己が慢心を恐れる。
もう一ヶ月以上も前のメールが話題である。もっとも、一ヶ月ならまだ早いほうか。
「慢心をして人の道にはずれたことをしないように、また、道を踏み誤らないように」と思い、オフ会に参加した、という人のメールを読みながら、真面目な参加者にありがたくもあり、また、なにやら引っかかるものを感じてはいたが、急ぎ連絡事項のみ返事して、そのままになっていた。
まあ、「慢心」というキーワードでは色々書く事もあるのだが、本件は、この方の事例に限る。(限れ、と言われた。・・・それもネチネチと。)
まず、なぜ私が「慢心をしない」というキーワードに引っかかったのか、といえば、
- 慢心に自ら気づくことができるか?
- 他者から「慢心」と指摘されて納得することが出来るか?
- 順番を間違っていないか?
そもそも、(自らの)心の異常を、(自らの)心が察知するのは難しいのです。・・・物の長さを測るなら、ものさしを使いますが、そのものさしが伸びていないかどうか、他にものさしがなければどう測るか・・・
また、他者から指摘される「慢心」が、果たして考慮に価するか。人は往々、有能な他者、論理的に勝てない相手に対して、「相手の慢心」を攻撃します。こういう感情論はそもそも相手にする価値もありませんが、それは同時に、他者から指摘される「慢心」という注意に耳を貸さなくなる、貸す意味があまり無い、貸せばますます混乱する。という、不都合な助言でありましょう。
その一方で、その時々に行いの結果を反省してみれば、そこに「自分の慢心があった」、と思われることも多々あるわけで、では、慢心をどう扱うか、と考えると、答えが出ない。そもそも設問が間違っていないか、と思うわけです。
心の異常を心が察知することが出来ない。・・・でも、人が恐れるべきは慢心だけか?
慢心は、人が注意すべき、不適切な心のあり方の一面でしかない。なのに、慢心を恐れるのは・・・
- 実際に自分が慢心で失敗しやすい。
- 誰かに言われて真に受けた。
- 占いとか・・・
もちろん、一般論として言うなら、人の数だけ原因はあるはずで、これが答え、と、私は論じることはしません。ただ、追いかけるものがあるなら、なにゆえ追いかけるか、その理由を心の隅に置いておくべきだ、とは思います。さもないと、やっているうちに目的が摩り替わったりするからです。
もしくは・・・慢心を恐れる心もまた、何かから摩り替わったものかもしれません。
たとえば、子供時分に親から「生意気!」と叱られ続けて、あげく、学校で受けた指導中に「慢心は厳禁です」と言われた二つが結びついてしまい・・・
そう、いかなる理由から、何を追いかけるのか?
慢心は心の一部であり、人道を外れるのは行いの一部でしかない。・・・
(まあ、そこまでメールに書かれていた訳でも、霊査として読み取ったわけでもないが)
恐れれば、行うことを止める事になる。慢心を恐れれば考えることを止めるのか・・・もしくは、慢心なくしてどうして危地を乗り切るか・・・さて、心にあるのは果たして欠点か、それとも、使いどころを待っている強力な道具か、どうか?
果たして恐れているのか、それとも、自分の可能性を殺しているのか。
結構、人は己を殺している。・・・そうやって人は己のブレーキかけながら、一方では思いっきりアクセルを踏み込んで、無理やり高速で走っているかのようだ。軋むブレーキに苦しみながら。 スピードに恐れるより壊れそうなブレーキに怯えている。
まあ私は、アクセルよりもブレーキの方が強力な性格らしく・・・あまり良い助言は出来なかったかもしれない。