‘その他の霊’ カテゴリーのアーカイブ

カルマ・頑張ってもダメなら!?

2010/02/28

2010年 2月 27日


 入浴中に女性の霊から話しかけられた。興味深いが、概要を聞いているうちに心配になってきた。話を曲解する人が出ないか? ……この通信霊に相談したところ、「半年ほど寝かせておけば」というので、忘れても困るし、とりあえずパスワード保護をして公開することとした。

 とはいえ、勿体振るほどの内容でもない。俗に言う、口伝に属する話題である。

 つまり、当たり前な内容であるのに、気がつかない人は気がつかず、気付く準備の出来ている人にのみ有益な内容なのである。 そして下書き後に気がついた。もとより読み手を選ぶ内容であるから、別に隠すほどの話ではない。というわけで、一時パスワード保護をしたが、一般公開に変更した。


 とても叶えたい願いがあるのに、頑張っても上手くいかない。 ……だからもっと頑張る。

 さらに頑張って上手く行くならそれで良し。だが上手くいかなければ? ……さらに頑張る?

 まあ、口先ばかりの横着者ならば、そういう選択もある。 だが、物事には程々(ほどほど)が有る。のんびりしても、また、焦っても上手くいかないことは決して少なくない。

 さて、果たして努力が足りなかったのか。それとも急ぎすぎたのか。または、焦りすぎたのか。 つまりは、1、もっと頑張るべきか、 2、少し落ち着くべきか……さて、どちらだろう?

  この二つの見極めがとても大切なのは言うまでもない。なにしろ、同じ目標に正反対の二つの選択肢が有るのだから。 だが念のため。

 私は上に例題を掲げたのではなく、ただ単に選択肢の存在を示したのみである。つまり、状況に応じて努力の程度、速度を調節している人であるなら、わざわざ指摘するまでもない話であり、それを例題として受け止め、どちらだろう、等と考えた人であれば、上述の二つの選択、つまり、頑張るか、落ち着くか、という話以前に心に止めて置くべき話がある。……その話こそが本題だ。

   もっと頑張るべき……のんびり屋も

   落ち着くべき……焦り屋も 共に気付くべきことが有る。

あなたは、理・知以外の何に振り回されて ……いるのか?

 さらにいえば、願いの成就に最適な方法を取れないあなたは……果たして何のために努力しているのだろう?

 苦しまない生き方が有るとしても、苦しむ人は苦しむ。結局、自分で選んでいるのである。

「イヤ、私は苦しむつもりなどない!!」と、あえて言う人もいるだろうが、知る人ぞ知る……私が問題として指摘しているのは、「苦しまないようにしようと努力して、でも、苦しむのは何故か?」という、いつもの話題なのである。

最もいつもの通り、結論は出さないが。

 私がここに結論的な意見を書き留めなくても、気付く人は直して不幸を退け、気づかぬ人は私が結論づけても気付くことはない。

 その差は実に、自分の努力で答えを見つけるか、他者の努力、ひいては実力以上の答えを求めるかの違いなのだが……自分の器量・実力を知っているものなら、誤るはずのない選択……端的にいえば、世の中には、得られるはずのないものを追いかける定めの人がいると言うことでもある。 すると、気づいた人には夢との決別が必要であり、気づかぬ人には、さらなる苦しみが未来、いや気づかぬだけで足下にすでに危機があるのだろう。


 

 

 

 嫌味のようで申し訳ないが……もう少し付け加える。 いわゆる苦しみには、(成功に至る道の)過程の苦しみと、(至らぬさ故の)結果としての苦しみがある。……あなたの苦しみは、そのどちらであろう?

 言うまでもなく、過程の苦しみはいずれ報われ、結果としての苦しみは、改めることなければ消えることのなく、地獄の亡者の苦しみと同種のもので、死後も苦しみが続く。

 あなたは何のために苦しむのか……正しい努力の結果として幸せを得るためか、はたまた、姑息・あくどい手段で幸せをつかみそこねるためか?


 まあ、悩むのも青春の内か?

