不完全であるが故に。 (補足あり)
私たちは、不完全な世界に、不完全な存在として生を受けた。
さて、この世界における、私たちの役割は何であろうか。
成長するため、という人もあれば、育てるため、という人もある。己の未熟から目をそらして、ただひたすらに他者と世界の粗を探す人もいる。もしくは、不完全ならば、不完全なりに楽しむ人もいるし、単に満足している人もいる。・・・もしくは、変化を恐れぬ人と、変化を恐れる人と二分すべきか。
未完成なものに在る自由と、完成されたものにある不自由。 人が自由意志をもつというなら、選ぶべきはどちらであろうか。
その選択にあるのは、正誤でなくして成果である。つまりは自分をより生かすための選択である。
にも関わらず、不毛な選択をする人ほど、より大きな成果を求めるのは、苦労が生み出す満足を知らぬからだ。
そう、不完全な世界であるからこそ、私たちが必要とされているのである。たとえ不完全であっても。いや不完全であるが故に。
そして、この世界にあって、完成している人が何を必要とするのだろうか? 他者への非難のその他に。 歩むのをやめて罵るばかりの人々。 でも、道ははるか先まで続いている。
私たちは不完全であり、努力を強いられる。が、努力の喜びを知るからこそ、己が不完全であることを受け入れることが出来るのだ。それは往々、苦痛ではあっても幸せなことであろう。少なくとも、自尊心の牢獄に閉じ込められて前に進めない者よりも。他者を嬲らなくても生きられるのだから。
補足: 2010年4月19日
不完全であるから利益を得る者あり、反対に、利を失い、難を得る者あり。
難を克服するのに、静かに淡々と前進する者あり、他を傷つけ、己を傷つけて進む者あり、それでもなお進まぬ者あり、ひたすらに拗らせる者あり。
とはいえ、克服する者と、拗らせる者との間には、賢愚の差があるというよりも、むしろ体質・体癖の差があって、つまり、目的に対して必要な手段をじっくり見定めるか、それとも、好むものにすぐ飛びつくか、という程度の安易な差で、大方決まってしまうようだが。・・・それを、体質だから仕方が無いと諦めるか、克服しようと努力するのか?
つまるところ、
不完全であるから利を失い、難を得る者あり、反対に、不完全であるから利益を得る者あり。
難を克服するのに、すぐ諦める者あり、たゆまず努力する者あり。
それは別に、善悪の差ではなくて、可否、つまり自分はどのような結果を求めるのか、ということだが・・・その至る結果の真価を知らぬ者がすぐ諦める。
2010/04/17 at 23:36
こんばんは
>>変化を恐れぬ人と、変化を恐れる人
私は以前まで、強い心とは何事にも怯まない不動心のようなものを想像していましたが、本当に強い心とはどんな変化にも対応できる柔軟な心ではないかと考えるようになりました。
誰しも不完全であることは望みませんが、自分が不完全であると認められる人と不完全であることを認められない人(もしくは完全でありたいという希求に駆られる人)、その違いはとても大きいです。
聖徳太子は「われ必ずしも聖に非ず、かれ必ずしも愚に非ず。共に是れ凡夫のみ」と17条の憲法でおっしゃられていますが、お互いがお互いの不完全さを認め合えたなら、世界はもっと良くなるのではないでしょうか。
2010/04/18 at 23:13
>>変化を恐れぬ人と、変化を恐れる人
> 本当に強い心とはどんな変化にも対応できる柔軟な心ではないかと考えるようになりました。
強さ、というのは相対的なものですし、相性の問題もあります。 それこそ、ガマとヘビとナメクジの三すくみ・・・
かつてあなたが思った、「つよさ」とは、あなたのあこがれであり、あなたに不足しているものであって、人がかくあるべきか、というのは、ケース・バイ・ケース・・・それこそがつまり柔軟さです。常に「柔よく剛を制す」とは限りません。
とはいえ・・・
> 誰しも不完全であることは望みませんが、
不完全な自分を受け入れることは、完全な自分を信じるよりも難しいのです。
多くの人が、完全を信じて己を誤り、逆に、不完全な自分を受け入れないまま、不完全な自分を信じて、結果として自分の可能性を失している人も少なくありません。
>(もしくは完全でありたいという希求に駆られる人)、その違いはとても大きいです。
まあ、それこそ、その境涯には、天国(極楽)と地獄の差があることは知る人ぞ知ることです。
2010/04/18 at 23:47
時間の都合で二段コメント。
私の想像力の限界から、うまく表現出来ていなかったかもしれません。もしくは、あえて分かりにくくしてぎろんをさそったのかも・・・協力・協調には、己の不完全さを知ることが必要であって、己の完璧さを信じている人になら使役されるだけですし、己の不完全さを信じている人になら、頼られて利用されるだけになりがちです。
> 聖徳太子は「われ必ずしも聖に非ず、かれ必ずしも愚に非ず。共に是れ凡夫のみ」と17条の憲法でおっしゃられていますが、お互いがお互いの不完全さを認め合えたなら、世界はもっと良くなるのではないでしょうか。
へえ。では聖に非ぬ凡夫の作った憲法は尊ぶに価するのか?・・・いえ、愚に非ぬ凡夫の作った憲法にも敬意が必要なはず。
さて、上水さんの意見は全くそのとおりだと思いますが、では、なぜ、人々は認め合えないのでしょう?
