霊査事例: 2005年6月11日(東京オフ会)
以下に紹介するのは、精神統一の練習中に得た、参加者・個人あての代表的な霊査です。当然、対象となる相手によって正反対の霊査も出てくる事でしょう。 以下に紹介するのは、精神統一の練習中に得た、参加者・個人あての霊査です。当然、対象となる相手によって正反対の霊査も出てくる事でしょう。
前論
努力さえすれば、結果が伴わなくても良い。……地上で、こういう論理がまかり通るのは学校の中だけです。一歩社会にでれば、結果(すなわち報酬)があればこそ、生活の維持が可能なのですから。
しかし、人間の精神生活という一面だけ、いわゆる霊的視点で人生を見るなら、結果が伴わなくとも努力することに意義が見いだせます。 ――それこそが、人生は霊性向上の修行の場であるということなのです。すると、もう一つ大切なことが見えてきます。霊達……守護霊・支配霊・指導霊等が、いかなる人の、いかなる気持ちを大切に守ろうとするのか、結果を焦らずに努力できる人なのです。
ここに地上的視点と霊的視点のギャップが存在することに留意してください。霊達も「結果」…… とくに物質的なが必要であることに配慮はしてくれます。しかし、何よりも目的とするのは、その魂の向上であり、霊性の向上なのです。
霊性の向上の為には、往々代償が必要である――従って、失うことを恐れていては、霊達と心を合わせて働くことは出来ません。
霊達からのメッセージは往々、叱るような内容のものが多いわけですが、これは、指摘された当人を否定するのが目的ではありません。これもまた視点の相違が生み出すギャップです。目的が向上であるのだから、向上すべき点を指摘しなければその目的を果たせないのです。…… 「ならばどうすればいいのか」……まず自分で考え、そして足りないところを改めて背後霊等に問うことが大切です。
感想
参加者の皆さんは、だいぶ精神統一になれて、長時間苦もなく、静かに座れるようになりましたが、半面、身構え方が上手になって、座っているけれども、背後と繋がっていないと感じます。数人の方は、もう貰える答を自分で用意していて、逆にインスピレーションを拒絶している姿勢も見受けます。……これでは面白くありません。もう一度初心に返りましょう。……端的に言えば、慢心が見られる、ということでもあります。
霊視
今回は、珍しく気がそそられて、会場を霊視してみましたところ、一番奥に座っていらっしゃる方のあたりに薄暗い雰囲気の男性が三人、立っているのが見えました。場合によっては除霊も必要か、と思った途端に、私の背後霊から、「よく見よ、生きたる思念ではなく、ただの想念、いわば思考の具現である。除霊に及ばず」……幻想、というよりも、一種、アイコンが漂っているだけだというのです。
統一後、霊査の他に、一番奥に座った方々に、この話をしました。
「私の見るところ、この人影は、自虐意識です。Aさんは二種類の視点から自分を批判し、Bさんも一つの視点から自分を批判しています。でも、何か起こる前からそうやって反省していたら、切りがありませんよ。」
事例1
- 『自分を責めるな』……色々と見えたのですが、どうも霊査として伝えるような内容のものがありません。これはつまり、あなたの気持ちが、不毛な事柄に気取られていることだと思われます。
- 先ほどは、少々猫背気味でしたが、今は、威風堂々と座っていらっしゃいます。それがつまり、自信を持つということです。つまらぬ事を思い出しては、未だ起こらぬ事を恐れて、わざわざ自分で自分の自信を捨て去る必要はありません。
- 『秋の田に 咲く花ぞ我が心 倉満ちて、心満ちて』 ……小さな不平不満はあろうとも、今は物心両面が豊かな状態ですし、先行きの不安も見受けません。
事例2
- 『良く話を聞き、よく話せ。』……子供等、純真な気持ちの持ち主との会話中にチャンスを見出すことが出来ます。これは、利口ぶった人との会話ではありません。なまじ専門知識のある人の話は、実があるようでいて実は独創性に欠けておもしろみがないので、そういう話に振り回されぬようにいたしましょう。
- 『義母の口が悪くなっているが、逆らうな。』……対人関係にご注意を。
- 某湖が見えて、「この地には人身御供の風習在り、それらの者の供養のために、にぎりめしなど捧げてくれまいか?」と問われました。基本的に供養の要求についてはまっとうな霊査として扱わない事としていますが、念のためにお聞きします。そういう風習があったことをご存じですか?
