題はない。

Q「それぞれの問題の答が矛盾している場合があると思いますが?」

恐怖――失敗するのでは、答を得られないのではという恐怖が、あなたの邪魔をしているのだ。それぞれの問題の矛盾が邪魔しているわけではない。なんとなれば、その時々に於て異なる最善があることに何の疑問があろうか? 対面を保てなくなることを恐れるなら、よく考えるべきである。その時々に於て異なる最善があることに気が付かぬ者の評価など、取るに足りない。

Q「最終的な答は、独立して考えるべき物だと?」

心が軽くなれば、それだけ広く物事を考えられる。悩みの過程での答が、最終的な答えにつながるなどというふうに自分を縛るから、視野が狭くなる。

Q「すべては真理を得るための過程に過ぎない?」

いや、己が、迷い深き者であることを自覚するための試練に過ぎない。地上での迷いは何ら過程ではなく迷いを捨去った後にこそ真理を得るための過程がある。だがそこに至まではまだまだ悩まなければなるまい。

Q「直ちには悟れぬと?」

自らの迷いを解くことが大切なのではなく、様々な迷いを解けることが大切なのだ。……慌てなくても真理は逃げないが、経験すべき事柄は、時と共に移ろうのである。苦しめ、というのではなく自信を育てることをせよ。真理は逃げない。安易に悟った気分を楽しみ、驕って転んではつまらぬからな。


幸せを考える

2006/05/03

2006年05月03日


Q 「『日常の幸せ』を問います。」

念の通ること――せっかくの想いが通じなければ人は落胆し、つまらぬ手助けでも、「ありがとう」と言われると、何やら嬉しくなる。人が何をもって幸せと思うか。他と心が通い合ったときに人は幸福を感じるものである。

真心が通じてこそ幸せを感じるが、真心が挫折すると人は恨みすら抱きかねない。……してみると、どうすれば念が通ずるのか、その工夫が幸せを得るための鍵となる。

・・・

念の通ることの大切さに気がつかぬ者は、ただ、努力することを繰り返す。だが、強ければ拒絶され、弱ければ届かず、ちょうど良い具合を保つことの大切さがなかなかに難しい。念を通す事が重要であると気がついた者なら、さしたる努力もなく、すっと相手に合わせられるものを。

このコツを会得するだけで、悩みの半分は消えてなくなるであろう。

Q 「たとえばやりたいことが見つからないとか、人から理解されないとか……」

何もしないから叱られ、つまらぬ事をしても叱られ、ではと、発憤して大きな事をやろうとして挫折する。念が通ればよいものを、念を通さずに事を通そうとするから無理が生じる。

Q 「事を通す、念を通す、について、もう少し教えてください」

眼に見える形で何かを為そうとすることを、「事を通す」と呼ぶ。相手の目に物を見せてやろうというのだから、話が大きくなって挫折しやすいのは(それこそ)眼に見えている。思うことは形になるといっても、千里の道も一歩から……大事は小事を積み重ねてこそ成るものなのに、小事を軽んじて大事を求めるのは夢想というより無い。

石段を登るには、上の段からでなく、下の段から登るのである。下の段を無視していきなり上の段に飛びつこうとするから転げ落ちるのだ。

念は強ければ拒絶され、弱ければ届かず、程々が大切だ。であるから、相手の意を汲むところから初めて、最初は高望みせず、徐々に望むところ、夢見るところまで話を持っていくことである。焦れば拒絶され、安穏とすれば届かずに終わる。それが「念を通す」である。


