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楽観主義も楽ではない

2005/05/08

2005年05月08日


楽観主義も楽ではない

 かつて、私が無料心霊相談を受付けていたとき、悲観的な自分を直したい、という相談を何度か受けましたが、楽観的な自分を直したいという相談は一度もありませんでした。多くの人々には当たり前に思えることかも知れませんが、私にはとっても奇っ怪に思えたものです。――楽観主義も決して楽ではないからです。

 確かに……悲観的な人は、不幸とそれが生み出す苦しみを想像し、自らの想像力で自分を苦しめてしまいます。ですから、多くの悲観論者は、「もっと楽観的に生きたい」と願います。ところが、楽観論者は往々物事を拗らせます。 危険な局面に必要な気配りや注意よりも、楽観的行動を優先してしまいがちなのです。…… さらには失敗しても諦めずに、ますます物事を拗らせもします。 つまずいても諦めないことは楽観論者の美徳にも思えますが、その美徳は往々、間違いを正さないという欠点と裏腹です。…… 楽観・悲観、いずれにせよ極端は真の答ではあり得ません。

 信じるべき時に信じられない……悲観論者

 疑うべき時に疑えない……楽観論者

 こう纏めてみると、どちらも不器用な生き方であることが見えてきます。つまり、人が理想とするべきは、 信じるべき時に信じ、疑うときに疑える……悲観・楽観の中道、いわば合理的な生き方です。

 そして、楽観主義者も悲観主義者も生き方が不器用であると考えれば、往々、その考え方が変えられないのも当然に思えるでしょう。何せ不器用なのですから。

光あるところに蔭がある

 確かに、悲観的な自分に押しつぶされがちな悲観論者から見れば、楽観論者の生き方はとても楽しそうに見えるかも知れません。しかし、所詮は不器用な生き方ですから、往々、楽観論者の笑顔の裡には理想と現実の狭間が生み出す闇が拡がっている場合も多いのです。

 光あるところに蔭がある。普段明るく生きている人ほど、深い影を抱いていると思う方が無難です。 ――さらには、深い影を抱いているが故に楽観的でなければ生きていけない、という拗れた苦しみを抱く人も多いのです。

霊媒泣かせの楽観論者

 以上の話だけでも、論者である私が、「楽観論者」嫌いであると目星をつけた方もいるでしょう。回答はいささか微妙です。楽観的にあるべき時に悲観的な人も、悲観的であるべき時に楽観的な人も、はっきりいって迷惑ですから。…… ですがここでは単なる好き嫌いを棚上げして、もう少し考察にお付き合い下さい。

 誰にでも失敗はあり得ます。そして、常に失敗を恐れている悲観論者と、失敗への考慮が欠落している楽観論者とで、どちらが失敗に対する体勢・備えがあるかを考えてみてください。確かに楽観論者の立ち直りは早いが犠牲はどうしても大きくなります。 また、楽観論者は往々、人を引っ張ろうとします。それでつまずけばどうなるか……主義と正否の間に関連はありません。悲観主義者も成功するときはする、楽観論者も失敗するときは失敗する。ただ、積極的な人ほど、成功事例も失敗事例も多くなるのです。

 それはつまり、楽観主義者ほど、未来・将来へ重い責任を負いがちであり、それ故に霊能者や占い師への依存度が高くなりがちだということです。……しかも、霊媒である私にとって悲劇に思えるのは、楽観主義者は人の意見を聞きたがる割に、人の意見、とくに失敗に対する警告を真剣に採り上げないという欠点があります。

 この事実は、笑わなければやっていけないほど悲劇的な事実です。……楽観主義者の扱い方なら、私だって心得ております。しかし、私は無料で心霊相談に応じ、精神統一会だって実費以外は集めていないのです。……往々、傲慢に流れがちの楽観主義者の扱いに苦労するなら……無料相談は私が申し出たことです。ですが、赤の他人のワガママや愚痴を聞くのは相談の内には入りません。「へー、この期に及んでそんなワガママを言うんだ!?」と、何度も呆れたことがあります。そしてすっかり、無料心霊相談の継続をバカバカしく感じたものです。

 というわけで、少なくとも友人に選ぶのであれば、やや悲観主義的な人、もしも商売として心霊相談でも始めるなら、悲観的な相手が食い物にしやすいとは思うのですが、霊能者にとって楽観主義者は煮ても焼いても食えない……本来、詐欺師に騙されやすいのは、過信する癖のある楽観論者ですが……と思うわけです。

区切りの過ち

 念のために申しますが、私自身は楽観論者嫌いというより、悲観・楽観という枠のはめ方が間違っていると思うのです。過信癖も不信癖もどちらも間違いだというのが信念なのですから、上述の欠点などは、すべての楽観論者に当てはまるとは限りますまい。また、往々不可能と思えることを可能にするのはやはり最後は自分を信じた人といって良いのです。ですから、印象深い場面での性質だけを見れば、楽観論者だけが成功を掴めるかの如く見えることでしょう。ただ、大抵の楽観論者は、いざという時にまで楽観論者でいられるほど強くはないというのが、いささか意地悪な私の観察です。つまり、私の目からは、自滅するための楽観論者ばかりが見えているということなのです。

 まあ、この事はたいした問題ではありません。どうせ楽観論者は私のサイトなどわざわざ見に来ることもないでしょうから。


 悲観主義者は楽観主義者にあこがれるが、でも、楽観主義が最善の生き方ではないよ……という話題でしたが、何事にせよ批判的はテーマは往々批判的なインスピレーションがなだれ込んでコントロールに難が生じます。

 問題を整理してみましょう。

 悲観論・楽観論

  信じるべき時に信じられない……悲観論者

  疑うべき時に疑えない……楽観論者

 しかしながら実際はその組み合わせ事例が多いかも知れません。

 つまり、信じるべき時に信じ、疑うべき時に疑える、バランスの取れた人もいるでしょう。反対に、信じるべき時に疑い、疑うべき時に信じてしまう、悲劇的な生き方を選んでいる人も大勢います。……わざわざ最悪の道を選んだあげく、我が身の不運を嘆く人が実に多いことは、冗談にはなりません。それにまた、誰を信じ、誰を疑い、誰を信じられず、誰を疑えないのか…… 人の心が選ぶものは複雑怪奇……それはつまり、素直に生きられる人のなんと少ないことかを暗示いたします。

 いずれにせよ、その性質が生み出す悪影響を少しでも抑えるために、何が必要なのかを考えてみましょう。むろん、わざわざ心霊サイトの訪問者であれば、なにやら魔法めいた解決策をお望みかも知れません。――しかし、私はこう教わりました。「付け焼き刃を有り難がる者は決して大成しない」……従って、大成の無い道にわざわざ時間を割くことをいたしません。


