‘幽明の道標’ カテゴリーのアーカイブ

チャンスを求めるなら

2010/06/14

 近郊の山寺の手水舎前にて、とある霊から声を掛けられる。

 以前も私に掛かったことがある霊で、手水舎の番係の霊。まあぶっちゃけ、あまり位の高い霊ではない。以前、私に掛かったときには、

『ここ(手水)は、手・口を洗うところじゃなくて、心を洗うところだよ。』・・・と、まあ、無駄とは言わないけれど、あまり面白くもないメッセージをくれた霊だ。

 どうやらその後、伝えんとすることを研鑽していたらしく、にっこり微笑んで・・・まあ、あえて描写をするとまるで神々しさの無い、ごっつくて、デコボコした顔立ちの、いわゆる天狗霊で、微笑まれても、凄まれてもあまり大差ない感のある霊である。いや別に、低級霊であるとか、不細工だから悪い霊だとかいうつもりはない。相手が見せようとする姿と、その心根とは別問題という・・・つまり、肉体を持っていた頃の姿で相手の心境を思ってはいけない、といういささか脇道的な話題である。

 で、本題のメッセージに戻ろう。

『願い事は結構。霊場とはそういう場所です。多くの参拝者にも過ちは見受けられません。なるほど罪悪感を重荷としている人は少なくありません。でも、人は迷うものですし、神仏は救いの手を差し伸べるのです。多少の罪悪感は、社寺で恥じるべきものではありません。

『しかし問題なのは別な人の事です。欲に駆られ、自尊心を抑えず、頼るのではなく自らの運命さえ支配しようと目論む、我の強い人々。傲慢な人々。

『でも、実のところ、傲慢さは罪ではありません。むしろ、傲慢さこそが人を強くする秘訣であります。ある程度の傲慢さを持たなければ、人は無駄に迷い、己の力を発揮しきれずに終わるでしょう。

『時として人は傲慢たれ、だが、時として人は謙虚であれ。・・・だが、神仏の前で、なぜ虚勢を張るのでしょう? 

『強がらなければ、折れそうな心の持ち主たち。

『私はただの手水番です。世間でいうところのトイレの掃除係に過ぎません。でも、手水の前を通る人々を見ていて思うのです。・・・自分の手ぐらい、もう少し丁寧に洗えば良さそうなものを・・・心を清められないなら、せめて手を丁寧に清めれば良さそうなものを。と。 そそくさと手に水をかけ、口をすすいで行き過ぎる人々。・・・いえ、決して多くの人がそうだというのではありません。ただ、救いを求めている人ほど、そそくさと手水を済ませ、または、手水を略して神前・仏前に出るのです。

『お説教臭いことを言いたいのではありません、また、かつてお説教臭くいことを言ったのなら私も反省しています。言い回しが古臭かったことも不味かったではありましょう。ただ・・・

『神仏は偉大ですし、我らが諸先輩たる霊たちも懸命に働いているのです。皆様が真摯に祈るなら、それは必ず助けを得ましょう。(結果は伴わなくても意義はありましょう。とも私には聞こえた。) それゆえに思うのです。

『悩める人々よ、なにゆえ、己の思いばかりを強く念じて、己の過ちを振り返らぬのでしょう?

『せめて、聖地では己が我を抑えて、静かに頭を下げ、改めるべきは改めましょう。今までと違う生き方から、新たなチャンスが開けていくはずです。その為にはまず、手と口を清める時から、無駄な力みを水とともに流して、そう、水に流して神仏の前にい出ることです。

『新たな道に眼を向ける事、今の道とは違う道を求めるなら、まずは、今までの自分を心中の奥にしまうことが大切です。今を改めずにどのような未来があるのか、それを悩むから神仏の戸を叩くのですから。


 以下は私語、

『つまりは、手水舎で見れば、その人の行く末が解る・・・』、と、かの霊と私は互いに目を見てニヤリと笑う。

 つまるところ、本殿にたどり着ける・・・心境的に・・・人は、限られているということ。

進むべき道

2010/05/09

 なぜに人は、善事を言い訳に使おうとするか。

 善き事は、素直に行うが故に汝を救うというのに。

 悪事を行うのも人。そして、善事を行う人も利己の亡者。

 ならば世の中は誰が救うというのか。

 あなたは利己心で人が救えると想うか。本当に救えると想うのか。

 僅かな経験から・・・ああ、人は僅か百年ほども生きるのが難しいというのに。・・・安易に正義を見下して。

・・・・・・・

 苦しければこそ、人は正しく生きずして、その魂が何処に行くというのか。

 当たり前のことを、当たり前に行うために、助けが、賛同者が、必要なのが人間・・・

 心寂しく、悪魔に求められずとも進んで魂を差し出す亡者が人間。

・・・・・・・

 隷属すべき悪魔を探すその前に・・・有りもしない恐れに焦り、必要のない争いのその前に降伏しようとする人々よ。正しく生きよ。

 

