特別なのは死ではなく生
2006年 02月 22日
感官の牢獄……特別なのは死ではなく生
それまでは霊を恐ろしいものと感じていたご婦人が、ご主人の死後、死後の個性存続を信じるようになり、霊への恐怖が無くなった、という。
ご主人がお亡くなりになったことについて、お悔やみを申し上げるなら、床に溢れるほど涙がこぼれるのではないか、と思えるほど、受取ったメールは水色に感じられた。
悲痛、というのではない。ただ、悲しみを感じるのだ。今後の生活について不安もあろうが、ただ、私の感じたままを言うなら、光明は差している。慎ましい方のようだから、さほどの不自由はなさそうというのが一つの慰めであろうか。もっとも、当人の気休めになるかどうかは分らない。
ただ、床に入る前に書き残しておきたいことがある。
感官の牢獄
マイヤースの霊界通信「永遠の大道」中に「感官の牢獄」なる言葉がある。
つまり人は、牢獄に閉じこめられ、五感というわずかな隙間から世界を眺めている様なものだというのだ。……この言葉は非常に滑稽である。なぜなら、大抵の人々は、五感に感じられるもののみを真実と信じて、それ以外を妄想と信じようとしているのだから。つまり、己が牢獄に閉じこめられていることを大抵の人々は信じようとしないのである。
だが、ある日突然、大切な人、失いたくない人が居なくなってしまった。果たしてそれは、外に連れ出されてしまったのか、それとも単に消え去ってしまったのか……強く愛するものを失った人ほど、外の存在、つまり「死後の世界」の存在を強く信じようとする。そう信じる人を慰める人は、たとえ自分が信じていなくても、強いて否定しようとはしないだろう。その優しい嘘の中で人は往々迷信に陥る。死後の世界にいる人をいかに助ければよいのだろうか、と。
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人の五感が感じられるだけが世界のすべてであるなら、私たちはその範囲内で自由であろう。だが、もしも「外」、つまり地上の生の他にも生活があるなら、私たちが自由と信じるそれは、一体どれだけ自由であるのだろうか? いや、露骨に云うなら、私たちは本当に自由であるのだろうか?
もしも死後の個性存続が事実であるなら、霊魂成るものは死して突然生じるはずもない。つまり人は永遠に霊魂であり、時たま、肉体を持つに過ぎない。ならば霊魂の本質とは、死後であって、肉体を持っている時ではない。
すると、死は特別なことではない。特別なのは生きることだ。生きることが特別であるから、共に生きられない死別が、悲しいのは避けがたい事実であるし、同情に値する現実でもある。
だが、死者を心配するよりも、先ず、生の本質、生の持つ重大さ、生の孕む沢山の危険性を知らぬまま、生きている自分を心配することが必要では無かろうか。
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整理する――死を明らかにしなくとも、又何ら準備しなくとも人はいずれ死に至る。だが、生は様々な手間暇を掛けなければ容易に失われるのである。死を研究することは、つまり生の意義を明らかにするのでなければ意味がないと思う。少なくとも生きている間は。
繰り返すが、特別なのは死ではなく、生である。同情すべきは死者ではなく生者なのである。だが、退廃的な人というのは確かに存在する。つまり、大変なのは生きることであるのに、それでもなお、死者が生者に助けを求める事もあるだろう。だが、それは往々、道理に合わぬのだ。少なくとも公平ではないし、公平でないことを強いる者に正義はないのである。
生死を超えた協力関係までも否定するものではないが、己の責務を知らずに放棄して、他者に尽すのもナンセンスである。まあ、そんなことは本来どうでも良い。
私が大切に思うのは、人は死して突然に霊魂になるのではなく、生きている今も霊魂のままであるということだ。―― 愛する人をどれほど大切に思ってみても、それはしょせん、五感というわずかな隙間から得た価値観に過ぎない(のかも)知れないのだ。自分を閉じこめたままにしてはいけない。少なくとも、霊魂の存在を信じる人は。更にいえば、大切な人を持っている人は、なおのこと、五感を超えた絆を育てるべきである。