 問題は実に平凡なのです。

 事に当って何を選ぶか……何を選び得るか。つまり、行き詰まったときにどれだけの選択肢を思い描けるか、その数が多ければ多いほど、あなたは自由であるということです。他の誰にでもない、自分自身に対して自由であるということです。

 比喩で説明いたしましょう。

  人生の壁に当ってもなお、前進するだけの人……楽観論者

  人生の壁に当ってすぐに後退してしまう人………悲観論者

 なんとまあ、ワンパターンな生き方でしょう。壁に当ったときの選択肢が前進であるにせよ、後進であるにせよ、たった一つの選択肢しか思い描けず、どうして自由がありましょうか。……悲観も楽観も答ではない。という根拠はここにもあります。

 任意に前進後進が出来る……バランスが取れている人とはいっても、所詮、パターンはたったの二つです。

 前後左右の工夫が出来て四つ。上下という三次元的要素も有益でしょう。これで選択肢は6つ。とはいえ四次元的要素は…… 果たして誰が使いこなせるか。

 いにしえの兵法では、これにさらに、「動かぬ」という一つの要素も付け加えます。壁に当って動かぬ事は、ただ壁だけを相手にするのでは無駄な選択ですが、第三の相手がいる場合、壁を背にすることで全面だけに集中する事が出来るというメリットをもたらします。……七つ。そして、単純な自分と壁との相互関係だけでなく、第三者、第四者の要素を考えて行けば……選択肢は無限大です。

 でも、これは決して譲れない。私はこうでなければ嫌だ、何が何でもこの道を……という思いに支配されては、宇宙にどれだけの広がりがあろうとも事実上選択肢はたった一つしかありません。

 たとえば落とし穴をほったところで、誰がその落とし穴にはいるというのでしょう。人は前後左右上下と様々に道を選べ、なおかつあやしいと思えば動かず伺うことも出来るというのに……しかし、前に進むだけの人、後ろに下がるだけの人なら、容易に落とし穴に引っかかります。

 そう……わざわざ最悪の道を選んだあげく、我が身の不運を嘆く人が実に多いことは、決して冗談ではありません。その仕組みは至って簡単、至って当たり前なのです。

 人は不自由だから。――人は自分自身に縛られているから、易々と罠に引っかかるのです。 たとえば悪しき因縁、または、向上のための人生の試練、その動機が自分に対する害意であれ、また善意であろうとも、そこに苦があることが現実です。

 でも、他人を自由にするのは決して容易なことではありませんが、自分を自由にすることは、たとえ困難であろうとも、それに挑戦する価値があるのだとは思えませんか?


……でも、たとえ世界に自由があろうとも、執着心の強い人にとっては、絵空事に過ぎないのです。


 

いわゆる「餓鬼」の処置

2005/04/16

「良心の試練」掲示板の話題より

 心霊相談を始めたばかりの頃、わが師匠は私を馬鹿者呼ばわりしました。まあ、言われるまでもないのですし、その理由については私も十二分に理解していたのです。

 浅野和三郎著 「中尾教授の霊能」より、

『即ち人格者というのは自己の欠点の自覚を出発点として精進の道を辿るものであり、非人格者というものは自己の欠点を全然棚に上げ、どこまでも自己慾望の満足に腐心するものであります。ですから最初は両者の間にそう大した懸隔もない筈なのですが、しばらく過ぎてから振り返って見ると実績の上に東西万里の相違が生じてまいります。』

 別に私が人格者であると言いたいわけではありません。ただ、「そう努力している」ということが、以下の伏線となるのです。

・・・・・・・

 時折、「私が霊感を得たら世の中の困っている人・霊を懸命に助けるのに」という人がいます。私は微笑で応えますが、本音をいえば、そういう覚悟は、地雷原の上でタップダンスを踊るようなものです。これは経験者……つまり私……が言うのですから間違いがありません。

 困っている人・霊は、その原因から二種類に別けられます。一つは他者が原因である場合。この場合は他者の助けが解決の手助けになります。

 もう一つは自分自身が原因である場合。この場合の解決は複雑です。

 そもそもいかなる論理でわざわざ自分を不幸に追いやるというのでしょう? そんな矛盾に満ちた行為が事実であるとしたら、どうして本気で自分を幸せにしようとするのでしょう? つまり、犯人がわざわざ、自分の犯行を邪魔させるというのでしょうか?

 自傷行為というと非論理的ですが、こういう行為は現代に於いてざらに見られることです。たとえば親から虐待、または冷遇を受けている子供は、親に対する愛情ゆえに、それを認められません。そして自分の苦しみの原因を隠そうとします。……霊障、実は犯人をかばっての無意識、かつ幼稚なでっち上げが多いのです。――これは非常に皮肉な話です。なにしろ、こういう場合、その親は、霊障を騒ぐ子供をキチガイ扱いしてしまうからです。つまり、子供は親をかばおうとするのに、親はそれを覆そうとするのですから。

 いえ、これは単なる悲劇に終わりません。もしもこの子を助けようとしたらどうなるかを想像してみてください。苦しんでいる子供を救えば、親を責めることになります。自ら苦しみを甘受、いえ、辛受しつつも親をかばっている子供の立場から見れば、その子の苦しみを救う努力は、自分の苦しみよりもさらに耐え難い苦しみを与えることになります。彼・彼女は、必死に抵抗することでしょう。

 いえ、念のために申し上げますが、「良心の試練」掲示板の投稿者が親の虐待に苦しんだというのではありません。自傷行為の一つの事例を紹介しただけです。

 とにかく、理論的にも、また体験的にも、霊媒には救い得ない相手がいる。救い得ないどころか、救おうと手を出せば、必死の抵抗で火傷をする相手がいることはとても重要です。それはつまり、助けようと努力すればするほど、霊媒にとって自滅行為になるのですから。――困っている人を助ける。その志は立派だと思いますが、それは相手の苦しみを増すことに為りかねないのです。

 さて、仏教用語に「餓鬼」と呼ばれる境涯があります。かつて私は餓鬼を、非常に(つまり鬼のように)飢えている霊であると考えました。しかし実体は、鬼のように強欲だから飢えているのです。飢え故にむさぼるのではなく、むさぼる故に飢えているのを、どうやって満たせるというのか……満たすことが必要なのではなく、むさぼるのを止めさせることが必要であることに気がついたのです。つまり、餓鬼に愛を与えても、餓鬼が大勢集まるだけなんです。すると、優しければこそ、餓鬼を助けようとして、餓鬼を集めて、師よりも恐ろしい体験をする霊媒が出てきます。