(新作) 緊張するのは当たり前

2010/01/12

 多くの人は120%の自分を求めているようだ。つまり、実力+何かの助け、である。私が心霊を学び、知ったのは、人がいかに多くの無駄を抱えながら生きているか、ということで、外部の助けを求める以前にまず、自分の無駄を減らすことが大切だ、と思う。つまり、100%の自分こそが、私の目標である。

 基礎がしっかりしていればこそ立派な建物が建てられるのたとえと同様、自分がだらしなければ外部の援助を生かすことが出来ない。・・・かつて、心霊相談に応じていた頃に私は痛切に、人としての基礎の大切さを思った。助けを求めながらも、信じることが出来ずに助言を生かすことの出来ない人が決して少なくない。・・・そもそも自分が折れてしまうなら、誰かの助けがあっても、折れずには居れまい?

 故に、まずは自分の力を充分に発揮することが大切だと思う。

 ところで、なにゆえ自分の力を発揮するよりも、他者の助けを求める人が少なくないか、を、考えると、「自分を嫌っているのでは?」と思えるのだ。

 自分の人生、自分を嫌い、自分と抗っていては、さぞかし辛かろうと思うのだが・・・

・・・・・・・

 緊張する。

 1月の東京オフ会に、初参加者があって、案内状の返事に、「少し緊張しそうです。」とあった。まあ、緊張するのは人間の生理現象であって避けることは出来ないだろうが、普段のオフ会の状況を知らせることで、参加前の緊張を少しでも解そうと、再度メールをした。そしてオフ会当日、会場に向かう電車内でメッセージを受けた。

『面識の無い人と、行ったことの無い場所で会うのですから 緊張するのは当たり前、ただの生理現象に過ぎません。でも、その緊張をイヤだと思い、緊張する自分を恥ずかしいと思うのは、自分を味方と信じていないことではありませんか。真剣だからこそ緊張するのだ、と、むしろ誇らしく思って欲しいものです。』

・・・オフ会後、この参加者から以下のようなコメントを頂いた。

「最近やっと自分が幸せにならない事には周りを幸せには出来ないと思えてきた所だったので心配しなくて良いと言ってもらいとても安心しました。」・・・もちろん、自分を犠牲にしてでも、家族の幸せを心配する人だからこそ、「まず自分を幸せにしなさい」と言われるわけですが、これは同時に、実力を十分発揮出来てこそ、出来る事がある、という意味でもあります。


 

 

 

新年を迎えて(2010年)

2010/01/01

新年、あけましておめでとうございます。

皆様にとって、本年が飛躍の年でありますように。

また、忙しいさ中にも、自分らしさを失わない年でありますように。

 

自分の強さを誇る人よりも、自分の弱さと向き合える人にこそ、新しい年が、飛躍の年でありますように。

自分を味方に。反省を力に・・・助けを求める事よりも、自分の本来の力が発揮出来ますように。

当たり前のものを大切にし、他に目を奪われぬ自信を胸に・・・あなたが常に真実と共にありますように。

 

 

気がつけば、自分を救っていた

2006/04/27

2006年04月27日


 以前世話になった、某霊媒・先生から通信を頂いた。……自分の指導霊に「ここで学んだことを試すつもりで通信を送ってみよ。良い経験である」と告げられたそうだ。

・・・・・・・

『私はかつて、人々の霊障を救ってきたのだと思っていた。だが、こちらに来て気がついたのは、私は誰を救ったのでもなく、実は自分の霊障を解消していたのだということだ。……生きている内はそこが見えなかった。

『相談に乗ることが独り善がりだというのではない。ただ、相手と同じ霊障を自分も背負っているからこそ、相手を理解し、相手を癒し、相手を正して、良い未来へと繋げていけたのだ。

『自分は、救ったのではなく、救われたのである。……自分自身に。

『なまじ霊力があればこそ、自分が気づくこともなかった霊障を……微細であるが、疎かに出来ない霊障を、人の悩みを通じて自覚し、解消していったのだ。

『多くの人々が、一生の間に気がつくこともなく、解消せざるまま、死後に慌てるところを、私は、自分が人助けと信じていた行為の中で解決していたのである。

『だから後進の者に伝える。

『救いの中には自分が含まれている。……人の苦しんでいる様を見て、助けようとか、助けまいとか、下らぬ心を働かすな。他を救うために働くのではなく、自分が救われる機会であると信じて行え。

『行う前には空しく見えても、達成感で報われることもある。今は報われなくてもいずれ報われる日が来る。明日に報われないとしてもガッカリすることはない。報われる日が遠いことはそれだけ価値のある行い……誰もが出来ぬ事をしたのだから。』

