何を通信するかが大切なのだ。
2006年 01月 30日
良い電話機を持っている人が、友人に恵まれているとは限らない。……するとせっかくのその電話機は、あまり意義のある会話には用いられぬことだろう。だが良い友人に恵まれた人の電話なら、たとえボロくて雑音だらけで聞き取りにくくても有意義な会話に用いられるに違いない。
大切なのは手段ではなく、目的だ。つまり、霊感が大切なのではなく、何を通信するかが大切なのだ。
時折、他者の霊媒能力に批判的な意見を目にする。批判するその人の霊媒能力は果たしていかほどのものだろうか? 心霊知識の持ち主は、大多数がいう「誰もが霊媒能力を持っているが、ただ、生かせていないのだ」……と。無論、心霊詐欺師までこの弁法で庇おうとは思わない。だが、詐欺師というのはエセ霊媒のみがするものなのか? いや、エセ霊媒以外の詐欺師もいるのである。つまりは人の問題なのだ。それゆえ「霊媒だから○○だ」と決めつけるのは、その論者の心底に妬みがある等とほじくり返すまでもない。表面明らかに差別的であり、才能ハラスメントでしかない。
宗教や心霊に関心を持つ人ほど、どうも人権について無思慮な人が多く見られると思うのは私だけであろうか? だがそういう人権に無思慮な……つまり独り善がりな意見に流されることなく、霊的才能を自覚なさった方は、どうか着実に、そして静かに霊的才能を錬磨なさっていただきたく思う。くれぐれも身勝手な意見に心乱されることなく、同時に、闘争心に負けることなく修行を収めていただきたい。
だいたい、他人の足を引こうとするのは、生きている人も死者の魂も、皆コンプレックスの塊、ヒガミ根性の結晶だ。そういう波動に身を晒しては心身の健康を損なうし、進んで守護霊からはぐれて、わざわざ迷子になるようなものだ。
無論、慎重さは大切だが、魂の進むべき道は、永遠修行の大道なのだから、いうまでもなく、あれもダメ、これもダメ、あんなのダメ、それもダメ、と批判的意見が多い境涯などに真実・光の道などあるはずもない。
崖を飛べという人を信じろとはいわない。だが、道を下れという人も信じるべきではない。
急な坂道は頂上への近道……だが、楽だからといって立ち止まり、または、下り道ばかりを選べば、どうあっても山を登るはずもない。
・・・
私よりも霊感が強いのに、それを生かすチャンスに恵まれていない友人が、今頑張っているらしい。近況を知らせるメールを受け取った日はとても嬉しかった。その後、文献データの整理をしていたら、ふっと、ある資料のところで手が止り、懐かしい声で私にこう語りかけた。「あの子に送ってあげなさい」……可能な限りすみやかにそれに従った。おまけにたまたま受けていた相談先にも送ってしまった。
資料の内容を大雑把にいえば、「人に接するには、機・度・間がある」ということだ。機とはチャンス、度とは回数、間とは……説明が難しいが、これがない人を間抜けという……そして、機・度・間を生かせるのは、呼吸の静かな人だという。すっかり忘れていた話だ。だが読み返してみて、
嗚呼!! と思う。
同じことを言うにも愚かな私なら、心の静かな人というだろう。だが誰が好きこのんで心を乱すものか。――心の乱れに、心を乱せば救いようもないが、息を整えることで心の乱れも最小に出来るのである。こういう生きた知恵こそ語り継ぐだけの価値がある。
・・・
私も屁理屈屋であるからこそ、屁理屈を止めぬ愚者を嫌うし、屁理屈を超越した人を心底敬愛する。そして、故人であるところの我が心の師(霊媒の師はまだ生きております)の言葉を素直に喜び聞いてくれたこの友人を私は祝福せずにはいられない。
がんばろうな!!