 ですが、自らの優しさを否定して、人は人の心を持ち続けられましょうか。――これは決して論理だけでは割り切れません。


2005年 04月 15日

不平不満が苦痛を招く

2005/03/24

2005年 03月 24日


愚痴

 口が動くか、体が動くか――不平不満が口を衝くのは、行動が思う結果をもたらさぬからです。

 愚痴は三度まで――物事には時機があり、時機が外れると努力しても結果をもたらさぬものです。その時機を待つ間、テンションを落さずにするためには、愚痴の一つや二つはむしろ結構なことです。諦めて投出すよりはよほど宜しい。

 ただ、行動を諦めてただ愚痴を言うだけならば、それこそが無駄、行動を諦めるなら愚痴を言うのも諦めるのが筋というものです。でなければ負犬癖が付いて、周囲の信望も失います。

 時機を窺うための愚痴であること……ただ愚痴をこぼすのでなく、打開策を模索する視点を決して失わぬようにすべきことが大切です。

不平不満

 不平不満の多い人を、迷惑がり、嫌う人はとても多いものです。しかし、迷惑に思われるのならばまだ愛情が残っているとも言えます。そもそも、行動が思う結果をもたらす人なら、不平不満などをいう閑がありません。むしろ、自分の中に沸上がる不平不満を次の行動に繋げていくことでしょう。

 失敗は成功の母、等と申しますが、その言葉を生かせる人は失敗の要因を分析し、成功の為の道筋を明らかに出来る人です。いわば、適切な計画力を持たなければ成功は掴めず、計画力を持たぬが故に失敗する人は、努力しようが、誰かを頼ろうが、また、不平不満で一時を過そうが、成功し得るはずがありません。

 端的に言えば、不平不満の多い人とは、いかなる種類の成功からも縁の遠い人ということになります。

 人に災難をもたらすのは、悪意よりも未熟さ、不運よりも要領の悪さなのです。

 反省とは自らを省みることをいいます。失敗に不平不満をいうのをやめて、何が原因なのか、その克服のためには何が必要なのかを良く研究することが大切です。

反省下手

 ところで反省がとても下手な種類の人がいます。私が見る限りにおいて、反省が下手な人は、分析力や企画力に劣っているのではなく、問題提起が下手であるようです。

 単に計画に問題があるのであれば、多くの人はその原因を見いだせます。ところが人間には死角が備わっています。生理的な意味での死角の他に、精神的な意味での死角があることを常に心の片隅に置いておくべきでしょう。 つまり、人は見たくない者を見ないという習慣が身に付いているのです。 たとえば自己嫌悪気味の人は偽善的な善行に走り勝ちです。劣等感に悩む人は分不相応に手を出してしまいます。――この手の話は、実例を挙げだしたら切りがありません。それを要約するなら、自分を知らずに行動することの危険性ということです。

 本来は、動機があり、目的があり、目的に沿った手段があって行動が生じるべきなのです。ところが、「無意識の自己防衛」が動機であるなら、目的も計画もすべては妄想に過ぎません。これでは適切な計画が立つはずもありません。――誰がどう考えてもうまく行くはずのない、不合理な行動計画を狂気の沙汰、等と表現しますが、個人の行動に関してみる限り、「プチ妄想」が社会に蔓延し、「ミニ狂気の沙汰」がそこかしこに見受けられるわけです。

 社会の大勢を占めているから、自分はこれで良いのだ、等とは思わぬ事です。狂気の定義とは第三者に理解し得ないこと、だそうですが、「不合理」を推し進める人の心を、第三者がどう理解し得るというのでしょう? 狂気が蔓延する社会、という現実から目を背けるために、不合理な社会と呼ばれるだけのことなのです。――そして、不合理だからこそ行動に結果が伴わず、結果が伴わないから苦悩する……その連鎖の中でどうして人が幸せになれるというのでしょうか? 幸せになるどころか、周囲、特に自分を愛してくれる人ほど激しく不幸に押しやりながら、自分も益々不幸になっていく状態は、地獄としかいいようがありません。それも努力するほど苦しくなっていくのですから。

 反省とは自らを省みることです。単に行動失敗の原因を取除くだけでなく、なぜ、失敗に向けた努力をしてしまったのか、そこまで含めて反省をすることが大切です。

 正直、反省は辛い。人の失敗ならば笑い飛ばせても、自分の失敗は見たくないのが人情です。ましてや、自己嫌悪や劣等感(または過剰な自意識)を抱えているのなら、自分の失敗を見ることは死ぬよりも辛いことが多いでしょう。――しかし、失敗の原因が自分の中にあるなら、どれほど力のある、誰の助けを借りられるとしても、反省無くして幸せは掴めません。それはつまり、適切な反省ほど、自分を幸せにする効果が高いということでもあります。

悲観的な人

 起らざる不運に苦しむ――悲観的であるというのは辛いものです。まだ起っていない災難を恐れ悩むというのですから。その状態から脱したくて、無理に楽観的に振舞おうとする人がいますが、多くの場合、かえって傷を深くするようです。そもそも、楽観とか悲観とか、人間の性質の違いはどうして生じるのでしょうか。

 心霊的にいうなら、生前の気質の表れも大切な要因でしょうが、人間は学習し、順応する知性なのです。したがって、育った環境にこそ目を向けるべきでしょう。

 将来の性質がどうであれ、思うままに生きられた人は必然的に楽観的になっていきます。反対に、多くの挫折を経験すれば、悲観的になるのは仕方がないというより適切な学習です。

 ここで問題なのは、なぜ挫折するのか、ということです。悲観的だから挫折するのか――ならば、楽観的に行動することが解決となるでしょうが、挫折するから悲観的になったのなら、楽観的に行動することはさらなる挫折の原因となります。いえ、悲観的つまり消極的に行動してもなお挫折したのだとしたら、楽観的に行動することは挫折どころか悲劇の原因となるでしょう。

 間違った努力は良い結果をもたらしません――悲観的であることを悩み、楽観的であろうと努力する人が陥る過ちは、真の問題、原因を取除くことなく、その結果だけを変えようとすることにあります。それこそ、木に竹を接ぐようなもの――摂理に反することは、長続きするはずもないのです。

 悩むべきは、悲観的であることではなく、想いを実現する力の乏しいことです。さらにいえば、よからぬ動機にあおられて居ることなのです。――なぜ、苦しむために努力するのか。その原因に気がつけば幸せに手が届くことでしょう。

不幸の原因

 不幸の原因を何所に求めるのか――他人の悪意か、己の不運か――しかし、過去の努力が今を作り、今の努力が明日を作っているのも摂理です。他人の悪意や、不運については事前に見抜くことはなるほど難しい。……でも、自らが生み出している不幸については、考察・工夫・努力で避けることが出来ます。

 反省して見てください。――自分を幸せにするための努力をしていますか? そして、自分を不幸にしないように節制していますか?

 あなた自身が、自分を幸せにする努力をさぼり、不幸の原因をまき散らしているなら、一体誰があなたを幸せに出来るのでしょう――いいえ、それ以前に、一体誰があなたを幸せにしようと努力してくれるというのでしょうか?