……戦中に強制労働者が生き埋めになったりしたそうです。
私はもっと昔、不作の年に若い女性を沈めた姿が見えたのですが、それならば、「にぎりめし」と指定したこともうなずけます。本当の意味での人柱であれば、神になるという思想が通じて、むしろ「御団子」等を要求するはずなので、変だな、と思っていたのです。
……「にぎりめしでいいのですか」「死んだ人に供物が必要なのですか」等の質問
振り上げた手を降ろさせるには、それなりの理由が必要なのです。精神的なケアは霊界でいくらでも出来るのですが、その前段階で、相手のメンツを立たせるためにもやはり誰かが供物を捧げることが必要なようです。
もっとも、そんなに堅苦しく考えず、お子さんと一緒に、簡単なお弁当を持って遊びに行くと良いでしょう。お子さんたちの安全はちゃんと守っていただけます。その際に、ちょっと余分なにぎりめしを用意して、水辺にしばし捧げ、その後、水に沈めてください。
事例3
- 『力の配分に気をつけよ』……気に入った仕事だけに集中して、その他の仕事が散漫になっています。
- 『自分の意見を発表するだけでなく、他者の発表を聞くのも大切』……他者の発表にも興味深いものがあります。(後で気がついたのですが、他人の発表方法から学べ、の意味の方が強かったかも知れません)
- いくつか、生活上の不安を抱えていることは理解するのですが、その件について、良い返事は貰えませんでした。ただ、「自分なりにどういう仕事が良さそうか、リサーチ/イメージトレーニングしてみろ、実現させるためには自覚することも大切だ」とのことです。
事例4
- まんねり(慣れ)から、油断が生じています。その一方で、内向的になって外部に対して無関心に見えます。
- 内向的との指摘を受けて、だいぶ心の居住まいが良くなりましたが、そうして座っているあなたの背後に守護霊が見えませんでした。これは、あなたに守護霊がいないのではなく、守護霊との絆が出来ていないということです。ご自分の守護霊探し…… どういう気持ちを持つことで繋がりやすくなるかという内面的な守護霊探し……が必要ですね。
- 『一日に一歩でよいから前に進め、毎日一つでよいから目標を立てて実現のために努めよ』……とのことです。
事例5
- 『後悔の無事終わらんことを。』
- 後ろに立ったとき、サイフを落とす光景やら、その他のトラブルの光景やらが二、三見えたのですが、どれも過去の出来事です。あれ、ッと思っていたら……『心配ばかりするな。恐れてしまえば何も出来なくなる。』と聞こえました。
- 『満ッ山の、木魂(呼魂)ぞ、我を呼ぶものは』……奇っ怪なイメージなので、霊査として扱うべきかどうか、少々迷ったのですが、念のためにお伝えします。私の霊眼には、深山に多数の人魂が集まっている姿が見えて、「あなたはこれらの霊の成仏を祈るべき立場である」と聞こえました。……意味深です。
質問
Q 「腹が立ったときの、気の持ちようを教えてください。」
廬 『怒りとは相手に対する負けん気である。が、相手に優位を感じているなら、負けん気など感じる必要もない。鷹揚に言わせておけばよいのである。鷹揚に言わせておけぬということは、相手の非を見て、それを正せぬ己の弱さを自覚しているということだ。負けん気とはつまり、勝利を求める気持ちでなく、負けを認められぬ弱さである。弱いから吠える。
