負けん気


 『怒りとは相手に対する負けん気である。が、相手に優位を感じているなら、負けん気など感じる必要もない。鷹揚に言わせておけばよいのである。鷹揚に言わせておけぬということは、相手の非を見て、それを正せぬ己の弱さを自覚しているということだ。負けん気とはつまり、勝利を求める気持ちでなく、負けを認められぬ弱さである。弱いから吠える。

 負けだから悔しいのだ。悔しいから、神仏を引き合いに出し、霊媒に頼り、正義を口にして地団駄踏む。

 真に悔しければ勝て。相手の非に対して鷹揚に受け止められる強さを得よ。

 相手に非があるからといって、相手に勝てるとは限らない。すると、神仏・正義の弱さを詰る気持ちが生じるが、それは正しい見地ではない。心霊家であるならすでに教わっているとおり、人は修行のために地上に生を得るのだ。……どうして地上に、学ぶ必要のない者がいようか。……どうして、神仏が、修行の機会を奪うというのか。愚か者だからこそ修行が必要なのだ。ならば、非を持つものは神仏の保護下にある。非を行うためでなく、非を正すために神仏に守られている。それが霊的真相である。

 むろん、自ら非に気がつかぬ愚か者も多い、それ故に様々な機会が準備されようし、その結果、善良に生きようとする者が心を痛めることもまま見ることではある。だが、善良である者も、修行の機会を与えられたればこそ善良に生きられるのだ。同様に非ある人にも機会を与えねばならない。

 許せとはいわぬ。だが、己が気持ちの負けを、神仏の弱さにすり替えてはならぬ。』


 非を正すことを口実にしてみても、非に憤ることには復讐心が含まれる。そして復讐心は醜いのものだ。他人の非をあげつらうことで己の非を正当化してはならぬ。

 負けん気は、敗者の気の持ちようである。そが証拠に、負けん気に取憑かれたものは、卑怯な手段を使ってまで、相手に復讐せんとする。 … …姑息な手を使わざるを得ないところに、すでに正義無く、勝利無く、ただ、より惨めな敗北が待っていることを暗示する。

腹が立つ……そは仏教に於いて、地獄に堕ちると同義の言葉である。その救いを求める無かれ。

弱き我を救えと祈るならば聞く。だが、我に代わって悪を撃て…… という姑息な祈りに耳は貸さぬ。


Q 『いや、失礼な質問だったことをお詫びします。……でも、お怒りは教えと相反するのでは?』


 ならばこそ!――「腹が立った時の気の持ちよう」に対する、我が真の答が、『腹を立てるな』 であることが腑に落ちよう。

2006-04-12


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