 面倒を嫌うのも、不毛な努力を嫌うのも、人情であることをお忘れ無く。

痛みを選ぶ

 幸せになるのを阻害しているのが自分自身であるなら、自分を変えずには幸せは掴めません。

 神仏頼りでの開運も――大切なことを見落しています。自己改革には痛みが伴います。自ら行うのであれば痛みの調整も可能でしょうが、他委せでは痛みの調整など思いもよりません。まして、途中で逃出せば、痛み損、下手をすれば出血死が待っています。

 行き詰り……誰がその道を選んだのでしょうか? 自分と共に破滅するか、自分と共に幸せを掴むか。

 反省とは自分を虐めることではなく、自分と共に幸せになるための努力、その先ず第一歩なのです。反省に痛みが伴うにせよ、その痛みは報われる痛みです。報われる大痛を嫌って、報われぬ小痛を選ぶ……短期間の大痛より、永遠の小痛を選ぶことが果して幸せなのでしょうか?

 自分を不幸にする人とは、不幸への選択をする人なのです。


偽善者と踊る。悪魔と踊る。

2005/03/06

2005年 03月 06日


動機が攻撃的であると、文章まで攻撃的になる。そして攻撃的な文章は敵を生む。――ナンセンスな話だ、わざわざ悪縁を結ぶ必要もない。とはいえ、悪縁を恐れて口を噤めば真理に発展はない。

人が理解できることには限界があり、人はそれぞれ自分の理解できる範囲のことを語り、そして聞く。誰もが自分の理解できることをいっていれば居心地が良いが、理解のできぬことを言うものがいれば居心地悪く、敵意すら抱いてしまうのが人間。

真理が教えるように、人生が向上のために存在するのだとしても、多くの人々にとって「向上心」とは心の装飾品の一つとして口にするものでしかない。そして人は向上を目指して、向上を強いられる。

人は向上とは無関係な方向に足を向け、転げ落ちて少しだけ向上するのだ。痛みと共に真実を学ぶ……つまりは、多くの人々は失敗からのみ真実を学ぶ。失敗せぬように懸命に学び、修行をする人々もまた失敗からのみ学ぶ。

失敗を恐れて学ぶ者は哀れなり……痛みを得ずには学べぬのだから。

失敗を恐れぬ者のみが着実に学び、前に進む。

――痛みを避ける方法もまた、失敗を恐れぬ者のみが学び取る。

多くの霊媒は、「地上に悪霊が満ちている」という。そして人々に説く、悪霊に注意し、惑わされぬようにせよ、と。――おお、なんと幸せな視点であるのか。

私は口を噤み、人知れず涙する。……霊感を得て始めて気がついたその現実。

『なんと愚かだったのだろうか、生まれくる前の私は。正義は名も無き者にしか具わらず、地上に見いだせるのは偽善者ばかりだ。声高に、愛と、正義と、倫理と、常識を叫ぶ者は、罪の重みに喘ぐ者ではないか!! 自分の生み出した罪を、人知れず償うためだけに善行に励んでいる。許しを与えてくれるなら、インチキ宗教家、インチキ霊媒にだってその身を捧げる連中ばかりだ。』

罪を償った者は許すことの大切さを知るが、罪を隠す者は他人の罪を暴き立てることにばかり熱中する。

ううう……それこそが現代日本の姿である。恐ろしいのは悪霊でもなければ、悪人でもない。胸を張り、声高に愛と正義を叫ぶ偽善者である。

あなたは想像できるか?……悪人ばかりが警察官や弁護士や裁判官や政治家になる社会を。さすがに社会はそこまで酷くはないが、あえてその職業を名指しはすまい、人一倍倫理を必要とする職責の多くは、偽善者の巣窟である。

近代心霊の教えるところ……死者も生者も人であるには変わりない。すなわち、死後が悪霊ばかりであるなら、地上は悪人しかいないということなのだ。ならばこそ、死後の世界が悪霊ばかりだという、霊媒たちよ。あなた方はなんと幸せなのだ。その意味するところを思わずとも過ごせるというのは。


金よりも大切なものがある……なんと陳腐なセリフだろうと私は思う。いや、私は拝金主義者ではないし、金に力を認めるほど金持ちというわけでもない。しかし、人々がなぜ金を追い掛けるのか、その動機に思いを巡らせれば、「金よりも大切なことがある」などという無粋で陳腐なセリフをいう人が哀れに思えるだけだ。そして、無粋で陳腐なセリフと思えばこそ、そう言う事が多くの敵を生み出すことを理解する。

屁理屈を言えば――自分の愛するものを救うために金が必要ならば、愛情豊かな人ほど金を追求するだろう。まして良識で言うにせよ、金の亡者が金より大切なものがあるなどという話に耳を傾けるものだろうか? 「金より大切なものがある」などという、無粋で陳腐なセリフは、「金よりも大切なものがある」と信じ、なおかつ、金による苦労を知らぬ者だけが喜んで聞く話題に過ぎない。

世の中には不要なものなんて無い。金だって、人々が必要とするから生まれてきたのだ。なるほど金に迷って人生を失う人は多いが、所詮金は人の道具なのである。つまり、悪いのは金ではなく人の欲だ。人の欲を責めずに、「無情の金」すなわち心なき存在である金に罪をなすりつけるのはなんと偽善的で、なおかつ、人々の共感を得やすい話題であるのか。

欲を少なくしろ、というのと、金が悪い、というのとどちらが人々の共感を得やすいのか……誰もが現実逃避、責任転嫁を望んでいるのは、人々の心が破綻しつつある現実の一端だ。

お金は大切だ。だが、一番に大切なものではない。それが事実である。まして……物事を一面の理で割り切ろうとするのは視野の狭さの証である。

考えても見よ!……金は得がたい。では、金よりも大切なものは、金よりも得やすいのか?