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言わなきゃ判らぬようでは・・・

2010/05/01

 まあ、他者には妄想の一種とみなされるかもしれないし、反対に無条件で神聖視してくださる方もいるかも知れない。が、肝心なのはその内容の価値である。意味を汲んでいただければ私にとって幸いで、これをただの霊界物語と受け取られるのは、残念である。または・・・嫌味と受け止められるのは・・・迷惑だ。

・・・・・・・

 入浴中に、ふっと霊視のスイッチが入った。・・・今日は時間があると見越してのことだろう。

 正面には女神と思しき女性(高松塚古墳壁画にある女性のような衣服を着て、優しそうな雰囲気とともに威厳をたたえている)が静坐している。なお、私には見知らぬ若い男性の声で、『アグラの反対の正座、ではなく、静坐である。』と、解説が聞こえたのだが、衣服で足は見えず、体勢的に正座と静坐の違いは分からなかった。ましてやその心境・境涯の差など・・・いや脱線した。

 どうも私は、ある男性(死者)の役(別な表現をすれば、私はその死者の霊に憑依して視点を共有している)であるらしい。

・・・・・・・

男 『私が考えておりますことを、説明させていただけば・・・』

 女性が右手を上げて押し止める。

女 『言(解説)わねば判らぬことなら、(あなたの考えは)無意味です。』・・・括弧内は私が感じ取ったニュアンスである。つまり霊聴的に聞き取ったのは「言わねば判らぬことなら、無意味です。」である。 そして男はうなだれて消え去った。

 光景が代わり、女神(? 相手が名乗るわけでなし、とりあえず保留するが)が、私に解説を試みる。

・・・・・・・

 (あなた方の言う)「死後の世界」とは、 意念の世界、つまり、思うことが形になる世界です。正しい思念は形態を持って発現し、霊たちはそれを実存として感じとります。しかし、矛盾・稚拙な思念であればそれは確固たる形態を表さずに煙のように漂い、その(意の)動機次第で、(それなりに)良い雰囲気を醸し出しもすれば、不快な雰囲気を周囲に拡げもします。

 ですから、きちんとした形態をとらぬ意念など、語るに値せず、育てる価値もありません。強いていうなら、それは持ち主の修行の必要、むしろ、妄想との決別こそが必要であって、その意とするところ、その考えはまるでゴミのようなものです。

 (私の拒絶は相手に対して)「語るにふさわしい人たれ」という意もありますが、「語るにふさわしい人たれ」とは同時に、「そういう内容の話をするようでは駄目だ」という意でもあります。

 あなた(がた)が、自分の思いを(地上・物質界)に実現しようと努力なさるのは結構です。ですが、「思い」は、その人の「人となり」のものであって、「思いを実現出来ない人」というのは、往々、努力が足りないというより、その思うところが間違っている、実現努力よりも、自己研鑽が必要、ということなのです。

 果たして自分に足りないのは、実現努力か、自己研鑽か、という判断は、なかなか自分自身ではつかないものですが、第三者にはひとつのヒントが有ります。

 失敗から学べる人か、同じ失敗を繰り返す人か、ということです。さらには、反省出来る他人に思えても、ある分野では失敗を繰り返すことを、地上の人々が決して免れぬことに留意すると良いでしょう。

 それは善し悪しの問題と受け止めると、反省を誤ります。心霊家は往々、地上生活を学校に例えますが、地上生活は得点を競う場ではなく、失点を減らしてようやく前に進める仕組みなのです。・・・そうであればどう生きるか、どう生きるべきか、いや、何をしてはいけないか、ということが自ずと解ってくることでしょう。

 その上で、周囲の人々を見て、どうも納得が行かない(なぜあの人は・・・)事例は決して少なくないことでしょうが、それは心霊家が当たり前に知っておくべきことに解明の糸口があります。

