ご予定は?
教科書があるわけでなし、社会的にきちんと認知されているわけでもないので、ある意味当然のことで、曖昧であるが故に、「心霊研究」の対象として、しっかり定義を行い、その広報に務めるべきなのに・・・未だ至らず・・・放置しながら、人の揚げ足を取る用にして、ちまちま説明するのも面映いが・・・
人は論理を組み立てるのに記号を用いる。数式や図形や言葉・・・では、その記号が間違っていたら?
間違っていなくても、不足があれば、どうか? 例えば日常の買い物だけなら、四則計算だけで事足りるだろう。でも、現代社会生活を送る上で四則計算だけで足りるか?
・・・・・・・・
ある人のこと、「相手の運命がわかる」という。ただ、「心情や欲情でその運命は変わる」のだという。
相手に質問することなく、いろいろ判るのであれば、「相手の運命がわかる」という表現もまあ、それなりに実用的な解釈であろうと思う。ただ、心情や欲情で変わるようなものなら、生かせるのは会話中位ではないか?
さらにいえば、「運命」という言葉の意味を誤解していよう。運命は、本来、天命が動くことを表す。例えば、学校に通うつもりが、家の都合でいけなくなってしまうような場合である。
反対に、行くつもりがなくても、周囲から強いられて断りきれず、学校に行くことになったなら、それは宿命と表現する。
動くか、宿る(とまる)か・・・・動詞に着目すると正反対の言葉を、世間では混同している。
私がこの言葉を、明確に区別するのは、つまり、
- 動いているなら・・・執着しない。
- 決まっているなら・・・ジタバタしない。
未来を受け入れるのに、心がけを決めなければならないと思うからだ。
また、上記事例では、学校に行くか行かないか、という個人的な問題が、当人の意志に反して決まることを命・天命としている。反対に、心情・欲情で変わるものであれば、それはつまり、その人の「思惑・予定」と呼ぶべきであろう。・・・まあ、運命が分かるといえば神秘的だが、予定が分かるというなら、占い以下のくじ引きレベルの話になってしまうだろうが。
相手の予定をピタリと当てるのは、それはそれで関心のある人にとって興味深くあるだろう。
ただ、私は自分の事として思うなら、「思惑や予定のことは抛っておいてもらいた。」と思う。むしろ重大な関心事は、この先(未来)にある避けがたいこと、と、進んで行うべきことを、少しでも早く、また、見落とすことなく知ることが出来るように、ということだ。
つまり、私は運命を知りたいし、宿命も知りたい。そのためには、運命と宿命を見分けることも大切にしている。
そして、私が誰かに助言するとき、「避けがたい」か、「避けられる」か、「どうでも良いか」を区別して説明している。つまり私が未来をいう時、宿命と運命と相手の予定を私の出来る範囲で判定しようとしている。
それは往々、相談者の関心よりも更に深く掘り下げることを意味するが・・・労力は受益者こそが払うべきであろう? すなわち、未来に関心を持ちながらも、未来への道筋に感心を払わぬ人には、どうにも同情心が失せて、相手の未来が見えなくなってしまう。
または・・・
嫌な事でも、為さねばならぬ時がある。と、知っているか、どうか、の違いであるか?
それを知らずに済んでいるなら人なら、どうか私の拙い文章を読んで、「老神は無知を嘲る奴」と思うより、嫌な事をさんざん、無理強いされつつ生きている哀れな奴と憐れみ、ご自身の無事を祝ってもらいたい。
私は本当に音を上げつつあるのだから。
2012/02/02 at 00:26
[...] 関連ページ: ご予定は? [...]