金だけで良いというのは、なんと慎ましい心の持ち主なのだろう。――誠実さが失われつつある現代において、その誠実を裏切り、弄ぶ人々の何と多いことか。その貴重な誠実さを求めずにただ金だけを求めるなどと言うのは、なんと慎ましい欲望なのだろうかと私は思う。

欲を否定するのは容易い。まして、自分の欲を棚に上げて他人の欲ばかりをあげつらうのならば、良心と霊性さえ眠らせれば容易いことだ。だが欲は本当に悪なのか? 人々に欲望を与えたのは神ではないのか? ならば神は悪なのか?……なんと浅ましい論理の展開か。――私はそういう悪魔の思想と踊らない。

私は神の祝福と共に生まれた。たとえ私の人生に苦労と苦悩が満ちあふれたとしても……私は神と共にある。私は神の与えてくれた一切を、私が幸せになる為の力とする。嫉妬も妬みも向上心のバネにする。怒りも憎しみも正義のためのバネにする。物欲を発展の力に、性欲を愛情の豊かさのために。

私は神を祝福する。神が私に与えた一切を、私が自分の幸せにつなげることによって。


2005年 03月 07日

悪とは未熟さの表れ

心霊思想に於いて、悪とは未熟さの表れと見る。未熟さ=悪なのではなく、未熟さ<悪であることに留意して欲しい。自分が未熟であることを素直に認めず、虚飾しようとするから、周囲に迷惑を掛け、その結果から、「あいつは悪い奴だ」と罵られるようになるのだ。

意識して悪事を行うのは、まだましだ。つまり、善い行いを知っているということなのだから。だが、知らずに罪を重ねる、善い行いのなんたるかを知らぬ人はどうすればよいのか?――これこそが暗然たる現実だ。意図して悪事を行う人間は、切っ掛けだけで大きく変り得るが、意図せずに悪事を行う者はとても救いがたい。ましてそれが傲慢で自分の行いに自信を持っているならば。

悪しき言動を延々と繰返す……なぜ正しがたいのか?

智の質が低いからなのだ。

悪を正すのには愛と忍耐が必要である。それ故に善導するという仕事は、容易に始められることではない。だが、自分の非を正し、また、より良く生きようとする努力は、愛と忍耐とが欠けていようとも直ちに始めなければならない人間の義務だ。その義務は誰に強いられるわけでもないが、人類の歴史の最初から最後まで付添うものなのである。

欲だけが悪いのか?

間違った努力は良い結果を生まない。理を論じて答を得ても、それで問題が解決しないのであれば、その理も答も一面のみのものだということだ。

たとえば、金に憧れるのがいけないことなのか……私はその論議を愚かに思う。いくら金を持っていても、借金が多ければ心は安まらないものだが、大事業を行う者は、入ってくる金も多いが出る金も多く、扱う金が多いから借金も多いものだ。

今、金を持っていて明日も持っているとは限らない。今日、貧乏であっても、明日も貧乏とは限らない。富豪と結婚したつもりが結婚してすぐに破産に転落しないと誰が保証できるのか。または自分の命と引替えに大金を得てどうなるのか。

家族を楽にさせようと、金を稼ごうとして無理な仕事を続け、病気に罹って莫大な治療費を取られる――等という話も聞く。愛する者のための強欲であっても摂理は特例を認めないものだ。無理をするから破綻する。仕事も金銭もほどほどにした方が結局は豊かに生きられもする。

金に憧れる人は只今の金の有無ばかりに気をとられている。問題は金に憧れることではなく、目の前のことしか見えないことなのだ。目の前しか見ないから、騙されもすれば、大きな過ちも犯す、なにより周囲に迷惑を掛けるのである。

金銭欲の悪い部分を見て、ただ金銭欲だけを正そうとするのは一面の理だ。金銭欲が昂じる、その原因から治していかなければ、極端な行動に走るか、偽善的行為に走るのである。つまり、拝金主義から一点して、病的な禁欲主義に走ったり、他人の財産を「預ってやる」等ということが生じる。

一つの極端からもう一つの極端へ……それは中道を知らずにいるということだ。語るに値しないのである。


霊―霊媒―相談者の連携

2005/02/07

2005年 02月 07日


 私も無料心霊相談を通じて、霊媒としていろいろと学んだが、霊媒業で一番難しいのは、正しい霊査をとることではないと感じる。人あるいは事情によって、精神統一の必要もなく、バッシ……と、答えが返ってくるのだ。それを口にした時の相談者の反応にもしっかりと手応えがある。つまり、答えは得るべくして得られるものなのである。それが摂理であり、摂理に従うことの大切さを私はこうやって会得・体得した。

 ところが、なかには中々霊査が出てこない相手がある。つまりメッセージの送り手が居ないのである。そもそも霊媒というのは、霊と人との媒介であり、人側からどれほど強い要請または強要があろうとも、霊が答えようとしなければ霊媒・交霊は成り立たない。

 が、世の中には押しの強い人がいる者で、何が何でもメッセージを受け取ろうとして、強引若しくは悪辣な事をする人がいるものだ。霊媒にゴマをするならさして不快にも思わないが、メールで脅したり、誹謗中傷を流したり……こういう輩なら、霊達が答えないのは当然だ。――と同時に、沈黙の価値を学ばなければいけないのだろう。私も人の子、時として悔しさに腹が立つこともあるが、下手な言動で物事が拗れたら、更に苦労を背負い込むこととなる。――最小の努力・被害で最大の効果を得る。人が競うべきは収穫の多さであって、他人や自然現象ではない。そうした高い視点に自分を押し上げてみるとまた一つのことに気が付く。助けが必要なのに敵を作る人は、つまり、収穫を求めると同時に他人と競っているのだ。知らずに二兎を追いかけ何も得られずにいるのである。

 逆に、霊が重要なことを伝えようとしているのに、人側が自分の我を通すことばかりに夢中になっていると大切な話が進まない。今日、ふとした拍子に思い出したが、「子供が授からない」と悩む人に、「子供というのは一番良いタイミングで得られるように祈るもので、自分の都合に合うようにと祈ると想像もしない出来事で負担を感じたりするものだ……」と、返事をした。が、その返事がこない。あの時、私は随分残念に感じたものだが、訊きたくないと思うことを無理強いしても良い結果はあり得ない……そうして今に至っている。天変地異の多かった昨年を振り返ってみて、やはりあの人はものすごく祖霊・神霊から護られている人なのだな……と感じるのだが、当人は気が付いているのだろうか。苦労と苦悩で行き違いがなければいいと心配している。

 先日、ふっと受け取ったメッセージ「他人の親にゴマする恩知らず(2005年2月2日)」は、ようするに先祖供養の大切さを説いたものだ。たしかに、心霊情報に詳しい人や、独学の霊媒は往々、先祖供養をうっとうしく思いがちだ。が、やりすぎるから自分が辛くなり、辛くなるから一切やめるという大げさな反応が、人々を先祖供養から遠ざけている。

 死んじまって肉体もない霊魂相手に、本来金がかかるはずもないのだ。強い要請をするのはそれなりの理由が有るはずで、理由もなく厚遇する必要もない。そもそも、居候の不浄霊まで祖先扱いしてしまえば、厄の種になることは必至である。なにせ、居候は居づらくなったら出ていくだけの無責任な連中なのだから。

 たとえば、心霊図書館で公開している幽魂問答に出てくる武士の霊が、祟りまで為して石碑を欲しがるなどというのは、その典型だ。ちゃんと読めば適宜に情報があるが、祟られた家は、見つけた切腹死体を埋葬することもなく、所持金を着服し、刀を売却して、今の家産の基礎としたのだ。こういう特殊な事情でもない限り、石碑を建てろ等といわれても従う必要はないのだ。