・・・・・・・

……なお、通信を取り始めて三十秒ほどで意念が混濁して意味不明な文章になってしまい気がついた。他の霊界通信でも読むことだけれど、肉体に近い雰囲気の中にいると、霊達の意識が混濁するのである。こういう時には息継ぎが必要なのだ。

 というわけで、書き上げた半分を削除し、今度は息継ぎしつつ、すー、はぁ、で書き、休んでは、すー、はぁ、でまた書くを繰り返した。…… あなたももし直感が混濁したら、さらに集中するよりも一呼吸休んだ方が良いのかも知れない。


胎教と幼児教育

2006/04/19

 (A)廬氏の回答

心霊主義掲示板への回答として

06年4月19日 

Q 「胎教、および、幼児教育について教えを乞う」

 個々の手段については割愛する。

顰蹙――にならう犬猫を育てるだけならエサを与えさえすればよい。だが人の子を育てるというのは、その心を育てるということだ。音楽を聴かせ、オモチャを与え、教材を与える……だが子供の欲求を酌み取ることなくただ与えるだけなら、犬猫を育てるのとどう違うというのだろう?
 大切なのは、目をかけ、気配りをし、子供の欲求にしっかりと応えることである。……つまりは愛情をかけるということである。その愛情の発露としての胎教や、幼児教育であるならことさらにいうべき事など無い。昔から智慧ある婦人等が心掛けてきたことであるから。
 だが、子供の欲求を損なう形で押しつけるような、物まね胎教、物まね幼児教育は、思うような結果を得られまい。

顰蹙: 「蹙(美女)の顰み(しかめつら)にならう(真似する)」

純粋さを育てる――私には子供がいない。だが、私は多くの純粋なる「子供等」を育ててきた。いや、大人の邪気を取り去って子供としたのである。

 であるからいう。

汝に邪念はなしか?――分不相応の子を得て、誉れの美酒に酔いたいという欲はないか? 今時の子等はアレルギーなどで苦しむとか。水や空気や食い物に安心が出来ぬということだが、世の親が子を思う気持ちには毒が含まれていないのか?

胎教よりも邪気を抜くべし……子の非行を見て涙で邪気を吐くのではなく、日常生活の中で邪気を吐き、無邪気な子供を毒さぬようにすべし。それを忘れて何の胎教か!


(B) 某氏の霊より

心霊主義掲示板への回答として

06年4月19日 

心霊主義掲示板の投稿を読んだ後、 入浴中に懸り、いくつかビジョンを見せた後、「(ラフ原稿を)適当に味付けして出しておけ……」とのこと。努力してみた。

1,胎教について

 母親の笑顔(が醸し出す雰囲気)に敵う音楽はなし。母親が聞いてリラックスできる音楽を聴くなら良い。瑣事を忘れて聴くときには一心に聴くべし。だが、胎教と特別な気持ち、義務感から音楽を聴くなら、音楽を馬鹿にする子に育つ。

2,幼児教育について

 気配りの出来ない親が、いくら熱心に教育したって、犬に芸を教えることも出来ない。子供に為すべき事は「子供」に訊け。 


(C) 小嬰氏より

心霊主義掲示板への回答として

06年4月19日 

Q「胎教、および、幼児教育について教えを乞う」

 私が思いますに、胎教・幼児教育はとても大切です。それの施されていない子と比べて見ると、よく分ります。ですが、せっかちな人では良く教育が出来ません。早くから教育をすべきであるというのは、日常生活の何たるかを理解しない大人のいうことです。

 先ず、真の胎教・幼児教育には、目標を定めねばなりません。たとえば君子に育てたければ、親は君子に接するが如き気分で日々を送るべきです。士に……(武士というても良さそうです)……育てるなら、親も士として振るまい、鳶が鷹を生むかのような不自然な願いはお止めになることです。

 親が子に嘘をつきながら、子供の非行に涙するなどというのは、天罰と思わねばなりますまい。……自然に接すれば、その子の持っている天与の才が開花いたします。

 作為で引き出そうとするのは助長……折角の才能も親が不躾でダメにしている例は非常に多うございます。


幼児向けの教育が必要なのは親の方だ

2006年04月20日

 胎教・幼児教育に関する質問(質問者を、ではない)は掘り下げると奥が深い。

 必要なのは胎教や幼児教育の手段だろうか? 親の個性、子供の個性に合わない方法であれば、教育が親子間の信頼関係を歪めはしないか。親が嫌々勉強しているのに付合わされたら、体感的に子供も勉強が嫌になるだろう。