実に、私がネット上の交際で学んだことですが、相手の不完全さを認めることで寛容になれるよりもむしろ、人の不完全さを見つけたら付け込もうとする人が多く、特に自前のHPを作っているような、意見というか、我の強い人にそういう傾向があるのです。
一体、人々は何を為そうとしているのでしょうね。
2010/04/21 at 23:27
こばんは。
>かつてあなたが思った、「つよさ」とは、あなたのあこがれであり、あなたに不足しているも>のであって、人がかくあるべきか、というのは、ケース・バイ・ケース・・・それこそがつま>り柔軟さです。常に「柔よく剛を制す」とは限りません。
おっしゃるとおりで、柔軟に生きることに固執すれば、既に柔軟な心でなくなってしまっている。以前ご相談した自然に生きるということにも関わってくるような気がします。自然に生きよとすればするほど不自然になってしまう。まあ、私の場合は頭で考えすぎるので、伸びをして深呼吸ですかね。
>さて、上水さんの意見は全くそのとおりだと思いますが、では、なぜ、人々は認め合えないの>でしょう?
私にはなんとも答えようがありませんが、老神さんがよくおっしゃる「人を変えるよりも自分を変えるほうがよほど簡単だ」という言葉の通り、少なくとも自分はそうでないように、目の前の一歩一歩を大切に歩むしかないのではないでしょうか。こっちが相手のことを考えて色々手を尽くしても、相手にその気が無ければどうにもならないというのは最近痛切に感じるところです。
まあ、お互い凡夫だと思えば、腹が立つことも無いでしょうね。
2010/04/25 at 23:38
中庸の先にあるものに手を伸ばすなら、まず中庸に手を伸ばさなければなりません。
頭が無駄に働くのは、答えが得られないからです。……なぜ得られないか、といえば、自分がなすべきこと(特殊解)を考える前に、答え(一般解)を求めてしまうからです。
順番を誤れば、無駄が生じ、不足が生じます。それらは波及して、人は手詰まりに陥ります。
人生の終盤は、手詰まりから来る、諦め・開き直り、または、不毛な希望との間で心を迷わせる事で、過ごす人が多く、あなたの迷いも、そのような人々を見てきた上でのことです。
実は、焦りがあるから、無駄が増えているのです。……多くの人と同様に。
今生で終えられなければ、多大な時間が掛かってもなお、来世に果たす覚悟で生きれば、失敗のように見えても無駄は少ないのに、何が何でも今生で終わらせようとする人は、結局、来世につなげる資産も作れずに、最初からやり直すためだけに死の時を迎えます。
・・・ああ脱線
。 ……いや実は今年に入って思う(伝えられる、共有する)のですが、オフ会では死の準備(自殺ではなく、いつ行ってもいいような準備)を重点にしようかと、考え中。 つまり
どうせあなたは今生では間に合わないのですから、引継ぎの準備をしておきなさい、と
2010/04/29 at 23:42
こんばんは。
>実は、焦りがあるから、無駄が増えているのです。……多くの人と同様に。
焦り・・、私の短い人生でも少なからず学べたことがあったと同様に、今後の人生においても学べることは多くあるのでしょうね(今生より先においても)。それは、少しずつ、信じていいと思えるようになっています。また、そう思えることはとても幸福なことなのだと感じます。
こんな話を思い出しました。
ある禅僧が、弟子に「九十九曲がりの山道を、真っ直ぐ登るにはどうしたらいいのか?」と尋ねました。弟子が「わかりません」と答えると、「曲がりつつ、真っ直ぐ行くんだ」とおさとしになったそうです。
>・・・ああ脱線 。 ……いや実は今年に入って思う(伝えられる、共有する)のですが、オ>フ会では死の準備(自殺ではなく、いつ行ってもいいような準備)を重点にしようかと、考え>中。つまり どうせあなたは今生では間に合わないのですから、引継ぎの準備をしておきな>さい、と
老神さんらしい辛口のコメント
とりあえず、引き継いだ先に文句を言われないよう、荷物は少なくしておきたいものですが・・
2010/05/01 at 02:24
上水さん。
> こんな話を思い出しました。
> ある禅僧が、弟子に「九十九曲がりの山道を、真っ直ぐ登るにはどうしたらいいのか?」
>と尋ねました。弟子が「わかりません」と答えると、「曲がりつつ、真っ直ぐ行くんだ」と
>おさとしになったそうです。
私も禅語は好きですが・・・これには

私も某大山の九十九折の山道を登るときには、道の曲がりの有無などは、ただの道標、つまり、どの程度前に進んだか、という目安であって、どちらに向いているか、などというのは意中に有りません。というか、それさえも忘れてただ、ひたすら体力の限界を忘れて歩いている、というのが近いかもしれません。
それを思うと、この禅語、「机上の空論」を戒めているようにも思えます。
もしくは、その経験を知る者に、必要な説明力を促しているかのような・・・ところで、私は実体験を基礎に、この問題を読んで思うのですが、解答も確かに難しいものですが、それ以上に難しいと思えるのが、設問の作成です。
上水さんは、解答者であろうとしてはいませんか。
でも、あなたの目標は設問者ですよね。
2010/05/01 at 23:06
こんばんは。
>上水さんは、解答者であろうとしてはいませんか。
>でも、あなたの目標は設問者ですよね。
私の考え方は受身であったかもしれません。
答えを待つばかりでなく、道を求める情熱が無ければ、人を導くことは出来ないのでしょうね。
ありがとうございました。