 つまり、与太話まで真面目に受け答えするから疲労困憊するのである。そして、不毛な話を無視していくと、残された要求は案外、容易でしかも真心の大切さが身にしみるものだ。――礼儀正しさは、礼儀正しさにあって報われるし、身が清まる感じも得られる。

 何も自分に関わるすべての霊魂を菩薩になるまで供養せよというのではない。実体はその反対で、先祖供養とは因縁の整理でもある。祖先を大切にする……祖先を見直すことで、知らずに抱え込んでいる居候の不浄霊――随伴霊を整理することを忘れてはいけない。

 先祖供養の軽視とは、「大事なものは大事にせよ」といわれて、キョトンとしているのに似ている。だが、ゴミと一緒に押し込んで、「ちゃんと大事なものは大事にしている」と思うおかしさに大抵の人は――霊媒も――気が付いていない。そして祖霊(先祖の霊)をゴミと一緒にして気が付かないのは実は自分もゴミまみれで、それが当たり前の状態と思っているからだ。

 泥のなか――苦海に沈んだままで、霊性向上などを狙うのは、食事の前に手を洗う習慣と逆行するものだ。清潔で栄養も充分の食を食べて腹をこわしたのでは愚かとしかいいようもない。霊的に不潔な環境をそのままにしておいては、つまらぬ障害で修行――または人生が邪魔されるのである。……だから真摯な求道者ほど、因縁解脱や罪障消滅といったことを熱心にする。言葉だけ聞けば何やらインチキ臭く感じるかも知れないが、身辺に漂う雰囲気すら関知出来なければ、神を学んで地獄に堕ちるものである。

 たとえあばら屋に住んでいようとも、そこに客を招くならば清潔であるように心懸けるべきだ。たとえ貧しくても心まで貧しくある必要はないのだから。


運命・宿命

2005/02/06

2005年 02月 06日


活かされている

 心霊家として生き、人生を振り返ってみて思う。

 私も人生の要所要所に、不思議な力の働きを感じる。それを人々は、宿命であるとか、運命であるとか、呼ぶのであろう。そのような体験からか、宿命を変えよう、運命を転じよう、と様々な工夫を凝らす人たちがいる。

 その努力を、姑息――と呼ぶのは無慈悲に過ぎるかも知れない。だが、個人のための個人的な努力は、いわゆる独り善がりと呼ぶべきものだ。自分のための努力であればこそ、人は必死に打ち込み、必死の余りに周囲が見えなくなる。……周囲が見えないのにひたすら突っ走ろうとするから、自分を傷つけ、周囲を傷つけ、傷つけ合うことに傷つき、孤立していく自分に傷つき、傷ついている自分に傷つく。

 人は誰も善良に生きたいと考える。だが、善良に生きようとして、自分も周囲も傷つくのだとしたら、果たして自分は善良であるのだろうか……と思い悩み、苦悩が重なり、あげく死を決意する人もいる。善良に生きようとして、善良に生きられぬからといって、死を選ぶなんて、何と善良で無思慮な人々だろう!? 世の中、むしゃくしゃするからといって子供を殺す大人もいるというのに、自ら死を選ぶ人もいるのだ……なんとこの世の仕組みは、無慈悲にもすれ違いが重なるのか。

 善良であるためにも智慧がいるのである。いや、他人に善良さを認めさせるために智慧が必要なのである。……ただ、善良であるだけで満足できず、周囲に善良と認めさせるために努力し、その努力で周囲を傷つけているのだから。

 苦しむために努力するのは止めるべきだ。

 運命の好転術など、私は知らない。だが、こうは思う。自分の善良さが、独善に偏らず、より普遍に近づくように努力しているなら、私が願わなくても周囲が幸せを願ってくれると……少なくとも、神仏・祖霊・守護霊が守ってくれると……往々、個人的な努力よりもさらに大きな力で、人生が導かれていると感じる。それ故に思う、個人の努力を越えた力は、どうやって得られるのだろうか。と。

 

運命、宿命について考える。

 何が運命、何が宿命か、大きな力を受けて始めて知り、そして、結果を得て始めて理解できるのが、運命や宿命である。そこに人の好悪、意志の立ち入る隙はない。……人の意志の立ち入れぬものならば考えを巡らせるのは無駄である。

 だから思う。結局、人が選べるのは、自ら進んでそれに向かうか、無理強いされてそれに向かうかの違いだけである。ならば、前に向かって進むべきだ。それは負けず嫌いなのでも、積極さの表れでもない。たとえ恐ろしくとも、困苦・障害をしっかりと視野に入れているなら被害は最小に済ませることが出来るだろう。だが、後ろから困苦に襲われたらどうなるのか? 

 絶望は突然やってくるのではなく、目を背けただけで安心している人が襲われるものなのである。

 己の威を過信する者も、往々、無駄な争いで被害を育てる。が、逃げられぬものから逃げようとするのは、難を避けるのではなく、被害を大きく育てているだけのことだ。避けようとして被害を増やす・乗り越えようとして被害を増やす……なんと愚かな生き方だろう! 無謀に前に勧めというのではない。そして困苦との勝敗に気取られてはいけない。ただ、最適な道を選ぶようにするだけである。

 敵に後ろを見せるな……その努力は、勇気を見せるためにではなく、難を避けるために必要な努力なのである。

 

優しいとか、優しくないとか

 過程だけをみて、優しいとか、優しくないとか、人を裁く。……なんと愚かな話だ。笑って地獄に突き落とす人が優しくて、迷妄から覚そうとする人が残酷であるのか? そういう人は根っからの魔界の住人に違いない。魂を地獄に留めたがっているのだから。

 してみると、天国と地獄では、優しさの定義が違うのか? ――それはつまり、天国に住むべくして住む人と、地獄に住むべくして住む人とがいるということなのだ。天国地獄に垣根はない。どちらを選ぶのもその人の自由で、その自由意志の元にそこに暮らすのである。――辛いから地獄は嫌だって? ならなぜ、復讐の念を棄てず、独善を抑えようとせず、見栄を棄てようとしないのだろう?

 復讐の賛同者、誹謗の賛同者が得られたなら、きっとあなたのいる境涯は、地獄か、魔界であるのだろう。そして、復讐の賛同者が得られぬのならば、まだあなたには天国への門が開かれているのだ。


霊媒とは何か?

2004/12/17

霊媒とは何か?