 「地上を修業の場にしているのは誰か?」……または……「何をもって修行・向上と呼ぶか。」……ということです。 この答えは、己一人で生きているつもりの方々には解けぬ問題でも有ります。

 もしくは・・・人生の課題は、次々と解いていく人もあれば、ひとつも解けない人がいる、ということでも有ります。それでも良いのです。なぜなら…… 「地上を修業の場にしているのは誰か?」……または……「何をもって修行・向上と呼ぶか。」……人は正しい行いからのみ、学ぶわけでは有りません。むしろ過ち、または、悪事の反省から、人はより深く、善行の大切さと、悪の不毛さを学ぶのです。

 世の中には、無駄なものは有りません。ただ、人々には、その価値がわからぬものが多数あるというだけのことです。・・・その事に気づいたあなたは、さらにもう一歩前に進めます。・・・人には学びたくても学べないものが実に多い。……ならばどうするか、どうすべきか、そして、何が出来るか。

 人生は学び尽くせぬ課題です。学び尽くせぬことに気づかぬ人がつまり先に進めぬ者であり、学び尽くせぬことを知る人がつまり、永遠を知る者です。

 永遠は遠い。・・・その遠さを目にしてもなお、不安に陥らぬ人は、一体何を自信の源としているのか。

 自信の源泉を掘り当てた人だけが目にする真実が有ります。それを大切にして下さい。


カルマ・頑張ってもダメなら!?

2010/02/28

2010年 2月 27日


 入浴中に女性の霊から話しかけられた。興味深いが、概要を聞いているうちに心配になってきた。話を曲解する人が出ないか? ……この通信霊に相談したところ、「半年ほど寝かせておけば」というので、忘れても困るし、とりあえずパスワード保護をして公開することとした。

 とはいえ、勿体振るほどの内容でもない。俗に言う、口伝に属する話題である。

 つまり、当たり前な内容であるのに、気がつかない人は気がつかず、気付く準備の出来ている人にのみ有益な内容なのである。 そして下書き後に気がついた。もとより読み手を選ぶ内容であるから、別に隠すほどの話ではない。というわけで、一時パスワード保護をしたが、一般公開に変更した。


 とても叶えたい願いがあるのに、頑張っても上手くいかない。 ……だからもっと頑張る。

 さらに頑張って上手く行くならそれで良し。だが上手くいかなければ? ……さらに頑張る?

 まあ、口先ばかりの横着者ならば、そういう選択もある。 だが、物事には程々(ほどほど)が有る。のんびりしても、また、焦っても上手くいかないことは決して少なくない。

 さて、果たして努力が足りなかったのか。それとも急ぎすぎたのか。または、焦りすぎたのか。 つまりは、1、もっと頑張るべきか、 2、少し落ち着くべきか……さて、どちらだろう?

  この二つの見極めがとても大切なのは言うまでもない。なにしろ、同じ目標に正反対の二つの選択肢が有るのだから。 だが念のため。

 私は上に例題を掲げたのではなく、ただ単に選択肢の存在を示したのみである。つまり、状況に応じて努力の程度、速度を調節している人であるなら、わざわざ指摘するまでもない話であり、それを例題として受け止め、どちらだろう、等と考えた人であれば、上述の二つの選択、つまり、頑張るか、落ち着くか、という話以前に心に止めて置くべき話がある。……その話こそが本題だ。

   もっと頑張るべき……のんびり屋も

   落ち着くべき……焦り屋も 共に気付くべきことが有る。

あなたは、理・知以外の何に振り回されて ……いるのか?

 さらにいえば、願いの成就に最適な方法を取れないあなたは……果たして何のために努力しているのだろう?

 苦しまない生き方が有るとしても、苦しむ人は苦しむ。結局、自分で選んでいるのである。

「イヤ、私は苦しむつもりなどない!!」と、あえて言う人もいるだろうが、知る人ぞ知る……私が問題として指摘しているのは、「苦しまないようにしようと努力して、でも、苦しむのは何故か?」という、いつもの話題なのである。

最もいつもの通り、結論は出さないが。

 私がここに結論的な意見を書き留めなくても、気付く人は直して不幸を退け、気づかぬ人は私が結論づけても気付くことはない。

 その差は実に、自分の努力で答えを見つけるか、他者の努力、ひいては実力以上の答えを求めるかの違いなのだが……自分の器量・実力を知っているものなら、誤るはずのない選択……端的にいえば、世の中には、得られるはずのないものを追いかける定めの人がいると言うことでもある。 すると、気づいた人には夢との決別が必要であり、気づかぬ人には、さらなる苦しみが未来、いや気づかぬだけで足下にすでに危機があるのだろう。


 

 

 

 嫌味のようで申し訳ないが……もう少し付け加える。 いわゆる苦しみには、(成功に至る道の)過程の苦しみと、(至らぬさ故の)結果としての苦しみがある。……あなたの苦しみは、そのどちらであろう?

