心霊主義入門2
平常心
ある禅師が「道の習得とは」と問われて……
「腹が減ったら食い、疲れたら寝る」と答えた
それは、誰もがやっている事では……?
「いや、大抵は、食べる時も寝る時も欲望をめぐらせているものだ」
心霊主義では、人生を霊性向上の修行の場と考えます。それを踏まえた上で以下の問題をお考えください。私たちは地上に生を受ける前に、霊界で生活を送り、他の霊たちと交感していたはずです。そして、死後も霊界で生活を送り、他の霊たちと交感する事でしょう。ではなぜ、地上において交感できないのか。一体霊界で学んできた事はどうなってしまったのか。
あなたは何を地上で学ぼうというのでしょうか?
前世で学んだ事をすべて無視して……
死ねばまた、すべて忘れてしまうかもしれないのに……
どうやって、地上で学ぼうというのでしょうか?
霊の世界の事は言葉で言い表せないというのに……
地上の体験が一体霊界でどう役立つというのでしょうか……
人間の数だけ、個性があり、転生の目的があります。答えは決して一つではありません。しかし基本的な考えは一つです。
この謎が解けなければ、あなたは転生前とは変らない霊格で、霊界に戻らなくてはならないでしょう。
私たちには、わずか百年前後の短い人生の中において、なすべき事、いや、なさねばならぬ事があります。でも、それを放りだして、無用な欲望を巡らせてはいないでしょうか。
今、あなたが苦しみを感じず、悲しみも感じずにいるとしても、人生の目的を見失っていたとしたら、それは人生を失うのに等しい事です。オカルト作家達の描く、どんなに恐ろしい霊の祟りよりも、あなたの油断が生み出す人生の損失ほどの悲劇を与えはしますまい。そこには言い訳の余地がないからです。
旅立ちの前に
霊は実在するのか? 死後の世界は?
多くの心霊家(心霊研究家・霊能者・オカルト研究者など)が言うほどには、確たる証拠なんて存在しません。では霊の世界は存在しないのか。多くの人々はかすかな憧れを持って、永遠の実在の世界を信じています。確たる証拠がない。でも信じる。心霊とは、曖昧で、非科学的な物語なのでしょうか。
……数多くの霊能者たちの足跡。
私は霊界の存在を証明することに情熱を感じません。 いずれ、人は死に直面します。心霊否定論者にも肯定論者にも等しく死は訪れるのです。そして、死が恐ろしい、悲しい別離と考えるのは、心霊否定論者も肯定論者も変わりはないのです。
私が沢山の実例と現象を示して、霊界の実在を解き明かしたとしても、信じたくない人は無くなりません。また信じる人にとってもやはり、死が恐ろしく、悲しい別離であることに違いがないのです。
皆さん。議論を止めて、どうか、耳を傾けてください。 私たちが心霊に求めるのは一体なんなのでしょうか?
迷信からの開放ですか?
死の恐怖からの解脱ですか?
それとも永遠の生に対する憧れですか?
単なる否定からも、盲信からも答えは見いだせません。
学びは愚かさを明らかにする
学べば謎が減るなどということをどうして信じる事が出来ましょうか。蛙《かわず》は井の中に留まるなら、井戸で一番の知恵者であれたものを、井戸から出た途端に愚者に成り下がるのは、知恵が、学ぶことよりもより多くの謎を提示するという暗示なのです。
学べばこそ、より愚かさを感じる。それは惨めさではなく、自らがより天への高みに昇りつつあり、より大きな知恵に巡り合うためのステップを登るということなのです。そう、学んで愚かさを知った人は真の知恵を求めます。その勇気がない者が偏見と頑迷さを身につけていくのです。
何のための知恵なのだ……知識は覚える為に学ぶのではなく、人生において生かす為に学ぶのです。 そしてある時に気がつきます。
知恵など求めなくても、自分は生きている。
知恵を得ても、得なくても自分は生きている。
生きるために知恵が必要なら、知恵を求めずになぜ生きているのか。
私たちの「生」は、ものは言わぬとしても、そのまま知恵の塊なのです。私たちが求める答えの大部分は、実は私たちの生の中に既に用意されているのです。そして私たちが学ぶのは、自らの「生」に宿る知恵……いや智慧に……言葉を与える行為なのです。私はあなたの智慧を表に引き出します。その智慧は、人を感心させる事も、議論で相手を打ち負かせる役にも立ちはしません。まして人を屈服させたり、痛めつける事にも役には立たない事でしょう。ただ、あなたが自分に自信と、誇りを持ち、他を愛し、胸を張って生きるより所になるものです。
必要なのは証しか、智慧か