 大体、農作物に与える肥料や農薬だって、効果を観ながら適宜に調整するものだし、犬馬の調教だって、動物の反応を見ながら行うものだ。それを子供の躾・教育に関しては、方法論ばかりが先行するのは、人が幼児に対して不自然で過大な期待をしているのか、もしくは、人間の幼児が農作物や犬馬以下の存在として扱われているのではないか。…… 少なくとも、犬馬の子供らの方がよほど個性を大事にされているかに見える。――または、職業教育者が営利主義に陥って市場拡大を図っているのに、人々が知らずに踊らされているのか。

 丁度、インスタント食品の普及で味音痴が増えている(といわれている)ようなものではないか。箸や鉛筆の正しい持ち方が出来ない子供が多いというのも、親が子供と、まともな時間の過し方をしていないことを暗示する。単に食べ物を買え与えて後の世話をしないのではないか。それでは食事のマナーなどが身に付くはずもない。

 いや、もっと対外的な問題がある。子供が子供同士で遊ぶのは当然のこととして、休日も子供だけで過すか、親に連れられて行楽地に出掛けるだけでは、住宅近隣地での子供達の態度が悪いのも当然だ。ガラスの前でボール遊びしてガラスを割って逃げる、看板をボールの的にしては看板を壊す、立体駐車場で自転車を乗回す。注意すれば屁理屈で返し、叱れば逃去る。……親は一体何をしているのか。

 ああ、マンションのエントランスのド真ん前で、井戸端会議を開いて通行の邪魔をし、子供等は郵便ポストにイタズラをしている。まあ、親のマナーもその程度のものである。

 なるほど、親が忙しいのも理解するが、教育というのは教材を選ぶことではなく、子供に時間を割くことではないだろうか。大人と付合う機会がなくて、子供同士の中でだけ人間関係を育てさせるから、身勝手で、感情的で、非論理的な(というか、短絡的な)コミュニケーション能力しか持てない。……子供ぽい人間が増えているのではなく、大人と接する機会が少なくて、どう他人と接して良いのか判らない人間が多いのだろう。だから嫌われて途方に暮れる……嫌われて、慌てて、かえって傷口を拡げてしまう。

 で、自分らが苦労したから、子供にはちゃんと教育の機会を与えねば、というわけで、又教材に頼る。……破綻的論理の輪廻だ。グルグルと同じ事を繰返すように見えて、実際はどんどん事態が悪化している。

 良い教材よりも、親が心のゆとりを持って子供に接せられるようにすることが、本当の意味での子供の教育に必要なことだろう。…… だが、教材や教育法に目がいく。子供を迷わせる現代の親たちは、一体何から目を背けているのだろう?


欲が神仏を拝む

2006/04/16

 私も、社寺を歩くのが好きですが、参拝というよりも拝殿で精神統一をすることを目的にしています。この精神統一というのは、「心・霊」の統一ではなく、「心・霊・体」の統一のことです。

 ある時、熱心に(延々と)参拝している人がいて、拝殿前が開くのを待っていた時のことです。

『祈りが長いのは、欲が拝んでいるからだぞ』と、突然聞こえました。

 欲が拝んでいる……?

『宗教などといっても、人が神を拝んでいるのは稀で、大抵は欲が神を拝んでいる。魂が呼ぶなら応えもしようが、どうして欲心などに応えよう』

 なるほど、同じ人が拝むのでも、欲もあれば、魂の祈りもあるというわけか……しかし、地上で生きている限り不足が付きまといますから、自然と欲が出る事もあるでしょう。すると、自身の祈りが欲なのか、魂の発露なのか、自分で判断するのも難しいものですよね。せめて、欲心に自身の主導権を取られぬように注意いたしましょう。


2000年

自分を味方に

2006/04/16

あなたは誰?

2000年

右手を挙げてみてください。あがりますか?

左手を挙げてみてください。あがりますか?

