‘顕幽問答(1)


問 「霊媒・行者の中には、火を通した食品を食べない者がある。湯さえも嫌うらしいが、霊界が霊媒にこのような事を強いて、いかなる意味があるのだろうか?」

――専門の者(霊)に説明さす、といわれて眼前に現れたのは、白き髯をはやした、見るからに……それらしい霊である。

答 「物質には記憶する力がある。サイコメトリー等という能力は、本来誰にでもあるが、殊に霊媒には強くあり、煮炊きといった刺激を与えた食品は、霊感に与える刺激も多い。そもそも、霊感を磨くに当たっては丁寧さが必要で、霊感に刺激を与えにくい食材を選ぶのは、レンズを磨くのに肌理《きめ》の細かい研磨剤を必要とするのに似ている。

 むろん肉食、とくに四つ足の肉を食すことを忌むのは、複雑な動物ほど死に際して痛みを強く感じ、その身に記憶しているからである。これは野菜などにもあてはまる。丁寧な育てられた野菜や穀物と、機械で収穫したような乱暴な扱いをされた野菜・穀物では霊感に対する刺激は違う。多少の刺激が有ろうが霊感を磨くことは出来るが、荒い研磨剤で磨いたレンズのように、傷だらけで少々見えにくくなるだろう。」


問 「(愚問な気もするが)では、私なども火食を忌めば、霊感が高まるだろうか?」

答 「汝ならばすでに知りたるように、霊媒・霊能の力は、人そのものの力にあらずして、霊界・霊達の援助に負う部分も大きい。飛び上がったからといって引き上げる者がなければ天まで届かぬのだ。そう支配霊から指示されない限り、絶食しようが、瀧に打たれようが、とくに霊感が高まることはない。もっとも、汝らが滝行を楽しむのは結構であるし、食べ過ぎて身体を壊しがちな現代人が、適度に絶食をするのはかえって身体に良い。身体が良くなれば、自ずと心の働きも良くなり、霊感がよく働くとは言える。しかし、一般の人、特にストレスに晒されている人々が火食を断っても健康を維持するのはなかなかに難しい。かえって胃腸を痛めるのが普通と思うべきだ」

問 「すべての人には霊感があるといわれるが、霊界の手助けがなければ霊感が向上しないのであれば、精神統一の修業などは無駄ではないか?(これまた愚問な気もするが)」

答 「自分のための霊感を受けるのと、他人のためにまで霊感を受けるのとではその責任が違う。誰もが自分のためのインスピレーションを自ら受け取るべきは言うまでもない。そして、その手助け役の人材育成のために、霊達は霊媒を養成するのである。長南敏恵のような霊媒は、人々に待望されもするだろうが、そのような大袈裟な霊媒は、かえって人々が修業をおろそかにしてしまう。あれは特殊な事例である。」

問 「では、人々が霊感を高めるために心がけるべきは何だろうか?」

答 「他でも話したる通り、人がその精神性の発揮に一番困難を感じるのは、悪霊低級霊のたぐいではなく、むしろ自分の心に救う欲望や迷いである。それを知りたる者は、欲望や迷いを棄てようとしてまた別の業を生み出しもする。迷いに負けぬ強い霊感を求めるのはそれがそのまま迷いそのものであって、本来は、自分の迷いや欲望を、相手にせぬ霊感で充分なのだ。迷っても良いが、祈る時はただひたすら祈ることだ。その切り替えを大切にすればよい」

答 「ではこちらからも言おう。まず、霊感が欲しいと思うならば、漠然と思うのではなく、心中で語りかける相手を見つけることである。それを、答えが得られるまで続けるのではなく、ある程度問うて、答えがなければ別な相手を選ぶようにするがよい。もっとも、大抵の人々は、質問する際に、自分の思う以外の答えを拒絶する覚悟を持つものだ。これでは答えをもらっても気がつくのは難しい。実を言えば、霊感が得られぬ人の大部分は、先入主であるのだ。」