胎教と幼児教育

2006/04/19

 (A)廬氏の回答

心霊主義掲示板への回答として

06年4月19日 

Q 「胎教、および、幼児教育について教えを乞う」

 個々の手段については割愛する。

顰蹙――にならう犬猫を育てるだけならエサを与えさえすればよい。だが人の子を育てるというのは、その心を育てるということだ。音楽を聴かせ、オモチャを与え、教材を与える……だが子供の欲求を酌み取ることなくただ与えるだけなら、犬猫を育てるのとどう違うというのだろう?
 大切なのは、目をかけ、気配りをし、子供の欲求にしっかりと応えることである。……つまりは愛情をかけるということである。その愛情の発露としての胎教や、幼児教育であるならことさらにいうべき事など無い。昔から智慧ある婦人等が心掛けてきたことであるから。
 だが、子供の欲求を損なう形で押しつけるような、物まね胎教、物まね幼児教育は、思うような結果を得られまい。

顰蹙: 「蹙(美女)の顰み(しかめつら)にならう(真似する)」

純粋さを育てる――私には子供がいない。だが、私は多くの純粋なる「子供等」を育ててきた。いや、大人の邪気を取り去って子供としたのである。

 であるからいう。

汝に邪念はなしか?――分不相応の子を得て、誉れの美酒に酔いたいという欲はないか? 今時の子等はアレルギーなどで苦しむとか。水や空気や食い物に安心が出来ぬということだが、世の親が子を思う気持ちには毒が含まれていないのか?

胎教よりも邪気を抜くべし……子の非行を見て涙で邪気を吐くのではなく、日常生活の中で邪気を吐き、無邪気な子供を毒さぬようにすべし。それを忘れて何の胎教か!


(B) 某氏の霊より

心霊主義掲示板への回答として

06年4月19日 

心霊主義掲示板の投稿を読んだ後、 入浴中に懸り、いくつかビジョンを見せた後、「(ラフ原稿を)適当に味付けして出しておけ……」とのこと。努力してみた。

1,胎教について

 母親の笑顔(が醸し出す雰囲気)に敵う音楽はなし。母親が聞いてリラックスできる音楽を聴くなら良い。瑣事を忘れて聴くときには一心に聴くべし。だが、胎教と特別な気持ち、義務感から音楽を聴くなら、音楽を馬鹿にする子に育つ。

2,幼児教育について

 気配りの出来ない親が、いくら熱心に教育したって、犬に芸を教えることも出来ない。子供に為すべき事は「子供」に訊け。 


(C) 小嬰氏より

心霊主義掲示板への回答として

06年4月19日 

Q「胎教、および、幼児教育について教えを乞う」

 私が思いますに、胎教・幼児教育はとても大切です。それの施されていない子と比べて見ると、よく分ります。ですが、せっかちな人では良く教育が出来ません。早くから教育をすべきであるというのは、日常生活の何たるかを理解しない大人のいうことです。

 先ず、真の胎教・幼児教育には、目標を定めねばなりません。たとえば君子に育てたければ、親は君子に接するが如き気分で日々を送るべきです。士に……(武士というても良さそうです)……育てるなら、親も士として振るまい、鳶が鷹を生むかのような不自然な願いはお止めになることです。

 親が子に嘘をつきながら、子供の非行に涙するなどというのは、天罰と思わねばなりますまい。……自然に接すれば、その子の持っている天与の才が開花いたします。

 作為で引き出そうとするのは助長……折角の才能も親が不躾でダメにしている例は非常に多うございます。


幼児向けの教育が必要なのは親の方だ

2006年04月20日

 胎教・幼児教育に関する質問(質問者を、ではない)は掘り下げると奥が深い。

 必要なのは胎教や幼児教育の手段だろうか? 親の個性、子供の個性に合わない方法であれば、教育が親子間の信頼関係を歪めはしないか。親が嫌々勉強しているのに付合わされたら、体感的に子供も勉強が嫌になるだろう。

 大体、農作物に与える肥料や農薬だって、効果を観ながら適宜に調整するものだし、犬馬の調教だって、動物の反応を見ながら行うものだ。それを子供の躾・教育に関しては、方法論ばかりが先行するのは、人が幼児に対して不自然で過大な期待をしているのか、もしくは、人間の幼児が農作物や犬馬以下の存在として扱われているのではないか。…… 少なくとも、犬馬の子供らの方がよほど個性を大事にされているかに見える。――または、職業教育者が営利主義に陥って市場拡大を図っているのに、人々が知らずに踊らされているのか。