肉体は素直なものです。

他人なら、このようには動かせませんね。

辛いときには、胃が痛み、恥ずかしいときは赤面する。

本当に肉体は素直なものです。

でも自分が嫌いな人がいます。

自分が嫌いな人は、誰なら好きになれるのでしょうか?

いや、あなたの知っている誰よりも、

あなたに対して素直な……

そのあなたを嫌っているのはいったい誰なのです?

あなたは自分の良い所を知っていますか?

    あなたは自分の悪い所を知っていますか?

自分を知らないままに、自分を嫌いになれるのでしょうか?

自分を知らない人が、他人を知ることが出来るのでしょうか?

・・・・・・・・

知りもしない他人をどうして、好きになれるのでしょうか?

そう、自分を知らない人は、愛の意味を知らない人です。

自分を知らないままに、人が好きになる、

人に愛されたいと願うのは、

 自分のなすべき努力を人にゆだねようとする怠惰な心です。

 それは、愛ではなくて、誤解と怠惰と不誠実です。

相手にも自分にも不誠実な行為です。

これでは自分も相手も不幸になります。

・・・・・・・・

 自分の良い所を伸ばし、悪い所を減らそうとせずに、自分を好きにはなれません。その努力を怠って、「自分が嫌い」と言っていたら、誰があなたを好きになってくれるのでしょう。誰よりもあなたの事を知っているはずの、あなた自身、そんなあなたを嫌っているのは、いったい誰なのです?

 確かに、人の姿は当たり前のように見えても、鏡でもなければ自分を見ることは容易ではありません。姿形は鏡に映せても、心を映す鏡を持っている人はまれですね。霊能者にだって、自分の心を映す鏡を持っている人はまれです。自分のことは霊視出来ないなんて、いっているのですから。山の姿が、山の中にいては見えないように、私たちの心も、自分の利害から離してみなくては、自分の本当の姿が見えないのです。

・・・・・・・・

さあ、自分の心を見つめてください。

あなたはいったい誰なのですか?


あなたは不幸ですか?

ある天気の良い、穏やかな日、      

あなたは他人に煩わされること無く、   

日当たりの良い場所で、昼寝をしています。

物質的な心配事も無く、心は穏やかです。 

 しかし、このような平穏な時は、長くは続きません。天気は変わるものですし、季節は巡るものです。物質的な財産は時と共に減るものですし、穏やかさは退屈に繋がります。外部の影響をまったく受けないというのは、理想的な人格というよりも怠惰な霊性といえましょう。

・・・・・・・・

 悲しい時に泣き、辛い時に嘆き、不正に怒り、幸せな時に喜ぶ。

 それは、当たり前の人間ではありませんか。

そして、当たり前の人生ではありませんか。

 幸せも、不幸も、目の前にあるのではありません。それは遠い先にあります。目の前にあるのは、努力しながら、苦しみながら、悩みながら乗り越えていく障害です。そして、楽しみながら、笑いながら、歌いながら、踊りながら乗り越えていくべき人生の課題です。

本当の幸せは、その障害に取り組んだ先にあるのです。

本当の不幸は、その障害の迂回路に潜んでいるのです。

 目前の障害に、不幸を感じた時、あなたはすでに真の不幸への第一歩を踏み出しているのです。


なぜ苦しむのでしょう?

 目先の不幸を嘆く人は、真の不幸を知りません。目先の問題を取り除けば、幸せになったと信じられる幸福な人です。しかし、人生の帳尻は、必ず合うことになっています。取り除かれた問題とは、いずれ人生のどこかで再び取り組まねばならぬのです。

人生の諸問題をすべて解き終わるまで、

真の幸せはありえません。

 人の助けで、または責任を回避することで回答を先送りにした人は、いずれ訪れるであろう再試験を恐れつづけなくてはなりません。

恐れは、人間を卑屈にします。

年老いても、卑屈な人間は惨めです。

 人生の諸問題をあざけり、回答を拒む人もいます。

これは傲慢です。

年老いても傲慢な人は孤独です。

傲慢な人は、死んでも孤独です。

彼らには、死んで無になるか…霊界の存在を最後まで信じないか

彼らには、死んで地獄に落ちるか…努力を怠って高級霊界に行けるはずも無く

やはり、人生の帳尻は、必ず合うのです。

目先の不幸を嘆く人は、真の不幸を知りません。

不幸の真の原因を明らかにしなくては、真の解決を得られないのです。

目先の問題に囚われていると、真の幸せも得られません。

人生の帳尻は、必ず合うことになっています。

努力という、代償を惜しむと、結果としてより多くの不幸という形で帳尻を合わされることになるのです。

・・・・・・・・

あなたは幸せですか?