 言うまでもなく、過程の苦しみはいずれ報われ、結果としての苦しみは、改めることなければ消えることのなく、地獄の亡者の苦しみと同種のもので、死後も苦しみが続く。

 あなたは何のために苦しむのか……正しい努力の結果として幸せを得るためか、はたまた、姑息・あくどい手段で幸せをつかみそこねるためか?


 まあ、悩むのも青春の内か?

新作・人の幸せが辛い

2010/01/15

   久しぶりに、かつての常連からメールを受けた。いろいろと悩んでいる様子だが、これまた久しぶりに盧氏が答えるという。

・・・・・・・

Q 「悩んでこういう時だけメールするなんて都合良いですか?」

A 『真の悩みに会ってこそ、真に相談することが出来る。汝のかつての質問には虚飾が少なからずあった。』

 

Q 「私は寂しがり屋です。そのくせ強がりで嘘つきで頑固で弱虫なんです。そして、また『もがいて』ます。」

A 『人を見る目の無いこと――汝の欠点はただ一つである。真に頼りになるものを知らずにいるから、寂しく、弱い。知らずにいるから、強がらねばならず、嘘をつかねばならず、頑固にならねばならず・・・だが、自分の行くべき道を知るから、もがかずにいられない。』

 

Q 「正しく生きる事と、生きていく上で生まれてくる醜い感情との板挟みです。」

A 『誰にとって正しい生き方か? 汝が行き詰まっているのは他人と自分の価値観との間である。今、汝が良かれと思う生き方は、果たして汝を幸せにするのか、こんなにも苦しめられているのに。』

 

Q 「弱い人間って周りの人間も傷つけるんですね。自分が弱いばっかりに親友を傷つけました。大好きな友達も彼も傷つけました。」

A 『未練――守ろうとしてもがく。だが、何を守っているのか? 本当に守っているのか? 守れているのか? 実は傷つけていないか?』

 

Q 「自分が置いていかれる気がして周りの幸せを心から祈ってあげられないなんて心が狭いですよね。自分に自信が持てないんです。」

A 『才能と境遇との板ばさみ――誰があなたを苦しめているのか? 苦しめているのは幸せな誰かではない。不幸せなあなただ。』

  『なぜもがくのか? その状況から逃れる方法を知らぬからだ。あなたは、何と戦うべきかに気づいていない。あなたは自分を苦しめている者を守ろうとして、自分を救う者を苦しめている。なぜなら、あなたは賢く、賢いが故に直ちに答えを見、その答えに直ちに飛びつく。だがそれは安易な答えだ。』

  『なぜそれを安易な答えというか。・・・なぜなら、あなたの得る答えなるものは、ただ、あなただけの幸せに続いているからだ。――すべてを幸せにしないような答えは、真の答えにあらず。』
  『他者の幸せを思ってこそ、真の幸せを得られる。それは一見回りくどく思えるかもしれなが、他者から幸福を願われぬ人はなかなか幸せにはなれぬものだ。自分の幸せを求めて、他者の幸せを祈るのは決して遠回りではない。……愚直な生き方は、あなたが思うほど格好の悪いものだろうか?』
 

 

(新作) 緊張するのは当たり前

2010/01/12

 多くの人は120%の自分を求めているようだ。つまり、実力+何かの助け、である。私が心霊を学び、知ったのは、人がいかに多くの無駄を抱えながら生きているか、ということで、外部の助けを求める以前にまず、自分の無駄を減らすことが大切だ、と思う。つまり、100%の自分こそが、私の目標である。

 基礎がしっかりしていればこそ立派な建物が建てられるのたとえと同様、自分がだらしなければ外部の援助を生かすことが出来ない。・・・かつて、心霊相談に応じていた頃に私は痛切に、人としての基礎の大切さを思った。助けを求めながらも、信じることが出来ずに助言を生かすことの出来ない人が決して少なくない。・・・そもそも自分が折れてしまうなら、誰かの助けがあっても、折れずには居れまい?

