戦乱の時の心構え
この通信者を仮に、「小嬰(腰が低くてとても背が低く見えたことから)」と呼びます。
私がここで申し上げたいのは、世に戦乱ある時の、心構えであります。
戦争は確かに痛ましく、憎しみは確かに厭うべきものです。しかし、憎みあう者同志も人間であり、殺し、殺される者もまた人間なのです。殺す者のみを憎み、殺される者を愛するというのは、大きな偏見であります。大きな偏りであります。もしもあなたが、その争いの最中に割って入ろうとするのであれば、くれぐれも冷静さを失わぬことです。そして、冷静さを失わぬためには、まず理《ことわり》を見失わず、礼節を正して語るべきです。
くれぐれも、争いの道が愚かであるとか、暴挙であるなどと言つてはなりません。それは仲裁者の態度ではなく、一方の加担者であるということです。
勝敗は必ずしも善悪を現しません。弱者は必ずしも善ではありません。堂々と宣戦を布告するのが悪であるなら、宣戦を布告せず、兵を動かさずに殺し合えば卑怯でもあります。
かの地、イラクは、喧々と争いが絶えず、殺し合いが絶えずにありました。その地に平和をもたらすのに、果たして戦争が必要であるのかといえば、わたくしもまた、反対ではあります。
しかし、人々が愛し合い、分かり合おうとしなければ、銃弾が飛び交う事が無くても、それだけでは平和と呼べません。子供達を銃弾が貫くのも心痛む光景ですが、殺伐とした雰囲気が子供達を毒していくのもまた百年近くも続く心の汚染なのです。
ただ祈れとは申しません。あなたが本当に平和を愛する人ならば、一方に荷担することなく、冷静で平等な仲裁者の立場を大切になさってください。一市民に過ぎぬあなたが、国家間の戦争の仲裁者足らんという態度をとるのは、笑止に思えるかもしれませんが、戦争に反対しながら隣人との諍いを止めぬような事こそが、真に笑止なことです。
まず、隣人を大切になさる事です。時間がかかろうが、隣人との調和をひろげてこそ、真の平和に世が包まれるのですから。
皆様は、人生を考えるのに、生死を超越した心霊の立場より考えるとの事。そうでありますならば、正義や善悪を超越して、相手が人間である事も、どうぞお考えくださいませ。争いで平和は勝ち得ませんが、差別や憎しみからも平和は生じません。
どうぞあなたの御心が平和に包まれます事を。そして、どうぞ皆様が仲良く暮らせます事を。
(2003年4月4日)