 丁度、インスタント食品の普及で味音痴が増えている(といわれている)ようなものではないか。箸や鉛筆の正しい持ち方が出来ない子供が多いというのも、親が子供と、まともな時間の過し方をしていないことを暗示する。単に食べ物を買え与えて後の世話をしないのではないか。それでは食事のマナーなどが身に付くはずもない。

 いや、もっと対外的な問題がある。子供が子供同士で遊ぶのは当然のこととして、休日も子供だけで過すか、親に連れられて行楽地に出掛けるだけでは、住宅近隣地での子供達の態度が悪いのも当然だ。ガラスの前でボール遊びしてガラスを割って逃げる、看板をボールの的にしては看板を壊す、立体駐車場で自転車を乗回す。注意すれば屁理屈で返し、叱れば逃去る。……親は一体何をしているのか。

 ああ、マンションのエントランスのド真ん前で、井戸端会議を開いて通行の邪魔をし、子供等は郵便ポストにイタズラをしている。まあ、親のマナーもその程度のものである。

 なるほど、親が忙しいのも理解するが、教育というのは教材を選ぶことではなく、子供に時間を割くことではないだろうか。大人と付合う機会がなくて、子供同士の中でだけ人間関係を育てさせるから、身勝手で、感情的で、非論理的な(というか、短絡的な)コミュニケーション能力しか持てない。……子供ぽい人間が増えているのではなく、大人と接する機会が少なくて、どう他人と接して良いのか判らない人間が多いのだろう。だから嫌われて途方に暮れる……嫌われて、慌てて、かえって傷口を拡げてしまう。

 で、自分らが苦労したから、子供にはちゃんと教育の機会を与えねば、というわけで、又教材に頼る。……破綻的論理の輪廻だ。グルグルと同じ事を繰返すように見えて、実際はどんどん事態が悪化している。

 良い教材よりも、親が心のゆとりを持って子供に接せられるようにすることが、本当の意味での子供の教育に必要なことだろう。…… だが、教材や教育法に目がいく。子供を迷わせる現代の親たちは、一体何から目を背けているのだろう?


僻《ひが》む

2006/04/12

 見限ること――僻むとは、見限る心である。自分の運命、自分の祖霊、自らを守護する総てのものを見限って、自分は一人なのだと思いこむ。それが僻みである。

 見限ることの大きな問題は、自らそれを失わせしめることにある。与えないのではなく、受取らぬ所にこそ僻む心の本質があるのだ。

 この心を分析するのは不快でもある、だがいくつか実例を挙げてみよう。

 自分には才能が無いと思う……それが僻みである。

 持たざるから、持つ者を不公平だと思う……僻みが肥大する。

 公平となるように持つ者を縛ろうとする……僻みが露呈している。

 根源にあるのは、自分自身を見限る心――努力もせずに自分の可能性を見限る心がある。

 なるほど確かに、人は総てには達し得ない。まずは得手不得手があり、境遇があり、器量があってそれらを越えるのは難儀でもある。…… しかし、一つがダメだからといってそれがなんだというのだろう? 

 既に自分を見限り、総てを抛り出す口実を捜して、あれこれと欠点を探しまわる。僻む前には見限る心が働いているのだ。

 価値を知らぬ――僻む者を見て、心の幼さを感じるのは適切な観点である。僻みの根源には見限る心が働いているが、それはつまり、価値や意義をしらぬからこそ見限り、棄てようとするのだから。

 物事の価値を知り、物事の活かし方を学び、一見無価値に見える物にいかなる価値可能性が潜んでいるかを考察することに歓びを見いだせれば、自ずと僻み心が消えていく。

 僻み癖を直すのは難しいが、それは過ちから生じる悪癖ではなく、心の未熟さから生じる悪癖だからだ。


2006-04-12

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