負けだから悔しいのだ。悔しいから、神仏を引き合いに出し、霊媒に頼り、正義を口にして地団駄踏む。
真に悔しければ勝て。相手の非に対して鷹揚に受け止められる強さを得よ。
相手に非があるからといって、相手に勝てるとは限らない。すると、神仏・正義の弱さを詰る気持ちが生じるが、それは正しい見地ではない。心霊家であるならすでに教わっているとおり、人は修行のために地上に生を得るのだ。……どうして地上に、学ぶ必要のない者がいようか。……どうして、神仏が、修行の機会を奪うというのか。愚か者だからこそ修行が必要なのだ。ならば、非を持つものは神仏の保護下にある。非を行うためでなく、非を正すために神仏に守られている。それが霊的真相である。
むろん、自ら非に気がつかぬ愚か者も多い、それ故に様々な機会が準備されようし、その結果、善良に生きようとする者が心を痛めることもまま見ることではある。だが、善良である者も、修行の機会を与えられたればこそ善良に生きられるのだ。同様に非ある人にも機会を与えねばならない。
許せとはいわぬ。だが、己が気持ちの負けを、神仏の弱さにすり替えてはならぬ。』
常識論(?) 『腹立ちの内容による――己と同じ弱点・欠点を持つが故に相手を憎むことがある。この腹立ちはいわば現実逃避・責任転嫁であるが故に、いかなる救いの手段も当て嵌めることが難しい。いわば、起こらざれば我が身を救えぬが故に起こるのである。そはあくまでも自業自得、誰にも救いがたい。
対して、相手が現実逃避・責任転嫁するが故に腹が立つなら、その気持ちは報復の為の努力ではなく、事実の改善のために集中せよ。
さらに、相手が無知・無能故に腹が立つなら、怒ることは己が自滅であることを知ることだ。無知・無能な者は自ら問題を解決する力がない。下手に叱れば、解決のために頼られてかえって面倒になるだけだ。むろん、むろん、人を導く気持ちは尊いが、腹が立つようでは導くことは出来ぬ。……ならば、怒りを棄てることの方が難が少ないと知れ』
之 『怒りというのは一種の緊張だ。心の働きだけでなく、身体も一緒に緊張している。緊張したままでは良い智慧も浮かばず、常識的な知恵も役立てる前に自分の暴発でしくじってしまうだろう。まずは身体の緊張を解くことだ。この時、弛めよう、弛めようと考えても、心で心を抑えることは出来ず、かえって焦りが生じてしまうから、逆に心の中で相手をギタギタにすることを想像して、パッと放す、こうすると弛めやすい。また、他人の緊張を解きたければ、相手をびっくりさせるのがよい。ここで見え透いた嘘をついたり、ふざけたりするとかえって我が身に怒りを呼び寄せるが、虫が付いているとか、服にゴミが付いているとか、そういう相手がちょっと緊張するような言葉を掛けて話題をずらすだけで、リラックスさせやすくなるものだ。その上で、常識的な知恵を活かせばよい』
腹の立つとき
05年 06月 12日
オフ会で、「腹が立ったときの気の持ち方」について質問を受けた。その回答については、上にまとめてある。内容は重複するが、この回答過程をご紹介する。
当初まとめたのは、この内容だ。
常識論(?)
