未知との出会い
どう転んでも、人には器がありますから、理解を超えた物、存在というのがあって当たり前です。しかし、自らを超越したものが正しいとは限らないわけで、物事には、正しい、間違っている……その他に「理解の外にある」という三番目の選択肢があるはずです。
しかし、多くの人は、「理解の外にある」を、正しいに含めてみたり、間違っているに含めてみたりして、第三の選択肢を持たない人が多いですね。ですが理解を超えたものは、「わからない」という答えで良いと思うのです。時と共に知識も増えて、いずれ理解が及ぶかもしれないのです。無理に分かった気になるよりもよほど、判らないままにしておく方が良い事でしょう。
“未知との出会い”は人生に彩りを与えてくれます。未知なるものがあるというのは、確かに不安かもしれません。しかし、未知なるものに出会えなくなったとしたら、毎日が当たり前の連続となってしまいます。それはなんと退屈なものでしょうか。未知なるものを受け入れるゆとりが欲しいものです。
器の大きさ
この理解力の限界を、人間の器と表現する事も出来ます。一般的には包容力を指して、人間の器と表現するのですが、「わからない」と言えないのは、他人どころか、非力な自分すら、受け入れる事の出来ない心の狭さを意味するわけです。
この事は、人と議論になると痛切に感じます。余裕の無い相手と議論をすると、すぐ感情的な真偽論に流れてしまいます。仮に真偽を突き詰めても、自分たちの器の小ささを確認するだけの事にすぎないのにです。目には、物質の存在だけしか見えなくても、想像力や知性、霊性を働かせる事によって、“その物”の可能性までも“見通す”事が出来るものです。
何かを論じ合う時、事実や真偽だけを論じるのならば、答えは一つしかないはずですが、その可能性を論じるのならば、答えは無数に、無限の広がりが出てくるものです。ことに心霊主義を標榜するのなら、物質的な視点や、時空間の制限に囚われず、もっと様々な可能性を論じて行きたいものです。
そして、それこそが霊性向上への道でもあります。
本来、互いの無知に気が付合うのは、楽しいものなのです。その様な議論こそは、自分の可能性を押し広げ、未知の世界を垣間見せてくれるものなのですから。
最終更新日 2002年01月20日