 

不幸だとしたら、誰があなたを苦しめているのでしょうか?

・・・・・・・・

 人は往々、自分を不幸にするために努力します。なぜでしょう?


沈黙の意味

2006/04/13

盧氏との間で、「霊媒の義務」について通信中、突然割り込んできた通信が、このページの元になっています。


 交霊能力を得る為に修行を志す者は多いのですが、慎みを知らない霊媒を、重要視する霊はおりません。顕幽交通に誠実であろうとする上で霊媒の慎みは非常に重要です。

 私達が、質問者に対して沈黙を守ろうとした時に、霊媒が代わりに意見を口にする事は顕幽両者の信頼を損ねますし、または、霊媒自身が興味惹かれる話題に対して、支配霊の意を無視して自らの私見を述べる事は、霊界の意見を求める質問者を騙す事にも通じます。

 私達は、肉体に閉じ込められた方々の質問に総てお答えするわけには参りません。きちんとした質問者であるなら、一時に総てを質問することなく、まず、お互いの信頼関係を築いた上で、重大な質問をしていく事でしょう。私達にとっても、質問者の真意を適切に捉える上において、重要な質問を受ける前に、幾度か簡単な質問をしたいと思うのです。それは質問者にとっても有益なはずです。

 私達が、様々な思慮の上に、わざと質問をはぐらかし、又は沈黙を守る事も、質問者が自身の思慮で問題の真意にたどり着く為には必要なことなのです。大切なのは質問者に回答を示す事ではなく、質問者が回答を理解する事なのですから、沈黙こそが最善の回答である事も往々にして起こりうる事です。

 それをもしも霊媒が自己の私見を持って、顕幽交通の沈黙を破るとしたら、質問者と回答する霊達の努力は水泡に帰するでしょう。こういう失敗は数多いのです。霊媒能力者の大半は、沈黙の大切さに気がつかぬ故に、人々の失笑を買っているのですから。

 悩める者は、自らの苦しみから逃れる為に懸命に知識を求めているものです。それゆえに、往々に一点については専門家顔負けの知識を有している事も多いのです。このような人への回答に必ずしも専門用語が必要なわけではありません。大抵の場合、質問者が見落としている問題解決の鍵を指摘するだけで事が足りるのです。

 果たして高度に専門的な回答か、果たして含蓄に富んだ回答か、その両極端の回答こそが質問者を満足させる事ができるものです。しかし、霊媒の私見は含蓄もなく、高度な知識も無い中途半端なものになりがちです。これが質問者の失笑を買うのです。

 霊媒に大切なのは、いかなる時にも言語明朗に回答する事ではありません。相談者に適切な回答をする事なのです。ですから必要な時には沈黙を守れなければなりません。そして・・・霊感を求める人、更に強い霊感を求める人はとても多いのですが、そのような人々の中に、沈黙というメッセージを読み取れる人は一人も居ません。

 沈黙というメッセージを正しく読める人ならば、自分が充分な霊能力に恵まれている事に気がつく筈だからです。

・・・・・・・・・

 世の霊媒の欠点として目に付くのは、往々に余計な事まで言葉にしたがる事です。このような霊媒を通信手段として用いる霊は、自分の言葉だけでなく、霊媒の発言まで責任を負う事になりかねません。ですから分別のある霊は、まず、霊媒の資質として慎み深さに注目するのです。

 その意味で、霊媒になりたがる、霊と言葉を交わしたがる人々というのは、その動機から言って、霊媒には不向きなのです。そのような人々は、余計な一言によって霊界の信頼を失墜させかねないのですから。


2006-04-12

 

――忘我――

2006/04/12

 我を忘れて物事に打ち込む。幸せなことである。どんな困苦が待ちかまえていようが、我を忘れて努めている限り、その苦しみが心身を痛めることはない。傷つくべき「我」をもたぬからである。