『腹立ちの内容による――己と同じ弱点・欠点を持つが故に相手を憎むことがある。この腹立ちはいわば現実逃避・責任転嫁であるが故に、いかなる救いの手段も当て嵌めることが難しい。いわば、起こらざれば我が身を救えぬが故に起こるのである。そはあくまでも自業自得、誰にも救いがたい。
対して、相手が現実逃避・責任転嫁するが故に腹が立つなら、その気持ちは報復の為の努力ではなく、事実の改善のために集中せよ。
さらに、相手が無知・無能故に腹が立つなら、怒ることは己が自滅であることを知ることだ。無知・無能な者は自ら問題を解決する力がない。下手に叱れば、解決のために頼られてかえって面倒になるだけだ。むろん、むろん、人を導く気持ちは尊いが、腹が立つようでは導くことは出来ぬ。……ならば、怒りを棄てることの方が難が少ないと知れ』
・・・・・・・
これは当初、廬氏からの通信と理解していたが、正直、面白味に欠けている。対して別意見が出たのが、次の霊信である。
之氏(仮称)
『怒りというのは一種の緊張だ。心の働きだけでなく、身体も一緒に緊張している。緊張したままでは良い智慧も浮かばず、常識的な知恵も役立てる前に自分の暴発でしくじってしまうだろう。まずは身体の緊張を解くことだ。この時、弛めよう、弛めようと考えても、心で心を抑えることは出来ず、かえって焦りが生じてしまうから、逆に心の中で相手をギタギタにすることを想像して、パッと放す、こうすると弛めやすい。また、他人の緊張を解きたければ、相手をびっくりさせるのがよい。ここで見え透いた嘘をついたり、ふざけたりするとかえって我が身に怒りを呼び寄せるが、虫が付いているとか、服にゴミが付いているとか、そういう相手がちょっと緊張するような言葉を掛けて話題をずらすだけで、リラックスさせやすくなるものだ。その上で、常識的な知恵を活かせばよい』
・・・・・・・
之氏の意見を私は重視した。実際、腹の立っているときに最初の意見の通りに判断分析できるのであれば、それは起こっている内には入らぬはずだ。……が、どうも廬氏にしてみれば、相手のレベルに合わせた回答として、やむを得ずお茶を濁したものらしい。続いて得た霊信は、これこそが廬氏らしいものと感じた。
廬氏
『怒りとは相手に対する負けん気である。が、相手に優位を感じているなら、負けん気など感じる必要もない。鷹揚に言わせておけばよいのである。鷹揚に言わせておけぬということは、相手の非を見て、それを正せぬ己の弱さを自覚しているということだ。負けん気とはつまり、勝利を求める気持ちでなく、負けを認められぬ弱さである。弱いから吠える。
負けだから悔しいのだ。悔しいから、神仏を引き合いに出し、霊媒に頼り、正義を口にして地団駄踏む。
真に悔しければ勝て。相手の非に対して鷹揚に受け止められる強さを得よ。
相手に非があるからといって、相手に勝てるとは限らない。すると、神仏・正義の弱さを詰る気持ちが生じるが、それは正しい見地ではない。心霊家であるならすでに教わっているとおり、人は修行のために地上に生を得るのだ。……どうして地上に、学ぶ必要のない者がいようか。……どうして、神仏が、修行の機会を奪うというのか。愚か者だからこそ修行が必要なのだ。ならば、非を持つものは神仏の保護下にある。非を行うためでなく、非を正すために神仏に守られている。それが霊的真相である。
むろん、自ら非に気がつかぬ愚か者も多い、それ故に様々な機会が準備されようし、その結果、善良に生きようとする者が心を痛めることもまま見ることではある。だが、善良である者も、修行の機会を与えられたればこそ善良に生きられるのだ。同様に非ある人にも機会を与えねばならない。
許せとはいわぬ。だが、己が気持ちの負けを、神仏の弱さにすり替えてはならぬ。』
だが、他人の非を見て腹が立ったとき、それを自分の弱さであると自覚し、あまつさえ、その改善法まで智慧を回らせるのは、努力目標ではあるが……「お前の負けだ!」と、いわれて、腹が立つより、冷水を浴びた気分だ。
ところでお気づきかも知れない。何やら廬氏は怒こっている雰囲気だ。そして、一旦は投稿したこの原稿にさらに補足があるという。以後は、負けん気(オフ会の質問への補足を含む)をご参照願いたい。
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2010/01/02 at 15:36
[...] 「負けん気(オフ会の質問への補足を含む)」を参照のこと。 [...]