 故に、まずは自分の力を充分に発揮することが大切だと思う。

 ところで、なにゆえ自分の力を発揮するよりも、他者の助けを求める人が少なくないか、を、考えると、「自分を嫌っているのでは?」と思えるのだ。

 自分の人生、自分を嫌い、自分と抗っていては、さぞかし辛かろうと思うのだが・・・

・・・・・・・

 緊張する。

 1月の東京オフ会に、初参加者があって、案内状の返事に、「少し緊張しそうです。」とあった。まあ、緊張するのは人間の生理現象であって避けることは出来ないだろうが、普段のオフ会の状況を知らせることで、参加前の緊張を少しでも解そうと、再度メールをした。そしてオフ会当日、会場に向かう電車内でメッセージを受けた。

『面識の無い人と、行ったことの無い場所で会うのですから 緊張するのは当たり前、ただの生理現象に過ぎません。でも、その緊張をイヤだと思い、緊張する自分を恥ずかしいと思うのは、自分を味方と信じていないことではありませんか。真剣だからこそ緊張するのだ、と、むしろ誇らしく思って欲しいものです。』

・・・オフ会後、この参加者から以下のようなコメントを頂いた。

「最近やっと自分が幸せにならない事には周りを幸せには出来ないと思えてきた所だったので心配しなくて良いと言ってもらいとても安心しました。」・・・もちろん、自分を犠牲にしてでも、家族の幸せを心配する人だからこそ、「まず自分を幸せにしなさい」と言われるわけですが、これは同時に、実力を十分発揮出来てこそ、出来る事がある、という意味でもあります。


 

 

 

新年を迎えて(2010年)

2010/01/01

新年、あけましておめでとうございます。

皆様にとって、本年が飛躍の年でありますように。

また、忙しいさ中にも、自分らしさを失わない年でありますように。

 

自分の強さを誇る人よりも、自分の弱さと向き合える人にこそ、新しい年が、飛躍の年でありますように。

自分を味方に。反省を力に・・・助けを求める事よりも、自分の本来の力が発揮出来ますように。

当たり前のものを大切にし、他に目を奪われぬ自信を胸に・・・あなたが常に真実と共にありますように。

 

 

気がつけば、自分を救っていた

2006/04/27

2006年04月27日


 以前世話になった、某霊媒・先生から通信を頂いた。……自分の指導霊に「ここで学んだことを試すつもりで通信を送ってみよ。良い経験である」と告げられたそうだ。

・・・・・・・

『私はかつて、人々の霊障を救ってきたのだと思っていた。だが、こちらに来て気がついたのは、私は誰を救ったのでもなく、実は自分の霊障を解消していたのだということだ。……生きている内はそこが見えなかった。

『相談に乗ることが独り善がりだというのではない。ただ、相手と同じ霊障を自分も背負っているからこそ、相手を理解し、相手を癒し、相手を正して、良い未来へと繋げていけたのだ。

『自分は、救ったのではなく、救われたのである。……自分自身に。

『なまじ霊力があればこそ、自分が気づくこともなかった霊障を……微細であるが、疎かに出来ない霊障を、人の悩みを通じて自覚し、解消していったのだ。

『多くの人々が、一生の間に気がつくこともなく、解消せざるまま、死後に慌てるところを、私は、自分が人助けと信じていた行為の中で解決していたのである。

『だから後進の者に伝える。

『救いの中には自分が含まれている。……人の苦しんでいる様を見て、助けようとか、助けまいとか、下らぬ心を働かすな。他を救うために働くのではなく、自分が救われる機会であると信じて行え。

『行う前には空しく見えても、達成感で報われることもある。今は報われなくてもいずれ報われる日が来る。明日に報われないとしてもガッカリすることはない。報われる日が遠いことはそれだけ価値のある行い……誰もが出来ぬ事をしたのだから。』

・・・・・・・

……なお、通信を取り始めて三十秒ほどで意念が混濁して意味不明な文章になってしまい気がついた。他の霊界通信でも読むことだけれど、肉体に近い雰囲気の中にいると、霊達の意識が混濁するのである。こういう時には息継ぎが必要なのだ。