身体が丈夫なうちには、心霊を否定しながら、いざ難病の告知を受けたとたんに心霊に関心を持たれる方がいます。心霊は人を幸せにする知識の宝庫であり、その知識を生かす為には「不滅の魂・永遠の生」という「事実」を受け入れる事が大前提となりますが、私はことさら、霊界の実在を主張する必要を感じてはいません。
私たちが生きているこの現世。死に直面して「現世《うつしよ》は夢幻のごとし」という人もいますが、大抵の人は、無条件に現世の存在が、確実で疑いの無いものと考えているようです。
しかし、現世を「確実」と感じるのは人の心・意識であり、意識には多くの錯覚が伴うものです。心霊現象の多くも錯覚と説明できる場合が多いですね。錯覚と決めつけられる事例はさらに多いものです。
また、この世の事柄は意のままにならず、貯えた財産や愛する家族ですら、災害や気まぐれによって失われる事もあります。となると、現世は確実に存在するという事に何か意味があるのでしょうか。そこにあるのは「意味」ではなく、他の事を考える余地や、その存在のあり方に疑問を持つゆとりも無いほどの、忙しさや居心地の悪さではないでしょうか。
霊界や想念の世界は確かに存在します。そしてそれは、一人一人の心にいつも訴えかけています。しかし、多くの人は現世に流されるばかりで、流される事が存在の証明であると勘違いしているのです。だから霊現象や神秘体験などといった、想念の世界に流されて初めて霊界の存在を信じる事になります。でも、流されて居場所が無いような霊界に果たして魂の置き所があるでしょうか。それはちょうど、幸運に恵まれた人が、夢ではないかと疑って自分のほっぺたを抓るようなものです。そして、苦痛を感じずにはその実感が得られないというのは不幸な事です。
あなたの人生から苦しみを取り除けないという事なのですから。
現世も、そして、霊界ももっと素直に理解すべきです。それは自分の魂の置き所なのですから、必要なのははっきりとした存在感ではなく、居心地の良さと労りあえる仲間の存在の筈なのです。
わたしがオカルト信者や、心霊議論を嫌うのは、霊の世界がわたしの魂の置き場であるからなのです。考えて見てください。住まいに必要なのは、住み心地をよくする努力であって、理論や議論はインテリアコーディネーターや、建築家たちに任せるべきです。そして、霊界を設計・建築するのは……一体、誰なのでしょうか。
趣味で理論研究をなさったり、議論をなさる事まで止めはしません。また、親しい者との死別や、死に直面すれば、真摯に死後の実在を感じたいと願うのも、人として当然の情でしょう。しかし、いくら霊界の実在を信じても、霊界の住人から受け入れ難い想念を持ち、魂の牢獄に封じ込められたり、ただ外部の想念に振り回されるだけであるなら、信じる事に何の意味がありましょうか。必要なのは、感じ、そして、参加する事なのです。そこに行き着かない限り、信じる事も信じない事も大差はありません。その知識からあなたが得るものは単なる先入観念のみなのですから。
未知との出会い
どう転んでも、人には器がありますから、理解を超えた物、存在というのがあって当たり前です。しかし、自らを超越したものが正しいとは限らないわけで、物事には、正しい、間違っている・・・その他に「理解の外にある」という三番目の選択肢があるはずです。
しかし、多くの人は、「理解の外にある」を、正しいに含めてみたり、間違っているに含めてみたりして、第三の選択肢の余地が無い場合が多いですね。理解を超えたものは、「わからない」という答えで良いと思うのです。時と共に知識も増えて、いずれ理解が及ぶかもしれないのです。無理に分かった気になるよりもよほど、判らないままにしておく方が良い事でしょう。
未知との出会いは人生に彩りを与えてくれます。未知なるものがあるというのは、確かに不安かもしれません。しかし、未知なるものに出会えなくなったとしたら、毎日が当たり前の連続となってしまいます。それはなんと退屈なものでしょうか。未知なるものを受け入れるゆとりが欲しいものです。
器の大きさ
この理解力の限界は、人間の器と表現する事も出来ます。一般的には包容力を指して、人間の器と表現するのですが、「わからない」と言えないのは、他人どころか、非力な自分すら、受け入れる事の出来ない心の狭さを意味するわけです。
この事は、人と議論になると痛切に感じます。余裕の無い相手と議論をすると、すぐ「そんなの嘘だ!」「いや、本当だ!」と、感情的な真偽論に流れてしまいます。しかし、仮に真偽を突き詰めても、自分たちの器の小ささを確認するだけの事にすぎません。目には物質の存在だけしか見えなくても、想像力や知性、霊性を働かせる事によって、“その物”の可能性までも“見通す”事が出来るのですから。
