心霊とは何か


霊を考える

 絵の具を塗りたくった一枚の紙を見て、それが絵であるか、筆に余った絵の具を擦り取った紙であるか、科学がどう証明出来るというのでしょうか。そして偶然の産物であれ、それに価値を見出す者がいるとしたら、科学はそれでも絵ではないと証明出来るでしょうか。

 私の研究対象の心霊を、この喩えで説明すると、「なぜ多くの人々がそれを『絵』と感じるのか……」という事なのです。つまり、霊が人間の観念の産物なのか、実在なのかは別として、霊は存在するのです。その存在の有無を論じるのは愚かな話としか言いようがありません。実のある論議といえるのは、霊が「観念」か「実在」かの判定なのです。

 もう少し考えてみましょう。心理学という社会的に認知された学問があります。だれもが心の存在に疑問を投げかけはしませんが、心を具体的に測定する手段が存在するわけではありません。ただ自分の心に確信を持っているから、心の存在に疑問を持たないだけなのです。

 同様に、人間が認識する「」、又は「」は、その正体が心の働きの一部と仮定し、心の存在を無視して生活する事が難しい一方で、霊魂の存在を無視しても生活に何の支障がないとしても、それが何らかの働きを持つ以上、応用技術が存在するのです。

 その応用技術者が、霊能者であると考える事が出来ます。そして、他の霊を認識する事はだれにでも出来る事ではありませんが、心霊の知識は、霊能者以外に応用方法が無いわけではありません。自分に内在する霊性に気がつけば、霊能者が第三者に行うような応用技術を、自分自身に応用する事が出来るのです。

霊界を考える

 肉体の有無は、表現方法の変化をもたらしますが、表現の方法が変わっても人間の本質は変わりません。魂を人間の本質に置く事から導かれる「主義」です。仮にあなたの親が老人性の痴呆症になったとしても、あなたは山に棄ててくる事はないでしょう。病気や怪我、又は、老化によって上手に自己表現が出来なくなっても、人間にとって、親は、自己表現方法の有無に関わらず、親なのです。いえ、死別してもなお、親である事には違いがありませんね。そして、心理学的には別な説明があったとしても、死別したはず人の意志を、多くの人が感じているのです。だから観念か、実存かは棚上げして、霊界も存在するのです。

 現実には、親子といえども殺し合い、また、棄てる者もいるのですが、それは親子関係は真理や法則によって支配されているのではなく、人間の情によって支配されているという事の証でもあります。その情の行き着いた先が、生死によって人間の本質が変わる事が無いという信念であると考えて見てください。

 死後の世界の存在は、確かに非科学的かもしれませんが、否定的な証拠が無いのに死後の世界を否定するのは、「非人道的」とは言えないでしょうか。情は証拠にはなりませんが、情を否定したら死後の世界は必然性を失うのです。そこには個人がただあるだけになるでしょう。

心霊主義

 人生の中で心の在り方に留意すると、精神活動から更に奥深い霊的な働きが、おぼろげにみえてきます。その霊的は働きを生かすライフスタイル。それが私にとっての心霊主義です。

  • この世に生まれてきた事は偶然ではなく必然だと思う。
  • たかだか百年前後の生物的な寿命で人生を考えたくない。
  • 老衰や、障害や、病気によって、自己表現が制約されたとしても、愛する人の本質は何も変わらないと思う。
  • 死によって、自己表現の手段が失われても、愛する人の本質は何も変わらないと思う。

 以上の四点は、普遍的な真理とは言えませんし、科学的に証明するような事でもないでしょう。だからこそ「主義」なのです。

 たとえば菜食主義者の中に、乳製品を食べない者もいれば、アイスクリームならばいくらでも食べる人もいるように、主義はその人の個性の現れであり、あまりにかけ離れた思想の持ち主には、違う主義名を名乗って欲しいと願うかもしれませんが、多少の違いは尊重されるべきだと思います。

 また、死後の世界を信じる事は、死後の世界との関わりも肯定する事になるわけですが、人生に置ける比重で考えるなら、他との繋がりよりも、自己の在り方である、「人生は霊性向上の修行の場」、「知る事より感じる事」、「方法ではなく、表現に乗せられた相手の心を感じる」といった信念が、心霊主義の根幹ともいえます。

抽象と具象

 霊界の代理人としてのわたしは、相手と相談・質問内容を見て、わざと曖昧な表現を繰り返すこともあり、反対に明言することもあります。そもそも、霊とは物質の対語としても用いられる言葉であり、姿が無いからこそ見えないのです。霊視とは、姿の無いものを抽象として捕らえているのであって、実相をしめすものではありません。

 つまり、心霊の話の大部分は、あくまでも抽象を対象としているのであり、具象を説明しているのではないのです。その事を理解している相手ならば、端的に説明しても誤解はないことでしょう。もちろん、具象に関する事ならば明言も出来ます。

 しかし、抽象的なものを説明するには、やはり抽象的な表現が一番嘘が無いのです。

 私が再三、「知る事よりも感じる事」「頭で考えるな腹で考えろ」と皆に言うのは、霊界の風景も、生活の様相もしょせんは、抽象であって、実相でないからなのです。たとえば、複数の霊能者が、一個所に集まり、同じ人を霊視したとします。ある霊能者は生前の容姿を見て、「美しい人だ」といい、別な霊能者は心がけを見て「醜い人」という事もあるのです。物質的な観点を霊界に持ち込んでも正しい認識は出来ないのです。