 というわけで、書き上げた半分を削除し、今度は息継ぎしつつ、すー、はぁ、で書き、休んでは、すー、はぁ、でまた書くを繰り返した。…… あなたももし直感が混濁したら、さらに集中するよりも一呼吸休んだ方が良いのかも知れない。


胎教と幼児教育

2006/04/19

 (A)廬氏の回答

心霊主義掲示板への回答として

06年4月19日 

Q 「胎教、および、幼児教育について教えを乞う」

 個々の手段については割愛する。

顰蹙――にならう犬猫を育てるだけならエサを与えさえすればよい。だが人の子を育てるというのは、その心を育てるということだ。音楽を聴かせ、オモチャを与え、教材を与える……だが子供の欲求を酌み取ることなくただ与えるだけなら、犬猫を育てるのとどう違うというのだろう?
 大切なのは、目をかけ、気配りをし、子供の欲求にしっかりと応えることである。……つまりは愛情をかけるということである。その愛情の発露としての胎教や、幼児教育であるならことさらにいうべき事など無い。昔から智慧ある婦人等が心掛けてきたことであるから。
 だが、子供の欲求を損なう形で押しつけるような、物まね胎教、物まね幼児教育は、思うような結果を得られまい。

顰蹙: 「蹙(美女)の顰み(しかめつら)にならう(真似する)」

純粋さを育てる――私には子供がいない。だが、私は多くの純粋なる「子供等」を育ててきた。いや、大人の邪気を取り去って子供としたのである。

 であるからいう。

汝に邪念はなしか?――分不相応の子を得て、誉れの美酒に酔いたいという欲はないか? 今時の子等はアレルギーなどで苦しむとか。水や空気や食い物に安心が出来ぬということだが、世の親が子を思う気持ちには毒が含まれていないのか?

胎教よりも邪気を抜くべし……子の非行を見て涙で邪気を吐くのではなく、日常生活の中で邪気を吐き、無邪気な子供を毒さぬようにすべし。それを忘れて何の胎教か!


(B) 某氏の霊より

心霊主義掲示板への回答として

06年4月19日 

心霊主義掲示板の投稿を読んだ後、 入浴中に懸り、いくつかビジョンを見せた後、「(ラフ原稿を)適当に味付けして出しておけ……」とのこと。努力してみた。

1,胎教について

 母親の笑顔(が醸し出す雰囲気)に敵う音楽はなし。母親が聞いてリラックスできる音楽を聴くなら良い。瑣事を忘れて聴くときには一心に聴くべし。だが、胎教と特別な気持ち、義務感から音楽を聴くなら、音楽を馬鹿にする子に育つ。

2,幼児教育について

 気配りの出来ない親が、いくら熱心に教育したって、犬に芸を教えることも出来ない。子供に為すべき事は「子供」に訊け。 


(C) 小嬰氏より

心霊主義掲示板への回答として

06年4月19日 

Q「胎教、および、幼児教育について教えを乞う」

 私が思いますに、胎教・幼児教育はとても大切です。それの施されていない子と比べて見ると、よく分ります。ですが、せっかちな人では良く教育が出来ません。早くから教育をすべきであるというのは、日常生活の何たるかを理解しない大人のいうことです。

 先ず、真の胎教・幼児教育には、目標を定めねばなりません。たとえば君子に育てたければ、親は君子に接するが如き気分で日々を送るべきです。士に……(武士というても良さそうです)……育てるなら、親も士として振るまい、鳶が鷹を生むかのような不自然な願いはお止めになることです。

 親が子に嘘をつきながら、子供の非行に涙するなどというのは、天罰と思わねばなりますまい。……自然に接すれば、その子の持っている天与の才が開花いたします。

 作為で引き出そうとするのは助長……折角の才能も親が不躾でダメにしている例は非常に多うございます。


幼児向けの教育が必要なのは親の方だ

2006年04月20日

 胎教・幼児教育に関する質問(質問者を、ではない)は掘り下げると奥が深い。

 必要なのは胎教や幼児教育の手段だろうか? 親の個性、子供の個性に合わない方法であれば、教育が親子間の信頼関係を歪めはしないか。親が嫌々勉強しているのに付合わされたら、体感的に子供も勉強が嫌になるだろう。