何かを論じ合う時、事実や真偽だけを論じるのならば、答えは一つしかないはずですが、その可能性を論じるのならば、答えは無数に、無限の広がりが出てくるものです。ことに心霊主義を標榜するのなら、物質的な視点や、時空間の制限に囚われず、もっと様々な可能性を論じて行きたいものです。
そして、それこそが霊性向上への道でもあります。
本来、互いの無知に気が付き、それを教え合うことは、楽しいものなのです。お互いの無知を助けて互いに向上していくことこそが、自分の可能性を押し広げ、未知の世界を垣間見せてくれるものなのですから。
死後の世界は、想念の世界であるといわれます。それはつまり、あなたの心がそのまま風景となる世界だということです。
あなたの心が美しければ、その風景が美しく、あなたの心の美しさ以上に美しくはならない世界なのです。そしてあなたが疑心暗鬼に囚われれば、そこは暗く不安な世界となり、あなたの心が、不平不満や嫉妬や憎悪に包まれていたら、決して安住出来ない地獄のような世界になるということです。
地上にあって死後の世界を学ぶ方は、くれぐれも善き旅立ちの準備をなさってください。そして、心霊知識を学ぶ時には、自分を誤魔化すためでなく、より深く自分の愚かさ知るために学んでください。
信念
可能性を信じる
出来ないと思いこめば、どんな簡単な事も出来はしません。一方、困難に思えても、試してみれば案外簡単な事もままあります。不可能を可能に変えてきたのは、多くの先人達の信念でした。発明や発見の背後には、かならず、世間の常識に反して、自らの可能性を信じた先覚者の信念があります。
……きっとできる。できるはずだ、やってみよう……
「信じれば、何事も実現する」……キャッチフレーズとしては通用しても、世の中、それほど甘くはありません。無理を通せば道理が引っ込むとは言いますが、世の中、努力だけではままならぬ事も決して少なくはありません。自分の可能性を伸ばすのか、それとも覆いで囲うのか。人はその思想によって生き方を左右してしまいます。
人は死んだら終わり。本当でしょうか・・・?
世界には、目に見える者しか住まわぬのでしょうか?
自分の手足を眺めてみてください。それがあなたの全てですか?
人生が、死んで終わるものであるなら、その結果を見る事も出来ないものに、身命を捧げる人がいるのはなぜでしょう!?
私たちは、先人達の多くの自己犠牲の上に現在の反映を甘受しているのです。ですから、現代科学の裏付けが無かろうと、「死後の個性存続」は、(観念的ではあっても)迷信ではありません。死後も個性は存続するという信念は、人間と獣との間を分けた大切な要因なのです。
この記事を読む見知らぬあなた。あなたはあなた自身をよく知っているかもしれません。でも、私にとって、あなたは見知らぬ人でしかありません。
あなたは優しい人ですか?
善良で、努力家でしょうか?
人を助ける愛情にあふれる人ですか?
私はあなたを知らない。でも、あなたの善さと友好を信じなければ、こういうホームページは作れませんでした。 私の「霊界」、そして、「死後の個性存続」に対するスタンスも、やはり信じる心が支えています。大切なのは今の現実ではなく、どうあるべきなのか、そして、何を目指すのか……なのです。つまり、今のあなたが信じられなくても、将来のあなたが信じられるのならば、その為の努力に意義があります。
「世の全ての人を納得させる証拠など無い。そこに偏見という病因があるとしても」――それが現実というものです。しかし、私は見えざる隣人に対しても善良でありたいと願い、自分の死後にも責任を持てるような生き方を心がけたいと思います。
「死後の個性存続」は普遍的な事実とはいえません。物質に頼り、肉体に甘えた生き方をしている人が、どうして死後も同じ生き方が出来るというのでしょう? 霊性に指導された生き方を心がけぬ限り、人は死によって大きな変化を受け入れざるを得ないのです。
死後の個性存続は、迷信でもなく、普遍的な事実でもなく、人間らしく生きるための信念なのです。この信念を私は「心霊主義」と呼んでいます。
人の出来る事には限りがあります。どれほど高い理想を掲げ、そして強い信念を持とうとも、出来る事には限りがあり、一方、出来ぬ事には限りがありません。果てしなき天の高さ、果てしなき荒野の広さを思えば、失敗や挫折の無い人生は、完璧であるというよりも消極的な生き方の証と見なせましょう。
そう考えるなら、「今、あなたが出来る事」が大切なのではなく、「これからあなたがやろうとする事」が大切なのです。
2006-04-12