苦境

 

2007年03月25日


苦境を歎く者を、救わんとする霊も多い。だが私は苦境を尊ばぬ。人に苦しまねばならぬ理由など何もない。ただ、為すべき事を為さぬから、前に進めと、ムチ打たれるのである。そのムチ打つ者は神でも悪魔でもない。愛でも憎しみでもなく、ただ「必然性」である。

時折、苦境を歎く者をハタと見据える。無論、それぞれに性質の長短、能力の長短はあろう。だが、足りぬのは、時でも物質でもなく、努力である。

その努力が辛いという者も多い、だが、何を努力しているのやら。

不自然な生き方に疲れているだけではないか。欲望をいささか削ればもっと楽に生きられるだろうに。貧しき者には不平が少なく、豊かな者に不平が多いと同様である。要は豊かさではなく、その慾の大小が苦しみの元なのである。

生きる術は誰にでもある。だが時として生きることよりも大切なことがあって、そこに真の苦しみがある。……だが多くの人は、生きるよりも大切なことに悩むのではなく、なくとも命に別状のないことで悩んでいる。

その様な者に本当に必要なのはなにか? 永遠に不足を歎き続ける在り方であるのか、それとも、真の実現を追求する生き方であるのか?

そう、生きるとは生むことである。充分に生み出していれば、大きな不足に悩むこともない。苦しむ者は、消費するばかりだから不足に苦しむのだ。


楽を求める人々

2007年03月24日


「また説教か!」と、うそぶく人がいる。内心で舌打ちする人もいる。……「知りたいのは楽に得る方法なのに!」という。

苦労さえすれば成果が出るというわけではない。にも関わらず楽を求める。 彼らの欲するものは、なんであるのか?――楽か? それとも成果か?

楽を欲するなら、何もしなければよい。

成果を欲するなら、努力すればよい。

その単純な判断に迷えば無駄が生じる。無駄の克服には更なる努力を必要とするだろう。――なぜにわざわざ苦しみを増やすのか? 楽を求めて苦しみを増やす。

思うほど出来ぬ事への焦り、何も出来ぬ事への焦り、どうして良いのか判らぬ事への焦り、焦り、焦り、焦り、――挫折、そして、自己損失へと至る奈落をのぞき込みながら、あがくことで破局を早めている人々。

彼らが求める楽とは、他とは競わない境涯であるのに、楽に勝つ方法と問題をすり替えるから、人々の助言が役立たず……むしろつけ込まれて食い物にされる。

利口そうに見せようと努力して、かえって愚かさをさらけ出す人々。必要なのは、真実を言わぬ人々、真実を知らぬ人々……嘘の共犯者だけを大切にして、この世から真実を追い出そうとする人々。

神々は皆見ているというのに。

楽を求める人々……過大な自尊心は降ろそうともせずに。

楽を求める人々……見栄はりな憑依霊を追い出そうともせずに。

楽を求める人々……苦難の道を選びながら。

楽を求める人々……それで本当に幸せなのか?


「苦境」、質問に答えて。

2007年03月26日

苦境」に関する、質問に答えて。……メール及び、掲示板にて、ご意見・質問等ありました事へ、私の感じたことを下記、記します。


仏教では善因善果といい、キリスト教でも、種を播かねば芽が出ない等といい、因果律を知ることの大切さを説いております。しかし、現代人の多くは、その因果律が間違いとはいえないまでも、往々正しくないことについて、いろいろと複雑な感情を抱いております。

うまく行かぬなら、なぜ疑わないのか? なぜ考えないのか? なぜ尋ねないのか?

多くの人は、聖なる教えを、ただ知って行いません。それではどんな智慧も役には立ちません。基本的なところでつまづいているのに次の教えに進んでは、多くを知って行わず、更に多くを知ってなお行わぬことになります。

行わないから理解せず、理解できないから学んで行わず……このような悪循環に陥ることが、人生を無駄にするということです(穀潰し)……今、他から穀潰し、との声が聞えましたが、生活の糧を犠牲にしているのに価値ある行いを怠るなら、それは大いなる簒奪というべきです。

(注;簒奪とは君主の位を奪うこと、つまり、人としての義務を果さず、人としての権利だけを行使する。という意で用いている。)

・・・・・・・

さて、因果律が巧く働かない、その事についていうなら、まず人が最も困惑をするのが対人関係においてのことです。相手もまた因果律に従うのですから、あなた一人が努力したところで事態が緩和するとは限りません。相手は因果律に逆らうかもしれず、また、あなたが善かれと思うことに相手が同意するとは限らず、相手が忙しければあなたの親切を迷惑に感じるかもしれません。ましてや、相手も人なれば、時には苦痛や悲しみといった情念に囚われて、理知的な行動を取れるとは限りません。

原則は至って簡単ながら、行うのは決して楽ではない。でも、原則を無視しては解決の目処も立たない。そういうことなのです。

(物理学を知っても飛行機が作れるわけではないが、物理学を知らずして飛行機は作れない)

知ることは第一歩であって、最後ではないのです。

・・・・・・・

苦労の意義についてですが、これは意見の分れるところです。受取り方だけの問題ではなく、それぞれの覚悟によっても見方が大きく変ります。

人がなぜ苦しむのか、といえば、人々(複数形であることに注意)が未熟だからです。適切に行っていれば、少々の逸脱はお互いの協力の下、適正な方向にたちまち修正されるでしょう。ところが、現実の人の世は、少々の逸脱が多くの反感を受けて追出しの対象になりかねません。……誰もが神の手の上におりながら、その乗客たる人々が勝手に互いを追出しあっているのですから、その様は一見地獄絵図のようなものです。争うことを止めればまだまだ大勢乗れるのに、争い、競うから窮屈に感じて、ただ居るだけでも内心に苦しみが生じるのです。

しかし、「苦」は達成を得たときに総て悦びに変りうるものです。……本当に問題なのは、互いに苦しめ合う世の中に生きていることよりも、苦しみの中に意義を見いだしかねることかも知れません。意義を見いだし、その意義を満たすことで、苦を解消する達成を得られるのですから。

その意味において、苦の在り方に意義を見いだすのは大切なことです。

また、人より不幸が多いというのは、二つの問題が見て取れます。他よりもチャンスが多いと同時に、チャンスを生かすのが巧くない……困難をすり抜けても結局スリ傷だらけ、これでは痛くてたまらない……なるほどそう感じるのも無理はありません。

その理由には様々ありましょうが、質問者に見られるのは、愛情不足です。神の愛を願っているから、それぞれの困難にあっても、自力よりもまず、誰かの救いを期待している。いよいよと成らなければ(自力での)努力をしないから、出遅れて避けきれずにいるのです。

しかし、神の愛は別なところにあります。あなたが避けきれぬ問題にあわなくても良いように……それこそが神々のはかりごとなのです。

苦は無駄ではない。……それは確かです。質問者の方はしっかりとそれを受け止めていらっしゃいます。ですが、努力の対象と、苦痛とは分けてお考えになる方が、より、真実に近づくことでありましょう。

神は試練を与えはしますが、ただの苦を与えるとは考えられません。

より努力する人は多くの試練を得ますが、多くの苦を与えられるわけではありません。

あなたは、苦ばかりを気になさっていらっしゃいますが、一方では多くのものを獲得なさっているはず。そのバランスを考えずに、御自分の不都合の多さに事実を歪めてはいらっしゃいませんか?


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