 大体、農作物に与える肥料や農薬だって、効果を観ながら適宜に調整するものだし、犬馬の調教だって、動物の反応を見ながら行うものだ。それを子供の躾・教育に関しては、方法論ばかりが先行するのは、人が幼児に対して不自然で過大な期待をしているのか、もしくは、人間の幼児が農作物や犬馬以下の存在として扱われているのではないか。…… 少なくとも、犬馬の子供らの方がよほど個性を大事にされているかに見える。――または、職業教育者が営利主義に陥って市場拡大を図っているのに、人々が知らずに踊らされているのか。

 丁度、インスタント食品の普及で味音痴が増えている(といわれている)ようなものではないか。箸や鉛筆の正しい持ち方が出来ない子供が多いというのも、親が子供と、まともな時間の過し方をしていないことを暗示する。単に食べ物を買え与えて後の世話をしないのではないか。それでは食事のマナーなどが身に付くはずもない。

 いや、もっと対外的な問題がある。子供が子供同士で遊ぶのは当然のこととして、休日も子供だけで過すか、親に連れられて行楽地に出掛けるだけでは、住宅近隣地での子供達の態度が悪いのも当然だ。ガラスの前でボール遊びしてガラスを割って逃げる、看板をボールの的にしては看板を壊す、立体駐車場で自転車を乗回す。注意すれば屁理屈で返し、叱れば逃去る。……親は一体何をしているのか。

 ああ、マンションのエントランスのド真ん前で、井戸端会議を開いて通行の邪魔をし、子供等は郵便ポストにイタズラをしている。まあ、親のマナーもその程度のものである。

 なるほど、親が忙しいのも理解するが、教育というのは教材を選ぶことではなく、子供に時間を割くことではないだろうか。大人と付合う機会がなくて、子供同士の中でだけ人間関係を育てさせるから、身勝手で、感情的で、非論理的な(というか、短絡的な)コミュニケーション能力しか持てない。……子供ぽい人間が増えているのではなく、大人と接する機会が少なくて、どう他人と接して良いのか判らない人間が多いのだろう。だから嫌われて途方に暮れる……嫌われて、慌てて、かえって傷口を拡げてしまう。

 で、自分らが苦労したから、子供にはちゃんと教育の機会を与えねば、というわけで、又教材に頼る。……破綻的論理の輪廻だ。グルグルと同じ事を繰返すように見えて、実際はどんどん事態が悪化している。

 良い教材よりも、親が心のゆとりを持って子供に接せられるようにすることが、本当の意味での子供の教育に必要なことだろう。…… だが、教材や教育法に目がいく。子供を迷わせる現代の親たちは、一体何から目を背けているのだろう?


欲が神仏を拝む

2006/04/16

 私も、社寺を歩くのが好きですが、参拝というよりも拝殿で精神統一をすることを目的にしています。この精神統一というのは、「心・霊」の統一ではなく、「心・霊・体」の統一のことです。

 ある時、熱心に(延々と)参拝している人がいて、拝殿前が開くのを待っていた時のことです。

『祈りが長いのは、欲が拝んでいるからだぞ』と、突然聞こえました。

 欲が拝んでいる……?

『宗教などといっても、人が神を拝んでいるのは稀で、大抵は欲が神を拝んでいる。魂が呼ぶなら応えもしようが、どうして欲心などに応えよう』

 なるほど、同じ人が拝むのでも、欲もあれば、魂の祈りもあるというわけか……しかし、地上で生きている限り不足が付きまといますから、自然と欲が出る事もあるでしょう。すると、自身の祈りが欲なのか、魂の発露なのか、自分で判断するのも難しいものですよね。せめて、欲心に自身の主導権を取られぬように注意いたしましょう。


2000年

お知らせBy老神いさお。

・PC再起動成功。
 動かなかったのは湿気のせいか、RAMを抜き差ししたら無事に再起動しました。

・サイト再構築中
移行途中のデータが時折、トップページに掲載されますが、編集作業の都合ですので、今しばらくご容赦ください。旧作については、本文右上に日付が記載されます。
 (最近は復旧する暇がなくて新作が多いですが。)

・東京オフ会: 
 7月度の東京オフ会は7月10日(土)
 に、開催いたします。

・東京オフ会: 
 8月度の東京オフ会は8月14日(土)
 に、開催いたします。

・静岡オフ会: 
 7月度の静岡オフ会は7月17日(土)・18日(日)を予定しています。(申し訳ありませんが、会場は未確保で代替日がなく、中止するかもしれません。)

・大阪オフ会:
 次回の大阪オフ会は10月の予定です。

・ページ更新
 私事多忙で復旧が滞っております。

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