 が、痛み、苦しみ、悲しむ人は、『なぜ私(我)が……、どうして私(我)が……』と、「我」ばかりを問題にする。傷つくのは「我」であり、その「我」を置き去れぬことが苦しみなのに。

『「我」を置き去って、自分はどこにある? 我を充たすことが満足ではないか、満足が合ってこそ幸せではないか!!』……そういう人が何を目指すのか?――悦楽に我を忘れて過ごすことではないか。

 人の心に「我」が持ち上がるのは、泣き言、不平、不満を心に貯めた時だけである。「我」とは即ち、「思うようにならぬ悪因縁」のようなものであり、「疫病神の手先」とも見なせよう。――自らの「我」がいかに悪しき存在であり、己を間違いに導く元凶であるかを認めがたいなら、周囲を見回してみればよい。我の強い人がいかに迷惑を及ぼし、また、独善的な幸福感に縛られていることか。……彼・彼女らがいう「幸せ」とは、果たしてあなたがうらやむべきものであろうか?

 憑依も誘惑も「我」が有ればこそのものだ。なるほど「我」を捨て去るのは難しかろう。だが、己を不幸にし、誤った道に誘い込もうとする意識である、「我」を大切にすることの愚かさを知れば、幸せへの道が開けてくるのである。

2006-04-12


難多く、福少ない生き方

2006/03/27

2006年 03月 26日


宗教に関する通信を受けた直後、伝えたいことがある、という霊を感じた。知らない相手ではないので耳を傾けてみる。


 先ほど、宗教に関する通信を行っていらっしゃいましたが、誠にその通りと感じ入ります。私はここで、精神統一がうまくいかない或者の守護霊として、お時間を頂きたく思います。

 まず、いけないと思うことは、最初に理想の自分をもって統一にはいることです。確かに、精神統一の初期には、心を静めるために多少過剰気味に自信を持つことは結構です。しかし、修行が進んでも尚、同じ理想を懐き続けるのは、むしろ進歩を妨げていることを知るべきです。

 理想を持ちながらもちっともそれに近づかず、延々と統一を繰返しても飽きるだけです。実現しないのであれば、何故それが実現しないのか、または、自分に適切な理想であるのか、そういったことに疑問を持たなければなりますまい。

 生真面目であることは、その守護霊として誇りに思うところですが、(と、頭を下げられてこちらは赤面する)、要領が悪いのは何とも焦れったいところです。

 空虚な理想に決別して、真に理想を実現すること……それこそが地上に生れ出ずる意義であるのに、それをなおざりにすることは心霊学徒として不誠実であるばかりではありません。安全・順調な線路から外れているのですから危険が多くて遅れがちの生き方なのです。遅れるというのはチャンスを逃すという意味でもあるのです。

 難多く、福少ない生き方をしておいて、私(守護霊)を恨んでくださいますな。しなくても良い心配をさせられて、私が恨み言を言いたいぐらいなのですから。(ハラハラドキドキが伝わってくる)


 そう、幸運を求める人は、「幸運」を自家用車的に考えて、自分の元へ一直線に来ることを想像しているようだけれど、観念的には、バスや列車に例えるのが近いと思う。それはあちこちの人を繋げて、余る物を受取り、足りぬ所に運んでくるようにして、人に幸運をもたらす。

 だから、必要な時に必要なものを受取るためには、ジタバタせずに物事の流れに身を任せることが必要になる。でないと、乗り遅れて、次の機会を待たねばならなくなる。といって、焦って前のに乗ろうとすると、既に配る相手が決まっているからと断られもする。…… 人の物を欲しがる事がいたく嫌われるのも、こういう仕組みがあればこそだろう。


お知らせBy老神いさお。

ただいま、メールヘのお返事が遅れています。今しばらくお待ち下さい。

移行途中のデータが時折、トップページに掲載されますが、編集作業の都合ですので、今しばらくご容赦ください。旧作については、本文右上に日付が記載されます。

東京オフ会: 3月度の東京オフ会は3月20日(土)午前に開催いたします。参加申し込みは、メール・フォームメールなどでお申込みください。

大阪オフ会: 大阪オフ会は4月11日(日)午後に開催いたします。参加申し込みは、メール・フォームメールなどでお申込みください。
 打ち合わせ用のページを作成しましたが中身はありません。今後参加者の皆様にパスワードをお知らせすると共に内容を追加して行きます。

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