夢幻の人生・審美眼
2006年08月01日
真実を知らずに悪を示せようか。美を知らずに醜を示せようか。
利害の合わぬものを「悪」と呼び、嫌いなものを「醜」と呼ぶ。……人の数だけ価値観があるのだ、個人的主観で、悪だ、醜だ、というのは、他の迷惑であれ、個人の勝手かもしれない。
だが、人の数だけ価値観があり、表現方法がある。真実を知らぬものが何を悪と呼ぶのか? 美を知らぬものが何を醜と呼ぶのか? その動機に個人の嗜好があっても、その表現には本物だけが持つ美しさが伴わない。さらに言えば、利己主義的な醜さがある。
好き嫌いは個人の自由だが、果たしてそのセンスはどうか? センスの悪い者は何を選ぶのだろう? 少なくとも普遍的な真実や美から遠いだろうことは容易に想像がつく。
論理は不変だが、好き嫌いは気分や体調で変わる。また年齢とともに好みも変わる。
好き嫌いを動機の第一とする人は、日々、大切なものを失っていく。……気分や体調から、生活習慣から、また加齢とともに……老いとともに移ろい行く愛。そのどこが不思議なのだろう? 論理は不変だが情念は移ろうのである。
真実を知らずに悪を誹り、美を知らずに醜を誹る……その身勝手さが翻弄するのは他だけでない。自分もまた、自分の身勝手さに翻弄されるのである。
勝手気ままに生きるのが本当に幸せか? 真実を、真の美をおろそかにして、流行を追い、見かけを金と時間を費やし、好き嫌いを大切にしたその結果が……本当に幸せであるのか?
・・・・・・・
人生を夢幻とするのは、自身の好みを優先させる身勝手さなのだ。……そして死後も夢幻界で長く時を過ごすのだろう。
……日々本物を失い、日々増える偽物で心を満たす暮らしを。
2011/09/21 at 22:48
[...] ちょうどこの時、トップページに「審美眼」を投稿した直後だった。つまり、人の数だけ真実(?)はある。だが、事実と信じるものとが異なるなら、人はその場から去らざるを得ない [...]