問 「霊能と霊格・人格は別だといいますし、霊感の持ち主が素直であるとは限りませんが」

答 「霊感、ことに、霊能力は、感情的な素直さとはさして関係がない。意念の純粋さが大切なのである。邪な者であっても、心根に一点ぐらいは利用価値があるものだし、そもそも、霊感の強い者は一様に単純さを持ち合わせている。
 扱いにくいのは、心に裏表やら、隠しポケットやらをたくさん持っている複雑な人物である。」

問 「心が複雑な人は救いにくい、扱いにくいと言うことですか?」

答 「上達の遅い早いの違いはあっても、教える内容に違いはない。手間が掛っても難易度が変わるわけではない。この事は汝(霊媒をさし)特に注意せよ、扱いの難しい相談者というのはいないのだ、いると思うのは勘違いである。
 心の複雑な人間は、自分の思いこみの外へ出ては来ない。従って、こういう者を救うことも教えることも出来はしない、ただ、言葉の応酬で時間を潰すだけのことである。心のひだの奥底に潜んで、自らの妄想を弄び、他人の言葉を妄想の種にするだけで自分の心の糧には出来ずにいる……それでは指導の方法などあるはずもない。そういう相手は、指導せず、さりとて無視せずの、時間の無駄で応じるより無いのである。」


問 「脱線かも知れませんが、霊界通信や霊界訪問記などで、異教徒の末路について悲惨な報告が多くあります。事実でしょうか? それとも霊媒の思いこみでしょうか?」

答 「単に説明不足なだけである。学校の授業にたとえると、国語の授業中に英語の勉強をしたり、数学の時間に国語の勉強をしていたりすれば、その生徒がどんなに熱心に勉強していようが、担当の教師から叱られるであろう。まして、その内容を深く知ることもなく、新しいものに飛びついて有り難がっているようではその心根はやはりさもしい。神道には神道に学ぶ所有り、仏教にも仏教の叡智有り、キリスト教にも素晴らしき奉仕の念がある。だが、どれか一つだけを学んで充分という智慧は、未だ地上には現れてはいない。
 まして残念は、言葉ではドグマに囚われることの悲劇を理解しつつも、寛容さを会得しないが為に、大きなドグマを棄てて、小さなドグマに囚われることも多い。おいおい解消していかねばならぬ事である」

問 「そのたとえ通りであれば、英語を勉強すると地獄行き、とか、国語を勉強すると地獄行き、といった、結局はデタラメな心霊知識が増えていることになりませんか?」

答 「人間の理解力には限度があり、心霊事実はその限度を超えている。従って、これで充分という心霊知識は皆無と言って良い。大切なのは、先覚者の言葉を丸飲みに信じることではなく、それを手掛かりに真実に至る理解力である。どのみち、地上で学んだことは死後に改めてその価値を洗い出し、間違いを正した上で次に進むのである。間違いを学ぶことを嫌うよりも何も学ばずにいることの方が過ちとしては大きい。」

問 「デタラメを教えても構わないと?」

答 「場合によっては地上の法に触れるであろう? 従って歯止めはある。また、地上の試練を他人の答え丸写しで自分の答えにするのは、試験でいう所のカンニング。カンニングして落第したからといって、『悪いのは答えを見せてくれた奴で、私じゃない』等という言い訳は通らない。通らないどころか、カンニングの罪の方が重いのだ」

問 「カンニング幇助で善人ぶる偽善者も多いと……」

答 「答えのなんたるかを知らぬ者にはそもそも受験資格すらない。ただの見学者に過ぎない。見学者に気を取られて試験を落としては成らぬぞ。ライバルは別にいる目の付け所を間違うなかれ」

問 「共同研究は許されぬと……」

答 「比喩の矛盾で揚げ足を取っては成らぬ。」

問 「最後に精神統一のコツなどがありましたら教えて下さい」

答 「最初から最後まで受け身であっては意味がない。語りかけ、ひたすら聞き、そしてまた問うて、また聞く。その繰り返しが大切だ。また、濃淡・強弱でメリハリをつける方が、疲れも少ない。なにより退屈が人の心を疲れさすからな」

問 「ありがとうございました。また質問が生じたらお答え願いますか?」

答 「いつでも……というわけには行かぬが、週に一度ぐらいならば時間は割けよう。では……」


2004-01-05

 

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