2005年 01月 20日

 突然開いた霊感に戸惑い、苦しむ人は多い。私もその経験者であるし、横の繋がりからそういう話も多々聞く。自分も一人で苦しんだからなおのこと、同じ苦しみの持ち主を見捨てておけないという思いもある。

 考えても見て欲しい――トラブルに巻き込まれたとする。それは不可抗力か、それとも扱いを間違えたが故であるのか? いずれにせよ、こうはいえまいか。正しい知識を持たなかったから拗れたのだ、と。確かに心霊的なトラブルは、無知が事情を拗らせている場合が多い。

 例えば、遺伝的に霊媒能力を受け継いだ人であれば、親なり祖父母なりから適切なる心霊知識を学び取れるかも知れない。しかし、世間に流布する心霊知識のうち、興味本位・実用本位のいずれかが多いであろうか? 需要と供給の関係で考えてみればよく分かる。親戚知人に霊媒がいないのに、突然霊感が開いてしまった人々は、迷信や妄想、または、興味本位で創造されたフィクションの海の中から真実を掴まなければならない。さらに、困難さをもたらすのは、マンガやテレビによって刷り込まれた、興味本位活実用無視の心霊常識である。警戒心を持って学び始める前に知っていたデマは、容易に頭から追い出すことが出来ない。かくして、霊媒初心者は迷信の中で彷徨《さまよ》うのだ。

 そもそも、「霊媒とは何か?」その事すら正しく理解せずにいては、霊媒(能力を持つ者)であることが苦しくて当たり前だ。……だが、人々は霊媒をなんだと思っているのだろうか?

「神に与えられた才能をもっているのだから霊媒は善良で当たり前」等という馬鹿げた妄想に騙されてはいないか? 善良でなくても良い人間なんて独りもいない。だから「霊媒だけ特に善良であるべき」と、主張する者がいたらその下心に関心を向けるべきか、距離を置いて関わらぬようにすべきである。

 その他にも、「霊媒の真偽を見抜くには当て物をさせろ」、「百発百中で当たり前」、「いつでも霊査が取れて当たり前」、「困っている者を無料で助けて当たり前」……等という意見に惑わされてはいけない。

 そもそも、霊媒とは、霊との媒介をする者を意味する。省略されてはいるが、正式には「霊と人との媒介」である。くどいようだが、霊と人との間に立つのが霊媒なのだ。それはつまり、 人間の都合と霊界側の都合をすりあわせ、その妥協点を見いだすのが霊媒の真の義務である。それなのに、迷信に迷わされて、霊を見たら有無をいわさず、また事情を斟酌せず、ただちに除霊したり、毛嫌いしたり、はたまた、人間の都合ばかりを重視して、背後霊の好意に甘えて、次々と当て物させたり、くだらぬ仕事を背負い込ませ、休ませもせず、他人の苦労まで背負い込んでしまえば…… 人間・地上側の御用霊媒にいそしんで、霊界側から見捨てられなければ感謝し、罰(自業自得の報い)が当らなければ幸運と思うべきだ。ここで夢想的な妄想に取憑かれてはいけない。超常的な力を持っている霊達なら、そういう条件の悪さをはねのけられる……かも知れないが、地上の人間の心に巣くい、人を不幸にしているのは社会の矛盾などではなく、その人本人の心に内在する葛藤なのだ。強い力があればなるほど困難を打ち破る事も出来るだろう。だが、葛藤を力押しで解決しようとすればますます苦しみがますのである。

 金儲けが霊媒の使命ではないし、迷信の流布は慎むべきだが、人間、特に身勝手な人間に奉仕する義務は霊媒にないし、勝手な義務感に守護霊・背後霊を巻き込むことがあったら、それはタコが自分の足を喰うようなものである。すなわち自滅への道だ。

 霊界の従僕になるのも社会的な破滅に繋がるが、そもそも霊媒の悩み事、特に霊的な悩み事に対して、解決力を持っているのは霊界なのだ。地上のご都合主義的な心霊思想に惑って、縁も縁もない他人に使い潰されぬように注意すべきである。

 少々の揺らぎはさしたる問題ではないが、地上にも、霊界にも、双方に押しが強くなるまで霊媒の苦悩は続く。


我が身を苦しめる

2004/12/03

2004年 12月 02日


 嫌いな人間から信用されても嬉しくはありませんが、大切に思っている人から不審の目を向けられるのは辛いものです。そしてまた、不審の念を向けられることの辛さを知っている人であっても、大切な人に不審の念を向けてしまうのが人間です。……いざという時棄てられるのではと恐れるから。

 自分を傷つけたくないから、大切な人に不審の念を抱く。……多くの人がそう努力しています。が、不審の念を抱くから大切な人が去っていくのです。――わざわざ自分を苦しめるために努力する人々。業が深いというのはこういう事です。

 間違った努力は決して良い結果をもたらしません。増して、自分を苦しめるための努力がいかなる結果をもたらすというのでしょうか?……そして、間違った努力を辞めない人を助けようとするのは、やはり一つの間違った努力です。また、間違った努力をする人を信じるのは、それもまたやっぱり間違った努力なのです。

 信じられないなら、せめて知る努力をするべきなのに、知ることもせずにただ不審ばかりを口にする。信用されないと言うことは苦痛なのです。相手に苦痛を与えてどうして自分は大切にされると思うのでしょうか?


不自然な常識

2004/11/24

2004年 11月 23日


 不自然な行為は長続きするはずがありません。いや、それが命取りになるかも知れません。

 ある人が、勤め先での苦労を友人に語った所、「辞めたらいい」と、助言されたとか。当人曰く、

「自分にはたくさん足らないところがあり、こんな中でも頑張る必要があるんじゃないか? と、思っていましたが?」

とのことですが、こういう発想を私は古典的倫理観と見なしています。……むろん本音ではありません。 封建制度的倫理観という呼称は、実は今、思いついたもので、要するに本音を言えばぼろくそに非難したい所なのです。

 確かに心霊思想は、魂の向上というテーマを第一に考えます。

 しかし……何が足りず、どう頑張ればよいのか把握しているのでしょうか?

 頑張る理由や手段を見いだせないのに頑張るのは、試験範囲も知らずに試験勉強するのと同じです。試験対策の為だけの勉強も人生に於いては不毛ですが、少なくとも努力の果てに合格は期待できます。しかし、あてもなく勉強するのは、勉強そのものに意義はあっても、砂地に水をまいて米を育てるような不毛さがあります。本当にそれで実るのでしょうか???