 抽象、具象の区別が付けば、霊に関する記載の矛盾の大部分が霧散する事でしょう。人々が心霊をいかがわしく思うのは、抽象画を風景画と思い込むところにあるのです。抽象画である事をわきまえるなら、何の不思議も無い世界なのです。

様々な意見

 霊界の代理として言うのなら、心霊知識は地上の言語で表現する事に限界があり、霊能者としての立場で言うなら、そこには心霊で生活する者の利権を守る為の様々なトリックが常識として横行し、正直言って、私は心霊の肯定論者に名を連ねるのは苦痛を感じます。否定論も肯定論も、もっと良く考察し、本質を見誤らない努力が必要なのです。

 ですから、真相を追求するのに、感情論を展開する学者(学者に限りませんが)は論外として、否定であれ、肯定であれ、心霊に関してまじめに接してくれる学者が増えてくれる事を切に願っています。

 そもそも、霊とは物質の対語としても用いられる言葉であり、死後の実在としての霊や、その霊たちが暮らす霊界が、どのような姿か、どのような風景か、と疑問を抱くのは、ナンセンスなのです。姿が無いからこそ見えないのです。霊能者がそれをあえて霊視するのは、抽象として捕らえているのであって、あくまでも抽象ですから、霊能者の才能、能力によって、その表現に差が出るのは当然の事なのです。

 たとえば「慇懃無礼」、表面上は丁寧でも、侮蔑の意図が見える態度がありますね。そういう相手の表面しか見なければ、礼儀正しい人に見えましょうし、相手の心を見透かせる人なら、無礼な人と見えましょう。たとえば現象や物質の属性を分析するのであれば、観察する対象は非常に明確ですが、一体、心霊を研究する人は、例に出した、慇懃無礼のどこに注目すべきなのでしょうか。

 人間の内面、本質である「魂」を研究の対象にするのに、表面的な態度や言動だけを見て、見抜ける物ではありません。疲れていればぞんざいな態度になる事もありますし、寝ている相手に呼びかけても返事は得られないでしょう。自分に利益をもたらす相手には丁寧な態度を取り、不利益をもたらす相手には自己防衛の態度を取る。それらは表面的なごく当たり前な反応ではありませんか。

 人間の外見は、若ければそれなりに美しく見え、衣服や化粧で装う事も出来ます。魂もその自己表現はいくらでも装えるのです。

証拠もなく信じれば宗教となる

 また、多くの心霊論議は、否定論、肯定論双方が、きちんと用語の定義をしないで始めるから、当事者は知らずに、「心霊教」と、「心霊否定教」の信仰力のぶつかり合いになっています。定義のない言葉を証明しようとする段階で、すでに非論理的な議論となっていることを失念しているのです。

 心霊否定論者は、肯定論者も笑うような“物”を対象に否定論を繰り広げ、肯定論者は、観念と実在の区別をしない。これでは議論が平行線をたどらないほうがおかしいのです。

「幽霊の正体見たり、枯れ尾花」

 心霊肯定論者も、この言葉の意味を軽視する事は出来ません。一般に心霊現象と信じられている事の多くは、実は迷信や錯覚に過ぎないことを、多くの心霊肯定論者は知っているはずなのです。感情論を除いて、否定論者と肯定論者の意見の八割は同じなのではないか、傍目にはそう思えます。

 心理学が、存在を客観的に観測できない「心」を対象にしながら、きちんと科学として成立するのは研究の参加者たちが、きちんと自分の心を認識しているからとも言えます。なのに、心霊の分野においては、死後の実在としての霊に注目するばかりで、今、生きている人間の本質としての魂をとても軽視しています。死後も意識が存続するとしても、人間は、死して突然、神や仏や、高級心霊になるわけではないのです。自らの魂を観ずるならば、少なくとも死の直後にあるだろう、境涯は容易に想像がつくものでしょう。

 心がけが悪ければ、永遠にたどり着く事も出来ないような、高い境涯を論じる……そのような心霊主義(スピリチュアリズム)は、証拠もないままに神を信じる宗教とどう違うというのでしょうか。誰もが自覚のある心でさえ、客観的な観測が難しいのです。死後の実在を客観的に観測するのは、さらに難しいのはごくあたりまえの事です。手の届かない遠くの物よりも、まず、自分の中に潜む霊性、意識の中にわずかしか顕現しないと言う魂を表に出し、自分の主人に据えて初めて、心霊知識を宗教ではなく、主義になしえるのです。

地上生活に生かす心霊知識

 心霊は、手ごたえがないのではないのです。皆、見当違いなところを押しているから反応を得られないのです。そして、人間に良い人もいれば、悪い人もいるように、その延長線にある霊界にも善悪取り混ぜていろいろな霊が存在するのです。
 決して恐れないでください。しかし、決して弄ばないでください。

 物質的世界は、わずか百年前後、滞在するだけの仮の宿ですが、霊界は永遠にも等しい時を過ごすべき世界なのです。地上で失敗する事は、やり直しのチャンスが与えられますが、霊界での失敗は永遠に引きずらずにいられないのですから。


2002-04-02

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