 そもそも苦しみが耐えない人は、努力を間違えている人です。逆境の中で、自分の至らなさを心配し、なんとか努力したいという心掛けは立派です。いえ、本当にそう思うのです。なにしろ、霊媒が辟易するのは、自分の未熟さを棚に上げて不運を嘆く人々なのですから、外/他が悪くても自分が悪いと反省してくれる方はもう、本当に大歓迎なのです。これで私がニセ霊媒なら……未熟であることは否定しないが、ニセといわれると反発する……ぜひ、騙して全財産を巻き上げてあげたいぐらいに、有難たい存在です。がしかし……

 そもそも、苦しみが絶えない人は、努力の方法を間違えている人です。そして、苦しみが耐えがたい人は努力の意義に気がついていない人なのです。考えても見てください。何もすることがなかったら……今、くたびれ果てている人々にとって何もすることがないというのは、理想的であることでしょうが、本来はとても退屈だし、居辛いものなのです。むしろ、苦労は生き甲斐であり、楽しみであるのが順調に生きている人の価値観で、苦労を楽しむ人と耐え難い人との最大の相違は、乗り越えた先に得られるものが見えているか居ないかの違いなのです。

……見えていないのに耐えようとするのは、限りなく無理無駄です。いや、分不相応という表現の方がしっくりとするかも知れません。でもねぇ……

 学校の勉強の意義が見えない子供達に対して、親や教師達は、信じて学びつづけることを助言するでしょう。しかし、それは学校だからいえることです、何しろ学校とは意義有ることを学ぶ場なのですから、無駄になるようでは困ります。が、実社会はどうでしょうか? どうも、タガのはずれた大人達が無意味な努力に往々夢中になっているのを眼にします。

努力や忍耐は確かに必要だと思うのです。なにしろ春に蒔いた種が、芽吹き、収穫できるまでには手間もヒマもかかるものですから……でも、努力の方向性を間違えては幸せの芽の出るはずが不幸の芽が出かねませんし、忍耐強く待っていては、あやまちが取り返しがつかなくなるまで大きく生長してしまうでしょう。

 不自然な常識に従うべきではありません。 正しい努力、必要な忍耐は当然のことですが、無為な努力も、思慮の伴わぬ忍耐も、往々人の苦悩を増やすだけのことなのですから。

 無理は続きません。無理はよい結果をもたらしません。……あせりは禁物だし、舐めてかかってもいけないのです。


それぞれの課題

2004/09/19

04年 09月 18日


1,業が深い

 「業が深い」――と聞こえます。

 自分の意に従わせるために、泣きわめいたり、威したり……あなたの課題は人生上の難題なのか、それとも善意の隣人らを支配する事なのか、どちらなのだろうか? 味方を苦しめて、敵を増やす。――幸せになろうとして不幸になる。なんとまあ業が深いのだろうか?

2,勇気が必要

 神秘体験を受け止める勇気がなければ霊感は得られません。

 受け止める勇気――覚悟が無い人であれば、何を見ても怖がるだけでしょう。たとえば子孫に慈愛を注ぐ高級祖霊であろうと、また庇護者のために我を忘れて働く守護霊であろうと、十把一絡げに「お化け」扱いされかねません。「霊を見て怖かった」……そういうだけならば、善霊達にした所で、姿を見せる意義がありません。それは同時に、神秘体験を受け止める覚悟の無い人は素直な愛情を注げる相手ではないという事です。

 恐れさせぬようにコソコソと守護霊・祖霊が働かなければならない。――何ともまどろっこしい人という事です。

3、不審が拭えず

「(私の霊査に)半信半疑が越えられない」というメールがありました。

 私の心中は複雑です。

(当人相手に返事をしにくいが……当然このページを当人は読んでいるだろう)

 果たして私の態度が悪いから不審が拭えないのか。むしろ……

   都合の良い霊査が出ないから信じたくない。

   信じる努力をしないから信じられない。

 どちらか、または両方ではないか……? そしてその答えは……

 誰の人生なのだろう? 誰が責任を持つべき人生なのだろう? 誰の努力が必要な人生なのだろう?……その答えをだらだらと先延ばしする……その時間は誰のもので、老いて誰が切ない思いをするのか?

 信じる事を強要するのでもなければ、知る事を急かすわけでもありません。また、信じないからと言われて深いに思う必要も感じません。ただ、当人に急ぐ気がないなら、私もあわてて応える必要はない、他にやるべきことはたくさんあるしな……と思うわけです。

4、次に……

 みんなも懸命に前に進む。それが人間の義務だから。

 そして、私自身もまた、そろそろ次に進みたいと思う秋の夜空。

 勉強すればするほど、前には荒野が広がる。

 無知なる人は屋根に登って竹竿で星を落とそうとする……知識こそは宇宙、宇宙の広さとは理解力の限界を意味するのです。


 この霊査は、一個人宛のものではありません。オフ会参加者やメール送信者などに対して、一般的に感じられることを纏めたものです。当然、いくつかあてははまる人有り、あてはまらぬ人有り……となるでしょう。

 

04年 09月 21日 

 「それぞれの課題」について、メールを頂きました。


 心霊というのは言葉で表現し得ないものを扱っています。と同時に永遠の成長がテーマなのです。すると、賛同や理解よりも大切なのが返事となります。……判ったというのは判っていないし、判らないまま放置するのは、それ以前の問題です。

 素晴らしい知識も、知った所で使いこなせるとは限らず、知ったつもりで間違っていることは良くあることです。大切なのは実践と応用、せめて「考える」という姿勢です。そしてなにより怖いのは、判らなかったことを勝手に解釈する人々の存在です。それはつまり、私が懸命にそして誠実に努力しても、結果として嘘をついたのと同じ影響を社会に及ぼすということですから。

 ですから私はわかりやすい説明を心がけなければなりませんし、私の意図をねじ曲げる人々とは何とか縁を切るように努力しなければなりません。

Q 「霊能者は、当人にも分からないものが分かるのだろう?」

 重要なのは霊感ではありません。そして、霊感抜きでも、原理は非常に簡単です。……多くの人は「嫌なこと(信じたくないこと)は見ない」という習慣を持っていますから、眼前の事実でさえも気がつかぬものがとても多いのです。ですから、ただ素直に感じるままをいうだけで人々からその洞察力を称えられるようになっても全然不思議ではありません。つまり、霊媒……というより心霊家の私は、人々よりもより、自分にとって不都合な現実や憶測を受け止める覚悟があるというだけのことです。

 さて、この事を知った後には注意すべき事があります。せっかく、自明なことから目を背けていても、他人に指摘されたら興ざめですよね。だから、人に何らかの影響力を及ぼせる人は、その能力を駆使して、自分の見たくないものを他人には見せないようにいたします。霊媒もそうだし、宗教家も、政治家も、芸術家だって、皆、この業《カルマ》・衝動から逃れることは出来ません。……ここは重要です……つまり、この原理を知っていればなおのこと、何かを取り除くことがとても難しくなるのです。

 自明を避ける――それを知らぬ人々は、平気で自分にとって不都合なものを追い出し、抹殺しようとします。

 しかし、避ければなおのこと追い掛けてくることを知る人ならば、追い出し、抹殺しようとすればなおのこと、理知的・怜悧な人々の疑惑を招くことを知っているし、かといって追い出さぬ事の悪影響も理解するわけです。


お知らせBy老神いさお。

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